2019年1月1日火曜日

12/30「私の目が救いを見たので」ルカ2:21-35


                          みことば/2018,12,30(主日礼拝)  195
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:21-35                      日本キリスト教会 上田教会
『私の目が救いを見たので』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


 2:21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。22 それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。23 それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、24 また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。26 そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。27 この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。33 父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。                                         (ルカ福音書 2:21-35)

 信仰をもって生きる一人の老人がいました。シメオンという名の人です。彼は神殿であの格別な幼子を自分の腕に抱え、神さまを讃美し、そして立ち去っていきました。このシメオンについては、「神殿で幼子をその腕に抱え、神を讃美し、そして立ち去っていった」こと以外は、私たちには何も知らされません。それ以前に彼がどんなふうに生きてきたのか。また、残されたごく短い時間を彼がどんなふうに使うのかを、聖書は語りません。ほかのどの箇所にも、もう彼は登場しません。それでもなおダビデやアブラハムやモーセ、パウロにも負けず劣らずに、あの彼は神さまのものとされています。むしろ、私たちはこう言いましょう。聖書の神は、ご自身を信じる人々を、その確かな慈しみの御手の中にしっかりと支えておられる。彼らが神の救いをその目ではっきりと見るまでは、決してその人々を手放すことなく、見捨てることも見失うことも決してありえないと。シメオン一人だけではありません。私たちがその人を親しく知っていようがいまいが、その人たちの顔も名前さえ知らなくたって、けれども私たちの神は、その人たちをよくよく知っていてくださり、ご自身を信じる人々を無数に数限りなく、その手に支えておられます。
  29-30節です。「しもべである私を主が安らかに去らせてくださる」と彼は言います。「去らせてくださる」。神殿を、ではありません。この世界を、この地上の生涯をです。これで、私は安らかに務めを終えて、安心して晴れ晴れとして去ってゆけると。「滅相もない、縁起でもない」と、あなたは言うでしょうか。せっかく新しい年が始まろうとする希望の日に、死や生涯の終わりについて語るなどとは忌まわしいと? しかし兄弟姉妹たち、今日こそ、はっきりと目を覚ましましょう。生きることは、いつまでもどこまでも生きることを意味しません。若い日々にも健康で旺盛な日々にも、小さな子供の頃でさえ、生きることは死と隣り合わせ・背中合わせだったではありませんか。限りある、ほんの束の間のごく短い生命のときを、それじゃあ、この私はどうやって使おうか。どのように生きてゆこうか。やがて必ず来る死と終りを見据えて、だからこそ、そこで私たちは「じゃあ、この私はどんなふうに生きていこうか」と腹を据えたのでした。年老いてだんだんと衰え、やがて死んでいくことは、きびしく恐ろしいものです。また、「一日でも長く生きて、人生の喜びと楽しみをたっぷりと味わいたい」と願います。自分が果たすべき務めや役割がまだまだ残されているのにと、後ろ髪を引かれながらも立ち去らねばならない日々も来ます。けれども、このシメオンという老人にとっては、そうではありません。この地上のごく短い生涯をやがてそれぞれに終えて、私たちはどこへと向かうのかを、あの彼は知っているのです。し残した仕事や責任や役割を、いったい誰にゆだねることができるのかも。神さまが許してくださる限り、彼は生きます。神が去らせるときに、あの彼は「はい。分かりました」と言って去ってゆきます。しかも、安らかに晴れ晴れとして。
 どうぞ聴いてください。あの彼シメオンは、一つの答えを見出しました。生きて働いておられる神を信じたのです。その神は、私たちが生きるにも死ぬにも、元気で旺盛活発なときにも弱り果てる日々にも、私のために全責任を負ってくださり、私たちが死んだ後でさえなお私たちの生命を保証してくださる方です(ヨハネ11:25-。『主なる神。主であられる神』とは、そういう意味です。私たちも、この同じ神を信じたのです。私たちはクリスチャンです。例えば遠い昔のアブラハムもまた、主の救いをその目で見た幸いな者たちの一人です。「国を出て、親族に別れ、父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」と告げられ、だから、行き先も知らず、その旅路がどれほど長く続くのかもサッパリ分からないまま、主の言葉に従って旅立ちました。夜空の満天の星を指し示され、「あなたの子孫はこのようになる」(創世記12:1-4,15:5と。夜空の満天の星を見たことがありますか。それはじっとしていて、ビクとも動かないようでいて、けれど目を凝らしていると、一つまた一つと地平線の下へ静かに退いていく星々があり、そうかと思うと反対側の地平線からは一つまた一つと満天の星々に加わってくる新しい星たちがあり、そのようにして夜空は星々で満たされつづけます。例えば預言者エリヤも、主の救いを見た幸いな者たちの一人でした。あなたの後をあなたの弟子であるエリシャが引き継ぐ。ハザエル、エヒウ、エリシャ。さらになおバアルに膝を屈めない7000もの星々がと(列王記上19:15-。バトンを手渡しつづけるランナーたちをも用いて、そのように主の救いは着々と成し遂げられていきます。私たちはこの上田の地でも、その有様をはっきりと鮮やかに見つづけてきました。「はっきりとそれを見たい、と願って生きてきた私だ。そして、ついにとうとう見た」。願いつづけてきた安らかさを、あの彼はいま手にしています。例えば讃美歌288(2)は、行くすえ遠く見るを願わじ、「私の行く末に何が待ち構えているのかと遠く見渡すことを私は願いません、主よ、私の弱くて疲れやすい足を守ってくださって、ひと足、またひと足、道を示し、導いてください」。これから先の将来、5年先、1020年先を見通すことができなくたって、私は構わない。何の不足もない、と歌います。長く危険な道のりを旅するようにして生きる私たちです。道を歩いてゆく私の足腰が弱くても、すごく疲れやすくても、膝がガクガクふるえるとしても、私は平気だ。大丈夫。私の主なる神さまが私の歩みを支え、手を引くようにして導きとおしてくださるならば、それで十分。何の不足も恐れもない。ひと足、またひと足と歩みを重ね、一日また一日と生きて、きっと、こんな私でさえ辿り着ける。ですからどうか主よ、私の歩みをひと足ひと足と導いていってください。手を引くようにして、どうか連れて行ってください。
 34-35節。「あなた自身も、するどい剣で心を刺し貫かれる。あなた自身の心にある思いがあらわにされる」。救い主は、神を知らなかった者たちに差し出された《光》です。ユダヤ人のためだけの救い主ではなく、世界の救い主です。すでに神を知り、神に従って生きることを積み重ねてきた者たちのためだけの主ではなく、いいえむしろ人間様ばかりのための神ではなく、神さまによって造られたすべての被造物(ひぞうぶつ=神によって造られたもの)のための世界です。犬猫もアリやバッタもミミズも含めて。なぜなら天に主人がおられるからです(創世記9:10-,コロサイ手紙4:1参照)この救い主イエス・キリストは、なんと「反対を受けるしるし」34節)でもあるといいます。立ち上がらせるだけではなく、打ち倒すこともなさる。確かに、神に従おうとして生きてきたユダヤ人たちの多くは、そこで神につまずきました(ローマ手紙9:30-11:32。だからこそ、この私たち自身も一人一人、毎回の礼拝の度毎に するどい剣で心を刺し貫かれます。自分の心にある思いがすっかりあらわにされるからです。「この私はどうしたらいいでしょうか」(使徒 2:36-37参照)と神に問わざるをえません。なぜならこの救い主は、貧しい者たちを顧みる方であり、小さな者や弱い者たちを慈しむ方であり、見下げられている者や片隅に退けられてきた者たちの傍らに立つ方であったからです。あわれむ神であり、罪深い愚かな者を憐れむあまりにご自身が身を屈め、神であることの栄光も尊厳も生命さえすっかり投げ捨ててくださった神です(ピリピ手紙2:5-11参照)。この方の恵みとゆるしのもとに立つためには、「主よ、罪人の私をあわれんでください」と私たちは呼ばわるだけでよいのです。ああ、それなら私たちにも出来るかもしれません。

             ◇

  さて、今日の箇所の冒頭部分、22-24節にも目を留めておきましょう。生まれてきた赤ちゃんのために山鳩2羽か、家鳩のヒナ2羽をささげる。それは主の律法に定められていること(レビ5:7-で、「子供が主のために聖別される」ためのしるしだというのです。『聖別』は、神の者として取り分けられ、神さまのために用いられるということです。最初に生まれた男の子だけが神のものとされるのかというと、決してそうではありません。ですから次男坊も三男坊も女の子たちも、どうぞ安心してください。お父さんお母さん、おじいちゃんもみな安心してください。父さん母さんもおじいちゃんも皆、皆が皆、神にささげられた神のものとして育てられ、そのようにして生きることができるのです。年配の方々も安心してください。子供たちばかりではなく、子を育てる親たち自身も、神にささげられた神のものとして生きるのです。ですから、その一人の子は、皆がそうであることのしるしです。お父さんお母さんはその子のためにささげものをしながら、《この子は神の恵みの領域の中に生きる人である。神さまこそがこの子に生命を与えることができ、神さまこそがこの子の人生を心強く支え、全責任を負ってくださる。もちろん、他の子供たち皆も私たち自身もまったくそうだ》と改めて心に刻みます。普通は羊や山羊が、生まれてきた赤ちゃんのためにささげられます。が、貧しくて羊や山羊に手が出ない家庭の場合には、その代りに山鳩2羽をささげます。さらに貧しくて、山鳩2羽を用意できない家もありました。その場合には、家鳩のヒナ2羽でもよい、とされました。けれどそれでも、もっともっと家が貧しくて手が届かない場合には、ほんのわずかな量の小麦粉(レビ5:11でもよいと決められています。――つまりどこの誰でも、どんなに貧しくても、「生まれた赤ちゃんと自分自身と家族全員を 神にささげられたものとして、親は慎みながら慈しみながら、また願いをこめて育てることができる。また、そうするのが神ご自身の慈しみにかなっている」ということです。

 その幼子イエスは、神の独り子です。救い主としてお生まれになった方は、けれども人間のための定めに従って、主のために聖別され、神にささげられたものとされました。やがて、この方は私たちの罪を背負って、この私たちのためにさえも、十字架の上に献げられます。何のために。この私たちが神にささげられた神のものとして生きることができるためにです。どんなに貧しい者も、ふつつかな者もいたらない者も愚かな者も、どんなに罪深い者も、この救い主によって生命を贈り与えられて喜ばしく生きるようになるためにです。およそ500年ほど前の信仰問答(ハイデルベルグ信仰問答第1問,1563年)は語っていました;「あなたの慰めは何か。あなたを根本の土台のところから支えるものは何か」と問いかけ、こう答えています。「それは、体も魂も、生きているときにも死ぬときにも、旺盛に働くときにも身を横たえて休む季節にも、私が私自身のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものだということです」。神に献げられた者たち、どうぞ喜んでください。「私が私が。それなのにどうして」と肩肘張って目くじら立てて生きる必要はもうないのです。「私の体裁が。私の面子が」などと苛立ったり怒ったりガッカリしなくていいのです。なぜなら神に献げられた者たち、私はもう私自身のものではない。私の体裁も面目も、体も魂も、生きているときにも死ぬときにも、元気なときにも弱り果てる日々にも、確かにまったく主ご自身のものとされている。主こそがこんな私のためにさえ全責任を担って、背負いとおしてくださる。しかも。私たちが神さまに何か良い贈り物をして、だから私たちがクリスチャンとされたのではありません。たとえ私たちの側に主にささげるための良いものが何一つなかったとしても、羊も山羊も鳩も、わずかな小麦粉にさえ手が届かないとしても。いいえ、むしろ神さまのほうで飛びっきりの格別な贈り物を用意してくださった。私たちがしばしば思い違いをし、度々見落としてしまうとしても、なお聖書ははっきりと証言しています;「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」と。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを賜らないはずがありましょうか。いいえ、必ずきっと必要なすべてのものを贈り与えてくださいます」(ローマ手紙3:24,8:32と。素敵な贈り物を、私たちが神へと差し出したからではなく、いいえそうではなく 神さまから受け取ったからこそ、それで、だからこそ私たちはクリスチャンとされ、ここにこうしていることを許されています。「この世界のためにも、また私自身と家族のためにも、神が確かに生きて働いておられる」と、もし私たちがはっきり気づいているならば。「神さまのお働きがあって、神によって支えられ、養われて、今日こうして私はあるを得ている」ともし私たちがよくよく分かっているならば、それなら、この私たちもまた、主の救いをこの目で見た者たちです。なんという喜び、なんという恵みでしょうか。