2018年9月25日火曜日

9/23こども説教「私の手足を見なさい」ルカ24:33-43


 9/23 こども説教 ルカ24:33-43
 『私の手足を見なさい』

24:33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。・・・・・・36 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕37 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。38 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。40 〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕41 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。42 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。   
(ルカ福音書24:33-43

  主イエスが彼らの中に立ったので、弟子たちは恐れ驚いて、お化けでも見ているのかと疑いました。そう言えば、湖の上で弟子たちが困っていたときその湖の上を歩いて小舟のところまで主イエスが来てくださったときにも、彼らは同じように、恐れたり驚いたり、お化けじゃないかと疑ったりしていました(マタイ14:22-,マルコ6:45-38節で、「なぜ恐れたりおじけたり、疑っているのか」と主イエスは弟子たちにわざわざ質問しています。ちゃんと信じていないから、だからオロオロしているのだと知らせるためです。だから、わざわざ来てくださいました。ご自分が復活なさったことを、この弟子たちにもよくよく分からせてあげて、ちゃんと十分に信じることができるようにしてあげるために。安心して、晴れ晴れ暮らしていくことができるようにしてあげるためにです。39節で、「わたしの手や足を見なさい」と言って、ほら手足に触ってみなさい。魚を食べるところも、わざわざ見せてあげました。ありもしないデタラメや絵空事などではなく、本当に墓からよみがえったと信じさせるために(なかなか信じられなかった疑い深いトマスにも、「わたしの手とワキ腹に触ってみなさい。ほらほら」と、わざわざ触らせようとしました。後で別の弟子も「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの」について告げ知らせると言います。ヨハネ福音書20:24-29,ヨハネ手紙(1)1:1参照)。もし、生きて働いておられる神を本当に十分に信じることができなければ、どうなるでしょう。いつまでたっても、ほんのちょっとしたことで驚いたり怖がったり、ビクビクオロオロしつづけて虚しく生きて、やがて物淋しく心細いままで死んでいく。それじゃあ、あんまり可哀想だからです。


   【補足/神への信頼】
全信頼を神におくこと。その御意志に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めること(「ジュネーブ信仰問答」(1542年),問7-13参照)ができる私たちとされます。神さまからの憐れみの約束です。


9/23「わたし独りだけが」列王記上19:1-14

                        みことば/2018,9,23(主日礼拝)  182
◎礼拝説教 列王記上19:1-14                         日本キリスト教会 上田教会
『わたし独りだけが』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


19:1 アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、2 イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。3 そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、4 自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。5 彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、6 起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。7 主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。14 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。 (列王記上19:1-14)

この18, 19章は、一人の働き人の栄光と挫折を、そして挫折からの回復を物語ります。預言者エリヤは、他に並ぶ者がないほどの飛びぬけて偉大な働き人でした。あの彼こそ、ピカイチのナンバーワンでした。19:1-3。その偉大で立派で揺るぎないはずのあの彼が、どうして性悪の王妃イザベルが一言脅かしただけで、ブルブル恐れ、あわてて逃げ出したのでしょうか。18章の偉大で勇敢な彼とはまったく別人のようですね。でも、そんなことは日常茶飯事だったじゃないですか。これが普通です。得意満面で鼻高々だった者が、次の日には卑屈にいじけている。「大丈夫。何の心配もない」と自信たっぷりに太鼓判を押した者が、ほんの数時間後には「もうダメだ」と頭を抱えて絶望している。エリヤは絶望し、なにもかも嫌になって死を願います。4節、「主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」。先祖に勝る者ではない? 彼は何を寝ぼけているのでしょう。まるで信仰のかけらもない、自分自身と周囲の人間たちのことばかり気に病み、思い煩っている、ただ生臭いばかりの俗物のような眼差しではありませんか。彼の得意と絶望の中身が、ここにあります。神を信じて晴れ晴れと生きるはずのこの私たち自身の『信仰と不信仰の揺れ動き』も、いつもいつもここにあります。今あの彼は、先祖に勝る者ではないと絶望しているのです。ほんの少し前には、「同世代の仲間たちや先輩や先祖たちよりも自分の方が多少は勝っている」と得意になったり、他人を見下したりしていたのです。やっぱりなあ。なるほど。そうであれば、鼻高々になることも、かと思うとてのひらを返したようにすぐに絶望してしまうことも、あまりに簡単。上がったり下がったり右に転がったり左に転がったり、吹く風のようにコロコロコロコロ移り変わってゆくのも、それは当然です。「救われたのは、ただ恵みによった」(エペソ手紙2:4)と聖書に書いてあります。ノア、アブラハム、モーセ、ダビデもそうだったし、エリヤもそうだったし、私たち全員がそうでした。「正しい者も悟る者も一人もいない」と聖書自身は深く了解しています(ローマ手紙3:9-)。それなのに、先祖に勝る者ではない? どんな立派な大きくて偉大な信仰者がいたというのでしょう。そうではありません。ただただ、大きな神さまがいてくださったのです。こう質問しましょう。あなたは、どこにどうやって立っているのか。何を拠り所とし、何を助けや支えとし、頼みの綱として生きるあなたであるのかと。
 5-8節は、神の山ホレブへの旅路です。別名シナイ山とも呼ばれたこの山は、かつてモーセが神と出会った場所でした。よかった。彼は、ただ闇雲に逃げ出したのではなかったのです。すっかり絶望し、支えと拠り所を見失った彼は、改めて神と出会いたいと切望しました。神の語りかけを今こそぜひとも聞きたい、聞き届けたいと。失意の只中で、彼は神へと向かいます。ふたたび立ち上がるために、ふたたび揺るぎなく確固として立って歩き出すために。私たちもそうです。ガッカリして失望するとき、弱り果てるとき、心を惑わせ希望も支えも見出せない日々に、けれどもそこで、帰ってゆける場所を私たちは持っています。そこで神に向かい、その悩みの只中で祈り求め、目を凝らし、神の語りかけを聞き届けたい――そこで神へと向かう。だから、私たちはキリスト者なのです。キリスト者であることの中身は、《そこで、なにしろ神へと向かう》ことの中にあり、キリスト者であることの慰めも希望も確かさも、《そこで神へと向かう》中でこそ差し出され、受け取られます。7節。その旅路の長さや困難さを、私たちの弱さを、ちゃんとよくよく分かってくださる主です。神の山ホレブへ向かう旅はとても長く、困難をきわめます。私たちには耐え難いと、あわれみの主は知っていてくださいます。だからこそ、「起きて食べなさい。私の与える糧によって立ち上がりなさい。私の与える糧によって力を得、それによってこそ歩みなさい。歩み通しなさい」と主は備えていてくださいます。神の民イスラエルに対しても、エリヤやペトロに対しても、また私たち人に対しても。
 9-10節と13-14節。神と出会い、神さまの語りかけを聴きます。不思議なことに、神とエリヤはまったく同じ問答を二度繰り返しています。「あなたはここで何をしているのか」と問う神。「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」と答える彼。(1)すべてを知っておられる神がわざわざ問うとき、それは神ご自身のための質問ではなく、その人のための質問です。ぜひとも気づくべき根本の事柄が問われています。「ここで何をしているのか。何のつもりでここにいるのか」。どこにどう立っているのかを、あなたは気づいているのか。あなたが踏みしめているその足もとをよく見てみなさいと。(2)「ただわたし独りだけが」;これが彼の責任感であり、自負であり誇りでした。これまで彼を支えていたものが、けれど今、逆に彼を苦しめています。ただ独りだけであることが今では彼の重荷となり、絶望の原因ともなっています。だって、『ただ独りだけで背負っている。わたし独りで担っている』と勘違いしています。それでは、あなたの神はどこで何をしているのか。神こそが第一に先頭を切って働き、神こそが担い、背負ってくださるのではなかったか。主の語りかけを、彼は聞きます。山を裂くほどの激しい風。しかし、この中には神はおられない。次に地震。火。けれど、その中にも神はおられない。静かにささやく小さな声によってこそ、神さまは語りかけます。何でしょう。私たちはもしかしたら、驚くような強烈で劇的な語りかけや、目の覚めるような感動的で鮮やかな語りかけを望んでいたのかも知れません。激しい風や地震や火によって語りかけてもらいたい。けれども神を知る者は、日常的なごく普通の事柄の中に神の歩む足音を聞き届けます。いつもの普通の生活の只中で、そこでこそ神さまと出会い、神さまご自身の働きを知ります。讃美歌313(讃美歌21-497番)は「騒がしき世の巷(ちまた=人のおおぜい通る所。町中)に我を忘れていそしむ間も、細き御声を聞き分けうる静けき心、与えたまえ」と歌います。我を忘れて夢中になって必死に働くときに、私の耳には誰の声も届きません。

 15-18節には、思ってもみなかった驚くべき結末が用意されていました;主は彼に言われた、『あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である』」。神さまご自身からの答えです、「あなたに代えて、ハザエルとイエフとエリシャを、私自身が立てる」。エリヤに対しても他のどの働き人に対しても、私たちの神はこうおっしゃる、『自分がいなければ成り立たない、とでも思っていたのか。いいや、とんでもない。この自分次第であり、自分の肩にすべてがかかっている、とでも思っていたのか。あなたは神ではなく、人間にすぎない。神である私こそが担う。神こそが、最初から最後までを、全責任を負って働く。だから、あなたは退いて休みなさい』。
  あなたは退いて休め。なんと厳しい答えでしょう。また同時に、なんと恵み深い、嬉しい答えでしょうか。私たちは高ぶりと独りよがりを木っ端微塵に打ち砕かれ、そこでようやく《主の恵みのもとに仕える働き人》としてスタート・ラインに立ちます。ハザエルの剣を逃れた者をエヒウが、エヒウの剣を逃れた者をエリシャが。エリシャの剣を逃れる者が何百人、何千人いても、ちっとも困らない。もちろん彼らもまた生身の人間にすぎず、ハザエルの働きもエヒウとエリシャの働きも決して十分なものではないでしょう。私たちそれぞれもまったくそうであるように。それでいいのです。それぞれに部分的な、ごく一時的な働きをゆだねられ、ゆだねられた分を果たしてゆくのです。しかも、主の恵みとゆるしのもとに立つ7000人で。神の業、神の教会の働きは、リレー競争のようなものです。全部を私独りだけで走りきるのではありません。ただ独りきりで担うのではありません。この私も、この喜ばしい光栄な務めのバトンを兄弟から手渡されました。私も一途に精一杯に走り、喜ばしくひとときを担い、やがて定められた時に次の兄弟へとバトンを手渡します。その兄弟もまた一途に精一杯に走り、喜ばしくひとときを担い、やがて定められた時に次の兄弟へとバトンを手渡すでしょう。リレーは、主ご自身のものであるこのとても不思議な事業は決して途切れません。ほんの一瞬たりとも滞りません。それを、私たちは信じます。私たちはクリスチャンです。

 「務めを解く。退いて休め」と命じられたエリヤは、なおしばらく務めに留まり、エリシャという人を自分の弟子として育てはじめます。19-21節。つまり、退いて休むための彼の新しい働きがここから始まってゆくのです(列王記上19:19-2:18。今までの彼とは違うまったく新しい働き人がここに誕生しています。やがて時が来て、私たちもそれぞれに自分の務めを次の者に手渡して退いてゆきます。ご覧なさい。目の前に、あなたのためのエリシャがおり、私のためのハザエルとイエフがいます。どんなふうに仕事の引継ぎをしましょう。腹に据えておくべき心得と重要事項を次の者たちにどんなふうに伝えてあげましょうか。「・・・・・・いいかい、エリシャ。よくお聞き。お前はもしかしたら私を尊敬し、信頼を寄せてくれているかも知れない。『ご立派な偉い大先生で、私なんかはとてもとても恐れ多くて』などと間違って思い込まされているかも知れない。騙されちゃいけない。人間に対する尊敬も信頼もほどほどにしておいたほうがいい。だって私もお前も神ではなく、神の代理人でもなく、生身の人間にすぎないのだから。たかだか人間に過ぎない者たちへの尊敬や信頼や讃美が神ご自身に寄せるべき尊敬や信頼や讃美を曇らせてしまうようでは困る。とてもとても困る。人間を思い煩うあまりに神を思う暇が少しもなくなってしまってはならない。それが、サタンのいつもの策略なのだから(マタイ16:23。かつて私がカルメル山のてっぺんで輝かしい大勝利を収めたように、やがてお前も立派な仕事を成し遂げ、得意になって鼻高々になるかも知れない。かつて私が悪い王妃イザベルに脅かされて怯えてすくみあがったように、やがてお前も、中くらいのイザベルや小さなイザベルに脅かされて、ガタガタ震え、夜も眠れなくなるかも知れない。それは有りうる。鼻高々の日々にも、『私こそが』とうぬぼれてはいけない。恐れてガッカリする日々にも『私独りだけが』などと心を曇らせてはいけない。だってエリシャよ、私たちはごく普通の生身の無力で愚かな人間たちだ。決して思い上がることなく、ほんのちょっとずつ務めを担って働く。神ご自身の働きのごく一部分を、ほんのひとときずつ、担わせていただいている。道端の小さな石ころからでもアブラハムの子をいくらでも起こせる神だったじゃないですか(マタイ3:9参照)。あなたも私も、誰も彼もが皆、そのようにして立てられたごく普通の石ころ同士だったじゃないか。そうだったじゃないか。神の慈しみと峻厳とに今日こそ共々に目を凝らしましょう。よくよく目を凝らしつづけましょう。もし万一、神が第一に先頭を切って働きつづけておられますことをうっかり忘れてしまうなら、私たち自身のためにさえ神こそが確かに生きて働いておられますことが分からなくなってしまうならば、神を信じて生きてきたことのすべて一切が水の泡となる他ない。私たちはすべての者の中で最も憐れむべき惨めな者に成り下がってしまうではないか」と。しかも兄弟たち。聖書自身は何と語っているでしょう。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ手紙8:31-32御子のみならず万物をも必ずきっと贈り与えてくださる。ここでは、「御子のみならず万物をも。御子だけでなく、御子と共に、ほか必要なすべて一切をも添えて与える」という点が大切です。御子イエスを信じる信仰によって、御子イエスご自身によって与えられるすべての恵みを。つまり、御子を抜きにしては神からの恵みを何一つ受け取ることができないということです。「土台はイエス・キリストである」と教えられており、「どんな人間でも神の前に誇ることがないため。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとになられた。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」「(すべて一切は)ことごとく、あなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである」(コリント手紙(1)1:29-31,3:11,22-23と。しかも、私やあなたの肩にすべてがかかっているわけではない。バアルに膝を屈めない7000人の仲間たちと共に、それよりも神ご自身こそが第一に、先頭を切って、全面的に生きて働いてくださっている。私のエリシャよ。よくよく弁えておきなさい。それさえ分かれば、あなたは安心して晴れ晴れして働くことができ、満ち足りて休むことができ、進むことも退くこともできるだろう。悪い王妃イザベルが100人来ようが1000人で脅かしても、今日からは、この私たちはもうビクともしないだろう。


2018年9月18日火曜日

9/16こども説教「目が開けて分かった」ルカ24:29-32


 9/16 こども説教 ルカ24:29-32
 『目が開けて分かった』

24:29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。                      (ルカ福音書24:29-32

  愚かにされ心が鈍くされて、神さまのお働きも救いの約束もなにもかも分からなくなってしまいそうだった二人の弟子のために、そしてこの私たちのためにも、救い主イエスはいっしょに道を歩いて、聖書を説き明かしてくださいました。28節で、村についてなお先へ進んで行こうとするそぶりをわざわざ見せた。それは、「ぜひ一緒に泊まってください。まだまだ教えてください」とあの彼らに引き止めさせるためです(注意深く読まなければ、だれでも簡単に見過ごしてしまうでしょう。先へ進もうとする様子が、わざと目の前に見せられました。「しいて引き止めるか」、あるいは、「それじゃあ、さようなら」と別れるか。私たちの心にあることがあらわになるために、わざわざ救い主が私たちを試みてくださっています。主を知ることを心から願い求める私たちなのかどうかと。例えば荒野で飢えさせられた日々のように。申命記8:1-5参照)。「ぜひ欲しい」と求めて捜す者たちにしか、良いものを贈り与えることができないからです(ルカ11:9-13参照)30節以下。一緒に食卓についてパンを取り、祝福して裂き、手渡されるとき、とうとう彼らの目と心が開かれて、それがイエスだと分かりました。(聖晩餐の)パンと杯を受け取るときにも、聖書を説き明かされるときにも、私たちの目と心がそのようにはっきりと開かれて、神さまのお働きも自分と家族のための救いの約束も、受け取ってきたすべての恵みも、神さまへの信頼も希望も喜びもなにもかも、いつも、よくよく分かるようにしていただけると嬉しいですね。ぜひ、そうしていただきたい。


9/16「羊飼いの心得をもって」サムエル記上17:28-47


                         みことば/2018,9,16(主日礼拝)  181
◎礼拝説教 サムエル記上17:28-47                  日本キリスト教会 上田教会
『羊飼いの心得をもって』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


17:33 サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。34 しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、35 わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。36 しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。37 ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。38 そしてサウルは自分のいくさ衣をダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。39 ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。40 ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた。(サムエル記上17:33-40)



7月はじめから3ヶ月間、旧約聖書から説き明かしつづけてきました。残り、あと3回です。神の民とされたイスラエルは、強大なペリシテ人の軍勢と小さな谷を隔てて対峙していました17:1-3。その戦いのくわしい様子は171節から報告されはじめます。兵士の数も戦力も、相手方のほうがはるかに上回るのです。あの時だけではなく、実は、そんなことの繰り返しでした。まるでわざわざそうしたかのように、神の民は、どこの誰と比べても数も少なく力も弱く、あまりに貧弱でありつづけました。そして今回も、ペリシテの陣地からゴリアテという名前の一人の恐ろしい大男が進み出てきました。大男は立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわりました。「お~い、弱虫どもめ。一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。相手を一人出せ。一対一の勝負をしよう。負けたほうが勝ったほうの奴隷になるんだぞお」(17:8-11,16参照)。ゴリアテは40日の間、朝も夕方も出てきて、同じ言葉で呼ばわりました。「お~い、ヘナチョコ野郎ども。一対一の勝負をしよう。負けたほうが勝ったほうの奴隷になるんだあ」。イスラエルの王様も兵隊たち皆も、恐ろしくてブルブルと震え上がりました。「どうしたらいいか分からない。もうダメだ」と絶望し、小さくなってしまいました。けれども、神の民とされたイスラエルの同胞たち。ゴリアテの声を聞きながら、強大な圧倒的多数のペリシテ軍と谷を隔てて向かい合いながら、こわごわビクビクして過ごした4040夜。それは、自分自身の弱さと貧しさをつくづくと痛感させられて、膝を屈め、神さまに向かって本気で祈るべき日々だったのです。祈りの中で、ふたたび神さまと出会うはずの日々だったのです。聖書の中で40という特別な数はそのことを指し示しつづけてきました。例えば、世界を飲み尽くす大洪水がまもなく起ころうとして4040夜雨が降り続いた日々のように。例えば、モーセと仲間たちが荒野を旅した40年間のように。シナイ山に登ったモーセを待って神の民イスラエルが山の麓で過ごした4040夜のように。救い主イエスが試練と誘惑を受けた荒れ野の40日間のように。ちょうど来週ごいっしょに読むことになりますが、預言者エリヤが主の山ホレブを目指して歩いた4040夜の道のりのように(創世記7:12,民数記14:34,出エジプト記24:18,マルコ福音書1:13,列王記上19:8,サムエル記上17:16。それらは祈るための日々でした。主なる神さまの御前に背筋をピンと伸ばし、襟を正し、深く慎んで神さまを思い、神のみもとへと立ち返るべきときです。あの王様と兵隊たちのためにも、ここにいるこの私共のためにも。
  その恐ろしい惨めな戦いの場所に、羊飼いの小さな一人のごく普通の少年が出てきました。「はい。じゃあ僕が戦います」。兄さんたちは、この末っ子の弟を見て「生意気だ。でしゃばりな奴め」と腹を立てました。イスラエルの王様も彼を見て、ふんと鼻で笑いました。「できるはずがない。お前は小さな小僧っ子だ。あっちは小さな子供のときから強くて立派な兵隊だったんだから」33節参照)。ゴリアトも、彼の姿形を見てバカにしました。誰も彼もが、その人の服装や姿形や、履歴書に書いてあるようなことを眺めるようにして、お互いを見ていました。八百屋の店先に並べられたキュウリや白菜や大根を値踏みするようにして、互いに見比べあっていました。「人からどう見られるか。どんなふうに思われるか」とクヨクヨ気に病む人は、自分自身でもやっぱり、人から見られている通りに自分でも自分自身を見ています。人の目に映っている、見られている通りの自分、それがこの自分だと。冗談じゃない。そんなものが自分であってたまるものですか。この一人の少年は違います。これまでずっと自分が見つめてきたものに、今も同じくやっぱり目をこらしています。自分が生きてきたいつもの生活を振り返って、それに照らして、自分がいったい何者であり、何を頼りとして、どこにどんなふうに足を踏みしめて立っているのか、どこへと向かっているのかを見ているのです。この少年と、ほかの兄さんや兵隊たちや王様とでは、見ているものが全然まるっきり違います(サムエル記上16:7,17:37,コリント手紙(2)4:16-18,5:16-17参照)34-37節。「ううん、どうかなあ」と疑わしげに首を傾げている王様に向かって、少年は言いました、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう。(自分はこんなに強く賢いとか役に立つなどと自慢話をしているわけではありません。そんなこととは全然違います)。ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう(つまり主ご自身こそが、誰からでもどこからでも、必ず私を救い出してくださいます)」。これが、あの少年の心得です。クリスチャンは皆、この《羊飼いの少年の戦いの心得》を授けられています。あなたも、ここにいる私たち全員も。助けることも支えることも、やりとりです。片方だけがいくら「助けてあげたい。支えてあげたい」と思っても、それだけでは出来ません。「助けてあげたい」「はい。どうぞよろしく」これでようやく助けることが成り立ちます。分かりますか。「助けてあげたい。助けてあげたい。私はここにいる」(イザヤ65:1)と神さまは呼ばわり続けました。今もずっと、「助けてあげたい。支えてあげたい」と呼ばわりつづけています。ところがサウル王もイスラエルの兵隊たちも皆、あまりに賢くなって、あまりに世間の常識を身につけすぎて、するといつの間にか、神さまの助けになんか見向きもしない人になりました。神さまの声も姿も目に入りませんでした。その耳にも届きませんでした。その中でたった一人だけ、あの小さな羊飼いの少年が、神さまからの助けと支えを受け取りました。「はい。ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」と。
 「そんな馬鹿な」と言われるかも知れません。けれど実は、あのイスラエルの王様も兵隊たち一人一人も、どの一人も皆、ほんのちょっと前までは《小さな小さな羊飼いの少年》でした。そして今では、そのことをすっかり忘れてしまっています。ここにいる誰もが皆、《ごく普通の、どこにでもいるような、一人の羊飼いの少年》でした。自分が羊飼いの少年だったことを忘れてしまっている人たちを、熊やライオンから、次々と立ち塞がるゴリアテたちの手からいったいどこの誰が救い出してくれるのかがすっかり分からなくなってしまった人たちを、《淋しいクリスチャン。悲しいクリスチャン。ただただ形ばかりの、心の中だけのクリスチャン》といいます。淋しいクリスチャンの中には、二等兵もいれば中隊長もいます。淋しいクリスチャンの中には、強いものも弱々しいものも、すごく賢いものもいるでしょうねえ。淋しいクリスチャンの中には、豊かなものも貧しいものも、健康なものも病気で弱っているものもいるでしょう。その淋しく悲しいクリスチャンの中の、一番強く、一番賢く、一番優れていたものはあのサウル王だったでしょう。さあ見てごらんなさい。怖がっていたのは、見習い兵士や二等兵たちばかりじゃない。隊長や将軍たちも、あのサウル王だって、今や小さ~くなって縮みあがっている。青ざめて、ガタガタブルブル震えています。
 38-40節。王様が自分の最新兵器と高級で上等な装備を貸してくれようとしたとき、あの少年は断りました。ご立派なヘルメットも剣も盾も胸当ても膝当ても、何も要らない。慣れておらず、体のサイズにも合わず、使いにくいからと。本当でしょうか。・・・・・・じゃあ、それなら、もし仮に体にピッタリあって使いやすかったとしたら、それなら貸してもらったほうがいいでしょうか。使い慣れていない。それなら、王様の武器や装備を貸してもらって、2、3ヶ月か半年くらいか十分な練習期間をもらえて使い慣れることができるなら、それなら最新兵器と高級で上等な装備を借りたほうが得策でしょうか。どう思います? 私たちはいつか、多くの実地訓練や研修を積み重ね、いくつもの戦場を生き延びて、立派な一人前の戦士となるでしょう。中には軍曹、中隊長、将軍へと登りつめる者もあるかも知れません。そうであってもいいし、そうでなくてもいい。でも、恐ろしく強い大男のゴリアテが攻めてきたときに、あなたはどうするでしょう? あまり大きくない中くらいのゴリアテ、小さなゴリアテたちも次々に攻めてきます。一人二人で、あるいは団体で攻めてくる日もあります。こう言いたいのです、《あの羊たちの、たった数匹の群れも神の軍隊。ここも、生きて働いておられる神の軍隊。主なる神こそがボクを守って戦ってくださる。熊の手ライオンの手からも、あの大男ゴリアトの手からも、どこの誰からでも、主こそが守ってくださる》と、その肝心要の大切なことを忘れないならば。よくよく覚えているならばです。分かりますか。もし、そうでないなら。「この丈夫なヘルメットがあるから。そして、この高級で上等な剣と盾が私を守ってくれるから」とうっかり勘違いしてしまうならば、もしそうなら、あなたが手にしようとしている青銅のヘルメットと、健康と力と人々の賞賛と、何不自由ない豊かな生活のための様々な剣と盾は、あなたにとって、大きな災いとなり、恐るべき罠となるでしょう。かえって、あなた自身の戦いを苦しく危うい場所へと追い詰めてしまうでしょう。「これまで羊たちの世話をして、羊たちを守って暮らしてきた。強くて恐ろしい獣たちとも戦って、生き延びてきた。でもそれは自分が勇敢だったからでも、賢かったからでもない。すばしっこくて世渡り上手だったからでもない。骨惜しみせずに頑張ってよく働いたからでもない。熊の手からもライオンの手からも、主なる神さまこそがこの私を守ってくださったからだ。その同じ神さまが、あの大男からも他のどんな大男からも守ってくださる。この新しい戦場、この新しい敵に対しても、私の主なる神さまこそがこの私を必ずきっと守って戦ってくださる」34-37節参照)。最新の装備と高級な武器を身につけてもいい。あるいは上品そうでお洒落な背広にネクタイでも、作業着姿でも、エプロンに長靴でも、必要ならどんな格好をしてもいいでしょう。『主に守られ養われつづけてきた羊飼いである』という心得を、もし、よくよく覚えたままで見失わないでいられるならば。瀬戸際に立たされる肝心要の場面で、このいつもの心得を、ちゃんとよくよく覚えていることができるのかどうか。それが、私たちの生き死にの分かれ道でありつづけます。もし本当にそのご立派な兜や盾、胸当てがとても役に立って頼りになるならば、わざわざ他に代表選手を募るまでもなく、それを身につけて王様が自分で一体一の対決に名乗りを上げるはずじゃないですか。そんな装備も武具も少しも役に立たない、見栄えが良いばかりのただの飾り物でした。だからです だからあの少年も、王様の素敵なヘルメットや剣や胸当てや鎧を断りました。今まで通りに、羊飼いのいつもの道具だけを持っていきました。それがふさわしい。杖と、滑らかな5つの小石と、石を入れる袋と、石投げ紐。今まで通りに、今までずっと支えられてきた通りに、『主に守られ養われてきた一人の羊飼い』として立ち向かうのです。だって、ほら。あの青ざめてガタガタ震えているサウル王を見てごらんください。王は、何と言って少年を送り出したでしょう。37節、「どうぞ主が、あなたと共におられるように」。主が共にいてくださるのかどうか。共にいてくださる主が、その人を現実に守ってくださるのかそうではないのか。生きて働いてくださる神なのか、ただの飾り物のように手も足も出せない死んだ神なのか。生きて働く神さまがそこにいっしょにおられて、なおかつ、あなたを助けることも支えることも救い出すこともなさらないで知らんぷりしているなどということが本当に有り得るのかどうか。ですからこの『主が共におられるように』というほんの一言の見送りの言葉には、その人の生きるか死ぬかを分ける程の決定的な意味があったのです。主が、あなたと共におられるように。けれどあの物の分かった賢い王様は、その肝心要の生命線を、今ではすっかり忘れていました。『神さまが、あなたといっしょにいてくださる』。――ただの決まりきった挨拶だ、建前だ、単なるお題目だ社交辞令の根も葉もない気安めにすぎないなどと思っていたのかも知れません。信じてもおらず、だから自分自身のためにも仲間や家族のためにさえ本気で願い求めることもできずにいます。それでは神を信じて生きてきたことが水の泡です。戦い始める直前、46-47節、少年はこう呼ばわりました、「イスラエルに神がおられることを全地に知らせよう。またこの全会衆も、主は救を施すのに剣と槍を用いられないことを知るであろう」。剣や槍の類いはいっさい必要ない。では、主なる神は私たちに救いを贈り与えてくださるために、いったい何を必要とされるのか?  世界のすべてを造られる前に私たちを救いへと選んでくださっていたこと。救い主イエスの死と復活によって救いの御業を成し遂げ、やがて終わりの日に救い主イエスによる審判をへて、御子を信じる者たちを御国へと招き入れてくださることによってです。その希望と確信によって、それだけでです。他には何一つも付け加えてはなりません。例えばローマ手紙8:31-32、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか(いいえ決して、あるはずがない)」。それは確信であり、感謝であり、心からのひたすらな願いでありつづけます。小さな子供たちのためにも、若いお父さんお母さんたちのためにも、教会の働き人たちのためにも、悩みを抱えた病弱な人たちのためにも、長く生きて経験を積んできた年配の人たちにとっても、この《羊飼いの心得》(注1)こそが肝心要です。《主こそが第一に、先頭を切って、しんがりを守って、全責任を負って戦ってくださる。戦い抜いてくださる》とこの私も知る。よくよく魂に刻み込んで、一日また一日と生きること。


        《補足/羊飼いの心得》   (注1)
  1.これまでの日々をよくよく覚えておくこと。熊の手、ライオンの手から主なる神さまこそが私を守ってくださった。だから、見知らぬ大男の手からも、どこの誰からも、主こそがきっと守り抜いてくださると。
  2.どこかの王様が素敵な武器や見栄えの良い装備を貸してくれようとする場合、立ち止まって、考えてみること。
  3.借りて使ってみてもいいが、当てにしすぎないこと。
  4.むしろ、羊飼いのいつもの道具を忘れず持参すること。杖と石投げ紐と袋。
  5.そして河原で、スベスベした小石を拾うこと。
  6.1つは、主が私と共にいてくださり、しかも私をとても大切に思っていてくださるという小石。
   つは、主が私のためにも強くあってくださるという小石。
   1つは、たとえ私が弱くても臆病でも、あまり賢くもなくたいした働きもできないかも知れないとしても、だから、ちっとも恐くないし、恥ずかしくも何ともないという小石。
    つは、この私は、今ここにおいても主の恵みの真っ只中にあるという小石。そしてサムエル記上17:47,申命記31:8,コリント(1)1:26-,詩23,ヨハネ10:11-,ルカ15:3-,ペトロ(1)2:24-25を、自分の心によくよく刻み込んでいること。

2018年9月10日月曜日

9/9「あなたの民は多すぎるので」士師記7:1-7,8:22-27

                            みことば/2018,9,9(主日礼拝)  180
◎礼拝説教 士師記7:1-7,同8:22-27             日本キリスト教会 上田教会
『あなたの民は多すぎるので』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


7:1 さてエルバアルと呼ばれるギデオンおよび彼と共にいたすべての民は朝早く起き、ハロデの泉のほとりに陣を取った。ミデアンびとの陣は彼らの北の方にあり、モレの丘に沿って谷の中にあった。2 主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。3 それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうち帰った者は二万二千人あり、残った者は一万人であった。4 主はまたギデオンに言われた、「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」。5 そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」。6 そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。7 主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」。               (士師記7:1-7)


 ギデオンという人は、とても臆病で肝っ玉が小さい人でした。心配性で、「自信がない自信がない。できない。とてもとても無理だ。どうせ私なんか」と口癖のようにつぶやく人でした。主に使える働き人として立てられたときにも、なかなか神さまを信じることができませんでした(士師6:17-25,36-40参照)。神さまが味方であることも、神さまが共にいてきっと必ず助けてくださることも(ローマ手紙5:6-,8:31-39,23:1-4,1211-2参照)。よくよく教わって腹に据え、魂に刻み込んできたはずなのに、肝心要の瀬戸際に立たされる度毎に、「あれれ、どうだったかな? 誰が私の味方だったっけ。私の助けはどこからどういうふうに来るんだっただろう」。いくら教わってもなんだかピンと来ないのです。さて7章。敵の強大な軍勢を前にして、ハロデの泉のほとりに陣を取ったとき、ギデオンは知恵を振り絞って必死に戦局の分析をしていました。何度も何度も戦略会議を開き、打ち合わせ会を開きました。たった32,000人の軍勢で、どうやってこのきびしい戦いを勝ち抜くことが出来るだろうか。待ち構える困難と苦戦を予想して、身の縮む思いでした。たったの32,000人の軍勢、それだけしかありません。どう考えても無理です。恐れと不安は尽きず、ますます募ってきます。2-3節の、その彼らに向けて語られた主の言葉は、きわめて理不尽な、まったく道理にかなわない非常識な発言でした;「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。だから」。え? 聞き間違いかと思いました。あるいは悪い冗談かと。もっと兵力の増強を、もっと生産性と作業効率をあげて収入を増やし、参加人数も大幅に増やして、というのではありません。「多すぎる。削減を」というのです。そして直ちに、主なる神さまは、ご自身の兵力を削りとり減らしていかれます。心痛む兵力削減、彼らの願いも希望も粉々に打ち砕きかねない、恐るべき規模縮小です。32,000から10,000へ、さらに300へ。
 5-7節。300人を選んだ時のその兵隊たちの水の飲み方にどんな意味があるのか、あるいは300という数字にどんな象徴的神学的な意味があるのかなどと虚しい詮索をする暇はありません。例えばある聖書学者たちは、「その300人は試験に合格した、ふさわしい、飛びっきりの少数精鋭たちだ」と推測しました。顔を水面につけて水をペロペロ飲むのでは犬みたいだし、用心深さが足りなすぎる。だから、心を張り詰めて戦いに臨む機敏で勇敢な者たちこそが、見事むずかしい試験に合格して残されたのだろうと。――その推測は大間違いで、すっかり的外れです(しかも、この大間違いな誤解をやがてギデオンたち自身がしてしまいました。自分たちは超難関の試験をくぐり抜けた一騎当千の強者たち、エリート中のエリートだろうと勘違いしたと、8:24-27で直ちに発覚します。むむむ)。しかも、それって会社の就職面接試験のやり方と同じじゃないですか。プロ野球のスカウトや魚卸売市場の仲買人と同じ品定めじゃないですか。それでは、味方の数が多い場合と同じに勘違いしてしまうでしょう。「戦いに勝っても、自分たちが用心深い立派な戦士だったから。優秀でふさわしい、とても勇敢で機敏で、一騎当千の勇者だったから、それで見事に勝った。自分たちの才能と品格と有能さによって勝利を手にした」などと心がおごってしまうでしょう。それでは、2-3節のせっかくの大事な主の言葉を話半分に、上の空で、聞き流しています。もちろん数の多さではない。しかも、優秀さでもふさわしさでも立派さでも才能でもない。それら一切の理由は、2-3節の主ご自身の言葉の中にこそ凝縮されていきます。何度でも何度でも、目を凝らしましょう。「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。だから」。神さまの目から見た時、その32,000人という数は多すぎたし、強すぎた。だから減らした。まだまだ多すぎた。強すぎた。だから、さらにもっともっと減らして、目の前に待ち構える圧倒的多数の強大な軍勢に対して、300人を残した。多分これなら、多すぎもせず強すぎもしないだろうと。なにしろギデオンの目にも、イスラエルの一人人の目から見ても、「無に等しい。これでは、何もないのと同じじゃないか」としか思えませんでした。「とてもとても無理だ。こんな貧弱な私たちには勝てるわけがない。もし万一、これで生き延びることができたとすれば、それは到底、自分の力と手の働きで勝ち取ったものではない」と言うほかない兵力です。まるで、思いがけない贈り物のようにして与えられた幸いは、驚きと感謝となり、魂に深々と刻まれて、一つまた一つと積み重ねられ、大切に語り継がれ、やがて主に対する大きな信頼へと育まれていく。主に対する熱い期待と、それゆえ心安く聞き従っていくことへと彼らの腹の据え方を方向づけていく。《この神こそ、私たちの主である》という確信の中に、彼らの営みを揺るぎないものへと成長させていく――はずでした。
  あの驚くべき戦いの結末は8:22-27。いいえ、むしろこの結末にこそ私たちは「まさか。そんなバカなことが」と驚き呆れるべきです。

【補足説明】①22-23節のギデオンの発言は信仰深く、賢く、まったく正しい理解です。②けれど、発言は正しくても、その腹の思いは24節以降で直ちにその発言と神ご自身とを裏切っています。「敵からぶんどった耳輪を私にください」という要求は『神のものである戦い』の基本ルールに背いています。戦いは神のものであり、戦利品はただ神だけのものであって、将軍だろうが王だろうがそのひとかけらも要求する権利がありません。ギデオンも民衆も子供たちも皆、基本中の基本として心得ているはずのことでした。「主が治める」と言ったばかりではありませんか。民衆が主に従うばかりでなく、指導者であるギデオンこそが真っ先に主に従い、主に服従するはずでした。③「エポデ」(27節)は祭司の勤務中の衣服です。それを作ることも着ることも、自分の町に展示することも勝手には許されません。神を軽んじ、偉大な戦功をあげた自分は何をしてもよいと心をおごらせたから、そんな不遜なことをギデオンはしました。④「姦淫」(27節)は一般には性的不品行ですが、特に旧約時代には、神に背く偶像礼拝を比喩的に「姦淫」と呼び慣わしつづけました。ギデオンが神をないがしろにし、好き勝手に振舞ったので、民全員も「皆それを慕って」彼の不信仰の後につづきました。これが、イスラエルを陥れた『罠』の中身です。

では、詳しく読みましょう、8:22-27。「『あなたはミデアンの手からわれわれを救われたのですから、あなたも、あなたの子も孫もわれわれを治めてください』。ギデオンは彼らに言った、『わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます』。ギデオンはまた彼らに言った、『わたしはあなたがたに一つの願いがあります。あなたがたのぶんどった耳輪をめいめいわたしにください』。ミデアンびとはイシマエルびとであったゆえに、金の耳輪を持っていたからである。彼らは答えた、『わたしどもは喜んでそれをさしあげます』。そして衣をひろげ、めいめいぶんどった耳輪をその中に投げ入れた。こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、わなとなった」(士師記8:22-27)。ギデオンは戦利品に飛びついて我が物とし、欲望のまま思いのままに貪りました。他の人々も、ギデオンにならって戦利品に飛びつき、欲望のまま思いのままに貪りました。神のものである戦いで得た戦利品はみな誰のものでもなくただ神のものであることを、ギデオンも他の皆もよく習い覚えていたはずでした。分かった上で戦利品に飛びついて我が物としました。リーダーがそれをしたので、もちろん部下たちもその不信仰に習いました。俺様のおかげで、自分の力と手の働きがあってそれで、と心がおごってしまったからです。贈り物のようにして与えられた輝かしい不思議な勝利は、主ご自身に対する大きな驚きとあふれんばかりの感謝を、生み出しませんでした。魂に深々と刻まれることも、ありませんでした。積み重ねられることも大切に語り継がれることも、ありませんでした。主に対する心底からの信頼へと育まれていくことも、ありませんでした。《この神こそ、私たちの主である。主なる神は生きて働いておられます》という確信にも、その勝利は結び付きませんでした。ああ、なんということでしょう。驚くべきことには、たったの300人でも多すぎました。ビックリです。たったの300人であっても、彼らは主に向かって心をおごらせ、「自分たちの力と手の働きで救いを勝ち取った。自分たちのおかげなんだから、自分にこそ感謝すればいいし、自慢してもいいはずだ。戦利品も自分たちで山分けして何が悪い。ご立派な私たちのご立派な働きなんだから」と、はなはだしく勘違いしてしまいました。自分たちの力と手の働きこそが自分にとっての主であり、第一である、と誤解してしまいました。

              ◇

多くの時代が流れて、ギデオンの時代ははるか昔に遠く過ぎ去りました。けれどなお神の民の戦いの日々は続きます。不思議なことです。神の民は、いつもごく少数でありつづけました。どうしてでしょう。そうでなくても良かったはずなのに、多数ではなく少数、格別に賢く優秀な強い者たちではなく、ごく普通の、どこにでもいるような、弱く無に等しい者たちこそが神さまからの格別な招きを受け取りました(申命記7:7-8,8:17-20,9:4-7,コリント手紙(1)1:26-31,ローマ手紙5:6-11。それは一体なぜでしょう? 
  エルサレムの都への旅路が終わりに近づいて、死と復活のときを間近に見据えて、主イエスは弟子たちに仰った。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉いのである」(マタイ18:3-4。あのときも弟子たちは「誰が一番偉いだろう。二番目は、三番目は。じゃあ、この私は何番目」などと人間同士の貧しく卑しい品定めの中で神の権威と尊厳をすっかり見失い、脇へ脇へと押しのけていました。神に聞き従って幸いに生きる自分たちだなどとは思いもよらずに。神が生きて働いておられるなどとは気づきもしないで、人間たちによる、ただ人間のための、人間のものである世界に住んでいると勘違いして、主イエスの教えを聞き流しつづけていました。「幼な子のようになる」とは何か。小さな子供はへりくだった弱々しく小さな存在ですが、けれど、それだけでは何の手がかりも与えません。神の国(=天国)に入るとは、御父、神のご支配への服従・従順を生きることであり、するとそれは(神に対して自分を低くすることであり、御父・神への従順であるほかありません。唯一の手本は主イエスご自身です。ローマ手紙8:14-17。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」。ついにとうとう謎が説き明かされました。あのただ独りの幼な子のようになり、救い主イエスのあの心を受け取って、天の国に入れていただくのです。神が王さまとして力を存分に発揮し、そのお働きのもとで心安く神にこそ信頼し、聞き従って生きる神の子供たち。ゲッセマネの園での、主イエスの祈りの格闘です。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書 14:36このように、慈しみ深い神の御前にへりくだる小さな子供の心を贈り与えられ、私たちも「~してください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と生きはじめ、ますますそのことを切に願って生き続けることができます。神さまにこそ信頼し、感謝し、よくよく聞き従いつづけて。イスラエルの軍勢が32,000から10,000へ、さらに300へ規模縮小されたように、偉くなりたい、人様から認められたい誉められたいと願いつづけた主イエスの弟子たちが、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉い」と言われたように。ご覧ください。残ったさらにわずかの者たちは、神に従順に聞き従って生きる小さな子供の心を与えられた弟子たちは、憐れみ深い主の御前に膝を屈め、そこにこそ助けと支えを求めて仰ぎ見ました。ついに立ち上がった無力で小さな人たちをご覧ください。「はい。私が戦います」と言いながら、あの新しい彼らは、「私ではなく、主ご自身が先頭を切って第一に戦ってくださる」と知っています。「私が担います」と言いながら、「主こそが全面的に、最後の最後まで担い通してくださる」と知っています。「主こそがちゃんと引き受けてくださっている。主にこそ私はお任せしている」と弁えているからこそ、その新しい人は「私が引き受けます。私にお任せください」と手を挙げたのです。不思議なことに、そこは晴れ晴れしていました。そこで、深く息を吸って楽~ゥになることができました。なぜなら、そこにはもはや、大きいも小さいもなかったからです。かなり信頼できる人物だとか、まあまあだ、ほどほどだなどという小賢しい品定めもなく、強い賢い豊かでよく働いて役に立つとか、あんまりそうでもないなどという騒がしさもなかったからです。なにしろ神さまが大きい。なにしろ神さまこそが、強く賢くあってくださる。なにしろ、神さまが生きて働いておられ、憐れみ深くあってくださる。その膝を屈めた小さく無力な場所こそ、自分があるべき居場所と思い定め、その新しい彼らは、そこで主と出会いました。そこでようやく、主なる神さまをこそ信じて一日また一日と生きることをしはじめました。