2021年6月28日月曜日

6/27「神の国はあなたがたの只中にある」ルカ17:20-25

            みことば/2021,6,27(主日礼拝)  325

◎礼拝説教 ルカ福音書 17:20-25              日本キリスト教会 上田教会

『神の国は

あなたがたの只中にある』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。22 それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。23 人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。24 いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。25 しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。 ルカ福音書 17:20-25

                                               

11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。

                       ルカ福音書 11:1-4

20-21節、「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。神の国は、この世界のどんな王国や国家とも全く違って、似ても似つかないものだと教えられます。「見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない」と救い主イエスはおっしゃいます。神の国が近づいたこと、あるいは現にそこに存在することは、その権威や偉大さなど外から分かるしるしによっては現わされません。そういう類いのしるしを求める人々は、当てが外れて落胆するほかありません。そのような人々は、待ち望み、探し求めて、ただ虚しく時間を無駄使いしてしまうばかりです。そうする間にも、神の国は彼らが気づかないうちにやってきて、彼らの只中に存在し始めます。「よく見なさい。神の国は、実に、いま現に、あなたがたのただ中にあるのだ」と救い主イエスはおっしゃいます。

 目に見えにくい、霊的な神の王国は、あの最初のクリスマスの夜にベツレヘムの家畜小屋の、飼い葉おけ(=牛や馬に食べさせる草やわらなどを入れておくための容器)の中に、しかも偉大さや豊かさや賢さなどとは無縁の仕方で始まりました。神の王国はまた、エルサレム神殿に突如として姿を現しました。だれにも気づかれず、ただシメオンという老人と女預言者アンナだけが、そこにいる1人の赤ちゃんこそがその王国の王だ分かりました。その30年後に、ただ、ガリラヤの村の貧しい漁師たちと取税人だけが、まず最初に神の国を受け取りました。支配者たちとパリサイ人たちはその王国を見分ける目を持っていませんでした。神の国の王がご自身のものである民のもとを訪れましたが、王のものであるはずの彼らは自分たちの王を迎え入れることができませんでした(ヨハネ福音書 1:9-13参照)。このとき、すべてのユダヤ人たちは、自分は神の国を待ち望んでいると思っていました。けれど、間違った方向を向いて待っていたのであり、間違ったしるしを求めたのであり、神の国は現に彼らの只中にあったのに、多くの者たちはそれを見分ける目をもっていませんでした。神の国は突然、なんの前触れもなく、権威や荘厳さのしるしもなしにやってきます。シメオンとアンナのようなほんの一握りの人たちが、やがて終わりの日に、神の国が来ていることの証人とされます。大多数の人々は、神の国がついに到来したとき、ある日、眠りから目を覚まして、それに気づき、とても驚き、うろたえるでしょう。

 「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」。2種類の理解や受け止め方がありつづけます。「あなたがたのただ中に」という意味を、ある人々は、「あなたがたの心の中に。あなたがたの意識の中に」と理解しました。「神の国は、人間の心の内面的な事柄であり、目に見えない霊的な事柄であるので、心の外側には現れて来ないし、目に見える事柄にはなりえない」と。けれど、もう一方の人々は、「いいや、決してそうではない。あなたがたのただ中にという意味は、あなたがたの間に」であると。神の国は、救い主イエスがこの地上に降りてきてくださったその最初のときから、この世界に現にはじまり、形造られだし、着々と建て上げられつづけてゆくと。最初に主イエスは、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15と宣言なさいました。神ご自身であられる救い主イエスが地上に降りて来られ、力と権威をもって神の国の福音を宣べ伝え、その救いの御業を成し遂げてくださった。しかも、「神の国」とは神が力をもって生きて働いてくださることであり、その御心にかなうようにと願いながら生きる人々が生み出されつづけ、神ご自身のお働きが実を結んでゆくことです。だからこそ、主イエスを信じる弟子たちは、ここにいるこの私たち自身も、その神の国の建築作業に加えられ、その王国の建物の部品の1つ1つともされていきました。「二人三人が私の名によって集まるとき、私もそこにいるのである」と約束してくださった救い主イエスがそこにいて、生きて働かれ、私たちを用いても、ご自身の御心を成し遂げつづけるからです。信じる私たちの心の中に神ご自身が住んでくださり、生きて働いてくださり、実を結ばせてくださる。それが、どうして、ただ心の中や、心の奥深くの片隅にだけ留まっていられるでしょうか。どうして目に見えないままでありえるでしょう。願い求めるように、私たちは救い主イエスから命じられています。「天の父なる神さま。御名をあがめさせてください。この地上にも、私たちが生きるこの生活の只中にも御国を来たらせてください。御心が天で成し遂げられるだけでなく、この地上で、私たちの生活の只中でも成し遂げられますように」と。

 22-24節、「それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう」。救い主イエスがふたたび来られる、世界の終わりの日は、誰にとっても、突然にやってきます。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう」と。この点に関して、聖書のすべての証言はまったく一致しています。「その日、その時を、誰も知らない」。「夜中に泥棒が押し入ってくるように、その日は来る」と(マタイ福音書24:44,1テサロニケ5:2

  救い主イエスがふたたび来られるとき、それは何の前触れもなく、まったく突然にやってくる。そのことは、私たちを厳粛な慎み深い思いへと立ち返らせます。その時のために、自分の心の準備をいつも整えつづけておくように習い覚えておきたいのです。私たちの主イエスとお会いするときのために、いつも準備万端であるようにと願い求め、努めつづけて一日ずつを暮らしたいのです。私たちの生涯の目的は、救い主イエスが突然に私たちの目の前に現れたとき、恥ずかしくて困るようなどんな言葉も口にださず、どんな恥ずべき行いもしないでいられるようでありたい。聖書は証言します、「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」(ヨハネ黙示録16:15。ですから、この世界の終わりの日、世界のための祝福がついに成し遂げられる日、救い主がふたたび来られるときのことを絵空事や、なにかあり得ない空想、でまかせのようについつい思い込んでしまう人たちは、よくよく考え直してみる必要があります。主イエスの最初の弟子たちの時代には、『ふたたび主イエスが来られる』という教えはとても切実で、切迫した現実味を帯びていました。あの彼らの眼差しと心の思いにとって、自分自身が忍耐深く、希望をもって一日ずつを生き延びること、自分がなすべき務めに精一杯に励むこと、大切な家族や隣人や周囲の人々に対して思いやり深く寛容であること、一個の人間として良い行いをするように努め、できるだけ清く生活することは、ふたたび来られる主イエスを待ち望んで暮らすことと深く堅く一つに結びついていました。あの彼らのように感じ取り、そのように習い覚えて生きることのできるクリスチャンは幸いです。主イエスを待ち望みつつ生きることこそ、神の御そばを離れずに心安く歩んでいくための最も良い助けとなります。

 25節、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」。聖書は、私たちに、最初のクリスマスのときにひとたび救い主イエスがこの世界に来られたことと、やがて世界の終わりの日、世界のための祝福が成し遂げられる日に、この救い主イエスがふたたび来られますことを、この2回の到来を証言しています。最初のとき、彼は、小さな弱い者として、へりくだった低い姿で来られ、十字架の上で罪人として苦しみを受け、死んでいかれました。やがてふたたび来られますときには、その同じ彼は、力と大いなる栄光を帯びて来られ、すべての敵をご自身の足もとに屈服させ、王としてこの世界を支配するために来られます。最初に来られたとき、彼は私たちのために罪人とされました。十字架の上で私たちすべての者の罪をその身に背負ってくださいました。ふたたび来られるとき、この同じ彼は、罪のない姿で来られ、ご自身の民にまったき救いをもたらしてくださいます(2コリント手紙5:21,ヘブル手紙9:28この2つの到来について、主ご自身が十分にお語りになっています。最初のとき、彼は「苦しみを受け、人々から見捨てられ」ねばなりませんでした。ふたたび来られますとき、「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようである」と。

 救い主イエスのこの2つの到来をはっきりと分かっていることが、聖書を適切に理解するためにとても重要です。最初の弟子たちも、当時のユダヤ人たちも、2つのうちの1つの事柄しか、はっきりとは見えていませんでした。彼らは、絶対的な王としてこの世界を支配してくださる救い主が来ることを期待しました。けれど、私たちの罪を背負って苦しみ、十字架の上で罪人として殺される方としては、あまりよく分かっていませんでした。今日の大多数のクリスチャンにとっても、似たようなことが言えるかも知れません。私たちは、救い主イエスが最初に来られたとき、十字架の上で私たちの罪を背負って苦しみ、死んで行かれたことを受け止めています。けれど、このお独りの同じ方がふたたび来られるとき、この世界を支配し統治する王として来られることを、よく分かっているでしょうか。わたしたちの罪をあがなってくださった救い主であり、しかも同時に、世界をその手に治める王である。この両方ともの真実、その全体像です。最初にこの世界に来られたとき、救い主イエスは苦しみを背負って死んでいかれました。やがてふたたび来られますとき、この同じお独りの方こそが、この世界と私たちを支配し、私たちをご自身の足もとにひれ伏させ、統治してくださいます(ピリピ手紙 2:10-11,1コリント手紙 15:23-25参照)。神の国と、その祝福をまったく成し遂げるために。

さて、友だちの家の茶の間の壁にすてきな言葉が掲げられています、『主イエスは、わが家のご主人さま。食卓にいつもおられる、目に見えない大切なお客さまでもある。そして私たちの毎日の、いつもの、何気ないすべての会話(すべての会話? そして独り言や不平不満、つぶやき、ため息、誰に聞かれても恥ずかしいような陰口や悪口)に耳を傾けていてくださるお方』。そのとおりです。

 

Christ is the  HEAD of our house.

The UNSEEN Guest at every  meal,

The Silent  LISTENER

  to  every  Conversation.

          ―― Unknown(作者不明)



6/27こども説教「恐れなくてもよい」使徒27:21-26

 6/27 こども説教 使徒行伝 27:21-26

 『恐れなくてもよい』

 

27:21 みんなの者は、長いあいだ食事もしないでいたが、その時、パウロが彼らの中に立って言った、「皆さん、あなたがたが、わたしの忠告を聞きいれて、クレテから出なかったら、このような危害や損失を被らなくてすんだはずであった。22 だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。23 昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が、わたしのそばに立って言った、24 『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。25 だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。26 われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」。             (使徒行伝 27:21-26 

 

 自分たちの乗っている船がもうすぐ引っくり返って、今にも皆が溺れて死んでしまいそうです。もし、人間の力や知恵や技術にしか頼ることが出来ないなら、もう、どんな希望も見出すことができない。そこまで追い込まれてしまいました。ですから、人間の力にしか信頼できない人たちは生きる望みを失って、すっかり絶望してしまいました。その彼らにとっては、崖っぷちです。そこで、神を信じる人であるパウロさんは立ち上がって語りはじめました。

22-25節、「だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が、わたしのそばに立って言った、『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている」。パウロさんは「元気を出しなさい。元気を出しなさい」と皆を励ましています。元気を出しなさいと励ますことができる理由は、彼自身が、御使いをとおして神ご自身から励まされ、神から勇気と力と希望を受け取っているからです。24節、「『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』」。これから果たすべき役割が神から与えられているので、今は自分自身も、いっしょにいる人たちもここで命を失うことはない。だから大丈夫だと知らせています。神が味方であるとは、このことです。

2021年6月21日月曜日

6/20「癒された10人」ルカ17:11-19

            みことば/2021,6,20(主日礼拝)  324

◎礼拝説教 ルカ福音書 17:11-19                 日本キリスト教会 上田教会

『癒された10人』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。12 そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。   ルカ福音書 17:11-19

                                               

103:1 わがたましいよ、主をほめよ。

わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。

   2 わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

3 主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、

    4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、

いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、

    5 あなたの生きながらえるかぎり、

良き物をもってあなたを飽き足らせられる。

こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。

                                                 (詩篇 103;1-5)


 11-13節、「イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った」。救い主イエスは、エルサレムの都に向かって旅をしておられます。都には何が待っているのでしょう。十字架の死と復活の出来事です。救い主イエスは、罪人を救うために来られました。そのために、恥と苦しみの中でご自分の生命を投げ出そうとして、あの丘の、あの十字に組まれた処刑の木の上へ向かって旅路を歩まれます。途中でその村を通ったのは、そこでぜひともなすべき大切な仕事があったからです。例えば、サマリアの村の井戸の傍らに1人の女性が待っていたように、ゲラサの墓場で鎖につながれて苦しむ1人の男性が主イエスを待ちわびていたように(ヨハネ福音書4:1-,マルコ福音書5:1-、この村にも、主イエスの一行が通りかかるのを今か今かと待ち受ける人々がありました。重い皮膚病を患う10人の人々が。その彼らと出会うために、出会って彼らを救い出すために、主は、その村を通るのです。せっかく出迎えにきたはずの彼らが「遠くの方に立ち止まって」いたのは、近づくことが許されなかったからです。当時のその社会では、重い皮膚病を患う人々はほかの人たちに接触することも近づくことも、禁じられていました。病気をうつして迷惑をかけてしまわないためにです。そして病いから回復したときには、その人は自分の体を祭司に見せて、確かに治っていることを確認してもらわねばなりませんでした。もし祭司が認め、許可するなら、その人はふたたび自分の社会に戻ってゆくことができます。遠く離れて立ちながら、なお声を張り上げて、「イエスさま、どうか私たちをあわれんでください」と叫んだのは、救われたいと願って止まなかったからです。そのために彼らは主イエスと出会いたいと心から願い、そこに期待をかけたからです。

14節、「イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた」。どのようにして彼らが助けと幸いを受け取ったのかが報告されています。主イエスは、ただ、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」とおっしゃっただけです。主イエスは、彼らの体に触れてみることもせず、彼らを苦しめていた病気に向かって「離れ去れ。出ていけ」とも言いませんでした。薬を与えたわけでもなく、彼らの体を洗ってやったわけでもなく、なにか処置をしてあげたわけでもありません。主イエスが語りかけたその言葉そのものに、彼らを癒す力があったのです。彼ら10人が、その指図に従って歩み始めた途端に、直ちに、彼らは癒されはじめました。救い主イエスの口から出る1つ1つの言葉への信頼と服従です。まるでお父さんお母さんに信頼を寄せる小さな子供のような信頼です。

 15-19節、「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。イエスは彼にむかって言われた、『きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか』。それから、その人に言われた、『立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ』」。自分の体を見せるために祭司たちのところに行こうとして、彼らは、行く途中で癒されました。その中の1人は、自分が癒されたことを知って、大声で神を讃美しながら戻ってきました。主イエスの足元にひれ伏して喜びにあふれました。

この1人だけでなく、癒された10人全員に目を凝らしましょう。主は彼らを祭司のもとへと送り出しました。「行って、見せなさい」と命じる方を、彼ら10人全員が信じたのです。しかもまだ癒される前に、救いのたしかな証拠を受け取る前に。これはすごい、と私は思います。誰がいったい「見る前に、たしかな証拠を受け取る前に出かけること」が出来るでしょう。あっぱれな信仰ではありませんか。だからなおさら残念なのです。あの9人が惜しまれてなりません。もう、ほんのあと1歩のところで、しかしあの9人は主イエスのところに戻ってくることが出来ませんでした。どうしてでしょうか。あの9人は今何を思い、何を見つめ、どんな暮らしをしているのでしょう。まるで当たり前のようにして、まるで何事もなかったかのようにして、彼らのいつものそれぞれの生活がまた始まっていきました。

 主イエスに癒していただいたのは、10人でした。けれど、戻ってきて主に感謝したのは、ただ1人でした。あの1人の喜びと感謝に目を凝らしましょう。「自分が癒されたのを知って、大声で神を讃美しながら戻ってきた。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した」。当たり前のことかも知れませんが、讃美歌の中には圧倒的に《主をほめたたえる歌》が多いです。ほとんどすべての歌がそうだ、と言っていいかも知れません。そこには理由があり、私たちの信仰の核心部分にいたる秘密の鍵が置かれています。「ちからの主をほめたたえまつれ。救いの主をほめたたえまつれ。いのちの主を」と歌う9番がそうです。「わが魂たたえよ、主なる神を。わが魂おぼえよ、与えられし、たえなる恵みは主のものなり」と歌う10番がそうです。例えば讃美歌12番で、「救われた神の民は歌え」と命じられています(「讃美歌21」では7番、149番、152番が対応)。何をどのように歌いましょうか。歌う中身は、《主のあわれみと真実とは変わることがない》です(詩118を参照)。救われた神の民であるなら、あなたもぜひ歌え、声を限りに力の限りに主をほめたたえよ。これは、私たちを生かすための、あわれみの命令です。あわれみを受け取るための道具です。「主のあわれみと真実は変わることがない」と歌う者たちが、「主のあわれみと真実は変わることがない」と歌うことによって、そこで、そのようにして生命を贈り与えられつづけます。

もちろん人間は誰でも弱く脆いものです。強がってみせても、それでも何かを支えや頼みの綱として生きるほかありません。どこの誰でも、皆そうです。誰にでも拠り所が必要です。溺れるものはワラでも掴む、と昔の人は言いました。その通り。けれど、ワラを掴んでしまった者は、そのまま溺れてしまうほかありません。せっかく当てにし頼みの綱とするなら、命綱として自分の命をさえそれに預けたいのなら、いつかプツンとちぎれてしまう綱では困ります。十分に信頼できる、とても丈夫な綱を選び取りたい。私たちは主の御力を頼みとし、「この方こそ私の主。私の拠り所」として生きることをし始めました。救われた者たちの喜びと感謝と信頼の歌が、そのときから旅路の道案内となりました。

 なお、あの9人もまた神さまからの招きの只中に置かれつづけます。あの中から、1人また1人と、主のもとへと戻ってくる者が起こされます。それぞれの生活の中へと戻り、まるで何事もなかったかのように誰とも出会わなかったかのように日々を生きて、けれど、ある日、その中のほんのわずかな残りのものたちは、気づく時が来るかも知れません。数日後に、数年後に、あるいは生涯の最後の日々になって、やっと。実は私も、あの9人の中の1人でした。ずいぶん遅れて戻ってきた中の1人でした。主の恵みを思い出すまでに、多くの時間が必要でしたし、とても手間取りました。いいえ。それよりも、すっかり迷子になってしまい、危うく戻りそこねるところでした。なぜなら、「自分自身の力で自分を清くし、自分で自分を癒した」と思っていたのですから。「少しの幸運と、持って生まれた自分の才覚と努力で世の中を渡り歩き、自分の道を自分の腕と自分の力で切り開いてきた。これからもそうだ。結局は、最後の最後は自分が頼りだ」と、うっかりして思ってしまったのですから。

 主イエスは、あの道端で待っておられます。立ち返ってくるその1人を迎え入れて、ご自身が大きな喜びに溢れるために。まだ戻ってこないあの9人のためにも、その1人1人について、主は同じくそこで、あの道端で待っておられます。喜ぶことも主の御業に驚いて感謝することも、神に十分に信頼を寄せて聞き従って生きることも、すっかり忘れてしまっているあの人についても、やっぱり主は待っておられます。清くされ癒された身と魂とを、祭司にではなく、ほかの誰にでもなく、真っ先に、あの救い主イエス・キリストにこそお見せしたい。ぜひ見ていただきたい。「ありがとうございます。ありがとうございます」と大声で神を讃美しながら、主イエスの足元へと。その歌はなんでしょう。「私をあわれんでください」と呼ばわった者は、あわれみを受けたことの驚きと喜びを歌うのです。その感謝を、その救われた1人の人は声を限りに歌います。「助けてください。支えてください」という切なる願いを、けれどもその1人の人は、何を根拠に呼ばわることができるでしょうか。腹の底から、誰はばかることなく、一体どうして歌うことができるでしょうか。すでに受け取っているからです。すでにたしかにその手に受け取っているからこそ、それを喜び、それを感謝し、なおそれを心底から願い求めることもできます。受け取った恵みへの感謝は、そのまま直ちに、その人の、主に対する願いとなります。そのまま直ちに、主への信頼となったのです。

 救われた神の民よ、声を限りに力の限りに、喜び歌いましょう。歌うようにして、この一日また一日と生き抜いていきましょう。主ご自身こそが、あなたと共にいてくださいますように。主が御顔をあなたに向け、あなたもまたあなたの顔を主へと向け返す中で、そこでそのようにして、主からの祝福と守りがありますように。主が御顔をあなたに向け、あなたの毎日の生活を照らしてくださり、あなたもまたあなたの顔も心の思いも主へと向け返す中で、そこでそのようにして、格別な恵みと平安とが与えられます。朝も昼も晩も、誰といっしょのときにも何をしていても、平穏なときにも逆境の日々にもいつでも、贈り与えられつづけますように(民数記 6:24-26参照)

6/20こども説教「最後の望みもなくなった」使徒27:13-20

  6/20 こども説教 使徒行伝27:13-20

 『最後の望みもなくなった』

 

27:13 時に、南風が静かに吹いてきたので、彼らは、この時とばかりにいかりを上げて、クレテの岸に沿って航行した。14 すると間もなく、ユーラクロンと呼ばれる暴風が、島から吹きおろしてきた。15 そのために、舟が流されて風に逆らうことができないので、わたしたちは吹き流されるままに任せた。16 それから、クラウダという小島の陰に、はいり込んだので、わたしたちは、やっとのことで小舟を処置することができ、17 それを舟に引き上げてから、綱で船体を巻きつけた。また、スルテスの洲に乗り上げるのを恐れ、帆をおろして流れるままにした。18 わたしたちは、暴風にひどく悩まされつづけたので、次の日に、人々は積荷を捨てはじめ、19 三日目には、船具までも、てずから投げすてた。20 幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった。   (使徒行伝27:13-20) 

 

 生きる望みが簡単に消えてなくなりそうな、とても危なく心細い世界に私たちは生きています。日本人も外国人も、年配の方々も大人も若者も、小さな子供たちもみな同じです。ですから、自分が生きるための望みがどこにあるのか、それは何なのかをよく分かっていることが大切です。

 さて、パウロさんは救い主イエスを信じるクリスチャンです。遠いローマの町まで船に乗せられて旅をし、そこで裁判にかけられることになています。人間たちのせいでそうなったというのではなく、ローマの町で神さまの救いの計画とはたらきを多くの人たちに知らせるために、神さまご自身が用意していた出来事です。大きな厳しい嵐に、船は巻き込まれました。どんなに大変なことになって来たのかを、くわしく説明されました。船が引っくり返ったり、岸辺近くの岩にぶつかって壊れてしまうかもしれません。船の荷物も、船を操るために必要な道具も投げ捨てなければなりませんでした。20節、「幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった」。助かる望みさえなくなった。本当のことですが、それは、「人間の力と知恵によっては、もう望みがない」という意味です。頼りにできるものが人間の力と知恵しかない人たちなら、どこにも望みが見つからない。つまり、自分たちが生き延びて助かる望みは、ただ神にこそかかっている(注)。そこのことを知らされ、それをみんなで受け止めるときが近づいています。

 

 

(注)「望みは、ただ神にこそかかっている」;神を信じる人々は、それを習い覚えてきました。「あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである」(1ペテロ手紙1:21

 

 

2021年6月14日月曜日

6/13「ふつつかなしもべ」ルカ17:5-10

             みことば/2021,6,13(主日礼拝)  323

◎礼拝説教 ルカ福音書 17:5-10                    日本キリスト教会 上田教会

『ふつつかなしもべ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:5 使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。6 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。ルカ福音書 17:5-10) 

                                               

11:17 しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、18 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。23 しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。(ローマ手紙 11:17-23)

 

 5-6節、「使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」。「わたしたちの信仰を増してください」と弟子たちは主イエスに願い出ました。どんな気持ちで、それを願い出たのかはよく分かりません。この私たちも折々に、自分自身の信仰の弱さや貧しさ、神を信じる信仰があまりに不十分であることを思い煩います。誰かのちょっとした何気ない一言や態度に傷つき、腹を立てたり、うんざりしたり、心を痛め続けるからです。ひどくがっかりしたり、心が折れそうになるからです。憎しみや怒りに取りつかれて、何日も悶々としてしまうからです。それでもなお、それだからこそ、「わたしたちの信仰を増してください」という願いは、ほかの何にもまして、とても重要です。

 神を信じる信仰こそ、その人自身と家族が救われるための根本の土台です。信仰によって、私たちは救い主イエスと堅く結びつけられ、その信仰をとおして救いと幸いを受け取ります。救い主イエスを信じる信仰こそが、すべてのクリスチャンの慰めと、霊的な豊かさの秘密です。その信仰をとおして、救い主イエスが成し遂げた平和と、力と、勇気と、この世界の誘惑への勝利が私たちにもたらされます。悩みと思い煩いの中で、だからこそ私たちもまた、「この私の信仰を、必要なだけ十分に増し加えてください」と心底から、本気になって、願い求める必要があります。しかも、その願いはかなえられます。

 もう1つのことを思い巡らしましょう。7-10節、「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。ここで、『自分は正しい、ふさわしい、と言い張ってやまない私たちの傲慢さと頑固さ』に対して、主イエスご自身が厳しい一撃を与えています。命じられたこと、私たちがしなければならないことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい。なぜなら、私たちは誰も彼もが生まれつき、自尊心がとても強く、どうしたわけか、自分は正しい、自分こそがふさわしいと言い張りたくなる性分を根強く抱えているからです。心を鎮めて自分自身を振り返ってみれば、だれにでもすぐに分かります。『自分は正しい。自分こそふさわしい』と思い込み始めたとたんに、私たちは思い上がって他者を見下し、その小さな貧しい者たちを軽々しく裁きはじめます。例えば、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。また、「わたしは一日中、労苦と暑さを辛抱して働きました。それなのに、この最後の者は」(ルカ福音書18:11-12,マタイ福音書20:12と。これは、治すのがとても難しい、厄介な病気です。まわりを見回しますと、ほかの人たちがこの『自惚れ病』にかかっているのを見つけるのは、とても簡単です。「あの人も、あの人も、あの人も、やっぱり自分は正しい、ふさわしいと思い込んで、頑固に言い張りたくなる病気にかかっている。かなり重症だ」と、だれでも簡単に、すぐに見分けることが出来ます。けれど、この自分自身がその病気にかかっていることには、ほとんどの人は、なかなか気づきません。

 神の憐れみによって救われるためには、この『自分は正しい、ふさわしい、と言い張ってやまない私たちの傲慢さと頑固さ』という病気を、すっかり投げ捨ててしまう必要があります。もし、神の憐れみによって私も救われたいと願うならば、自分の中には良いものは何一つもないと認める必要があります。自分自身の中には、どんな長所も優れた価値も何一つもない、本当にそうだと、はっきり認める必要があります。『自分自身の正しさ』とも、『ふさわしさ』とも、すっかり縁を切って、それらの虚しいだけの妄想をすべて投げ捨ててしまう必要があります。なぜならば、『自分自身の正しさ。ふさわしさ』という根も葉もない虚しい夢想は、『わたしは救いに価しない罪人に過ぎない』という、神の憐れみによって救われるためにどうしても必要な、不可欠の自己認識をすっかり覆い隠しつづけていたからです。だからこそ、神の憐れみを理解できず、憐みを受けて神の民とされたことも、救い主イエスが罪人を救うためにこの世界に来てくださったことも、なにもかも分からないままでした。「自分は正しい。ふさわしい」というその誤った自己認識こそが、救いを押しのけさせ、神の憐れみを拒みつづけさせていたからです。これが、自分は正しいと思い込んで他人を見下しつづけるパリサイ人の病気の正体です。この病気が、あなたと周囲の人々を惨めに不幸せにしつづけました。それを投げ捨てて、その代わりに、そこでようやく、救い主イエスご自身の正しさとふさわしさにこそ全幅の信頼を寄せることができます。

 神にも隣人にも背かせ続けていた罪をゆるされ、自分自身の傲慢さを打ち砕かれて、ついにとうとう、『わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と深く頷きつづけて生きる幸いなしもべの旅がはじまります。この私たちは、誇るべきものは何一つも持ち合わせていません。命じられた、なすべき務めをすること。しかも、命じられた、なすべき務めをすべてすっかり果たしたときにさえ、それは、私たち自身がもっていた自分の力や賢さや有能さによってしたのではありませんでした。決してそうではなく、神から贈り与えられた力によって、それをさせていただいたのです。「誇ってはならない、思い上がってはならない」と、なぜ、繰り返し何度も何度も、戒められつづけてきたのか。聖書は証言します、「『しるされている定めを越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」。また、「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう」(1コリント手紙4:6-7,申命記8:17-19。当然の権利のように神さまに要求できる報酬も、感謝も、栄誉も、もちろん何一つもありません。成し遂げたものすべては、ただ神から贈り与えられたものでした。すべては、ただただ神からの恵みでした。

 さて、この『自分は正しい、ふさわしい、と言い張ってやまない私たちの傲慢さと頑固さ』という病気は、一体どこから湧いて出てきたのでしょう。神の慈しみの御手の前に、こんなにも貧しく、弱々しく、過ちを犯しやすい、神によって造られたにすぎない私たち人間が、どうして自分がまるで何者かであるかのように、自分を過大に思い描くことができるのでしょうか。それらすべては、なにも知らないことから生じてきます。私たちの理解力は、生まれつき、目が見えなくされています。そうあるべきようには、私たちは自分が何者であるのかも、自分たちの生涯がどのようなものであるのかも知らず、神を知らず、神の律法もその御心もまったく知りませんでした。けれど、ひとたび神の恵みの光が私たち人間の心の闇を照らしたので、そこでようやく、『自分は正しい、ふさわしい、と言い張ってやまない私たちの傲慢さと頑固さ』という病気の支配は退けられはじめました。しかもなお、うぬぼれと傲慢の根は残り、知らず知らずのうちにその苦々しい枝を伸ばします。けれど聖霊なる神が私たちの心に働きかけ、私たちが何者であるのか、神がどのようなお方であるのかを知らせて下さるとき、そこでようやく、私たちの思い上がりと傲慢さと心の頑固さは打ち砕かれます。私たちは誰もが皆、神に背く者たちであり、罪の中に死んでいた者たちです。神の恵みによるのでなければ、誰一人も神の国に入ることも、神の子供たちとされることもありえませんでした。聖書は証言します、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」。また、「彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある」(1テモテ手紙1:15,ローマ手紙11:20-23とてもふつつかで、あまりにふさわしくない私たちです。その私たちが、神の憐れみにあずかっています。救い主イエス・キリストが「いのち」として与えられたのですから、いのちであられるキリストなしには、自分が自分自身においてまったく死んでいることをつくづくと思い知らされます。そこで、私たちが神にもたらすことのできる唯一の、そして最善の「ふさわしさ」とはこれです。つまり、救い主イエスの憐れみによって「ふさわしい」ものとされるために、私たち自身の「ふさわしくなさ。ふつつかさ」を、キリストの憐れみの御前に差し出すことです。「あなたは、とてもふつつかなしもべです。この私も、負けず劣らず、とてもふつつかなしもべです」「そのとおり」。そこでようやく、私たちはあの恐るべきパリサイ人の病気を脱ぎ捨てはじめています。そこにこそ、私たちのための慰めと希望と平和があります(Jカルヴァン『キリスト教綱要』41741-42節を参照)

 

6/13こども説教「良い港に着いて」使徒27:6-12

  6/13 こども説教 使徒行伝27:6-12

  『良い港に着いて』

 

27:6 そこに、イタリヤ行きのアレキサンドリヤの舟があったので、百卒長は、わたしたちをその舟に乗り込ませた。7 幾日ものあいだ、舟の進みがおそくて、わたしたちは、かろうじてクニドの沖合にきたが、風がわたしたちの行く手をはばむので、サルモネの沖、クレテの島かげを航行し、8 その岸に沿って進み、かろうじて「良き港」と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。9 長い時が経過し、断食期も過ぎてしまい、すでに航海が危険な季節になったので、パウロは人々に警告して言った、10 「皆さん、わたしの見るところでは、この航海では、積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう」。11 しかし百卒長は、パウロの意見よりも、船長や船主の方を信頼した。12 なお、この港は冬を過ごすのに適しないので、大多数の者は、ここから出て、できればなんとかして、南西と北西とに面しているクレテのピニクス港に行って、そこで冬を過ごしたいと主張した。    

(使徒行伝27:6-12 

 

 大人も子供も、まず第一に良く分かっているべきことは、世界を造られた神が、この広い海の波も風も大嵐も、暑さ寒さも、そこに生きるすべての生き物のいのちも動かし、御心のままに持ち運んでおられるということです。ここで、風に行く手を邪魔されて、かろうじて『良い港』に辿り着くことが出来たのも、みなすべて神のご計画のもとに起こった出来事です。10節で、パウロが船の旅のこれからの見通しを人々に知らせます。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海では、積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう」。もちろんパウロは、その地域での船の旅について、海や波の流れや特徴、天気の変化や船の動かし方などについて、よく学んで十分な経験を積んできたわけではありません。そういうことについては、ほとんど何も分かっていません。そうであるのに、神さまが彼に必要なことを知らせてくださっているので、これから起こることや、どうすべきかも十分に分かっていました。けれど、今はまだ誰からも信頼してもらえません。海が荒れる冬が近づいてきています。船長や船の持ち主や他の熟練者たちも、船の旅をするにはとても危ない季節が近づいていることは分かっていました。そして、この良い港はきびしい冬を過ごすにはあまり向いていない港でもありました。「すぐ近くにある、ここよりももう少し過ごしやすい港まで行けたほうが都合が良い」と皆は判断しました。

 彼らは、もうすぐ大嵐にまきこまれ、とても危ないことになります。

 

 

2021年6月7日月曜日

6/6「ゆるしてやりなさい」ルカ17:1-4

            みことば/2021,6,6(主日礼拝)  322

◎礼拝説教 ルカ福音書 17:1-4                   日本キリスト教会 上田教会

『ゆるしてやりなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:1 イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。2 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。        ルカ福音書 17:1-4

                                               

11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。 ルカ福音書 11:1-4

 

130:1 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。

  2 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。

  3 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、

主よ、だれが立つことができましょうか。

  4 しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。

  5 わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。

   そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。 (詩篇130:1-5)

 まず1-2節、「イエスは弟子たちに言われた、『罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである』」。神に背かせる罪に誰かを誘い、つまずかせることのはなはだしい災いが、主イエスご自身によって私たちに警告されています。「これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである」と。いつ、どうやって、私たちは誰かをつまずかせてしまうでしょう。いつ、私たちは、神に背く罪を誰かに犯させてしまうでしょう。神を信じるクリスチャンを、あるいは他の人々に対しても不当に苦しめたり、悩ませたりするとき、神に仕えて生きることを邪魔したり、止めさせようとするときに。それだけではありません。神を尊び、隣人を自分自身のように愛し尊ぶように教えられながら、それと相反する私たちの心の思いと、口から出る思いやりのない言葉と、行いや態度によって、憐み深い神の御名を汚してしまうときに。私たちの普段の行いや、人と接するときの何気ない態度や振舞いを私たちの家族や、隣人や、職場の同僚たちがよく見ています。彼らは、「なんだ。それがクリスチャンのすることか」と呆れたり、ガッカリしたりもするでしょう。例えば、ダビデがウリヤの妻を不当に奪い取る大罪を犯したとき、預言者ナタンは、ダビデに向かって「あなたはこの行いによって、おおいに主を侮った」とその罪深さを指摘しました。習い覚えてきた神の国の福音が私たち自身を戒めます、「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」(サムエル記下12:14,ローマ手紙2:21-24。教えられてきた神の国の福音と矛盾し、それと相容れない生活をしているとき、自分自身の日毎の行ないと態度と口から出る言葉が、キリストの福音を損ない、私たち自身を傷つけ、周囲にいる人々をも傷つけます。

 1-2節と3-4節のどこがどう結びつくのか、どういう関係があるのかを、知らねばなりません。神に背かせ、家族や隣人をつまずかせて苦しめる罪の誘惑はあり、誰にとってもそれは避けられない。けれどなお、弱く小さく、揺さぶられやすい人にその誘惑を来たらせるなら、その者はきびしい懲らしめを神から受けることになる。さて、神に背く罪に誰かが陥ってしまったとき、あるいは自分自身がその恐るべき泥沼に落ちようとするとき、どうしたら良いのか。ただ1つの解決策が神ご自身から差し出されます。3-4節、「あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。罪のゆるしの教えこそ、この信仰と福音の最重要の生命線でありつづけます。主イエスは、「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」とお命じになりました。

 「その人をいさめなさい」と、まず命じられます。なんでも、ただゆるし、ただ大目に見てあげるだけでは不十分です。誰かがあなたに不適切な悪い態度を取り、あなたに害を及ぼしたとき、「それは悪いことだから止めなさい」とその相手に告げる必要があるし、その人の言葉や振舞いや態度のなにがどう悪かったのかを、なぜそうなのかを相手にちゃんと知らせて、いさめたり、叱ったりしてあげる必要があります。そうでなければ、その人は自分がしてはいけない悪いことをしたとは気づかずに、同じ悪い振る舞いをずっとしつづけるかも知れません。それでは困ります。

 次に、「いさめて、もし、その人が悔い改めたら、ゆるしてやりなさい」です。いさめて、その人が確かに悔い改めたなら、それなら、ゆるしてやりなさい。そうでないなら、ゆるさなくてよいし、ゆるしてはいけません。悔い改めがなく、自分はしてはいけない悪いことをしてしまったとはっきりと自覚できなければ、その人が新しくされることもなく、人と人が和解したり、健全な人間関係を回復させ、ふたたび築き上げはじめることもできません。

 「一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。「7」という数字は、「770倍」など聖書の他の箇所でもそうであるように、「無制限に、どこまででも何度でも」という意味で用いられています。「とても頻繁に」「しばしば」などと(マタイ7:2,12:45,18:22,ルカ11:26,1サムエル2:5,ルツ4:15,12:6,ミカ5:5。 

もちろん、主の祈りの中の6つの祈願の中でも、罪のゆるしの願いこそ根源的な願いでありつづけます。「われらに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」。このように願いつづけなさいと主イエスから命令されていることの目的は、自分自身が抱えてしまう罪から、私たちが、日毎に救い出していただくためにです。また、互いにゆるしあって平和に生きる私たちとなるためにです。たぶん、この願いが、主の祈りの6つの願いの中で一番わかりにくいでしょう。わたしたちが他人の罪や落ち度や悪い行ないをゆるしてあげることと、わたしたち自身の罪や落ち度や悪い行ないを神さまにゆるしていただいていることとは、深く結びついています。切り離すことのできない1つのことだと言っていいほどです。けれど、「ゆるしますから、私のこともゆるしてください」という取り引きや条件ではありません。順番が違います。(1)まず、神さまがこの私の罪や落ち度や悪い行ないを、すっかりゆるしてくださった。だから、(2)わたしたちも今では、他人の罪や落ち度や悪い行ないをすっかりゆるしてあげることができる、という順番です。神の恵みの順番・恵みの秩序です。その証拠に、神さまから、ゆるされないはずの大きな罪と落ち度をゆるしていただいていると覚えているからこそ、他人の罪と落ち度をゆるしてあげることもできます。ゆるされていることを忘れてしまうとき、わたしたちは心が狭く貧しくなり、他人に厳しく、冷たく、薄情になってしまいます。ゆるせないで、いつまでも怒って、恨みに思って、見下しつづけるので、自分がどんどん貧しくなってしまいます。マタイ福音書18:21-35の『仲間をゆるせない悪いしもべ』のたとえ話が分かりますか。心が少しは痛みますか。あのしもべは、いったい誰のことを指し示しているでしょうか。

この自分、また自分たちに対して罪を犯した相手を、ゆるしてあげること。「私の罪をゆるしてください」と神に願い求めながら、「私も、他者の罪をゆるします」と神に告白しています。これが、罪をゆるされている罪人であることの明白なしるしです。家族や隣人、知り合いや職場の同僚などが自分に対してなしたほんの小さな悪意、意地悪な態度、過ち、攻撃をどうしても許せない。そのとき、その自分は、救い主イエスによって成し遂げられ、贈り与えられたはずの、まったく自由で十分な究極のゆるしがいつの間にか、すっかり分からなくなっています。それこそが大問題です。その人をゆるしてあげることが自分にはどうしても出来ない。そのとおりです。生まれつき怒りの子であり、心がひどく頑固な私たちですから。けれど、神には何でもできます。神ご自身こそが、この私たちを、『ゆるすことができる者』へと新しく造り変えることがお出来になります。聖霊なる神が私たちの体のうちに宿っていて下さり、そこで生きて働いていてくださることの、目に見える、生きたしるしです。聖霊なる神が私たちの体の中に住んでくださっていることは、このお方が私たちの生活の中にもたらしてくださる実りによって分かります。「けれど、どうしてもゆるすことができません。ゆるすことができる私とならせてください」と、神に願い求めつづけることができます。その願いは、必ず叶えられます。しかも、憐み深い天の主人から、このように命じられています、「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈れ」。また、「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(マタイ5:44-45,18:32-33。誰かのちょっとした振る舞いや、悪い言葉や態度がシャクに触り、カンに障ります。なんだか虫が好かない。気に入らない。自分自身のことをすっかり棚に上げて、その1つ1つをあげつらいたくなります。それゆえ聖書は、同じ1つのことを繰り返し語りかけます、「あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか」「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう」「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている」(1コリント3:3,1ヨハネ3:18-19,4:20と。詩篇の詩人は、自分のはなはだしい罪をゆるしてくださった憐み深い神に、このように信頼と感謝をささげています、「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」(詩130:1-5

 

6/6こども説教「船旅のはじまり」使徒27:1-5

 6/6 こども説教 使徒行伝27:1-5

 『船旅のはじまり』

 

27:1 さて、わたしたちが、舟でイタリヤに行くことが決まった時、パウロとそのほか数人の囚人とは、近衛隊の百卒長ユリアスに託された。2 そしてわたしたちは、アジヤ沿岸の各所に寄港することになっているアドラミテオの舟に乗り込んで、出帆(しゅっぱん)した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。3 次の日、シドンに入港したが、ユリアスは、パウロを親切に取り扱い、友人をおとずれてかんたいを受けることを、許した。4 それからわたしたちは、ここから船出したが、逆風にあったので、クプロの島かげを航行し、5 キリキヤとパンフリヤの沖を過ぎて、ルキヤのミラに入港した。    (使徒行伝27:1-5) 

 

 さて、パウロが舟でイタリヤのローマに送られることがようやく決まりました。(舟に乗ったことがありますか? すいぶん昔の、今から2000年も前の舟です。吹き付ける風の力と、水をこぐ人間たちの力と、その2つの力でその舟は進みます。ふとんのシーツを何枚も縫い合わせたような大きな布を何枚か柱に広げて張って、それで風を受けます。その風の力で舟が動きます。そして、たくさんの人たちが長いヘラのような棒で海野無図をこいで、その力で進んでいきます)なぜ、ローマ皇帝に訴えて、ローマで裁判を受けるようになったのか。それは、パウロの計画でもなく、他の誰の考えでもなく、ただただ神さまご自身の最初からの計画だったからです。そのことを、あらかじめ神はパウロに知らせておきました。「あなたはエルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証しをしなくてはならない」(使徒23:11参照)と。神の御計画なので、神さまの御心に従ってローマへもどこへでも出かけていきます。神から与えられた大切な役割をぜひ果たしたいと心から願ってもいました。ローマに連れていく責任者の100人隊長は、パウロにとても親切にしてくれて、途中で友人を訪ねたり、歓迎を受けることさえ許してくれました。ただ、船旅はそう順調には進みません。やがて暴風の季節になり、乗っていた舟が嵐のために壊れてしまう大事件も起こります。

2021年6月1日火曜日

5/30「羊飼いの心得をもって」サムエル上17:31-47

           みことば/2021,5,30(主日礼拝)  321

◎礼拝説教 サムエル記上17:31-47            日本キリスト教会 上田教会

『羊飼いの心得をもって』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:31 人々はダビデの語った言葉を聞いて、それをサウルに告げたので、サウルは彼を呼び寄せた。32 ダビデはサウルに言った、「だれも彼のゆえに気を落してはなりません。しもべが行ってあのペリシテびとと戦いましょう」。33 サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。34 しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、35 わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。36 しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。37 ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。38 そしてサウルは自分のいくさ衣をダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。39 ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。40 ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた。……45 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。46 きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。47 またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。   サムエル記上17:31-47


17章のはじめから、この出来事は始まっています。31節から読みましたから、まず、そこまでの経過をごく簡単に振り返ります――

  神の民とされたイスラエルは、強大なペリシテ人の軍勢と小さな谷を隔てて向かい合っていました(17:1-3)。兵士の数も戦力も、相手方のほうがはるかに上回るのです。あの時だけではなく、実は、そんなことの繰り返しでした。まるでわざわざそうしたかのように、神の民とされたイスラエルは、どこの誰と比べても数も少なく、力も弱く、あまりに貧弱でありつづけました。そして今回も、ペリシテの陣地からゴリアテという名前の1人の大男が進み出てきました。大男は立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわりました。「1人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。1対1の勝負をしよう。負けたほうが勝ったほうの奴隷になるんだぞ」(17:8-11,16参照)。ゴリアテは40日の間、朝も夕方も出てきて、同じ言葉で呼ばわりました。「おい、臆病者ども。1対1の勝負をしよう。負けたほうが勝ったほうの奴隷になるんだ」。イスラエルの王様も兵隊たち皆も、恐ろしくて震え上がりました。「どうしたらいいか分からない。もうダメだ」と絶望し、小さく縮み上がってしまいました。(だから、あの少年は最初に王に会ったとき、32節、「だれも、彼のゆえに気を落としてはなりません」と語りかけました。王自身も含めて、誰もが皆、気を落とし、落胆しきっていたからです)。けれども、神の民とされたイスラエルの同胞たち。大男ゴリアトの声を聞き、強大な圧倒的多数のペリシテ軍と谷を隔てて向かい合い、恐ろしくて震えながら過ごした4040夜。それは、自分自身の弱さと貧しさをつくづくと痛感させられ、膝を屈めさせられて、神さまに向かって本気で祈るべき日々だったのです。祈りの中で、ふたたび神さまと出会うはずの日々でした。本気になって、神に向かって祈るための日々。40という数には、そういう意味が込められつづけました (創世記7:12,民数記14:34,出エジプト記24:18,マルコ福音書1:13,列王記上19:8,サムエル記上17:16)

  その恐ろしい戦いの場所に、ごく普通の羊飼いの小さな一人の少年が出てきました。「はい。僕が戦います」。兄さんたちは、この末っ子の弟を見て「生意気だ。でしゃばりな奴め」と腹を立てました。イスラエルの王様も彼を見て、あざけり笑いました。33-37節、「サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。私はこれまで羊たちの世話をして、羊たちを守って暮らしてきました。強くて恐ろしい獣たちとも戦って、生き延びてきました。つまならい自慢話をしてるわけではありません。「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。ここです。生き延びてきたのは、私が勇敢だったからでも、賢かったからでもありません。すばしっこかったからでもなく、強かったからでもありません。熊の手からもライオンの手からも、主なる神さまこそが私を守ってくださった。その同じ神さまが、あの大男ゴリアテからも他の誰からでも守ってくださいます。この新しい戦場、この新しい敵に対しても、私の主なる神さまこそが、私を必ずきっと守って戦い抜いてくださいます。これが、あの少年の心得です。クリスチャンは皆、この《羊飼いの少年の戦いの心得》を授けられています。あなたも、ここにいる私たち全員もそうです。

38-40節、「そしてサウルは自分のいくさ衣をダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた」。王様が自分の最新兵器と高級で上等な装備を貸してくれようとしたとき、あの少年は断りました。兜(かぶと)も剣も盾も胸当ても膝当ても、何も要らない。「慣れていないからだ」と答えました。それなら、王様の武器や装備を貸してもらって、十分な練習期間をもらえて使い慣れることができるなら、それなら最新兵器と装備を借りたほうが得策でしょうか。いいえ、そうではありません。私たちはいつか、多くの実地訓練や研修を積み重ね、いくつもの戦場を生き延びて、立派な1人前の戦士となるでしょう。けれども、恐ろしく強い大男のゴリアテが攻めてきたときに、私たちはどうするでしょう。《あの羊たちの、たった数匹の群れも神の軍隊。ここも、生きて働いておられる同じ神の軍隊である。主なる神こそが私たちを守って戦ってくださる。熊の手、ライオンの手からも、あの大男ゴリアトの手からも、どこの誰からでも、主こそが守ってくださる》と、その肝心要の大切なことを忘れないならば、十分です。よくよく覚えているならば、何の不足もありません。もし、そうでないなら。「この丈夫な青銅の鎧(よろい)と兜(かぶと)と、剣と槍と楯が私を守ってくれるから」とうっかり勘違いしてしまうならば、私たちが手にしようとしているそれらの道具は、私たちにとって大きな災いとなり、恐るべき罠となるでしょう。かえって、私たち自身の戦いを危うい場所へと追い詰めてしまうでしょう。「これまで羊たちの世話をして、羊たちを守って暮らしてきた。強くて恐ろしい獣たちとも戦って、生き延びてきた。でもそれは自分が勇敢だったからでも、賢かったからでもない。骨惜しみせずに頑張ってよく働いたからでもない。熊の手からもライオンの手からも、主なる神さまご自身こそが、この私を守ってくださったからだ。その同じ神さまが、あの大男からも他のどんな大男からも守ってくださる。この新しい戦場、この新しい敵に対しても、私の主なる神さまこそがこの私を必ずきっと守って戦ってくださる」。つまり、『主ご自身によって守られ養われつづけてきた羊飼いである』という心得を、もし見失わないでいられるならば、それなら大丈夫です。瀬戸際に立たされる肝心要の場面で、このいつもの心得を、ちゃんとよくよく覚えていることができるのかどうか。それが、私たちの生き死にの分かれ道でありつづけます。だからです。「使い慣れていませんから」と少年は答え、自分ではまだ気づいていなかったかも知れません。けれど、神ご自身がここで介入し、あの少年に王の武器と装備を断らせ、いままでどおりの羊飼いの道具を選び取るようにと仕向けました。神が、そうさせたのです。それがふさわしい、と。杖と、滑らかな5つの小石と、石を入れる袋と、石投げ紐。今までずっと神から支えられてきた通りに、『主なる神によって守られ養われてきた一人の羊飼い』として立ち向かいつづけます。

41-47節、「そのペリシテびとは進んできてダビデに近づいた。そのたてを執る者が彼の前にいた。ペリシテびとは見まわしてダビデを見、これを侮った。まだ若くて血色がよく、姿が美しかったからである。……45節)ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。サウル王もイスラエルの兵隊たちも皆、あまりに賢くなって、世間の常識を身につけすぎて、するといつの間にか、神の助けになど見向きもできない人になりはててしまいました。神の声も姿も目に入らなくなりました。その耳にも、神の言葉は少しも届かなくなりました。その中でたった一人だけ、あの小さな羊飼いの少年は、神さまからの助けと支えを受け取りました。「はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」と。

 さて、少年を戦いに送り出すときに、王はこう言っていました。37節、「行きなさい。どうぞ、主があなたと共におられるように」と。この『主が共におられるように』というほんの一言の見送りの言葉には、その人の生きるか死ぬかを分ける程の決定的な意味がありました。主が、あなたと共におられるように。けれど残念なことに、あの物の分かった賢い王様も側近や将軍たちも、兵士たちも皆、その肝心要の生命線を今ではすっかり忘れていました。だから心を弱らせ、たかだか人間に過ぎない者たちを恐れて、ビクビクと怖じ気づいていました。『主が共にいてくださる。だから私は』。それは確信であり、神への感謝であり、神へと向かう願いだったのです。もし主が確かにこの私と一緒にいて、生きて働いていてくださるならば、たとえ世間知らずで未熟で愚かな私であっても、小さく貧しい私であっても、心強く晴れ晴れとして生き延びてゆける。もしそうでないなら、誰が私と一緒にいてくれても、100万人の強い軍隊が後ろ盾であっても、それでもなお危うい。だからこそ、出掛けてゆく大切な兄弟姉妹に「主があなたと共にいてくださいますように」と、家族や友だちにも「主こそが、あなたと共にいてくださいますように」と祈りあいつづけてきたのです。この肝心要を覚えていさえすれば、王さま自身も自分で自分の剣を手にとり、立ち上がり、自分自身でどんな手強い敵にも心安らかに立ち向かうことができたはずでした。「主は救いを贈り与えるのに、つるぎとやりを用いられない。(憐み深い神は、ただ救い主イエスの十字架の死と葬りと復活とを必要とし、その救い主イエスを私たちが信じて、イエスに聴き従って生きることを必要となさった。それを、心から願ってくださった)。もちろん、この私自身も主のものであり、この戦いは主の戦いである」と。

 

                《羊飼いの心得》

 

  1.これまでの日々をよくよく覚えておくこと。熊の手、ライオンの手から主なる神さまこそが私を守ってくださった。だから、見知らぬ大男の手からも、どこの誰からも、主こそがきっと守り抜いてくださると。

  2.どこかの王様が素敵な武器や装備を貸してくれようとする場合、立ち止まって、考えてみること。

  3.むしろ、羊飼いのいつもの道具を忘れず持参すること。杖と石投げ紐と袋。河原で拾うなめらかな小石の1つは、「主が私と共にいてくださり、しかも私をとても大切に思っていてくださる」という小石。1つは、「主が私のためにも強くあってくださる」という小石。1つは、「たとえ私が弱くても臆病でも、あまり賢くもなくたいした働きもできないかも知れないとしても、だから、ちっとも恐くないし、恥ずかしくも何ともない」という小石。1つは、「この私は、今ここにおいても主の恵みの真っ只中にある」という小石。そしてサムエル記上17:47,申命記31:8,コリント手紙(1)1:26-,詩23,ヨハネ10:11-,ルカ15:3-,ペテロ手紙(1)2:24-25を、自分の心によくよく刻み込んで、味わいつづけること。