2016年5月30日月曜日

5/29こども説教「神の国の福音を宣べ伝えるために」ルカ4:42-44

 5/29 ルカ福音書 4:42-44
 『神の国の福音を宣べ伝えるために』

4:42 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。43 しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。44 そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた。(ルカ福音書 4:42-44)

  はじめの42節に、「夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれた」とあります。実は、いま読んだ42-44節の中では、ここが一番大切です。救い主イエスは折々に、何度も何度もくりかえし、寂しい所へ出て行きつづけました。気分転換や、ちょっと一休みではなく、ひとりで静かに過ごしたかったからでもなく、ぶらぶらと散歩でもなく、天の御父に向かって祈るためにです(ルカ5:16,6:12,9:18,28他)しかも救い主イエスにとっても私たちにとっても、祈りは祈っている相手と自分との互いのやりとりで、ただ自分の願いや苦しみや考えを御父に一方的に伝えるだけではなく、むしろ御父の御声を聞き取り、御心を教えていただくことです。そのために祈ります。自分自身や他の誰彼の考えや願いどおりに生きるのか、それとも御心に聞き従いながら生きようとするのか。そこに、いつもの分かれ道があります。救い主イエスもまた私たち一人一人も御父の御心にかなって働き、また御心にかなって生きるためには、祈りつづけ、心を鎮めて御声をよくよく聞き取りつづけねばなりません。
 人々は、「自分たちの所にずっと留まって、ここで神の国について教えつづけてほしい」と主イエスを引き止めました。主は答えました。43節、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と。天の御父からつかわされた。だから、つかわしてくださった御父の御心にかなうことをこそ、ただただ行う。かなわないことを、しない。これが、『つかわされた使者であること』の心得。主イエスが、初めから終わりまでそのように救い主としてのお働きを成し遂げます。すると、主イエスの弟子であり、天の御父と主イエスからつかわされて生きる私たち一人一人のクリスチャンも、まったく同じ心得です。この私は 天の御父と救い主イエスからつかわされた。だから、つかわしてくださった御父と主イエスの御心にかなうことをこそ、ただただ行う。かなわないことを、決してしてはいけない。牧師も長老や執事も、他なんの係も役割もとくには与えられていないごく普通のクリスチャン全員にとっても、これが基本(=つまり必須)の心得です。
主イエスが預言者、祭司、王の務めを担って働かれたように、私たち皆もまた、主イエスに率いられて、預言者、祭司、王の務めを担って働きます。神の国の福音を宣べ伝え、福音を証ししながら。それぞれの家庭や家族の只中に、職場や町内に、この地域とこの国と世界に、つまり私たちの生きる生活の現場に神の国を建てあげようとそれぞれ精一杯に務めながら。一つ所にずっと何十年も留まって主のために働く場合があり、旅をするように足早に移ってゆく場合もあります。それは分かりません(*)。やがて主の弟子たちが二人ずつ組にされて町々村々へとつかわされていったときに、私たちの働き方が具体的に指図されます。身軽に手ぶらで出かけてゆき、その土地の人々の世話になりなさい。「どこかの家に入ったら、そこに留まれ。『この家に、この町に平安があるように。神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。迎え入れてくれるなら、出してくれるものを飲み食いしなさい。誰もあなたがたを迎え入れるものがいなかったら、その町を立ち去りなさい。出て行くとき、足から塵を払い落としなさい」(ルカ9:1-7,10:1-16を参照






         【割愛した部分の補足】
          (*)神の民の暮らしの基本形は、民数記9:19-23。「幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時は、イスラエルの人々は主の言いつけを守って、道に進まなかった。・・・・・・ふつかでも、一か月でも、あるいはそれ以上でも、幕屋の上に、雲がとどまっている間は、イスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったが、それがのぼると道に進んだ。すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに主の言いつけを守った」。一個のキリスト教会の働きや在り方も、一人一人のクリスチャンの生涯も、このとおりです。「しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください」(ルカ22:42)と。そこに、格別な幸いと祝福があります。


5/29「重い皮膚病の人を」マタイ8:1-4

                                          みことば/2016,5,29(主日礼拝)  61
◎礼拝説教 マタイ福音書 8:1-4                         日本キリスト教会 上田教会
『重い皮膚病の人を』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

   8:1 イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。2 すると、そのとき、ひとりの重い皮膚病の人(*)がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病は直ちにきよめられた。4 イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。                              (マタイ福音書 8:1-4)

(*) 19964月の「らい予防法」廃止に伴い、20055月以降、聖書本文中の「らい病」表記をすべて訳語変更しています。文脈を考慮して「重い皮膚病」「皮膚病」「かび」その他に訳し分けています。(日本聖書協会) 



 まず最初に4節のことを、できるだけ解決しておかねばなりません。「イエスは彼に言われた、『だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい』」。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。どの福音書も、主イエスがどういうお方であるのかを告げ知らせ、人々が主を信じ、主の弟子とされて生きるようにとその大目標をもって書かれています。それなのに、「誰にも何も言ってはいけない」などと時々釘をさされました。しかも他の誰によってでもなく、主イエスご自身から。どういうことでしょう。まず汚れた霊たちが「黙れ」と口止めされました。この箇所のように病気を癒された人々も、またご自分の弟子たちに対してさえも、主イエスは「知らせてはならない。黙っていなさい」と度々お命じになりました。(1)弟子たちに対しては、いつまでもずっと黙っていろというわけではなく、ある一定期間の留保のようでした。なぜなら彼らは主イエス町々村々へと福音を宣べ伝えるために遣わされ、主イエスの教えを聞き、そのなさる業を目撃しながら成長し、主イエスの証人として世の果てまでも主の御業を告げ知らせる者たちとされるのですから。やがて他の人々や権力者たちから厳しく禁じられ、口を封じられようとしてもなお彼らは誰はばかることなく口を開いて、「イエスこそ救い主である」と公けに宣べ伝えはじめるからです。イエスの名によって語ることも説くこともいっさい許さないと議員たちから言い渡され、脅かされたときにも、主の弟子たちは、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(使徒4:19-20と断固として答えました。クリスチャンの基本の心得です。
 (2)癒された人々に対する口封じ命令は、少し微妙です。ゆるやかに寛大になされます。少し先の箇所ですが、死にかけ、死んでしまっていた少女を蘇らせたとき(マタイ9:18-)、その部屋へは両親と3人の弟子たちしか一緒に入ることをゆるしませんでした。けれど、少女が起き上がり、やがて家の中や外を自由に歩き回る姿を見さえすれば、そこで何が起こったのかを誰もが知ることになります。それでもなお主は、あざ笑った人々皆を家の外にわざわざ追い出してしまわれます。今日のこの箇所でも、「誰にも何も話さないように」。しかし彼は大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めました。そうせずにはおられなかったのです。また例えば悪霊に取りつかれたゲラサの墓場に住む男を癒してあげたとき、彼にこう仰いました。「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなに憐れんでくださったか、それを知らせなさい」。あの彼は、自分の家族や親しい友だちだけではなく、その地方一帯に主イエスの御業を言い広めはじめました。言わずにはおられませんでした。井戸の傍らで出会ったサマリヤ人の女性の場合にも、まったく同じでした(マルコ5:19-,ヨハネ4:28-
  (3)汚れた霊たちやサタンに対しては、主イエスはご自身の正体を決して証言させませんでした。いくつか理由がありますが、とくに主イエスを信じる信仰は、触れたり見たり聞いたりする具体的な事実に立って人々の心のうちに芽生えるようにと主ご自身が願っておられたことです。弟子たちも、そのように福音を宣べ伝えつづけています。後で、洗礼者ヨハネから使いの者が送られてきて、「もっと詳しく教えてほしい」と要求されたとき、主イエスは、あなたが見たこと聞いたことをそのまま報告しなさいと仰いました(マタイ11:4-6)。十字架にかけられる前夜の最高法院での裁判の際にも、主イエスの証言は淡々として、あまりに率直でした。大祭司は問いかけました、「あなたは神の子キリスト(=救い主)なのかどうか、生ける神に誓って我々に答えよ」「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マタイ26:63-64)。それゆえ、汚れた霊やサタンがくどくどと主の正体を言い立てようとするとき、「黙れ」と。この私たちに対しても、「神の国が近づき、すでに来ている。見て、信じなさい」と招きます。しかも今では、主イエスご自身は私たちに何も口止めなさいません。もしかしたら、この信仰のことを快く思わない、煙たがる人々があなたの周囲にいるかも知れません。あなたの夫や妻が、息子や娘や孫たちが。大切な一人の友だちが。私たちは、もう口止めされていません。もし、あなたがその人に大切なことを精一杯に告げてあげたいと願う場合、どうしたらいいでしょう。例えばこうです。「十字架につけて殺され、神が死人の中からよみがえらせた復活させられたナザレ人、イエス・キリスト。この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである。・・・・・・神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(使徒4:10-20)

        ◇

 さて、主イエスが大勢の群衆と共に山を降りて来られると、重い皮膚病(*)を患っている一人の人が主イエスのところに来て、ひれ伏して願いました。主イエスは、この人の願いを受け入れ、病いを癒してくださいました。この人の病いは、病気それ自体として厳しく辛いだけではなくて、生きてゆく現実生活をさまざまに制限し、追い詰め、苦しめました。その病気を恐れ、毛嫌いし、軽蔑する社会のしくみの中で、この小さな一人の人は退けられ、片隅へ片隅へと押しのけられ、心細さの只中に暮らしていました。今、主イエスのところへ来て、ひれ伏して願い求めています。「主よ、御心でしたら、(わたしを)清めていただけるのですが」。主よ、あなたがもしそう願い、そのように決断してくださるならば、それならば、この私はあなたによって清くされるのです。どうぞ、お願いいたします。
  「御心でしたら」というこの人の願い方に、私たちは驚かされます。神さまへの従順と服従の心得だからですし、私たちが主イエスから直々に教えられ、よくよく知っているはずの弁えだからです。十字架におかかりなる前の晩、主イエスは祈りました。「どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし私の思いのままにではなく、御心のままになさってください」(マタイ26:39)。あれしてください。これもこれもしてください、これはやめさせてくださいと私たちは神さまに何をどれほど願っても良い。しかも、それらの願いに加えて、「しかし私の思いのままにではなく、御心のままになさってください」と。神さまへの信頼と服従。だからこそ、その分だけ、私たちは自由です。これが、キリストの教会と私たちクリスチャンの基本の心得であるはずでした。胸が痛みます。ぼくは恥ずかしくなります。習い覚えているはずのことをすっかり棚上げして、神さまの御心を片隅へ片隅へと押しのけ、「したいしたくない。好きだ嫌いだ。気が進む、進まない」などと自分の欲望と願いと自分の腹の思いばかりを先立てて暮らしている自分自身に。あるいは生身の教会の生臭すぎる現実に。神さまへの信頼と従順を見失ってしまうとき、私たちはどこまでも転がり落ちていきます。だから、ここで目を凝らさねばなりません。不思議なことにこの人は、身を屈めて主を仰いでいます。御心ならば、と。もし御心に叶うならば。つまり、御心に叶わないならば、していただかなくて結構です。私の願い通りではなく、あなたの御心にこそ従います。主イエスは、「あなたが癒されることが私の心だし、私の願いだ。そうなりなさい」と。主こそが、こんな私のためにさえ最善を願ってくださり、私にとっての最善を決断してくださる。しかも私は、主がそのように真実に願い、決断してくださる方だと知っている。だから、ここに来た。だから、主イエスの御前に膝を屈めている。この人の神さまへの一途な信頼と従順を、ぜひなんとかして、この私たち自身のものとさせていただきたい。
  4節のつづきです。「誰にも何も話すな」と仰りながら、けれど祭司に体を見せ、清められたものの感謝の献げものをささげて証明しなさい、と指図なさいます。彼は、これまでその病気を患っているという理由で、これまで社会から排除されて生きてきました。病気が治り、体が回復するだけでは足りません。社会の大事なかけがえのない一人であることもまた、回復されねばなりません。何を証明しましょうか。誰に、証明しましょう。あの彼も、ここにいる私たちも、主の憐れみを受けた者です。その憐れみによって立ち上がり、足を踏みしめて立ち、歩く者とされました。受けた憐れみは、私たちの歩みの出発点にすぎなかったのでしょうか。最初の、ほんのちょっとしたきっかけでしょうか。いいえ。その後は、それ以前と同じく、自分自身の責任と自分の決断と自分の努力によって歩んでいるでしょうか。自分の力にこそ頼って、日々の悪戦苦闘を勝ち抜き、立っているでしょうか。いいえ、決してそうではありません。いったい何を証明しましょう。「気の利いた、立派なあれこれを」ではありません。「私はあれが分かっている、これもこれもできる」ではありません。「私は」ではなく、「神さまこそが」。「私が何をしたか何ができるか」ではなく、「神さまがこんな私のためにさえ何をしてくださったのか」。苦しむ人を助けるために、主イエスは手で触れる場合があり、手で触れない場合もありました。遠く離れたままで、「清くなりなさい。治りましたよ」とただ言伝を頼むだけの場合さえ。けれどあの彼の場合には、手を差し伸べる者が他には誰もいませんでした。誰も彼もが、その手を引っ込めました。だから わざわざ手を差し伸べ、その手でじかに触れてくださる必要があったのです。神であられる方が、どのようにして手を差し伸べることができたでしょう。高い所におられる方が、にもかかわらず低く身を屈めさせられた者たちにその手を本当に届かせる。そのためには、主は低く低くくだって来なければなりませんでした。地を這うような絶望、心細さを味わいつづける人々がいます。あのときの彼らの中にも。今ここにいる私たちの間にも。主は本当に手を届かせるために、自ら捨て去られ、恥を受け、軽蔑され、退けられ、痛みに身を委ねねばなりませんでした。

  ここで私たちは改めて、クリスチャンであることの広々とした土台を差し出されています。あの彼のように私たちも、主イエスのもとへと来るようにと勧められました。主イエスを信じるようにと。主イエスを信じて、そのことを拠り所として毎日毎日の暮らしを生きるようにと。主イエスに寄りかかり、重荷と悩みと心細さのすっかり全部をお任せして、安心して憩うようにと。主イエスにこそ信頼を寄せ、恐れを拭い去っていただくようにと。この世界には落とし穴や思いがけない災いや苦難が満ちています。しかも私たち自身は身も心も弱く乏しい。それでもなお主イエスとが共にいてくださるなら、私たちには乏しいことがない。私たちの魂は何度も何度も生き返らされ、恐れを吹き払いつづけていただける。聖書は証言します、「わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル手紙4:14-16。大祭司キリストは、この私たち一人一人のためにも善い業を成し遂げてくださろうとして準備万端です。なぜ? 主は、私たちを愛してくださっているからです。主は、私たちへのその愛を成し遂げて実を結ばせることができるほど、十分に強く真実なかただからです(ローマ手紙 5:6-10, 8:31-39,ヨハネ手紙(1)4:9-12,讃美歌461番「♪ 主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ」を参照)。しかも主は、困難なことの多い世界の只中で私たちが心細く、乏しく暮らしていることをよくよくご存知だからです。

2016年5月24日火曜日

5/22こども説教「シモンのしゅうとめのために」ルカ4:38-41

 5/22 こども説教 ルカ4:38-41
 『シモンのしゅうとめのために』

4:38 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。39 そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした。             (ルカ福音書 4:38-41)

  もうすぐ主イエスはシモン・ペテロ(=「ペテロ」は岩という意味のアダ名。主イエスが彼にこのアダ名を付けた。ヨハネ福音書1:42とその仲間たちと出会い、彼らを弟子にします5:1-11。彼らの顔を見る前から、弟子にすることを決めておられました。シモンの家に立ち寄ったのも、たまたまではありません。もし仮に彼女のために誰一人も「熱を下げてあげてください」とお願いしなくたって はじめから、熱を出して寝込んでいたしゅうとめを癒してあげるためでした(*)
  遠い昔に神さまを信じる旅へとアブラムとサライが招き入れられたとき、彼らは「国を出て、親族に別れ、父の家を離れて」、そのようにして主なる神さまに従いはじめました。漁師たちや取税人が主イエスの弟子とされたときにも、彼らは、「舟も網も父親も後に残して」、手ぶらで、主イエスに従いました(創世記12:1,マタイ4:18-頼りになる後ろ盾や相談相手や支えや、役に立つ仕事道具がないほうがよかったのです。どうして、何のために? 主イエスにこそ聞き従い、困ったことや難しい悩み事があるときには主イエスにこそよくよく相談に乗っていただくために、主イエスをこそ頼りにし、頼みの綱として新しく生きはじめるためには。それでも、弟子になるために家族や仲間や友だち皆とすっかり縁を切って、というわけではありませんでした。例えばアブラムとサライには、おいのロトとその家族がついてきたし、主イエスの弟子たちの場合にも、父は後に残してきたのに漁師たちの母親はどうしたわけか主イエスに従う旅にいっしょに参加していました(マタイ20:20を参照)。しばらくして取税人のマタイを弟子にしたときにも、取税人仲間たちとお別れパーティを開きましたし、その後も彼の仲間たちと主イエスとの親しい友だち付き合いがつづきました。あの彼らも、ぜひ主イエスと出会わせてあげたかったからです。その中から、主イエスを信じる者たちが一人また一人と起こされていきました(ルカ15:1-3,マタイ9:10,21:32を参照)。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31という約束のとおりです。ですから、シモンのしゅうとめの病気を癒してあげたのは、しゅうとめのためでもあり、やがて主の弟子となるシモンのためでもありました。主イエスは彼女の枕元に立って、熱が引くように命令すると熱は引き、しゅうとめはすぐに起き上がって、彼らをもてなしました。主イエスに仕える働きは、一個のキリスト教会としても一人一人のクリスチャンとしても、いつもこのようです。主イエスに感謝する気持ちで、皆をもてなしました。主イエスに喜んでいただきたくて、皆の世話をしたり、親切にしてあげたり、誰かを助けてあげたりもします。ずいぶん後になって、主イエスからこう打ち明けられました。「喉がカラカラに渇いている人にコップ一杯の水をあげてくれたね。病気の人を見舞ってくれたね、牢獄に訪ねてくれたね、腹が減っている人に食べさせてくれたね。見知らぬ小さな一人の人にしてくれたこと。それら皆は、この私にしてくれたことだ。ありがとう、とても嬉しかった」(マタイ10:42,25:34以下を参照)と。


【割愛した部分の補足】
(*)四つの福音書からの、すこしずつ違う報告。例えば、「しゅうとめの癒し」と「シモンたちを弟子とすること」について、ルカ福音書は癒しが先、マタイとマルコ福音書では弟子とすることが先に報告されています。例えば十字架上の主イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」発言を、マタイとマルコは報告し、ルカとヨハネは報告しませんでした。しかも 聖書の内容に十分な信頼を寄せることができるかどうかが、この信仰の決定的な分かれ道になります。なにしろ、神について知るための、ほぼ唯一の情報源なのですから。聖書自身の中に、互いに食い違い、矛盾し合う内容が他にも多数。聖書全体としては何をどう語っているのかを的確に判断できなければ、道に迷いつづけます。あるいは聖書を棚上げして、それぞれ好き勝手に気の向くままに、絵空事の神を思い描きつづける他ないでしょう。それでは、あまりに虚しい。エチオピア人の宦官と主の弟子とのやりとりを思い出せますか。「読んでいることがお分かりですか?」「いいえ。誰かが手引きしてくれなければ、どうして分かりましょう」(使徒 8:30-31)。聖書全体の本意を受け止めるためには、適切な道案内や手引きや地図がどうして必要なのです。
実は、それぞれの福音書は主イエスの十字架上の死後30年ほども後になって書かれました。初めには、ただ主イエスの行動と発言の簡単な備忘録のようなものがありました。やがてキリスト教への迫害が強まり、主イエスの最初の弟子たちが年老いたり、殉教したり行方不明になったりしていき、放置すれば大切な出来事の記憶がすっかり失われてしまいかねませんでした。そこで、弟子たちは『福音書』という形で記録をまとめはじめました。教会会議で全66巻の聖書正典が決められていきました。人間たちの会議を用いて、そこに神さまご自身の御心が働きました。人間たちの手や働きが用いられながら、そこに神さまの御心が過不足なく十分に示されている。その意味で、『聖書は神の言葉である』と信じられ、重んじられています。ですから四つの福音書はそれぞれ矛盾したり、順序や内容が少しずつ食い違う報告を含みます。一つの出来事が四つの視点・角度から見つめられているからです。創世記1章と2章、また列王記と歴代誌などもまた互いに同じような関係にあります。生身の人間たちの手と言葉が用いられて、互いに補い合いながら、神さまの一つの現実やお働き、神さまの御心が報告されています(⇒イザヤ書55:10-11,ヨハネ福音書5:39-40「聖書の中に永遠の命があり、しかも聖書は主イエスについて証言をしている」,20:30-31「(ヨハネ福音書だけでなく聖書66巻全体は)イエスが神の子キリストであると信じるため、信じて、イエスの名によって命を得るために書かれている」,テモテ手紙(2)3:14-17「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれ、人を教え、戒め、正しくし、義に導く。それによって神を信じて生きる人が、あらゆる善い技に対して十分な準備ができて、整えられた者になるために書かれた」)。




 ◎とりなしの祈り 
 イエス・キリストの父なる神さま。神さまの御心によくよく信頼を寄せ、従順に聴き従って生きる私たちにならせてください。なぜなら救い主イエスが、「私の平和をあなたがたに与える」「その平和があなたがたにあるように」と仰ったからです。罪の責任を問うことなく、私たちをゆるし、私たちを主イエスの平和の使者としてくださったからです。「神さまと和解させていただきなさい」と、この私たちのためにも何度も何度も仰ったからです。
 ですからまず私たち自身に、神さまとの平和を取り戻させてください。ほんのささいなことにも一つ一つ目くじらを立て、頑として言い張ったり、ついついトゲトゲしく振舞ってしまう私たちの心の狭さと罪深い思いを、どうか憐れんで、取り除いてください。主イエスからの平和を、私たちの頑固さや臆病さにこそ十分に注ぎかけてください。そのためにぜひ、へりくだった、低くてやわらかい心と聞き分ける耳を、この私たちにもぜひ贈り与えてください。そのあとで、広い世界と様々な人々の様々な暮らしにも私たちの目を向けさせてください。なぜなら主よ、おびただしい数の人々が置き去りにされ、片隅に押しのけられつづけているからです。九州のとても大きな地震と、それだけでなく5年前からつづいている東日本震災被災者たちのはなはだしい苦境。他にも、貧しく心細いままで放って置かれている人々がたくさんいます。またとくに、米軍基地を押し付けられ、いまだに植民地扱いされ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちと、その彼らをないがしろにしつづける身勝手な私たちとを憐れんでください。この国の政府はいつものように「断固、厳重に抗議する」と、口先では、国民の前では言い続けながら、けれど奇妙なことに 同様の事件が相変わらず、この70年間ずっと同じく繰り返されつづけています。このあまりに惨めで悲惨な現実に、どうか私たちの目と心を向けさせてください。私たちの都合のために、彼らをいけにえに差し出しつづけて良いはずがないからです。とても悪いことだからです。どうか今日こそ、ただ自分自身と家族と親しい仲間たちのことばかりではなく、また自分の国や民族や自分自身を愛する以上に、その千倍も万倍も、他の国と他の民族を尊び、隣人を尊び、神さまの御心をこそ心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして愛し尊ぶ者たちとならせてください。神さまのお働きに信頼し、それをこそ願い求め、あなたの慈しみの御心に従って生きる私たちであらせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


5/22「家と土台」マタイ7:24-29,ヨシュア4:15-24

                                     みことば/2016,5,22(主日礼拝)  60
◎礼拝説教 マタイ福音書7:24-29/ヨシュア記 4:15-24    
日本キリスト教会 上田教会
『家と土台』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
7:24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。           (マタイ福音書 7:24-29)


 
  救い主イエスは山に登り、語りかけつづけておられました。聖書の神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるのか。隣人や職場の同僚や家族との、普段のいつもの付き合い方。毎日の暮らしをどう建てあげてゆくことができるのかという根本問題について。つまりは、神からの律法の本質と生命についてです。まず24-27節。主イエスは、二種類の家を私たちの前に並べて見せます。よく見比べてみるようにと。一方は、土台なしに建ててしまった家です。もう一方は、しっかりした十分な土台と基礎の上に建て上げられた家です。これら二種類の家は、外見上はとてもよく似ていて、見分けがつきません。けれど雨が降り、洪水や津波や地震が押し寄せ、風が強くその家に打ちつけるとき、二つの家の違いは誰の目にもはっきりしてしまいます。しかも、私たちの地域にも間もなく雨が降りはじめ、あなたや私の家にも強い風がひどく打ちつけはじめます。今日では様々な人々が救い主イエスの説教を聞いています。悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るようにと促されます。主イエスとその福音を信じるように。清い暮らしを送るようにと。すると、ある人々はただ聴くだけで満足せずに、実際に、神さまへと腹の思いも普段のあり方も向け返し、実際に、主イエスとその福音を信じて暮らしはじめ、実際に悪い行いをすることを止め、善い働きをすることを習い覚えはじめます。その人々は、耳を傾けて聴く人々であるだけではなく、聴いたことを実際に行い、そのように暮らしはじめる人々だったのです。この人々こそが、うっかりと土台なしに家を建ててしまう者ではなく、しっかりした十分な土台と基礎の上に自分の家を建て上げてゆく、とても幸いな人々です。なんということでしょう。
  私たちのほとんどは大工さんではなく、建築の専門家でもありません。けれど、それぞれに家を建てています。小さな子供たちも中学生や高校生たちも、悪戦苦闘しながら懸命に自分自身の家を建てており、おじいさんおばあさんになってもなお家を建てつづけています。建物のことではなく、その中身です。例えば、一個のキリスト教会が家です。一つの家族も家です。キリスト者の一つの生涯も、建て上げられてきた一軒の家に似ています。私たちは一つの家族を築き上げ、建てあげていきます。一軒の家を建てあげてゆくように、毎日の生活を生きてゆきます。私たちそれぞれのごく短い生涯も、それぞれ一軒の家を建てあげてゆくことに似ていますね。私たちの手に委ねられている一つ一つの働きも、家を建てることに似ています。そっくりです。さあ私たちは、この私自身は、どんなふうに築きあげてゆきましょうか。屋根をどんな形にしようか。壁を何色にしようか。間取りや玄関周りをどうしようか。どんな家具を揃えようか。――いいえ。それよりも何よりも、なにしろ家を建てるための土台こそが肝心要だ、と主イエスはおっしゃるのです。地面を深く深く掘り下げ、大きな岩の上に土台をガッチリと据えて、そこに、あなたの家を建てあげてゆくならば。そうであるなら、大洪水になって川の水が押し寄せてくるときにも、激しい雨や嵐にも、あなたのその大切な家は少しも揺り動かされず、ビクともしない。私たちの人生が平穏であるとき、家の土台がどうなっているか、耐震強度がどのくらいかなど誰も気にも留めません。何の問題もないように思えます。この上田教会も。それぞれの職場や家庭生活も。夫婦や親子の関係も。子供たちを養い育てることも。先々のための私たちの蓄えも。けれど不意に突風が吹き荒れます。川の土手があまりにたやすく崩れ落ち、濁流が荒々しく押し寄せます。私たちの日々が脅かされるとき、その時に、苦労して建てあげてきた大切な家の土台が何だったのかが問われます。
 26-27節。砂の上に家を建てた愚かな人。倒れ方がひどかったそのあまりに脆い家。でも、なぜ、彼らは《土台なし》に家を建ててしまったのでしょう? 驚くべきことに、やがていつか川の水があふれて押し寄せるというだけでなく、神の民とされたイスラエルは、わざわざ自分から進んで大水の中に入って行かされました。まず葦の海の中へ。次には、ヨルダン川の中へと(出エジプト記14:1-31,ヨシュア記3:1-。奴隷にされていたエジプトの国から導き出され、ヨルダン川を渡って、ついに約束の土地に辿り着いたとき、川床から取った12個の石が積み上げられました。その12個の石は、信仰教育のための教材とされました。その石を見て、子供たちが、父さん母さんに質問するのです。「どこの河原にでもあるようなこんな普通の石に、どんな意味があるの。どうして、ここにわざわざ置いてあるの」と。そのとき子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いた所を渡ったと、あなたは話して聞かせなさい。「いいかい、○○ちゃん、よく聞いてね。あなたたちの神、主は、あなたたちが大きな深い川を渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、私たちが葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じだったんだよ。それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、主の御手の力強いことをあなたも知るためであり、また、あなたたちがいつもいつでも、あなたたちの神、主を敬うためだったんだよ」(ヨシュア記4:23-参照)と。あのとき何が起こったのかを、覚えておきましょう。ヨルダン川を渡ろうとして、キャンプ地をみんなで後にしたとき、神さまとの契約の石の板を入れた箱を祭司たちが担ぎました。そして、皆の先頭に立ちました。ちょうど春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤防を越え出てきそうなくらいに、いっぱいになっていました。箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる泥水は、はるか遠くのザレタンの隣町で壁のように立ったのです。それは、ちょうど葦の海を渡った40年前とそっくり同じでした。すべてのイスラエルが干上がって乾いた地をわたって行く間、主の契約の箱を担いだ祭司たちはヨルダン川の真ん中の干上がって乾いた川床に立っていました。人々が渡ったのも、契約の箱を担ぐ祭司たちが立っていたところも、ドロドロのぬかるみではなく、乾いて干上がった川床でした。大慌てで走ってではなく、歩いて渡ったのです。ここが大事。だって、そうでなければ、体の丈夫な、泳ぎの達者な何人かしか渡れなかったでしょう。けれどイスラエルの人々の中には、杖をついて手押し車を押してゆっくりゆっくり歩くおばあさんたちがいました。膝や足腰がギシギシ痛むおじいさんたちがいました。つい先ごろ危ない手術をしてやっと退院してきたばかりのおじさんもいたし、風邪をひいている人もいたし、お腹の大きなお母さんもいたし、小さな子供たちや赤ちゃんもいたのですから。すべてのイスラエルとは、そういうことです。その全員が渡り終えて、川の向こう岸では、出席者名簿を見ながら一人一人の名を呼んで点呼して、安全確認係の人が「はい大丈夫です。みんな全員いま~す」と告げるまでの間、その間ずっと契約の箱を担いだ祭司たちは、川の真ん中の干上がった川床に立ち止まりつづけました。何のために? 他の誰よりも、まず祭司たちこそが知るためです。つまずいたりよろめいたりする人に手を貸してあげるためというよりも、むしろ、踏みしめて立っている自分自身の足の裏をつくづくと見つめるためにです。『大水の底を皆が渡りきるまで、私たちの神、主が川の水を涸らしてくださった。主の恵みの御手は力強い。私たちの足の裏は、川の真ん中の干上がって乾いた川床を踏みしめている。本当にそうだ』と、年寄りも大人も小さな子供も皆でよくよく知るために。
  防災・避難用具の袋の中に、懐中電灯やラジオやペットボトルの水や乾パンなどと一緒に、このギルガルの12個の石が入っています。各家庭に一個ずつ。何週間かあとの礼拝後、「この避難訓練の意味はいったい何なんだろう?」と誰かが聞くかも知れません。「わざわざ、こんな面倒なことをして。だいたい、避難袋の中のこの小石は何。この、どこにでもあるような河原の小石が何の役に立つのさ」などと。そのときに、めいめい隣同士で、こう互いに答えます。「川の流れはせき止められた。イスラエルはヨルダン川を乾いた地にされて渡ったのだ」(ヨシュア記3:17,4:7,22-23)と。そう、私たちの手元にあるのは、ヨルダン川の干上がって乾いた川床で拾ったギルガルの石です。一人一冊ずつの聖書も、ギルガルの石。それぞれ心に刻んできた聖書の一節も、大切に口ずさんできた大切な讃美歌も、一回一回の礼拝も祈りも、あのパンと杯も、その一つ一つはヨルダン川の真ん中で干上がった乾いた川床から持ち帰ってきたとても大切な石です。厳しく辛い出来事が私たちを襲い、心淋しく惨めな思いを噛みしめる日々に、その石を見つめて私たちは問いかけます。その石自身が私たちに答えます。「川の流れはせき止められた。イスラエルはヨルダン川を乾いた地にされて渡った。紅海を乾し涸らして渡らせていたときと同じだった。あなたの足の裏は、乾いた土地を踏みしめて立っていた。あの時だけでなく、川の流れは何度も何度もせき止められ、私たちは大水の底の、けれども乾いて干上がった所を渡りつづける。今もそうだ。それは私たちが主の慈しみの御手が力強いことを知るためであり、いつでもどこでもどんな辛さと悩みの只中にあっても、いいえ、そこでこそ私たちの神、主を敬うためである」と。

       ◇

 実は、どこもかしこも、ひどく危うい川べりの砂地に建った家でした。けれども、類稀な、他のどこにもいないお独りの建築家がいたのです。倦むことなく、黙々と、その建築家は土台を据えつづけます。しかも最良の揺るぎない土台と建築材料を惜しげもなく注ぎ込んで。長い歳月が流れました。その、ただお独りのとても良い建築家は、今も土台を据えつづけます。むしろ救い主イエスは、「どんな家か。土地は岩場か、砂地か」などと家や地質を選ぶことをなさいませんでした。どこにでも、そしてどんなに傾きかけた危うい家にも土台を据えつけようとされ、どの家の下にも堅い磐石な岩を据えつけようとされました。そのお独りの建築家には願いがあったからです。どの家も確固として建てあげたい。あなたのその大切な家もぜひ、と。家を建ててくださるのは、主ご自身です(127:1)。家の土台を据えつけてくださるのも、主です。「私が建てる。あなたのためにも、この私こそが格別な土台を据えつける」と、主がおっしゃいます。断固として、そのように約束してくださいました。だからこそ家を建てあげようとする私たちの労苦は、むなしくはない。決して、むなしくはない。困難は突風のように吹きつけ、泥水のように押し寄せます。私たちを取り囲み、押し倒そうと迫ってきます。台風が近づいています。いいえ、もう暴風雨圏内に巻き込まれています。それなら私たちは、今こそ呼ばわりましょう。「どうぞ、私を助けてください。私の家が今にも倒れてしまいそうです」と。「主よ主よ。私たちの願いどおりではなく、ただただ天の御父の御心にかなうことを成し遂げてください」と。拠って立つべき根源の土台に、今こそ、あなたはしがみつきなさい。見栄も恥も外聞もかなぐり捨てて。主にゆるされ、主のあわれみを受け、主に助けられる場所へと、あなたは大慌てで駆け戻って、そこに身を置きなさい。いつでも、どこからでも駆け戻って、そこに身を据え置きなさい。

深い大水の底にいたはずなのに、けれど不思議なことに、その場所は干上がって乾いています。泥水が押し寄せようとして、けれど川の水はせき止められています。干上がって乾いた川床に、あなたは足を踏みしめています。なんということでしょう。なにしろイエスを主とするあなたであるからです。神の民イスラエルの子供たちよ。主の呼び声が聞こえ、私たちはついにとうとう、まるで初めてのようにして、聞き届けるでしょう;「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である」(イザヤ43:1-3)

2016年5月17日火曜日

5/15こども説教「主イエスに権威と力がある」ルカ4:31-37

 5/15 こども説教 ルカ4:31-37
 『主イエスに権威と力がある』

4:31 それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、32 その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた。33 すると、汚れた悪霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、34 「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。35 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った。36 みんなの者は驚いて、互に語り合って言った、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。 (ルカ福音書 4:31-36

  故郷の村ナザレを離れて、主イエスは、安息日に別の町の礼拝堂で汚れた悪霊にとりつかれていた人を助けてあげました。34-35節です。とりついた人の中から悪霊が主イエスに向かって叫びかけます。「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。主イエスは悪霊を叱りつけて、「黙れ、この人から出て行け」と。悪霊は、「黙れ」と言われたので黙り、「出て行け」と言われたので出て行きました。主イエスが悪霊に命令したのは二つのことでした、「黙れ」と「この人から出て行け」と。悪霊に黙れと命令したことは少し分かりにくいですね。汚れた悪霊はこのおかたが救い主であり、神の聖者だと分かっていました。本当のことですが、悪霊にはそのことを話させませんでした。悪魔や悪霊なんかによって知らせてもらわなくたっていいからです。『主イエスこそ救い主であり、神の独り子であり、私たちと世界の王様だ』と多くの人が知ることができたらいいのですけれど、もっと素敵な、もっとちゃんとした嬉しい知り方があるからです。神さまご自身こそが、この私たちにも、ちゃんとよくよく知らせてくださいますから。荒野で誘惑を受けたときにも、悪魔から「この世界の権威と栄華をあげよう」と誘われて、けれどキッパリ断りました(ルカ4:5-。それとよく似ています。悪魔を拝んだり頼りにしなくても、悪魔から手助けしてもらわなくても、神さまこそが教えてくださいます。
  そこにいた人々は驚きました。悪魔や、汚れた悪霊さえこの方に従う。それほどの力と権威をもったお方だと。やがてしばらくして、湖の上では波や風さえもが「黙れ。鎮まれ」(マルコ4:35-,6:45-と叱られて主イエスに従います。とても大きくて強い権威と力ですね。いいえ 悪魔や汚れた悪霊や湖の波や風が主イエスに従うだけではなく、主イエスを信じて生きる私たちさえもが、このお独りのお方によくよく聞き従って生きるようになっていきます(*)。「黙れ」と言われれば黙る。「出て行け」と言われれば出て行くし、どこまでも出かけてゆく。「しなさい」と言われてばする。「これだけは、してはいけません」と言われれば、しない。やがて、まだまだしばらくして、最初の聖霊降臨日の少し後に主イエスの弟子たちは、「主イエスのことを一言も喋ったり教えたりしてはいけない。ひどい目にあわせてやるぞ」と役人や警察や偉い議員たちから厳しく叱られ、脅かされました。そしたら涼し~い顔をして、こう答えたのです。「神に聞き従うよりもあなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。もちろん私たちはとっくに判断して腹をくくっています。いくら脅かしたって言いなりになんかされませんよ。私たちは神さまにだけ聞き従います」(使徒4:19-20を参照)。わおっ とうとうあの弟子たちも、主イエスの権威と力のもとに生きることをしはじめました。

【割愛した部分の補足】
(*)主イエスの権威と力のもとに生きること。やがて、神によって造られた全世界のすべての被造物がその権威のもとに安らかに従うときが来るとして、けれどそれは主イエスを信じるこの私たちクリスチャン一人一人から始まるでしょう。救い主イエスにこそ全幅の信頼を寄せ、聴き従って生きる私たち。そこに、希望と力があります(マタイ福音書11:27「すべての事は父からわたしに任せられている」,28:18「わたしは天においても地においても一切の権威を授けられた。だから」,ヨハネ福音書3:35「~万物をその手にお与えになった」,ローマ手紙14:9,エペソ手紙1:20-22,ピリピ手紙2:9-11,ペテロ手紙(1)3:22ほか)。


5/14「その実によって分かる」マタイ7:15-23

                   みことば/2016,5,15(聖霊降臨日の主日礼拝)  59
◎礼拝説教 マタイ福音書 7:15-23                    日本キリスト教会 上田教会
『その実によって分かる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

  7:15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。                                  (マタイ福音書 7:15-23)


 
 5-7章にかけて、主イエスは山の上でひとつづきの長い長い説教をしつづけました。神からの律法の本質とその生命についてです。神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるか、人との普段の付き合い方、毎日のいつもの暮らしぶりという根本問題について。『良い行い』によって救われるのではなく、ただ救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、ただただ恵みによってだけ救われた私たちです。「ただ恵みによってだ」と言うなら、行いや普段の暮らしぶりはどうでもいいのか。思い通りに、気の向くままに暮らして、良い行いをしなくてもいいのか。いいえ 決してそうではありません。もしそうであるなら、その信仰は無意味であり、あまりに虚しい、中身のない、ただ形ばかりの口先だけのものに成り下がってしまいます。では、どう生きたらいいのか。どう生きることができるのか。
 まず、15-18節。つづいて、21-23節。語られていることははっきりしています。15-18節では、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶと告げられます。もし、あなたや私がとても良い格別な木に結ばれているとするなら、当然、良い実を結ぶはずであると。その通りですね。私たちが普段いつもの暮らしの中でどんな実を結んでいるのか。胸に手を当てて、しばらく考え巡らせてみると、その実態が思い出されてきます。あるいは自分自身ではよく分からなくても、身近に接している連れ合いや親や子供たちや、職場の同僚たちや近所の人たちには、すっかりお見通しです。「ああ、あの人はああいう人だ」と。――正直な所、この私自身は自分の胸が痛みます。とても痛みます。お詫びをしたいような、情けないような、あまりに惨めなような、申し訳ない気持ちになります。皆さんはどうですか? 21-23節もまったく同じです。『良い行い』によって救われるのではなく、ただ救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、ただただ恵みによってだけ救われた私たちです。それでもなお、だからといって、私たちがとても短気で怒りっぽかったり、臆病で生狡かったり、身勝手で意固地で頑固でありつづけていいのか。あまりに自己中心で、冷淡で、思いやりの薄い、了見の狭い人間でありつづけていいのか。いいはずがない。いいえ、「救われた者たちはその結果として、感謝と慈しみの実を結ばないはずがない」(ハイデルベルグ信仰問答,問64を参照)と断言されています。良い働きをしつつ生きて死ぬ私たちとなることができる。神さまが必ずそうしてくださる。これが、クリスチャンであることの希望です。
  だからこそ最初から、よくよく語り聞かされつづけてきました。例えば洗礼者ヨハネは、すでに長い間神さまを信じて生きてきたはずの神の民に向かって、「まむしの子らよ」とわざわざ呼びかけました。アブラハムの子孫だからと内心自惚れていた彼らに向けて、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている」(マタイ福音書3:7-11悔改めにふさわしい実を結べ。この私たちもまったく同じです。一人一人のクリスチャンも、もちろん牧師も、長老も執事も皆が同じく命じられています、「悔改めにふさわしい実を結べ」と。主イエスを信じて生きはじめた最初のときに洗礼を授けられたのは、悔い改めるためです。聖晩餐のパンと杯を飲み食いしつづけているのも、毎週毎週の礼拝説教かなりきびしい言葉を聴きつづけているのも、聖書を開いて読んでいるのも讃美歌を口ずさむのも祈るのも皆すべて、悔い改めつつ毎日の暮らしを生きるためです。聖書が告げるところの『悔い改め』は、180度グルリと神へと向き直ることです。あり方も腹の思いも何もかも。人間のことばかり思い煩って、そのあまりに神を思う暇がほんの少しもなかった在り方から、神さまへと立ち返って生きるために。罪のゆるしを得させる悔い改めであり(ルカ福音書3:3、そのための洗礼、パンと杯、一回一回の礼拝であり、讃美歌を歌うことであり、祈りです。もし仮に、人間中心の在り方を捨て去って、神さまへと思いもあり方も向け返すのでなければ、一体どこに、どんな救いや祝福や幸いがあるというのでしょう。「悔い改めよ、天国は近づいた」と洗礼者ヨハネは呼ばわり、救い主イエスご自身も、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マタイ福音書3:2,マルコ福音書1:15。悔い改めて福音を信ぜよ。人間のことばかり朝から晩まで思い煩っていた、あまりに生臭いあなたや私が、とうとう思いを向け返して、神さまの御前で、神さまを思いつつ生きることができる。それこそが『福音』の入口であり、福音の中身そのものでさえあったのです。
  21節「わたしに向かって『主よ主よ』と言う者がみな天国にはいるのではなく、ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけが入るのである」。容赦のない、あまりにきびしい言葉です。けれど私たちは、この言葉をよくよく聞き入れなければなりません。もちろんこの私自身も、皆さんがたお一人お一人も、あまりに心が生半可(なまはんか=中途半端で、中身があまり伴っていないこと)であるからです。「『クリスチャンもキリストの教会も罪人の集団にすぎない。生涯ずっと罪人でありつづける』と教えられてきた。だからいいんだ。ずっと罪深いままで、ずっと自分勝手で強情で頑固で狡くて臆病なままで」などと、あぐらをかいて座り込んでしまいやすいからです。いとも簡単にただ形だけ、ただ口先だけの、体裁を取り繕うばかりの中身のないクリスチャンになってしまいやすいからです。冒頭で、「にせ預言者を警戒せよ」と促されていました。もちろん、それは第一には牧師のことです。日曜日の午前中に格調高く雄弁に、また感動的に語る説教者であるとしても、家に帰って家族を泣かせたり暴力を振るったり声を荒げるようでは、すっかり水の泡です。自らを制し、慎み深く、寛容であって人と争わず、子供たちをよく養い育て、自分の家をよく治め、二枚舌を使わないことが要求されつづけます。「私を見なさい。金銀はないが、ナザレの人イエス・キリストの名によってこの私自身も立ち上がり、歩いている」という暮らしを朝も昼も晩もしていることが要求されます。そうでなければ、ただの見せかけだけのクリスチャンです(テモテ手紙(1)3:1-7,テトス手紙1:6-9,使徒3:6参照)。しかも伝道者だけではなく、すべてのクリスチャンのことです。なぜなら洗礼を受けたクリスチャンは皆、預言者、教師の役割を主から委ねられているからです。自分の家族や職場の同僚たちや友だちや近所の人々に対して、神ご自身と神の言葉を指し示し、手ほどきするようにと命じられているからです。やがて主の弟子の一人がこう告白します。「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。・・・・・・わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させる。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」(コリント手紙(1)9:23-27。「自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」と主の弟子は、自分自身の滅びをまざまざと予感して、恐れました。自分の心と体を打ちたたいて、神さまにこそ服従させる。そうでなければ、ほかの人々に宣べ伝えておきながら、自分は福音にあずかり損ねてしまうかも知れない。この自分自身は失格者になってしまうかも知れないからと。その通り。あなたも、この私自身も失格者になってしまい、神さまの福音にあずかり損ねる。有り得ます。自分の心と体を打ちたたいて神さまに無理やりにでも力づくででも服従させようとしつづけねばならないのは、反逆する強情で頑固な性分を、罪と肉の思いを、この私たち自身が根強く抱えているからです。

  ――ここまでの所を割り引くことなく、文字通りに真っ正直に、私たちは受け止めねばなりません。さて、その上で、19節と23節の根本的な問題を解決しなければなりません。「良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。ヨハネ福音書15:2-6でも、よく似た内容が告げられました。「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさる。・・・・・・人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」。
  ここで、はじめの問いに戻ります。私たちは、どのように救いに入れられ、あるいは滅びに落とされるのか。どういう判断基準と条件なのか。私もあなた自身もそれぞれ一本の木であるとして、ことごとく切られて、すでに火の中に投げ込まれましたか。あるいは、近々そうされると宣告されていますか。もし、そうではないとして、それは良い実を十分に結んだからでしょうか。これから多分結ぶだろうと見込まれているからでしょうか。主イエスは、あなたのことを「知らない」と仰るでしょうか。それは不法を働いたり、あるいは、そうではなかったからでしょうか。三日でも四日でも、何ヶ月も何年でも、よくよく考えてみるに値します。
  私たちは『主よ主よ』と呼ばわりつづけてきました。けれど正直な所、御父の御旨をどれほど行ったと胸を張って主張できるでしょうか。かなり行ってきたと? 「ほどほど、まあまあ、人並みには」などと答えることができますか。いいえ、とんでもない あまり行いませんでした。御父の御心をぜひ行いたい、行おうと願い求めることさえ、ほとんどありませんでした。良い実を、この私たち自身はどれほど結んできたでしょうか。あるいは悪い実を。恥ずかしいほどです。ただただ恐れ入るばかりです。申し訳ないことです。神さまに対しても、家族に対しても、連れ合いや子供たちや近所の人々に対しても、友人たちに対しても、職場の同僚たちに対しても。この国の同胞たちに対しても。この国に住む外国人たちとその家族に対しても。後から来る若い世代に対しても。ぜひともなすべきことをせずに来ました。してはならないこと、口に出して言ってはいけないことを言い、心の中でも外でも隣人に対して怒り、馬鹿者、愚か者と言い、軽々しく裁いたり、見下しました。殺人の根を心の中で育てつづけ、ひそかな殺人を犯しつづけました。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、わたしの神、主を愛することが願われていました。わたしの隣人を自分自身のように愛し尊び、その人に及ぼうとする災いを力の及ぶ限り防ごうと精一杯に立ち向かうことを、この私はしませんでした(ハイデルベルグ信仰問答 問105-107を参照)それでもなお、にもかかわらず、主はこの私たちの枝を折ることも火に投げ込んで燃やすこともなさいませんでした。「主など知らない」と何度も何度も主を否んだ私を、主は「お前を知らない」とは仰いませんでした。この私たちは、土地を無駄に塞ぎつづけるばかりでなかなか良い実を結びませんでした。「切り倒してしまえ」という声が何度も何度も聞こえてきました。ただお独りの園丁がおられて、こう仰るのです。「待ってください。まわりを掘って肥料をやってみます。雑草や茨をむしり、水をやり、悪い鳥を追い払い、土を耕し直してみます。もう一年もう一年、もう一年」(ルカ福音書13:6-9参照)。この稀有な、ただお独りの園丁のおかげで、この私は、私たち全員は、今日こうしてあるを得ております。心から感謝をいたします。





2016年5月9日月曜日

5/8こども説教「とても怒って、皆が救い主を殺そうとした」ルカ4:18-30

5/8 こども説教 ルカ4:18-30
 『とても怒って、皆が救い主を殺そうとした』
+駅前アピール『日本の軍隊は国民を守るのか?』

4:21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。23 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。・・・・・・27 また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。28 会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、29 立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。30 しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。 
 (ルカ福音書 4:21-30)

 救い主イエスは自分の故郷であるナザレ村でも同じように、安息日に礼拝堂に入って聖書を朗読し、その説き明かしをしました。読み上げられたのは18-19節に記されていて、イザヤ書61章のはじめの部分です。主イエスは聖書に書いてある事実をそのまま語り聞かせただけなのに、礼拝堂でそれを聞いていた故郷の人々は全員がひどく腹を立てました。あまり腹が立って憎らしくて仕方がなかったので、町外れの崖っぷちまで無理矢理に主イエスを引きずっていき、突き落として殺してしまおうとしたほどです28-29節を参照)。どうして殺したいほどにも腹を立てたのか、何がそんなに気に入らなかったのか。
 18-19節で神さまからの恵みを差し出されていた相手は、「貧しい人。狭い場所に無理矢理に閉じ込められている人。見るべきものが少しも見えていない、分かっていない人。へこたれている人」たちでした。ワア嬉しいと大喜びするためには、「この自分はとても貧しい」と分かる必要がありました。「狭い場所に無理矢理に閉じ込められている私だ。見るべきものが少しも見えていないし、分かっていない私だ。へこたれている私だ」と知る必要がありました。これが、誰にとっても案外むずかしかった。だって 自分は物事がよく見えているし、豊かだし、困っていないし、狭い場所に無理矢理に閉じ込められているわけでもないと大抵の人は思い込んでいます。それで自惚れたり、心が頑固になります。クリスチャンもそうです。それでたびたび迷子になり、神さまからの恵みや良い贈り物をいただきそびれました。「無学で貧しい大工ヨセフの子にすぎないのに、どうして」22節)と彼らは救い主イエスをバカにしながら驚き、「自分の故郷の私たちには、他の人々に対してよりももっと親切に、もっと沢山の幸いを与えてくれるだろう。自分たちには当然、その権利がある」23節)などと思い上がってもいました。つまり、自分が貧しいなどとは少しも思っていませんでした。物質的にも精神的にも、かなり豊かで、優れていて立派で賢くてモノの道理もよく分かっていてと思い込んでいました。そうではないと突きつけられて、だから、ものすごく腹が立ちました。相手を殺してしまいたいと思うほどにも。あの人たちはとても残念でした。神さまからの恵みの贈り物を受け取る場所に、あともう少しで辿り着けたかも知れなかったのに。
実は今でも、すっかり勘違いしている人たちが沢山います。豊かで大きな人たちのための恵みではなくて、貧しく小さな人々のための恵みです。強くて賢くてよく分かっている人々のための救いなどではなくて、弱くて愚かでちっとも分かっていない人々のための救いだったのです。ずっと語られてきた『罪人を憐れんで救う』とは、そのことでした。この自分こそが「とても貧しい。罪深い。大切なものが見えておらず、ちっとも分かっていない。狭くて小さな場所に閉じ込められている。ああ本当に」と気づくことから、そこからとうとう、『主からの恵みを受け取るとき』19節を参照)が始まってゆくからです。


 とりなしの祈り
 主よ。救い主イエスが墓からよみがえり、新しい生き方と生命を私たちに差し出しています。どうか、この私たちにも主イエスからの恵みを受け止めさせ、古い罪の自分と在り方を脱ぎ捨てさせてください。
 主なる神さま。苦しみと困難の中に置かれつづける九州の地震被災者たちと東日本震災被災者たちとを顧みてください。彼らの毎日の暮らしを支え、支援する人たちの働きを助けてください。この国はとうとう軍隊をもち、ただただお金儲けと自分たちの利益のために、世界中どこにでも出かけていって思いのままに武力を用いる国になろうとしています。そのために自衛隊員たちと家族と、海外で暮らす同胞たちの安全と生命が脅かされ、粗末に扱われようとしています。主よ、私たちを憐れんでください。米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちの怒りと苦しみに、私たちも目と心を向けることができますように。自分の国と自分の民族と同胞を愛するのと同じに、それと負けず劣らず、日本で暮らす外国人労働者とその家族を愛し尊ぶ私たちとならせてください。彼らの生活と権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせてください。貧富の差が広がりつづけ、多くの人々が貧しさと心細さにあえいでいます。富と豊かさと、目の前の自分たち自身の損得にばかり執着し、そのことに目も心も奪われつづけることから、私たちをすっかり解き放ってください。年老いた人々にも子供にも若い者たちにも、どうか神さま、生きる喜びと確かな希望を見出させてください。ですから今こそ、この世界のはなはだしい不平等と差別と悪に対して、私たちを地の塩、世の光として用いてください。この世と妥協せず、神さまの御力によって造り変えられ、心を新たにされ、何が神さまに喜ばれる善いことで、何が悪いことなのかを弁え知る者たちとならせてください(マタイ5:13-16,ローマ12:2参照)。あなたの御心にかなって生きることを、私たちに願い求めさせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




(付録)駅前アピール(5/2
「日本の軍隊は国民を守るのか?」

  ♪ (シュプレヒコール)安全を保障しない法律を廃止しよう。安全を保障しない法律を廃止しよう。憲法違反の法律いらない。要らない要らない要らない!!
 大手町1丁目の、日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。「安全保障関連法案に賛成だ」という人々もいます。ある40代後半のお母さんは、「私たちの家族を守るため、平和安全法制に賛成します」と話していました。でもお母さん、平和と安全のためだというこの法律は、本当に、私たちの大切な家族を守ってくれるでしょうか。アメリカと一緒になってどこへでも出かけていって、好き勝手に戦争できる国になることは、本当に、私たち自身や家族や子供や孫たちの平和と安全と生命を守ってくれるでしょうか。戦争をしないはずの、軍隊を持たないはずのこの国で、自衛隊はとうとう軍隊にされてしまいました。私たちの軍隊は、自分の国の国民を本当に守るでしょうか? 本当に?
  一般市民がいつもの生活の只中で戦争の現実と直面させられたことが、この国では2回ありました。70年前です。1つは、日本の領土に敵の軍隊が上陸した沖縄戦。もう1つは、満州の奥地に大勢で出かけていった満蒙開拓団の場合。「私たちの家族が、具体的にはどういう目にあうのか」ということを、そこではっきりと体験しました。日本の軍隊は、私たちを守りませんでした。例えば沖縄では、「自分たちをきっと必ず守ってくれる」と信じていた自分たちの軍隊の手によって、多くの国民が殺されてしまいました。あるいは手榴弾を手渡されて、「天皇陛下に迷惑をかけないように自分たちで死になさい」と指導され「ハイ分かりました」と、そのとおりのことが起きました。多くの沖縄県民の集団自決です。守りきれないし足手まといになるし、もしかしたら裏切ってスパイ行為を働くかも知れないしと()。例えば満州の奥地に出かけていった満蒙開拓団でも、同じことが起きました()。知ってますか。開拓団の応募者数はこの長野県が日本全国第一位で、ダントツに多かったのです。とても貧乏だったし、うまいことを言われてうっかり鵜呑みにして信じたからです。戦局が悪化し旗色が悪くなると、私たちの軍隊は、入植した日本人を置き去りにして、スタコラサッサと逃げ去りました。爺さん婆さんも病気の人もケガした人も、お母さんも子供も小さな赤ちゃんもみな見捨ててです。同じく集団自決が無理強いされました。あとになってから、「ああ騙されていた。みんな嘘だった」と気づいても手遅れです。それでは後の祭りです。私たちの軍隊は、私たちを守りません。ただただ国と大手企業の利益を守るための軍隊だからです。国の利益には、私たち一人一人が安心して平和に暮らすことなど入っていません。戦争に、良い戦争も正しい戦争もありません。それはいつでもどこでも、利益と金儲けのための侵略戦争でありつづけました。これからもそうです。私たちの軍隊は私たちを守りません。私たちの生命も安全も、また兵隊たち自身の生命も粗末に扱われ、使い捨てにされつづけます。本当のことなんですよ。それでも総理大臣と政府与党が「戦争を出来る国にぜひしたい。どうしても戦争をしたい」と言い張るとき、私たちシモジモの者は オカミが仰るなら仕方がないと言うんですか。70年前とまったく同じに。今回もまた、『天皇陛下ばんざーい』と晴れ晴れして死んでいくようにと、学校でもご家庭でも各町内会自治会でも教え込むつもりですか。小学校、中学・高校の先生方、おうちのお父さんお母さんたち。お願いします。本気で、よくよく考えてみてください。あなたの大切な子供たちや教え子たちを、無駄に人を殺したり誰かに殺されたりする戦場に、あなたは 送り込むつもりですか。そのとき私たちは、ただの被害者ではありません。悪事の片棒を担ぐ加害者であり、極悪非道な悪者達の一人です。私たち大人には大きな責任があります。
 ♪ (シュプレヒコール)安全を保障しない法律を廃止しよう。安全を保障しない法律を廃止しよう。憲法違反の法律いらない。要らない要らない要らない!! 子供を殺すな、自衛隊員をむだ死にさせるな。沖縄を粗末にするな。憲法違反の法律いらない。憲法違反の内閣いらない、憲法違反の国会議員もいらない。戦争反対、反対反対、絶対反対!!  2016,5,2 憲法のつどいin上田駅前)

            
   【資料】
       ()1945~島は戦場だった。オキナワ365日~」(2010年,琉球朝日放送)、「沖縄戦よみがえる戦場~読谷村民2500人が語る地上戦~」(2005年,NHK沖縄)、「むかしむかしこの島で」(2005年,沖縄テレビ)、「枯葉剤を浴びた島~ベトナムと沖縄、元軍人の証言~」(2012年,琉球朝日放送)、「あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~』(2015,8,11放送,NHKアニメ・ドキュメント)「よし、戦争について話をしよう。戦争の本質について……」(Oストーン, Pカズニック, 乗松聡子,金曜日出版),「わたしの沖縄戦①~④」行田稔彦、新日本出版社。
      ()「満蒙開拓平和記念館」(長野県下伊那郡阿智村駒場711-10);開拓民が入植した土地はその6割が漢人や朝鮮人の耕作していた既耕地を強制的に買収した農地であり、開拓地とは名ばかりだった。194589日ソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した。ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者47000人を除くと開拓団員の実数は223000人、その大半が老人、女性、子供だった。男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡。主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由。敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める。満州での民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、沖縄戦を凌ぐ。
   (映画)「望郷の鐘。満蒙開拓団の落日」(監督、山田火砂子)(アニメ映画)「蒼い記憶。満蒙開拓と少年たち」(監督、井崎哲)