2016年5月17日火曜日

5/14「その実によって分かる」マタイ7:15-23

                   みことば/2016,5,15(聖霊降臨日の主日礼拝)  59
◎礼拝説教 マタイ福音書 7:15-23                    日本キリスト教会 上田教会
『その実によって分かる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

  7:15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。                                  (マタイ福音書 7:15-23)


 
 5-7章にかけて、主イエスは山の上でひとつづきの長い長い説教をしつづけました。神からの律法の本質とその生命についてです。神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるか、人との普段の付き合い方、毎日のいつもの暮らしぶりという根本問題について。『良い行い』によって救われるのではなく、ただ救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、ただただ恵みによってだけ救われた私たちです。「ただ恵みによってだ」と言うなら、行いや普段の暮らしぶりはどうでもいいのか。思い通りに、気の向くままに暮らして、良い行いをしなくてもいいのか。いいえ 決してそうではありません。もしそうであるなら、その信仰は無意味であり、あまりに虚しい、中身のない、ただ形ばかりの口先だけのものに成り下がってしまいます。では、どう生きたらいいのか。どう生きることができるのか。
 まず、15-18節。つづいて、21-23節。語られていることははっきりしています。15-18節では、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶと告げられます。もし、あなたや私がとても良い格別な木に結ばれているとするなら、当然、良い実を結ぶはずであると。その通りですね。私たちが普段いつもの暮らしの中でどんな実を結んでいるのか。胸に手を当てて、しばらく考え巡らせてみると、その実態が思い出されてきます。あるいは自分自身ではよく分からなくても、身近に接している連れ合いや親や子供たちや、職場の同僚たちや近所の人たちには、すっかりお見通しです。「ああ、あの人はああいう人だ」と。――正直な所、この私自身は自分の胸が痛みます。とても痛みます。お詫びをしたいような、情けないような、あまりに惨めなような、申し訳ない気持ちになります。皆さんはどうですか? 21-23節もまったく同じです。『良い行い』によって救われるのではなく、ただ救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、ただただ恵みによってだけ救われた私たちです。それでもなお、だからといって、私たちがとても短気で怒りっぽかったり、臆病で生狡かったり、身勝手で意固地で頑固でありつづけていいのか。あまりに自己中心で、冷淡で、思いやりの薄い、了見の狭い人間でありつづけていいのか。いいはずがない。いいえ、「救われた者たちはその結果として、感謝と慈しみの実を結ばないはずがない」(ハイデルベルグ信仰問答,問64を参照)と断言されています。良い働きをしつつ生きて死ぬ私たちとなることができる。神さまが必ずそうしてくださる。これが、クリスチャンであることの希望です。
  だからこそ最初から、よくよく語り聞かされつづけてきました。例えば洗礼者ヨハネは、すでに長い間神さまを信じて生きてきたはずの神の民に向かって、「まむしの子らよ」とわざわざ呼びかけました。アブラハムの子孫だからと内心自惚れていた彼らに向けて、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている」(マタイ福音書3:7-11悔改めにふさわしい実を結べ。この私たちもまったく同じです。一人一人のクリスチャンも、もちろん牧師も、長老も執事も皆が同じく命じられています、「悔改めにふさわしい実を結べ」と。主イエスを信じて生きはじめた最初のときに洗礼を授けられたのは、悔い改めるためです。聖晩餐のパンと杯を飲み食いしつづけているのも、毎週毎週の礼拝説教かなりきびしい言葉を聴きつづけているのも、聖書を開いて読んでいるのも讃美歌を口ずさむのも祈るのも皆すべて、悔い改めつつ毎日の暮らしを生きるためです。聖書が告げるところの『悔い改め』は、180度グルリと神へと向き直ることです。あり方も腹の思いも何もかも。人間のことばかり思い煩って、そのあまりに神を思う暇がほんの少しもなかった在り方から、神さまへと立ち返って生きるために。罪のゆるしを得させる悔い改めであり(ルカ福音書3:3、そのための洗礼、パンと杯、一回一回の礼拝であり、讃美歌を歌うことであり、祈りです。もし仮に、人間中心の在り方を捨て去って、神さまへと思いもあり方も向け返すのでなければ、一体どこに、どんな救いや祝福や幸いがあるというのでしょう。「悔い改めよ、天国は近づいた」と洗礼者ヨハネは呼ばわり、救い主イエスご自身も、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マタイ福音書3:2,マルコ福音書1:15。悔い改めて福音を信ぜよ。人間のことばかり朝から晩まで思い煩っていた、あまりに生臭いあなたや私が、とうとう思いを向け返して、神さまの御前で、神さまを思いつつ生きることができる。それこそが『福音』の入口であり、福音の中身そのものでさえあったのです。
  21節「わたしに向かって『主よ主よ』と言う者がみな天国にはいるのではなく、ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけが入るのである」。容赦のない、あまりにきびしい言葉です。けれど私たちは、この言葉をよくよく聞き入れなければなりません。もちろんこの私自身も、皆さんがたお一人お一人も、あまりに心が生半可(なまはんか=中途半端で、中身があまり伴っていないこと)であるからです。「『クリスチャンもキリストの教会も罪人の集団にすぎない。生涯ずっと罪人でありつづける』と教えられてきた。だからいいんだ。ずっと罪深いままで、ずっと自分勝手で強情で頑固で狡くて臆病なままで」などと、あぐらをかいて座り込んでしまいやすいからです。いとも簡単にただ形だけ、ただ口先だけの、体裁を取り繕うばかりの中身のないクリスチャンになってしまいやすいからです。冒頭で、「にせ預言者を警戒せよ」と促されていました。もちろん、それは第一には牧師のことです。日曜日の午前中に格調高く雄弁に、また感動的に語る説教者であるとしても、家に帰って家族を泣かせたり暴力を振るったり声を荒げるようでは、すっかり水の泡です。自らを制し、慎み深く、寛容であって人と争わず、子供たちをよく養い育て、自分の家をよく治め、二枚舌を使わないことが要求されつづけます。「私を見なさい。金銀はないが、ナザレの人イエス・キリストの名によってこの私自身も立ち上がり、歩いている」という暮らしを朝も昼も晩もしていることが要求されます。そうでなければ、ただの見せかけだけのクリスチャンです(テモテ手紙(1)3:1-7,テトス手紙1:6-9,使徒3:6参照)。しかも伝道者だけではなく、すべてのクリスチャンのことです。なぜなら洗礼を受けたクリスチャンは皆、預言者、教師の役割を主から委ねられているからです。自分の家族や職場の同僚たちや友だちや近所の人々に対して、神ご自身と神の言葉を指し示し、手ほどきするようにと命じられているからです。やがて主の弟子の一人がこう告白します。「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。・・・・・・わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させる。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」(コリント手紙(1)9:23-27。「自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」と主の弟子は、自分自身の滅びをまざまざと予感して、恐れました。自分の心と体を打ちたたいて、神さまにこそ服従させる。そうでなければ、ほかの人々に宣べ伝えておきながら、自分は福音にあずかり損ねてしまうかも知れない。この自分自身は失格者になってしまうかも知れないからと。その通り。あなたも、この私自身も失格者になってしまい、神さまの福音にあずかり損ねる。有り得ます。自分の心と体を打ちたたいて神さまに無理やりにでも力づくででも服従させようとしつづけねばならないのは、反逆する強情で頑固な性分を、罪と肉の思いを、この私たち自身が根強く抱えているからです。

  ――ここまでの所を割り引くことなく、文字通りに真っ正直に、私たちは受け止めねばなりません。さて、その上で、19節と23節の根本的な問題を解決しなければなりません。「良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。ヨハネ福音書15:2-6でも、よく似た内容が告げられました。「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさる。・・・・・・人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」。
  ここで、はじめの問いに戻ります。私たちは、どのように救いに入れられ、あるいは滅びに落とされるのか。どういう判断基準と条件なのか。私もあなた自身もそれぞれ一本の木であるとして、ことごとく切られて、すでに火の中に投げ込まれましたか。あるいは、近々そうされると宣告されていますか。もし、そうではないとして、それは良い実を十分に結んだからでしょうか。これから多分結ぶだろうと見込まれているからでしょうか。主イエスは、あなたのことを「知らない」と仰るでしょうか。それは不法を働いたり、あるいは、そうではなかったからでしょうか。三日でも四日でも、何ヶ月も何年でも、よくよく考えてみるに値します。
  私たちは『主よ主よ』と呼ばわりつづけてきました。けれど正直な所、御父の御旨をどれほど行ったと胸を張って主張できるでしょうか。かなり行ってきたと? 「ほどほど、まあまあ、人並みには」などと答えることができますか。いいえ、とんでもない あまり行いませんでした。御父の御心をぜひ行いたい、行おうと願い求めることさえ、ほとんどありませんでした。良い実を、この私たち自身はどれほど結んできたでしょうか。あるいは悪い実を。恥ずかしいほどです。ただただ恐れ入るばかりです。申し訳ないことです。神さまに対しても、家族に対しても、連れ合いや子供たちや近所の人々に対しても、友人たちに対しても、職場の同僚たちに対しても。この国の同胞たちに対しても。この国に住む外国人たちとその家族に対しても。後から来る若い世代に対しても。ぜひともなすべきことをせずに来ました。してはならないこと、口に出して言ってはいけないことを言い、心の中でも外でも隣人に対して怒り、馬鹿者、愚か者と言い、軽々しく裁いたり、見下しました。殺人の根を心の中で育てつづけ、ひそかな殺人を犯しつづけました。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、わたしの神、主を愛することが願われていました。わたしの隣人を自分自身のように愛し尊び、その人に及ぼうとする災いを力の及ぶ限り防ごうと精一杯に立ち向かうことを、この私はしませんでした(ハイデルベルグ信仰問答 問105-107を参照)それでもなお、にもかかわらず、主はこの私たちの枝を折ることも火に投げ込んで燃やすこともなさいませんでした。「主など知らない」と何度も何度も主を否んだ私を、主は「お前を知らない」とは仰いませんでした。この私たちは、土地を無駄に塞ぎつづけるばかりでなかなか良い実を結びませんでした。「切り倒してしまえ」という声が何度も何度も聞こえてきました。ただお独りの園丁がおられて、こう仰るのです。「待ってください。まわりを掘って肥料をやってみます。雑草や茨をむしり、水をやり、悪い鳥を追い払い、土を耕し直してみます。もう一年もう一年、もう一年」(ルカ福音書13:6-9参照)。この稀有な、ただお独りの園丁のおかげで、この私は、私たち全員は、今日こうしてあるを得ております。心から感謝をいたします。