2016年8月30日火曜日

8/28こども説教「岩の上に土台をすえて家を建てる」ルカ6:46-49

 8/28 こども説教 ルカ6:46-49
 『岩の上に土台をすえて家を建てる』
   +上田駅前アピール 『伊方原発、いますぐ止めよう』8/26

6:46 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。                  (ルカ福音書6:46-48)

 恐ろしいことが主イエスの口から語られています。ですから小さな子供もずいぶん長く生きてこられたはずの大きな大きな大人も、語られている中身を本気になって真剣に聞き取らねばなりません。二種類のクリスチャンがある、と主イエスはおっしゃいます。一方は、「主よ主よ」と祈ったり、あがめて見せたりするだけで、ちっとも主イエスの教えに聴き従って生きていこうとしない、ただ口先だけ、ただ形だけのクリスチャン。もう一方は、主イエスのもとに来て、主の言葉を聴き、ただ聴いただけではなく、そのように毎日を暮らしてみようとする者(*)。もし、主イエスの言葉に聴き従って生きようとするなら、洪水が出て水が激しく打ち寄せても、その人の建てた家はビクともしない。けれどもしそうではないなら、その人は土台なしで土の上に家を建てた人のようになる。嵐になって大水が押し寄せるとき、その人が苦労して建てた家もその人自身も、かんたんに倒れてしまうし、ひどい目にあう。信じたことも生きてきたことも水の泡になってしまうかも知れない。信じる信じないは、その人が自分で自由に選び取ります。信じてもいいし、信じなくてもいい。けれどもし、せっかく主イエスを信じるならば、ぜひとも『丈夫な家を建てるように信じたい』のです。困ったことや厄介事が次々と起こるときにも、その人の信仰がその人自身と家族を救うほどの。主を信じる信仰に守られて、心強く生きて死ぬことができるほどの、そういう信じ方をしたい。
  さて、神さまのことを『主よ』と呼びかけます。つまり、『主人である神さま。主にこそ信頼を寄せ、主にこそ一途に聴き従って生きてゆく、主人の召し使いである私たち』。これこそが、このキリスト教信仰の最も中心にある基本的な在り方です。とくに、キリスト教会と一人一人のクリスチャンは、『主イエス』と短く呼びかけつづけています。主人であるイエス・キリスト。主イエスにこそ信頼を寄せ、主イエスにこそ一途に聴き従って生きてゆく、主人の召し使いである私たちである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」と告げられて、「はい」と私たちは信じました。「ナザレ人イエス・キリスト。このかたによる以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」と教えられ、「はい」と信じました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」と問い詰められ、「はい。もちろん、神さまにだけ聞き従います」と私たちも腹をくくりました。重荷を負って苦労している者は来いと招かれて、来てみました。主イエスから、「わたしのくびきを負うて、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」と指図され、その指図どおりに主イエスのくびきを負って、主イエスに精一杯に学びつづけています。しかも今、神さまこそが私たちの味方です(コリント手紙(1)12:3,使徒4:10-12,4:19,16:31,マタイ福音書11:28-30,ローマ手紙8:31-39,27:1-5。だから、とんでもない台風がきても、津波や洪水や、ものすごい地震が襲ってきたとしても、それでもなお私たちの家は大丈夫です。ビクともしないでしょう。

     【補足説明】
     (*)勘違いしやすい、難しい箇所です。『良い行いによってではなく、ただただ恵みによって、主イエスを信じる信仰によってだけ救われる』と口を酸っぱくして、クドクドと教え込まれます。しかもなお、良い行いがどうでもいいわけではない。『悪人がただ憐れみを受けて救われます』が、もし仮に一生涯、ずっと同じく意地悪で自分勝手で、ずる賢くて、他人を困らせたり苦しめるだけの人間でありつづけるならば、神を信じて生きことに何の意味があるでしょう。虚しいだけではありませんか。順序が逆です。良い行いによって救われるのではなく、救われた者はただ神さまからの恵みによって、良い行いをしつつ生きる者へと新しく造り替えられていきます。感謝の実を結ばないはずがない(ローマ手紙 6:1-18,8:1-17,ハイデルベルグ信仰問答 問60-641562年)。ここに、神を信じて生きることの確かな希望があります。






  上田駅前アピール(8/26
『伊方原発、いますぐ止めよう』

  大手町一丁目の日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。先日の熊本大地震のとき、大規模な地震がずっと続いて、震源地のすぐ傍らにあった川内原発(せんだい・げんぱつ。鹿児島県薩摩川内市)を「危ないから地震が収まるまででいいから、止めてくれ」と大勢で頼んでも、知らんぷりされました。四国、愛媛県の伊方原発(いかた・げんぱつ。愛媛県西宇和郡伊方町)は細長~い半島の付け根から5kmに建てられていて、その先っぽの、原子炉までわずか1kmそこそこに5000人の住民が暮らしています。ことが起きれば、放射能はすぐにも彼らに襲いかかるでしょう。この5000人の住民は逃げることも隠れることもできません。「事故が起きたら私たちは死ぬしかない」と彼らは言い、「大丈夫大丈夫。何の心配もしていませんよ」と言いながら、真っ青な顔をしてガタガタブルブル震えて暮らしています。置き去りにされる予定のその5000人の中には、私たちと同じように小さな子供や小中学生、高校生も、赤ちゃんを抱えた若い家族も大勢含まれています。そんなこと、わたしには関係ないんですか。どうでもいいんですか。住民たちは必死に抗議をしましたが、涼しい顔で、その伊方原発もこの8月12日に再稼働されてしまいました。どんな避難計画があるのかも聞いておられますか。愛媛県がバスを手配するそうです。県は今年の4月にバス組合などと原発災害時の救助協力に関して覚書を交わしました。もし放射能漏れがとても少なければ、運転手は協力するそうです。けれど放射能漏れが危険な程度になればもちろん運転手は協力できず、救助のバスも走りません。原子力発電所より奥の方に住んでいる5000人は原発のすぐ近くを通って避難する計画ですが、「もし大急ぎですぐに避難すれば避難が終わるまで放射能はすぐには漏れ出さないらしいから、多分、大丈夫らしい」と言っています。福島第一のとき、翌朝になっても事故が起こったことを知らない住民がたくさんいました。福島ではメルトダウンまで約2時間でした。もっと早くそれが起こるかも知れません。そのとき、もし津波で港が使えず、土砂災害で半島の付け根が通行止めになれば、住民の大半が逃げ場のない缶詰状態になります。そんなこと、わたしには関係ないんですか。どうでもいいんですか。事故が起きても、「想定外。想定外」と口ずさみながら、その5000人の人々を見殺しにするほかないのに。「公益」にも「自分の損得」にも、彼らの人権も安全も生命も勘定に入っていません。小さな子供も赤ちゃんも、中学生、高校生も大人も年寄りもたくさん暮らしていますが、彼らの安全も生命もどうでもいいと思っているのです。国家も都道府県も、原子力規制委員会も、電力会社も、そして危ない場所から遠く離れて安全に暮らしている私たち長野県民も。
  ♪ 伊方原発、今すぐ止めよう。川内原発も今すぐ止めよう。再稼働反対。再稼働反対。再稼働、犯罪。再稼働、犯罪 伊方町の5000人を見殺しにするな。伊方原発、今すぐ止めよう。川内原発も今すぐ止めよう。再稼働、犯罪~っ。再稼働、犯罪


      【参考資料・解説】
       (1)you tube 2016,7,31公開) NNNドキュメント 『避難計画で原発やめました』 ;必見 廃炉になった米・ショアハム原発と愛媛県伊方原発の対照。同じような細長い地形に立地するのに、なぜ真逆の結果に。
       (2) 元の民主党の最後の総理大臣、野田佳彦(のだ・よしひこ)さんは、福島第一原発事故から9ヶ月後の201112月に「今回の原発事故は収束しました。皆さん安心してください」とTVで喋りました。嘘っぱちでした。あの原発事故はいまだに収束していません。今後共、50年たっても60年たっても収束する見込みもメドもまったく立っていませんから、決して安心しないでください。溶け出た危ない燃料棒がどこに落ちているかのか捜すことも拾い集めることもできず、収束する見込みもメドもまったく何も立っていない現状です。水をジャブジャブジャブジャブかけて冷やしつづけるしかできません。お手上げです。その結果、大量に生み出される高濃度の放射能汚染水を太平洋の海に垂れ流しつづけています。政府も電力会社も原子力規制委員会も誰一人も責任を負おうとしない無責任でいい加減で自分勝手な原子力発電所を、次々と再稼働させ、小さな子供や大勢の家族をそのまま危ない場所で暮らさせつづけていいのかどうか。しかも、私たちのこの国は小さな島国。愛媛県西宇和町伊方町の、あの細長い佐田岬半島そのままです。逃げることも隠れることもできず、置き去りにされ缶詰状態にされる彼ら5000人は、明日の私たち自身の姿です。自分の息子や娘や孫に対しても、後から来る新しい世代に対しても、この私たちには、担うべき大きな責任があります。大人としての私たちの責任です。
  (3)他の人々もほぼ同様ですが、とくに、すべてのキリスト教会と一人一人のクリスチャンは、この世界で起こるすべての領域のすべての出来事に対して果たすべき責任があります。もちろん、政治や社会状況なども含めてです。この世界を造った、生きて働いておられる神が、上に立つすべての大小様々な『権威』をお立てになりました(ローマ手紙13:1-2。この世界をより良くし、支え、保つためにです。けれど、『神によって配置されたはずの権威者たち』は、しばしば暴君と成り下がり、責任と義務を果たさず、その力を私物化して、はなはだしい悪事を働くこともあります。小さく弱い者たちをないがしろに扱い、搾取し、押しのけることもあります。多くの国の国家権力も、私たちの国でも同様です。主イエスご自身が、容赦なく警告しています。主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。・・・・・・もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう」。そのときキリスト教会とクリスチャンとは、救い主イエスに率いられて、『王。祭司。預言者』の職務を帯びて彼らに立ち向かいます。『神によって配置されたはずの権威者たち』が正しく健全に務めを果たすように、彼らを諭すこともします。預言者ナタンがとんでもない悪事を働いたダビデ王の前に立ち塞がったように。洗礼者ヨハネが領主ヘロデを諭したように(マタイ福音書24:45-51,サムエル記下12:1-15,ルカ福音書3:19-20)。この私たちも。


8/28「主ご自身こそが語り、支え、救い出す」マタイ10:16-23

                                      みことば/2016,8,28(主日礼拝)  74
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:16-23                      日本キリスト教会 上田教会
『主ご自身こそが語り、支え、救い出す』
                                           ~指図と心得.(2)

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:16 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。・・・・・・19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。21 兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。             (マタイ福音書 10:16-22)



 先週の1-15節のつづきです。主イエスのもとから町々村々へと弟子たちが送り出されていきました。手ぶらで出かけていき、「天国が近づいた。この家に平和があるように」7,12節)と祈れと指図されて。あの最初の12人と、この私たちクリスチャンとは同じ心得と同じ指図を授けられて、主イエスのもとから送り出されえてゆきます。それぞれの家族のもとへ、住んでいる地域やいつもの職場へと。そこで主イエスの弟子として一週間ずつ暮らします。日曜日毎に主のもとへと立ち返り、また主のもとから送り出され、立ち返りと、そのようにして心得と指図を確認し、改めて心に深々と刻み込みながら、一週間、また一週間と生きてゆく私たちです。
  また、「手ぶらで出かけてゆけ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」8-10節)とも指図されました。それと今日の箇所とは、どこがどう結びつくのでしょう。16-18節、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである」。蛇はどういうふうに賢かっただろうか。鳩は、どこがどう素直だろうかなどと思い悩みはじめると、すっかり訳がわからなくなってしまいます。むしろ、16節の『羊を狼の中に送る』という一言。これで、すっかり分かります。936節で、主イエスは「群衆が飼う者のない羊のように弱り果て、倒れているのをごらんになって、彼らを深く憐れんだ」と。だからこそ、弱り果て倒れている羊たちのための「働き人」をと。それは、直ちに『羊飼いの役割を担って働く羊たち』です。そして送り出す際の指図、106節、「イスラエルの家の失われた羊たちのところに行け」。『羊飼いの役割を担って働く羊たち』として、失われた羊たちのところへ行き、捜し出し、弱ったものを強くし、病気にかかり傷ついたものを手当し、良い羊飼いである救い主イエスのところへ連れ帰ること。これこそが、あの最初の時も今も変わらず、『羊飼いの役割を担って働く羊たち』がなすべき働きであり、
この私たちにゆだねられている使命です。
  日曜学校の夏期学校で『羊飼いと羊』のことを話してきたばかりなのですが、神さまが羊飼いであり、その神さまに養われる一匹一匹の羊である私たち。しかも羊である私たち人間の中に、ほかの羊たちの世話をし、養う『羊飼い』の役割が委ねられました。牧師だけでなく、長老や執事だけでなく、すべてのクリスチャンが他の羊たちの世話をし、互いに養いあう『羊飼い』の役割が委ねられています。このことが大事です(エゼキエル書34:1-31,23,イザヤ書40:10-11,53:6,ルカ福音書15:1-7,ヨハネ福音書21:15-19,ペテロ手紙(1)2:24-25を参照)。すると『羊飼いの役割を担って働く羊たち』はすでに必要なだけ十分にいるはずなのに、なお今日でも、はぐれて迷子になり失われつづけている羊たちが大勢おり、おびただしい数の、弱り果て、倒れている羊たちがいるのはどうしたわけでしょう。すべてのクリスチャンは、自分は養われ世話されるはずの羊であると知っているだけでなく、他の羊たちの世話をし、互いに養いあう『羊飼い』の役割がこの私にも委ねられていると気づく必要があります。「収穫は多いが働き人が少ない」9:35と嘆かれていた理由はそこにありました。だから収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。その通りです。すでに送り出されている働き人が目を覚まして、「ああ。私も失われた羊たちや、弱り果て、傷つき、倒れている羊たちのための働き人たちの一人であり、羊飼いの役割を担って働く羊の一匹だった。うっかり忘れていた。かえって逆に他の羊を押しのけて迷子にしてしまったり、意地悪したり、乱暴に扱ってケガをさせたりしていた。これは申し訳ないことだった。あの羊たちや神さまに対しても、この私こそがまったくお詫びのしようもない」と。さて夏期学校のキャンプで、「羊は、私たちクリスチャンだけのことですか?」と良い質問を受けました。もちろんクリスチャンだけではなく、人間様だけでもなく、神によって造られたすべての生き物たちこそが『失われた羊たち』です。天と地とその中にあるすべて一切が、イスラエルの家とその羊たちです。なぜでしょうか。憐れみ深い神さまによって救われるべき対象、憐れみの及ぶ範囲を思い巡らせてみてください。世界創造の7日目に神は、ご自身によって造られたすべてのものを自分のものとし、祝福なさったのです。ノアの大洪水後には、「すべての生き物と救いの契約を立てる」と神は断言なさり、神の民の出発に際して、「あなたによって地のすべてのやからは祝福に入る」と約束されたからです(創世記2:1-3,9:10-17,12:1-3,ローマ手紙8:18-22。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう」(ヨハネ福音書10:16と救い主イエスご自身もおっしゃいました。天と地のすべて一切を造った神であり、その当然の帰結です。自分が失われた羊の一匹であることをまだ知らない、おびただしい数の羊たちが残されていることを、飼い主がいないかのように弱り果て、倒れている憐れな羊たちのことを、この私たちは覚えておきましょう。私たちクリスチャン全員もまた、今では『羊飼いの役割』を託されてもいるからです。すると、『羊飼いの役割を担って働く羊たち』としての賢さや素直さをこそ、よくよく思いめぐらしてみるべきでしょう。送り出してくださった良い羊飼いである主イエスの御心にかなって働き、暮らしていこうとする賢さであり、主イエスに一途に目を凝らし、耳を傾け、信頼を寄せつづける素直さである他ありません。

  23節の末尾に目を向けてください。「よく言っておく。あなたがイスラエルの町々を回り終えないうちに、人の子は来るであろう」。福音書の中で、主イエスはご自身のことをたびたび『人の子』と言い表しつづけます。主イエスご自身のことです。覚えておくべきことは、ご自分が出かけていこうとしている町々村々に、この私たちを先立って送り出しておられる、つまり私たちが送り出されたその所々に、その家や、そのいつもの職場に、その町々に、主イエスご自身が後から来られる ということです。しかもやがて弟子たちを送り出す際に、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼(=せんれい。バプテスマ)を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20と太鼓判を押してくださったではありませんか。この私と、いつも共にいてくださると肝に銘じつづけましょう。それは大きな励ましであり、私たちの拠り所であり、同時に、私たちの襟を正させ、背筋をピンと伸ばさせます。なぜなら私たちが足を踏みしめて立っている場所は、どこで何をしていても何もしていなくたって、誰と一緒のときにもただ独りで過ごす日々にさえ、エルサレムの城門の只中でありつづける。なぜ? 本当に? 主イエスご自身が私たちのための主の家であり、しかも私たちはそれぞれ主が宿ってくださる主の家とされているからです(コリント手紙(1)3:16-17,6:19,(2)6:16)。だからこそ、名も無き祈りの人は気づきました――

       キリストはこの家の主人であり、
   いつもの食卓の目に見えないお客であり、
   私たちのいつもの何気ない会話やお喋りの一つ一つに
   黙って耳を傾けつづけておられる方です。

やがて私たちは衆議所や公民館、町内会自治会館に呼び出され、裁判所や警察署に引き渡され、ムチ打たれたり、脅されたり、はずかしめられたり、長官や王たちの前に引き出されます。聖書に書いてあるとおりに。「あかしをするためである」18節)とはっきり告げられています。主イエスの弟子であることのあかしであり、具体的には、良い羊飼いである主イエスのもとから、彼の権威のもとに送り出された『羊飼いの役割を担って働く羊たち』の一員であることの証しです。そうであるならば、何の心配も後暗さも引け目もまったくありません。19節以下。何をどう言おうかと心配しなくてもいいそうです。言うべきことは、その時に授けられる。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。また私たちは、主イエスの名のゆえにすべての人に憎まれるであろうと予告されています。悪い大臣ハマンの時代のエステルとモルデカイとユダヤ同胞たちのように(エステル記3:1-4:17。あるいは、豊臣秀吉から江戸時代へとつづいた長い長い迫害の時代のキリシタンたちのように。主を信じる兄弟姉妹たち、恐れてはなりません。恐れるに足りません。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」22節)からです。
  最後まで耐え忍ぶ者は救われる。このことを、はっきりと説き明かしておきましょう。『最後まで耐え忍ぶことができたので、だからその者は救われる』ということではなくて、『すでに救われているので、だからその者は最後まで耐え忍ぶことができる』。つまり順序が逆なのです。すでに神によって愛され、神の民として選び出され、救われ、支えられ、養われつづけているので、だから 主イエスを信じるその一人のクリスチャンは最後まで耐え忍ぶことができるのです。すべて一切は、ただただ神さまの憐れみにだけかかっています。憐れんでくださる神であり、憐れみを受けた私たちである。だから、この私たちもまた、様々な困難や厄介事や悩みと苦しみが次々と待ち構えているとしてもなお、きっと必ず最後の最後まで耐え忍ぶことができます。神さまこそが、それをこの私たちのためにも成し遂げてくださいます。
 多くの時代が流れて、けれどなお神の民とされた私たちの悪戦苦闘の日々は続きます。1人のお母さんは家計簿を眺めながら思い悩みます、「今月のやり繰りをどうしたらいいだろう。子供たちの学資や養育費や、私たちの老後のための蓄えは」と。1人のおばあさんは思案します、「このごろ耳が遠くなった。膝も腰も痛い。私の骨粗しょう症と糖尿と高血圧をどうしたらいいのか。せめて、血圧最高値を162まで引き下げなければ」と。1人の悲しく淋しいクリスチャンは失望します、「頼りにしていたあの人がこう言う。この人もこう言う。誰も分かってくれない。誰も私の力になってくれない」と。不思議なことです。神の民は、いつもごく少数でありつづけ、自分たちの小ささ、弱さ、貧しさをつくづくと思い知らされました。しかも主は、私たちを愛してくださっており、その愛はとても強いので、だからたとえ私たちが弱くても乏しくても貧しくあっても、なお恐れはない。主は、「我らの弱さを知りて憐れむ」(讃美歌4613122節を参照)お方だからです。しかも私たちは「憐れんでくださる主であり、憐れみを受けた私たちだ」と知って、主イエスを慕い求める。だから、ご覧ください。残った無力で小さい者たちは、憐れみ深い主の御前に膝を屈め、そこでこそ助けと支えを求めて仰ぎ見、立ち上がりました。「はい。私が戦います」と言いながら、あの新しい彼らは、「私ではなく、主ご自身が先頭を切って第一に戦ってくださる」と知っています。「私が担います」と言いながら、「主こそが全面的に、最後の最後まで担い通してくださる」と知っています。「主にこそ私はお任せしている」と弁えているからこそ、その新しい人は「私が引き受けます。私にお任せください」と手を挙げます。そこは晴れ晴れしていました。なにしろ神さまが大きい。なにしろ神さまこそが、他の何者よりも飛び抜けて、その千倍も万倍も強く賢くあってくださる。その膝を屈めた無力な場所こそ、この自分があるべき居場所だと思い定め、そこで彼らは、私たちの弱さを知って憐れんでくださる主イエスと出会いました。出会いを積み重ねてまいりました。私共はクリスチャンです。ここは、キリストの教会です。
 祈り求めましょう。








2016年8月23日火曜日

聖書研究「エジプトから連れ上った日から今日まで」

                    〈もくじ〉
★聖書研究
 『エジプトから連れ上った日から今日まで』
        ~神の国か、ヤラベアムの国か~
   エジプトから連れ上った日から、きょうまで彼らは 
  サムエル記上8章7-9     
   出エジプト記32:1-35   金の子牛事件   
   出エジプト記 3:7-4:12  噛み合わない対話
   出エジプト記34:29-35,コリント手紙(2) 3:3-16 聖書自身からの猛烈な反対論

説教 コリント手紙(1) 1:26-2:5
   『はずかしめられ、無力な者とされて』


                                                                                                      



 聖書研究
『エジプトから連れ上った日から今日まで』
            ~神の国か、ヤラベアムの国か~
                                     金田聖治


                   ☆あなたは神からの救いとともに、
         ほかからの救いも望みますか。
        ★いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます。
                            「上田教会こども交読文3」から

  この国でも、各地域の様々な人々のうちに、一つの独特な民族がいて、散らされ、別れ別れになっています。その法律は他のすべての民のものとも大いに異なり、また彼らは大臣にも王にも膝を屈めず、王の法律をさえ守らない(エステル記3:8-9参照)。だからこそ邪なハマン大臣も豊臣秀吉もこの独特な民族を非常に恐れ、滅ぼし尽くそうとさえしたはずでした。先祖伝来の虚しい生活からあがない出されたはずの私たちです。しかも、終わりの日まで多くの人々は「見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝してやめようとしないだろう」(黙示録9:20とも警告されています。見ることも聞くことも歩くこともできない偶像。いいえ それよりももっと遥かに救いがたく、タチが悪いのは、「見ることも聞くこともでき、歩くこともできる、つまならいことをペラペラ喋ることも達者な偶像を礼拝し、拝み」、それらに心惹かれつづけることです。お国を守った兵隊さんは死んでも決して神にはならず、平の将門も頼朝も菅原道真も神にも仏にもなるはずもなく、そればかりかモーセもヨシュアもダビデもご先祖さまのヤコブも生きていても死んでいても神にはならず、どれもこれもが神によって造られた被造物にすぎません。主の祈りの二番目の願い、『天の御父よ、あなたの御国を来たらせてください』。天の国、神の国と言われているその実体は、神さまご自身が生きて働かれるという一点にかかっています。そこでは、神さまが王様としてご自分の領地の隅々にまで目を光らせ、力を発揮し、そこに暮らす生き物たちの幸いも平安も、その王様ご自身の手腕と実際の具体的なお働きにこそかかっている。その神の国を、この地上に、私たちが生きる生活の場にどうぞぜひ実現させてください、と願い求めています。


  1 エジプトから連れ上った日から、きょうまで彼らは 
  サムエル記上8章7-9

              主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。今その声に聞き従いなさい。
(サムエル記上8:7-9

 「神さまの王国を来たらせてください、あなたこそが私たちのための王様であってください」と、願い求めなさい。わざわざ改めて命じられていますのは、神の民とされた先祖たちがそれを頑なに拒みつづけてきたからです。この愚かさをはっきりと突きつけられたのは、サムエル記上8章でした。「嫌だ嫌だ、神さまが王様だなんて。ずいぶん繁盛しているらしいヨソの国では、生身の人間を王様や天皇様として立て、神の国などではなく、人間が王様である、人間による人間のための人間のものである国を建てている。それで商売繁盛し、景気良く、羽振り良くやっているらしいじゃないか。神を王様とするより、人間の誰彼を王様や総理大臣に任命して、ヨソの国のようになりたい。神が王様であるより、人間の誰彼を王様とするほうがよっぽどましだ」。困ったなあ、と神は思われたでしょう。ついつい溜息をついたかも知れません。けれど神さまは、その願いを聞き入れました。7-8節;「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである」。エジプトから連れ上った日から今日まで。つまりモーセの頃から、ず~っとそうだった と仰るのです。目に見えない神を見えないままに信じることは難しいことでした。耳に届きにくい神の御声を、聞き取りにくいままに従って生きることは骨が折れました。それで、目の前にある人間の指導者の顔を見て、その人間の声を聞いて、それで神さまに従うことの代用品としたい。そのほうが手軽で、簡単だし。主なる神は仰いました;「わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしつづけてきた」。サムエル記上8章8節。神ご自身からの、神の民に対する厳しく痛ましい糾弾です。神への裏切りが、なんとエジプト脱出の日々からずっと続いている。それを神は忍耐しつづけて来た。人々は聞き従おうとせず、言い張りました。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」(17-20)「他の国々と同様に、私たちにも生身の王を与えよ」と民が要求したとき、これまでの背信行為と同じだと神は嘆き、溜め息をつきます。ぼくも神学生時代から20年、このことを思い巡らせつづけてきました。ええっ本当にそうだろうか。確かめてみなくちゃと。
イスラエルが「王国」だった期間は紀元前1020年から587年までの433年間続き、43人の王たちが次々に立てられ、やがてとうとう王国は滅び去りました。旧約聖書の歴史は、神を王様とすることに失敗しつづけた、長い長いつまづきの歴史です。彼らのふり見て我がふり直せ、と促されています。
 出エジプト記3章から、指導者モーセ時代が始まります。初めにはモーセ自身も自信がもてず、民も彼に信頼できませんでした。苦難を乗り越えつづけて、モーセへの信頼は育っていきました。けれど、やがて直ちに彼への信頼はゆるされる限度を越し、ふと気がつくといつの間にか彼自身も、限度をはるかに越えて思い上がっていました。


  2 出エジプト記32:1-35   金の子牛事件

                        民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「明日は主の祭である」。そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。                     
(出エジプト記32:1-6

  神の民とされたイスラエルは、私たちの先祖は、葦の海を渡りました。しかも海の中の乾いた所を通って(出14:16,22,29。それこそが、《主が主であることを知る》ために、どうしても必要なことでした。《主である》(出エジプト14:4,18);それは責任を負う者という意味です。最後の最後まで、全責任を負いとおしてくださる方。私たちの主なる神こそがそれだと。その報告、出エジプト記14章の末尾;「イスラエルはまた、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた」(14:31)ぼくは、こういう所がなんだか気にかかります。《主を畏れる》ことと《主とその僕モーセを信じる》ことは、どんなふうに折り合いがつくのでしょう。主を信じ、それと同時に、モーセをも信じるというのですね。では、主を信じることとモーセを信じることとは、何対何くらいの割合で共存するのでしょう。6対4くらいでしょうか。それとも、7対3くらいでしょうか。その二種類の信頼が一致して何の問題も不都合もないときもあるかも知れません。けれど、互いに相容れない場合はありえます。なぜならモーセも、また何かを信じようとする人々も、それぞれ生身の人間であるからです。間違った判断をしてしまうこともあり、信仰の心を曇らせて道を逸れてゆくこともありえるからです。そのとき、《主とモーセとを信じる》人々はどうするでしょう。「兄弟であるモーセよ、それは間違っている。そんなことはしてはいけない」と彼の前に立ちはだかって、モーセであろうが内閣総理大臣と政府与党であろうが、彼らの心得違いや判断の間違いや曇りを、この私たちは正すことができるでしょうか。それが、いつもの分かれ道であり、主を信じて生きて死ぬことの試金石です。
  その400年前、族長ヨセフと兄弟たちが和解したあの創世記50章でも、よく似た分かれ道がありました。兄たちはヨセフにひどいことをしてきました。間に立って執り成してくれた父親が死んでしまったら、そのヨセフに自分たちは何をされるか分からない、と兄たちは恐れました。しかもその弟は、今では絶大な権力を握ってしまったのです。ビクビクと恐れる兄たちに向かって、ヨセフは優しく語りかけました。「恐れることはいりません。私が神に代わることができましょうか」(創世記50:19)。そう、もちろんヨセフであろうが誰であろうが、人間は神に代わることなどできません。だから、ヨセフを恐れる必要はありません。さらに続けて彼は言います。「それゆえ恐れることはいりません。私は、あなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」(50:21)。ここです。「恐るな。恐るな」となだめられ、親切に慰め深い口調で語られようが、ここが急所です。兄たちとその家族全員のための安心材料は何でしょう? これからは偉大なヨセフが自分たちと子供の面倒を見てくれると思うなら、彼らはどんなふうに生きてゆくことが出来るでしょう。晴れ晴れとして心強く、安心でしょうか? いいえ。ヨセフの機嫌を損ねたら大変と、いつもいつも彼の顔色を窺って生きることになります。ヨセフが通勤途中に交通事故にでもあったら大変と、気が気ではありません。彼が万一癌や脳卒中などにでもなったら、王の機嫌を損ねて窓際に追いやられたり、クビにでもされたら、その途端に、一族郎党が路頭に迷うことになります。ね。「ヨセフが養ってくれる、だから私たちは。ヨセフが頼みの綱だ。だから」。とんでもない そういう安っぽい魂胆では、恐れも不安も拭い去ることなどできません。出来るはずがありません。頼りになる偉大なヨセフ大蔵大臣兼内閣官房長官であっても、立派なモーセであっても、彼らもまた生身の人間に過ぎないのですから。 
  さて、イスラエルの民は、「主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じる」(14:31)人々でした。十戒を授けていただくために、モーセは独りでシナイ山に登っていきました。登っていったまま、なかなか降りてきません。4040夜の長期出張です。「私たちが信じて頼りにしていたモーセは、いったいいつになったら戻ってくるんだろう。今日だろうか、明日だろうか。それとも半年後か2、3年先か」。「もしかしたら山で遭難し、足を滑らせて谷底に落ちて、死んでしまったかも知れない」。「嫌気がさして、どこかに逃げたんだろう。きっと、もう戻って来ないんだ」。
  「そうだ。良い考えがあるぞ」。親分の代理を務めているアロンのところに皆が集まってきて、こう言うのです。「さあ、わたしたちに先立って行く神をわたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなったのか分からないからです」(1)指導者モーセが失踪した。じゃあ、新しい指導者を選ぼうか。それなら、十分に健全です。ちっとも神に背いていません。けれどモーセの姿が見えなくなった途端に、神ご自身の姿も彼らの目には見えなくなった。モーセ行方不明の遥か以前から、彼らの目と心にはモーセと神は一心同体と見えていたのです。なんという心の鈍さか。うっかり「神を」と口語訳では訳してしまいましたが、「神々を」とちゃんと書いてあります。アロンは彼らに言った。「よし分かった。いい考えだなあ。あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、金の首飾りも、金の貯金箱も時計や指輪やベルトも外し、私のところに持って来なさい。」民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造りました。すると彼らは、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神である」(4)と言いました。ここでも、「神々である」と複数形です。まだ1匹しか造っていなくても、すでに彼らの目も心もくらんで3匹にも4匹にも見えたのでしょう。けれど不思議です。モーセの姿が見えなくなった途端に、彼らの目には、神の姿も見えなくなってしまいました。ご覧ください。これが彼らが造った、彼らの手による、彼らのための神々です。金の子牛。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日は主の祭りである」(5)と声高らかに宣言しました。カレンダーなんか確かめなくたって火曜日でも水曜日でも、なにしろ「明日」と言ったら明日は主の祭りの日です。彼らは次の朝早く起き、好き放題に戯れ合う、ドンちゃん騒ぎの祭りを始めました。なぜなら、これからは金ぴかの可愛い子牛が彼らの神々です。とうとう自由な時代が到来しました。彼ら好みの仕方で、彼らの都合の良いように小さな子牛が導くのですから。
  さらに長い歳月が過ぎ去って、イスラエルの王国が南と北とに引き裂かれたとき、北王国の王ヤラベアムはちょっと困りました。都合の悪いことがあったのです。だって、礼拝の場所が南王国のエルサレムの町ただ一箇所だけだったからです。すると礼拝の度毎に、国民が皆こぞって国境を越えてヨソの国に出かけていかねばなりません。困りました。「・・・・・・そうだ。良い考えがあるぞ」。ヤラベアムは飛びっきりの名案を思いつきました。ちょうど今朝も、出エジプト記32章を読んでいたばかりでしたから。あのとき、モーセが帰って来なくて途方にくれていた人々は、今の自分そっくりです。「放っておけば皆連れ立って南王国に流れ出してしまう。さあ今こそ、我々に先立って進む神々を自分の手で造ってしまおう」。どんな形の神にしようか。そうだ。やっぱりあの金の子牛だ。しかも今度は2つ造っちゃおう。そしたら2倍の効果がある。「あなたがたはもはやエルサレムに上るには及ばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたはたの神を見よ」(列王記上12:28)。ここも実際には「神を」ではなく、「神々を見よ」と書いてあります。北イスラエルの王ヤラベアムは金の子牛の像一体をベテルに、もう一体をダンに置きました。もし二体で足りないようなら、300体でも400体でも造って各都道府県、市町村と津々浦々に漏れなく金の子牛を設置しちゃおう。よっしゃあ 兄弟たち。このとき、ここで、はなはだしい悪事の責任者が誰であるのかが明らかになりました。もちろん王はイスラエル王国の責任者です。けれど彼だけが責任者なのかというと、いいえ、それは違います。王様と共に、そこに住む全員が責任者であったのです。「その子牛たちは神ではない」とほんの一握りの人々が立ち上がるなら、その国はヤラベアムの国ではなく神の国でありつづけることができます。「祭司を勝手に任命してはいけない。自分が造った子牛にいけにえをささげたり、自分で造った聖なる高台のための祭司をベテルに好き勝手に立てたり、勝手に祭りを定めたり、王であっても自ら祭壇に上って香をたいてはいけない。それは主に背いている」「荒らす憎むべきものが立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は下に降りるな」(列王上12:31-33,マルコ13:14)と、もし信仰をもって生きる1人の人間が立ち上がって叫ぶなら、その国は神の国であり続けることができたでしょう。ヤラベアムにほどほどに信頼してもいいのです。ただしヤラベアムが主に背くとき、「それは間違っている。そんなことはしてはいけない」と判断し、声をあげることのできる国民がそこにたった一人でもいるならば。主を信じ、ヤラべアムをも信じるとは、そのことです。ヨセフであれモーセであれ安倍晋三や日キの大会議長であれ、尊敬された大先輩であれ、他のどんな王様たちであれ、神に代わることなどできません。人間を神に代えることなど、決してしてはいけないのです。
  少し前に、「牧師という職業の人間に対して、私たちはどう考え、どのように付き合ったらいいでしょう」と問いかけていました。それについてのまったく正反対の二種類の判断が、私たちの教会の中にありつづけます。ある人々は、『牧師は教会の責任者であり、ボスだ。お父さんのようなリーダーだ。だから、なにしろこの人の判断に聞き従い、この人の指示に従っていく。この人の思い通りの、望むままの仕方で教会を運営していくことが良いことなのだ』と。別のほんの一握りの人々は言います。『いや、そうじゃない。その考え方は間違っている。牧師は頭ではなく、ボスでもない。父親のような権威者でもない。確かに責任を持つ者であるとしても、それはキリストに仕えるしもべとしての責任だ。聖書はそう言っていたじゃないか。私たちは皆共々に、主に仕えるしもべ同士である。主にこそ従うのだ』と。けれどなお多くの者たちは言います、『主など、いったいどこにいる。そんなもの、ただの建前じゃないか。ただのお題目にすぎないじゃないか。目に見えず、その声も聞き分けにくい。だったら、目の前にいるリーダーに従って、その人の判断に任せていくほうがずっと分かりやすく、簡単じゃないか。私たちは、主に従うことなどできない。あの人この人たちに従い、あの人この彼らに仕えていこう』と。教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことを聞いていればいい。主に従うことなど、私たちにはできるはずがない』と。こうして私たちは、信仰をもって生きることの分かれ道に立たされつづけます。牧師や長老への信頼と服従。そして主ご自身に対する信頼と服従。その二種類の信頼が一致して、何の問題も不都合もないときもあります。けれど、互いに相容れない場合はありえます。なぜなら、牧師も長老も生身の人間であるからです。間違った判断をしてしまうこともあり、信仰の心を曇らせて道を逸れてゆくこともありえるからです。そのとき私たちは、どうするでしょうか? 「兄弟である牧師。兄弟である長老たち。それは間違っている。そんなことはしてはいけない」と彼らの前に立ちはだかって、彼らの心得違いや判断の間違いや曇りを、あなたは正すことができるでしょうか。それとも言いなりにされて、長いものには巻かれろと、どこまでも流されていってしまうでしょうか。それが試金石。キリストを頭と仰ぐキリストの教会であるのか、それともヤラベアムの教会なのか。
子供たちはどんなふうに育っていくでしょう。「お父さん。あなたを尊敬しているし、とても大切に思っています。でも、天に主人がおられます(コロサイ4:1)。あなたがしていることは間違っている。それは悪いことです」と、その息子や娘たちは父親に立ち向かって行けるでしょうか。それとも、「お父さんが言うのだから仕方がない」とその妻や子供たちは言いなりになるでしょうか。主を信じ、主を主として生きる新しい世代が育つかどうか。それが、子供の親である私たちの試金石です。私たちは、キリストを主と仰ぐキリスト者です。だからこそキリスト者は自由な王であって、何者にも膝を屈めず、だれの奴隷にもされてはならず、何者にも決して屈服しません。たとえ絶大な権力を握るこの世の王や支配者たちに対しても(Mルター『キリスト者の自由』)。ここから、信仰をもって生きることの悪戦苦闘が、ついにとうとう始まります。


   3 出エジプト記 3:7-4:12  噛み合わない対話  


                モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。     (出エジプト記3:11-12

 「私は、いったい何者でしょう?」(11)と、あの彼は問い続けます。どうしてこの私がパロのもとへ行き、しかもどうしてこの私がイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのか。いったいこの私にどんな資格や素質や能力があるというのか? こんな私にはたしてできるだろうか、と。

     私は(または彼、彼女は)何ほどの者か。

「粗末な私です。いえいえ滅相もない」と慎ましいふりをしながら内心では、この私たちは 誇りたくて誉められたくて、崇められたり、チヤホヤとおだてられたくてウズウズしつづけます。私は何ほどの者か。それに対する神からの答えを探してみてください。はい、どうぞ。……いま読んでいただいた箇所に、それに対する神からの答えはありませんでした。その前のページにも、その後ろのページにも、レビ記、民数記、申命記と読み進んで目を皿のようにして念入りに探してみても、いいえ、それどころか聖書66巻をしらみつぶしに探索しても、「私は何ほどの者か」というあの彼の問いかけに対して、神からの答えを見い出すことができません。あの彼は、答えてほしかったのです。「いやあ、君はたいした人物だ。私が見込んだだけのことはある。見所も取り得も山ほどあって、つまらない教養や役にも立たないマメ知識もたっぷりで、信仰深くて敬虔でしかも学識豊かなミディアン地方への留学経験(2:15-)もあり、語学も堪能で、しかもあの高名な○○大先生の薫陶も受けたって噂じゃないか。だから君なら大丈夫。私が太鼓判を押す」などと、そういう答えをあの彼も期待しました。もし、そう言ってもらえたなら、彼の自尊心も自負心もおおいに満たされて、「じゃあ、私が一肌脱ぎましょう。お任せください」とおおいに乗り気になったでしょう。
 「私は何者でしょう?」。けれど神様は、あの彼の問いかけを無視します。知ら~んぷりして、まったく相手にしません。ほんの少しくらいは、その人が喜びそうな答えを言ってあげればいいのに。空気を読まないにも程があります。まったく失礼な神さまですね。あの彼が何者でもなく、ただの、ごく普通のどこにでも転がっている道端の石コロのような存在に過ぎないこと(マタイ3:9,ルカ19:40を参照)を、神様は百も承知なのです。たとえあなたが何者でもなくとも、それでも「私は必ずあなたと共にいる」(12)と神様は答えます。あなたがあってもなくても、なにしろ「私は、有って有る者。わたしはあるという者14節)。無から有を呼び出し、何もないところから生命も働きも、思い通りに呼び出し、きちんと成り立たせ、そこに生命を与えることができる神だ」と(ローマ4:17,ヨハネ8:58,マタイ3:9,18:47,創世記1:1-3)
 「私は何者? 何ほどの者? ねえ、鏡よ鏡、私に都合のいい私が聞きたくて聞きたくて仕方がない答えを、答えてちょうだい」とあの彼は問いかけます。神様は知らんぷりして、「いいや  私は、こういう神なんだ」と。「私は?」「いいや私は」。だから両者の対話はまったく噛み合いません。神さまが、いくら口を酸っぱくして「私はこういう者、私はこういう者」と語りかけても、気もそぞろなモーセはちっとも聞いてくれないんです。ただただ自分のことにしか興味がない自意識過剰な中学生みたいに上の空で、「ああ、私は何者、何者、何者」と。だからです。だからあの彼も、おじけたり、尻込みしたり、言い訳したりし続けます。「だって私は口下手で、照れ屋で恥ずかしがりで、人前に出ると頭の中が真っ白になっちゃって、どもったりつっかえたり」云々と。主なる神がおっしゃいます。「誰が人に口を授けたのか。話せず、聞こえず、また見え、見えなくする者は誰か。主なるわたしではないか」と。「あなたの口と共にあり、あなたの頭・あなたの脳みそとも共にあり、一つ一つ、手取り足取り教える」411-12を参照)と。
そうそう別のときには、「私は若者にすぎません。世間知らずで、人生経験にも乏しくて(エレミヤ1:6と怖気づく伝道者がいました。たしか、……エレミヤという名前の格別に臆病で肝っ玉の小さな、人の目ばかりを気に病む、オドオドビクビクした候補生でした。あのときも神さまは同じように、「若者にすぎないなどとクダラナイことを言うな。人生経験も一般常識も、事務や経理の書類仕事の経験も世渡りの手練手管もいらん。そういうことと、あなたがこれからなすべき務めとはあまり関係がない。ないわけじゃないが、それが大いにずいぶん関係あると思ったら、けっこう差し障りがある。なぜなら私は、お母さんのお腹の中にあなたを造る前から、あなたのことをよくよく知っていた。この私が、あなたを立てた。だから、彼らを恐れるな。この私が、あなたとちゃんと共にいて、この私こそがきっと必ず救い出すから」。やがて長い歳月が過ぎたあと、「若者にすぎないので」とおじけたあの若造が、もし仮に、「経験を十分に積んだ熟練者なので」と自惚れるなら、同じく厳しく叱られるでしょう。もう一度、イロハのイからやり直しです。
さて質問。この中で、口下手で引っ込み思案の、モーセ・タイプの人は何人くらいいますか?(挙手させる)。ふむふむ。じゃあね、世間知らずな自信のない、オドオドビクビクしたエレミヤ・タイプの人は? その人たちは安心です。大丈夫。4:11-12を覚えておいてください。さてその一方で、口の達者な、弁の立つ、頭の切れる、賢くて、学力優秀な気立ての良い人たちは危ない。とてもとても危なっかしいですよ。うっかり勘違いして、どこまでもどこまででも道を逸れていってしまうかも知れません。せっかく神さまを信じて、神に仕えて生きていこうと願いながら、気がつくといつの間にか神さまのことをほんの少しも思わないで、神とは何の関係もない(ご立派な)働きをする人間に成り果ててしまうかも知れません。「オレ様はかなりの者だ」とうぬぼれて、「だって私は口も達者で、学力優秀で、気立てもよく、しかも世間の荒波をくぐり、人生経験たっぷりだから」などと勘違いして、いつの間にか殿様や大先生のつもりになってしまうかも。ゴマをすったりすられたり、お調子者の若旦那になったり太鼓持ちになったり、若旦那になったり太鼓持ちになったり。サタンの誘惑に惑わされて、人間のことばかりアアデモナイ、コウデモナイと朝から晩まで思い煩って、そのあまりに、神を思う暇がほんの少しもない、ただ生臭いだけのインチキなタチの悪い俗物に成り果ててしまうかも知れません(マタイ16:23)。それは、大いに有り得ます。だから 賢くて秀でた大きな兄弟姉妹たち、どうぞ、4:11-12をよくよく覚えておいてください。


  4 出エジプト記34:29-35,コリント手紙(2) 3:3-16
  聖書自身からの猛烈な反対論
 
                        アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった。モーセは彼らを呼んだ。アロンと会衆のかしらたちとがみな、モーセのもとに帰ってきたので、モーセは彼らと語った。その後、イスラエルの人々がみな近よったので、モーセは主がシナイ山で彼に語られたことを、ことごとく彼らにさとした。モーセは彼らと語り終えた時、顔おおいを顔に当てた。しかしモーセは主の前に行って主と語る時は、出るまで顔おおいを取り除いていた。そして出て来ると、その命じられた事をイスラエルの人々に告げた。イスラエルの人々はモーセの顔を見ると、モーセの顔の皮が光を放っていた。モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた。                    (出エジプト記34:30-35

                        そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。         (コリント手紙(2)3:13-16

  出エジプト記34:29-35とコリント手紙(2)3:3-16。これこそ、全聖書中で最大級の難解箇所の1つであるでしょう。金の子牛事件をへて、ひとたび粉々に打ち砕かれた律法の石の板はもう一度授けられます。二枚の石の板をもって、二回目にモーセがシナイ山から下ってくると、なんとモーセの顔は神様ご自身の栄光を映してまばゆいばかりに、目がつぶれそうなほどにピカピカと輝いて、圧倒的な光を放っていた、と聖書は語ります。イスラエルの人々はそのあまりのまばゆさと畏れ多さに、モーセの顔を見ることも近づくこともできなかった。そこでモーセは自分の顔に覆いをかけた(翻訳の言葉がややたどたどしいせいかも知れません。少し事情が分かりにくい。30節で、「モーセの顔が光を放っていたので人々は彼を恐れて近づけなかった」。それで、対策が必要でした。33節と34節。主と相対するときにはモーセは顔覆いを外して素顔をさらし、人々と相対するときには、彼らがむやみに恐れないために顔覆いをかけて素顔を隠した。そうすると、まぶしい光が遮られて、人々は安心してモーセと共にいることができたいうのです)
  この報告に対して、当の聖書自身がやがて猛烈な反対論を述べ始めます。コリント手紙(2)3章です。「それはおかしい。すっかり勘違いしている」と。本題に入る前に、うっかり早合点してしまいそうなところを少し補って説明いたします。ここでは議論しようとしている内容をはっきりさせようとして、少し乱暴な、言葉足らずで危なっかしい言い方がなされています。まず、『古い契約』と『新しい契約』という区別や分け隔てのことです。元々あれかこれか、ということではないのです。古い契約はただ文字に仕えているだけで、新しい契約になってそこではじめて霊に仕える、霊的な務めになったのか。いいえ、そうではありません。古い契約と新しい契約、それはそもそもの初めから、『罪人をゆるして救う』というただ一つの救いの契約・約束です。二つは一つです。そのことだけは、どうしてもちゃんと分かって、腹によくよく据えておきましょう。「新約聖書の時代から、救い主イエス・キリストが来られた後から、救いの約束はすっかり新しくされた」。たしかに、そこには1つの道理があります。けれどだからと言って、聖書の最初からこの世界の初めから差し出されつづけてきた同じ一つの救いの約束を二つに切り裂いてしまってはならないのです。それでは、すっかり分からなくなります。「救い主イエスが来られたときから」。いつから? いいえ、主イエスご自身がはっきりと証言なさっています。「アブラハムが生まれる前から私はある」「私はアルファでありオメガである。はじめであり、終わりである」と(ヨハネ福音書8:58,黙示録22:13)
  あのモーセ自身もエレミヤも、口を酸っぱくして言い立てつづけました。「心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない」「主に属する者となり、心の前の皮を取り去れ。さもないと」(申命記1016-19節)。『割礼』。旧約時代の、神を信じて生きるための入門儀式=割礼は、ただ形式的なだけの儀式ではなく、ただ外科的処置ということでもなく、心を覆っていた要らない皮を切り取って、神さまに対して素直な裸の心をさらして生きはじめることでした。古い契約、新しい契約という区別を教えられてきた人もいるでしょう。けれどそれは、『神さまが人をあわれんで、ゆるして救う』という同じ一つの契約なのです。心の包皮を取り除くことも、神さまを信じて生きることも、かたくなな心を抱えた私たち人間にはとても難しいことでした。ですから、神さまご自身が低く降ってきて、ご自身の力業を発揮してくださるほかなかったのです。それが、救いの新しさでした。救い主イエス・キリストを通して、神さまと私たち人間とが改めて新しく出会いました。
  さて、モーセの顔が、あまりにまぶしく畏れ多いほどにも光り輝きはじめた。神さまからの律法を改めて、ふたたび授けられた。そのタイミングで、いったいなぜ、モーセの顔がまばゆいばかりの圧倒的な光と栄光を放ちはじめたのか? そのことを、この何年間か考えめぐらせてきました。そこへと至る必然があり、そのための準備が着々と積み上げられていった、と言うことができます。目に見えない神さまを見えないままに信じ、よく聴きとりにくい神さまの御声を聴きとりにくいままに聴き従うことは、私たちにはとても難しかった。それで、モーセのときから今日に至るまで、私たちは目に見える具体的なモノや形や制度やしきたりを要求しつづけ、目の前にいる生身の指導者たちや伝道者たちに信頼を寄せ、その人たちに親しみ、その生身の人間たちの声に聴き従うことをもって神さまに従うことの代用品としつづけました。そのほうが手軽だし、簡単で便利だし、とても分かりやすいからと。例えば、もうずいぶん昔のこと。年をとってから信仰をもったある年配の婦人はこう言いました。「神さまのことは、私よく分からないんです。姿も見えないし、声も聞こえないし、手で触ることもできませんから。だから私はこれからは金田先生を信じますよ。金田先生を毎朝拝んで、手を合わせます。だから、これをしてはいけないとかこうしなさいとか何でも仰ってください。ハイ、分かりましたアって、そのとおりに信じて従っていきますから」「ああ、そうですかア」。困りました。その人がやがて、神とそのしもべ金田とを信じるのではなくて、神さまをこそ信じ、神ご自身の御声と御心にこそ従って生きるようになるのかどうか。あるいは、ただ生身の人間にすぎない金田や他の誰彼や、自分自身の心と声に聴き従うばかりで つかの間のほんの短い一生を使い切ってしまうのか。聖書は断固として証言します;「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちは、とっくのとうに判断して腹をくくっていますけども。救い主イエス・キリスト。この人による以外に救いはない。私たちを救いうる名は、天下の誰にも与えられていないからである」(使徒行伝4:12,19)。神さまの栄光を写し出し、まばゆいばかりに顔が光り輝いている、とうっかり人々から誤解されてしまったモーセです(パウロはむしろ、「顔覆いの下に隠したものは、老い衰えて惨めになったシワだらけの醜い顔だっただろう」と冷徹に推測します。コリント(2)3:13「消え去ってゆく栄光の最後を人々に見られまいとして」と)。モーセと神様とを誤解してしまった彼らです。誤解されるままに、誤解を利用して偽装してしまったモーセです。神の栄光と権威は神だけのものであり、人間にすぎないものがその栄光と権威のおすそ分けにあずかったり、盗み取ったりしてはならなかったのです。人間は、どこまでいっても人間にすぎないのですから。聖書ははっきりと釘を刺します;「それはモーセ自身も仲間たちも、心が鈍くなってしまったからだ。顔にも目にも心にもすっかり覆いがかけられてしまったからだ。今日に至るまで覆いは取り除かれずに残っている。それはキリストにあって初めて取り除かれるのである。しかし主に向くときには、その覆いはそこでようやく取り去られる」(コリント手紙(2)3:14-16参照)と。
 心が鈍くなり、顔にも目にも心にもすっかり覆いがかけられてしまいそうだったのは、あのときばかりではありません。神によって造られた被造物(ひぞうぶつ)にすぎない生身の人間の頭に、まるであたかも後光が射して見えかけたときが実は何度も何度もありつづけました。聖書の中でも外でも、多分これからもずっと。けれどその度毎に、神ご自身の手によって冷や水がバッシャアア! と浴びせかけられつづけ、そこでようやく先祖と私たちはハッと正気に戻るのです。例えば大洪水後のノアのひどい醜態がそうでした。例えばアブラハムとサラ夫婦が何度も何度も繰り返して神の約束を疑い、不信仰に陥り、神を裏切りつづけたこともそうでした。例えば士師ギデオンの生臭い思い上がりと不信仰も、ダビデとソロモンも(創世記9:20-27,17:17-18,18:9-15,士師8:24-27,サムエル記下11:2-12:14,列王記上11:1-13。あやうく頭に後光が射しかける寸前で、皆、神から冷や水を浴びせかけられました。モーセの場合にはきわどい所でした。冷や水を浴びせられるまでになんと1500年ほどもかかって、胡散臭い後光が射しつづけたまま、今日でもモーセが神と並んで崇められてしまいかねませんでした。危ない、危ない。そうそう 山上の変貌のとき(マタイ17:1-13、粗忽者のペテロが主イエスに、「仮小屋を三つ建てましょうか。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのため」とタワ言を喋りはじめ、それを遮って、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」と御父からの断固たる指図です。仮小屋だろうが記念礼拝堂だろうが、主の祈りの家であるなら、ただただイエスのためにだけ、イエスの権威のもとにこそ建てられねばなりません。「これ(=神の独り子イエス)に聞け」とは、主イエスにだけ聞き従い、それと並べて、それの他のなにものにも聞き従わないという意味です(使徒4:10-12,19,ヘブル手紙 1:1-3,バルメン宣言第一項「聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、更に他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける」ドイツ福音主義教会, 19345月)例えばダビデ王が心を鈍くし、はなはだしい不信仰と悪事に陥ったとき、「そのとんでもない極悪人は、あなたです」と諭す一人のナタンがいなければ、神の国は早くもヤラベアムの国に成り下がっていたかも知れません。今日の私たちのキリスト教会でもまったく同じです。皆を導きつづけた信仰深く、十分に賢かったはずの指導者が心を鈍くして、はなはだしい不信仰に陥るとき、「それは間違っています」と立ち上がって、その人を諭す一人の預言者ナタン、一人のモルデカイがもしいなければ、その教会は獣の教会に成り下がってしまうかもしれません。71年前とまったく同じに。今日の私たちの間でも、それは有り得ます。おおいに有り得ます。
            ◇

  この私たち自身はどうなのか? 主へと向き直りつづけて、主へと顔も、いつものあり方も腹の思いも向け返して、晴れ晴れ清々として生きて死ぬことができるのかどうか。それとも何もかもすっかり水の泡になってしまうのか。それゆえ、キリストに仕えるしもべたちは呼わりつづけます。「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人たちよ、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、誰があなたがたを惑わしたのか。わたしはただこの一つのことを、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか。それとも、聞いて信じたからか」(ガラテヤ手紙3:1-2)。しかも、キリストに仕えるしもべたちよ。「あなたがた自身がキリストの手紙だ。心の板にキリストの言葉と心がはっきりと書き記され、刻み込まれているではないか」(コリント手紙(2)3:3参照)と告げられました。しかも月に一回か二回か、私どもの目の前に格別なパンと杯が据え置かれています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ、杯を飲むべきである。主の体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くからである」(コリント手紙(1)11:27-29)。「ああ 全然ふさわしくない私」。その通り。当たっています。けれど、それは聴き取るべき真理の中の半分にすぎません。大事な半分ですが、残りの、その千倍も万倍も大事な半分は、「その、ふさわしくない、不十分な人間を、神さまは憐れんでゆるし、喜んで迎え入れ、きっと必ず救う」ということです。宗教改革者はこう説明しました;「このお祝いパーティは、(パン&杯も、他なにもかもも)神さまからの贈り物です。病いを抱えた者には医者の薬。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし自分は健康だと思っている者や、「自分はただしい、ちゃんとやっている」と買いかぶっている人や、すでに豊かに満たされている者には何の意味もありません。ただ一つの、最も善いふさわしさは、神さまの憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを神さまの前に差し出すことです。神さまによって慰められるために、自分自身においては「ダメだ、ダメだ」と絶望すること。神さまの憐れみによって立ち上がらせていただくために、自分自身としては低くへりくだること。神さまによって「ただしい。よし。それで十分」としていただくために、自分自身のうぬぼれや卑屈さ、了見の狭さ、ズルさ、臆病さ、独りよがりな悪さをまっすぐに見詰めること。それらを憎むこと。神さまによって晴れ晴れと生きさせていただくために、古い罪の自分と死に分かれること」と。(J.カルヴァン『キリスト教綱要』。Ⅳ篇1740-42節を参照)
  さて、これがパンを食べ杯を飲み干すときの心得であるとして、それならば、パンと杯が目の前にないときは、主を信じて生きて死ぬはずのこの私たちはどう心得たらいいでしょう。同じです。パンと杯が目の前にあっても無くても。兄弟姉妹たち。私たちは、ただただ、主なる神さまの憐れみによってだけふさわしい者とされます。神さまご自身からの慰めと力づけを、ぜひ受け取りたい。主によって立ち上がらせていただき、主によって生きることをし始めたい。他のナニモノでもなく、主ご自身への信頼によって生き、他のナニモノに従ってでもなく主イエスの福音に従って選び取り、判断しながら生きること。神からの救いとともに、それと並べて、ほかからの救いもついつい望みたくなります。いいえ 私どもは神にだけ救いを願い、ただ神にだけ仕えます。日曜の午前中と午後と、教会の敷地内で、このように心得ていたいと願っています。それなら自分の家に帰って、連れ合いや子供たちや年老いた親の前では? 
町内会や親戚たちの前では? 
いつもの職場や学校では?        2016818日 夏の教理教育学校にて)







 ★説教 コリント手紙(1)1:26-2:5                 2016,8,19  金田聖治
  『はずかしめられ、無力な者とされて』

1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
       2:1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。3 わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。5 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。       (コリント手紙(1) 1:26-2:5)

 聖書66巻は「へりくだって従順であれ」と私共に命じつづけます。しつこく繰り返し繰り返し、「へりくだれ。思い上がってはならない」と。つまり現実には、へりくだって謙遜になるのは自分自身ではかなり難しかった。せいぜい、社交辞令で謙遜なふりを装うので精一杯です。自分自身では難しい。そのために、神の恵みも憐れみも平和も受け取り損ねつづける。ですから神さまの側で、私たちの高ぶりや思い上がりを力づくでねじ伏せてくださる他ありません。「主をこそ誇り、主に全幅の信頼を寄せ、従順に聴き従って生きる者であれ」(コリント(1)1:31,(2)1:9)と。それが神さまの願いであり、救いのご計画、また、いつもの道筋です。
  「十字架がむなしいものになってしまわないために」(1:17)神さまの力が生きて働き、私たちの生活に介入し、私たちをはずかしめ、その力と知恵とうぬぼれや卑屈さをねじ伏せます、ここに、三段階の局面を見ることができます。

 まず2:1-5。マリアやザカリアがそうであったように(ルカ1:46-55,67-79、伝道者パウロもまた自分自身の『ねじ伏せられ体験』を通して、生活の現場で実地に、この展望と洞察を習い覚えました。「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」(2:1-5)。実は、このパウロという伝道者は人一倍優れた、言葉も達者な、知恵にあふれた人物でした。うぬぼれも強かったのです。『能ある鷹は爪を隠す』などと澄まして、涼しい顔をして無力を装うことは、この人自身にはとうてい出来ませんでした。ですから、ここでも神さまが彼の力と知恵と自負心をねじ伏せてくださった。「十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したから」(1:17,2:2,ガラテヤ手紙3:1-2参照)もまた、そのねじ伏せられた恵みの『結果』です。これが真相。告白されているとおりに、コリント伝道の当初、(神さまの介入によって)大きな困難と悩みが彼を痛めつけました。その結果、彼は身も心もボロボロに衰弱し、恐れに取りつかれ、極度の不安感に悩まされていました。自慢の知恵も弁舌も有能さも、出したくたって出せなかったのです。しどろもどろになり、アタフタし、突っかえ突っかえ福音を語りました。「わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」。そのとおり。パウロの弱さの中で、神ご自身の力が存分に発揮されました。

 コリント伝道の最初の日々に何があったのか。同様の報告が、同(2)1:8-9と使徒18:9-10に。同じ1つの出来事がわざわざ3方向から、しかも当の本人自身によって思い返されています。おかげで、神の真実がはっきりと浮かびあがります。コリント手紙(1)2:1-5では、まるであたかも「優れた言葉や知恵を用いなかった」のがパウロ自身の主体的な判断によるかのようです。用いようと思えばできたが、あえてそうしなかったと(2節参照)。けれど、それでは、コリントの人々が福音を信じたことが結局はパウロの知恵や彼自身の賢い判断によることになります。また、彼が「弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」(3節)ことと、その宣教の様子がどう結びつくのかが不明です。けれど、残る2つの報告は出来事の真相をあきらかに物語ります。

1:8 兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、9 心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。               (コリント手紙(2) 1:8-9)

コリント手紙(2)1:8-9では、

A)「わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し」、それで

B)「自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」と。

あの彼がそのように白状しています。神を頼みとして生きることはあまりに難しかった。ぜひそのように生きていきたいと切望しながら、人にはそのように説教し、悟り澄ましたような涼し~い顔をしてとくとくと説き明かしつづけながら、正直な所、自分自身ではなかなかできなかった。肉の頼みを山ほど蓄えてしまった自分自身こそが、それを邪魔だてしつづけていた。けれど、極度に耐えられないほど圧迫され、生きる望みをさえ失い、心のうちで死を覚悟したおかげで、『邪魔者だった自分自身』がとうとう衰えさせられた。(A)が原因、(B)がその結果。(A)があり、その只中で(B)という状況が始まったと。

18:9 すると、ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。10 あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。          (使徒18:9-10)

 使徒18:9-10も同様です。同じコリント伝道の最初の日々。主の語りかけそのものが、パウロの状況と内面とを間接的に描き出しています;「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。例えば母親が子供に「静かにしなさい」「部屋を少しは片付けなさい、もう」と語りかけるとき、子供がどんな様子なのかは誰にでも分かります。騒いでいます。そして、ちっとも片付けをしようとしないのです。同様に、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな」と主が強く語りかけているのは、パウロがかなり恐れて、ついに口を閉ざしてしまおうとしているからです。「あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない」とねんごろに告げられているのは、パウロが神の守りと支えを見失いかけているからです。では、そのような彼が、苦難と恐れと自信喪失の只中で、いつ、神への信頼を学び取ったでしょう。主からのこの語りかけを聞き分け、腹に収め、喜び安心させられたときからです。ここに、起こった事柄の真相があります。ですから、コリント手紙(1)2:1-5の報告にはいくらかの混乱がありました。「優れた言葉や知恵を用いなかった」のはパウロ自身の主体的な判断によるのではなく、神ご自身の介入の結果、そう『させられた』『ねじふせられた』体験でした。『十字架につけられたキリスト以外何も知るまい』という腹の据え方も、このような恵みの結果として、恐れと不安の只中で、その後から贈り与えられた恵みの贈り物だったのです。だからこそ、価千金。パウロという伝道者の大きな転換点を私たちは目撃しています。コリント伝道の最初の恐れと衰弱の日々。ここから、『神をこそ誇り、神を頼りとして生きる、一人の新しい福音伝道者』が誕生しています。
 まずパウロ自身の個人的な福音体験こそが彼の目を開かせ2:1-5、そこで得た福音理解は他の兄弟姉妹たちに対する神の教育過程の全体像を明らかに示し1:26-28、さらに世界すべてに対する神の自己啓示の在り方をも明らかに示した1:18-25と思えます。コリント伝道の当初、彼の置かれた状況は過酷で、彼の精神をはなはだしく衰弱させ、弱さと恐れと不安によって彼を打ちのめしました。「優れた言葉や知恵を用いなかった」のは、彼自身が判断してその宣教手法を自主的に主体的に選び取ったのではなく、むしろ用いたくても用いられなかったのです。そのようにして彼もまた、はずかしめられ、無力な者とされ、その結果として、彼の宣教は彼自身の(人間的な)巧みな知恵の言葉によってではなく、神の力によってなされました。人一倍優れた、言葉も達者な、知恵にあふれ、うぬぼれも強かったパウロでさえも、神のみまえにも人様のまえにも誇ることがないために。主をこそ誇り、頼みの綱とし、主に従順に聴き従って生きる伝道者であるために。
  すると、コリント教会の兄弟姉妹たちの場合もまったく同様だったはずだと彼は思い至りました。彼らのためにも、神の同じ実践的な信仰教育が働いて、彼らも主を誇りとし、主にこそ従順に聴き従って生きるクリスチャンとなるはずであると。彼ら皆もそれぞれはじをかかされた。知恵と力がある、権力ある、身分の高い有力な、他者から重んじられている者らはいっそう念入りに、ていねいに、はじをかかされただろう。これでもかこれでもかと。すると、神によって造られた被造世界のすべてに対しても、まったく同じことがなされたのか。118節以下の『十字架の言葉』という信仰教育の同じ一つのシステム。つまり「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と聖書に書いてあるとおりの仕方で。この世の知恵を愚かにし、この世は自分の知恵によって神を認めるに至らないと痛感させられ、宣教の愚かさによって信じる者を救いだすこと。木にかけられたキリストを宣べ伝えるという唯一無二の伝道指針。このキリストはつまずかせるもの、愚かなものにも見え、けれど召された者自身にとっては、神の力、神の知恵たるキリストである。『神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い』と他の誰よりもまず、伝道者自身こそが骨身にしみてそれを覚え、心によくよく刻んで、そのとおりに働くことができるために。やがてあらゆるものが膝を屈め、あらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰することができるために(ピリピ手紙2:11。自分自身を虚しくされ、膝を屈めさせられた、一人のクリスチャンからそれがやがて始まり、広がってゆくでしょう。

           ◇           ◇

 蛇足かもしれませんが、彼はもう一度、同じ『ねじ伏せられ体験』を味わっています。ダマスコ途上での回心のときと、コリント伝道の最初の日々と、2度の大きな恵みを体験した彼です。が、それではなおまだまだ足りませんでした。コリント手紙(2)12:7-10

12:7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。    
(コリント手紙(2) 12:7-10)

『主の恵みは私に十分』とつくづく思い知るためには、さらに大きな悩みと衰弱が、苦しめ悩ませるトゲを刺されたままにされ、いくら頼んでも泣きついても、どうしてもその刺を抜いてもらえずに、さらに徹底してはずかしめられ、無力な者とされる必要がありました。なんということでしょう。それでもなおこの私たちも、『主の恵みは私に十分』とつくづく腹に収めたいものです。「神ご自身の力は、この私の弱さとへりくだりの中でこそ十分に発揮される。弱いときにこそこの私自身も、すべてのキリストの教会も、神の力と知恵によって強くされる。それによってしか強くも豊かにもなりえない私どもだ。本当にそうだ」と。するともしかしたら、この私たち自身も日本キリスト教会に対しても、はずかしめと無力な者とされることがまだまだ全然足りないのかも知れません。「信仰的にしっかりしている。教会的で告白的で、かつ学問的で小賢しくて」と自惚れつづけています。100年たっても200年たっても。傲慢(とその裏返しの卑屈さや劣等感)こそが厄介な罪の根であり、強すぎて思い上がったこの私共の中では、神ご自身の力はいつまでたっても邪魔されつづけて、ほんの少しも発揮されません。「おかしいなあ。主の恵みが私には足りなすぎる。どうしてだろうか? キリストの力が多分、私のうちにも宿っているはずなんだけど」と首を傾げつづけていました。主の恵みが私共の間でちっとも十分ではない理由は、ここにあります。キリストの十字架の言葉は今に至るまで虚しいものとされつづけ、イザヤ2914節の預言「賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」とは裏腹に、知者の浅知恵と賢い者の虚しい小賢しさがもてはやされつづけます。そのように私たちはつまずきつづけ、神ご自身は私たちの只中で侮られ、はずかしめられつづけています。さてこの私共は、このキリストのものであるはずのキリスト教会は、打ち砕かれ、満ち足りるまでに十分にはずかしめられることができるでしょうか。そのようにしてついに、主をこそ誇る民とならせていただけるでしょうか。主なる神さまが私共を憐れんでくださり、ぜひそのように取り扱っていただきたいのです。「人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ」(哀歌3:27-30
  祈ります。

       生きて働いておられ、天と地の一切と私共に対しましても、限りなく主であってくださいます父なる神さま。

       どうか、あなたの慈しみと峻厳とに、私たちの目を凝らさせ、あなたご自身の真実さのうちに、私たちの腹の思いを固く据えさせてください。あなたご自身がキリストの教会を建て上げつづけてくださっていますから、この私共にも、神の独り子、主イエスを信じる信仰によってこそ、彼のものであります教会を建てあげる働きに参加させてくださいますように。その光栄と幸いを喜ぶしもべであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン