2016年8月30日火曜日

8/28こども説教「岩の上に土台をすえて家を建てる」ルカ6:46-49

 8/28 こども説教 ルカ6:46-49
 『岩の上に土台をすえて家を建てる』
   +上田駅前アピール 『伊方原発、いますぐ止めよう』8/26

6:46 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。                  (ルカ福音書6:46-48)

 恐ろしいことが主イエスの口から語られています。ですから小さな子供もずいぶん長く生きてこられたはずの大きな大きな大人も、語られている中身を本気になって真剣に聞き取らねばなりません。二種類のクリスチャンがある、と主イエスはおっしゃいます。一方は、「主よ主よ」と祈ったり、あがめて見せたりするだけで、ちっとも主イエスの教えに聴き従って生きていこうとしない、ただ口先だけ、ただ形だけのクリスチャン。もう一方は、主イエスのもとに来て、主の言葉を聴き、ただ聴いただけではなく、そのように毎日を暮らしてみようとする者(*)。もし、主イエスの言葉に聴き従って生きようとするなら、洪水が出て水が激しく打ち寄せても、その人の建てた家はビクともしない。けれどもしそうではないなら、その人は土台なしで土の上に家を建てた人のようになる。嵐になって大水が押し寄せるとき、その人が苦労して建てた家もその人自身も、かんたんに倒れてしまうし、ひどい目にあう。信じたことも生きてきたことも水の泡になってしまうかも知れない。信じる信じないは、その人が自分で自由に選び取ります。信じてもいいし、信じなくてもいい。けれどもし、せっかく主イエスを信じるならば、ぜひとも『丈夫な家を建てるように信じたい』のです。困ったことや厄介事が次々と起こるときにも、その人の信仰がその人自身と家族を救うほどの。主を信じる信仰に守られて、心強く生きて死ぬことができるほどの、そういう信じ方をしたい。
  さて、神さまのことを『主よ』と呼びかけます。つまり、『主人である神さま。主にこそ信頼を寄せ、主にこそ一途に聴き従って生きてゆく、主人の召し使いである私たち』。これこそが、このキリスト教信仰の最も中心にある基本的な在り方です。とくに、キリスト教会と一人一人のクリスチャンは、『主イエス』と短く呼びかけつづけています。主人であるイエス・キリスト。主イエスにこそ信頼を寄せ、主イエスにこそ一途に聴き従って生きてゆく、主人の召し使いである私たちである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」と告げられて、「はい」と私たちは信じました。「ナザレ人イエス・キリスト。このかたによる以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」と教えられ、「はい」と信じました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」と問い詰められ、「はい。もちろん、神さまにだけ聞き従います」と私たちも腹をくくりました。重荷を負って苦労している者は来いと招かれて、来てみました。主イエスから、「わたしのくびきを負うて、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」と指図され、その指図どおりに主イエスのくびきを負って、主イエスに精一杯に学びつづけています。しかも今、神さまこそが私たちの味方です(コリント手紙(1)12:3,使徒4:10-12,4:19,16:31,マタイ福音書11:28-30,ローマ手紙8:31-39,27:1-5。だから、とんでもない台風がきても、津波や洪水や、ものすごい地震が襲ってきたとしても、それでもなお私たちの家は大丈夫です。ビクともしないでしょう。

     【補足説明】
     (*)勘違いしやすい、難しい箇所です。『良い行いによってではなく、ただただ恵みによって、主イエスを信じる信仰によってだけ救われる』と口を酸っぱくして、クドクドと教え込まれます。しかもなお、良い行いがどうでもいいわけではない。『悪人がただ憐れみを受けて救われます』が、もし仮に一生涯、ずっと同じく意地悪で自分勝手で、ずる賢くて、他人を困らせたり苦しめるだけの人間でありつづけるならば、神を信じて生きことに何の意味があるでしょう。虚しいだけではありませんか。順序が逆です。良い行いによって救われるのではなく、救われた者はただ神さまからの恵みによって、良い行いをしつつ生きる者へと新しく造り替えられていきます。感謝の実を結ばないはずがない(ローマ手紙 6:1-18,8:1-17,ハイデルベルグ信仰問答 問60-641562年)。ここに、神を信じて生きることの確かな希望があります。






  上田駅前アピール(8/26
『伊方原発、いますぐ止めよう』

  大手町一丁目の日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。先日の熊本大地震のとき、大規模な地震がずっと続いて、震源地のすぐ傍らにあった川内原発(せんだい・げんぱつ。鹿児島県薩摩川内市)を「危ないから地震が収まるまででいいから、止めてくれ」と大勢で頼んでも、知らんぷりされました。四国、愛媛県の伊方原発(いかた・げんぱつ。愛媛県西宇和郡伊方町)は細長~い半島の付け根から5kmに建てられていて、その先っぽの、原子炉までわずか1kmそこそこに5000人の住民が暮らしています。ことが起きれば、放射能はすぐにも彼らに襲いかかるでしょう。この5000人の住民は逃げることも隠れることもできません。「事故が起きたら私たちは死ぬしかない」と彼らは言い、「大丈夫大丈夫。何の心配もしていませんよ」と言いながら、真っ青な顔をしてガタガタブルブル震えて暮らしています。置き去りにされる予定のその5000人の中には、私たちと同じように小さな子供や小中学生、高校生も、赤ちゃんを抱えた若い家族も大勢含まれています。そんなこと、わたしには関係ないんですか。どうでもいいんですか。住民たちは必死に抗議をしましたが、涼しい顔で、その伊方原発もこの8月12日に再稼働されてしまいました。どんな避難計画があるのかも聞いておられますか。愛媛県がバスを手配するそうです。県は今年の4月にバス組合などと原発災害時の救助協力に関して覚書を交わしました。もし放射能漏れがとても少なければ、運転手は協力するそうです。けれど放射能漏れが危険な程度になればもちろん運転手は協力できず、救助のバスも走りません。原子力発電所より奥の方に住んでいる5000人は原発のすぐ近くを通って避難する計画ですが、「もし大急ぎですぐに避難すれば避難が終わるまで放射能はすぐには漏れ出さないらしいから、多分、大丈夫らしい」と言っています。福島第一のとき、翌朝になっても事故が起こったことを知らない住民がたくさんいました。福島ではメルトダウンまで約2時間でした。もっと早くそれが起こるかも知れません。そのとき、もし津波で港が使えず、土砂災害で半島の付け根が通行止めになれば、住民の大半が逃げ場のない缶詰状態になります。そんなこと、わたしには関係ないんですか。どうでもいいんですか。事故が起きても、「想定外。想定外」と口ずさみながら、その5000人の人々を見殺しにするほかないのに。「公益」にも「自分の損得」にも、彼らの人権も安全も生命も勘定に入っていません。小さな子供も赤ちゃんも、中学生、高校生も大人も年寄りもたくさん暮らしていますが、彼らの安全も生命もどうでもいいと思っているのです。国家も都道府県も、原子力規制委員会も、電力会社も、そして危ない場所から遠く離れて安全に暮らしている私たち長野県民も。
  ♪ 伊方原発、今すぐ止めよう。川内原発も今すぐ止めよう。再稼働反対。再稼働反対。再稼働、犯罪。再稼働、犯罪 伊方町の5000人を見殺しにするな。伊方原発、今すぐ止めよう。川内原発も今すぐ止めよう。再稼働、犯罪~っ。再稼働、犯罪


      【参考資料・解説】
       (1)you tube 2016,7,31公開) NNNドキュメント 『避難計画で原発やめました』 ;必見 廃炉になった米・ショアハム原発と愛媛県伊方原発の対照。同じような細長い地形に立地するのに、なぜ真逆の結果に。
       (2) 元の民主党の最後の総理大臣、野田佳彦(のだ・よしひこ)さんは、福島第一原発事故から9ヶ月後の201112月に「今回の原発事故は収束しました。皆さん安心してください」とTVで喋りました。嘘っぱちでした。あの原発事故はいまだに収束していません。今後共、50年たっても60年たっても収束する見込みもメドもまったく立っていませんから、決して安心しないでください。溶け出た危ない燃料棒がどこに落ちているかのか捜すことも拾い集めることもできず、収束する見込みもメドもまったく何も立っていない現状です。水をジャブジャブジャブジャブかけて冷やしつづけるしかできません。お手上げです。その結果、大量に生み出される高濃度の放射能汚染水を太平洋の海に垂れ流しつづけています。政府も電力会社も原子力規制委員会も誰一人も責任を負おうとしない無責任でいい加減で自分勝手な原子力発電所を、次々と再稼働させ、小さな子供や大勢の家族をそのまま危ない場所で暮らさせつづけていいのかどうか。しかも、私たちのこの国は小さな島国。愛媛県西宇和町伊方町の、あの細長い佐田岬半島そのままです。逃げることも隠れることもできず、置き去りにされ缶詰状態にされる彼ら5000人は、明日の私たち自身の姿です。自分の息子や娘や孫に対しても、後から来る新しい世代に対しても、この私たちには、担うべき大きな責任があります。大人としての私たちの責任です。
  (3)他の人々もほぼ同様ですが、とくに、すべてのキリスト教会と一人一人のクリスチャンは、この世界で起こるすべての領域のすべての出来事に対して果たすべき責任があります。もちろん、政治や社会状況なども含めてです。この世界を造った、生きて働いておられる神が、上に立つすべての大小様々な『権威』をお立てになりました(ローマ手紙13:1-2。この世界をより良くし、支え、保つためにです。けれど、『神によって配置されたはずの権威者たち』は、しばしば暴君と成り下がり、責任と義務を果たさず、その力を私物化して、はなはだしい悪事を働くこともあります。小さく弱い者たちをないがしろに扱い、搾取し、押しのけることもあります。多くの国の国家権力も、私たちの国でも同様です。主イエスご自身が、容赦なく警告しています。主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。・・・・・・もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう」。そのときキリスト教会とクリスチャンとは、救い主イエスに率いられて、『王。祭司。預言者』の職務を帯びて彼らに立ち向かいます。『神によって配置されたはずの権威者たち』が正しく健全に務めを果たすように、彼らを諭すこともします。預言者ナタンがとんでもない悪事を働いたダビデ王の前に立ち塞がったように。洗礼者ヨハネが領主ヘロデを諭したように(マタイ福音書24:45-51,サムエル記下12:1-15,ルカ福音書3:19-20)。この私たちも。