2015年8月30日日曜日

★聖書講演「耕したり、耕されたり」~なぜ私は働くのか~

『耕したり、耕されたり。』 
~なぜ私は働くのか?~
牧師 金田聖治
 
 苦しい時代の中に私たちは生きていると思えます。なんだか了見が狭くて、他人に対してはひどく冷淡で、思いやりに欠けている世の中です。自信を持ち、希望に胸をふくらませて将来を夢見ている子供や若者たちはごく少ないと思えます。むしろ多くの人たちが、ひどく心細い気持ちで毎日毎日を暮らしているでしょう。若い人たちばかりじゃなく、子供たちも年寄りも。ですから、そう簡単に励ましや慰めを語れません。さて、働くとは何でしょうか。何かの役割を与えられ、仕事をする。あるときには仕事がよくできて誉められたり喜んでもらったり、別のときにはそうでもなくて、けなされたり嫌味を言われたり、きびしく叱られたりもします。喜びながら働く日々もあり、悩みながら苦しみながら働く日々もありますね。働くとは何でしょう。そのとき何が起こっているでしょう。まず聴いてください。マルコ福音書4:26以下;

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りま せん。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです」。    

これ新改訳なんですが、ぼくの友だちはこの「そうこうしているうちに」って所がすごく好きだって言うんです。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません」。働くことも、生きてゆくことも、こういうふうに出来ていると思えます。地は人手によらず実をならせる、といいます。もちろん種を蒔いたり雑草をむしったり、水をかけたり肥料を与えたり精一杯に世話をして働くわけです。それでも土の下の深く暗いところで、私たちの知らない大きな働きがなされつづけている。養分を運ぶ、いくつもの目に見えない川が土の下に流れています。ミミズや微生物やバクテリアがうねうねもぞもぞ動き回って、土に栄養と活力を与えます。土を耕す人はその活動全体の中のごくわずかの部分に関わるだけです。土の下の奥深いところで何が行われているのかを、ほとんど知らずに。けれど、その大きな働きや存在に信頼して、自分が今すべきことを精一杯にしている。働くことや生きることは、それに似ています。朝から晩まで人間たちのことばかり思い煩って、頭がカチンカチンに堅くなってしまった人たちには、この世界は、まるで『人間による・人間のための・人間のものである世界』であるかのように見えるでしょう。『我らの日毎の糧を今日も与えたまえ』と口癖のように祈りながら、腹の中ではそんなことちっとも思っていない。「私たちの日毎の糧も生活費も食費も何もかも、自分で稼いで自分の甲斐性と根性と努力と才覚で自分に与えています。神さまの世話になんかなっていませんから、ご心配なく」って。へえ、そうなんだあ。これから就職しようとしている若い人に向けて話しています。どんな仕事についてもいいけど、なにしろ毎週日曜日に礼拝に集えるほうが幸せです。そうでないなら、はっきり言ってかなり危なっかしい。生きる意味も神さまを信じることも、いつの間にかすっかり分からなくなりますよ。例えば、「信仰は信仰、仕事は仕事と割り切るように」などと誰かに教えられましたか? 日曜日の午前中、教会の敷地内にいるときだけクリスチャンで、あとはそれぞれ好きにしたらいいなどと。会社では会社や上司のルールや命令に従い、家では父さん母さんに従い、学校では先生方の言うことを聴いて、それ以外は好きにしていい自由時間。へええ。じゃあ、いつどこでどういうときに神さまの御心に従って生きるんですか。心の中だけの信仰だし、心の片隅でただニッコリ微笑んでいるだけの、手出しも口出しもしない、小さな小さな神さまだと教えられましたか。で、そんな根も葉もないイカサマをあなたは鵜呑みにしてるんですか。10人中10人がそう思い込まされているんじゃないかなあ。神さまが生きて働いておられることを僕は知っているし、信じています。だから、マルコ4章を紹介してくれたその友だちと一緒になって口癖のようにつぶやきつづけています。夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに。夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちにと。
  働くこと、家庭や家族を築き上げてゆくこと、生きてゆくことの意味。それらを最初に決定的に語りかけたのは創世記24節以下でした。神さまによってこの世界が造られたその初めのとき、地上は草一本も生えない、物淋しい大地だったと報告されます。どうしてかと言うと、その理由は2つ。

(1)雨がまだ大地に降り注いでなかった。
(2)その恵みの雨を受けとめて、土を耕す人もいなかったから。

雨と、そして土を耕す人。この世界が生命にあふれる、青々とした素敵な世界であるためには、雨が大地にたっぷりと降り注ぎ、そしてその恵みの雨を受けとめて土を耕す人がそこにいる必要がありました。この世界と私たちを造った神さまは、私たちがビックリするような、人の心に思い浮かびもしなかった不思議な仕方で問題を解決していかれます。「いつごろ雨が降るだろう。まだかなあ」と空を見上げて待っていましたら、空の上からではなく、地面の下から水が湧き出てきて大地を潤しました。土を耕す人も、わざわざ土の塵から形づくりました(6,7)。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れた。それで人は生きる者となった。そのことを、ずっと考え巡らせてきました。「オレって何て馬鹿なんだろう。なんて臆病でいいかげんで、ずるくて、弱虫なんだろう。ああ情けない」とガッカリして、自分が嫌になるときがあります。そういうとき、この箇所を読みました。「どうして分かってくれないんだ。なんで、そんなことをする」と周りにいる身近な人たちにウンザリし、すっかり嫌気がさしてしまいそうになるときに、この箇所を読みました。どんなに強くてしっかりしているように見える人でも、それでもなお、堅い石や鉄やダイヤモンドで造られた人なんか誰1人もいないのです。土の塵で、泥をこねて造られた私たちです。土を耕して生きるはずのその人も、土でできている。どういうことか分かりますか? その人の中に小さな1粒の種が芽生え、大きく育ち、素敵な花を咲かせ、やがて嬉しい実を結ぶためには、その人のためにも、やっぱり(1)恵みの雨と、(2)その人を耕してくれる別の耕す人が必要だってことです。もし、そうでなければ、その人も直ちにカラカラに乾いて、干からびて、草一本も生えない寒々しく荒れ果てた淋しい人間になってしまうかも知れなかった。踏み荒らされて壊された砂の道路や、砂の山や砂の家のようになってしまうかも知れなかった。で、その人を耕してくれる人もやっぱり同じく土の塵で造られていて、神さまからの恵みの雨と別の耕す人を必要とした。その耕す人もやっぱり・・・・・・。土の塵から造られ、鼻に生命の息を吹き入れられた私たちです。壊れ物のような、とても危っかしい存在です。それぞれに貧しさと足りなさを抱え、時にはパサパサに乾いた淋しい気持ちに悩んだりもします。恵みの雨に潤され、耕されるのでなければ、この私たちだって草一本も生えない、荒れ果てた、淋しい人間になり果ててしまいます。しかも土の塵。石や鉄やダイヤモンドでできたビクともしない人など1人もいません。ですから、あんまり乱暴なことを言ったりしたりしてはいけません。あんまりその人が困るような無理なことをさせてはいけません。壊れてしまっては大変です。
  218節の「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。これは、ただそれだけで語られているのではなくて、4-7節の成り立ちと、15,16,17節のつながりの中に置かれています。

「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。  

そして、だからこそ主なる神は言われるのです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と。素敵なエデンの園に連れてこられました。何のため? そこを耕し守るためにです。(1)その土地を耕し守って生きる、という大切な働きと役割。(2)すべての木から取って食べなさい、とあまりに気前よく恵みと祝福を与えられました。(3)ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と戒めも与えられて。働きと役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め(15,16,17)。しかも土で造られた私たち人間はあまりに不完全で、ひどく未熟でした。意固地になり、独り善がりになりました。ね、だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りでは、その土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、あまりに気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。もし助ける者がいてくれるなら、その人は祝福と恵みを十分に受け取って、「こんなに良いものを私なんかがいただいていいんですか。本当ですか。ああ嬉しい。ありがとうございます」と喜び祝い、感謝にあふれて生きることができます。独りでは、『これだけはしてはいけない。ダメだよ、止めなさい』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどとうていできないからです。もし、その人を助けてくれる者がいてくれるならば、その人は、たとえあまりに不完全で、ひどく未熟だとしても、たびたび意固地になり、独り善がりになってしまいやすいとしても、それでもなおその土地を耕して守りながら生きることができます。2章の終わりに、「2人とも裸であったが恥ずかしがりはしなかった」と書いてあります。見栄を張って取り繕うことも要らず、虚勢を張ることも要らない。恥ずかしいことや後ろめたいこと、未熟なふつつかさを山ほど抱えている。お互い様です。土の塵から、泥をこねて造られた者同士です。目の前のその人の不出来さ、了見の狭さ、うかつさをどうぞゆるしてあげてください。何度でも何度でも大目に見てあげてください。

           ◇

 最後に、大切なことを手短かに2つ言います。メモしてください。
1つは、仕事をするときの失敗例。どの仕事も素敵な良い仕事になりうるし、悪い仕事にもなりえます。だから、どんな仕事を選ぶかということ以上に、自分が選んだその仕事にどう取り組んでいくのかが大切です。聖書の中にも外にも失敗例はたくさんあって、自分の働き方を考え直し、建て直してゆくためにとても役に立ちます。まず創世記4章のカイン。神さまへの感謝をあらわすために献げものをしたはずだったのに彼は腹を立てました。誉められたかったし、見せびらかしたかったからです。それからルカ福音書10章のマルタ姉さん、15章の放蕩息子の兄さん、マタイ20章の朝早くからぶどう園で働いた労働者たち。彼らは皆、仕事をしながら腹を立てたり、惨めな気持ちになって妬んだり、淋しくなってしまいました。それらが皆、神さまへの感謝の献げものだということを忘れてしまったからです。働くことそれ自体が幸いであり神さまからの祝福であることも、すっかり分からなくなりました。それじゃあ水の泡。彼らのふり見て我がふり直せ。
  もう1つ。職業でも結婚でも何の場合でも、苦しくて辛くてとても困るとき、そこからサッサと逃げてきなさい。後先考えず恥も体裁もかなぐり捨てて。このままいたら壊れてしまうかも知れないと気づくなら、すぐに逃げ帰ってきていい。本当ですよ。

イエス・キリストの父なる神さま。
若い者たちに、喜びにあふれて生きる道を備えてください。この世界が生きるに値する素晴らしい世界であることを、つくづくと実感させてください。彼らにも、また私共年長の者たちにも、主イエスを信じる信仰を日毎に与え、どうかその信仰を増し加えてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

* キリスト教ラジオ放送局(日本FEBC)、インターネットで放送中。
FEBC」⇒「特別企画/クリスチャン学生の職業選択のポイント」で検索できます。




8/30こども説教「主人の食卓の下の子犬として」マタイ15:21-28

 ◎こども説教 マタイ福音書 15:21-28       
 『主人の食卓の下の子犬として』           


15:21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。22  すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
(マタイ福音書 15:21-28)

  外国人の一人の女性が主イエスのところへやってきました。その娘が病気でとても苦しんでいて、主イエスに何としてでも助けていただきたいと願ったからです。もちろん救い主イエスは、その女性の願いをかなえてあげました。実はこの箇所も、間違って受け止めてしまいやすい、少し難しい箇所です――
 1.まず、主イエスの冷たい、とても意地悪そうに見える態度。初めには知ら~んぷりして、一言も答えません。次に、「私はイスラエルの家の失われた羊以外の者には遣わされていない。外国人のお前なんか助けてやるものか、シッシッ」と追い払おうとするような態度。そしてなお諦めずに食い下がってくるこの女性に、「子供たちのパンを子犬に投げてやるのはよくない」。なんて意地悪なんでしょう。親切心や憐れみのかけらもない。虫の居所が悪くて、ちょうど意地悪気分だったのでしょうか。いいえ、そうではありません。しつこく熱心に求められたので、根負けして、はじめは助けてあげないつもりだったのに、この女性のひたむきさや一途さに打たれて、考えを変えさせられたのでしょうか。いいえ、最初から助けてあげるつもりでした。少し前に外国人の兵隊の隊長の部下を助けてあげたことがありましたね。墓場につながれていた外国人の男を助けてあげたことも、井戸の脇で外国人の女性を信仰に導いてあげたこともありました(マタイ8:5-,8:28-,ヨハネ4:1-)。元々ユダヤ人のためだけの救いではなく、世界全部の人と生き物のための神さまであり、祝福でありつづけます。救い主自身が最初からちゃんと分かっていました。では、なぜ? ただ娘の病気を治してあげるだけではなく、彼女に主イエスを信じる信仰を贈り与えてあげようとしています。そのために 「主人の食卓の下の子犬である私も、食卓からこぼれたパン屑をいただきます」というへりくだった低い心を彼女の心に呼び起こそうとしています。
2.だからこそ、最後に、この女性のへりくだった低い心を見て、主イエスは大喜びに喜んでいます。ただ28節、「あなたの信仰は見上げたものである」は誤解されやすい言い方。こう言われたからといって、この外国人の女性やその信仰を誰も見上げたり、祭り上げたり、誉めたたえたりしてはいけません。拝んだり見上げたりしていい相手は、ただ神さまだけ。素敵で立派で正しいのも神さまだけです。またお互い同士で、「あなたは大きくて素敵な信仰ね。私のは小さくて粗末で」「いえいえ、あなたこそご立派よお」「いえいえ」「あらあら」などと人間同士で見上げたり見下したり、崇めたり誉めたり、足を引っ張りあいつづけるのもあまりに俗っぽくって、見当違い。しかもその度毎に、神さまの恵がすっかり水の泡です。ともかく、「主人の食卓の下の子犬である私も、食卓からこぼれたパン屑をいただきます」というへりくだった低い心を、主イエスが彼女の内に呼び起こしてくださり、それを大喜びに喜んだ。「よし。それでいい」と。むしろ最初から主イエスは主導権を握って、彼女をこの『主人の食卓の下の子犬』の場所へとグイグイと導いていきます。へりくだった低い心の、この幸いな場所へと。イエスの母マリヤも、「この卑しい女をさえ神さまが御心にかけてくださった」と喜びました。ひきつけを起こす息子を癒していただいた父親も「もし出来れば、というのか」と追い詰められて、「信じます。不信仰なわたしをお助けください」(ルカ1:48,マルコ9:23参照)主人の食卓の下の哀れな子犬たちよ、信じようとしてなかなか信じきれないあまりに不信仰な者たちよ。恵みに値しない犬っころとして、主人の食卓の下に集まりなさい。あまりに不信仰な父親として身を屈めなさい。神さまの憐れみのパン屑を、ご一緒にいただきましょう。憐れみ深い神さまと出会って、その神さまから憐れみを受け取るのは、いつもこのへりくだった低い場所(ローマ11:30-32,ペテロ(1)2:10,コリント(1)1:26-31)。いつもの待ち合わせ場所です。




 

8/30「平和を造り出す人たち」~幸いである理由3~マタイ5:7-12,コリント手紙(2)5:18-21

    みことば/2015,8.30(主日礼拝) 日本キリスト教会 上田教会  22

◎礼拝説教 マタイ福音書 5:7-12,コリント手紙(2) 5:18-21 

『平和を造り出す人たちは』 
~幸いである理由.3~
               牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)
                       ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC



  5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
                                                    (マタイ福音書 3:13-17)

5:18 神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。                                          (コリント手紙(2) 5:18-21)


7-12節。「平和を造り出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」。まず真っ先に白状しておかねばならないことは、先祖とこの私たちは、つまりキリストの教会は、平和を造り出すことにことごとく失敗し、むしろ平和を破壊し続けてきたということです。「怒りの子であり、平和の破壊者である者たちこそが、どうしたわけか神の子と呼ばれる者たちとされてしまった」「神の子にされたのに、それでもなお平和を壊しつづけている」。この奇妙でアベコベで、心痛む事実こそがキリスト教の歴史であり、私たち自身の過去と現状です。例えば中世の時代には、異端審問と魔女狩りがキリスト教会の権威と名のもとに盛んに行われ、私たちキリスト教会はおびただしい数の無垢な人々の命と名誉を奪い、彼らを闇の中に葬りつづけました。また例えば、造船と航海の技術が飛躍的に進歩して世界中を渡り歩くことができるようになった大航海時代に、貿易商人たちと結託して、奴隷を売り買いしつづけて莫大な富を稼いだのは私たちキリスト教会の仕業です。先住民族から土地と財産を搾取し、黒人奴隷たちを道具やモノとして使い捨てにしつづけた人々は皆クリスチャンでした。アメリカ南北戦争終結直前から活動を活発化させた白人至上主義秘密結社、KKKのメンバーは昼日中、表通りで他の人々が見ている前では善良なクリスチャンです。家の中や自分の家の敷地内で、あるいは薄暗がりの中や、白い覆面を被り白いマントに身を隠している間は恐ろしい獣でありつづけました。彼らの活動が排除された後しばらくして第二のKKKが起こりました。これからも第三、第四、第五のKKKの活動とつづくでしょう。毎週日曜日に教会で美しく清らかな教えに耳を傾けつづけ、家に帰ると、彼らはしつけと称して黒人奴隷たちをムチ打ち、殴ったり蹴ったりしました。それでも心はほんの少しも痛みませんでした。美しく清らかな教えと、暴力や差別や非人道的な虐待行為と、それらはなんの不都合もなく両立しました。ほんの60年ほど前、ようやく黒人自身からの抵抗運動がアメリカ合衆国で起こり()、やがて南アフリカ共和国でも続き()、人間を奴隷として売り買いしたり隔離して閉じ込めることが悪いとようやく公けに認められました。KKKを語るならば、私たちはこの日本の国の身分差別についても告白せねばなりません。被差別部落の起源については諸説ありますが、中世あるいは古代以前からあったと見られます。動物の肉や毛皮を扱う人々を汚れた仕事をするとして差別した宗教的側面があり、移り住んできた外国人を差別した歴史的な経緯もあります。「豊臣秀吉や徳川家康など政治的指導者が民衆を支配しやすいように差別される階級をわざと作った」という通説が長く信じられてきましたが、それは間違いだったようです。なぜなら九州や中国、四国、近畿地方に被差別部落が集中し、支配者の行政府周辺にはかえってほとんどそういう部落が存在しないからです。むしろ権力者からの差別操作であるよりも、民衆自身が分け隔てをし、自分たちと少し違う人々を軽蔑したり排除したり、憎んだりするようです。明治4年に身分制度が公けに廃止された後も、今日に至るまで結婚や就職などにも大きな影響を与える差別・排除の実態は根深く残ります。すると、それは日本に住むアジア諸国からの移住者を軽蔑し、排除し、憎む現代の「ヘイト・スピーチ。在日外国人の排斥運動」()とよく似た点があります。小中学校、高校、あるいは大人の職場でのいじめ、介護や福祉の現場、精神科病院の内部などでの陰湿化・悪質化する虐待とも通じ合います。恥ずかしいことですし、恐ろしいことです。大人たちがそれをしつづけているので、子供や若者たちも真似をします。それは、少しも幸いではない心の貧しさであり悲惨さです。
 また例えば第二次大戦後にも、私たちの国はアメリカ合衆国と結託し、自分たちの利益を増し加えるため、もっぱら利権と富をむさぼるために、多くの戦争と戦争援助をし、それで金儲けをしつづけました。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イランイラク戦争、中東戦争。現代イスラエル国のための武器と経済の援助。敵対するテロリストたちとの泥沼の戦い。キリスト教会はそこにいつもいて、政府や資本家たちと一緒になって大きな役割を担ってきました。それらは宗教戦争でもあり、むしろ実態としては金儲けと利権のための戦争でありつづけました。自分自身を振り返り、胸に手を当てて、つくづくと考えてみました。果たして、この私は柔和だろうか? 神さまご自身の義に飢え乾いて、そのために迫害されただろうか。憐れみ深かっただろうか。この私は、人の二倍も三倍も格別に心が清いだろうか。平和を造り出してきたか。いいえ、他の人たちのことはよく存じ上げませんけれど、少なくともこの私は、決してそうではありませんでした。3-10節の宛名リストに該当しないのです。該当しないままに、どうしたわけか贈り物を届けられ、受け取ってしまいました。それでもなお、私たちは憐れみを受け、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされました。驚きです。すべてを、すっかりお話しましょう。神さまがこの世界とすべての生き物たちをお造りになったとき、世界は平和と喜びに満ちていました。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」(創世記1:31-2:3神さまご自身の真実さと慈しみ深さに信頼し、その御心になかって生きようとするところに『平和』の生命と意味がありました。やがて人間は神に背き、自分たちの正しさに執着し、それを押し立てようとしました。神に背き、自分たちの正しさにしがみつこうとすることが、『罪』の始まりです。創世記3章に始まった神への反逆は、雪だるまを転がすようにどんどんどんどん大きくなっていきました。やがて地上に罪と悪がはびこり、人が心に悪いことばかりを思い図るようになったのを見て、神さまは後悔なさいました。地上の生命を一掃し、滅ぼし尽くし、ゼロからの再出発をと。それがノアの箱舟事件です(創世記6:1-9:17)。大洪水の後、箱舟から出た生き物たちが最初にしたことは神さまへの礼拝でした。そこで、生き残ったノアと家族とすべての生き物たちが神さまから聞いた言葉は驚くべき内容でした。「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」(創世記8:21-22)。人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれども、と。地上の悪と罪深さを一掃し、滅ぼし尽くし、ゼロからの再出発をという『やりなおし計画』は大きく修正されました。生き残ったノアたちに向かって、「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれども」。それは人の罪をゆるして救うという神さまからの憐れみの救いであり、その宣言でした。罪人を憐れみ、その罪をゆるし、罪から救い出す。
  けれど、その救いと祝福のうちにすべての生き物たちを招き入れるための道具とされた神の民は、この私たち自身は、心があまりに頑固でした。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:2-3あなたは祝福の基となる。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。誰の目にも明らかだったはずでした。アブラハムとサラと、その親戚一同のためだけの祝福ではなく、ただ人間様のためだけの祝福でもなく、鳥も獣も草花もバッタもアリもミミズなど地上のすべてのやからはあなたによって祝福に入る。そのことを願って、あなたがたを選び出した。けれど選び出された神の民イスラエルは、直ちに自惚れて、図に乗ってしまいました。選ばれた少数精鋭のエリート集団だと。私たちのための神さまであり、私たちのための祝福であると。大間違いです。神の民イスラエルは心があまりに頑固で、了見が狭くなりました。たびたび自惚れました。その了見の狭い、思い上がってしまった頑固者の代表選手は、預言者ヨナです。「悪の都ニネベに出かけていって、彼らの滅びを宣告せよ」と命じられ、どうしたわけか預言者ヨナは神の命令に逆らって逃げ出します。捕まえられ、ようやく観念し、ニネベの町に滅びを告げました。すると、王さまも役人も、人も獣もみな悔い改めた。神は彼らの罪をゆるした。ヨナはここで、神の命令に背いて逃げ出した理由を告白する、「こうなることが分かっていました。神が悪人どもをゆるすだろうと。それが嫌だったので逃げました」。さすが預言者、ヨナは神の本質を的確に見抜いていました。「わたしは、急いでタルシシに逃れようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それが嫌で嫌で、我慢なりませんでしたァ(ヨナ書4:2参照)。神さまはヨナを諭します。「あなたの怒るのは良いことか、それは正しいだろうか。あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ書4:10-11参照)。神さまが12万人あまりの人と多くの家畜を惜しむ。しかもそれは、左右を弁えない人々だと仰る。左右を弁えないなら、前後ろも何もかも弁えない、あまりに迂闊で粗忽で粗末な人々です。にもかかわらず、滅びるままに捨て置くのに忍びない。皆さん、どうぞ大喜びに喜んでください。こういう神さまであり、こういう救いの取り扱いです。本当のことです。
 救い主イエスの弟子たちも、かなり心が頑固で、そのため救い主イエスを信じることも、その救いを受け取ることも、なかなかできませんでした。そうか、元々は怒りの子であり、平和を造り出すどころがその破壊者でありつづけた人々が、けれどやがてどうやって平和を造り出す者たちへと変えられていったのか。そのことを語ろうとしていました。十字架におかかりになる前の晩、主イエスは食事の席で弟子たちに仰いました、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている」(ヨハネ福音書14:26-28。十字架上で殺され、墓に葬られ、その三日目に復活した主イエスは弟子たちのところにご自身の平和を携えて現れました。『平和』とは、誰もが皆、安らかであることです。つまならいことで目くじら立て合ったりイガミ合ったりせず、誰をも恐れたり恐れさせたりせず、人に対して恥じ入ることも恥じ入らせることもせず、互いに受け入れ合う広々とした場所です。けれど主イエスの弟子たちは、平和とは正反対の薄暗く狭苦しい場所で、小さくなってガタガタ震えていました。だからこそ主イエスはそこに現れ、「安かれ」とお命じになりました。安かれ、私があなたがたに与えておいたあの平和が、ちゃんとあるように。「そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう』」(ヨハネ福音書20:19-23)
 さて、罪のゆるしの究極の作法と流儀を、教えられてきた通りにそのまま伝えましょう。コリント手紙(2)5:18-21です、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。最大のポイントは、19節、『その罪過の責任をこれに負わせることをしないで』という流儀。そのようにゆるされた私共は、『その罪過の責任をこれに負わせることをしないで』という同じ流儀と同じ作法で、神さまのゆるしを家族や隣人や友人たちに伝え、手渡してゆきます。『平和を造り出す幸いな者』の正体と中身は、主イエスのあの約束です。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:26-27。平和と幸いの中身は、それゆえ主イエスご自身です。乞食のように貧しくなってくださった方がおられます。私たちの貧しさと、滅びてしまうほかない悲惨さのために悲しみ、深く憐れんでくださり、身を屈めて私たちと同じくなってくださった、それどころかご自分を虚しくなさり、十字架の死にいたるまで御父に従順であってくださった、あの柔和なお独りの方を。羊のように物言わず、ただただほふり場に引かれていき、生命を取られてくださったお独りの方が確かにおられます。ご自分の平和と幸いを私たちに差し出し、残していってくださり、「あなたがたに平和と幸いがあるように」と、少しも平和ではなかった不幸せだった弟子たちの只中に立って、てのひらと脇腹の傷跡を見せてくださり、「それでもまだまだ少しも平和ではなく幸いにもなれないのか。それではあなたの手を私の脇腹にいれてかき回してみよ。あなたの手を私の手のひらの釘跡に入れて確かめてみなさい。信じないあなたでなく、信じるあなたになりなさい」と疑い深いトマスと私たちに詰め寄ってくださったお独りの方が確かにおられます(ヨハネ福音書20:24-29参照)。主イエスが造って、贈り与えてくださった『神を愛し尊び、隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと』という主イエスの平和を、後生大事に抱えつづけ、そっくりそのまま手渡す。だから、ここはキリストの教会であり、私たちはクリスチャンです。つまり順序が逆でした。ただ恵みと憐れみによって神のご支配の只中に据え置かれ、慰められ、分不相応に 地を受け継ぐ者たちとされ、神の義に満ち足りるようにさせられ、神ご自身をはっきりと見させられ、ただ恵みと憐れみによって神の子たる身分を授けられた。そんなにしていただく資格も道理もほんのカケラもなかったのに、そうした幸いの中に据え置かれつづけて、その結果として、私たちは3-10節に言い表されるような人々となっていく。だんだんと少しずつ。格別に幸いな人たちよ。キリストご自身の幸いを贈り与えられ、「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡ください」という不在通知の伝票に気づき、電話して贈り物を届けていただいて、「あらまあ」と喜びにあふれた幸いな人たちよ。これでようやく私たちは、自分たち自身の法外で分不相応な幸いを、存分に、満ち足りるまで、喜び祝うことができます。喜び、喜べ。なぜなら主は近いからです。事々に、感謝をもって祈りと願いとをささげ、求めるところを神さまに申し上げましょう。もし、そうするならば、主イエスの平和と幸いが私共の心と思いとを、キリスト・イエスによって守ってくださるからです(ピリピ手紙4:4-7参照)

      ()アメリカ合衆国。公民権運動。1607年の入植当時から北アメリカでの奴隷制度は開始された。1964年に公民権法が制定されるまで、アフリカ系アメリカ人に対する公民権の適用と人種差別の解消を求める大衆運動は続いた。法制定後もなお、差別・偏見による暴行などの犯罪は増加・過激化している。インディアン、メキシコ系、アフリカ系、アジア系、アラブ系住民に対する根深い差別が残る。
       ()南アフリカ共和国。人種隔離(アパルトヘイト)政策とその撤廃を求める市民運動。1948年に差別・隔離政策が確定される以前から様々な差別立法が存在した。国内での根強い抵抗運動と共に、国連総会は1952年以降毎年非難決議を採択し、1973年に国際連合総会で採択された国際条約において「人道に対する罪」と糾弾され、1994年にようやく人種隔離政策は撤廃された。
       ()201438日の浦和のサッカー試合場で、「日本人以外はお断り」の横断幕が掲げられつづけたことを球団経営者も選手も監督も観客も、サッカーファンでなくたって、決して忘れてはならない。「観客なしの試合」という厳重処罰がチームに科せられたことも。国連規約人権委員会が日本政府に対してヘイトスピーチの禁止を求める勧告(20147)。国連人種差別撤廃委員会が日本政府に対してヘイトスピーチの法規制を促す勧告(同年8)。京都の朝鮮学校に対するヘイトスピーチをめぐる訴訟で、最高裁が「人種差別」と認定する決定を出す(同年12)。民主党などが人種差別撤廃施策推進法案を国会に提出し、法案審議が始まる見通しだった。が、「表現の自由」との兼ね合いなどで合意できず、与党は審議入りを見送るとした(2015827)。ああ。


2015年8月23日日曜日

8/23こども説教「道ばた、土の薄い石地、いばらの土地にも」マタイ13:1-9,19-23

/23こども説教 マタイ福音書13:1-919-23      
 『道ばた、土の薄い石地、
   いばらの土地にも』         2015,8,23 牧師かねだせいじ

13:1 その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。2 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞くがよい」。……19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。        (マタイ福音書13:1-9,19-23)

  たとえ話なので、何が何をたとえているのかと心に留めながら読む必要があります。どこにでも出かけて行って、どんな土地にも分け隔てせず選り好みせず種を蒔きつづけるこの奇妙な種まきは、誰の人でしょう? 神さまです。私たち人間だったら、こんな蒔き方はしませんね。「私たちとはずいぶん違う神さまなんだなあ」、これがいつもの出発点です。どこにでも出かけて行って、どんな土地にも分け隔てせず選り好みせず種を蒔いている。どうして? 暇で暇で、他にすることもなくて仕方なく、ではありません。芽が出ても出なくてもどっちでもいい、と投げやりに無責任に蒔いているのでもありません。芽を出して茎や葉を伸ばして花を咲かせて実がなることを、この種まきは夢見ました。「この土地にもこの土地にも、ぜひ良い実を結んでもらいたいなあ」と。それを楽しみにして、ワクワクしながら待ち構えて、それでどこにでも出かけて行って、どんな土地にも分け隔てせず選り好みせず種を蒔いています。
  道ばた、土の薄い石地、いばらの土地、そして良い土地。御言葉を聴き続けている私たちは種を蒔かれた土地です。さて、あなたはどんな土地ですか? などと意地悪なことは言いません。むしろ、はじめからずっと良い土地など、世界中どこにもありません。根は少しずつ、だんだんと長く太く伸びていきます。種を食べようとする悪い鳥はどこにでもいて待ち構えています。いろんなことを思い煩って、心配事も気にかかることも山ほどあって、用事も約束も次々あって、それらが雑草やイバラのように、せっかく聞いて腹に収めたはずの御言葉を塞ぎます。惑わしたり唆す者たちが、あなたや私の耳元でしょうもないことを朝から晩まで囁きかけます。おかげで、聞く耳がすっかり塞がりました。だいたいどの土地も、あなたも私も同じようなものです。けれど道ばたの土地さん。土の薄~い石っころだらけの土地さん。ついこの間まで茨にすっかり覆われていた土地さん。ほらほら、あなたのことですよ。ではなぜ、その一つの土地が良い土地なのか。なぜ、あなたも今ではなかなか良い土地になったのか? 良いお百姓さんに、ちゃんと世話をされているからです(コリント手紙(1)3:4-9,(2)9:8-11,126:5-6参照)。土が足りなければ土をせっせと加え、肥料も蒔き、耕して木の根や石っころを取り除き、水をまき、悪い鳥が飛んできて種や実を食べようとするなら追い払い、雑草をむしり、悪い病気にかかったら薬をつかい、悪い虫がついたら取り除いてあげて、朝も昼も晩もその畑を気遣って世話をしてくれるお百姓さんがいてくれるなら、その土地は良い土地でありつづけます。かぼちゃやなすやトマトを育てているお百姓さんの仕事を、一日中ずっと眺めたことがありますか。あるいは何ヶ月もつづけて眺めたこともありますか。少しくらいならお手伝いしたことがありますか。大変なんです。朝から晩まで、その種のためにしなければならない仕事が山ほどあります。日照りがつづいたり、台風が襲うとき、モグラやイノシシなどが大切な作物を食い荒らすとき、お百姓さんは気が気ではありません。心配で心配で、畑を何度も何度も見回ります。その土地は、ずいぶん前には木の根と石ころだらけの粗末な土地でした。土も薄かった。雑草も茨も、ちょっと目を離して油断した隙にウジャウジャ生えてきました。でも手入れをしているうちに、今ではとても良い土地になりました。ああ良かった。私のお百姓さん、ありがとうございます。ありがとうございます。今後共よろしくお願いします。


8/23「神ご自身の義か。私たちそれぞれの義か」~幸いである理由2~マタイ5:1-10

                                         みことば/2015,8,23(主日礼拝)  21
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:1-10                   日本キリスト教会 上田教会

『神ご自身の義か。私たちそれぞれの義か』
~幸いである理由.2~
         牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)
                        (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
                                                           (マタイ福音書 5:1-10)

3-10節、「幸いである。幸いである、幸いである」と繰り返されます。けれどもちろん、これは一般的な意味での幸福論ではなく、こうすれば幸いになれるという教訓話でもなく、『他のどこにもない格別な幸いを差し出してくださる、格別な神さまがおられます。あなたも、この神さまから幸いを受け取ったらいかがですか』というお誘いであり、勧めです。しかも悪質なサギの類いとも無縁で、しつこく勧誘されることも一個数千万円のしょうもない壺を売りつけられることもありません。びっくりです。さて、幸いというこの格別な贈り物もまた、送り手と受け手との相互のやり取りの中で手渡され、受け取られ、そこでようやくその人のための贈り物となります。何度も申し上げていますが、例えば、「この素敵なボールペンをあなたにあげますよ」「はい、いただきます。ありがとう」と受け取って初めて、その贈り物は成立します。また、宅急便のように受け取られます。「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡ください。○○○運輸」などと不在者通知が郵便受けに何枚も何枚も溜まっている。それだけでは、届け物を受け取ったことになりません。気がついて電話し、届けてもらい、ダンボール箱のフタを開け、「◇○君からのお中元か。うおお、こりゃあ嬉しい」と喜んで初めて、そこでようやく、中身が相手にちゃんと届いたことになります。実は、この『幸いである』という神さまからの贈り物。相手を選んでいません。無差別に、何の区別も分け隔てもなく条件や資格を問うことも一切なく 手当たり次第に贈り物が送られつづけています。例えばちょうど、種をまく人が種を蒔いたときのように。道端にも良い土地にも、土の薄い石地にも、茨の中にも。けれど、ぜひ芽を出させてあげたいと心から願って(マタイ福音書13:3-23参照)。ほとんどの人たちは、自分にその贈り物が送られてきていることに気づきもしません。「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡ください」「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡」「お届けに……」と不在通知の伝票が郵便受けにうずたかく積もって、床の上にまであふれて迷惑なゴミの山にされつづけています。ですからこの3-10節は、不在者通知の伝票に気づいて運送会社に電話した、幸いな人々のリストです。「心の貧しい人たち。悲しんでいる人たち」につづいて、今日の名簿には「柔和な人たち」「義に飢え渇く人たち」の名が記されています。
  あまりに奇妙な宛名リストです。「柔和な人。義に飢え渇く人。憐れみ深い人。心の清い人。平和を造り出す人。義のために迫害されてきた人」など、その該当者たちを、私たちはなかなか探し出すことができませんでした。しかも、さらに奇妙なことには、『他のどこにもない格別な幸いを神さまから受け取った』私たち自身の一人一人の中身です。自分を振り返り、胸に手を当てて、つくづくと考えてみました。先週読んだところですが、「心の貧しい人」とは、施しと憐れみを求めて生きる乞食のことらしいです。林勵三牧師が小説教集(『マタイ福音書小説教集』一麦社,該当箇所)の中で紹介していました。心の貧しさをある日本語訳は「乞食」と翻訳していて、乞食の心得と在り方、ああそのとおりだと思ったと。さてこの自分自身は、神に対して乞食のようになったか、自分のどうしようもない貧しさを隠さず、取り繕うこともせず、その貧しく低い場所から憐れみを求め、「罪人の私を憐れんでください。憐れんでください、憐れんでください」(ルカ18:13,マルコ10:47と神さまからの施しを必死に切に請い求めただろうか。果たして、この私は柔和だろうか? 「自分は正しい、正しい。ちゃんとやってきた」と我を張りつづけることではなく、それとまったく正反対に、神さまご自身の義に飢え乾いて、それをこそ本気で探し求め、そのために冷や飯を喰い、迫害されただろうか。憐れみ深かっただろうか。この私は、人の二倍も三倍も格別に心が清いだろうか。平和を造り出してきたか。いいえ、他の人たちのことはよく存じ上げませんけれど、少なくともこの私は、決してそうではありませんでした。この3-10節の宛名リストにまったく該当しないのです。該当しないままに、どうしたわけか贈り物を届けられ、受け取ってしまいました。それでもなお、私たちは憐れみを受け、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされました。びっくり驚きです。おかしい、奇妙だ。おかしい、奇妙だ。しかも聖書自身が断言していました;「柔和な人は一人もいない。皆が皆、怒りの子であり、神と隣人とを憎む傾向がある」と(ローマ手紙3:21-28,創世記8:23-参照)
  私たちだけではなく、ただ一人の例外もなく、他すべての人間が3-10節の宛名リストに該当しません(ローマ手紙3:21-27)。元々柔和だった者はただの一人もいなかった。そうですね。初めには、私たちの誰一人として神の義を知らず、それを求めることも重んじることも知らなかった。ローマ手紙10:1-4がはっきりと証言しました;「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」。互いに相容れない、まったく正反対の二種類の義が指し示されています。神ご自身の義、そしてもう一方には、「私が私が。それなのにあの人は、この人は」と言い立てて止まなかった私たち人間のそれぞれの義。国家や民族の義、個人個人の義、そして個々のキリスト教会の義、私たちの教会の義、一人一人のクリスチャンの義です。むしろ神ご自身の義をすっかり忘れて、私たちはそれぞれの義を立てようとしつづけています。この814日に、戦後70年の「安倍談話」が閣議決定されて公表されました。この、私たちが選挙で選んでしまった、私たちの内閣総理大臣こそが、自分の義を立てようとし、自分の義にしがみつこうとするこの私たち自身の生臭さや醜さをはっきりと代弁し、私たちの狡さと自己正当化を鏡のように映し出しています。内閣総理大臣安倍晋三は、私たち自身です。「植民地支配」「侵略戦争」「人権蹂躙」「女性たちや子供たちの尊厳、名誉が深く傷つけられた」などと正しく美しい言葉をいくら並べ立てても、それは何の意味も持ちません。「深く頭をたれ、痛惜の念を表す」とか、「言葉を失い、ただただ断腸の念を禁じえない」とか、「痛切な反省」などと語りながら、自分自身の心も腸もほんの少しも痛くないからです。「ヨーロッパ諸国やロシアやどこかヨソの国がアジア諸国を侵略し、植民地支配し、人権やその尊厳を踏みにじった。そういう侵略者に抵抗して日本は日露戦争を雄々しく戦った。アジア諸国はその姿を見て励まされ、勇気づけられた」などとあの彼は語ろうとしていました。そういう美しくご立派な話ではなくて この日本という国が現に確かに侵略し、アジア諸国と沖縄を植民地支配したし、この日本という国が今なお女性や子供や他の民族や、それどころか同胞である多くの日本人の人権やその尊厳をさえ踏みにじってきた」と、本気になって告白せねばなりませんでした。兄弟姉妹たち。私たちの国は、どこかの悪者のためにひどい目にあった被害者や犠牲者ではなく、豊臣秀吉の1592年からの朝鮮出兵も、1894年からの日清戦争も1904年からの日露戦争も1931年からの日中戦争も1941年からのアジア太平洋戦争も皆すべて日本の領土を広げ、ヨソの国の資源を奪おうとする侵略戦争でした。当時は琉球王国と呼ばれ、元々他の国だった沖縄を1609年以降にまず薩摩藩が、続いて明治政府が日本の領土としたのも「向こうからぜひそうして欲しい」と頼まれたわけでもなく、力づくでわが国の領土とし、植民地としたのです。先祖と私たちは当の侵略者自身であり、加害者であり、人権と尊厳を踏みにじりつづける張本人です。今も現に沖縄とその人々を植民地扱いしつづけています。歴史を学ぶとはそのことです。その歴史からほんの少しも学ぼうとしないからこそ、再び70年前とまったく同じことを私たちの日本国はいま直ちに繰り返そうとしています。しかも 私たちのあの内閣総理大臣の醜さと狡さは、戦中戦後の日本のキリスト教会の、この私たち自身の醜さと狡さそのものです。――ああ、そうだったのか 道理で、私たちはなかなか柔和になれず、いつまで待っても、心が清くも憐れみ深くもなりませんでした。「幸いである」と太鼓判を押していただいていますのに、けれどその実態はあまりに「不幸せ」でありつづけます。私たちは、先輩たちから何を聞いてきたでしょうか。この国のキリスト教会はどんな談話を残したでしょう。「だって仕方がない、仕方がない」ともっぱら被害者の側面ばかりを物語ってきたでしょうか。それとも、「皇運を扶翼する(=こううん・ふよく。天皇陛下をお助けし、陛下のものである国を強く豊かにするため励むこと)ため、わが国とアジア諸国の平和貢献のため、大東亜共栄圏建設のため、むしろ率先して、植民地支配や侵略や、女性や子供や他の民族や、同胞である多くの日本人の人権やその尊厳をさえ踏みにじることに、私たちのキリスト教会は積極的に加担し、晴れ晴れとして国家のための旗を振り、胸を張って協力さえしつづけた」と正直に語られたでしょうか。
 しかも兄弟たち。二種類の、互いに相容れない、まったく正反対の義があることを、私たちはずいぶん長い間忘れつづけました。神さまご自身の義。そして、私たち人間それぞれの義と。けれど私たちクリスチャンは、キリストの教会は、主イエスご自身から、何と指図されていたのでしょうか。どういう弁えで毎日を暮らすようにと仰せつかってきたでしょうか。「何を食べようか飲もうか着ようか、月々の生活費、老後の蓄え他もろもろ。あるいは教会も右肩下がりでジリ貧で、人数も経済も落ち込み、子供も若者もいなくなって年寄りばかりになってしまった、真っ暗闇でどうしようか。いいや、そんな心配は要らない。これらのものは皆、異邦人に負けず劣らずあなたがたが切に求めているとよく知っている。天の父は、これらのものがことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。たとえそうであるとしてもなお それなら、なおのこと まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」(マタイ6:31-33参照)。添えて与えられる約束も御父の御心も、この私共は、すっかり忘れていました。「なによりまず神の国と神の義。一にも二にも、神の国と神の義。三にも四にも五にも六にも神の国と神の義」とよくよく念を押されていましたのに、そっちのけにして他のことばかりを求め、思い煩いつづけています。そのおかげで、その結果として、添えて与えられるはずのすべて一切を私たちはことごとく失いつつあります。私たち自身の没落と失望と死の陰の理由はここにあります。なんということでしょう。けれど、ついにとうとう思い出しました。あの3-10節の、この世のどこにもないほどの、あまりに奇妙で稀有な該当者リストに該当するただお独りのお方を。私たちの救い主イエス・キリストを。乞食のように貧しくなってくださった方がおられました。私たちの貧しさと、滅びてしまうほかない悲惨さのために悲しみ、深く憐れんでくださり、身を屈めて私たちと同じくなってくださった、それどころかご自分を虚しくなさり、十字架の死にいたるまで御父に従順であってくださった、あの柔和なお独りの方を。羊のように物言わず、ただただほふり場に引かれていき、生命を取られてくださったお独りの方が確かにおられますことを。ご自分の平和と幸いを私たちに差し出し、残していってくださり、「あなたがたに平和と幸いがあるように」と、少しも平和ではなかった不幸せだった弟子たちの只中に立って、てのひらと脇腹の傷跡を見せてくださり、「それでもまだまだ少しも平和ではなく幸いにもなれないのか。それではあなたの手を私の脇腹にいれてかき回してみよ。あなたの手を私の手のひらの釘跡に入れて確かめてみなさい。信じないあなたでなく、信じるあなたになりなさい」と疑い深いトマスと私たちに詰め寄ってくださったお独りの方が確かにおられますことを(イザヤ書53:1-12,ピリピ手紙2:5-11,ヨハネ福音書20:24-29参照)。この3-10節のリストを読み上げながら、私たちは何を思い描き、いったい誰を想定していたでしょうか。柔和で、神の義に飢え渇き、神ご自身の義のために迫害され、命さえ取られ、心の清い、平和を造り出し、建てあげ、差し出した、そのようないったいどんな理想的な人間たちを思い浮かべることができたでしょうか。塩狩峠のあの青年ではなく、八重の桜でも華岡青洲の妻でもなくマザーテレサでもキング牧師でもネルソンマンデラでさえなく、あなた自身や、信仰歴70年、8090年のご立派な大先輩のことでもさらさらなく、周囲の素敵そうに見える理想的なクリスチャンの誰彼のことでもなく。しかも少しも柔和でなかった、心も手も清くも潔くもなかった、憐れみ深くもなかったどうしようもない私たちに、ただお独りの該当者イエス・キリストが、その幸いと平和を贈り与えてくださったことを思い起こし、知り、魂に深々と刻み込むまでは、それまでは、私たちはいつまでたっても不幸せなままです。いつまでたっても、ちっとも平和ではありえない。いいえ、それどころか、はっきりと断言されていたとおりに、すべての人の中で最も哀れむべき存在でありつづける他ないでしょう(コリント手紙(1)15:19参照)。なぜ、私たちすべてのクリスチャンがただ一人の例外もなく皆、全員、幸いでありうるのか。教えられ、はっきりと習い覚えてきたとおりに、キリストが教会の頭であり、この私共一人一人がその体の肢々と現に確かにされているからではありませんか。そうでありますのに、一体なぜ、この私たちは度々、不幸せなのか。頭であるはずのキリストをそっちのけにし続けているからではありませんか。大勢で集まって、ワイワイガヤガヤ賑やかに盛り上がっても、「えいえいおう」と掛け声かけあって一致団結しても、「立派な教会であり、素敵な私たちだ」と胸を張って見せても、その結果、再び高度経済成長期のように右肩上がりになって若者も子供たちも教会にドッと押し寄せても、ありえないほど商売繁盛したとしても、それで私たちは幸せにも平和にもなれるはずがありません。だって、すでにいただいているからです。彼は仰いました。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている」。また、こう約束なさいました、 「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書14:26-28,16:31-33。まだ間に合います。キリストの幸いの内に沈め入れられた私たちであり、その体の肢々であるわたしたちだ、本当にそうだと思い起こせるなら。なぜなら平和の柔和な王、救い主イエスが約束されていたとおりに、子供のロバに乗ってエルサレムの城門をくぐったからです(マタイ福音書21:1-10,ゼカリヤ9:9)。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と、この只お独りの王さま、救い主イエスが私たちをさえ招き入れてくださったからです。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11:27-30現に、主イエスの軛を負い、主イエスに学びつづけている私たちであるからです。それゆえ、私たちもまた彼のように、柔和で心のへりくだった者へと日毎に、一日また一日と作り替えられてゆく。柔和で寛大な憐れみ深い取り扱いを受けるうちに、怒りの子だった私たちは、救い主イエスの柔和さとへりくだりに触れ、それらをだんだんと習い覚え、へりくだった柔和な人となっていく。これが神さまからの約束です。つまり、順序が逆でした。ただ恵みと憐れみによって神のご支配の只中に据え置かれ、慰められ、分不相応に 地を受け継ぐ者たちとされ、神の義に満ち足りるようにさせられ、神ご自身をはっきりと見させられ、ただ恵みと憐れみによって神の子たる身分を授けられた。そんなにしていただく資格も道理もほんのカケラもなかったのに そうした幸いの中に据え置かれて、その結果として、私たちは3-10節に言い表されるような人々となっていく。だんだんと少しずつ。格別に幸いな人たちよ。キリストご自身の幸いを贈り与えられ、「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡ください」という不在通知の伝票に気づき、電話して贈り物を届けていただいて、「あらまあ」と喜びにあふれた幸いな人たちよ。キリストご自身の幸いと平和を受け継いだ人々よ。これでようやく私たちは、自分たち自身に贈り与えられ、委ねられた、法外で分不相応な幸いと平和を、存分に、満ち足りるまで、喜び祝うことができます。喜び喜べ、すでに十分すぎる報いを私たちは受け取っています。