2017年12月27日水曜日

12/24こども説教「神の国は私たちの只中にある」ルカ17:20-21

 12/24 こども説教 ルカ17:20-21
 『神の国は私たちの只中にある』

17:20 神の国はいつ来るのかと、 パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。 (ルカ福音書 17:20-21

  ケンちゃん。『神の国』の中身は、神さまが王さまとしてご自分の国を守って、しっかり働いておられる場所ということです。ですから、その国に住んでいる者が安心して嬉しく毎日毎日を暮らしていけるかどうかは、もっぱら王様である神さまにかかっています。その国に住む誰かがなにかで困っている。すると、神さまが、その人たちの一つ一つの困ったことや心配事を取り除いてくださる。「もし神さまがいるとしてもどこか、ず~っと遠いところにいて、誰か他の人たちの世話をしたり面倒をみているんだろう。私のことなんか見向きもしてくれない」とガッカリしている人たちがたくさんいました。それで救い主イエスが来てくださって、「いいえ。そうではありません」と教えてくださり、「もし、そうしたいと願うのなら、この私も神の国に住むことができる」と人々に分からせてくださいました。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15と。でもね、目に見えない神さまです。そのお働きも分かりにくい。神の声も、よく聞き分けにくい。だから、自分のすぐ目の前で神さまが一生懸命にたくさん働いてくださっても気づかない人たちがほとんどです。ず~っと長い間、神を信じて生きてきたはずの人々も、うっかりして度々そのことが分からなくなります。それではとても困ります。だから、主イエスは神を信じる人々に、「神の国はあなたがたの只中にある。神は、あなたがたの只中で生きて働いています」と仰った。それからずっと、「神は生きて働いておられます」と神を信じる人たちが口癖のように、自分自身に言い聞かせるように言い続けているのはそのためです。


   【補足/なぜ、そうなのか?】
   『神の国』とは、やや遠まわしな言い方です。「神は生きて働いておられる」と言いたいのです。救い主イエスが「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)と仰った意味と中身は、神である救い主イエスご自身が地上で救いのお働きをしはじめたこと。イエスご自身こそが『神の国は近づいた』ことの中身です。神が地上に降り立ち、救いの御業をなさり、その幸いの中へと人々を招きつづけています。それに先立って、最初のクリスマスの夜に、神の御使いたちが歌いました、いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2:14)と。主イエスが教えてくださった『主の祈り』の中の第二の願いは、『御父よ、あなたの国をこの地上に来らせてください』です。「神は生きて働いておられ、その働きはこの地上に、私たちの生活の只中にまで及んでいる」と受け止めながら、なお「ますます、そうであらせてください」と願い求めています。神が生きて働いておられる。それこそが、いつでもどんな時にも、私たちの希望と慰めの核心だからです。


12/24「新しい神殿が建てられる」マタイ24:1-2

                みことば/2017,12,24(クリスマス礼拝)  142
◎礼拝説教 マタイ福音書 24:1-2                    日本キリスト教会 上田教会
『新しい神殿が
建てられる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
24:1 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。2 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。       (マタイ福音書 24:1-2)
                                               
3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。(コリント手紙(1)3:16-17)


 1-2節。エルサレムの都の中にあるとても素敵で立派な美しい神殿を出てゆくとき、弟子たちは「先生。ちょっとご覧ください」と主イエスに声をかけました。他の福音書では、「先生、ご覧なさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」(マルコ13:1と話かけたと報告しています。弟子たちは、だいたいそういう気持ちでした。すると、思いのほかトゲトゲしく厳しい言葉が主イエスの口から出てきました。2節です、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないのか。よく言っておく、その石一つでも崩されずに、そこに他の石の上に残ることもなくなる」と。実は、主イエスは弟子たちに同じようなことを何度も言い続けてきました。「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(マルコ13:1,ヨハネ2:19などと。人間たちが建てた古い神殿を壊して、そのあとにまったく新しい神殿を建てあげることが、救い主イエスというお方の大きな目標でありつづけました。はじめに人間たちが神のものである祈りの家を建てたとき、そこに神さまがいてくださることを心から願いました。願いと祈りをこめて神殿を、神のものである祈りの家を建てたのです。けれど目に見えない神を見えないままに信じて生きることは、とても難しいことでした。神に喜んでいただこう、周りの人間たちにも喜んでもらおうと願って、神殿はどんどん見事に立派に大きくて美しくて素敵な建物になっていきました。けれど、その立派さとは裏腹に、神を信じて生きるはずの人間たちの心は脇道へ脇道へと逸れていって、だんだんと神さまを見失っていきました。神を信じて生きるはずの一日一日の生活も、信じる人々の心の思いも、どんどん神さまから離れて、ただ形ばかりの中身のない虚しいものになってしまいました。神さまご自身も願いました、「神を信じて生きる、嬉しくて心強い生活をもう一度取り戻させてあげたい」と。人間たちが建てた古い神殿を壊して、そのあとにまったく新しい神殿を建てあげるとはそのことです。神ご自身が住んで、そこに確かにいてくださる神殿を、神ご自身の手でまったく新しく造り上げること。
  このとき、主イエスご自身の十字架の無残な死がほんの数日後に迫っていました。人間の手で造ったのではない、神ご自身の手によるまったく新しい神殿。クドクドと何回聞かされても理解しがたいことですが、それは救い主イエスが私たち人間の罪を背負って死んで、墓に葬られ、その三日後に墓からよみがえることでした。そのようにして、ご自身が新しい神殿の土台となり、神殿そのものとなり、神の祈りの家に生命を吹き込み、神を信じて生きる人々の一つ一つの体を神殿としてその中に住んでくださることです(コリント手紙(1)3:16,6:19,エペソ手紙2:21,ペテロ手紙(1)2:5。聖書にはっきりとそう証言されているので、私たちもそれをそのまま信じました。そのようにして、神を信じて生きる生活が新しくはじまりました。この上田教会も、神さまによってまったく新しく建てられた新しい神殿の一つです。この土地で伝道を開始したのはわずか140年ほど前のことですが、そこから始まったのではありません(伝道開始1876108日)。そうではなくて、2000年前のあのときに 「この古い神殿をこわして、わたし自身が三日のうちに、それを起す」と救い主イエスの断固たる宣言のもとに新しい土台を据えられ、建てあげられてきた、神ご自身のものである新しい神殿の一つです。いえ、もう少していねいに語るなら、アブラムとサライ夫婦が神の招きに応じて旅立ったときから、あるいはアダムとエバが土の塵から造られ、「地を耕し守る」ためにエデンの園に連れて来られたときから、神のものである神殿ははっきりした土台を据えられていました。だからこそ救い主イエスの系図はアブラハムへとさかのぼり、さらにアダムへとさかのぼります。神ご自身の救いのお働きの大きな大きな流れの只中に、私たちの教会も、私たち一人一人の生活も据え置かれている。それは直ちに、キリスト教会の歴史そのものでもあります(創世記2:4-,12:1-3,マタイ1:1-,ルカ3:23-。神ご自身から約束されたとおりに、クリスチャン一人一人も神さまによってまったく新しく建てられた新しい神殿の一つ一つです。聖書は証言します、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」。びっくりですね。しかも本当のことです。
 ぼくは思い起こします。自分が初めてキリスト教会に、つまり神ご自身のものである祈りの家に足を踏み入れたときのことを。またその祈りの家の礼拝の席に、内心ドキドキしながら初めて腰掛けた日のことを。地上には今や神を信じる人々の手によって数多くの美しく立派な神殿が建てられました。バチカン宮殿や亀岡八幡宮や東京スカイツリーのように、神の栄光と威厳とをそのまま地上に現したかのような壮大華麗な神殿や建築物も数多くあります。そういう神殿を喜ぶ人々もいます。「立派だ。見事だ。心が洗われるようだ。これこそ、神の偉大さと尊厳にふさわしい」。また、その一方で、そういう神殿とそこに集う人々の厳粛さや華やかさを恐れ、「こんな私では」とたじろいで悲しむ人々もおります。思い浮かべてみていただきたいのです。心に痛みを覚えて、自信を失い、恐れと不安を抱える一人の人が、ある日ふと《神のものである神殿》の前に立ち止まります。買い物帰りか、あるいはいつもの散歩の途中に。ああ、こんな所にキリスト教会が建っていたのか。「この中では何をしているのだろう。どんなことが起こっているのだろう」。そおっと中を覗き込んでみます。入り口脇の案内板の片隅に、「誰でも自由に来てみてください」と書き添えられている。誰でも、自由に来てみてください? 本当だろうか。例えば「○○さんのハーモニカを聴く会」とか何かのちょっとした催し物の際などに、あるいは床板を張り替える大工仕事を教会から頼まれて、その人は、その神殿に足を一歩踏み入れることができるでしょうか。建物の中に入っていって、そこに、自分のためにも用意されている嬉しい居場所を見出すことができるでしょうか。そうであってほしいのです。神さま、どうぞその人と私たちとをあわれんでください。その心細い一人の人のためにも、神さまご自身が、どうか広々とした平らな道を開いてくださいますように。
  神さまによって新しく建てられた、私たち人間が心に思い浮かべるような立派さや美しさとはずいぶん違った神殿。それは、救い主イエスが神でありながら生身の人間の姿をもってこの世界に生まれてくださったことと似ています。家畜小屋の家畜たちのエサ箱の中に、布切れ一枚にくるまれて、小さな赤ちゃんの姿で生まれてくださいました。どんな姿で来ることもできながら、宝石で着飾った華麗な王様の姿ではなく、武装した強い戦士の姿でもなくて、裸んぼうの一人の小さな赤ちゃんです。誰をも恐れさせたり、いじけさせたりしたくなかったからです。ほっと安心して暖かで安らかな心でいてもらいたい、と願ってくださったからです。
  神さまによって新しく建てられた神殿。それはまた、一人一人のクリスチャンの誕生とよく似ています。生きてゆく中で、私たち一人一人も良いものを身につけてきただけではなく、なくてもいいような悪いもの邪魔なものも数多く身につけてきてしまいました。風呂に入って石鹸でゴシゴシ体を洗っても取れないようなこの世の垢です。臆病さ、ずる賢さ、偏屈で意固地でわがままで、自惚れて人を見下してしまいやすかったり、いじけて僻んだり妬んだりしてしまうことや、体裁や体面を気に病み、「誉められた」と言っては喜び、「けなされた。分かってもらえなかった、ひどく誤解された」と言っては渋い顔をして心がどんより沈み、そんなことの繰り返しで、人の顔色ばかりを窺って空気を読み続けること、そのほか色々。それは、人間の手による古くて薄汚れてしまった神殿です。神を信じて新しく生きてゆくためには、それらは邪魔でした。けれど自分自身では、その邪魔な古い神殿を打ち壊すことも、新しく建て直すこともできませんでした。人間に出来ることではなかったからです。けれど神にはできます。神に出来ないことは何一つないからです。そのことを願って、信じて、神さまにこの私を新しくしていただきたいと期待して、この私たちはクリスチャンにされました。聖書は証言します;「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。・・・・・・もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ローマ手紙6:5-8
  神さまによってまったく新しく建てられた神殿。頭も心も堅く頑固になってしまった一人のおじいさんもそうでした。ニコデモという名前の、頭がカチンカチンのおじいさんでした。けれどその彼も心の奥底で激しく願っていたのです。新しい自分になりたいと。彼は世間様の目を恐れて、夜中にこっそり主イエスの所に訪ねてきました。主イエスはおっしゃいました、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」「人は年をとって、シワシワのハゲ頭のおじいさんおばあさんになってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって、オギャア、オギャアと生れることができましょうか。バカバカしい」「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」「どうして、そんなことがあり得ましょうか。あるはずがない」と渋い顔をしてニコデモは帰っていきました(ヨハネ福音書3:3-9参照)。なアんだ、だめだったのか。せっかくわざわざ訪ねてきたのにニコデモは残念だったなあ、あともう一歩か二歩のころだったのに、などと私たちはがっかりしました。けれど早合点でした。ずいぶん後になって、いつの間にかあの頑固者のおじいさんさえもが主イエスの弟子になっていました(ヨハネ福音書19:38-40参照)。そういう人もたくさんいます。ですから私たちもうっかり早合点しないように、「この人はこういう人だから」などと軽々しく決めつけてしまわないように気をつけています。どんな石頭でも頑固者でも、とても臆病になってしまった人も、見栄っ張りな人も疑い深くても、誰でも神を信じて生きはじめることができるかも知れません。新しい神殿にしていただいて、建てあげていただけるかも知れません。どうやって? さあ、私たちには分かりません。神さまだけがご存知です。人間に出来ることではなかったからです。けれど神にはできます。神に出来ないことは何一つないからです。そのことを願って、信じて、神さまにこの私を新しくしていただきたいと期待して、この私たち一人一人はクリスチャンにされました。私の大切な愛する連れ合いも、息子や娘たちも、家族の一人一人も友だちも、そうやって神さまがしてくださったらいいのにと願い続けています。

               ◇

 昔、だいぶん年上の友だちが話して聞かせてくれました。「遠い南の小さな島に、小さな小さなわら葺屋根の小屋が建っているんだよ」と。その友だちは若い頃、軍隊に徴用されて戦争に行き、たまたまその島に上陸しました。そして一軒の小屋を見つけたのです。その小屋には窓もない。ドアもない。イスさえ置いてない。強い風がちょっとでも吹くと、屋根も柱も壁も吹き飛ばされてしまうそうです。雨が滴り落ちて、粗末な床板を濡らします。けれども、その小さな小さなわら葺屋根の上には、断固として十字架が掲げられているのです。主の慈しみに生きる人々がいて、彼らもそこから呼ばわります。「わが神、主よ。私たちの祈りと願いを顧みて、今日私たちが御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、わら葺屋根のこの所に御目を注いでください。なぜなら、ここはあなたが『私の名をとどめる』と約束してくださった所です。わたしの祈りの家とすると約束してくださった所です。天にいまして耳を傾け、聞き届けて、私たちの罪をゆるしてください。捕われて遠くの土地に連れて行かれても、天が閉ざされて苦しみと悩みに打ちひしがれるとしても、そこで私たちが心に痛みを覚えて祈るならば、あなたに立ち帰ってあわれみを請うならば、そのどの祈り、ふつつかで貧しいどの一つの願いにも耳を傾けてください。どこからでも私たちを連れ戻し、救い出してください」(列王記上8:23-53参照)と。子どもたちも老人も、「わが神、わが主よ」と呼ばわります。身を屈めさせられた小さな人も呼ばわります。お父さんもお母さんも呼ばわります。健康な人も呼ばわり、病気の人も、その人の世話をし寄り添って生きる家族も呼ばわります。淋しい人も、孤独な人も、生きる希望や喜びを見失いかけていた人さえも、「わが神、主よ。どうか私たちの祈りと願いを顧みてください」と呼ばわります。それまで神を知らなかった者たちであっても、主の大いなる救いの御業を耳にします。「まず1回来てみなさいよ」と誘われ、呼ばわりはじめます。誰に遠慮することもなく、恐れることもおじけることもなく、晴れ晴れとして、そこから呼ばわることをしはじめます。それらは、やがて大きな大きな歌声になるでしょう。耳を傾けてゆるす神に向かって。慈しみの主に向かって。






2017年12月18日月曜日

12/17こども説教「あの9人はどこへ行ったか?」ルカ17:11-19

 12/17 こども説教 ルカ17:11-19
 『あの9人はどこへ行ったか?』

     17:11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。12 そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病の人々に出会われたが・・・・・・。14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。      (ルカ福音書 17:11-19

  とても困って苦しんで生きていた10人の人たちを、主イエスはその苦しみから救い出してあげました。体が清くされた後で、その体を祭司たちに見せるのは、「病気がちゃんと治ったので他の人々の中に戻って暮らしてもよい」と祭司たちに許可してもらうためです。彼らは病気の苦しみだけでなく、他の健康な人から遠く離れて暮らす惨めさや淋しさを抱えて生きていました。
 主イエスのところに戻ってきて感謝したのは、10人の中の1人だけです。「他の9人はどうしたのか?」と主イエスが問いかけます。他の9人のことがとても心配だからです。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけてもらえたのは1人だけでした。残りの9人は、このとても大事な言葉を聴きそこねてしまったのです。だから、心配で心配でしょうがない。あの10人も私たち一人一人も皆、「主イエスを信じる信仰がこの私を救った。救い続ける。だから安心して出かけてゆくことができる」とよくよく覚えている必要があります。なぜ、なんのために? この病気は治っても、別の困ったことや苦しいことが次々に起こるからです。誰でもそうです。「主イエスを信じる信仰がこの私を救った。救い続ける。だから」とよく覚えた人は、何度でも何度でもどこからでも、主イエスを信じる信仰によって救われつづけて生きることができます。もし、そうではないなら、次になにかとても困ったことや辛いことが起こったとき、その人はどうなるでしょう? 大丈夫でしょうか?

   【神への感謝を心に刻む理由】
   「神が助けてくださった」と知っている人たちは、だから幸いです。その感謝がますます神に信頼を寄せさせ、神に聴き従って生きさせ、神からの祝福と幸いを受け取りつづけさせるからです。詩篇103:1-5。讃美歌20番;「主をほめよ我が心、いまわのときまで。わが生くる日のかぎり主をたたえまつれ。この身と魂を贈り与えてくださった神を」。


12/17「偽善者の不幸」マタイ23:1-36

          みことば/2017,11,17(待降節第3主日の礼拝)  141
◎礼拝説教 マタイ福音書 23:1-36                 日本キリスト教会 上田教会
『偽善者の不幸』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
23:1 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。4 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。・・・・・・8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。9 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。11 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。12 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。・・・・・・27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。                  (マタイ福音書 23:1-28)
                                               


  この23章全体は、主イエスが神殿の境内でお語りになった最後の説教です。律法学者たちとパリサイ派の人々をきびしく非難していますが、むしろそれらはすべてのキリスト教会とクリスチャンに向けて語られた戒めであると受け止めましょう。律法学者とパリサイ派の人々こそが、とても悪い、それゆえとても良い役に立つ手本であり、普段の私たち自身の姿を映し出す鏡でありつづけるからです。彼らのふり見て我がふり直せ。「主イエスがこの自分自身に向けて語りかけてくださっている。それは愛情深い警告だ」と受け止められるなら、私たちは幸いです――
  まず1-4節については、少しよく考えてみる必要があります。『モーセの座に座っている』2節);聖書に基づいて信仰を教える務めを担っているということです。それならば、(牧師や長老や執事やなにかの委員だけではなく)クリスチャンである私たち皆が、その同じ一つの務めを担っていることを思い起こしましょう。もし誰かが、信仰をもって生きることに関して何事かを誰かに教えたり指図したりするとき、それを聞いている私たちクリスチャン皆は、それが果たして聖書の信仰に基づいて語られているのかどうかを自分自身で判断することができます。よく分からないときには、「失礼ですが、それは聖書の何ページに書いてありますか?」とその人に質問しましょう。神の御心にかなっていると分かったならば、その人に聴き従うことができます。聖書から来た教えではなく、主イエスを信じる信仰から来た教えでもないならば、決して聞き従ってはなりません。また、「それらしいことを言うだけで自分では実行しない」ということと、「重い荷物を人々に持ち運ばせるが、自分では指一本も動かさない」ことについては、大きな疑問が残ります。そもそも、『神が私たちに背負いきれないほどの重く苦しい荷物を運ばせる』などと聖書の何ページに書いてあったでしょうか。いいえ、どこにも書いてあるはずがありません。そんなブラック企業の悪徳雇用主のような神ではないからです。私たちの神は、私たちが支えなければ倒れてしまう神ではなく、私たちが担いで運ばなければ動けない神でもないからです。神を侮ってはなりません(イザヤ1:11,46:1-2,55:1-2。その人々の語る言葉も行いも、両方共が間違っていることも大いに有り得ます。主イエスご自身が、別のときに、「あなたがたは私の語った言葉によってすでに清くされている。わたしにつながっていなさい。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」と、はっきりと保証なさったからです。その人々が語りつづけている言葉と理屈は、もしかしたら主イエスから出てきた、また自分自身と人々を主イエスへと向かわせる言葉ではないかも知れないからです。「重い荷物を人々に持ち運ばせて自分では指一本も動かさない」ことも、そうした福音の中身に反しています。主イエスからの、主イエスご自身の荷物であるならば、それは軽い荷物であり、安らぎをもたらすはずの喜びと慰めにあふれる荷物であるはずだからです。もし重くて苦しすぎるのなら、その荷物はどこか別のところから来た別の荷物であるかも知れません。なぜなら、ご自身がこうおっしゃいました;「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(ヨハネ15:3-4,マタイ11:28-30ちょうど良かった もうすぐ定期総会です。総会前の数週間と当日の長老と執事の選挙のとき、このことを思い起こしていてください。一年前の総会の選挙の際にどんなことが起こったのかも、はっきりと思い出しておきましょう。救い主イエスの「魂に休みを与える。荷は軽い」というこの証言(マタイ11:28-30に反することを、私たちはしてはいけません。神の恵みを無にしてはならないからです。ですから、(1)重すぎる荷物を自分自身で背負ってはいけません。また、(2)他の兄弟姉妹に「この人には重すぎるだろう。担がせると苦しくて困るかも知れない」と分かっていながら、なお荷物を無理矢理に背負わせてはいけません。その人のためにならず、教会のためにもならない上に、自分自身はとても悪いパリサイ人の仲間入りをしてしまうからです。私たちの千倍も万倍も神ご自身が生きて働いておられると分かっているならば、『ごく軽い荷物だけを、軽くて安らかだと分かって喜んでいる人にだけ』背負わせてあげましょう。もし、そうでないなら、神さまに対して申し訳ない。仲間たちにも自分自身にも大きな災いを招きます。そのようにして、もし仮に誰一人も荷物を担う者がいない場合にどうなるのか。神ご自身のものである教会なので、もちろん神ご自身が軽々といくらでも担ってくださいます。神が生きて働いておられるとはそのことです。
  4-12節。「経札(きょうふだ。新共同訳では、「聖句の入った小箱」。申命記6:8「あなたの手につけて、あなたの目の間に置いて覚えとし」,13:9」;聖書の言葉を書いたものを身につけておく道具。「教師。先生」などと呼ばれることはある程度は仕方のない場合もあります。けれど、きびしく戒められていることは覚えておきましょう。宴会やさまざまな席で「上座。上席」に座ることも同様です。そこには、「人様からよく見られたい。尊重されて特別扱いされたい」という欲望やウズウズする自尊心が働きます。神の御前にいることをうっかり忘れてしまわないように、自分自身の身と心をよくよく慎んでいなければなりません。ときどきお互い同士で、「このご立派な偉い先生のとなりに私なんかが座らされて、なんだか」とモジモジしあったり。ええ? 「畏れ多くて」とかしこみ崇めていい相手は、ただただ神さまだけ。先生はただ独り、私たちはみな兄弟同士。尊ばれるべき天にいます御父もただ独り、教師もただ独りキリストだからです。そのことを差し置いてしまいやすい性分を抱える私たちだからです。12節、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」。そのとおり。
  少し省略して、23-28節。「はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。・・・・・・あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」。23節で「律法の中で最も重要な公平とあわれみと忠実とを見逃している」。公平とあわれみと忠実とは『隣人を愛すること』と『主を愛すること』の中身を言い直しています。神の御前での公正と憐れみであり、ただただ神に対する忠実です。神から憐れんでいただいた私たちなので、同じく隣人に対しても公正と憐れみとを差し出しつづけねばならない。なにより、主なる神への忠実が私たちにそれを促す。また、隣人を愛し、神への忠実に生きるはずの私たちが制度やしきたりや格式や体裁を取り繕うことばかりに終始し、人に見せることばかりに気をとられ、白く塗った墓に成り下がっているではないか。白い墓そのものではないか。それは、私たち自身のことです。もちろん私たちの教派団体を含めて 今日のキリスト教会の衰退の理由は、なにより、神さまから憐れみを惜しみなく注がれつづけてきたことを忘れてしまったからかも知れません。神への忠実に生きるはずの私たちであることを、そのためすっかり見落としてきてしまったからかも知れません。もう25年も前のことですが、一人の親しい先輩が教会の機関誌に素敵な文章を残してくれました、「わが日本基督教会も今や気息奄々(きそくえんえん=息も絶え絶え)、この時代からはさびしく取り残された遺物のようです。あれも駄目、これも駄目と批判に明け暮れているうちに気づいてみると自らがやせ衰えていたというわけなのです。・・・・・・日本基督教会は、これまであまりにも自らを誇りすぎてきました。神学的にしっかりしている、教会的だ、告白的だというふうに。自画自賛ほど恥ずべきものはありません。傲慢、これほど厄介な罪はありません。罪の中の罪、罪の根であります。言うのもつらいことですが、日本基督教会はいま再起不能に近い状態にあります。しかし私たちはこのときこそ感謝すべきなのです。ようやく恵みの道が見えてきたのですから。『主がこれを負わせられるとき、ひとり座って黙しているがよい。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ』、『いや治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか』(哀歌3:28-30,コリント手紙(2)12:9,リビングバイブル訳)」(説教「満ち足りるまでにはずかしめを受けよ」宇田達夫,「福音時報」19925月号)
  29-39節。数多くの預言者たちが主なる神のもとから遣わされつづけ、ある者は殺され、十字架につけられ、ある者は会堂でむち打たれ、町から町へと迫害され、主に仕える多くの働き人たちの血が流されました。「それらの血の報いがことごとく私たち自身に及ぶ。みな今の時代に及ぶ」と主イエスがおっしゃいます。それらの中でとくに二人の人間の死が指摘されています。アダムとエバの息子「アベル」のこと。また、バラキヤの子「ザカリヤ」のこと。(1)まず創世記4章。アダムとエバには二人の息子たちがいました。カインとアベルです。兄さんのカインの献げものは神に顧みられませんでした。神に対して腹を立てたカインは、妬んで弟のアベルを殺してしまいました。カインの献げものがなぜ神に顧みられなかったのかは、後から分かります。神さまに対してとてもとても腹を立てて、怒りにゆがんだ顔を地面に伏せたときに。「どうして顔を伏せるのか。どうして怒るのか。もし自分が正しいなら顔をあげたらどうだ。罪が門口でお前を慕い求め、待ち伏せしているぞ。お前はその罪を支配しなければならないが、できるのか? 無理だろう」(創世記4:6-7参照)と神から諫められました。それは感謝の献げものではなく、「人に見せて自慢するための献げもの」でしたし、神をあなどり、人を見下すための傲慢の献げものでした。「なんということをしたのか」と神から問い正されて、「わたしの罰は重くて負いきれません」と人殺しのカインは嘆きます。憐れみと保護のしるしを刻まれて、カインは主の前を去りました。私たち皆は、この憐れなカインの末裔です。神の憐れみなしには生き延びることなど誰にもできません。(2)歴代志下24:20-22。この「ザカリヤ」は祭司エホヤダの子であったようです。彼は、主がお告げになったとおりに主の言葉を告げ知らせました。「神はこう仰せられる、『あなたがたが主の戒めを犯して、災を招くのはどういうわけであるか。あなたがたが主を捨てたために、主もあなたがたを捨てられたのである』」と。そのために人々は主の神殿の庭で彼を撃ち殺しました。

            ◇


 そして、十字架のときがすでに目と鼻の先に近づいています。あとほんの数日のうちに救い主イエスご自身の血が流され、もちろんその尊い血が、この私たち一人一人にまで及んでいます。35-39節、「地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。神の民、新しくされたイスラエルの人々よ。また、生ける神が住んでくださる神の神殿、神ご自身のものである祈りの家とされた新しいエルサレムよ(=それは、神を信じて生きる私たちすべてのクリスチャンのことです)。よくお聞きください。告げられたとおりです。私たちも預言者たちを殺し、主のもとから遣わされた働き人たちを石で打ち殺してきた者たちの仲間です。めんどりがそのヒナを翼の下に集めるように、神は私たちと私たちの子供らを何度も何度も集めようとなさいました。けれど先祖と私たち一人一人は、神の招きに応じようとしませんでした。にもかかわらず、私たち自身と、その家族と、「上田教会という名前の神の祈りの家」も、神の祈りの家すべても、神によって見捨てられたりは決してしません。聖書は語りつづけます。神の独り子イエス・キリスト。その十字架の死と復活による救いと。それは神さまから私たちへの愛の出来事だった、と聖書は語ります。「キリストは罪人たちのために、ただ1回苦しまれた。ただしい方が、ただしくない者たちのために苦しまれた。あなたがたを神のもとへ導くために」(ペトロ(1)3:18)。あの苦しみは罪人たちのためでした。罪人たちとは誰のことでしょうか? ただしい方がただしくない者たちのために苦しまれた。ただしくない者たちとは誰のことでしょう? あなたがたを神のもとへと導くために。あなたがたとは誰と誰と誰のことでしょうか? 主イエスはあざけり笑われました。「十字架から降りて、自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えないのか。今すぐ、十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。けれど兄弟たち。私たちの主イエスは、『十字架から降りない』ことを決断なさいました。『自分で自分を救うことを決してしない』と腹をくくったのです。神であられる救い主の尊い血潮が流され、その血がたしかに私たちにまで及び、その血によって私たちは罪から救い出されたのです(ヘブル9:11-28。そのことを、あなたも信じられますか? あの時、神様ご自身の面子も体裁も丸つぶれでした。神さまご自身の品格も格式も尊厳も、すっかり泥にまみれていました。主の名によってこられたお独りの方によって、泥にまみれてメンツも格式も体裁も投げ捨ててくださった主イエスによって、かえって他のどこにもない格別な祝福がもたらされました。その代わりに、偽善者のための呪いと不幸せが、私たちのもとから運び去られつづけます。なんという幸いでしょう。

2017年12月12日火曜日

12/10こども説教「するべきことをする幸せ」ルカ17:7-10

 12/10 こども説教 ルカ17:7-10
 『するべきことをする幸せ』

17:7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。(ルカ福音書 17:7-10

  ケンちゃ~ん。神さまがご主人で、私たちは皆、そのしもべであり召使同士である。これこそ、とても大事な『イロハ』のイです。主人の家で、主人のいいつけに従って、主人に仕える仕事をそれぞれにします。畑を耕したり、牛や豚や鶏などの世話をしたり、草むしりをしたり、掃除や洗濯をしたり、買い物に行ったりご飯支度をしたり。言いつけられた一つの仕事を終えて主人の家に戻ってきたとき、「ごくろうさん。ごくろうさん。さあさあ、すぐに食卓について食事をしなさい」とは言われない。もし、それでカチンときて「えええ、なんで?」と嫌な顔をするなら、いつの間にか自分がしもべであり、主人の召使いであることをうっかり忘れてしまったからでしょう。召使いではなく、自分が主人であるかのように思い違いをしてしまったからかもしれません。8-10節、「かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。主人に言いつけられた、すべきことを、心を込めて精一杯にしましょう。してはいけないことを、しないでおきましょう。なにしろとても良い素敵なご主人さまだからです。この主人のことが大好きだからです。それこそが格別に幸せで嬉しい生活だからです。「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません。ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」。なんと気持ちのよい、晴れ晴れした言葉でしょうか。「私はふつつかなしもべです」と口ずさむ度毎に、心が安らぎます。朝も昼も晩も、この言葉を口ずさみつづけられるなら、とても幸せです。

  【補足/神を自分の主人とする生き方】
   「主なる神」と言い、「主イエス」と言い習わしてきました。神が主人であり、私たちはそのしもべであり召使いです。主人が、この私たち一人一人をご自身に仕えるしもべとして選んでくださいました。しかも、私たちも、この神を自分の主人とすることを自分自身でも選び取りました。「もし嫌なら、別の神々の中から好きなものを選ぶがよい」とも言われながら。「私はふつつかなしもべ。すべきことを」と肝に銘じつづけ、やがて主人から「善かつ忠なるしもべ。よくやった」と誉められるときを夢見ながら暮らします(ヨシュア記24:14-15,マタイ25:23)。


12/10「ダビデの子孫であり、しかも神?」マタイ22:34-40

             みことば/2017,12,10(待降節第2主日の礼拝)  140
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:41-46                 日本キリスト教会 上田教会
『ダビデの子孫であり、
しかも神?』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。44 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。46 イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。                         (マタイ福音書 22:41-46)
                                               
 
  パリサイ派の人たちとの対話が続いています。主イエスが彼らに問いかけます、「あなたがたはキリスト(=救い主)のことをどう思うか。誰の子なのか」と。彼らは、「ダビデの子です」と答えました。重ねて、主イエスは問いかけます。43-45節、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」」。『』は、詩1101節からの引用です。
  直ちに、主イエスに敵対する者たちは押し黙ってしまいました。一言も言い返すことができなかったからです。かと言って、「わが主よ、わが神よ」と主の弟子のトマスのように主イエスの前にひれ伏して、喜びにあふれて信じはじめることさえもできなかったからです。サドカイ派の人々もパリサイ派の人々も、どちらも聖書を熱心に読んで研究していました。「やがてダビデの子孫の中から救い主が遣わされてくる」(イザヤ9:2-7,11:1-9,エレミヤ23:5-6,33:14-18,エゼキエル34:23-24,37:24,89:20-37と預言されつづけていたこともよく知っていました。けれどその救い主は、ただダビデの子孫にすぎず、自分たちと同じ人間の一人であるとしか認めることができませんでした。「ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいる」。神ご自身から教えられて(=御霊に感じて)イスラエルの王が誰かを「わたしの主」と呼ぶならば、その相手は、生身の人間の王をはるかに超えた権威と力をもった存在、つまり神ご自身であるということです。聖書自身は、そのことをはっきりと証言しつづけていましたが、彼らは聖書をあなどり、軽んじて、神ご自身である救い主がこの世に遣わされてくるなどとは思ってもみませんでした。ましてや、目の前に立っているそのイエスという方がその方であるなどとは。たしかに、旧約聖書が約束していたとおりにやがて来られるはずの救い主はダビデの子孫として生まれる。しかも、そのお方は「ダビデが私の主と呼ぶ」とおりに、被造物にすぎない人間をはるかに超えた存在である神ご自身である。天の御父の右の座につき、御父から天と地の一切の権能を授けられた王として、この世界をご支配なさる。やがてご自身に敵対する者たちすべてを自分の足元に置くことになる(マタイ11:27,28:18,ピリピ2:10-11,コリント(1)15:24-2646節、「その日からもはや、進んでイエスに質問する者もいなくなった」。主イエスを言い負かすことができないと痛感させられて、いったんは引き下がりながら、しかもなお彼らはイエスをかたくなに拒んで、救い主イエスを殺して、葬り去ることを決心します。
  讃美歌Ⅱ編195(賛美歌21-522番)の「キリストには代えられません」をこの後で歌います。ずいぶん前に死んでいった一人の友だちがこの歌を大好きでした。もう好きで好きで、朝も昼も晩もずっと口ずさんいるって言ってました。感謝と喜びに溢れて歌うときもあるでしょう。けれど、この歌の心はそれだけではありません。むしろ、信仰の危機に直面して、崖っぷちに立たされて、そこで必死に呼ばわっているように思えます。「キリストには代えられません。代えられません」と繰り返しているのは、ついつい取り替えてしまいそうになるからです。惑わすものにそそのかされ、目も心も奪われて。キリストの代わりに、富や宝を選んでしまいたくなる私たちです。キリストの代わりに、様々な楽しみに手を伸ばしてしまいたくなる私たちです。キリストよりも、目を引く素敵で美しいものを。人から誉められたりけなされたりすることを。うっかり取り替えてしまいたくなるほど、それらが私たちの心を引きつけて止まないからです。なぜ、そうだと分かるのか。繰り返しの部分に目を凝らしてください。あまりに過激です;「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ」。とても切羽詰っていて、緊急事態のようです。ここまで彼に言わせているものは何なのか。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ。そうでなければ、私は目がくらみ、今にもキリストをポイと投げ捨ててしまいそうなので。他の讃美歌も同じ一つの心で歌います、「十字架のほかには誇るものあらず、この世のもの皆、消えなば消え去れ(=もし消えるっていうんなら、いいですよ、それでも。構いませんから、どうぞ、さあ消え去ってくださいな)(讃美歌142(2)。主イエスご自身は仰る、「どんな召し使いも二人の主人の両方共に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」(マタイ6:24,ルカ16:13)。そして気がつくと、心が2つに引き裂かれた、ほどほどのクリスチャンが出来上がっていました。あのイソップ童話のコウモリのようなクリスチャンです。動物たちの間では、「私も動物です。仲良くしましょう」。鳥たちの間では、「ほら見てください。私も鳥です、羽根を広げてパタパタ飛ぶこともできますから」。お前はいったいどっちなんだ。何者なのか、誰を自分の主人として生きるつもりなのかと厳しく問い詰められる日々がきます。あれも大切、これも大切、あれもこれも手放したくないと山ほど抱えて生きるうちに、主イエスを信じる信仰も、主への信頼も、主に聴き従って生きることもほどほどのことにされ、二の次、三の次に後回しにされつづけて、気がつくととうとう動物でも鳥でもない、どっちつかずのただ要領がいいだけの生ずるいコウモリが出来上がっていました。心を鎮めて、よくよく考え、自分で自分に問いただしてみなければなりません。何が望みなのかと、何を主人として私は生きるつもりのかと。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。誰にもできるはずがない。だからこそ、この祈りの人は、「このキリストが私に代わって死んでくださった、本当にそうだ」と、自分自身に言い聞かせ言い聞かせしています。一途に、目を凝らしつづけています。
  さて、「救い主イエス・キリストが私に代わって死んでくださった。私が神の子供たちの1人とされるためだったし、こんな私をさえ罪と悲惨さから救い出すためだった」と私たちも知りました。それならば、救い出された私たちはどこへと向かうのか。どこで、どのように生きるのかとさらに目を凝らしましょう。代わって死んでいただいた。それなら私たちは、もう死ななくていいのか? あとは、それぞれ思いのままに好き勝手に生きていけばいいのか。いいえ、そうではありません。やがていつか寿命が来てそれぞれに死んでゆくというだけではなくて、クリスチャンとされた私たちは毎日毎日、死んで生きるのです。古い罪の自分を葬り去っていただいて、新しい生命に生きる者とされた。毎日毎日、死んで生きることが生涯続いてゆく。洗礼の日からそれが決定的に始まりました(ローマ手紙6:1-18参照)。『毎日毎日、死んで生きる』というその大事なことは、これまであまり十分には語ってくることができませんでした。いいえ、よく語ってこなかっただけではなくて、うっかり見落としていたのだと思えます。『古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる』ことが苦しすぎて、嫌だったので、わざと見ないふりをしていました。まったく申し訳ないことです。救い主イエスが代わって死んでくださったので、それでまるで自分は死ななくていいことにされたかのように、そこで救いの御業がすっかり完了して、終わってしまったかのように、だから後はそれぞれ好き勝手に自由気ままに生きていってよいかのように、勝手に思い込んでいました。だから、私たちはたびたび煮詰まりました。たびたび途方にくれて、道を見失いました。実は、主イエスの最初の12人の弟子たちも皆そうでした。十字架の死と復活が待ち受けているエルサレムの都に向かって旅路を歩みながら、主イエスは弟子たちに何度も何度も、ご自分の死と復活についてあらかじめ予告しつづけました。受け入れる準備をさせておきたかったのです。十字架前夜の最後の晩餐の、あのパンと杯の食事も同じでした。パンが引き裂かれるように、私の体は十字架の上で引き裂かれ、ぶどう酒が配られるように、私の血潮も流し尽くされ、あなたがたの上に注がれる。イエスは言われました。「よくよく言っておく。人の子(=イエスご自身のこと)の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」(ヨハネ福音書6:53-57)けれど弟子たちは、なかなか信じることも受け入れることもできませんでした。なぜなら、主イエスが死んで復活なさることはただ主イエスお独りだけのことに留まらなかったからです。弟子たち皆も、主イエスに率いられて、古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただいて、それと引換のようにして新しい生命に生きはじめる。それは恐ろしいことでした。ただただ恐ろしくて、嫌なことでした。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。それだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、けれど信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。死んで三日目に復活させられた方をもし信じられるなら、そのお独りの方に全幅の信頼を寄せることができます。この自分自身も、主イエスに率いられて、古い罪の自分自身と死に別れ、新しい生命に生きることになる。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道です。ああ、だから、「このお方が私に代わって死んだ。私に代わって死んだ」と今後も同じく歌いつづけていいのです。そしてその歌の心は、「私に先立って」です。この救い主イエス・キリストというお方が私に先立って死んで、私に先って復活してくださった。今も生きて働いていてくださる。やがて再び来てくださるし、今も共にいてくださる。だから、もうどんなものもキリストには代えられない。世の宝も富も、楽しみも、人から誉められたりけなされたりすることも、良い評判を得ることも冷たく無視されることも、有名な人になることも、どんなに美しいものも。私たちもついにとうとうキリストに固着し、死守する秘訣を体得しました。やったあ。『このお方で心の満たされている今は』、と。私に先立って死んで復活してくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。神さまはキリストと共に私たちをも死者の中から復活させることができるし、現に復活させつづけてくださる。だから、揺らぎ続ける危うい私であっても、キリストから二度と決して離れないでいることができる。死ぬまでず~っと同じく変わらず、そのような私でありつづけたい。

             ◇

 「あなたがたは救い主のことをどう思うか?」という主イエスご自身からの質問に対して、この私たち自身は、どう答えることができるでしょうか。彼の人格について。彼の働きと成し遂げてくださった救いの御業について。彼の十字架の死と復活について。弟子たちが見ている前で天に昇っていかれたことについて。御父の右の座につき、天と地の一切の力と権威を授けられた王としてこの世界と私たちを治め、ご支配なさりつづけて働かれていることについて。自分自身の腹の思いと好き嫌いといつもの「私が私が」という生臭い自己主張をさえねじ伏せ、足元にギュ~ッと踏みつけて、イエスこそが唯一無二の主人であり王であられる。彼の慈しみ深さと憐れみについて。私たちは、このお独りの方に全幅の信頼を寄せているのでしょうか。この方こそが、他の何にもまして私の支えであり、拠所であり、頼みの綱であると確信しているのでしょうか。彼こそが私の救い主であり、格別な良い羊飼いでありつづけてくださり、「イエス・キリスト。この方による以外に救いはない。私たちを救いうるお方は、天下の誰にも与えられていない」(使徒4:12と自分の魂に刻み、晴れ晴れとして告白する私たちでしょうか。これこそが極めて深刻な問いかけでありつづけます。救い主イエス・キリスト。このお独りのお方のもとに安らぎ、このお方に十分に満たされるのでなければ、私たちには、この世のどこにも心の休まる場所がないはずだからです。生きた信仰によって主イエスとこの自分自身が結び付けられるのでなければ、聖書を読み、キリストについての出来事にどれだけたくさん耳を傾けつづけても、それは虚しいだけです。もう一度、ご自身からの問いかけに耳を傾けましょう;「あなたがたは救い主のことをどう思うか?」



2017年12月4日月曜日

12/3こども説教「ゆるしてあげなさい」ルカ17:1-4

 12/3 こども説教 ルカ17:1-4
  『ゆるしてあげなさい』

17:1 イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。2 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。        (ルカ福音書17:1-4

  「罪の誘惑」とか、「罪」と言っています。「罪」とは、人を傷つけたり困らせたりする色々な悪いことを含みますが、第一には、「神さまに逆らい、神に背を向けてしまうこと」です。
  そして誰でも、神さまの御心をそっちのけにして、自分勝手にワガママになってしまいます。してはいけない悪いことをしてしまいます。言ってはいけない悪いことを言い、ついつい心に思ってしまいます。「誰の罪でもゆるしてあげること、何度でも何度でもゆるしてあげなさい」と主イエスから命令されています。けれど、「いいよ、いいよ」と何でもただゆるすわけではありません。まず、「あなたは、これこれの悪いことをしましたね。もう、してはいけません。ダメですよ」と注意する。「ああ悪いことをした」と分かって、その相手が悔い改めたら、そうしたら、ゆるしなさい。そうでなければ、ゆるしてあげてはいけません。例えば、あなたのお父さんお母さんが悪いことをしたら、「だめですよ」と注意してあげて、「ああ悪かった」と分かってくれたら、そうしたら、ゆるしてあげましょう。お友だちもそうです。おまわりさんも学校の先生も裁判所の裁判官も、もちろん教会の牧師も、誰でもみんな、してはいけない悪いことをすることもあるでしょう。誰に対しても「だめですよ」と注意してあげて、「ああ悪かった」と分かってくれたら、そうしたら、何度でも何度でもゆるしてあげましょう。

    【補足/ゆるすこと】
他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。しかも自分が受けた傷や痛みには、私たちはひどく敏感です。「あんなことをするなんて、ひどい。我慢できない」と私たちは腹を立て、涙も流します。その一方で、自分がどんな悪いことをしているのかは、あまり気づきません。それでも、私たち自身が《ゆるされること》を必要とし、現にゆるされ続けています。毎日毎日、すべきことをしないで、してはならないことをしてしまいます。神の憐れみを受け取り、「本当にそうだ」と心底から味わうために、そのためにこそあなた自身が他者に対して憐れみ深くあるようにと神はお招きになります。神の偉大さ、神の気前のよさをあなたが受け取ることができるためにこそ、神は、あなた自身が他者に対して寛大に気前よくあるように、と促すのです。