2016年9月25日日曜日

9/25こども説教「神の国では、大きいも小さいもない」ルカ7:24‐35

 9/25 こども説教 ルカ7:24-35
 『神の国では、大きいも小さいもない』

7:26 では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。27 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。28 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。             (ルカ福音書 7:26-28)

 (先週読んだ18-23節のおさらい⇒ 洗礼者ヨハネはまもなく殺され、この世界から立ち去ってゆきます。自分に残された時間があとわずかだと知って、牢獄の中からヨハネは自分の弟子たちを救い主イエスのところへ遣わし、「来るべき方はあなたなのですか」と質問させました。約束された救い主がイエスご自身であると、ヨハネ自身は、そもそもの初めからはっきりと知っていました。つまり質問は、弟子たちのためであり、彼らにはっきりと気づかせるために。主イエスを信じて生きる幸いの中へと、自分の大切な弟子たちを送りだしてあげるために)。

  主イエスは、洗礼者ヨハネが果たした大きな役割について人々に語りきかせます。悪い領主に捕まえられ牢獄に入れられるまでは、荒野で洗礼者ヨハネは、『約束されていた救い主がもうすぐ来られる。だから皆、洗礼を受け、悔い改めて、救い主を迎え入れる準備をしなさい』と呼ばわり、洗礼を授けていました。聖書はあらかじめこのヨハネの働きについて予告していました、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」(イザヤ書40:3-5,ルカ3:4-6。荒野の声とは、洗礼者ヨハネのことでした。主の道を備え、その道筋をまっすぐにする。それは、主なる神と出会い、主に従って生きる道を歩みはじめるために、私たち自身の在り方を大きく変えることです。思い上がって高くそびえ立ってしまった山や丘のような心や在り方は低く平らにされ、いじけて低く薄暗い谷間のようになってしまった心は土を埋められて平らになり、かたくなに了見を狭くしてしまった、曲がりくねった凸凹道のような心や在り方はまっすぐにされる。私たち自身のことが語られていました。平らに広々とした道のような人間になってから救い主を迎え入れるのか。むしろ逆です。救い主を迎え入れる中で、山や丘のように思い上がった私たちの心は低くされ、薄暗い谷間のようにいじけて低くなっていた心も平らにされ、ねじ曲がった凸凹道のような心もならされ、だんだんとまっすぐになってゆく。「思いを神へと向け返しなさい。もうすぐ救い主が来られるのだから」と洗礼者ヨハネは、人々が救い主を迎え入れるための道備えをしました。28節。だから女の産んだ者の中で、つまり人間の中でこの地上で、洗礼者ヨハネこそが最も大きい人物だと。
  さて28節の後半は、どういう意味でしょう。「しかし、神の国で最も小さい者も、彼(=洗礼者ヨハネ)よりは大きい」。主イエスを信じて神の国に迎え入れられる者たちは、どんなに小さく弱く貧しく見える者さえもすでに洗礼者ヨハネよりも大きい。もはやそこでは大きいも小さいもなく、強いも弱いも豊かだとか貧しいもなく、賢いも愚かだとかもなく、役に立つとか仕事がよくできるとかもなくなり、つまり誰も彼もが十分に大きい。ただ憐れみを受け、恵みによってだけ救われた者たちの国では、人と人を区別し分け隔てしていたものがすっかり取り払われて、皆が皆、平らなまっすぐな心で生きることができるようにされます。すでに神の国はこの地上にはじまっており、着々とその領地を広げつつあります。しかも私たちは すでにその神の国の住民とされ、その自由で晴れ晴れした国に朝も昼も晩も住んでいるのですから(*)

         【補足/神の国】
         (*)遠い昔、預言者は告げ知らせました。「わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:33-34)。むしろ、「小さな子供のようになり、天の御父に信頼し、聴き従って生きる者とされなければ、神の国に入ることなど誰にも決してできない」と主イエスご自身が断言しました。いいえ、『小さな子供の心』こそが神からの格別な贈り物なのです。「大きい者も小さい者も皆、主を知り、主を信じ、主の民とされる」。その格別な祝福の中では、人を分け隔てしていた区別も差別も打ち壊されます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と救い主イエスが呼ばわったときから、主イエスを信じる者たちは神の国に住む者とされ、神の支配のもとに生きる幸いな者たちとされました(マタイ福音書18:3,マルコ福音書1:15,エペソ手紙2:13-22,ローマ手紙3:21-27)。


9/25「この小さな一人の者に」マタイ10:40‐42,同25:31‐40,士師記7:1‐3

          日本キリスト教会 上田教会    みことば/2016,9,25(主日礼拝)  78
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:40-42,同25:31-40,士師記7:1-3   
『この小さな一人の者に』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:40 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。41 預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。42 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。                           (マタイ福音書 10:40-42)

  


 救い主イエスがどうして「この小さな一人の者に」とおっしゃったのか? それは、マタイ福音書  10:40-42を読んだだけでは分かりません。聖書全体に照らして、この発言を受け止めなければなりません。それで、マタイ福音書25:31-40と士師記 7:1-3も合わせて読み味わいます。

まず、このマタイ福音書10:40-42と同25:31以下とは、対になっていて、ひと組です。両方共で、「この小さな一人の者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」「この小さな一人の人にしてくれたことは、わたしにしてくれたのである。してくれなかったのは、わたしにしてくれなかったのである」と主イエスは仰る。1042節で「わたしの弟子であるという名のゆえに~」と書いてあるので、もし仮にここだけを読むと、つい早合点して『この小さな一人の者』とは主イエスを信じるクリスチャンたちのことか、ご自分の弟子だからと格別に目をかけ、ヒイキ(=自分が好意をもつ相手や店などに格別な便宜をはかったり、力添えをすること)にしてくれるのか、と勘違いしてしまいます。けれど2531節以下にまで目を広げると、決してそうでなかったと気づかされます。クリスチャンも『小さな者』の中に含まれるけど、そればかりではないと。クリスチャンであろうとなかろうと、主イエスを信じる者であろうがそうではなかろうが、そんなこととは何の関係もなしに、なにしろその小さな一人の者に神の憐れみは注がれつづけます。ただただ『小さな一人の者』です。例えば、大きくてご立派な大人物や優れた大人物たちのためには「親切にして手助けしてやれ」などとわざわざ言いません。その必要もありません。けれど、小さく弱く貧しい者たちは手助けを必要としており、うっかりすると、いつまでも踏みつけにされ、ないがしろに扱われつづけます。小さな弱い貧しいものがないがしろに扱われつづけることを、神はお許しになりません。なぜ、そうだとはっきり分かるかと言うと、マタイ福音書2531節以下がはっきりと告げているからですし、それだけでなく、聖書全体がそのことを語りかけて止まないからです。どんな神さまを、どのように告げ知らされて、この私たちはどう信じてきたでしょうか。天と地のすべて一切をお造りになり、ご自分が造ったすべてのものをご覧になって、「とてもいい。良かった、嬉しい」(創世記1:31-2:3,9:10-17,12:1-3,マタイ福音書24:45-51,ローマ手紙8:18-22,コリント手紙(1)15:22-28と大喜びに喜び、それらすべてを祝福なさった神。天地万物の造り主なる神です。この世界をご自分のものとしつづけ、支え、保ちつづける王さまである神だからです。ご自分が造ったすべて一切を憐れむ神であり、神の憐れみはそれらすべて一切に及びます。しかも主イエスを信じる私たちは、『神からの平和と和解の使者』(コリント手紙(2)5:17-21の役割を託されているからです。そのことをよくよく弁え、心に収めつづけながら、10:40-42を読みましょう。
  「この小さい者のひとりに」と、主イエスは目を凝らしつづけます。「大きい者」ではなく、「強く賢い、役に立つ、取り柄のある優れた者」でもなく、わざわざ「この小さい者のひとりに」と。それこそがこの世界を愛し、独り子イエスを救い主としてこの世界に贈り与えてくださった神の憐れみの御心です。神の民とされたイスラエルは、そもそもの初めから強さや大きさや数の多さを誇る世界の只中に、『小さい者。数少ない者。弱い者』たちとして据え置かれつづけました。強い者や大きく数の多い者どもを恐れつづけ、心を惑わされて生きる他なかったのです。その彼らに神は、「恐れるな」と語りかけ、励ましつづけます。もし、強い者や大きく数の多い者どもを恐れないで生きていきたいと心底から願うならば、それらよりも遥かに強く大きい神と出会い、その神を知り、信じて、その神にこそ十分な信頼を寄せつづけて生きる他ありません。けれど神の民イスラエルは、つまり先祖とこの私たちは、神に十分な信頼を寄せて生きることに失敗しつづけました。だからこそ、神ではない様々なものを恐れ、おじけずき、アタフタオロオロしつづけています。遠い昔に預言者の口を通して神がこう呼びかけていました、「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」(イザヤ書30:15-17と。この自分自身こそが『小さい、数少ない、弱い者たち』であることをよくよく心に覚えて、それゆえますます神にこそ十分な信頼を寄せて生きること。けれど、先祖と私たちはそれを好まなかった。プライドが許さず、性分にも合わなかった。だからこそますます、神ではない様々な人やモノゴトを恐れつづけました。なんと哀れで、虚しい生き様でしょうか。
  その私たちに、神は目を留め、憐れみの心を寄せつづけます。「飼う者のない羊のように弱り果て、倒れている」(マタイ9:36その哀れな痛ましい姿を見て、深く憐れんだからです。私たちが生き延びてゆく道筋は二通りありつづけます。一つは、神にこそ十分な信頼を寄せること。もう一つは、無理矢理にでも何としてでも『強い、大きく数の多い私たち』になることです。神に信頼することを好まなかった先祖と私たちは、『強くて賢い、大きく、数の多い私たち』になることを願い求めつづけました。例えば、敵の強大な軍勢を前にして、ハロデの泉のほとりに陣を敷いたとき、ギデオンは、知恵を振り絞って必死に戦局の分析をしていました。何度も何度も戦略会議を開いたかもしれません。たった32,000人の軍勢で、どうやってこのきびしい戦いを勝ち抜くことが出来るだろうか。待ち構える困難と苦戦を予想して、身の縮む思いでした。たったの32,000人の軍勢、それだけしかありません。どう考えても無理です。彼の恐れと不安は尽きません。ますます募ってきます。2-3節の、その彼らに向けて語られた主の言葉は、きわめて理不尽な、まったく道理にかなわない非常識な発言でした;「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう」(士師7:2)。え? 聞き間違いかと思いました。あるいは悪い冗談かと。もっと兵力の増強を、もっと生産性と作業効率をあげて増収を、というのではありません。「多すぎる。削減を」というのです。そして直ちに、主なる神さまは、ご自身の兵力を削減なさいます。心痛む、彼らの願いも希望も粉々に打ち砕きかねない、恐るべき兵力削減。32,000から10,000へ、さらに300へ。300人を選んだ時の選び方(=水の飲み方の区別,5-7節)にどんな意味があるのか、あるいは300という数字にどんな意味があるのかなどと詮索する必要はありません。むしろ、それら一切の理由は、士師記7:2-3の主ご自身の言葉の中にこそ凝縮されていきます。目を凝らしましょう。神さまの目から見た時、その32,000人という数は多すぎた。だから減らした。まだまだ多すぎた。だから、さらにもっともっと減らして、目の前に待ち構える圧倒的多数の強大な軍勢に対して、300人を残した。多分これなら、多すぎないだろうと。
 なにしろギデオンの目にも、イスラエルの1人1人の目から見ても、「無に等しい。これでは、何もないのと同じじゃないか」としか思えませんでした。「とてもとても無理だ。こんな貧弱な私たちには勝てるわけがない。もし万一、これで生き延びることができたとすれば、それは到底、自分の力と手の働きで勝ち取ったものではない」と言えるほどの兵力です。まるで、思いがけない贈り物のようにして与えられた幸いは、驚きと感謝となり、魂に深々と刻まれて、1つまた1つと積み重ねられ、大切に語り継がれ、やがて主に対する大きな信頼へと育まれていく。主に対する熱い期待と、それゆえ心安く聞き従っていくことへと彼らの腹の据え方を方向づけていく。《この神こそ、私たちの主である》という確信の中に、少しずつ少しずつ、彼らの営みを揺るぎないものへと成長させていく――そのはずでした。朗読しませんでしたが、あの驚くべき戦いの結末は士師記8:24-27です。ギデオンは戦利品に飛びついて我が物とし、欲望のまま思いのままに貪りました。他の人々も、ギデオンにならって戦利品に飛びつき、欲望のまま思いのままに貪りました。心がおごってしまったからです。贈り物のようにして与えられた輝かしい勝利は、主に対する驚きと感謝を、生み出しませんでした。魂に深々と刻まれることも、ありませんでした。積み重ねられることも、大切に語り継がれることも、ありませんでした。主に対する信頼へと育まれていくことも、ありませんでした。《この神こそ、私たちの主である。主なる神は生きて働いておられます》という確信にも、その勝利は結び付きませんでした。なんということでしょう。驚くべきことには、たった300人でも多すぎたからです。彼らは思い上がり、主に対して心をおごらせてしまいました。「自分の力と手の働きで勝ち取った」という腹の据え方が、それこそが、彼らと私たちのための『罠』(士師8:27とされました。
 不思議です。神の民は、いつもごく少数でありつづけました。どうしてでしょう。そうでなくても良かったはずなのに、多数ではなく少数、格別に賢く優秀な強い者たちではなく、ごく普通の、どこにでもいるような、弱く無に等しい者たちこそが神さまからの格別な招きを受け取りました。また、「そのことをよくよく覚えているように」と、たびたび勧められました(コリント手紙(1)1:26-。立ち塞がる圧倒的多数の強大なものたちを前にして、その彼らは、自分たちの小ささ、弱さ、貧しさをつくづくと思い知らされました。「自分は強い。豊かで賢い。自信があるし、ちゃんと心得ている」と思っていた者たちも、まったく同じ扱いを受けました。何度も何度も打ち砕かれ、追い返され、引き下ろされ、惨めさと心細さを味わう中で、自分自身のふつつかさと限界を知らされてきました。これでもか、これでもかと。けれど兄弟たち、それは一体なぜでしょうか?
  小さな弱い者たちであることは恐ろしくて、とても心細いことです。どこにも居場所がないような惨めさを度々味わってきました。その中で、ある者たちはすっかり絶望し、諦めました。別の者たちは、ほかの強くて数の多い者たちに助けと支えを求めました。かつてアッシリアやエジプトに助けを求めて、その戦車や馬の数の多さに頼ろうとしたように。今日でも、そのように様々な助けと支えが私たちの周りには豊かに溢れ、私たちを取り囲み、私たちの目も心も奪おうとするのですから。けれど、ご覧ください。残ったさらにわずかの者たちは、憐れみ深い主の御前に膝を屈め、そこにこそ助けと支えを求めて仰ぎ見ました。文字通りに、社交辞令でも謙遜なふりでもなんでもなく、彼らはとても小さな、愚かで弱い、ものすごく数少ない者たちでした。不思議なことに、そこは晴れ晴れしていました。そこで、深く息を吸って楽~ゥになることができました。なぜなら、そこにはもはや、大きいも小さいもなかったからです。かなり信頼できる秀でた人物だとか、まあまあだ、ほどほどだなどという小賢しい品定めもなく、強い賢い豊かでよく働いて役に立つとか、あんまりそうでもないなどという騒がしさもなかったからです。なにしろ神さまが大きい。なにしろ神さまこそが、強く賢くあってくださる。なにしろ、神さまが生きて働いておられ、憐れみ深くあってくださる。その膝を屈めた無力な場所こそ、自分があるべき居場所と思い定め、その新しい彼らは、そこで主と出会いました。「主の恵みは、すでに私に十分である」(コリント手紙(2)12:7-10と聞き分けました。主の力と豊かさは、ただただ、私の弱さの中で働く。そこでようやく、十分に発揮される。私のためにもぜひ発揮してあげたいと主は願い続けてくださったが、これまでは、私の強さと数の多さによって邪魔されていた。私の小さな賢さと貧しい豊かさが、主を愚かにし。主にこそ恥をかかせつづけていた。主からの助けも支えも、取るに足りない貧しいものとし、この私自身こそが、神さまを侮って退け続けていたのか」と。
 クリスチャンであろうがなかろうが、顔見知りであろうが見ず知らずの赤の他人であろうが。通りすがりの小さい者の一人に冷たい水一杯を飲ませ、あるいはもっと多くの親切や心遣いを、どうして喜んでしてあげられるのか。不思議なことです。小さな一人の者を慈しむ神が自分と共におられると、ついにとうとう彼らは知ったからです。しかも、この自分自身こそが多くの親切を贈り与えられた小さい者だと、ようやく思い出しました。なんという恵み、なんという喜びでしょう。













2016年9月19日月曜日

9/18こども説教「来るべき救い主か?」ルカ7:18‐23

 9/18 こども説教 ルカ7:18-23
 『来たるべき救い主か?』

7:18 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、19 主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。20 そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病の人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。  
  (ルカ福音書 7:18-23

  18-19節。「旧約聖書によって約束され、予告されつづけていた、来るべき救い主はあなたですか」と、洗礼者ヨハネは二人の弟子を送り出して、主イエスに直接に質問させました。なぜ質問させたのかが分かりますか? 洗礼者ヨハネは、自分自身では、『イエスこそ救い主である』と、初めからはっきりと分かっていました(ルカ1:76-77,3:1-22,ヨハネ福音書1:35-42,3:27-30。しかも洗礼者ヨハネは領主ヘロデに捕らえられて牢獄におり、間もなく殺されようとしています。「自分に残された時間があとわずかしかない」と、自分ではっきりと分かっています。残されたわずかな時間をどう使おうか。このまま大切なことを弟子たちに伝えずに自分が死んでしまえば、弟子たちは何も分からないまま、何を信じていいか、どう生きていいかもよく分からないままに、道端に虚しく放り出されてしまうことになります。「来るべき方はあなたですか。それとも、他に誰かをなおまだまだ待たなければなりませんか?」と質問しなさい。その最も大切な答えを、あなたたちは、自分自身の耳と頭と心で掴み取りなさい。ですから、自分自身のための質問ではなく、自分の愛して止まない弟子たちのための質問だったのです。彼らもまた、ついにとうとうイエスこそ約束されていた救い主だと信じて、この方によって、永遠の生命を得ることができるために。22-23節、主イエスは彼らに答えました。「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。目の不自由な人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病の人はきよまり、耳がよく聞こえない人は聞えるようになり、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
  例えばユダヤ教徒たちは、「約束どおりに救い主がきっと来てくださる。来年か再来年か、あるいは40年後か50年後か1000年か2000年後くらいには多分」と、他の誰かを今でもずっと待ちつづけています。例えば洗礼者ヨハネの弟子たちのうちの何人かは、主イエスの弟子とされました(ヨハネ福音書1:35-42。けれど多くの者たちは、ただただ首を傾げながら、誰かほかの者を、ほかの何かを待ち侘びつづけています。今日でもおびただしい数の人々が、キリスト教会の玄関口まではなんとか辿り着いて、けれど、しばらくウロウロしたあげくに首を傾げながら、あるいは悲しみながら立ち去っていきます。戸口は狭すぎるわけではありません。見分かりにくい玄関ではないはずなのに、「どうしても探し当てられなかった」と多くの人々が言います。どうしたわけか、十分に広く開けてあるはずの戸口から入って、格別な祝福と幸いへと至る者はいつもごく少ない。不思議なことです(マタイ福音書7:13-14を参照)。「来るべき方はイエスではないかも知れない。やがていつか、もしかしたら別の誰かが現れるかも知れない。来年か再来年か、あるいは40年後か50年後か1000年か2000年後くらいには多分」などと。他の人々のことは、ほどほどのことです。けれども あなた自身はどうでしょう。十分に見聞きしましたか。確かな福音を耳にしたでしょうか、それとも、そうではなかったでしょうか。最も大切な答えを、私たちは、年配の方々も若い父さん母さんも、小学生や中学高校生や大学生も、自分自身の耳と頭と心で掴み取らねばなりません。ナザレ村から出て来られたこのイエスというお独りの方。「この方による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、天下の誰にも与えられていない」(使徒4:10-12。主イエスにつまずかない者は幸いです(*)。この方につまずく者はとても不幸せで、あまりに残念なことです。


         【補足/つまずきの石=十字架につけられたキリスト】

        (*)「わたしにつまずかない者は幸いである」(23節)と主イエスは言いました。「多くの者らが救い主につまずく」と旧約聖書であらかじめ予告されていました。ただただ憐れみによって、恵みによって救われるからであり、救い主が十字架の上で殺され、復活することをとおして救いが成し遂げられるからです。その救いの有様や道筋は私たち人間の思いとははるかに隔たって、遠く離れていたからです。神ご自身が、その人に気づかせ、受け入れさせてくださるのでなければ、誰一人も救い主とその救いの御業を信じることができません(ヨハネ福音書6:52-65,マタイ福音書26:31-35,イザヤ書28:16,ペテロ手紙(1)2:6-10,コリント手紙(1)1:18-31,ローマ手紙9:27-33)。

9/18「平和ではなく剣を?」マタイ10:34‐39

わたし(=主イエス)は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
                     (ヨハネ福音書 14:27)


 ◎とりなしの祈り
  主なる神。「外国からの出稼ぎ労働者(=寄留者・きりゅうしゃ)をしいたげてはならない。あなたがたはエジプトで外国からの出稼ぎ労働者だったので、彼らの心細さや惨めな心を知っているからである」(出エジプト記23:9参照)と戒められている私たちです。この国では、東南アジアからの出稼ぎ労働者も沖縄の人々も、日本人自身さえも、まるでヨソ者のようにしてしいたげられつづけています。原子力発電所を設置されている住民も、危険な作業に従事する下請け労働者たちも、自衛隊員も、ますます増える非正規雇用の労働者たちも、多くの子供も親たちも年配の人々もそれぞれ貧しく心細く暮らしていて、皆ともどもにしいたげられ、踏みつけにされつづけています。国家とほんの少数の裕福な人々の利益こそが、なにより優先されるからです。国家の利益の中には、しいたげられる人々の安全も幸いな暮らしも勘定に入っていません。この日本でもアメリカでもイギリスでも、世界中のどの国でも、『自分たちの国と、自分たちの同胞と、自分たちの生活こそが第一だ。他の人々はどうでもいい』と人々は叫び立て、他の国や人々を力づくで押しのけつづけます。私たちは身勝手になり、どんどん心を狭く貧しくさせられています。
  主なる神さま。どうか私たちを憐れんでください。神を信じて生きるはずの私たちもまた、人間中心の自己中心の、独りよがりな狭くて小さな世界にしばしば深く閉じ込められてしまうからです。神さまこそが主人であり中心だと、まず私たちクリスチャンにこそはっきりと弁えさせてください。すべての子供たちが十分に愛され、安心して暮らし、やがて慈しみ深い広く暖かい心をもつ大人に育つことができますように。親と周囲の大人たちがそれぞれの務めを精一杯に果たして子供たちの心と体を守ってゆくことができますように。あなたの御心になかって生きることを、どうか今日こそ、この私たちにも願い求めさせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



                                          みことば/2016,9,18(主日礼拝)  77
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:34-39                      日本キリスト教会 上田教会
『平和ではなく剣を?』


   牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
                                           (マタイ福音書 10:34-39)


 
  難解な箇所の一つです。なぜなら私たちは聖書から、また当の主イエスご自身の口から、正反対の語りかけを聴きつづけてきたのですから。最初のクリスマスの夜、羊と羊飼いたちが野宿しているその夜空の上から、おびただしい数の天の軍勢と天使たちが救い主イエスの誕生を祝って歌い交わしました。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と。預言者はやがて来られる救い主について、あらかじめこう告げていました。「すべて戦場で、歩兵のはいた靴と、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」。また主イエスご自身こそが格別な祝福を弟子たちに告げました、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」、そして復活の朝に弟子たちの前に現れて、「安かれ。」と二度つづけておっしゃり、手と脇腹の傷跡を見せて、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は誰の罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。だからこそ主イエスの弟子たちは、主イエスからの平和を携えて出てゆき、それを人々に差し出し、手渡す平和の使者とされたはずでした(イザヤ9:5-6,ルカ2:14,ヨハネ14:27,20:19-23,コリント手紙(2)5:18-21
  もう少し詳しく眺めてみましょう。「平和ではなく剣を」と仰ったところを、ルカ福音書は「平和ではなく、分裂を」(ルカ12:51とかなり踏み込んで具体的に言い表しています。「今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。しかも分裂や争いをと言い始めながら、直ちに、それにすぐ続けて、「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」(ルカ12:56-57と。つまり、「神の御心にかなう、神に喜んでいただける正しいことを、自分自身の頭と心で判断し、自分で選び取りなさい」と命じておられます。「偽善者よ」と、きびしく叱りかけながら。事柄はすでに明らかです。もしかしたら、「クリスチャンはいつでも何をされても、どんな間違った悪いことに直面しても、いつでもニコニコヘラヘラと笑っていなさい」とでも教わってきましたか。絵本の中のサンタクロースのように。ケンタッキーの鶏肉屋さんの店先に飾ってあるカーネルサアンダース人形のように。いいえ それは平和ではなく偽善です。ただ上辺を取り繕って、なごやかで愛情溢れて和気あいあいとしているふうに装っているだけです。そんな安っぽいつまらない見せかけのために、救い主がこの世に来られたはずがないではありませんか。確かに、「平和をつくり出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ5:9と主イエスご自身がはっきりとおっしゃいました。そのとおり。しかも、それと「平和ではなく剣を。分裂と争いを」とおっしゃったことは少しも矛盾しません。造り出すべき平和は、神さまから差し出された平和であり、主イエスがご自分の体を十字架にかけ、肉を引き裂かれ、血を流し尽くして勝ち取ってくださった平和であり、「わたしの願いや思いどおりではなく、父なる神の御心にかなうことが成し遂げられますように」という平和であるからです。その平和のためには、きびしく争ったり、互いに対立したり分裂したりすることも有り得ます。そのために夫婦が争い、親子や兄弟が争うことも有り得ます。そうした悪戦苦闘の果てに、ようやく神の御心と神の平和が地上に打ち立てられていきます。そうそう、最初のクリスマスの夜、天の軍勢と天使たちが救い主イエスの誕生を祝って歌い交わしました歌は、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。主なる神の御心にこそかなって、御心にこそ従って生きていこうと腹をくくることなしにはありえない平和が指し示されていました。
  「今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。ごく表面的な平和を思い描いてきた人々は、こう語り出されれて眉をしかめ、渋い顔をするでしょう。「クリスチャンは従順で柔和な、いつでも嫌な顔をせず、ニコニコしつづけている人々だと聞いてきたのに」と。朝から晩までニコニコニヤニヤしている、そんな人はずいぶん変わり者です。聖書にはそんなことはほんの一言も書いてありません。渋い顔をすべきときはあります。断固として、事を荒立てねばならないときもあります。言い逆らって、ほんの一歩も後に引いてはならないときもあります。家族の中でも職場でも、学校でも地域社会でも、国家権力に対してさえも。例えば、「あなたの父母を敬え。これは、あなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20:12と命じられています。これは、モーセがシナイ山で神から授けられた十の戒めの真ん中に配置されています。つまり、『神を愛し尊ぶこと』と『隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと』との間の橋渡しとして。とくに年老いた父母は、尊んで精一杯に配慮し、労わり愛するべき、もっとも身近な隣人です。同時に、その人が最初に出会う『神によって配置された地上の権威者の代表』です。どのように父母を敬い、重んじ、どのように父母に従うべきでしょうか。「お父さん、お母さんがこれこれだと言うので。父さんが、こうしなさいとお命じになるので、だから」と何でもかんでも父さん母さんの言いなりに従うなら、304050歳になってもまだまだ「だあって、ぼくのお父さんがコレコレだというので。それで」と言うなら、その人はまだまだ小さな子供で、あまりに未熟です。なぜならば、神を信じて神にこそ聴き従って生きるはずの兄弟姉妹たち。「天に主人がおられますことを、私たちはよくよく習い覚えてきたはずですから」(コロサイ手紙4:1を参照)。父母に対しても、親戚の叔父さん叔母さん、学校の先生に対しても、町内の世話役に対しても、職場の主任や上司に対しても、国家権力に対しても、教会の牧師や長老に対しても、その対応はまったく同じです。誰の前でも、「良いことは良い。悪いことは悪い。してはいけないことは、してはいけない」と。子供たちはどんなふうに育っていくでしょう。お父さんお母さんは、どういう人間に育ってもらいたいと願いながら、子を養い育ててゆくでしょうか。しかも、父さん母さんといえども生身の人間にすぎず、とても良い立派なことをするときもあれば、してはいけない悪いことをついついしてしまうことも有り得ました。して良いことを自分の父母がするとき、従って良いでしょう。そうではないとき、してはいけない悪いことを自分の父母がしようとし、一緒に悪いことをしようと勧めるとき、あなたはその人たちの子供として、何と答えましょうか。「お父さん。あなたを尊敬しているし、とても大切に思っています。でも、天に主人がおられます(コロサイ4:1)。あなたがしていることは間違っている。それは悪いことです」と、その息子や娘たちは父親に立ち向かって行けるでしょうか。それとも、「お父さんが言うのだから仕方がない」とその妻や子供たちは言いなりになるでしょうか。主を信じ、主を主として生きる新しい世代が育つかどうか。それが、子供の親である私たちの試金石です。私たちは、キリストを主と仰ぐキリスト者です。だからこそキリスト者は自由な王であって、何者にも膝を屈めず、だれの奴隷にもされてはならず、何者にも決して屈服しません。たとえ絶大な権力を握るこの世の王や支配者たちに対しても(Mルター『キリスト者の自由』)。ここから、信仰をもって生きることの悪戦苦闘が、ついにとうとう始まります。神さまからゆだねられた平和が、いよいよ、そこから積み上げられ、育ってゆきます。
  けれど、ある人々は言いつづけます、『教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことを聞いていればいい。主に従うことなど、私たちにはできるはずがない』と。こうして私たちは、信仰をもって生きることの分かれ道に立たされつづけます。牧師や長老への信頼と服従。そして主ご自身に対する信頼と服従。その二種類の信頼が一致して、何の問題も不都合もないときもあります。けれど、互いに相容れない場合はありえます。なぜなら、牧師も長老も生身の人間であるからです。間違った判断をしてしまうこともあり、信仰の心を曇らせて道を逸れてゆくこともありえるからです。そのとき私たちは、どうするでしょうか? しかも月に一回、私どもの目の前に格別なパンと杯が据え置かれています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ、杯を飲むべきである。主の体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くからである」(コリント手紙(1)11:27-29)「ああ 全然ふさわしくない私」。その通り。当たっています。けれど、それは聴き取るべき真理の中の半分にすぎません。大事な半分ですが、残りの、その千倍も万倍も大事な半分は、「その、ふさわしくない、不十分な人間を、神さまは憐れんでゆるし、喜んで迎え入れ、きっと必ず救う」ということです。宗教改革者はこう説明しました;「このお祝いパーティは、(パン&杯も、他なにもかもも)神さまからの贈り物です。病いを抱えた者には医者の薬。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし自分は健康だと思っている者や、「自分はただしい、ちゃんとやっている」と買いかぶっている人や、すでに豊かに満たされている者には何の意味もありません。ただ一つの、最も善いふさわしさは、神さまの憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを神さまの前に差し出すことです。神さまによって慰められるために、自分自身においては「ダメだ、ダメだ」と絶望すること。神さまの憐れみによって立ち上がらせていただくために、自分自身としては低くへりくだること。神さまによって「ただしい。よし。それで十分」としていただくために、自分自身のうぬぼれや卑屈さ、了見の狭さ、ズルさ、臆病さ、独りよがりな悪さをまっすぐに見詰めること。それらを憎むこと。神さまによって晴れ晴れと生きさせていただくために、古い罪の自分と死に分かれること」と(J.カルヴァン『キリスト教綱要』。Ⅳ篇1740-42節を参照)
  さて、これがパンを食べ杯を飲み干すときの心得であるとして、それならば、パンと杯が目の前にないときは、普段の火曜日、水曜日、木曜日の朝昼晩は、主を信じて生きて死ぬはずのこの私たちはどう心得たらいいでしょう。同じです。パンと杯が目の前にあっても無くても。兄弟姉妹たち。私たちは、ただただ、主なる神さまの憐れみによってだけふさわしい者とされます。神さまご自身からの慰めと力づけを、ぜひ受け取りたい。主によって立ち上がらせていただき、主によって生きることをし始めたい。他のナニモノでもなく、主ご自身への信頼によって生き、他のナニモノに従ってでもなく主イエスの福音に従って選び取り、判断しながら生きること。神からの救いとともに、それと並べて、ほかからの救いもついつい望みたくなります。いいえ この私どもは神にだけ救いを願い、ただ神にだけ仕えます。日曜の午前中と午後と、教会の敷地内で、このように心得ていたいと願っています。
それなら自分の家に帰って、連れ合いや子供たちや年老いた親の前では? 
町内会や親戚たちの前では? 
いつもの職場や、学校では?



2016年9月12日月曜日

9/11こども説教「深く憐れむ神さま」ルカ7:11-17

 9/11 こども説教 ルカ7:11-17
 『深く憐れむ神さま』

7:11 そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。12 町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。13 主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。15 すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。16 人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。                 (ルカ福音書 7:11-16)

 ある町の門に、主イエスと弟子たちと大勢の人々が近づいていきました。夫に先立たれたある女性の一人息子が死んで、葬りをするところでした。独りぼっちで残されたこの女性を見て、救い主イエスはとてもかわいそうに思いました。胸がかきむしられるほどに、あまりに悲しくて苦しくて、自分のハラワタが流れ出てしまいそうなほどに。「泣かないでいなさい」とこの女の人に主イエスは語りかけ、棺に手をかけて、死んだ息子に「さあ起きなさい」と呼びかけました。死んでいたはずの若者は起き上がって、物を言い出し、そこで主イエスはこの息子を母親に渡しました。
  よくよく分かっていなければならないことは、神が顧みて、とてもかわいそうに思ってくださる13,16節「深い同情を」「顧みて」)その幸いな相手は、実は、この一人の未亡人だけではなく、ユダヤ人やクリスチャンだけではなく、ただ人間だけでもいなく、生命あるすべての者たちです(創世記9:10-,12:1-3,ローマ手紙8:18-,讃美歌100番「生ける者すべて~」)。人々がまるで飼う者のない羊のように弱り果て、倒れているのを見て、とてもかわいそうに思ってくださったように。胸がかきむしられるほどに、あまりに悲しくて苦しくて、自分のハラワタが流れ出てしまいそうなほどだったように。そのため天の父なる神は、その独り子、救い主イエス・キリストをこの世界に贈り与えてくださって、確かな救いの道を切り開いてくださいました。聖書は証言します、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ手紙8:31-32。御子イエスを贈り与えてくださっただけではなく、イエスと一緒に、他すべて一切をさえも必ず贈り与えてくださるという約束です。神さまからの約束です。「泣かないでいなさい」とは、泣いたり嘆き悲しんだりしないでいられるあなたにしてあげようという救い主からの招きです。皆、そのように招かれました。とても辛いことや苦しいことはもちろん誰にでもあるし、あっという間の短い人生を生きて、誰でもやがていつか必ず死んでいきます。それでもなお、その辛さを乗り越えることができるようにしてくださる。「大預言者がわたしたちの間に現れた。神は私たちを顧みてくださった」16節)と人々は喜びました。その同じ一つの喜びを、この私たちも喜ぶことができます。主イエスによって、私たちは、神さまの永遠の変わることのない御心をはっきりと教えていただけるからです(*)。その神さまの御心にかなって毎日毎日を生きて、やがて晴れ晴れと死んでゆくことさえ出来るからです。もし、そうしたいと望むなら、この私たち自身も。

     (*)【補足/救い主イエスの職務】
☆主イエスのつとめは何ですか。
★預言者、大祭司、王の王です。
ヘブル手紙1:1-3,同2:17-18,同4:14-16,マタイ福音書28:18-20
☆主イエスの預言者のつとめは何ですか。
★神の永遠のみこころを お教えくださいます。
マタイ福音書17:1-5,ヨハネ福音書1:18,同14:6-17
☆主イエスの大祭司のつとめは何ですか。
★ご自分のお体を十字架にささげて、わたしたちの罪の罰をうけてくださり、天で わたしたちのために父なる神さまに、とりなしていてくださいます。
( ヘブル手紙2:17-18,同4:14-16,9:11-28)
☆主イエスの王のつとめは何ですか。
★すべての人と教会を治めるために御言葉をお語りくださり、聖霊をお送りくださいます。また、わたしたちを守ってくださいます。
マタイ福音書28:18-20,ルカ福音書10:18-20,ヨハネ福音書14:25-27,同20:19-23
(上田教会,「こども交読文1」から抜粋)


9/11「主イエスを知らないと言う」マタイ10:32-33,ローマ10:8-13

                                          みことば/2016,9,11(主日礼拝)  76
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:32-33,ローマ手紙10:8-13  日本キリスト教会 上田教会
『主イエスを知らないと言う』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。                                       (マタイ福音書 10:32-33)

10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。                            (ローマ手紙 10:9-10)


 およそ豊臣秀吉の時代から徳川幕府の江戸時代にかけて、この国ではキリスト教はきびしく禁じられ、多くの殉教者を出し、やむにやまれず信仰を捨ててしまった人々、また隠れキリシタンなど苦しい状況がつづきました。禁止令が解除されたのは、明治61873年)でした。それから150年近くが過ぎ去って、とうとう今では聖書の神を信じ、救い主イエス・キリストの弟子、クリスチャンとされていることを隠すことも恥じることも要らなくなったはずでした。
 32-33節。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」。この『人の前で主イエスを受け入れる。あるいは、主イエスを拒む』ことを、マルコ福音書とルカ福音書はよりいっそう厳しく突きつけています。「人の前で主イエスとその言葉とを恥じる」(マルコ8:38,ルカ9:26と。キリシタン弾圧が解かれて長い歳月がすぎたはずの、何の足かせも口封じもないはずの今でも、ある人々は、「私は自分がクリスチャンであることを人前でわざわざ言い広めたりはしない。自分の心の中でだけ信じていればそれで十分で、自分の夫や妻にも子供たちにも、わざわざ礼拝に誘ったり、無理に勧めたりもしない。職場でも友人たちの間でも、自分がクリスチャンであることをわざわざ公言しない。それは人それぞれだし、個人の自由だし」などと。学校教師でもあったある年配の婦人は、ずいぶん長い間クリスチャンでありつづけました。教え子たちとは親しく付き合って、毎年の同窓会には必ず呼んでもらっていました。生徒たちとのそうした付き合いや集まりの中で、あるとき集会の前のほうに連れ出され、手を引かれ付いてゆくと、最前列に白い紙を飾った木の枝が置いてあり、手渡され、内心ちょっと困りましたけど彼女は渡されるままにその枝を恭しく、バサア、バサアと振り回しました。もちろん、これまで何十年も彼女と親しく付き合ってきた元教え子たちには何の悪気もありませんでした。誰一人も、彼女がクリスチャンだとは知らなかったからです。最前列にまで連れ出され、白い紙を飾った神々しく清らかそうな木の枝を手渡された段階で、「申し訳ない。実は私はクリスチャンで、この木の枝を恭しく振り回すわけにはいかないのよ。神さまに背いてしまうので」などとは、なかなか言い出せませんでした。けれど、その最前列で木の枝を手渡されたときには難しくても、それ以前に、「私はクリスチャンなんです。聖書の神さまを本気で信じて生きてきました」と、いくらでも打ち明ける機会があったはずです。何十年も親しく付き合ってきた、とても大切に思ってきた元・教え子たちだったのですから。残念なことでした。神さまに対しても、元・教え子たちに対しても申し訳ないことでした。彼女は、とうとう気がつきました。人々の前で神さまを恥じていた私だった、あまりに不信仰な私だったと。
  私たちの愛する連れ合いは、子供たちや孫たちは、やがて神を信じることができるかも知れないし、できずに一生を終えてしまうかも知れません。神さまを信じる信じないは、自分自身でそれぞれに判断して、自分自身で決めます。たとえ親であろうと妻や夫であろうと、それを無理矢理に押し付けてはならないし、そんなことはできません。その通りです。でも、みなさんは家族に対して、神さまをどんなふうに紹介してきましたか。もし仮に ほとんど何も知らせて来なかったというなら、それはあまりに無責任で薄情すぎます。神さまがあまり好きではないのか、あるいは、その家族のことをあまり大切には思っていないのか。例えば愛する連れ合いにも、自分の家族や子供たちにも、「聖書の神さまはこういう神さまで。信じた者たちには、こういう希望とこういう幸いと、こういう心強い生活が待っている」などと自分の力の及ぶ範囲で精一杯に信仰の中身を伝えます。口下手は口下手なりに、喋るのが苦手な人も苦手ななりに。その相手が神を信じて生きることについて十分に理解できるための判断材料を精一杯に手渡し、そうしたら後は、その人が自分自身で判断するのです。聖書の神さまを信じてもいいし、信じなくても構わない。「十分に分かった。けれど、この神は自分には要らない」と断られるなら、残念ですが、そこで諦めてもいいでしょう。それは、もうすでにその人自身と神さまとの一対一の問題だからです。せめて、その人が自分でちゃんと判断できるために、精一杯の材料を差し出す。神さまによくよく愛していただいたクリスチャンだからです。

           ◇

  しかも兄弟姉妹たち。自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる。それは、なかなか難しいことです。キリシタン弾圧のきびしい迫害の時代であっても、そうではなくたって。口で「イエスは主である」と告白することも、自分の心で「天の父なる神が死人の中から救い主イエスをよみがえらせたし、この自分をさえ必ずきっとよみがえらせてくださる」と信じることも、それら一切は神ご自身のお働きであるからです。ただただ恵みと憐れみの出来事でありつづけるからです。「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言うことができない」からです(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ手紙(1)4:1-3。例えばもし、あなたや私が人様の前でも何様の前でも、「イエスは私に対しても主であり、この世界全体に対しても主である。他に主人はいない。イエスを主とする私であるので、神に聞き従わず人間すぎない者どもにに聞き従うわけにはいかない。神の御前に正しくはないし、間違ったことなので。この私としては、自分の見たこと聞いたこと、信じたことを語らないわけにはいかない」(使徒4:19-20。このように心に信じ、また自分自身の口でもはっきりと言い表すこともできたならば、それは神さまがさせてくださった。それこそが、神さまから私たちへの飛びっきりの格別な贈り物です。
  つまずいて挫けて、けれど憐れみを受けて連れ戻していただいた、あの幸いなペテロのことを語らねばなりません。ここまで語ったことはすべてすっかり掛け値なく本当のことです。『人の前で主イエスを受けいれる者を、主イエスもまた、天にいます御父の前で受けいれる。しかし、人の前で主イエスを拒み、主イエスを恥じる者を、主イエスも天にいます御父の前で拒む』。兄弟姉妹たち。これは神ご自身の真理ですが、真理の中の半分に過ぎません。残りの、負けず劣らずとても重要な真実は、『主を否みつづけ、逆らい、疑いつづけたあまりに不信仰な者どもを、にもかかわらず主イエスが否まない場合も有り得る』ということです。主の弟子ペテロのつまずきと立ち直りとを、はっきりと思い出すことができますか? 救い主イエスが十字架につけられ殺される前の晩に、大祭司の中庭で、主の弟子ペテロは人の前で主イエスを三度も重ねて否み、「ガリラヤの人イエスと一緒だった。あなたも彼らの仲間だ」と突きつけられて、「何を言っているのか分からない。そんな人は知らない。その人のことは何も知らない」と主を否み、恥じつづけました。ほんの数時間前に主イエス本人からはっきりと予告されていたとおりでした。鶏が鳴き、イエスの言葉を思いだし、ペテロは外の暗闇に出て激しく泣きました(マタイ福音書26:69-75を参照)。そのペテロを、けれど救い主イエスは拒まず、恥じることなく、再び改めて迎え入れました。迎え入れられて、ペテロは改めて、人様の前でも何様の前でも二度と決して主イエスを否まず、主イエスを恥じることのない新しい人間へとだんだんと造り替えられていきました。このことを、私たちは忘れてはなりません。例えば、アブラハムとサラ夫婦の場合もまったく同様でした。聖書は証言します、「望み得ないのに、なおも望みつづけた。彼の信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことをしなかった」(ローマ手紙4:17-20を参照)。なんと寛大で憐れみ深い報告でしょう。神ご自身がこのように見なしてくださっています。アブラハムとサラ夫婦の実情をつぶさに確かめるなら、あの彼らは何度も繰り返してはなはだしい不信仰に陥り、神の約束を疑い、何度も神を裏切り、否み、神を恥じて背を向けつづけました(創世記12:10-20,17:15-17,18:9-15,20:1-18,26:1-11。それでもなお神は彼らを不信仰と疑いの薄暗がりの中に捨て置くことをせず、憐れんで連れ戻し、信仰が弱まる度毎に強くし、疑いと背きを拭い去り、神ご自身の真実を確信させてくださった。ローマ手紙4:17-25「望み得ないのに、なおも望みつづけた。彼の信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことをしなかった」の中身は、ただただ神の憐れみの取り扱いでした。さて、つまずいたペテロを憐れんで連れ戻したとき、主イエスは、「私を愛するか。愛するか。愛するか」と三度も重ねて問い詰めました(ヨハネ福音書21:15-19。最後の晩餐のときにも、「たとい、みんなの者があなたにつまづいても、この私だけは決してつまづきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ福音書26:31-35と自分自身の確かさや強さにこだわりつづけた彼でした。うぬぼれていたあの時のままなのかどうか、ほんの少しも成長していないのか、と問われています。まだまだ他人よりも自分を高く引き上げて誇ろうとしつづけるのか、それとも、あなたは自分自身の低さや弱さ、貧しさを、とうとう習い覚えたのかと。「この人たち以上に私を愛しているか」(ヨハネ21:15)という最初の問いかけは彼の心の急所をギュッと掴んで、痛いところを突いています。この人たち以上に。そのこだわりが彼を貧しく愚かにしつづけました。このペトロも、ここにいるこの私たちと同じように、ついつい人と自分とを見比べてうぬぼれたり僻んだり、安心したり心配になったりすることに深く囚われて生きてきました。三度も問い重ねられて心を痛めたペテロですが、なおまだまだ全然、心の痛め方が足りません。なぜなら、「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、(あなたが)お分かりになっています」などと、なおまだ言い張ってしまうのですから。ペテロ自身はまだまだ分かっていません。主を愛そうと願い、決心しながら、けれど愛しきれなかったペテロではありませんか。「知らない。何の関係もない」と主イエスを否み、恥じつづけたペテロではありませんか。主イエスは愛を問い、愛を差し出しながら、同時に、主を愛しきれず、なかなか従いきれなかったその不肖の弟子ペテロと私共にお命じになります、「わたしの小羊を飼え。彼らの世話をしなさい」(ヨハネ21:15,16,17)と。「主を愛する。重んじる」と言いながら、身近な兄弟や家族や隣人を侮ったり軽んたり、「いい加減でだらしないわね」などと軽々しく裁いたりもできないはずでした。とても申し訳ないことです。主を愛そうと願うなら、この私たち自身こそが主の小羊を飼い、彼らの世話を精一杯にせよと。あなたのための主の小羊とは誰のことか。その羊は、あなたをどこで待っているのでしょう。

 主イエスを信じて生きる人々よ。この1回の礼拝に私たちが集っていることには、目的があります。いっしょに聖書を読んでいる。読まずにはいられない大切な理由が、この私たちにはあります。だから、ここに来ました。それは私たちが、イエスは神の子・救い主であると信じるためであり、信じて、イエスの名により生命を受けるためです(ヨハネ20:30-31)。主イエスから格別な生命を受け取りつづけて暮らし、主イエスの復活の証人でありつづけるためです。私たちのための主の約束の歌はこう歌います;「主われを愛す」(讃美歌461番,賛美歌21-484番)と。それこそが、私たちのいつもの希望であったはずです。主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛すと。小さな子供たちが歌うだけではありません。この希望の歌は、あのペトロやアブラハムとサラ夫婦のための歌であり、私たちのための歌です。私が主を愛するか、どこまでどの程度に愛するかと問われる以前に、またこの私が兄弟や隣人たちに愛と慈しみを豊かに差し伸べる人間であるのかどうかと問い正される以前に、それを遥かに越えて救い主イエスご自身こそが、こんな私どもをさえ愛してくださる。たとえ私が弱くてもです。たとえ私が冷淡で薄情で生臭い俗物で、あまりにかたくなであってもです。神さまを信じる心が私にまだまだ足りなくても、しばしば神に背き、逆らってばかりいるとしてもです。それでもなお、主なる神さまは、私たちを愛することを決してお止めにならない(ローマ手紙5:6-)。神さまから私たちへの、変わることのないいつもの約束です。だからこそ、自分の口でも心でも主イエスを信じて、そのように生きて死ぬことのできる私たちです。なぜなら、神さまこそが、私たちのそのように幸いな生涯を、また世界全体に祝福と幸いを満ち溢れさせることを、きっと必ず成し遂げてくださるからです。信頼するに足る神です。すべてを委ねて、より頼むに値する神です。