2016年9月25日日曜日

9/25こども説教「神の国では、大きいも小さいもない」ルカ7:24‐35

 9/25 こども説教 ルカ7:24-35
 『神の国では、大きいも小さいもない』

7:26 では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。27 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。28 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。             (ルカ福音書 7:26-28)

 (先週読んだ18-23節のおさらい⇒ 洗礼者ヨハネはまもなく殺され、この世界から立ち去ってゆきます。自分に残された時間があとわずかだと知って、牢獄の中からヨハネは自分の弟子たちを救い主イエスのところへ遣わし、「来るべき方はあなたなのですか」と質問させました。約束された救い主がイエスご自身であると、ヨハネ自身は、そもそもの初めからはっきりと知っていました。つまり質問は、弟子たちのためであり、彼らにはっきりと気づかせるために。主イエスを信じて生きる幸いの中へと、自分の大切な弟子たちを送りだしてあげるために)。

  主イエスは、洗礼者ヨハネが果たした大きな役割について人々に語りきかせます。悪い領主に捕まえられ牢獄に入れられるまでは、荒野で洗礼者ヨハネは、『約束されていた救い主がもうすぐ来られる。だから皆、洗礼を受け、悔い改めて、救い主を迎え入れる準備をしなさい』と呼ばわり、洗礼を授けていました。聖書はあらかじめこのヨハネの働きについて予告していました、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」(イザヤ書40:3-5,ルカ3:4-6。荒野の声とは、洗礼者ヨハネのことでした。主の道を備え、その道筋をまっすぐにする。それは、主なる神と出会い、主に従って生きる道を歩みはじめるために、私たち自身の在り方を大きく変えることです。思い上がって高くそびえ立ってしまった山や丘のような心や在り方は低く平らにされ、いじけて低く薄暗い谷間のようになってしまった心は土を埋められて平らになり、かたくなに了見を狭くしてしまった、曲がりくねった凸凹道のような心や在り方はまっすぐにされる。私たち自身のことが語られていました。平らに広々とした道のような人間になってから救い主を迎え入れるのか。むしろ逆です。救い主を迎え入れる中で、山や丘のように思い上がった私たちの心は低くされ、薄暗い谷間のようにいじけて低くなっていた心も平らにされ、ねじ曲がった凸凹道のような心もならされ、だんだんとまっすぐになってゆく。「思いを神へと向け返しなさい。もうすぐ救い主が来られるのだから」と洗礼者ヨハネは、人々が救い主を迎え入れるための道備えをしました。28節。だから女の産んだ者の中で、つまり人間の中でこの地上で、洗礼者ヨハネこそが最も大きい人物だと。
  さて28節の後半は、どういう意味でしょう。「しかし、神の国で最も小さい者も、彼(=洗礼者ヨハネ)よりは大きい」。主イエスを信じて神の国に迎え入れられる者たちは、どんなに小さく弱く貧しく見える者さえもすでに洗礼者ヨハネよりも大きい。もはやそこでは大きいも小さいもなく、強いも弱いも豊かだとか貧しいもなく、賢いも愚かだとかもなく、役に立つとか仕事がよくできるとかもなくなり、つまり誰も彼もが十分に大きい。ただ憐れみを受け、恵みによってだけ救われた者たちの国では、人と人を区別し分け隔てしていたものがすっかり取り払われて、皆が皆、平らなまっすぐな心で生きることができるようにされます。すでに神の国はこの地上にはじまっており、着々とその領地を広げつつあります。しかも私たちは すでにその神の国の住民とされ、その自由で晴れ晴れした国に朝も昼も晩も住んでいるのですから(*)

         【補足/神の国】
         (*)遠い昔、預言者は告げ知らせました。「わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:33-34)。むしろ、「小さな子供のようになり、天の御父に信頼し、聴き従って生きる者とされなければ、神の国に入ることなど誰にも決してできない」と主イエスご自身が断言しました。いいえ、『小さな子供の心』こそが神からの格別な贈り物なのです。「大きい者も小さい者も皆、主を知り、主を信じ、主の民とされる」。その格別な祝福の中では、人を分け隔てしていた区別も差別も打ち壊されます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と救い主イエスが呼ばわったときから、主イエスを信じる者たちは神の国に住む者とされ、神の支配のもとに生きる幸いな者たちとされました(マタイ福音書18:3,マルコ福音書1:15,エペソ手紙2:13-22,ローマ手紙3:21-27)。