2017年11月28日火曜日

11/26「貧しいラザロと金持ち」ルカ16:19-31

 11/26 こども説教 ルカ16:19-31
 『貧しいラザロと金持ち』
     +【補足/(1)ただ恵みによって救われる。
     (2)救われたものは、隣人を自分自身のように愛する者へと少しずつ
少しずつ作り替えられてゆき、誰でも必ず良い実を結ぶようになる。神こそが、主イエスを信じる者たちに、それをしてくださる

16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。・・・・・・27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。(ルカ福音書16:19-31)

  昔々あるところに、ある金持ちがいました。毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。その金持ちの家のすぐ玄関先に、ラザロという名前の貧しい人が座り込んでいました。全身ができ物でおおわれていて、その上、お腹が減ってお腹が減って、「誰かが何か食べ物の残りくずでも恵んでくれないかなあ。ああ腹が減った、腹が減った」と淋しい心細い気持ちで暮らすうちに死んでしまいました。神さまの使いたちがラザロを、アブラハムがいる場所に連れていってくれました。そこは、神さまがご支配なさっている天の国です。金持ちもやがて死んで、彼は、死んだ人たちが苦しみつづけるヨミという名前の地獄に連れていかれました。死んで苦しみつづける金持ちが「私を憐れんでください」とアブラハムに呼びかけました。25節以下、アブラハムは答えました。「子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている」。じゃあ、せめて、まだ生きている私の兄弟たちに知らせてください。私のようにならないように、悔い改めて神さまに喜ばれる暮らしをするように伝えてください。「いいや、それでも彼らは悔い改めないだろう。お前がそうだったように、あの彼らも耳を傾けようとしないだろう」とアブラハムは答えました。
それなら私の家族は、どんなふうに生きて死ぬことができるでしょうか?  お姉ちゃんたちや、父さん母さんは? 学校の仲良しの友だちは。私の大切な夫や妻や、あの息子たちや娘たちは。孫たちは? あ そもそも、この私自身はどうだろう?


      +【補足/(1)ただ恵みによって救われる。
     (2)救われたものは、隣人を自分自身のように愛する者へと少しずつ
少しずつ作り替えられてゆき、良い実を結ぶようになる。神が、それをしてくださる
        誤解されやすい、とても難しい問題をふくんでいます。この箇所や、マタイ福音書25:31-46などを読むと、まるで「人に親切にしたり、良い行いをしたら救われて天国に入り、そうでなければ地獄に落とされる」かのように思えます。心を鎮めて、聖書全体がどう語ってきたのかと、つくづく思いめぐらせねばなりません。礼拝説教のメッセージから、日頃の信仰の教えから、この私自身はどう習い覚えてきただろうかと。聖書が語るとおりに、(1)「ただ恵みによって、主イエスを信じる信仰によってだけ救われる。良い行いをどれだけしたか、しなかったのかとは、まったく何の関係もなしに」(ローマ手紙3:21-27,4:5,5:6-11,コリント手紙(2)5:17-21,ヨハネ福音書3:16-18,使徒2:37-39,16:30-31,テモテ手紙(1)1:12-15)です。また、誰が救われ、誰が滅ぼされるのかを、私たち人間ははっきりとは判断できません。「誰が天に上るか、誰が底知れぬ所に下るだろうかと言ってはならない」と戒められ、洗礼を受けた信仰者の中にさえ救いからこぼれ落ちる者さえいると釘を刺されます(マタイ13:25-30「麦と毒麦」)。神のみがご存知であり、私たち皆が深く慎まねばなりません。(2)「良い行いなどどうでもいい」と乱暴に切り捨てているのではありません。「罪のゆるし」と語られつづけてきた福音の中身は、「罪人をゆるして救う神であり、だから生涯ずっと罪深いままで良い」などと放置されるのではありません。それでは何の救いでもなく、信じることが絵空事になってしまうではありませんか。そうではなく、「罪のゆるし」は罪からの解放であり、罪を犯さない者へと新しく造り変えられてゆくことです。救われ、恵みを受けた結果として、神ご自身が、こんな私たちをさえ善いものへと造り変えてくださいます。主イエスを信じる者たちは、必ず善い実を結ぶことができます。私たち人間には逆立ちしても、100200年かかってもできません。いくら頑張っても、堅く決心しても、断食しても滝に打たれて厳しい修行を積み重ねてもできません。なぜなら人間は神ではなく、たかだか人間にすぎないからです。けれど神ご自身こそが、この私たちのためにも、それを成し遂げてくださいます。「神にも人様にも逆らいつづける罪」と、「私が、私が」と頑固に言い張りつづける腹の思いの奴隷状態から、救い出していただけるのです。神の御心に従って生きることが、私たちにもできます。神が、させてくださるからです(ローマ手紙6:1-8:17,マタイ19:25-26「だれが救われることができるだろうか?」。イエスは言われた、「人にはできないが、神にはなんでも出来ないことはない」。)。


11/26「死んで、それで終わりではない」マタイ22:23-33

                                    みことば/2017,11,26(主日礼拝)  138
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:23-33                      日本キリスト教会 上田教会
『死んで、
  それで終わりではない』
 
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
22:23 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、その日、イエスのもとにきて質問した、24 「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。25 さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。26 次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。27 最後に、その女も死にました。28 すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。29 イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。30 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。31 また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。33 群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。                         (マタイ福音書 22:23-33)
                                             


  サドカイ人のふり見て我がふり直せ、です。彼らは、とても悪い手本を見せてくれています。ですから私たちは、あの彼らをよくよく観察しておきましょう。神を信じて、この自分自身がどのように毎日毎日を生きることができるのか。やがてどのように幸いに死んでゆくこともできるか、と思い巡らせながら。
 まず23-30節。「死んだ者がまた生き返るとか、復活ということはない」と彼らは主張しています。「もし死んで生き返るなら、何度も何度も再婚して7人の夫をもった妻は、生き返ってからどういう生活を送ることになるのか」などと言い出して、主イエスをやり込めようとします。29節、「イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである」。その新しい人間関係・夫婦や家族の関係については、私たちはあまり十分には理解できず、はっきりとは思い浮かべることができないかも知れません。けれどなにしろ主イエスがそう仰るので、そのまま受け入れます。すっかり丸ごと、お任せして、言われるとおりにそのまま信じて聞き従います。「主なる神」と言い習わしつづけてきました。「イエスこそ主であり、私たちは主のしもべであり弟子たちである」と習い覚えつづけてきました。それは、このことです
  31-32節は少し難しいでしょう。「また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』(出エジプト記3:6,16と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神。しかも、もし万一、アブラハム、イサク、ヤコブらが死んでしまったままであるならば、「アブラハム、イサク、ヤコブらが生きていた間には、あの彼らのための神だったが、彼らは死んでしまったので、もう彼らの神ではなく、彼らのための私の神としての役割は終わった」などと仰ったでしょう。この私たち自身も、神さまが決めておられるあり方と順番で、やがて次々と必ず死んでいきます。けれど、死んで、それで終わりではない。死んだあとにも、私たちの生命はつづく。そのことは、よくよく分かっている必要があります。実は、クリスチャンの中にも、あのサドカイ人たちと同じようなことを言い出して仲間たちを惑わせる者たちがいました。しかも使徒パウロによって養い育てられたはずの、あのコリント教会の中にです。またテサロニケ教会でも、死んだあとのことについてあまりよく分からずに、心細くなったり悩んだり困ったりする兄弟姉妹たちが多くあったようです。そういうわけでコリント人への第一の手紙15章の全体は、とくに復活の希望について詳しく説き明かし続けています。15:12-20、「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。・・・・・・もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。聖書の神を信じて生きる者たちにとって、ここが最も大きな分かれ道となります。死者の復活を本気で心底から信じることができるのかどうか。救い主イエス・キリストが死んで三日目に墓からよみがえったように、この私自身も、決して、死んでそれで終わりではなく、さらにその先へと生命がつづく。神の御前に生きる新しい生命を、神さまご自身がこの私のためにも必ずきっと成し遂げてくださる。そのことを信じられるのかどうか。もし、信じられないならば、この世の生活の中でだけ、あるいは頭の中のどこか片隅でだけ、ほどほどに信じている程度で、死んだあとまでもずっと、神さまによって守られ支えられて生きる私であるなどとはとうてい信じられないならば、私たちは、すべての人の中で最もあわれむべき惨めな存在である。まったく、その通りです。
  もう少していねいに話しましょう。同じコリント人への第一の手紙1532-34節、「もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい」。せっかく主を信じてクリスチャンとされながら、肝心要の点に関してはなかなか信じきれない人々がいました。死人の中からの復活は、どうだかよく分からない・・・・・・と。それで、仕方なしに、自由に勝手気ままに振舞っていました。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という彼らの飲み食いの場面を思い浮かべてみてください。どんな気分で、飲み食いしているでしょう。それは例えば終戦間際の、カミカゼ特攻隊の、出撃前夜のドンチャン騒ぎによく似ています。いくら飲んでも喰っても、ハメを外しても、面白くもなんともない。嬉しくもなんともない。それは絶望に犯された、寒々しい、あまりに苦い宴会です。ただこの生活の中でだけ、ただ頭の中でだけ信じているだけなら、「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな、あわれむべき者」だと聖書は語ります。あなた自身は何をどう信じているのか、と問われています。救い主イエス・キリストは復活したのか、しなかったのかと。したのなら、このお独りの方を『初穂』として、私たちもまた新しい生命に生きることになる。あなたは、キリストに望みをかけている。その望みは、どこにまで及ぶでしょう。どの程度に、どれくらいの範囲で、確かなものでしょうか? 自分自身で答えねばなりません。聖書の別の箇所は、(テサロニケ手紙(1)4:13-14「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」。いつまでも好きなだけ生きるように、とは定められていません。例外なく、誰もが死ぬし、その時やあり方を自分自身では選べません。「はい。分かりました」と受け入れるほかありません。かつて土の塵から造られ、鼻に命の息を吹き入れられて生きる者とされた私たちです。そのように、「土から造られたあなたは、やがて土に還れ」(創世記2:7,90:3)と命じられています。やがていつか、あなたの愛する夫や子供たちがこのことを腹に収めることができる日が来るでしょうか。いいえ、その前に、この私たち自身こそが。限りある、一回だけの人生であり、だからこそそれを惜しみながら魂に刻みながら、1日1日と精一杯に生きるのです。「日毎の糧を、主よ、どうか今日もお与えください。贈り与えてくださってありがとうございます」と。その日毎の糧の中に、1日分ずつの生命も入っていたのです。さて、『死んで、それで終わりじゃない』という確かな希望をあなたも私も聞き届けてきたし、必要なだけ十分に知らされてきました。もし、その希望を思い起こせないなら、私たちも他の人々同様にただただ嘆き悲しむ他ありません。告げられ、そして信じてきた中身は、「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さる」ということです。主と共にいる。目覚めていても眠っていても、生きていても死んだあとでも。元気ハツラツとした日々にも、そうでもない日々にも。しかも、『共にいる主』はただ共にいるというだけではなく、私たちを顧み、私たちのためにも良い業を成し遂げようと生きて働いておられる主です。主とは、最後の最後まで責任を負いとおしてくださる方、という意味でしたね。(ヨハネ福音書11:23-27「イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟はよみがえるであろう』。マルタは言った、『終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています』。イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』。マルタはイエスに言った、『主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております』。わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなた自身はこのことを信じるか。本気で心底から信じるのか? と、マルタと共に私たち1人1人も問われています。しかも、主イエスご自身からの、主の弟子とされている私たちに対する直々の質問です。
  聖書は証言します、(ヨハネ福音書14:1-7「『あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている』。トマスはイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう』。イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』」。ね、はっきりしたことが明確に語られていました。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と主イエスは、私たちのためにも、あなたの愛する夫のためにも仰ったし、はっきりと約束してくださいました。心が騒ぐし、たびたびザワザワと波立つし、だからこそ主イエスを、この言葉を心底から信じて、なんとしてでも魂に深々と刻み込む必要があったのです。なにしろ主イエスご自身がはっきりとこう仰っています。「私は道であり、真理であり、命である」と。「私は道。ただし箱根駅伝の3倍くらい大変な、辛くて辛くて苦しいばかりの道」と言ってくださったはずです。もし、本当にそうだったら。「私は真理。ただし小難しい分厚い本を山ほど読まなきゃ分らない」と言ってくださったはずです。もし、本当にそうだったら。「私は命。ただし上等な生命保険みたいで、掛け金はけっこう高い。しかも、掛け金をたくさんつぎ込んでも、受け取りをずいぶん待たされたあげくに配当金はほんのチョッピリ」と言ってくださったはずです。でも、そうは仰らなかった。主イエスこそ道、真理、命。この1本の道を通りさえすれば、誰でも天の御父のもとへと辿り着ける。この1つの真理に聞きさえすれば、誰でも、幸いに暮らすために知るべきことを知ることができる。このイエスから受け取りさえすれば、誰でも、晴々として生きて、やがて心安く死んでいくことさえできる。しかも、あなたや愛する夫や息子や娘たちのためにも場所が用意されていて、主と共にいることになると約束もされている。その他に、いったい何を確かめる必要があるでしょう。
  さらに聖書は証言します、(イザヤ書46:3-4、「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」。はいはい。「年老いる日まで。白髪になるまで」。はいはい。
で、その後は? 
あなたは、どう思いますか? すでに十分に語られてきた。あなたも僕も、はっきりと告げ知らされてきました。あとは、朝も昼も晩も、口ずさみつづけます(1:1)。私たちの魂に深々と刻み込まれるまで。なにか他のモノに消されたり、どこかに紛れたりしないほどまでにです。どうぞ、よい日々を。






2017年11月20日月曜日

11/19こども説教「ふたりの主人の両方には仕えることができない」ルカ16:13

 11/19 こども説教 ルカ16:13
 『ふたりの主人の両方には仕えることができない』

16:13 どの僕(しもべ=召使い)でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。                  (ルカ福音書 16:13

  まわりには、自分より大きくて強そうなものがたくさんいます。「その中の誰が一人を自分の主人にして、その主人に仕えて生きることになる」と主イエスが仰います。「いいや、嫌だよ。ぼくは誰の言いなりにもされず、自分の思いのままに好きなように生きてゆく」という人もたくさんいます。けれどその人は、自分自身と、「自分の思い通りに好きなように生きてゆく」というワガママ勝手な気分を自分の主人にしてしまって、その主人の奴隷のようにされて、つまらない淋しい、虚しい人生を生きてゆくことになります。自分より大きくて強そうで賢そうな人間たちを自分の主人として、その人たちの言いなりにされて生きる人たちもいます。どの主人に仕えて生きるのかを、よく考えて、自分で選びなさい。せっかく、誰か独りを自分の主人にするなら、頼りがいのある、とても強くてしっかりした主人を選べるといいですね。もし何があっても、どんなに困った苦しいときにも、必ずきっと助けてくれるような、親切で心優しい、良い主人に仕えて生きることができるなら、とても安心です。すごく幸せです。


     【補足/キリストには代えられません】
讃美歌Ⅱ編の195番の折り返しのところで、「世の楽しみよ、私から去れ。どこか遠くに離れていってくれ。世の誉れよ、どこかに消えてなくなれ」と歌っています。ずいぶん過激なことを言っていますね。キリストと何か他のモノとを取り替えてしまいそうな、信仰の危機に瀕しているからです。崖っぷちです。それまでは、「あれをしたい。これもしたい。こんなことやあんなことはしたくない」という思いばかりがこの人の心を満たしていました。それまでは、「人から誉められたい。認められたい。すばらしい、素敵、さすがだ、立派だと言われたい」という思い、あるいは恥をかいたり、馬鹿にされ見下されたりすることを恐れる思いばかりがこの人の心を満たしていました。それらが、この人の主人だったのです。その生臭い主人たちに邪魔されて、キリストを心に思うことがなかなかできませんでした。けれど、やっとこの人の心の中に、キリストが大きくなってきた。キリストがますます色濃く、強く、鮮やかになってきた。キリストが、この人にとって、新しい主人となりました。すると不思議なことが起こりました。「人から誉められたい。認められたい。すばらしい、素敵、さすがだ立派だと言われたい。恥をかきたくない。誤解されたり馬鹿にされたり、見下されたくはない」という恐れと渇望。それは、ほどほどのことになりました。もちろん誉められたい。認めてもらいたい。受け入れられたい。けれど人々からそうされるより、あの主人から「よくやった。善かつ忠なるしもべよ」(マタイ25:23)と誉めていただきたい。ぜひ、そうなりたいと。


11/19「皇帝のものか、神のものか」マタイ22:15-22

                         みことば/2017,11,19(主日礼拝)  137
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:15-22                 日本キリスト教会 上田教会
『皇帝のものか、
神のものか?』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
22:15 そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。16 そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。17 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。19 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。20 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。                                          (マタイ福音書 22:15-22)
                                               
  主イエスの敵対者たちが近づいてきます。言葉尻をとらえて主を捕まえようとして、こう質問します。「カイザル(=ローマ皇帝)に税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」と。主イエスの弟子とされた私たちもまた、しばしばまったく同じ難しい質問を突きつけられます。しかも、わざわざ税金のことを話題にしてくる特別な理由もあったのです。当時、この国は強大なローマ帝国に侵略され、植民地にされて、ないがしろに扱われつづけていました。当時のユダヤ人たちは税金をローマ帝国に納めることは間違っていると十分に分かりながら、嫌々渋々と納めつづけ、その税金を取り立てる徴税人を「罪人。裏切り者」と言って軽蔑し、憎みました。八つ当たりでした。本当は、ローマ帝国に腹を立てていたのですし、言いなりにされ身を屈めさせられている自分たち自身のふがいなさを軽蔑し、憎みたかった。この同じ憎しみと怒りが、主イエスに向かって今にも燃え上がろうとしていました。主は、手持ちの銀貨を出してみよと命じます。それは勿論、ローマ帝国銀行発行の銀貨です。「この貨幣に刻まれているのは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「皇帝のものだ」と答えます。「それならば、皇帝のものは皇帝に。神のものは神に返しなさい」。
  さて、この地上の私たちの周囲には、いまや多種多様の大小様々な権威が立てられています。国には大統領や政府や総理大臣が立てられ、あるいは王様や天皇陛下が立てられました。都道府県や町や村には、県知事や村長や議会やその議員たちが立てられました。学校には校長や教頭や主任たちが立てられました。それぞれの町内会には、自治会長や世話役が立てられました。それぞれの職場には管理職や上司がいます。一軒の家にも、お父さんお母さんがいます。教会には、お偉い牧師先生や長老や役員の方々がいて、「なんでも私たちの言うことに従いなさい」などと威張って命令するかも知れません。どうしましょうか? 小学生や幼稚園児たちの中にさえ、他の仲間たちよりほんのちょっと強くて賢いボスがいて、まるで皇帝のように「あれをしろ。これはしちゃいけない」と指図し、思いのままに他の子たちを操ろうとします。そんなふうにして大きな皇帝がおり、中くらいの皇帝がおり、すごく小さな皇帝たちもウジャウジャいて互いに命令したりされたり、従わせたり従ったりして、私たちの上に現実的な権威と影響力を持っています。それを、渋々ながらも、私たちは認めざるをえません。私たちは、その大小様々な皇帝たちとの共存の仕方を問われつづけています。どのようにして、彼らと共にあることができるのか。彼らの権威と影響力のどこからどこまでを受け入れ、どこをどう退けるべきか。どこを認め、どこをどう拒むことができるか。そして、私たち自身の何を大切にし、何を捨て去り、何にこだわり、何を明け渡してよいのかと。神ご自身の栄光は、神に返されねばなりません。神さまが感謝され、神こそが信頼を寄せられ、神がほめたたえられること。例えば、主の祈りは「御名をあがめさせてください」と祈り求め、「国と力と栄光とは限りなく、つまり何から何まで全部あなたのものだからです」と讃美しました。神さまにこそ信頼と感謝を十分に寄せること。何より神さまとその御心をこそ尊び、神さまにこそ聞き従うこと。神にこそ願い求めること。それは義務や責任である以上に、私たちが生きて死ぬことにとって生命線でありつづけます。私たちを心強く晴れ晴れとして生かしてくれる肝心要です。《この世の務めや責任を果たすこと》と《神のものを神に返すこと》とが対立し、矛盾することがあるでしょうか。度々あります。神さまに聴き従い、神さまにこそ十分な信頼を寄せることと、たかだか人間に過ぎないものに聴き従い、信頼を寄せることとが何の矛盾もなく両立する場合もあります。けれどそれらが両立せず、どちらかを選び取り、他方を後回しにし退けねばならない時があるでしょうか。それは度々ありました。これからもそうです。生身の人間や自分自身の腹の思いを重んじすぎ、限度を越えて信頼し、聴き従ってしまうことが、神さまへの信頼や忠実をすっかり歪めてしまう場合もありました。だからこそ聖書自身がこう問いかけました;「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」(使徒行伝4:19)。私たちは、よくよく考えてみなければなりません。どちらに聴き従って生きるのか、自分自身で選び取らねばなりません。
 さて、主イエスが教えてくださったあの大切な祈り、主の祈りの中の第4の祈願です。「私たちに必要な毎日の糧を、どうぞ今日も与えてください」と私たちは祈ります。その願いは何でしょうか。「私たちに必要な毎日の糧。それは霊的な、とても高級な糧のことだろう」と推測した人々がいました。まさか、私たちが毎日食べるあのパンや米や味噌などといった取るに足りない、小さくささいなもののことではないだろうと。いいえ、違います。私たちの生活のすべての領域が、小さなことから大きなことまで、ごくささいなことから深刻で重大なことまですべて、すっかり丸ごと全部、神の恵みのご支配の下に据え置かれています。そのことを弁えておくようにと命じられています。あなたの目の前にある一つ一つの貧しさと豊かさをもって、満ち足りることと飢え渇くことをもって、その喜びと辛さをもって、神へと向かうあなたであれ。生きるか死ぬかの大問題をもっても私たちは神へと向かいます。それだけでなく、他人からは「なんだ。そんなこと」とつまらなく思われるかも知れない事柄をもっても、小さく貧しい取るに足りない自分自身をもっても、私たちは神へと向かいつづけます。
 「必要な糧を今日も」と願い求めるとき、私たちが生きることと死ぬことの一切がただ神にかかっていることに気づかされ、直面させられます。私たちの必要を満たすことのできるのは、ただ、ひとえに神さまだったのです。《日毎の糧》は、元々は戦いに出た兵隊たちに支給される1人分1日分の携帯食料のことを言い表しました。3人分4人分まとめてではなく、3日分4日分まとめてではなく、1人分ずつ1日分ずつ支給されます。そのように、私たちの必要が満たされることの一つ一つがまったく神にこそ依存しています。ほんの少し前の時代には、こういう事情について、人々はもっと敏感だったかも知れません。長雨や日照りや害虫の発生に悩まされる度毎に、空を見て、地面に目をこらしながら、彼らは「よい収穫を与えてください。どうか、よろしくお願いします」と神に願い求めました。生活の糧と生きる基盤とがまったく神ご自身によって据えられていることを、彼らは、ひしひしと実感することができたのです。今日では、うっかりすると、たとえ神を知り信じてもいるはずのクリスチャンであっても、神の力よりも人間の力とその場その場の空気や人様の顔色にばかり目も心も奪われてしまうかも知れません。人間中心の考え方が信仰の判断をすっかり曇らせてしまうこともあるでしょう。神さまに感謝や信頼が寄せられ、神ご自身が権威をもっていてくださるよりも、自分や周囲の誰彼の栄光や権威にばかり心を惑わされてしまうかも知れません。それは、ありえます。それをこそ、私たちは恐れ警戒しなければなりません。「米や味噌のことまで神に願い求めなくたって、私は困らない。そんなことまで神さまの世話になるつもりはない」と思う人がいるかも知れません。喰うことくらい自分でやっている、と。自分で働いて稼いで、それで米と味噌を買っている。この家を建てたのも自分の甲斐性だし、毎月のローンを支払っているのも自分だし、家賃や光熱費を支払っているのも自分だしと。じゃあ、それなら、どういう領域の何について、あなたは神さまの世話になっているのかと問われて、私たちは何と答えましょう。あなたなら、どう答えますか?

              ◇

 思い出していただきたいのです。エジプトの奴隷の家から連れ出されたとき、荒れ野をゆく旅路がはじまってほんの数ヶ月で私たちが不平不満をつぶやきはじめたとき、主なる神は、私たちにこうおっしゃいました;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」(出エジプト16:12)あの彼らも私たちも、私たちが主人なのではなくて、《主なる神さまこそがわたしたちの主であり、主人である》ことを、度々すっかり忘れました。多くの思い煩いの中で、しなければならない多くのことの間で心が引き裂かれて、神を忘れました。皇帝のものは皇帝に、私のものは私に、あの彼らのものは彼らにと選り分けつづけて返すうちに、気がつくと、いつの間にか《神に返すべき、神ご自身のもの。神からのもの》がとてもとても少なくなってしまいました。さて、私の手の中にあった中の、何と何が神からのものだったか。どこからどこまでが、神ご自身のものだったでしょうか。それとも、神からただ恵みによって贈り物のように来たものなど、元々、何一つなかったのでしょうか。皆すべて、どこかの大小様々な皇帝や支配者たちのものであり、この私たち自身が汗水流して苦労して苦労して働いて稼ぎ出したものであり、あの人やこの人たちから借りたり貰ったりしたものだったのでしょうか。この世界は私たち人間の世界でしょうか。私たちが生きて働いている、私たちによる、私たちのための世界だったのでしょうか。思い出すためには、天から降ってくる夕暮れの肉と、天からの朝毎のパンが必要でした。あの彼らも私たちも、そのようにして神が主であることを知ります。神から与えられた恵みの肉とパンを受け取って、「え。こんな私のようなものがいただいていいんですか」と驚いて、食べて、「ありがとうございます」と感謝して、そこで初めて、神が私にとっても主であってくださることを、ああ本当にそうだと知るのです。つまり、それまでは、あの彼らにも私たちにも、なかなか主を知ることができませんでした。約束の地に入るときを目前にして、モーセが告別の長い説教の中で語りつづけた福音も、ただこの一点でした。あなたの神、主が、あなたを導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい;「あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう」(申命記8:10)。そうです。あの彼らも私たちも、こうして主をたたえます。食べて満足し、よい土地を与えてくださったことを思うのでなければ、その満足と幸いの一つ一つがただ神さまから贈り与えられたと知るのでなければ、そうでなければ私たちは、神に必要なだけ十分に心底から感謝することも、神にこそ信頼することも喜びたたえることも、神に一途に聴き従って幸いを受け取りつづけることもできないでしょう。私たちは晴れ晴れとして働くことができ、それだけでなく、すっかり手離して安心して休むことができます。その理由は、天の御父がこんな私のためにさえ先頭を切って、第一に、生きて働いていてくださるからです。私たちが主を主とする理由も、主が主であってくださることを喜ぶ理由も、ここにあります。ここにこそあります。
  さあ、あなたの手の中にある一つ一つのものに刻まれている肖像と記号を、改めて確かめてご覧なさい。あなたの食べる毎日の米と味噌、財布の中のお札や小銭の一枚一枚に、そこにはっきりと《神からの贈り物》と書いてあります。あなたの夫、あなたの妻、子供たち、友人たち、あなたに与えられている仕事や役割、そこにも《神からの恵みの贈り物》と書いてあります。あなたの健康、あなたの1日分ずつの生命、そこにも《神からの贈り物》と書いてあります。荒れ野を旅してきたこの40年の間、たしかに辛いことも苦しいことも山ほどありました。それぞれに耐え忍びながら、長く厳しい旅路を歩んできた私たちですね。「足がパンパンに腫れて痛み、着ていた衣服も今ではボロボロに擦り切れた」と思っていました。けれど見てください。不思議なことです。あなたのまとう着物は少しも古びず、擦り切れず、あなたの足がはれることもありませんでした。どうしてでしょう。主によって担われ、支えられ、養われてきたからです。主の口から出るすべての言葉によって養われ、憐れみを受け、悔い改めの心を芽生えさせていただき、戒められ、義に導かれながら生きてきた私たち(テモテ手紙(2)3:15-17)は、それだけでなく、たしかに現にパンによっても生きてきたのです。そのパンの一つ一つさえ、主のあわれみと恵みの御手から差し出されてきたものでした。主からのあわれみと恵みと、そして具体的な支えや養いがあって、確かにあって、それでそのようにして、私たちは今日ここにあるを得ております。なんという恵みでしょう。なんという幸いか。



2017年11月15日水曜日

11/12こども説教「不正な家令をほめる主人」ルカ16:1-12

 11/12 こども説教 ルカ16:1-12
 『不正な家令をほめる主人』
               +【補足/神への山ほどの借金=罪】

16:1 イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。2 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。3 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。・・・・・・8 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。9 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。    (ルカ福音書16:1-12)

たとえ話ですね。金持ちの主人は、神さまです。主人の財産をあずけられた召使い(=家令)は、私たちすべての人間です。まず、『とてもよい財産を山ほど持っている私たちですけれど、その一つ一つが自分の持ち物ではなく、すっかり全部、主人の財産であり、主人のものだ』と、よくよく覚えておきましょう。あずけられている財産。一日分ずつの自分の生命。これは自分のものではなく主人の財産です。貯金通帳の中身も家屋敷や土地も畑も、家族も、大事なオモチャや本や素敵な洋服もなにもかも、すっかり全部、自分のものではなく、あずけられている主人の財産です。びっくりしたでしょ? 本当のことですよ。主人の財産を無駄遣いしていることがバレて、クビにされようとしています。困りました。「そうだ。友だちを作っておこう。主人に仕える仕事をクビにされて追い出された後、その友だちが、私を助けて面倒を見てくれるかも知れないから」。今にもクビにされかけているその召使は、主人に借金をしている人たちを一人一人呼び出して、会計帳簿を書き直して、それぞれの借金を割り引いてあげました。そしたら、主人はそのやり方がとても賢いと喜んでほめてくださいました。私たちにも同じことをするようにと勧められています。9節「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。その友だちが、あなたを、永遠のすまいである神さまの家に招き入れてくれるから」。『不正の富』という言葉遣いが分かりにくいでしょう。それは、私たちがいま手にしている神さまのものである財産です。「不正の~」とは、『自分の手の中にあって、自分のもののように見えるけれども、でも自分のものではない』という意味です。その財産を精一杯に使って、神さまにそれぞれたくさん借金をしている仲間たちの借金をなんとかして減らしてあげて、友だちを作る。そうしたら、その友だちが、あなたや私を神さまの家に招き入れてくれる。・・・・・・とても難しいことが言われました。じゃあ2年でも3年でも、10年でも20年でも、それはどういうことだろうかと、よお~く考えてみましょう。同じことを、この私たちも、今からでもし始めましょう。


      【補足/神への山ほどの借金=罪】
         まず最初に、「『不正の富』とは自分の所有物ではなく、自分に権利があるわけでもない、ただ神からゆだねられている神ご自身の財産だ」と種明かしをしておきました。私たちが手にしているすべての良いものや財産は、みな全部が『神のものである財産』です。それなら、神の御心にかなって運用することこそがふさわしい。これが出発点です。主の祈りの第5の祈願も、「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」の『罪』を、少し前には『負債=借金』と言い表していました。マタイ福音書18:21-35のたとえ話こそがその大きな根拠・土台であるでしょう。王にばくだいな借金のある家来が王のもとに呼びつけられ、借金の返済を求められた。家も土地もすべての財産も売り払い、自分も家族も奴隷として身売りしてもなお全然足りない。「待ってください」と頼んだ。王はその家来を可哀想に思って、借金をすっかり全部、帳消しにしてやった。けれど帰り道にその家来は自分にわずかな借金のある友と出会い、「すぐに全部を返せ」と脅し、牢獄に閉じ込めた。ふたたびその家来は王のもとに呼びつけられて、きびしく叱られた、悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」
         この二つのたとえ話は、神の同じ一つの御心を告げ知らせています。あわれんで、私たちの『罪=借金』をすっかり丸ごと帳消しにしてくださる心優しい神であると。自分への借金も、みな全部、神への借金です。マタイ18章では、友の『罪=借金』をゆるしてやらなかったから、神は「悪い僕、不届きなしもべだ。わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」ときびしく叱る。ここでは、仲間たちの『神への罪=借金』を減額してあげて、「よくやった」と神に喜ばれています。神からゆだねられている財産を、「神を愛し、互いに愛し尊び合って生きる」ために使うことができるなら、その財産を神の御心にかなって、適切に使ったことになりますね。それこそが神の家に招き入れられる秘訣であると。その知り合いや隣人たちこそが、お前を神の国へと招き入れてくれると。

         罪をゆるすことができるのは、神さまだけです。罪をゆるし、神に逆らう罪から解放してくださるために、救い主イエスは世に来られました。そのゆるし方は、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである」(コリント手紙(2)5:18-20,ローマ手紙3:21-27)という無条件の、ただ恵みによる、ただ憐れんでゆるすというゆるしです。復活の朝、主イエスはその『罪をゆるす』職務を弟子たちに託しました、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ福音書20:21-23)。神があの召使たちやあなたや私に対して、いつ、どういう場合に、心を痛めたり怒ったり、きびしく叱ったりなさるのか。どういうときに、喜んでくださるのかも分かります。主人である神を愛するためには、隣人を自分自身のように愛し、尊び、憐れみ合うことが必要不可欠でありつづけます。「神を愛し、隣人を愛し尊べ」と命じる神の律法は、そのまま直ちに、この私たちも「神を愛し、隣人を愛することができる」という神の福音そのものでもあったのです。神に聴き従って幸いに生きることができるし、すでにそこは神の国の領域の内側です。いかがでしょう。これで、すべての謎の糸がほぐれたでしょうか?

11/12「招かれる者は多いが」マタイ22:1-14

                                  みことば/2017,11,12(主日礼拝)  136
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:1-14                       日本キリスト教会 上田教会
『招かれる者は多いが』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
22:1 イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、2 「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。3 王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。4 そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。5 しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、6 またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。7 そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。8 それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。9 だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。10 そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。11 王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、12 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。13 そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。14 招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。(マタイ福音書 22:1-14)
                                               


  まず1-2節。「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである」。この私たち一人一人のためにも、救い主イエスご自身がたとえ話で語りかけておられます。神がどんな神であり、その神のご支配のもとに生きる者たちの幸いと祝福がどんなものであるのか。その幸いな者たちがどのように生きることができるのかを教えようとしてです。私たちすべての人間とすべての生き物たちは婚宴に招かれたお客です。神を信じる者も信じない者たちも、すべての人間と生き物たちがその喜ばしい婚宴に招かれ、祝福と救いへと招かれつづけています。とくにクリスチャンは、その王さまの王子であられる主イエスと結婚して、新しい家庭を築き上げようとする、現にこれまで主イエスとの新しい家庭を築き上げつづけてきた、花嫁でもあります。そのことを、よくよく覚えておきましょう。
  3-8節。旧約聖書の時代からつづく、神とその民とされたイスラエルの歴史です。王であられる神さまのしもべである預言者たちが、婚宴に招かれていた人々を、つまり先祖と私たちを呼び集めようとしつづけます。けれどその人たちは来ようとしなかった。そこで他の預言者たちが王のもとから次々と遣わされて呼ばわりつづけました。「食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください」と。はじめに招かれ、また繰り返し何度も何度も招かれつづけていたのは、神の民イスラエルです。「食事の用意ができました。すべての用意ができました。さあ、おいでください」。さあ、おいでください。祝福に満ちた喜ばしい救いと解放のときが間近に迫っているからです。すべての預言者たちによる招きがつづき、積み重ねられ、やがて救い主イエスご自身によって、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15と。福音と、神の国の中身もまたはっきりと告げ知らされました。恵みに値しない、まったくふさわしくない罪人を、けれども憐れんで救う救いであると。主の律法が先祖と私たちのうちに置かれ、心に記され、刻み込まれる。ついにとうとう主は先祖と私たちの神となり、私たちは主の民となる。小さな者から大きい者まで誰もが皆、主が主であられることを知り、どんな主であり、主の御心はどのようであるのかをはっきりと知るようになる。主が私たちの不義をゆるし、もはやその罪を思わず、私たちもまた罪と古い自分自身から救い出されて、神の御心にかなう歩みをしはじめると(エレミヤ31:33-34,ローマ6:1-11参照)
  けれどもなお先祖と私たちは主の招きに応えようとせず、なかなか主のもとへと立ち戻ってこようとしませんでした。知らんぷりをしたり、自分の畑に出かけ、自分の商売や大事な約束や他の用事があるなどと口実を並べ立ててそれぞれの道へと出かけてゆき、またほかの者たちはこれらの預言者たちを捕まえて侮辱を加えたうえで殺してしまいました。7-8節「そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった」。神の民イスラエルの王国は人間の王が立てられて四代目で南北2つに引き裂かれ、やがて北王国イスラエルが、つづいて南王国ユダも滅ぼされ、都の城壁も神殿も町も焼き払われ、打ち壊されて廃墟とされました。ここでよく分かっている必要があるのは、たまたまどこかの悪者たちが彼らを打ち倒したのではなく、王である神ご自身がご自分の民をきびしく懲らしめ、悩みの中に据え置いた、ということです。「悔い改めて、主なる神のもとへと立ち返れ。そうでなければお前たちは滅びる」と何十年も何百年も呼ばわりつづけ、けれど、神を信じて幸いに生きるはずの人々は、どうしたことか神さまを二の次、三の次にし、後回しにしつづけて、少しも耳を貸そうとしなかったからです。なんということでしょう。それが、先祖と私たちの歴史です。そのとおり。先祖も私たちも、あまりにふさわしくなかったからです。

            ◇

  さて、9-14節はかなり難しくて、ここに込められている神さまご自身の御心を受け止めるためには、心を鎮めて、よくよく思いめぐらせねばなりません。9節以下、「だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。そこで、僕(しもべ=召使い)たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。初めから招かれていたユダヤ人たちはふさわしくなかった。だからそのふさわしくない彼らは退けられ、その代わりに、「王の僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきた。それで婚宴の席は客でいっぱいになった」。そのように婚宴の席に連れてこられ、席に座らせられたのが、今日のキリスト教会であり、私たちクリスチャンであるというのです。選り好みも区別も分け隔ても何もなく、街の大通りに出かけてきたしもべたちが出会った者たちが片っ端から、善人も悪人も、親切な人も意地悪な自分勝手な人たちも、賢くて役に立つ人も、あまり賢くなくて、たいした役に立たない人もどんな人でも、ただただ連れて来られた。このことを、私たちは覚えておきましょう。「何か取り柄や見所があって、だから、この私は神さまから招かれた」と思っていた人もたくさんいるでしょう。私たちの性分や好みにも合わず、とうてい受け入れ難いことですが、なにしろ聖書自身がこう語っているのですから、気に入らなくてもシャクにさわっても、このまま受け取らねばなりません。しかも、主イエスが直々に、「こういうことだった」と仰った。しかも、この箇所だけがそう主張しているだけではありません。聖書全体が、「本当にそのとおりだ」とこの報告を強く支持しています。例えばローマ手紙3:22以下は、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、(だからこそ)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。価なしに、神の恵みによって、義とされつづける。そのとおり。
  ここで一番の難問は、『婚礼の客としての礼服』問題です。「僕(しもべ)たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。奇妙なことです。すごく難しいでしょう? 善人でも悪人でもみな集めてきた。しかも、道で出会った人たちをそのまま直ちに連れてきて、婚宴の席に座らせた。では、礼服を着ている人たちは、いつどこでそのふさわしい礼服を用意し、どうやって調達したのか。たまたま礼服を持っている人たちもいたとしても、家に取りに帰って着替える余裕はありませんでした。ですから、以前から持っていた自分の持ち前の礼服や晴れ着などではありません。その礼服は、高いお金を払っても買えませんし、どの店にも売っていません。神の国の、憐れみ深く正しい王からの気前の良い贈り物であるからです。王ご自身が用意して、手ぶらで着の身着のままでやってきた者たち一人一人に分け隔てなく区別なく一人一着ずつの礼服を贈り与え、それを着せてあげたはずです。そのほかに、ふさわしい礼服を用意する方法はありません。招かれて婚宴の席に座らされた者たちは、一人残らず全員が、王によって用意していただいた『神の国の祝宴にふさわしい礼服』を着させられていたはずでした。それなのにどうして、着せていただいたはずの礼服を着ていない、贈り物としていただいた礼服を脱ぎ捨て、投げ捨ててしまった、あまりにふさわしくない不届きな者たちがいるのでしょうか?
  そして、『神の国の祝宴にふさわしい礼服』とは、いったいどういう礼服なのか。それは、主イエスを信じる信仰です。クリスチャンにとって、良い行いは他のどこからでもなく、ただただ主イエスを信じる信仰から芽生え、育ってゆくはずのものだからです。それでもなお、旧約聖書の時代に先祖たちの多くが神に背き、神の恵みと祝福からこぼれ落ちてしまったように、今日のキリスト教会の中でも、この私たちの間でももちろん、まったく同じことが起こりえます。だからこそ 主イエスがわざわざこのたとえ話を、私たちに向けても語り聞かせておられます。せっかく神の国の祝宴へと招き入れられ、祝宴の席に座らせていただきながら、なおその格別な祝福や恵みを受け取り損ね、その恵みからこぼれ落ちてしまう者があっては困るからです。神の国の王からせっかく直々に招き入れられた私たちですから、汚れと邪悪さにまみれた古い罪の自分を脱ぎ捨て、つまらない怒りや妬み、悪意、不品行と貪欲と、心の中の恥ずべき思いと口からついつい出て来る恥ずべき言葉を脱ぎ捨ててしまいたいからです。ぜひ何としても、新しい生命へと移し入れられたいのです(コロサイ手紙3:5-10,ローマ手紙6:1-11。喜ばしい晴れ晴れとした礼服を、それぞれ一人一着ずつ着せかけていただいた『神の国の祝宴にふさわしい礼服』を着せかけられたまま着つづける私たちでありたいからです。それこそが神ご自身の心からの願いであるからです。
  古い罪の自分を脱ぎ捨てて、キリストを着せかけられたのだ、と聖書は証言します。それこそが、『礼服』の中身であり正体です。「あなたがたは皆、イエスキリストにある信仰によって、神の子なのである。キリストのうちに沈め入れられる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのである」「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ガラテヤ手紙3:26-27,ローマ手紙13:11-14参照)。主イエスを信じて生きていこうと決心し、洗礼を受けたあの最初の日にキリストを着せかけられた私たちです。だから、うっかり脱ぎ捨てたりせずに、それをそのまま着ていようではないかと。そのためにこそ、キリストは丸裸になってくださいました。私たちにご自身を着せかけてくださるために。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ手紙2:6-。ご自分の栄光も尊厳も生命さえ脱ぎ捨てて、すっかり虚しくなり、おのれを低くし、御父への従順の限りをつくしてくださったお独りの方がおられます。私たちもまた、同じくそのように新しく生きることができるために。あなたのためにも私のためにも、それを成し遂げてくださいました。「二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで他方をうとんじるからである」(マタイ6:24と習い覚えてきました。『二人の主人問題』はそのまま直ちに、『二着の礼服問題』でもあります。仕えることのできる主人が独りだけなら、もちろん礼服も晴れ着も一人一着限りです。『キリストの礼服』を着せていただいたままに生涯ずっと着ているのか、それとも『古い罪の自分』(ローマ6:1-23参照)という汚れて汗臭くて嫌な臭いのするボロボロの服にしがみつきつづけるのか、そのどちらかです。両方を重ね着することは誰にもできません。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで他方をうとんじるからである。「自分が自分が」と言い張りつづけて、サタンと自分の腹の思いの奴隷にされ、言いなりに従わせられようとするとき、そのとき、私たちは『キリストの礼服』を今にも投げ捨てようとしています。いいえ、そうであっては困ります。死と滅びへと至らせるボロボロで薄汚い服をポイと脱ぎ捨てて、生命と格別な幸いへと辿り着くことができます。生命と格別な幸いを一日また一日と受け取りつづけて、晴れ晴れ清々として生きて死ぬことができます。あなたも私も共々に。



2017年11月8日水曜日

11/5こども説教「怒り悲しむ兄を」ルカ15:25-32

 11/5 こども説教 ルカ15:25-33
 『怒り悲しむ兄を』

     15: 27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。       (ルカ福音書15:25-32

  帰ってきた弟のためにあんなに大喜びに喜んでいる父さんの姿を見て、兄さんはうらやましくなりました。さびしくて、ねたましくて、悔しくて、腹が立って腹が立ってしかたがなくなりました。いままで我慢して積もり積もっていた山ほどの不平不満が、とうとうバア~ンと爆発して、溢れ出てきました。29-30節の兄さんの言い分を聞いてください、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」。こういう淋しさや悔しさを味わったことがありますか。こういう悲しい気持ちになったことがありますか。ずっとお父さんの家にいて、お父さんといっしょに暮らして、けれど兄さんは迷子になっていました。いつのまにか、どんなお父さんなのか、どんなに大事に愛されてきたのかがすっかり分からなくなっていました。本当は、十分すぎるほどの豊かな贈り物を与えられつづけてきました。けれど、「何もしてもらっていない」と、今では思い込んでいます。あの兄さんは。
お父さんから愛されつづけてきた、とてもとても幸いな息子たち、娘たちよ。お父さんの言葉に、よくよく耳を傾けましょう、31節、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」。


      【補足/神さまに対して怒っている淋しいクリスチャンたち】
聖書の中にたくさん登場します。その誰も彼もが、この兄さんと
そっくりです。例えばカイン兄さん、預言者ヨナ、ぶどう園で朝早くから働いた労働者
たち、マルタ姉さん、弟子のユダ(創世記4:1-16,ヨナ書4:1-12,マタイ福音書20:1-16,
ルカ福音書10:36-42,)、そして私たち。
       ここまできて、ようやく、3つのたとえ話を語り始めるきっかけになっ
た場面に戻ることができます。主イエスが当時は軽蔑され、ないがしろに扱われていた
遊女、取税人、「罪人」と人々から見なされていた人々と親しく付き合い、語り合い、
いっしょに愉快に食事さえしていました。その姿を見て、苦々しく不平を言っていた
人々のことに。1-3節、「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄って
きた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事
をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった」。自分たちこそ
は正しくふさわしいと思い込んで他者を見下していたパリサイ人や律法学者た
ち。彼らこそが、あの野原に残された99匹の羊であり、主人の手の中にあって
も嬉しくもなんともない9枚の銀貨であり、父の心を見失って悲しみ怒ってい
た兄の正体です。「自分は正しく何の落ち度もないのに、きわめて不当な扱い
を受けている」と言い張るところに、彼らの共通点もあります。わたしは何か年
もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに」と兄は主張し、
「私こそが十分な良い献げものをささげたのに」とカインは傷つき、「朝早くから汗水たらして
働いたのに」「私ばかりに働かせて」などとぶどう園の朝早くからの労働者たちやマルタ姉さん
は眉間にシワを寄せ、ねたみます。それは同時に、キリスト教会の中にくすぶりつづ

ける淋しく物悲しいクリスチャンたちをはっきりと写し出す鏡です。