2017年11月28日火曜日

11/26「死んで、それで終わりではない」マタイ22:23-33

                                    みことば/2017,11,26(主日礼拝)  138
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:23-33                      日本キリスト教会 上田教会
『死んで、
  それで終わりではない』
 
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
22:23 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、その日、イエスのもとにきて質問した、24 「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。25 さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。26 次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。27 最後に、その女も死にました。28 すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。29 イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。30 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。31 また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。33 群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。                         (マタイ福音書 22:23-33)
                                             


  サドカイ人のふり見て我がふり直せ、です。彼らは、とても悪い手本を見せてくれています。ですから私たちは、あの彼らをよくよく観察しておきましょう。神を信じて、この自分自身がどのように毎日毎日を生きることができるのか。やがてどのように幸いに死んでゆくこともできるか、と思い巡らせながら。
 まず23-30節。「死んだ者がまた生き返るとか、復活ということはない」と彼らは主張しています。「もし死んで生き返るなら、何度も何度も再婚して7人の夫をもった妻は、生き返ってからどういう生活を送ることになるのか」などと言い出して、主イエスをやり込めようとします。29節、「イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである」。その新しい人間関係・夫婦や家族の関係については、私たちはあまり十分には理解できず、はっきりとは思い浮かべることができないかも知れません。けれどなにしろ主イエスがそう仰るので、そのまま受け入れます。すっかり丸ごと、お任せして、言われるとおりにそのまま信じて聞き従います。「主なる神」と言い習わしつづけてきました。「イエスこそ主であり、私たちは主のしもべであり弟子たちである」と習い覚えつづけてきました。それは、このことです
  31-32節は少し難しいでしょう。「また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』(出エジプト記3:6,16と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神。しかも、もし万一、アブラハム、イサク、ヤコブらが死んでしまったままであるならば、「アブラハム、イサク、ヤコブらが生きていた間には、あの彼らのための神だったが、彼らは死んでしまったので、もう彼らの神ではなく、彼らのための私の神としての役割は終わった」などと仰ったでしょう。この私たち自身も、神さまが決めておられるあり方と順番で、やがて次々と必ず死んでいきます。けれど、死んで、それで終わりではない。死んだあとにも、私たちの生命はつづく。そのことは、よくよく分かっている必要があります。実は、クリスチャンの中にも、あのサドカイ人たちと同じようなことを言い出して仲間たちを惑わせる者たちがいました。しかも使徒パウロによって養い育てられたはずの、あのコリント教会の中にです。またテサロニケ教会でも、死んだあとのことについてあまりよく分からずに、心細くなったり悩んだり困ったりする兄弟姉妹たちが多くあったようです。そういうわけでコリント人への第一の手紙15章の全体は、とくに復活の希望について詳しく説き明かし続けています。15:12-20、「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。・・・・・・もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。聖書の神を信じて生きる者たちにとって、ここが最も大きな分かれ道となります。死者の復活を本気で心底から信じることができるのかどうか。救い主イエス・キリストが死んで三日目に墓からよみがえったように、この私自身も、決して、死んでそれで終わりではなく、さらにその先へと生命がつづく。神の御前に生きる新しい生命を、神さまご自身がこの私のためにも必ずきっと成し遂げてくださる。そのことを信じられるのかどうか。もし、信じられないならば、この世の生活の中でだけ、あるいは頭の中のどこか片隅でだけ、ほどほどに信じている程度で、死んだあとまでもずっと、神さまによって守られ支えられて生きる私であるなどとはとうてい信じられないならば、私たちは、すべての人の中で最もあわれむべき惨めな存在である。まったく、その通りです。
  もう少していねいに話しましょう。同じコリント人への第一の手紙1532-34節、「もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい」。せっかく主を信じてクリスチャンとされながら、肝心要の点に関してはなかなか信じきれない人々がいました。死人の中からの復活は、どうだかよく分からない・・・・・・と。それで、仕方なしに、自由に勝手気ままに振舞っていました。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という彼らの飲み食いの場面を思い浮かべてみてください。どんな気分で、飲み食いしているでしょう。それは例えば終戦間際の、カミカゼ特攻隊の、出撃前夜のドンチャン騒ぎによく似ています。いくら飲んでも喰っても、ハメを外しても、面白くもなんともない。嬉しくもなんともない。それは絶望に犯された、寒々しい、あまりに苦い宴会です。ただこの生活の中でだけ、ただ頭の中でだけ信じているだけなら、「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな、あわれむべき者」だと聖書は語ります。あなた自身は何をどう信じているのか、と問われています。救い主イエス・キリストは復活したのか、しなかったのかと。したのなら、このお独りの方を『初穂』として、私たちもまた新しい生命に生きることになる。あなたは、キリストに望みをかけている。その望みは、どこにまで及ぶでしょう。どの程度に、どれくらいの範囲で、確かなものでしょうか? 自分自身で答えねばなりません。聖書の別の箇所は、(テサロニケ手紙(1)4:13-14「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」。いつまでも好きなだけ生きるように、とは定められていません。例外なく、誰もが死ぬし、その時やあり方を自分自身では選べません。「はい。分かりました」と受け入れるほかありません。かつて土の塵から造られ、鼻に命の息を吹き入れられて生きる者とされた私たちです。そのように、「土から造られたあなたは、やがて土に還れ」(創世記2:7,90:3)と命じられています。やがていつか、あなたの愛する夫や子供たちがこのことを腹に収めることができる日が来るでしょうか。いいえ、その前に、この私たち自身こそが。限りある、一回だけの人生であり、だからこそそれを惜しみながら魂に刻みながら、1日1日と精一杯に生きるのです。「日毎の糧を、主よ、どうか今日もお与えください。贈り与えてくださってありがとうございます」と。その日毎の糧の中に、1日分ずつの生命も入っていたのです。さて、『死んで、それで終わりじゃない』という確かな希望をあなたも私も聞き届けてきたし、必要なだけ十分に知らされてきました。もし、その希望を思い起こせないなら、私たちも他の人々同様にただただ嘆き悲しむ他ありません。告げられ、そして信じてきた中身は、「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さる」ということです。主と共にいる。目覚めていても眠っていても、生きていても死んだあとでも。元気ハツラツとした日々にも、そうでもない日々にも。しかも、『共にいる主』はただ共にいるというだけではなく、私たちを顧み、私たちのためにも良い業を成し遂げようと生きて働いておられる主です。主とは、最後の最後まで責任を負いとおしてくださる方、という意味でしたね。(ヨハネ福音書11:23-27「イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟はよみがえるであろう』。マルタは言った、『終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています』。イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』。マルタはイエスに言った、『主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております』。わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなた自身はこのことを信じるか。本気で心底から信じるのか? と、マルタと共に私たち1人1人も問われています。しかも、主イエスご自身からの、主の弟子とされている私たちに対する直々の質問です。
  聖書は証言します、(ヨハネ福音書14:1-7「『あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている』。トマスはイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう』。イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』」。ね、はっきりしたことが明確に語られていました。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と主イエスは、私たちのためにも、あなたの愛する夫のためにも仰ったし、はっきりと約束してくださいました。心が騒ぐし、たびたびザワザワと波立つし、だからこそ主イエスを、この言葉を心底から信じて、なんとしてでも魂に深々と刻み込む必要があったのです。なにしろ主イエスご自身がはっきりとこう仰っています。「私は道であり、真理であり、命である」と。「私は道。ただし箱根駅伝の3倍くらい大変な、辛くて辛くて苦しいばかりの道」と言ってくださったはずです。もし、本当にそうだったら。「私は真理。ただし小難しい分厚い本を山ほど読まなきゃ分らない」と言ってくださったはずです。もし、本当にそうだったら。「私は命。ただし上等な生命保険みたいで、掛け金はけっこう高い。しかも、掛け金をたくさんつぎ込んでも、受け取りをずいぶん待たされたあげくに配当金はほんのチョッピリ」と言ってくださったはずです。でも、そうは仰らなかった。主イエスこそ道、真理、命。この1本の道を通りさえすれば、誰でも天の御父のもとへと辿り着ける。この1つの真理に聞きさえすれば、誰でも、幸いに暮らすために知るべきことを知ることができる。このイエスから受け取りさえすれば、誰でも、晴々として生きて、やがて心安く死んでいくことさえできる。しかも、あなたや愛する夫や息子や娘たちのためにも場所が用意されていて、主と共にいることになると約束もされている。その他に、いったい何を確かめる必要があるでしょう。
  さらに聖書は証言します、(イザヤ書46:3-4、「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」。はいはい。「年老いる日まで。白髪になるまで」。はいはい。
で、その後は? 
あなたは、どう思いますか? すでに十分に語られてきた。あなたも僕も、はっきりと告げ知らされてきました。あとは、朝も昼も晩も、口ずさみつづけます(1:1)。私たちの魂に深々と刻み込まれるまで。なにか他のモノに消されたり、どこかに紛れたりしないほどまでにです。どうぞ、よい日々を。