2020年12月31日木曜日

12/28 詩127篇の葬儀説教

 詩127篇の葬儀説教    2020,12,28 故・金田孝子の葬儀式)

 

127:1 主が家を建てられるのでなければ、

建てる者の勤労はむなしい。

主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。

2 あなたがたが早く起き、おそく休み、

辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。

主はその愛する者に、眠っている時にも、

なくてならぬものを与えられるからである。

3 見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、

胎の実は報いの賜物である。

4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。

5 矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。

彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。 (詩篇127篇)

 

 聖書が、どうしたわけか「むなしい、むなしい、それは(むな)しい」と奇妙なことをクドクドとしつこく語りかけてきました。そんなことを聖書から、神さまから語りかけられるなんて、いったいどうしたわけでしょう。ぶっきらぼうな、言葉足らずで無口な友だちのように、しばしば聖書はとても分かりにくい、なかなか通じずらい言い方をします。ここもそうです。「むなしい、むなしい。主である私が愛する者たちに必要なものをいつも与えるからである」と、どういうことでしょう。本当は、「虚しくない。虚しくない。ちっとも虚しくなんかない」と、神さまは、この私たちを励ましたいのです。私たちを勇気づけ、安心させたいのです。強がってみせても誰でも皆、とてもとても心細く生きているので、そういう人たちが心配で心配で仕方がなく、十分な安心材料を私たちになんとしても手渡したい。それで、神さまが呼びかけてくださっています。

 「私こそがすべての町や村を、国々を、ちゃんと建て、しっかりと守りつづけているじゃないか。どの家も、どの家族の毎日毎日の暮らしも、人生もなにもかも、私こそがその土台をしっかりと据えて、建て上げ、支え続け、守りつづけているじゃないか。だから川の水があふれても、地震や津波が起こっても、泥水が堤防を乗り越えて、私たちの目の前にまで迫る日々にさえ、あなたは大丈夫だ。この私が、あなたのための町や家の人生の建築者であり、設計者であり、すべての責任を最期の最期まで背負い通す現場責任者であるじゃないか。大丈夫だ、大丈夫だ。だから、あなたの苦労や悩みや、朝早くから夜遅くまで頭を抱えながら精一杯に働きつづけているすべての営みは、決して虚しくはない。良い実を結ぶ。いいや、この私があなたのためにさえ良い実を必ずきっと結ばせる」(ローマ手紙8:31-,詩篇27:1-,ピリピ手紙1:6,申命記31:8など)という神さまの憐みの御心です。生きて死んだこの一人の彼女(金田孝子)のためにも、悩みのなかで心細がっているすべての小さく弱い者たちのためにも、この神こそが味方でありつづけます。

 だから、この私たちもみんなも、困ったときに耐え忍ぶことができ、苦しくて辛くて恐ろしくて仕方がない夜にも、「助けてください」と呼ばわって、差し出されつづけていたその支えの手をつかみ、しっかりと握り返して生きることもできます*。祈りましょう。

 

 

           *Q 神を敬う、正しい在り方は、どういうものですか?

        A すべての信頼を神に置くこと。その御意志に服従して、神にお仕えすること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです。(「ジュネーブ信仰問答」問7 J.カルヴァン)

 

 

 

 

 

2020年12月28日月曜日

12/27「救いを見たので」ルカ2:21-35

            みことば/2020,12,27(主日礼拝)  299

◎礼拝説教 ルカ福音書 2:21-35                   日本キリスト教会 上田教会

『救いを見たので』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。22 それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。23 それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、24 また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。26 そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。27 この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、

29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに

この僕を安らかに去らせてくださいます、

30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。

31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、

32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。

33 父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。                                                    (ルカ福音書 2:21-35)


21節、「八日が過ぎ、割礼

(かつれい=神の民とされ、神を信じて生きる者とされたことのしるし。それは、もちろん単なる形式や、儀式・儀礼ではなく、「心の包皮を切り捨てる。心に割礼を行い、もはや強情ではなくなる」霊的な新生の出発点(申命記10:16,30:6,エレミヤ4:4)。のちに、洗礼者ヨハネの活動をきっかけとして、そのしるしは「洗礼(せんれい)」へと転換していく(ルカ3:1-22,マタイ28:16-20,使徒2:36-39,15:1-29)。これらすべて人間の考えによってではなく、神ご自身の御計画とお働きによる)

をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた」。最初のクリスマスの夜、御使いが告げて羊飼いたちが見たとおりに、救い主が生まれました。その赤ちゃんはイエスと名づけられました。イエスとは、「主こそが救いである。主が私たちを救ってくださる」という意味です。あらかじめ御使いから「イエスと名づけなさい」(ルカ1:31と命令されていたとおりに、そう名付けました。

 さて、信仰をもって生きる1人の老人がいました。シメオンという名の人です。このシメオンについては、「神殿で幼子をその腕に抱え、神を讃美し、そして立ち去っていった」こと以外は、私たちには何も知らされません。それ以前に彼がどんなふうに生きてきたのか。また、残されたごく短い時間を彼がどんなふうに使うのかを、聖書は何一つも語りません。

 25-26節、「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた」。神の御前での信仰深さと、神の御前での正しさ。それは神に信頼を寄せ、聴き従い、隣人を自分自身のように愛する私になりたいと願い求める在り方です。とくに、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいることが、彼の信仰の中身です。救いを待ち望む希望なしには、真実に神を礼拝することはありえません。それは神の約束への信頼であり、とくに救い主イエス・キリストを通して、私たち自身と家族とすべてのキリストの教会と世界と、いのちあるすべての者たちが健やかな在り方を取り戻していただくことへの希望です。クリスマスの季節ばかりでなく、毎週毎週、私たちは救い主を待ち望みつづけます。「主よ、来てください」(1コリント16:22と、かつてひとたび来てくださった救い主が、やがて終わりの日にふたたび来てくださることを私たちは待ち望み、その救い主イエスを日毎に自分自身のいつもの暮らしと自分の心に迎え入れつづけます。だからこそ、私たちは希望をもって忍耐することもできます。彼らが神の救いをその目ではっきりと見るまでは、決してその人々を手放すことなく、見捨てることも見失うことも決してありえないと。もちろん、シメオン1人だけではありません。私たちがその人を親しく知っていようがいまいが、その人たちの顔も名前さえ知らなくたって、けれど私たちの神は、その人たちをよくよく知っていてくださり、ご自身を信じる人々を無数に数限りなくその手に支えつづけておられます。

  27-30節です。「安らかに去ることができる」と彼は言います。神殿を、ではありません。この世界を、この地上の生涯をです。これで、私は安らかに務めを終えて、安心して晴れ晴れとして去ってゆけると。生きることは、いつまでもどこまでも生きることを意味しません。若い日々にも健康で旺盛な日々にも、小さな子供の頃でさえ、生きることは死と隣り合わせ・背中合わせだったではありませんか。限りある、ほんの束の間のごく短い生命のときを、それじゃあ、この私はどうやって使おうか。どのように生きてゆこうか。やがて必ず来る自分自身の死と終りを見据えて、だからこそ、そこで私たちは「じゃあ、この私はどんなふうに生きていこうか」と腹を据えたのでした。年老いてだんだんと衰え、やがて死んでいくことは、きびしく恐ろしいものです。また、「1日でも長く生きて、人生の喜びと楽しみをたっぷりと味わいたい」と願います。自分が果たすべき務めや役割がまだまだ残されているのにと、後ろ髪を引かれながらも立ち去らねばならない日々も来ます。けれども、このシメオンという老人にとっては、そうではありません。この地上のごく短い生涯をやがてそれぞれに終えて、私たちはどこへと向かうのかを、あの彼は知っているのです。し残した仕事や責任や役割を、いったい誰にゆだねることができるのかも。神さまが許してくださる限り、彼は生きます。神が去らせるときに、あの彼は「はい。分かりました」と言って去ってゆきます。しかも、安らかに晴れ晴れとして。

 さらにシメオンは、救い主イエスについて決定的な証言を残します。34-35節。「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。救い主は、神を知らなかった者たちに差し出された《光》です。この救い主イエス・キリストは、なんと「反対を受けるしるし」でもあるといいます。立ち上がらせるだけではなく、打ち倒すこともなさる。確かに、神に従おうとして生きてきたユダヤ人たちの多くは、そこで神につまずきました(ローマ手紙9:30-11:32)いまシメオンがその目で見ている小さな赤ちゃんはあわれむ神であり、罪深い愚かな者を憐れむあまりにご自身が身を屈め、神であることの栄光も尊厳も生命さえすっかり投げ捨ててくださった神です。その憐みを受け取ろうとするとき、どうしたわけか「私たちは心を刺し貫かれ、自分自身の心にある思いがあらわにされる」と予告されています。なぜなら、この救い主イエスこそがご自身に執着せず、神であられることの尊厳も栄光も投げ捨て、へりくだって、ご自身を虚しくなさったからです。このお独りの方が、神の憐みのもとに生きようとする私たちにも、「この私にならって同じように自分に執着せず、へりくだり、自分を虚しくしなさい」と命じておられるからです。

 どうして打ち倒されねばならないのか。なぜ、目には見えない剣で自分自身の胸を刺し貫かれるのか。

(使徒2:36-37「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った」、ヘブル手紙4:12-13「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされている」)

救い主イエスを信じて生きる私たちは、キリストを知る知識のかおりだと聖書は証言しました。「神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者(つまり滅びようとする者)にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者(つまり救われる者)にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである」(2コリント手紙2:14-16と。滅びようとしつづける私たちが救われるためには、「私は私は」と自分の肉の欲、罪の思い、心の頑固さを投げ捨て、その「要らない自分」を投げ捨てなければならないからです。「自分を捨てて私に従ってきなさい」とやがてこの救い主イエスが弟子たちを招きます。古い罪の自分を投げ捨て、神の御前で、神に向かって新しく生きはじめるためです。新しく立ち上がるために、古い罪の自分は打ち倒されねばなりません(ルカ9:23,ローマ6:6を参照)。神ご自身がそれをしてくださるので、この私たちにも「自分」を捨てることができます。この方の恵みとゆるしのもとに立つためには、「主よ、どうか罪人の私をあわれんでください」と私たちは呼ばわるだけでよい。それなら、私たちにも出来るかもしれません。

 

             ◇

 

  今日の箇所の冒頭部分、22-24節にも目を留めておきましょう。生まれてきた赤ちゃんのために山鳩2羽か、家鳩のヒナ2羽をささげる。それは主の律法に定められていることで、「その子供が主のために聖別される」ためのしるしだというのです。『聖別(せいべつ)』は、神の者として取り分けられ、神さまのために用いられるということです。その家族の中に最初に生まれた男の子だけが神のものとされるのかというと、決してそうではありません。ですから次男坊も三男坊も女の子たちも、どうぞ安心してください。皆が皆、神にささげられた神のものとして育てられ、そのようにして生きることができます。年配の方々も安心してください。子供たちばかりではなく、子を育てる親たち自身も、神にささげられた神のものとして生きることができます。ですから、その1人の子は、皆がそうであることのしるしです。お父さんお母さんはその子のためにささげものをしながら、《この子は神の恵みの領域の中に生きる人である。神さまこそがこの子に生命を与えることができ、神さまこそがこの子の人生を心強く支え、全責任を負ってくださる。もちろん、他の子供たち皆も私たち自身もまったくそうだ》と改めて心に刻みます。普通は羊や山羊が、生まれてきた赤ちゃんのためにささげられました。けれど、羊や山羊に手が出ないほどに貧しい家庭の場合には、その代りに山鳩2羽をささげます。さらに貧しくて、山鳩2羽を用意できない家もありました。その場合には、家鳩のヒナ2羽でもよい、とされました。けれどそれでも、もっともっと家が貧しくて手が届かない場合には、ほんのわずかな量の小麦粉(レビ5:7-11,11:6-8)でもよいと決められています。――つまりどこの誰でも、どんなに貧しくても、「生まれた赤ちゃんを神にささげられたものとして、親は慎みながら慈しみながら、また願いをこめて育てることができる。また、そうするのが神ご自身の慈しみにかなっている」ということです。子供のいない夫婦もやはり同じく自分たち自身を神さまにささげ、神のものとされて、そのように一日一日を生きることができます。もし、そうしたいと願うのならば。

 その幼子イエスは、神の独り子です。独り子である神です。救い主としてお生まれになった方は、けれども人間のための定めに従って、主のために聖別され、神にささげられたものとされました。やがて、この方は私たちの罪を背負って、私たちの身代わりとなって、十字架の上に献げられます。何のために。この私たちが神にささげられた神のものとして生きることができるためにです。どんなに貧しい者も、ふつつかな者もいたらない者も愚かな者も、どんなに罪深い者も、この救い主によって生命を贈り与えられて喜ばしく生きるようになるためにです。およそ500年ほど前の信仰問答(ハイデルベルグ信仰問答第1問,1563年)は語っていました;「あなたの慰めは何か。あなたを根本の土台のところから支えるものは何か」と問いかけ、こう答えています。「それは、体も魂も、生きているときにも死ぬときにも、旺盛に働くときにも身を横たえて休む季節にも、私が私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものだということです」。神に献げられた者たち。私たちが神さまに何か良い贈り物をして、だから私たちがクリスチャンとされたのではありません。聖書ははっきりと証言しています;「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」と。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを賜らないはずがありましょうか」(ローマ手紙3:24,8:32)と。素敵な贈り物を、私たちが神へと差し出したからではなく、いいえそうではなく、神さまから受け取ったからこそ、それで、だからこそ私たちはクリスチャンとされ、ここにこうしていることを許されています。自分自身と家族のためにも確かにある主の救いをこの目で見つづけながら。目の前にはっきりと示されながら(ガラテヤ手紙3:1,ヨハネ手紙(1)1:1)

 

  ≪祈り≫

救い主イエス・キリストの父なる神さま。

 あなたの独り子を世界と私たちの救いのためにこの世界に贈り与えてくださって、ありがとうございます。御子イエスを待ち望み、迎え入れ、この御子イエスを信じる信仰によって私たちをあなたの恵みの中に留めてください。

 貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか、一日ずつを生き延びてゆくための希望と支えが差し出されますように。

 主なる神さま。私たちの目を開いて、何が美しいことかを教えてください。私たちの心を開いて、何が本当かを教えてください。私たちの中に良い心を呼び起こしてくださって、神さまに喜ばれる良いことを教え、それを選び取らせてください。あなたや周りの人たちを悲しなせ、苦しめるような、してはいけない悪いことが何なのかを教え、この私たちも、自分自身の悪い思いを投げ捨てつづけて生きることができますように。

 救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

12/27こども説教「主イエスの声が聞こえて」使徒22:6-11

 12/27 こども説教 使徒行伝 22:6-11

 主イエスの声が聞こえて

 

22:6 旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照した。7 わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。8 これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。9 わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。10 わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。11 わたしは、光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者たちに手を引かれながら、ダマスコに行った。     (使徒行伝 22:6-11

                    

 主イエスの弟子パウロは、人々に神の救いをしらせるために、エルサレムの都に来て、話し始めています。神さまによって連れて来られました。

 このパウロは、「救い主イエスを信じる前には、私はこの信仰を憎み、信じるクリスチャンたちを困らせたり、縛って牢獄に閉じ込めたり、殺したりしていた」と皆の前で打ち明け始めました4-5節)7-8節、「わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた」。「サウロ、サウロ」と主イエスがパウロに呼びかけました。パウロは元々はサウロという名前でしたが、後でパウロという呼び名に変えたからです。救い主イエスが、この人、パウロに直接に語りかけています。「私は、あなたが迫害しているナザレ人イエスである。なぜ私を迫害するのか。なぜ、私を困らせたり、乱暴していじめたり、牢獄に閉じ込めたり、私を殺そうとしたりするのか」。とても驚きました。ええっ。ただ神を信じているクリスチャンたちを憎んで、目の前にいるその人たちを困らせ、いじめたり乱暴したり、ひどい目にあわせているだけだと思っていました。けれど、「違う」と言われました。神を信じて生きるその一人一人を憎んだり、バカにしたり、困らせたりイジメたり乱暴したり、ひどい目にあわせているとき、その1つ1つの悪いことは全部、この私に対してしていることだと救い主イエスから語りかけられました(当箇所。さらにすべての小さなものたちへと、神のこの同じ祝福と警告は拡げられる。マタイ25:31-46「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。~しなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである」を参照)。知らかなかった。そんなこと思ってもいなかった。頭をガツンと殴られたような気がしました。彼は地面に倒れて、目が見えなくなりました。手を引かれて、そのまま彼はダマスコの町へ連れていかれます。

 

 

 

2020年12月21日月曜日

12/20「救い主が生まれた」ルカ2:8-21

      みことば/2020,12,20(クリスマス礼拝)  298

◎礼拝説教 ルカ福音書 2:8-21             日本キリスト教会 上田教会

(すく)(ぬし)()まれた』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。  (ルカ福音書 2:8-21)

                                               

(注)21節「イエス」;「主は救い」「主が救ってくださる」という意味の名前。母マリヤは「あなたがやがて産む子をイエスと名づけなさい」と、あらかじめ神の御使いから命じられていました(ルカ福音書 1章31節)。その御命令どおりに、名づけました。

 まず8節、「この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」と報告されます。およそ2000年も前のことです。救い主がお生まれになったことをその目で見る証人として、神さまはわざわざとくに羊飼いたちを選びました。その当時、羊飼はまわりの人々から「どうしているかなあ」と心にかけてもらうこともほとんどない、その生活も不安定で心細く生きる、とても貧しい人々でした。野山を移動し、羊たちと共に野宿もし、襲ってくるものたちに備えて交替交替(こうたいこうたい。かわり番こ)で夜通し寝ずの番もしつづける彼らの日々が思い浮かびます。夜中に、そのほんのわずかな人々に、神さまの偉大な出来事が知らされました。神さまから贈り与えられて、この世界に1人の救い主がお生まれになったことをです。この救い主がやがて人々から捨てられ、罪人として十字架につけられて惨めに殺されます。地上の生涯の終わりばかりでなく、人としてこの世界に生まれ落ちたそもそもの最初から、救い主イエスはへりくだって身を屈めた慎ましい姿でありつづけました。「ご自分を虚しくして、しもべのかたちをとった。十字架の死に至るまで(御父に対して)従順であられた」(ピリピ手紙2:6-8と聖書は証言します。この赤ちゃんは家畜小屋のエサ箱の中に布切れ一枚にくるまって横たえられており、その姿を最初に見るのはほんの数人の貧しい羊飼いたちです。このように、生まれたときから十字架の上の死に至るまで、ご自分を虚しくしつづけてくださいました。そのおかげで、ほんの数名の貧しい羊飼いたちと神さまとの喜ばしい出会いのときが与えられました。

 9-10節、「すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える』」。御使たちが現れ、「恐れるな」と告げました。このときばかりでなく、この羊飼いたちに対してばかりではなく、聖書は「恐れるな。恐れるな。大丈夫だから、安心して落ち着きなさいね」と励ましつづけてきました。もし誰かが「大丈夫だよ、怖がらなくてもいい。大丈夫、大丈夫。本当に」と心配して、何度も何度も精一杯に語りかけつづけているとしたら、語りかけられ、励まされつづけているその人たちはとても怖がっているからです。心配で心細くて、どううやって生きていっていいか分からないと途方に暮れているからです。つまり、恐れつづけた彼らだったし、恐れるべきことが山ほどありました。今日の私たちの間でもまったく同じです。強がって見せても誰でも本当はとても心細かったし、恐れや不安をいくつも抱えて生きています。小さな子供たちも、若者たちにもそれぞれの心細さや恐れがあり、子育て真っ最中の若いお父さんお母さんたちも、ずいぶん長く生きて経験を積み重ねてきた年配の方々も、やはりそれぞれに心細さや恐れを抱えて生きています。私たちの願いや計画どおりではなく、主なる神さまの御心こそが成し遂げられますように。神さまの御心を願い求め、信頼し、その御心にこそ素直に聴き従って生きる私たちとなることができますように。なぜなら神さまに信頼できなくなるとき、この私たちは神ではない様々なモノを恐れはじめます。病気や厄介事、周囲の人間たちなど様々なモノを恐れ、その恐れが高じてくるとき、それと引き換えのようにして、神さまへの信頼がどんどんどんどん目減りしていきます。気がつくと、朝から晩までただただ人間のことばかり思い煩い、神さまを思う暇がほんの少しもなくなっています(マルコ福音書8:33参照)。「恐れるな」;それは、『恐れないあなたとしてあげよう。最初のクリスマスの夜に家畜小屋のエサ箱の中に生まれた1人の赤ちゃんによって。あの小さな、裸の赤ちゃんによって、恐れないあなたとしてあげよう』という招きです。

 しかも、それは「大きな喜び」であると太鼓判を押されています。民全体に与えられる大きな喜び。大きな喜びというのは、けれどどれくらい大きいのでしょう。ほんの一握りの何人かが喜ぶだけでは、その喜びは大きくはありません。喜び楽しむ人々がいる一方で、片隅に押し退けられた人が淋しい惨めな思いをしているようでは、喜びは大きくも豊かでもありません。置き去りにされた人たちが「どうせ私は」と下を向いているようでは、その喜びは安っぽすぎます。みんなのための喜び。しかもそれは、あなたのためにも用意されています。『神を知ること』は、もはやただユダヤ人だけの専売特許ではなくなり、すべての人々に差し出され、それまでは神を知ることもなかった人にも明け渡されます。教会の脇の案内板には、『誰でも自由に来てみてください』と、いつも書き添えられています。教会の人々がそのように招いているというだけではなく、実は、神ご自身がそのように招いておられるのです。だから、今日はよく来てくださいました。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひ、と招いておられます。なにかの条件や資格が必要なのでもなく、そのまま手ぶらで来なさいと招きます。

13-14節、「するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、 『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』」。神さまが大切に思われることと、この地上に平和があふれることとは、実は一つのことです。自分たちを遥かに越えた大きな豊かな存在を思うことの出来ない人は、しばしばとてもわがままになり、自分勝手になってしまいます。まるで自分が神さまや殿様や主人にでもなったかのように乱暴に振舞ったり、冷たくしたり、目の前の誰かを見下したり、思うままに手荒に扱ったりしてしまいます。誰かに手枷足枷をはめ、思いのままに誰かを従わせて操ろうとしたり。小さな子供たちの間でも、大人たちの世界でも、そういう陰湿で悲惨なようすは広く深く根を張っています。苦しいことです。御使たちは言いました、「あなたがたは、小さな赤ちゃんが布切れに包まれて家畜小屋のエサ箱の中に寝かしてあるのを見つけるだろう」(12)と。それがあなたがたのための救い主であり、幸いな暮らしのためのしるしだというのです。今日こそは、この1人の赤ちゃんについて思い巡らせるための日です。このお独りの方の誕生と30数年の地上の生涯と死と復活、天に昇っていまも生きて働いてくださっていることと、やがて裁き主として再び来られますことを。この方が死んで、葬られ、復活なさったように、この方に率いられて私たもまた古い罪の自分自身と死に別れ、それを葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる者とされたことを。神さまは、私たちのことが大好きです。あなたのことも大好きで、心にかけつづけ、とても大切に思っておられます。だから、どんどんどんどん近づいてきてくださった。分かりますか。友だち同士も同じです。仲良しで大好きなら、いっしょにいることができればどんなに嬉しいでしょう。神さまは私たちに近づいてきて、一緒にいようと願ってくださった。ぜひ一緒にいたいと。それで低くくだって、生身の赤ちゃんの姿で来てくださったのです。例えば1人の小さな人はつぶやきます、「私には価値がない。なんの取り柄もなく、特別何かの役に立つというわけでもなく、目を引くような長所もない」と。淋しい1人の人は言います、「ほかの人が何を考えているのか、さっぱり分からない。私の思いを誰も分かってくれない。誰も私のそばにいてくれず、支えてくれず、私は独りぼっちだ」と。貧しい1人の人は言います、「私は嫌われてしまいそうだ。居場所をなくし、みんなから見捨てられるかもしれない。それが恐ろしくて仕方がない私だ。うわべを必死に取り繕い、愛想笑いを浮かべ、自分を隠してビクビクして生きている」と。けれど主はおっしゃるのです、「あなたは大切な人だ。あなたの価値に私は気づいている。ちゃんと認めている。誰にも理解されず、誰もそばにいてくれず何の支えも見出せない孤独は、確かにある。これまでにもあったし、今もこれからもある。その通りだ。けれども私はあなたを理解し、あなたのすぐ(かたわ)らに立ち、あなたを支える。あなたがどんなに遠くに離れていっても、見なさい、そこに私はいる」。「あなたを見放すことも見捨てることも、私はしない」(詩篇139:1-24,申命記31:8、ローマ手紙8:31以下を参照)と主はおっしゃいます。

――思い浮かべてみてください。家畜小屋のエサ箱の中に寝かされた1人の赤ちゃんを。最初のクリスマスの夜のあの1人の格別な赤ちゃんを。弱い人が強い人を恐れるように、その弱い人は強い神をも恐れるのです。小さな人が大きく豊かな人の前で惨めさを味わうように、その小さな貧しい人は大きく豊かな神様の前でも、惨めに身をかがめるかも知れません。周りにいる強くて豊かで立派な人々によって打ち砕かれ、身を屈めさせられてきた人は、神の威厳やその力強さや栄光によっても、打ち砕かれてしまうかも知れません。「人様の前でも神さまの前でも恐れ多くて」などと、その人をますます怯えさせるかも知れません。いいえ。そんなことがあってはなりません。だからこそ、この救い主は、小さな1人の赤ちゃんの姿で、ただ布切れ一枚にくるまれただけの裸の姿で来てくださいました。家畜小屋の惨めなエサ箱の中に、だからこそわざわざ布切れ一枚に包まれて身を置いてくださいました。裸の小さな赤ちゃんを見て、恐ろしくてビクビク震える人はいません。そのニッコリ笑ったり泣いたりスヤスヤ眠っている寝顔を見て、いじけたりすねたりする人はいません。とても心の優しい愛情深い神さまは、私たちを打ち砕きたくはないのです。私たちに惨めな思いをさせたり、恐れおののかせたくはない。むしろ、愛と恵みによって慰めてあげたいと願っておられます。ぜひ力づけてあげたいと願って、そのために、1人の赤ちゃんの姿で来られました。

15-20節、「御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか』と、互に語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」。羊飼いたちは神をあがめ、讃美しながら帰っていきました。どこへでしょう。自分の家へ。自分のいつものあの働き場所へ。一緒に生きるべき人々の所へと。つまり、あの羊たちの所へ。帰っていったそれぞれの場所で、そこでいよいよ、神をたたえて生きるための悪戦苦闘がはじまります。ただお独りの主に仕えて生きるための、月曜から土曜日までの働きが。しかも一人の女性は、「これらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらし」つづけます。神さまがその人の心にご自身の出来事を刻み込み、それでその人は思い巡らせはじめます。もし、神がそれをなさったのなら、それは必ずきっと実を結びます。その1つの出来事は自分のごく短い人生の時間になにを与え、何を造り出してくれるだろうか。もしかしたら、その一人の人に、神を信じ、救い主を待ち望みながら生きる心強く幸いな日々を与えてくれるかも知れません。

 

          救い主イエス・キリストの父なる神さま。

          あなたの独り子を世界と私たちの救いのためにこの世界に贈り与えてくださって、ありがとうございます。御子イエスを待ち望み、迎え入れ、この御子イエスによって私たちをあなたの恵みの中に留めてください。

          貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか希望と思いやりが差し出されますように。

          私たち自身と家族も、あなたからの助けと支えを待ち望みます。私たちの口に、あなたの思いやりと愛をほめたたえさせてください。あなたの御心を行うことを願い、あなたの御足のあとに従って生きる私たちとならせてください。

         救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

         アーメン

 

 


12/20こども説教「わたしが迫害者だったころ」使徒22:1-5

 12/20 こども説教 使徒行伝22:1-5

 『わたしが迫害者だったころ』

 

22:1 「兄弟たち、父たちよ、い ま申し上げるわたしの弁明を聞いていただきたい」。2 パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。3 そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。4 そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。5 このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである。さらにわたしは、この人たちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行った。         (使徒行伝22:1-5

 

 この1節から21節までパウロからの語りかけがつづきます。でも途中でほかの人々の邪魔が入って、途中なのに話は打ち切りにされます。その21節までの中身を4回に分けて味わい始めます。今日は、まず5節までです。

 神ご自身の救いのお働きを受けた自分自身の事情について、パウロは打ち明け始めます。1節。集まっているユダヤ人たちに対しては「兄弟たち」と親しみを込めて呼びかけ、その指導者たちに対しては「父たちよ」と相手を尊ぶ礼儀正しい語りかけで。ヘブル語で語りかけたことには理由があります。ヘブル語は先祖たちが長く使いつづけた、自分たちの国の、昔からの古い言葉です。(ユダヤの国は他の国々に何度も滅ぼされて、人々は散り散りバラバラに世界中に追い散らされて長いあいだ暮らしてきたこともあって、昔からの古い言葉を話すことも読むこともできなくなった人たちが大勢います。だから)その古い言葉をよく使えるのは、昔からのユダヤ人の信仰の教えをよく受けてきたしるしでもあります。3節の途中で「先祖伝来の律法」とあるのも、神からの教えであり、神から与えられた律法です。神を信じて生きるその信仰に自分を導いてくれた先生の名前を明かし、教えられたとおりに、その教えを正しく熱心に受けてきた自分だと説明しています。さて4節で「この道を迫害し」と恐ろしいことを言い始めます。この道とは、いま彼自身が信じているキリスト教の信仰のこと。「自分は初めにはキリスト教の邪魔をする者になり、クリスチャンたちをいじめたり、困らせたり、叩いたり蹴ったり、縛って牢獄に閉じ込めたり、殺したりしてきたとても悪い人間だった」と。つまり、「自分から進んでこの信仰を信じはじめたのではなく、自分で選んだのでもなく、ただ神さまに無理矢理に捕まえられた。神を本気で信じる私に変えられていったのは神ご自身の御心とお力による」と彼は語り始めようとしています(使徒8:1,9:1-2「主の弟子たちに対する脅迫、殺害~」,ピリピ3:5-6「熱心の点では教会の迫害者」,1テモテ1:1:13「迫害する者」を参照)

2020年12月14日月曜日

12/13「ザカリヤからの讃歌」ルカ1:67-80

      みことば/2020,12,13(待降節第3主日の礼拝)  297

◎礼拝説教 ルカ福音書 1:67-80                   日本キリスト教会 上田教会

『ザカリヤからの讃歌』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:67 父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、

68 「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。

神はその民を顧みてこれをあがない、

69 わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。

70 古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、

71 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、

救い出すためである。

72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、

73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、

74 わたしたちを敵の手から救い出し、

75 生きている限り、きよく正しく、

みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。

76 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。

主のみまえに先立って行き、その道を備え、

77 罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから。

78 これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。

また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、

79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。

                                                                       (ルカ福音書 1:67-79)

 67節、「父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った」。それは神から授けられた預言でもあり、神への感謝の歌でもあります。ザカリヤとエリサベツ、年老いた1組の夫婦がいました。ずっと長い間、心の底から願いつづけてきた大切な願いがとうとう神さまの恵みによって叶えられると告げられて、けれどザカリヤはそれを信じることも受け取ることもできませんでした。「私たちはずいぶん年を取った。だから、私たちには出来るはずもない」(1:18)と。それでザカリヤは、約束の赤ちゃんをその手に抱くときまでは口が利けなくされてしまいました。それはただの罰や懲らしめではなく、大切なことを語りはじめるための準備の時間でした。生まれた赤ちゃんに名前をつける際に、ちょっとしたもめ事が起こりました。その赤ちゃんに名前をつけるとき、母親のエリサベトが奇妙なことを言い張りはじめます。「ヨハネと名づける。他のどんな名前でもダメで、必ずそうしなければならない」と。父親のザカリヤに尋ねると、字を書く板を持ってこさせて、そこに『この子の名はヨハネ』と書きました。すると、たちまちザカリヤは口が開き、舌がほどけ、神を賛美しはじめました。その讃美の歌が68-79節に記録されています。神殿で務めをしているとき神の御使いから赤ちゃんが与えられると知らされ、「その子をヨハネと名付けなさい」(1:13)とザカリヤは命じられていました。ですから彼ら夫婦は、ただ神の御命令に従っています。なにしろ神さまがそうせよとお命じになるで、だから私たちはそう名付ける。ヨハネという名前は、《主は恵み深い》という意味です。神さまからの恵み、贈り物、憐れみという意味です。その1人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物であるということです。1個のキリスト教会がその地に根を張って伝道をしつづけ、群れが養われつづけてきたことも、私たちが神を信じて生きる者とされ、そのようにして暮らし、職を得てそれぞれの働き場で働き、家庭を築きあげてきたことも、健康を支えられ、幸いと喜びを与えられつづけてきたことも、それら一切は、ただただ《主は恵み深い》という現実によっています。

 68-71節、「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである」。彼は神に感謝をし、あらかじめ告げられていたあがないが救い主イエス・キリストによって成し遂げられるその有様を語り出します。救い主イエスによるあがないの成就をこそ土台として、キリスト教会の安全と繁栄が成り立っています。私たち自身の生活やそれぞれの人生もそうです。それを成し遂げた神は、「主なるイスラエルの神」と呼ばれます。

 「神はその民を顧みて、これをあがなって」と改めて言われるのは、神がしばらくの間、その民とされた先祖と私たちから顔を背けていた時期があったからです。それは先祖と私たちが神に背きつづけていたためです。苦しみと悩みの深みに沈め入れられ、打ちのめされて、神が自分たちに目を留めてくださっているなどとは誰にも思えないような日々が長く続いたからです。神が私たちを救い出してくださるためには、その順序があります。まず神がその私たちに目を留めてくださいました。先祖と私たちは、自分自身の罪と悲惨の中に閉じ込められて、牢獄の中の囚人のような惨めな有様でした。救い主イエスの恵みを通してでなければ、誰もそこから解き放たれることはできませんでした。

 68-70,72-73節。「救いの角」も「救い」も、主ご自身であるイエス・キリストのことです。「ダビデの家から」「これ(=聖なる契約)は~アブラハムに立てられた誓い」;ダビデの血筋から、救い主が起こされる。それはアブラハム契約へとさかのぼる旧約聖書、新約聖書を貫く同じ一つの契約です。《神さまと神の民との間に交わされた救いの契約》です。「救ってあげますよ」と神さまが招き、手を差し伸べてくださり、先祖と私たちは「はい。どうぞ、よろしくお願いいたします」とその招きに応え、差し出されたその手を握り返しました。これが救いの契約、そこで神と先祖との間に、またその同じ神さまと私達との間にも同じ一つの契約が結ばれました。「預言者たちの口を通して語られていた通りに」;旧約聖書の証言そのままに、神さまから教えられたとおりにです。その聖なる契約の本質は『主の憐れみ』です。「憐れみ。憐れみ。憐れみ」(72,78)と執拗にクドクドと3回繰り返されていることを、私たちはよくよく肝に銘じねばなりません。救い主によって成し遂げられるこの救いの御業の全体は、主の憐れみによってこそ貫かれ、覆われているからです。

 71節「それは救い」だと断言しています。72-73節、我らの先祖を憐れみ、また私たちをも憐れみ、その憐れみをもって誓ってくださった救いの約束を、主なる神さまは、ちゃんと覚えていてくださるというのです。それならば、私たちもまた、「神さまが先祖と私たちを憐れんでくださって、だから」という肝心要をはっきりと心に刻み、よく覚えておく必要もあります。

73-74節、「こうして我らは救われ、恐れなく主に仕える」。ここです。私たちが現に確かに救われたこと、救われつづけて今日ここにあるを得ておりますことには、目的があったのでした。あるいは、その確かな恵みには、はっきりとした、誰にでもすぐ分かるはずの実りが伴ってあったのです。《恐れなく主に仕える》ことこそが目的であり、救いと恵みの結果です。神さまにこそ仕えつづける中で先祖と私たちは救われ、罪から解き放たれ、それぞれにいつの間にか根深く抱えつづけてしまったそれぞれの《恐れ》から解き放たれつづけます。そのことを兄弟姉妹たちと共々に味わう一回ずつの礼拝となるなら幸いです。そのような、それぞれの一つ一つの営み、日々の生活となる。これが、これこそが、その一回の礼拝の根本の目標・願いとなり、一つ一つの営み、生活、の目標や願いとなります。いつどこにいても、誰と何をしていても、教会でも家にいても道を歩いていても職場でもそれは恐れなく主に仕えることであり、それへと私たちを向かわせると目を凝らしながら。「主に仕えることは、義務・使命・努力目標であることを遥かに超えて、軽々と飛び越えて、恵みの贈り物」だったのです。

  75節。主に仕えることは、生涯、生きている限りは、御前に「清く、正しく、恐れなく」成し遂げられつづけます。「清く、正しく、恐れなく」という3つの在り方は、「神さまの御前に」という前提をもちます。主なる神さまの御前にあって、そこでようやくと。しかも、正しい人は独りもいないのです(ローマ3:9,創世記8:24-。高潔で清らかな者などただの一人もなく、正しいものもなく、けれど、にもかかわらず清く正しく。どういうことでしょうか。77節「罪のゆるしによる救いを主の民に知らせるからである」。罪のゆるしという、決して欠くことのできない大前提がありつづけます。それをいつのまにか度外視しはじめるとき、私たちは神を信じて生きることの危機に瀕しています。罪のゆるしあってこそ、その上に足を踏みしめてこその私たちです。「どうぞゆるしてください」とゆるしを請い求め、「ありがとうございます」と受け取り、ゆるされつづける中でこそ、そこでだけ、「清く、正しく、恐れなく」がかろうじて成り立っています。決して清いわけじゃなく、正しいわけでもなく、恐れるほかない私たちです。罪深さと肉の思いに従おうとするよこしまさが繰り返し何度も何度も私たちの中に舞い戻ってきます。恐れるほかない者たちに私たちは取り囲まれています。しかも、自分の正しさやふさわしさを度を越して言い立てようとする頑固さを抱える私たちです。だからこそ神の憐れみの計らいの只中に置かれている。あなたも私もと。

 78-79節。「これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」;救い主イエス・キリストによって罪のゆるしによる救いがもたらされたと告げるだけではなく、これはまったく「わたしたちの神の憐み深い御心による」と念を押しています。神のその憐みの心こそが、わたしたちと家族と隣人たちにも臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くのであると。その平和は、神ご自身から出た平和であり、第一に私たちと神との間の平和です。次には、私たちと隣人たちや家族との間の平和です。多く愛され、多くゆるされてきた私たちがどんな平和をその相手に差し出すことができるでしょう。聖書は証言します、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい」 (コリント(2)5:15-21,ヨハネ20:22-23)

 救い主イエスを迎え入れるその道備えをするために遣わされた預言者は、『ヨハネ。主は恵み深い』という名前を与えられた働き人でした。すべて一切が神の恵み深さによって立っていることを私たちがよくよく覚え続けている必要があるからです。神さまからの恵み、贈り物、憐れみであると。その1人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物である。1個のキリスト教会がその地に根を張って伝道をしつづけ、群れが養われつづけてきたことも、私たちが神を信じて生きる者とされ、そのようにして暮らし、家庭を築きあげてきたことも。健康を支えられ、幸いと喜びを与えられつづけてきたことも、それら一切は、ただただ《主は恵み深い》という現実によっています。


12/13こども説教「パウロの弁明が始まる」使徒21:31-40

 12/13 使徒行伝21:31-40                

 『パウロの弁明が始まる』

 

21:31 彼らがパウロを殺そうとしていた時に、エルサレム全体が混乱状態に陥っているとの情報が、守備隊の千卒長にとどいた。32 そこで、彼はさっそく、兵卒や百卒長たちを率いて、その場に駆けつけた。人々は千卒長や兵卒たちを見て、パウロを打ちたたくのをやめた。33 千卒長は近寄ってきてパウロを捕え、彼を二重の鎖で縛っておくように命じた上、パウロは何者か、また何をしたのか、と尋ねた。34 しかし、群衆がそれぞれ違ったことを叫びつづけるため、騒がしくて、確かなことがわからないので、彼はパウロを兵営に連れて行くように命じた。35 パウロが階段にさしかかった時には、群衆の暴行を避けるため、兵卒たちにかつがれて行くという始末であった。……39 パウロは答えた、「わたしはタルソ生れのユダヤ人で、キリキヤのれっきとした都市の市民です。お願いですが、民衆に話をさせて下さい」。40 千卒長が許してくれたので、パウロは階段の上に立ち、民衆にむかって手を振った。すると、一同がすっかり静粛になったので、パウロはヘブル語で話し出した。              

(使徒行伝21:37-40

 

 根も葉もない疑いの声にそそのかされて人々がパウロを殺してしまおうとしていたとき、ローマ帝国軍の守備隊が駆けつけてきました。千卒長は1000人の兵隊を率いる軍隊の指導者、百卒長も同じように100人の兵隊を率いる指導者です。大勢の兵隊たちが駆けつけてきたので、ようやく人々はパウロを殴ったり蹴ったりするのを止めました。外国人の兵隊や隊長たちを用いて、神さまこそが彼のいのちを救いました。千卒長がパウロを捕まえ、二重の鎖で縛っておくように部下に命じ、パウロに「お前は何者か。何をしたのか」(33節)と質問しました(鎖で縛る様子を見ても、兵隊たち自身はパウロを助けてやろうなどとは思っていないことが分かります。ただ騒ぎをしずめさえすれば良いと考え、反乱を起こしたエジプト人ではないかと疑いさえします(38節))

このように私たちも、何の理由もなしに悪く思われたり、バカにされたり疑われたり、ひどい扱いを受けることもあります。けれどこの私たちのためにも神が生きて働いておられ、神さまが味方であってくださいます。神のこともクリスチャンたちのこともなんとも思っていない外国人の軍隊をさえ、神がご自分の働きのために用います。だからこそ千卒長はパウロの話に耳を傾け、神さまご自身が、この千卒長の心を開きます。「お願いですが、民衆に話をさせてください」とパウロが頼むと、千卒長はそれをゆるしてくれました。いよいよここから、神の救いのお働きについての説明がはじまります。

 

 

 

 

 

■■こども説教1129日 使徒行伝21:15-26での説明に不明瞭で不正確な内容がありました。お詫びし、訂正いたします。               金田聖治

 

(誤)とても大切な願い事をするとき、そのしるしに頭の髪の毛をそるしきたりがありました。

(正)とても大切な願い事をするとき、誓願中は髪を切らず、誓願の終了時に髪の毛を切って供え物とする儀式がありました。ナジル人の誓願と呼ばれるものです(民数記6章1-21節を参照)。

 

  「誓願」;神が自分の願いを聞き届けてくださったときに「ある事」をする。ある

いは、あるささげものをすると約束すること(例えば創世記28:20。「もし神が~してくださるなら、わたしは~します」)。パウロ自身も当箇所と使徒1818で儀式的な誓願を行っています。「ナジル人の誓願」と呼ばれるものです。②「ナジル人の誓願」とは、禁酒、髪を切らない(民数記6:5、死者に近づかないなどの清い生活をたもち、誓願が終了した際に、髪を切って供え物とすることも含まれた(民数記6:13-18。誓願期間中に髪を切ってはならない理由は、髪の毛が、聖別された者であるしるしであるため。③「ナジル人」;聖別され、神のものとされ、神にささげられたものとされた者(民数記6章)。一定期間のナジル人があり、終生に及ぶ全生涯のナジル人と、2種類あり。誓願が終了したときの供え物は、感謝の献げものである。本質において、私たちクリスチャンもまた「全生涯、神にささげられた者」であり、「感謝のささげもの」として自分自身を神にささげつづけて生きる(ローマ手紙12章冒頭)。このように私たちも、本質としてナジル人であると言える。④この儀式参加の出来事で最も重要なこと。「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」(使徒21:21と教えつづけてきたパウロが儀式に参加することは、これまでの主張と矛盾するのではないかという一点。けれど、やがて「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになった。なんとかして幾人かでも救うため。わたしも共に福音にあずかるためである」(1コリント手紙9:20とパウロ自身が語る福音の展望へとこの判断はつながる。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者双方に対して、使徒会議の合意内容25節。使徒15:7-11参照)の手紙と共に、この判断が良い仲裁となりえることに着目。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年12月6日日曜日

12/6「マリヤからの讃歌」ルカ1:46-56

  みことば/2020,12,6(待降節第2主日の礼拝)  296

◎礼拝説教 ルカ福音書 1:46-56            日本キリスト教会 上田教会

『マリヤからの讃歌』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:46 するとマリヤは言った、

「わたしの魂は主をあがめ、

47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。

48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。

今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、

49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。

そのみ名はきよく、

50 そのあわれみは、代々限りなく  主をかしこみ恐れる者に及びます。

51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、

52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、

53 飢えている者を良いもので飽かせ、

富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。

54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、

55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを

とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

56 マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。 (ルカ福音書 14:12-14)

                                               

11:30 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、31 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。32 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。 (ローマ手紙 11:30-32)


 救い主となるはずの男の子を産むと神の御使いから告げられたとき、「わたしは主のはしためです」と彼女は言いました。ここでも、「この卑しい女をさえ心にかけてくださいました」と告白しています(38,48)。はしため。下働きをする身分の低い女性。卑しい女。下品で、社会的身分が低い女性。つまりは、「下っ端の下っ端の召使である、こんなわたしにさえも」と。神さまの恵み深さと憐れみを喜ぶ感謝が、彼女に、その低いへりくだった心を与えました。うわべだけの社交辞令や口先だけの方便や謙遜などとはまったく違うのです。「ああ。下っ端の下っ端の召使である、こんな貧しい私にさえも」と心底から実感しています。けれど、この真実をなかなか受け止められずにいる多くのクリスチャンたちが残されます。私たちの周囲にも「この人は。この人の信仰は。この人の素晴らしい働きは」と私たちが感嘆し、ほめたたえ、尊敬するに値する大きな信仰者たちがいました。たしかに。「それに比べて、この私は」と私たちは自分自身を振り返ってガッカリします。なぜ他の誰でもなく、あのマリアだったのか。聖書は、「ただ恵みによって。ただただ憐れみから」と答えます。けれど、いくらくりかえし聞いても多くの人々は納得しません。「マリアさんは特別上等な人間だったんで、上等な恵みをいただいたんだろう。私たち下々(しもじも。政治権力とは無縁の一般人民。御上(おかみ。役所・政府・官憲の称)と対比的に用いられる)のものがいただく安っぽい恵みとはだいぶん違って」などと、ついには思うべき限度を越えて、たかだか人間に過ぎないマリアに向かって拝んだり祈ったりしつづけています。でも、それは大間違い。しかもその度毎に、神さまご自身の恵みが軽んじられ、捨て去られ、台無しにされつづけています。畏れたり拝んだり、それに向かってあがめたり、讃美を歌ったり、ひれ伏したりしていい相手は、ただ神さまだけです。このことは、よく弁えておかねばなりません。まさかそれが自分自身のことだとはとうてい信じられないような、驚くような嬉しい出来事があり、そこで、マリアという名前の1人の女性は言いました。46-47節「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をあがめます」。わたしは心の底から、心と体のすべてで、主なる神さまにありがとうと感謝を申し上げます。救い主である神さまを喜びたたえます。なにしろ主なる神さまが、こんなわたしにさえも目を留めてくださったのだからと。「ほんの小さな、取るに足りない私です」と彼女は、大喜びしながら歌います。「あまりに貧しく、乏しく、あまりに弱々しいわたしです。誇れるものも自慢できる取り柄も、なにもないわたしです」と、けれども晴れ晴れしながら歌っています。不思議です。どうしたことでしょう。他の誰彼にくらべて、などというのではありません。豊かな、とても大きな恵みを受け取りました。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べてわたしは小さい、わたしは貧しいと言っています。だから心底から、心のすべてで神さまに「ありがとう」と大喜びしながら歌っています。背筋をピンと伸ばして、感謝と喜びにあふれて歌っています。

  51-55節です。神さまからの憐れみを受けたたくさんの人々がいました。ときには打ち散らされたり、引き下ろされたり、あるいは高く上げられたりしながら。空腹のまま追い返されたり、良い物で満たされたりしながら、やがてついに神さまからの憐れみを受け取って、感謝と喜びにあふれた無数の人々がいました。「そうか。神の民イスラエル。あの人たちも、このわたしと同じだったのか」と気づきました。とても小さかったのです。見下げられるほどに、ほかの人たちから「なんだ」と侮られるほどに、すごく弱々しかったし貧しかった。「なにもない」とバカにされても仕方がないほどに。空腹で惨めで、とても心細かったのです。神さまがその小さな人々にも目を留めて、彼らを愛してくださいました。だから大喜びし、ニコニコしながら歌っていました。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、わたしたちはあまりに小さい。わたしたちの小ささに比べて、受け取った贈り物はあまりに大きく、とてもとても豊かだった。――たぶん彼女は、聖書の勉強をたくさんしたということではないでしょう。でも大事なことが、はっきりと分かりました。実地訓練で習い覚えました。彼女の毎日の暮らしの中のさまざまな出来事が、その喜びや悲しみが、彼女のためのとてもよい先生でした。

  50節、「そのあわれみは、代々限りなく、主をかしこみ恐れる者に及びます」。神さまの憐れみは、いつまでも誰に対しても限りなく、主を敬い、感謝し信頼し、忠実に聴き従う者たちに及びます。弱く小さく愚かだった、あまりに心細かった僕イスラエルを受け入れて、神さまは憐れみをお忘れになりません。だからこそ、受け入れられたわたしたちも、差し出されたその憐れみを決して忘れません(50,54節参照)

わたしたちは折々に、「思い上がるな」「へりくだれ」と命じられつづけてきました。「後の者が先になり、先の者が後になる」と予告されつづけ、なんのことだろうと首を傾げてきました。クリスマスの季節にも、「権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせます」と語りかけられ、そんな神さまは偏屈で気難しくてとなんだか嫌な気がしました。けれど、それらの神さまのなさりようは、恵みと救いの受け渡しに大いに関係があったのです。「神さまの憐れみ」と告げられるたびに、なんだかピンと来ませんでした。「憐れみ。恵み、恵み、恵み」と耳にタコが出来るほど聞かされつづけて(ルカ 1:50,54,78,ローマ手紙 11:31-32)、けれど私たちは聞き流しつづけました。謙遜にされ、へりくだった低い場所に据え置かれて、そこでようやく私たちは神さまからの良いものを受け取りはじめました(ローマ11:25-32)。なぜならば、救い主イエス・キリストご自身がそのように低く身をかがめて(イザヤ52:13-53:11,ピリピ手紙 2:5-11,エペソ手紙 4:8-10)、そこで、すべての恵みを差し出しておられるからです。低く降り、その後に高く昇っていかれた方ご自身が、この私たちにも、やがて高く引き上げていただくために、同じく低く身を屈めなさいと命じておられるからです。へりくだった、その低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。

  51-53節;「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」。そのとおり。ですから兄弟姉妹たち、主の腕は他の誰に対してよりもまず真っ先に、ここにいるこの私たち自身に対して振るわれるでしょう。もし受け取った憐れみを忘れて思い上がるなら、主なる神さまは、この私たちを打ち散らしてくださるでしょう。モミガラのように吹き飛ばしてくださるでしょう。受け取った憐れみをもし忘れて、私たちが誇るなら、高ぶるなら、そのとき主は、私たちをその座から容赦なく引き下ろしてくださるでしょう。受け取った憐れみを脇に置いて、もし、私たちが豊かさをむさぼるなら、あるいは満ち足りることを知らずに「もっともっと。まだ足りない。まだまだ不足だ」とつぶやき続けるならば、主はふたたび私たちを空腹にし、追い返してくださるでしょう。きっと必ず、そうしてくださるでしょう。なぜなら兄弟たち、そのうぬぼれと思い上がりこそが、私たちに大きな災いをもたらすからです。その権力や誇りが、その高ぶりこそが、私たちの目を見えなくし、私たちの耳を聞こえなくするからです。その豊かさこそが、私たちをかえって貧しくするからです。主は、憐れみによって、そのとき私たちを打ち散らし、引き降ろし、追い返してくださるでしょう。それこそが私たちのための祝福であり、私たちのための幸いです。主は、そのしもべイスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。私たちもまた、主であられる神さまから受け入れていただいたことを、その憐れみを注がれたことを忘れないでおきましょう。なにしろ無条件で受け入れていただき、贈り物のように憐れみを受けた私たちです。受け入れていただいたことも、憐れみを注がれたことも、それらは、私たちが当然受けるに値するわけでもなく、自分で勝ち取ることもできませんでした。まったくの自由な贈り物として、それは贈り与えられました。

 

             ◇

 

私たちが働く前に、主なる神さまこそが第一に先頭を切って働いてくださる。それこそが、私たちが心強く働くことができる理由であり、私たちの希望でありつづけるからです。だからこそ、とりわけ賢く、まじめで誠実であり、骨惜しみせず働く勤勉な者たちこそは、よくよく身を慎み、私たちがどこにどのように足を踏みしめて立っているのかと、必死に一途に目を凝らさねばなりません。私たちの救い主は、どんな見栄えも華やかさも立派さも投げ捨てて、低くくだり、徹底して身を屈めてくださり、家畜小屋のエサ箱の中に身を置いてくださいました。布切れ一枚に包まれただけの裸の姿で。何のためでしょう。それは、どんなに貧しく身を屈めさせられた者も、小さな者も、弱い者も誰一人、この方の御前におじけることも恐れることもないためにです。安らぐことができるためにです。救い主キリストもその福音の中身も、私たちが忘れてしまわないためにです。憐れみを忘れない神を忘れて、その神さまから憐れみを受け取ったことも、私たちがうっかり忘れてしまわないためにです。私たちがそれ自体で何者かであるかのように勘違いをし、どこまでも高ぶり、どこまでも賢く偉い者であるかのように思い込み、そのようにしてどこまでも神さまから遠く離れ去ってしまわないためにです。

神こそが主であり、ただお独りのご主人さまであり、第一のお方でありつづけるからです。聖書がはっきりと証言するとおりに、かつては、私たちの誰一人も神の民ではありませんでした。今は、神の民とされています。かつては、私たちは憐れみを受けませんでした。神さまからも人さまからも、どこの誰からも。そんな惨めなことは嫌だと毛嫌いしたからであり、うぬぼれも高すぎたからです。けれど今は、憐れみを受けています。神の憐れみの民とされています(ペトロ手紙(1)2:10)。憐れみを受け取り、受け取った憐れみを差し出し、手渡し、分かち合うために。ともどもに喜び合うために。そうか。神の民とされたイスラエル。私も、あの人たちと同じだ。だから大喜びし、だからニコニコしながら、大きな声で歌った。「恵み。恵み。恵み。憐れみ、憐れみ、憐れみ」と。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、私たちは小さい。私たちの小ささと貧しさに比べて、私たちが受け取った贈り物はあまりに大きく、とても豊かだった。讃歌の中で「憐み、憐み」と何度も繰り返されて、最後の55節、「父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさった」。そのようにしつづけてくださる。これが、神さまと私たちとの関係の最も大切な本質です。とこしえに憐れむ。いつでも、どんなときにも、私たちがどんな有様であっても。神のあわれみが止むことなく注がれつづけます。主が、私と共にいてくださいます。確かに、恵みをいただきました。いただきつづけています。心から感謝をいたします。