2020年12月6日日曜日

12/6「マリヤからの讃歌」ルカ1:46-56

  みことば/2020,12,6(待降節第2主日の礼拝)  296

◎礼拝説教 ルカ福音書 1:46-56            日本キリスト教会 上田教会

『マリヤからの讃歌』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:46 するとマリヤは言った、

「わたしの魂は主をあがめ、

47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。

48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。

今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、

49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。

そのみ名はきよく、

50 そのあわれみは、代々限りなく  主をかしこみ恐れる者に及びます。

51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、

52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、

53 飢えている者を良いもので飽かせ、

富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。

54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、

55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを

とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

56 マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。 (ルカ福音書 14:12-14)

                                               

11:30 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、31 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。32 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。 (ローマ手紙 11:30-32)


 救い主となるはずの男の子を産むと神の御使いから告げられたとき、「わたしは主のはしためです」と彼女は言いました。ここでも、「この卑しい女をさえ心にかけてくださいました」と告白しています(38,48)。はしため。下働きをする身分の低い女性。卑しい女。下品で、社会的身分が低い女性。つまりは、「下っ端の下っ端の召使である、こんなわたしにさえも」と。神さまの恵み深さと憐れみを喜ぶ感謝が、彼女に、その低いへりくだった心を与えました。うわべだけの社交辞令や口先だけの方便や謙遜などとはまったく違うのです。「ああ。下っ端の下っ端の召使である、こんな貧しい私にさえも」と心底から実感しています。けれど、この真実をなかなか受け止められずにいる多くのクリスチャンたちが残されます。私たちの周囲にも「この人は。この人の信仰は。この人の素晴らしい働きは」と私たちが感嘆し、ほめたたえ、尊敬するに値する大きな信仰者たちがいました。たしかに。「それに比べて、この私は」と私たちは自分自身を振り返ってガッカリします。なぜ他の誰でもなく、あのマリアだったのか。聖書は、「ただ恵みによって。ただただ憐れみから」と答えます。けれど、いくらくりかえし聞いても多くの人々は納得しません。「マリアさんは特別上等な人間だったんで、上等な恵みをいただいたんだろう。私たち下々(しもじも。政治権力とは無縁の一般人民。御上(おかみ。役所・政府・官憲の称)と対比的に用いられる)のものがいただく安っぽい恵みとはだいぶん違って」などと、ついには思うべき限度を越えて、たかだか人間に過ぎないマリアに向かって拝んだり祈ったりしつづけています。でも、それは大間違い。しかもその度毎に、神さまご自身の恵みが軽んじられ、捨て去られ、台無しにされつづけています。畏れたり拝んだり、それに向かってあがめたり、讃美を歌ったり、ひれ伏したりしていい相手は、ただ神さまだけです。このことは、よく弁えておかねばなりません。まさかそれが自分自身のことだとはとうてい信じられないような、驚くような嬉しい出来事があり、そこで、マリアという名前の1人の女性は言いました。46-47節「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をあがめます」。わたしは心の底から、心と体のすべてで、主なる神さまにありがとうと感謝を申し上げます。救い主である神さまを喜びたたえます。なにしろ主なる神さまが、こんなわたしにさえも目を留めてくださったのだからと。「ほんの小さな、取るに足りない私です」と彼女は、大喜びしながら歌います。「あまりに貧しく、乏しく、あまりに弱々しいわたしです。誇れるものも自慢できる取り柄も、なにもないわたしです」と、けれども晴れ晴れしながら歌っています。不思議です。どうしたことでしょう。他の誰彼にくらべて、などというのではありません。豊かな、とても大きな恵みを受け取りました。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べてわたしは小さい、わたしは貧しいと言っています。だから心底から、心のすべてで神さまに「ありがとう」と大喜びしながら歌っています。背筋をピンと伸ばして、感謝と喜びにあふれて歌っています。

  51-55節です。神さまからの憐れみを受けたたくさんの人々がいました。ときには打ち散らされたり、引き下ろされたり、あるいは高く上げられたりしながら。空腹のまま追い返されたり、良い物で満たされたりしながら、やがてついに神さまからの憐れみを受け取って、感謝と喜びにあふれた無数の人々がいました。「そうか。神の民イスラエル。あの人たちも、このわたしと同じだったのか」と気づきました。とても小さかったのです。見下げられるほどに、ほかの人たちから「なんだ」と侮られるほどに、すごく弱々しかったし貧しかった。「なにもない」とバカにされても仕方がないほどに。空腹で惨めで、とても心細かったのです。神さまがその小さな人々にも目を留めて、彼らを愛してくださいました。だから大喜びし、ニコニコしながら歌っていました。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、わたしたちはあまりに小さい。わたしたちの小ささに比べて、受け取った贈り物はあまりに大きく、とてもとても豊かだった。――たぶん彼女は、聖書の勉強をたくさんしたということではないでしょう。でも大事なことが、はっきりと分かりました。実地訓練で習い覚えました。彼女の毎日の暮らしの中のさまざまな出来事が、その喜びや悲しみが、彼女のためのとてもよい先生でした。

  50節、「そのあわれみは、代々限りなく、主をかしこみ恐れる者に及びます」。神さまの憐れみは、いつまでも誰に対しても限りなく、主を敬い、感謝し信頼し、忠実に聴き従う者たちに及びます。弱く小さく愚かだった、あまりに心細かった僕イスラエルを受け入れて、神さまは憐れみをお忘れになりません。だからこそ、受け入れられたわたしたちも、差し出されたその憐れみを決して忘れません(50,54節参照)

わたしたちは折々に、「思い上がるな」「へりくだれ」と命じられつづけてきました。「後の者が先になり、先の者が後になる」と予告されつづけ、なんのことだろうと首を傾げてきました。クリスマスの季節にも、「権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせます」と語りかけられ、そんな神さまは偏屈で気難しくてとなんだか嫌な気がしました。けれど、それらの神さまのなさりようは、恵みと救いの受け渡しに大いに関係があったのです。「神さまの憐れみ」と告げられるたびに、なんだかピンと来ませんでした。「憐れみ。恵み、恵み、恵み」と耳にタコが出来るほど聞かされつづけて(ルカ 1:50,54,78,ローマ手紙 11:31-32)、けれど私たちは聞き流しつづけました。謙遜にされ、へりくだった低い場所に据え置かれて、そこでようやく私たちは神さまからの良いものを受け取りはじめました(ローマ11:25-32)。なぜならば、救い主イエス・キリストご自身がそのように低く身をかがめて(イザヤ52:13-53:11,ピリピ手紙 2:5-11,エペソ手紙 4:8-10)、そこで、すべての恵みを差し出しておられるからです。低く降り、その後に高く昇っていかれた方ご自身が、この私たちにも、やがて高く引き上げていただくために、同じく低く身を屈めなさいと命じておられるからです。へりくだった、その低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。

  51-53節;「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」。そのとおり。ですから兄弟姉妹たち、主の腕は他の誰に対してよりもまず真っ先に、ここにいるこの私たち自身に対して振るわれるでしょう。もし受け取った憐れみを忘れて思い上がるなら、主なる神さまは、この私たちを打ち散らしてくださるでしょう。モミガラのように吹き飛ばしてくださるでしょう。受け取った憐れみをもし忘れて、私たちが誇るなら、高ぶるなら、そのとき主は、私たちをその座から容赦なく引き下ろしてくださるでしょう。受け取った憐れみを脇に置いて、もし、私たちが豊かさをむさぼるなら、あるいは満ち足りることを知らずに「もっともっと。まだ足りない。まだまだ不足だ」とつぶやき続けるならば、主はふたたび私たちを空腹にし、追い返してくださるでしょう。きっと必ず、そうしてくださるでしょう。なぜなら兄弟たち、そのうぬぼれと思い上がりこそが、私たちに大きな災いをもたらすからです。その権力や誇りが、その高ぶりこそが、私たちの目を見えなくし、私たちの耳を聞こえなくするからです。その豊かさこそが、私たちをかえって貧しくするからです。主は、憐れみによって、そのとき私たちを打ち散らし、引き降ろし、追い返してくださるでしょう。それこそが私たちのための祝福であり、私たちのための幸いです。主は、そのしもべイスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。私たちもまた、主であられる神さまから受け入れていただいたことを、その憐れみを注がれたことを忘れないでおきましょう。なにしろ無条件で受け入れていただき、贈り物のように憐れみを受けた私たちです。受け入れていただいたことも、憐れみを注がれたことも、それらは、私たちが当然受けるに値するわけでもなく、自分で勝ち取ることもできませんでした。まったくの自由な贈り物として、それは贈り与えられました。

 

             ◇

 

私たちが働く前に、主なる神さまこそが第一に先頭を切って働いてくださる。それこそが、私たちが心強く働くことができる理由であり、私たちの希望でありつづけるからです。だからこそ、とりわけ賢く、まじめで誠実であり、骨惜しみせず働く勤勉な者たちこそは、よくよく身を慎み、私たちがどこにどのように足を踏みしめて立っているのかと、必死に一途に目を凝らさねばなりません。私たちの救い主は、どんな見栄えも華やかさも立派さも投げ捨てて、低くくだり、徹底して身を屈めてくださり、家畜小屋のエサ箱の中に身を置いてくださいました。布切れ一枚に包まれただけの裸の姿で。何のためでしょう。それは、どんなに貧しく身を屈めさせられた者も、小さな者も、弱い者も誰一人、この方の御前におじけることも恐れることもないためにです。安らぐことができるためにです。救い主キリストもその福音の中身も、私たちが忘れてしまわないためにです。憐れみを忘れない神を忘れて、その神さまから憐れみを受け取ったことも、私たちがうっかり忘れてしまわないためにです。私たちがそれ自体で何者かであるかのように勘違いをし、どこまでも高ぶり、どこまでも賢く偉い者であるかのように思い込み、そのようにしてどこまでも神さまから遠く離れ去ってしまわないためにです。

神こそが主であり、ただお独りのご主人さまであり、第一のお方でありつづけるからです。聖書がはっきりと証言するとおりに、かつては、私たちの誰一人も神の民ではありませんでした。今は、神の民とされています。かつては、私たちは憐れみを受けませんでした。神さまからも人さまからも、どこの誰からも。そんな惨めなことは嫌だと毛嫌いしたからであり、うぬぼれも高すぎたからです。けれど今は、憐れみを受けています。神の憐れみの民とされています(ペトロ手紙(1)2:10)。憐れみを受け取り、受け取った憐れみを差し出し、手渡し、分かち合うために。ともどもに喜び合うために。そうか。神の民とされたイスラエル。私も、あの人たちと同じだ。だから大喜びし、だからニコニコしながら、大きな声で歌った。「恵み。恵み。恵み。憐れみ、憐れみ、憐れみ」と。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、私たちは小さい。私たちの小ささと貧しさに比べて、私たちが受け取った贈り物はあまりに大きく、とても豊かだった。讃歌の中で「憐み、憐み」と何度も繰り返されて、最後の55節、「父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさった」。そのようにしつづけてくださる。これが、神さまと私たちとの関係の最も大切な本質です。とこしえに憐れむ。いつでも、どんなときにも、私たちがどんな有様であっても。神のあわれみが止むことなく注がれつづけます。主が、私と共にいてくださいます。確かに、恵みをいただきました。いただきつづけています。心から感謝をいたします。