2020年12月14日月曜日

12/13こども説教「パウロの弁明が始まる」使徒21:31-40

 12/13 使徒行伝21:31-40                

 『パウロの弁明が始まる』

 

21:31 彼らがパウロを殺そうとしていた時に、エルサレム全体が混乱状態に陥っているとの情報が、守備隊の千卒長にとどいた。32 そこで、彼はさっそく、兵卒や百卒長たちを率いて、その場に駆けつけた。人々は千卒長や兵卒たちを見て、パウロを打ちたたくのをやめた。33 千卒長は近寄ってきてパウロを捕え、彼を二重の鎖で縛っておくように命じた上、パウロは何者か、また何をしたのか、と尋ねた。34 しかし、群衆がそれぞれ違ったことを叫びつづけるため、騒がしくて、確かなことがわからないので、彼はパウロを兵営に連れて行くように命じた。35 パウロが階段にさしかかった時には、群衆の暴行を避けるため、兵卒たちにかつがれて行くという始末であった。……39 パウロは答えた、「わたしはタルソ生れのユダヤ人で、キリキヤのれっきとした都市の市民です。お願いですが、民衆に話をさせて下さい」。40 千卒長が許してくれたので、パウロは階段の上に立ち、民衆にむかって手を振った。すると、一同がすっかり静粛になったので、パウロはヘブル語で話し出した。              

(使徒行伝21:37-40

 

 根も葉もない疑いの声にそそのかされて人々がパウロを殺してしまおうとしていたとき、ローマ帝国軍の守備隊が駆けつけてきました。千卒長は1000人の兵隊を率いる軍隊の指導者、百卒長も同じように100人の兵隊を率いる指導者です。大勢の兵隊たちが駆けつけてきたので、ようやく人々はパウロを殴ったり蹴ったりするのを止めました。外国人の兵隊や隊長たちを用いて、神さまこそが彼のいのちを救いました。千卒長がパウロを捕まえ、二重の鎖で縛っておくように部下に命じ、パウロに「お前は何者か。何をしたのか」(33節)と質問しました(鎖で縛る様子を見ても、兵隊たち自身はパウロを助けてやろうなどとは思っていないことが分かります。ただ騒ぎをしずめさえすれば良いと考え、反乱を起こしたエジプト人ではないかと疑いさえします(38節))

このように私たちも、何の理由もなしに悪く思われたり、バカにされたり疑われたり、ひどい扱いを受けることもあります。けれどこの私たちのためにも神が生きて働いておられ、神さまが味方であってくださいます。神のこともクリスチャンたちのこともなんとも思っていない外国人の軍隊をさえ、神がご自分の働きのために用います。だからこそ千卒長はパウロの話に耳を傾け、神さまご自身が、この千卒長の心を開きます。「お願いですが、民衆に話をさせてください」とパウロが頼むと、千卒長はそれをゆるしてくれました。いよいよここから、神の救いのお働きについての説明がはじまります。

 

 

 

 

 

■■こども説教1129日 使徒行伝21:15-26での説明に不明瞭で不正確な内容がありました。お詫びし、訂正いたします。               金田聖治

 

(誤)とても大切な願い事をするとき、そのしるしに頭の髪の毛をそるしきたりがありました。

(正)とても大切な願い事をするとき、誓願中は髪を切らず、誓願の終了時に髪の毛を切って供え物とする儀式がありました。ナジル人の誓願と呼ばれるものです(民数記6章1-21節を参照)。

 

  「誓願」;神が自分の願いを聞き届けてくださったときに「ある事」をする。ある

いは、あるささげものをすると約束すること(例えば創世記28:20。「もし神が~してくださるなら、わたしは~します」)。パウロ自身も当箇所と使徒1818で儀式的な誓願を行っています。「ナジル人の誓願」と呼ばれるものです。②「ナジル人の誓願」とは、禁酒、髪を切らない(民数記6:5、死者に近づかないなどの清い生活をたもち、誓願が終了した際に、髪を切って供え物とすることも含まれた(民数記6:13-18。誓願期間中に髪を切ってはならない理由は、髪の毛が、聖別された者であるしるしであるため。③「ナジル人」;聖別され、神のものとされ、神にささげられたものとされた者(民数記6章)。一定期間のナジル人があり、終生に及ぶ全生涯のナジル人と、2種類あり。誓願が終了したときの供え物は、感謝の献げものである。本質において、私たちクリスチャンもまた「全生涯、神にささげられた者」であり、「感謝のささげもの」として自分自身を神にささげつづけて生きる(ローマ手紙12章冒頭)。このように私たちも、本質としてナジル人であると言える。④この儀式参加の出来事で最も重要なこと。「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」(使徒21:21と教えつづけてきたパウロが儀式に参加することは、これまでの主張と矛盾するのではないかという一点。けれど、やがて「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになった。なんとかして幾人かでも救うため。わたしも共に福音にあずかるためである」(1コリント手紙9:20とパウロ自身が語る福音の展望へとこの判断はつながる。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者双方に対して、使徒会議の合意内容25節。使徒15:7-11参照)の手紙と共に、この判断が良い仲裁となりえることに着目。