2017年7月31日月曜日

7/30こども説教「安息日にすべきこと」ルカ13:10-17

 7/30 こども説教 ルカ13:10-17
 『安息日にすべきこと』

13:10 安息日に、ある会堂で教え ておられると、11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。            (ルカ福音書 13:10-16

  安息日に、主イエスは長いあいだ病気で苦しんでいた女の人を助けてあげました。その人は、ずっと長いあいだ、屈んだままで体を伸ばすことができなかったのです。すると体がまっすぐになり、その人は神をたたえはじめました。文句を言った会堂司とそれに賛成する者たちに答えて、主イエスは言いました。15-16節、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。そのとおりです。
日曜日にしてよいことは他にもたくさんあるでしょう。日曜日に働かなければならない人もいるし、学校行事もあり、町内会の掃除や会合などもあり、大事な用事や約束も次々とあるでしょう。それでも自分の手の働きを止めて、神さまへと心を向け返し、神に感謝し、神をあがめるためにこそ、日曜日はあります。もし万一、それが二の次三の次、四の次にされ、どんどん後回しにされてゆくとき、神を信じて生きる生活は中身のないものになってしまいます。それをこそ、自分自身のこととして本気で恐れなければなりません。神さまからの祝福が、あなたとご家族の一人一人に豊かに注がれますように。

     【補足/安息日の意味】
(*)創世記 1:31-2:3。神が世界創造の御業を終え、休み、神によって造られたすべてのものを祝福し、ご自分のものとされました(=聖別)。この祝福にあずかり、神のものとされるため、私たちも抱え持った仕事を手離し、脇へ置き、休みます。神ご自身のお働きに目を凝らし、神の御声に耳を澄ませ、聞き従い、信頼を寄せ、神のものとされた幸いと祝福を改めて受け取り直すときです。なぜそれが必要であり、有益なのか? 神はわたしたちの生命の与え主であり、救いとすべての幸いと良いものはただ神から出てくるからです。


7/30「子どものような者たちに」マタイ19:13-15

                              みことば/2017,7,30(主日礼拝)  122
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:13-15                   日本キリスト教会 上田教会
『天国は、
小さな子供のような者たちの
もの』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
19:13 そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。14 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。15 そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。                                             (マタイ福音書 19:13-15)
                                               

  13-15節。手を頭に置いて祈っていただくために、人々が幼な子らを主イエスのみもとに連れてきました。神からの祝福を与えるために小さな子供の頭に手を置く。そのようにして年配の者たちから若い新しい世代へと、神からの祝福がバトン・リレーのように次々と受け継がれてゆく。これが、神の民イスラエルの良い伝統でもありました。けれど主イエスの弟子たちはその様子を見て、イライラしはじめ、子供たちを連れてこようとする人々を渋い顔をしてたしなめました。主イエスは弟子たちに仰いました。「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。もちろん手を子供たちの上において、祝福の祈りをしてあげました。
  ほんの少し前に、これとよく似た出来事が起こったばかりでした。「誰がいちばん偉くて立派だろうか」と弟子たちが心を惑わせていたとき、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」18:2-3と。かなり偉いかどうか、上位入賞できるかどうかどころではなく、そんなことでは天国に入ることさえできない。だから、よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることは決してできない。天国、あるいは神の国とも言います。神が王さまとして力を発揮し、そこに住む者たち皆が安心して嬉しく暮らしていけるようによくよく心を配って、ちゃんと働いて治めておられる領域であり、領土です。救い主イエスがお働きをはじめたとき、「時は満ちた、神の国は近づいた」と仰り、また弟子たちに「神の国はあなたがたの只中にある」(マルコ1:15,ルカ11:20,17:21と宣言なさったのはこのことです。天と地のすべて一切の権威を御父から委ねられた王の中の王として、救い主がこの地上に降りて来られ、力を発揮し、働きはじめた。だから神の国は近づき、すでに私たちの只中にある。するとすでに、世界中のあらゆる場所が天国であり、神の国であるはずです。それでもなお告げられたとおり、天国(=神の国)に入ることがゆるされる者と、入り損なってしまう者がある。もし、心をすっかり入れかえて小さな子供のようになるのでなければ、神を信じて生きてきたことすべて一切が無駄に終わり、すっかり水の泡になってしまう。
  さて子供たちは、必ずしも素直だとか純粋で無垢だというわけではありません。それは、弱く小さく、とても危うい存在です。わが身を守る手立てもなく、もし独りぼっちで捨て置かれるならば、すぐにも死んでしまうほかない、はかなく脆い生命です。そうか、それならば小さな子供ばかりではなく私たち大人も一緒です。おじいさんやおばあさんも皆同じです。それぞれに弱さと危うさを抱えて生きていたのでした。背伸びをしてみせても空威張りをして虚勢を張っても、それでも、誰でも本当はとても心細いのです。自分を守ってくれるものを必要とし、しっかりした支えを必要としています。だからこそ愛情と慈しみをたっぷりと注がれ、心強く支えられて、そこでようやくすくすくと育っていくはずの生命です。「誰がいちばん偉くて立派で、仕事がよくできて役に立つだろう。二番目は、三番目は」と互いに見比べ合い、人様や世間からのよい評判が欲しくて欲しくてたまらない、そればかりが気にかかって気にかかって仕方がないとても生臭い弟子たちに向かって、主イエスは『主の弟子であること』の中身を伝えようとしています。小さな子供のような在り方。それこそが主イエスの弟子であり、クリスチャンであることの中身だったのです。弱く、傷つきやすく無防備な小さな子供として、私たちは天の御父を頼みの綱としつづけねばなりません。キリストの弟子である生活がはっきりとした目的をもった生活であり、力強い歩みであり、そのように神を信じて生きる意味や甲斐があるためには。
 しかも神の国とは、神さまご自身の憐れみと恵みの王国です。もし、その国に入り、そこで幸いに暮らしたいと願うなら、その者たちは自分自身の力や才覚や賢さを頼りとし、それらを誇ろうとすることを止めて、身勝手さを手放さねばなりません。身を低く屈め、神の憐れみを受けて御国に入れていただくことを願い求めねばなりません。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」;するとそれは、ただ小さくて無力で弱くて危うい存在であるだけではなく、精一杯に十分に愛情を注がれ受け取り、養い育てられてきた、そのことを覚えている幼な子である必要があります。ほどほどの力や才覚や賢さなどよりも、注がれ受け取ってきた愛情こそが千倍も万倍も私の宝物だと。そうでなければ、物寂しいその幼な子は臆病で生ズルくて僻みっぽくてイジケた幼子でありつづけてしまうかも知れないからです。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」、その最も大きな秘密は、注がれつづけ受け取ってきた愛情をよく覚えている幼な子です。わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子です。主イエスこそが、わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子であることの手本を、それがいったいどういうことであるのかを、私たちに見せ、差し出してくださいました。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。「私自身の考えでするのではなく私を遣わされた御父の御旨を求めている。自分の心のままを行うのではなく、私を遣わされた天の御父の御心を行うために来た」(ヨハネ5:30,6:38と自分の魂に刻みつづけた心です。御父への信頼と深い結びつき。その幸いな小さな子供の心をこの私たちも贈り与えられ、神の子供たちである身分と中身を受けました。聖霊なる神を受け、その御霊に導かれつづけて。聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(マルコ14:36,ローマ8:14-16と。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。それならば、たとえ708090歳になった後でさえ、『幸いな幼な子である自分』をついにとうとう思い出して、自分自身の心の中にも日頃の在り方にもそれをはっきりと取り戻して、晴れ晴れワクワクしながら、天国に入れていただくことができるかもしれません。しかも、それが主イエスの弟子であることの中心的な中身でありつづけます。なぜなら主イエスの弟子たちよ。自分自身の罪深さをゆるしていただいて神の国に入るには、ただただ神の憐れみによる他なかったからです(ローマ手紙3:21-27参照)。救い主イエス・キリスト。ほかの誰によっても、救いはない。私たちを救うことができる名は、天下に、この名のほか人間には与えられていない(使徒4:12)。そして、このお独りの方、救い主イエスがちゃんと与えられております。もちろんこの私にも、あなたにも。
  神を信じて生きはじめる前には、私たちは自分自身の努力と甲斐性で自分の居場所を獲得し、それを強く大きく高くしていこうとあくせくし続けていました。神を信じて生きはじめる前には、「他人よりも偉くありたい。もっと賢く強く大きく立派な人間だと思われたい」と渇望して、周囲の人々と虚しい競争をしつづけていました。「自分の働き。自分の役割。自分の働き。自分の役割」と呪文のように唱えつづけて。けれど今では、その代わりに、天の国の贈り物として生命を受け取りはじめました。神に願い求め、神から受け取り、神にこそ感謝をしながら。するといつの間にか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか役に立つとかそうでもないとか、偉いとか偉くないなどと得意になったりいじけて僻んだりする虚しさをようやく手離しはじめていました。受け取った恵みの大きさに比べて私たち自身は小さい。受け取った恵みの豊かさに比べて、私たちはとてもとても貧しい。恵みの賢さ、力強さに比べて、私たちはあまりに愚かであり、弱々しく、その恵みにまったく値しない者たちであると。値しないにもかかわらず、それなのに受け取った。だから、ただただ恵みなのだと。
 主を喜び祝うことの中身は、主への感謝です。感謝は、主が惜しみなく分け与えてくださる方であることへと深い認識であり、信頼です。あなたも私自身も今までは、ずいぶん長い間、何か他のことを喜び祝っていました。自分自身の長所や短所をこね回して、それで喜んだり悲しんだりしていました。自分のまわりにいる他の誰彼の良い働きや悪い行いに一喜一憂し、泣いたり笑ったり、苛立ったりホッとしたり気を揉んだり。周囲の人々や私自身のいたらなさや貧しさや不足を嘆き悲しみ、そこに閉じ込められて上がったり下がったりしていました。「人様にご迷惑をかけて申し訳ない」などと人間のことばかり思い煩うあまりに、神ご自身こそが私たちの誰よりも、その千倍も万倍も生きて働いておられることをすっかり忘れ去ってしまいました。ある夜更けに、主イエスの前で、ニコデモという名前のおじいさんが苦々しく、悲しく物寂しく言い張っていました。「人は年をとってからもう一度生まれることがどうしてできますか。シワクチャ顔で、オギャアオギャアと母さんのお腹の中から出てくるんですか。ばかばかしい。そんなことができるわけがない。そんなタワ言を信じられるわけがない」と。なんて可哀想で憐れな、惨めな惨めなおじいさんでしょう。主イエスは、分かったつもりになって何も分かっていなかった、分かろうともしなかったあのおじいさんと、そしてここにいる私たちに向かっても仰います。「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、新しくもう一度、小さな子供になるのでなければ、神の国を見ることはできない。そこに入ることも、そこで幸いに喜びにあふれて暮らすこともできない」(ヨハネ福音書3:3参照)と。その私たちが、けれどこれからは主の豊かさ、主の慈しみ深さへと思いを向け返される。主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食い、回り道をしてしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。多分、まだ間に合います。

          ◇


 十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と主イエスは必死に祈っていました。天の御への信頼にしがみつき、それを改めて受け取ろうとしていました。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。そのようにしてだけ天国に入れていただけるので、私たちは同じように、小さな一人の者たち同士として、互いに守り、支え、養い合う者たちとされました。だんだんと少しずつ。天の御父への十分な信頼。幼な子のようになるという、その幼な子の中身はこれです。神への信頼が健やかにすくすくと育ってゆくのかどうか、信仰の中身もこれです。ですから主イエスは弟子たちに仰いました。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:31-33と。『神の国』、それは神が全世界の王として力を十分に発揮してくださることであり、その領域の中にこの自分自身も住まわせていただくことです。『神の義』、それは王の中の王であるその神が正しく真実であり、慈しみ深くあってくださること。『まず神の国と神の義を求めよ』とは、最初にはそうしなさいということでなく、最初から最後までずっと、いつでもどこでもどういう場合にも、神が慈しみ深い真実な王として力を十分に発揮してくださることを求め続けよ。他一切はすべて添えて与えられると約束されているのですから、他のことは願うまでもないといいうことです。神を知り、神に十分に信頼を寄せ続けて生きることができるなら、それで十分だったのです。小さな子供たちよ。とても幸いな小さな子供たちよ、そのとおりです。そのようにして、神さまとの格別な出会いを一回また一回と積み重ねてきました。ですから私たちも、「わたしの思いではなく、他の誰の思いや願いや考えでもなくて、ただただ御心のままになさってください」と天の御父に信頼しています。すっかり全部をお任せし、安心して、この私たちも、もう小さな子供です。神の憐れみのもとに、神の子供たちとされました。

2017年7月24日月曜日

7/23こども説教「実のならないいちじくの木」ルカ13:6-9


 7/23 こども説教 ルカ13:6-9
 『実のならないいちじくの木』

13:6 それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。7 そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。8 すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。                 (ルカ福音書 13:6-9)


 おやつとは、朝ごはん、昼ごはん、晩ごはんでもなく、その合間に食べるおいしい食べ物のことです。「どんなおやつがいちばん好きだい」と聞くと、友だちは「アイスとチョコレートとかき氷が大好きだよ」と教えてくれました。ぶどう畑のあちこちに植えられているいちじくの木の実は、そのおやつにして食べるために植えてあったのです。なんだろう? と首を傾げていたでしょう。ぶどう畑なのに、どうしていちじくの木がわざわざ植えてあるのかと。
  さて、広い広いぶどう畑のあちこちに、いちじくの木が植えられていました。ぶどう畑で働く人たちはお昼休みと3時の休みに、体を伸ばして汗を拭いて、「あ~、くたびれた」とゆっくり休みます。そのとき、もし、甘くておいしいいちじくの実がなっていて食べさせてもらえるなら、疲れも吹っ飛んで、また元気に、嬉しい気持ちで仕事に精を出すこともできるでしょう。広い広いぶどう畑の主人は、それでわざわざいちじくの木を植えておきました。働く人たちを元気づけてあげたくて。ここで働かせてもらえて幸せだと喜んでもらいたくて。甘い実をムシャムシャおいしそうに食べる労働者たちの幸せな顔をぜひ見てみたくて。ぶどう畑の主人は神さまです。働く人は、みんなのこと。いちじくの木はクリスチャンです。世界中のどこもかしこも神のぶどう畑ですが、そのぶどう畑にいる皆のための、元気にして幸せな気持ちを味あわせてあげる、おやつの役割です。ところが、なかなか実がならないいちじくの木がありました。1年待っても2年3年待っても。「切り倒してしまおうか。無駄だし、役に立たないし」。ぶどう畑といちじくの木を世話する人(=園丁)は答えました。「いいえ。今年もそのままにして置いてください。そのまわりを掘って、私が肥料をやってみますから。土を耕したり雑草をむしり水をまき、悪い虫を取り除いて、この私が精一杯に世話してみますから」。長い長い歳月が流れつづけました。どのいちじくの木も、どれもこれも、なかなか良い実を結びませんでした。8090100年とたって、「いいえ待ってください、待ってください待ってください。この私が精一杯に力の限りに世話をして、きっと必ず甘くておいしい実を結ばせますから」。さて質問。ぶどう畑といちじくの木を世話する、とても親切で愛情深くて面倒見がよくて、かんたんに諦めてしまわないただお独りの格別に良い世話係は、だれでしょう? 


    【補足/切り倒してしまわない】
   9節、「それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」と園丁は言う。けれど、この園丁はそれを決してしない。「園丁」が救い主イエスご自身だと分かるなら、私たちは、「まわりを掘って肥料をやって。土を耕したり雑草をむしり水をまき、悪い虫を取り除いて、精一杯に世話して」みた結果、このただお独りの格別に良い園丁が、なかなか実を結ばない木のために、こんな粗末な私共のためにさえ何をしてくださったのかを知っています。木を切り倒す代わりに、自分自身を切り倒して、その根元に埋めて自分が木のための肥料になってくださったと。わおっ。
   1 「3年たって、それでもダメなら切り倒しましょう」。果樹なら、そういう判断もありえるのかも。けれど生身の人間なら、およそ何年で良い結果を出さなければ見捨てられるのでしょう。この現代の人間社会では? 慈しみ深い神さまからは? 良い実がなるのを待ってもらっているのが、もし、あなた自身なら、どうでしょう? 人間が成長して良い実を結びはじめるまで、たとえ何十年もかかっても不思議ではないのに。
     2 いちじくの木はクリスチャンです。500年前の信仰問答は高らかに宣言します、「まことの信仰によってキリストに植え込まれた者が感謝の実を結ばないようなことはありえない」(ハイデルベルグ信仰問答 問641563年)と。そのとおりです。

3 この同じ救い主が「私は良い羊飼いだ」と仰ったとき、「なぜなら私は、羊のことを心にかけており、羊を決して見捨てず導きとおし、羊のために生命を捨てるから」(ヨハネ福音書10:11-18)と仰ったのを覚えています。良い羊飼いであり、良い園丁である救い主イエスが私たちのために何をしてくださったのかも、私たちはよくよく覚えています。「見捨てることも見放すこともしない」と約束し、ついにとうとう十字架の上で生命をささげてくださったと。この同じ独りの主が、「3年でダメなら切り倒しましょう」などと判断なさるはずがありません。

7/23「心が頑固なので」マタイ19:1-12,コリント(1)7:12-16

 みことば/2017,7,23(主日礼拝) 日本キリスト教会 上田教会   121
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:1-12,コリント手紙(1)7:12-16  
『心が頑固なので』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:1 イエスはこれらのことを語り終えられてから、ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。2 すると大ぜいの群衆がついてきたので、彼らをそこでおいやしになった。3 さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。                                (マタイ福音書 19:1-8)
                                               
7:12 そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。13 また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。14 なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。15 しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。16 なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。
                 (コリント手紙(1)7:12-16) 




今日は結婚問題の全体像と、また律法と福音についてお話しします。結婚問題については、この二箇所となにより創世記2章が大切です。まずマタイ福音書19:3-8。パリサイ人たちが近づいてきて、主イエスを試みようとして話しかけてきました。「何かの理由で、夫がその妻と離婚してもいいでしょうか。あるいは、何か不都合がありますか」。主イエスは創世記2章を引用して、こう答えました。「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか。つまり、離縁状さえ出せば離婚しても構わないという意味でしょう。ね?」。イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった」。要点は、互いに相反する二重の真実です;「(1)結婚は、なにしろ神さまがその2人を結び合わせてくださった。だから離婚してはいけない。それは罪を犯すことになる。(2)けれどその罪深さも許される。離婚してはいけないが、しかたがない場合には離婚しても良い。なぜなら、あなたも私も誰もが皆あまりに心がかたくなで頑固なので」。以上です。心が痛みます。例えば一人の伝道者が妻と離婚した場合、その教会を辞職しなければなりませんか。いいえ、聖書のどこにもそんなことは一言も書いてありません。それにしても伝道者だけではなく、長老・執事など何かの役職についている者たちだけではなく、洗礼を受けているすべてのクリスチャンにとって、聴いて信じてきた信仰の内容と現実の普段の自分自身の暮らしぶりとは大いに関係があります。もし何の関係もないなら、その信仰は虚しく、ただ口先だけの中身のない信仰です。もし万一、中身のない信仰なら、その伝道者やその一人のクリスチャンの口から出る美しく格調高い言葉や態度を、いったい誰が信頼できるでしょう。できるはずがありません。一人の伝道者も、一人一人のクリスチャンも、いつもの暮らしぶり、態度、家族や隣近所や職場の同僚たちとどう付き合い、どう接しているのか。普段の立ち居振る舞い、いつもの生活ぶりを、まな板の上に載せられて毎日毎日を暮らしています。隠れているもので明らかにされないものはないし、なにしろ『世の光、地の塩とされ、すでに燭台の上に置かれている』(マタイ5:13-14,10:26参照)と断言されている私たちですから。また例えば教会員の子供たちや他の人々が、皆に祝福されて教会で結婚式をあげたとします。しばらくして離婚してしまった場合、その彼らのほとんどはその教会からも神さまからも遠ざかります。結婚生活に失敗してしまった自分自身を恥じるからですし、「神さまにも世間様にもおテントウさまにも顔向けできないし、世間の人々もこの私をそういう目で見るに違いない」と感じるからです。それは、あまりに残念なことで、もったいない。そんなことで神さまとの関係を断ち切ってしまって良いのかどうか。結婚生活に失敗して離婚してしまったから恥ずかしいし、神さまにも世間様にも顔向けできないと、どこに書いてあるんですか。聖書には一言も書いてありません。けれど多くの人間たちの頭の中には書いてあり、世間でそう習い覚えてきたらしいのです。聖書に書いてあってもなくても関係なしに、多くの人々はそういうふうに、世間で習い覚えてきたことを信じています。聖書や神さまを信じ、信頼を寄せるよりも、その5倍も6倍も、世間の常識と人様の顔色を読むのに忙しいからです。それに対しても聖書自身は、神さまの同じ一つの御心を語ります;「結婚は、なにしろ神さまがその2人を結び合わせてくださった。だから離婚してはいけない。けれど、しかたがない場合には離婚しても良い。なにしろ、心があまりにかたくなな頑固者同士なので」。これだけは初めにはっきりと断言しておきます。結婚に失敗して別れてしまった元夫も元妻も、その子供たちもクリスチャンであろうがそうでなくたって、世間様にも神さまに対しても、どこの誰に対してもそれを恥じる必要はまったくありません。本当ですよ。
 では質問。クリスチャンという人種は誠実で純粋なんですか? あなた自身は? この私は? 右の頬を打たれたらさあどうぞと左の頬を(マタイ5:39)ニコニコして差し出す? そんなクリスチャン、ぼくは1人も見たことがありません。「正しい人は1人もいない。誠実で純粋で素敵な人も1人もいない」って聖書にははっきり書いてあったじゃないですか。「神おひとりのほかに誠実で純粋で素敵な人間などどこにもいない」って救い主ご自身もはっきりと仰っていたじゃないですか(ローマ手紙3:9-,マルコ福音書10:17,創世記8:21,申命記7:6-,9:4-7参照)。騙されてはいけません。聖書をそっちのけにして、好き勝手なたわごとを並べ立ててはいけません。人に見せようとして、格調高く美しく感動的にご立派そうに祈ってはいけません。そうでなければ、あの律法学者やパリサイ派の人たちのように、私たちも偽善者と呼ばれて、人一倍きびしい裁きを受けるでしょう。社会や人間どもや世間様などではなく、主なる神ご自身から。いつから、どうやって私共人間はうわべを取り繕うだけの、虚しい偽善者になってしまうでしょうか? 神が生きて働いておられることが分からなくなるなら、私たちは直ちに、うわべを白く塗り固めた虚しい墓穴に成り下がってしまうでしょう(マタイ223:1-参照)。誰1人の例外もなく、私たちは決して聖人君子ではありません。しかもなお、ここがとても難しいところですが「いいんだ、いいんだ。罪深くて弱くて身勝手なあなただけれど、そのままで愛している。だから、死ぬまでず~っと罪深くて弱くて身勝手なままでいいんだからね」というわけでもない。しかも神からの律法は神の御心であり、福音そのものでもあります。なぜなら、もし私たちが「神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶこと」ができるようになるなら、そのように生きて死ぬこともできるならば、それにまさる幸いと祝福はないからです。けれどなお、その律法の要求はあまりに高くて、もし本気で聴くなら、誰独りもそれを守れないはずで、律法こそが私たちの罪深さを逃れようもなく突きつけました (10:17-31,ルカ18:9-14,ヨハネ手紙(1)1:8-10)。『クリスチャン、キリストの教会。罪人の集団にすぎない』;それを、よくよく分かっている必要があります。罪をゆるされた罪人として私たちは生きるのですし、ゆるされた後でもなお罪深いままです。けれどどうしたわけか、2種類の両極端の、とんでもない誤解がキリストの福音を歪ませつづけています。1つは、「いいんだいいんだ罪深いままで」と罪の中になお留まりつづけようとする誤解。もう1つは、素敵な、絵に描いたような理想像を教会とクリスチャンに無理矢理にあてはめようとする誤解。しかも両方共が、聖書と神さまご自身をそっちのけにしています。
  もう1つのこと。クリスチャンと、クリスチャンではない夫や妻、子供たちとの関わりについても話しましょう。自分の息子や娘がクリスチャンではない相手と結婚すると言い出すとき、何と答えることができるでしょう? 当人たちはもう大人なのでもちろん自分で判断して決めますが、けれど、大切な息子や娘なので精一杯に私たち自身の考えを伝える責任があります。子供を愛する親なので。「ダメ」と答える。あるいは、「いいよいいよ、あなたの好きにしなさい」と。申命記7章と、コリント手紙(1)7:12-16とが、互いに相反する正反対の真理を私たちに告げています。1つの真理は、「それはかなり危ない。その結婚相手に引っ張られて、息子や娘の心もあり方も神さまから離れ、神さまを忘れ果てて、神さまと何の関わりもない人間として生きることになる、かも知れない。危ない罠が待ち構えている」と。これが申命記7章の警告。もう1つの正反対の真理は、「いいやチャンスだ。それによって、神さまの恵みと祝福とがその連れ合いや子供たちにまで及ぶ」。コリント手紙(1)7:12を開きましょう。12-14節までと、15-16節と大きく2つの部分から成り立っています。まず14節まで;「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」。『聖なる者』;聖なる日とか、聖なる場所、聖なる人、聖なる書物、聖なる道具など。神さま以外の人間や時や場所や道具について『聖なる~』と言い表すとき、それ自体が清らかで汚れがなくて純粋でなどという意味はそこにほんの少しも含まれません。ただ、神さまのものとされて、神さまの御用のために用いられる、という意味です。またクリスチャンが『聖なる者。聖徒たち』などとも呼ばれますが、同じことで、聖人君子みたいな、天使みたいななどとは決して思い浮かべてはいけません。そんな人は1人もいません(ローマ手紙3:9-参照)。ここでは、少し広く、『神さまの恵みの領域に据え置かれている』という意味で聖なる者と語られます。もし仮に、あなたの連れ合いも子供たちも孫も神さまに見向きもしなくたって、「礼拝にいっしょに行ってみない」と誘っても、プイと横を向くばかりだとしても、なおその人々は神さまの恵みとゆるしの領域にすでに据え置かれている。どうして? なぜなら、そこに信者である1人の人がいるので。神さまを信じて生きる1人のあなたがいるので、だからと。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。牢獄の看守が聞いた約束を私たちも聞きました。この私たちも信じています。ねえ。これが、私たちの責任であり、私たちのための祝福であり、たしかな希望でありつづけます。けれども15-16節。直ちにつづけて、まったく裏腹な真実が語られます。「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。どんな気持ちがしますか。あなたには、これが薄情なように、冷淡に突き放しているように聞こえますか? どうして分かるのか、分かるはずがない。その通り。互いに、あまりに頑固な心を抱えている私たちです。だから、どうしてもダメなとき、どうしても心を通わせることができなくなって、ただただ嘆いたり悲しんだり、相手を傷つけたり傷つけられたりするばかりとなるとき、あなたは心安く、その配偶者・連れ合いを手離すことがゆるされています。本当ですよ。そのことも、ちゃんと覚えていてください。ですから、この箇所とマタイ福音書19章とはまるで双子の兄弟のようです。私たち人間のあまりに頑固な心と性根を見据えて、同じ1つのゆるしが語られています。12-14節までだけじゃなく、15-16節も合わせて語られて、それでようやく、かろうじて律法と福音のバランスが保たれています。福音書で、「心がかたくなで、あまりに頑固なので」と語られたのとまったく同じに(創世記8:24参照)
  罪をゆるす神さまです。根深く抱え持った頑固な心も性分も、日毎にゆるされつづけて生きるほかない私たちです。しかもなお、罪のゆるしは罪からの解放です。「いいよいいいよ。どうでもいいよ」と放ったらかしにされることではありません。また正反対に、ただうわべばかりを取り繕いつづけて後から「偽善者よ」ときびしく叱られることでもありません。1日また1日と、古い罪の自分と死に別れて、身勝手さも了見の狭さもズルさも臆病さも葬り去っていただいて、神さまに向かって、神さまの御前で新しい生命に生きる私たちです。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(コリント手紙(2)5:18-21。していただいたように、私たちもします。多く愛されてきたので、私たちも多く愛したいと願っています。ゆるしがたいところをなおゆるされ続けてきましたから、だから嫌々渋々でも無理矢理にでも、私たちもゆるします。罪の責任を問うことなく、罪の責任を問うことなくと、朝も昼も晩も口ずさみながら。それでもどうしても許せなくて、恨んだり憎んだり根にもちつづけることもあります。ぼくもそうです。その場合には、「それなのに私は」と神さまにも人様に対しても申し訳なく思い、たびたび心に痛みを覚えながら。喜んだり悲しんだりもしながら暮らしていきます。

祈りましょう。

2017年7月18日火曜日

7/16こども説教「悔い改めなければ滅びる」ルカ13:1-5

 7/16 こども説教 ルカ13:1-5
 『悔い改めなければ滅びる』

13:2 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。3 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。4 また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。5 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。                  (ルカ福音書 13:1-5

  3節と5節で、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と主イエスが仰っています。本当のことだし、とても大事なので、わざわざ二回も繰り返して言いました。だから、「ああ、そうだったのか」と子供も大人も本気で受け止めましょう。神に逆らって「私が私が」と強情を張りつづけることが罪の中身であり、始まりです。誰も彼もがみな同じく、とても罪深い。たどり着くところは、死と滅びです。もし救われたいと願うなら、神に逆らって「私が私が」と強情を張りつづけることがどんなに悪いことかと気づいて、それを止めて、私たちは神さまへと立ち返らねばなりません。
  救い主イエスは言いました、「悔い改めて福音を信じなさい」と。主イエスの弟子たちも、「救われるためにはどうしたらいいですか」と質問されて、やはり同じことを言い続けます。「悔い改めなさい。そして、罪のゆるしを得るためにイエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」と。洗礼者ヨハネもまた同じく、罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼を授けつづけ、念を押して、「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マルコ:15,使徒2:37-39,ルカ3:1-14と釘をさしました。しかもそれらの言葉はまずユダヤ人立ちに向けて語られ始めました。すでに神の民とされ、神を信じて毎日を暮らしているはずのその彼らに向けて。ですから、神を信じているつもり、神の子供にされているはずだと安心していた人たちはビックリしました。青くなったり黄色くなったりして、「救われるために、この私はどうしたらいいだろうか」と真剣に考え込みはじめました。青くなったり黄色くなったりして、「救われるためには、この私はどうしたらいいだろうか」と真剣に考え込みはじめました。「ただ口先だけ形ばかりでは全然ダメで、神さまの御心に従って生きようとする中身こそが大切だ。本当にそうだ」と気づいたからです。


     【補足/罪の自覚と悔い改め】
     「自分は神に逆らっていて、とても罪深い」とは、なかなか思うことができません。むしろ、「自分こそが、神の御心にかなう正しい人間だ」とほとんどの人々が思い込んでいました。しかも! 「正しい人は一人もいない」と聖書は断言します。また、もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであって、神の言はわたしたちのうちにない」(ローマ手紙3:9,ヨハネ手紙(1)1:8-9)。


7/16「仲間を憐れんでやりなさい」マタイ18:21-35

                           みことば/2017,7,16(主日礼拝)  120
◎礼拝説教 マタイ福音書 18:21-35                  日本キリスト教会 上田教会
『仲間を憐れんでやりなさい』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。         (マタイ福音書 18:21-35)
                                               

  23-33節、たとえ話です。王様(あとから主人とも呼ばれる)は、神さまのこと。王さまのしもべであり、王に対して莫大な借金を負っている者同士が(クリスチャンであるなしに関わらず)私たちすべての人間。さて、一人の男は王様に対して莫大な借金がありました。返済することなどとうてい出来ませんでした。自分自身も身売りして奴隷になり下がり、家も土地も持ち物全部も、妻も子供たち一人一人も奴隷として売り払うほかありません。それでも全然足りません。「どうぞお待ちください」としきりに願い、すると王様は、少し待つどころか、半額にするとか何十年分かの分割払いなどでもなく、借金をすべて丸ごと帳消しにしてくれたのです。何の交換条件もなく、ただただ彼を憐れに思ったからでした。「あんまり可哀想だから、それでゆるしてやった」と仰る。ゆるされたその男は晴れ晴れとした気持ちで王様のもとから下がり、町の通りに出て、自分に借金をしている一人の友人に出会いました。ゆるされたその男は、自分に対するわずかな借金をゆるしませんでした。捕まえて首をしめ、「借金を返せ」と。友人もまた、ひれ伏して「どうか待ってくれ」としきりに願いました。あの時の彼とそっくり同じに。男は承知しませんでした。無理矢理に引っ張ってゆき、謝金を返すまではと牢獄に閉じ込めました。その冷酷で無慈悲なやり方は、王様の耳に届きました。王はその男に言います。「悪いしもべ。わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしが憐れんでやったように、あの仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。心が激しく痛みます。
 「わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさる」(35)。つまりあなたや私が兄弟たちを扱うのとそっくり同じやり方で、同じく厳しく、同じく情け容赦なく、この私たちをも扱う。それをよくよく覚えておきなさい。かの日には、ゆるさない人々にはゆるしは与えられない。憐れもうとしない人々には憐れみは与えられない。その人々は、神の国にふさわしくない。なぜなら、かの国は憐れみの国であり、そこで歌いつづけられる歌は『差し出され、受け取りつづけてきた恵み』という歌であるからです。兄弟姉妹たち。私たちが神さまとの間に平和を得ているということは、どうやって分かるでしょうか。恵み深い神にうちに深い慰めを与えられているということは、どうやって分かるでしょうか。主イエスの十字架の上で流された尊い血潮によって洗い清められていることは、どうやって分かるでしょうか。新しく生まれ、ただただ恵みによって、まったくの無償で、何の条件も資格も問われずに神の憐れみの子供たちとされているということは、いったい何によって、はっきりそうだと分かるでしょうか。自分自身にも、私と共に生きる人々にも、「ああ。本当にそうだ。この人は神の恵みと憐れみを豊かに注がれている。それがこの人の血となり肉となって、生き生きと息づいている」と。何によって、それと分かるでしょうか。
 なにがしかの良い働きをしたいと、あなたは願うでしょうか。この世界に対して、あるいは身近にあるあなたの大切な友人たちに。あなたの職場の同僚たちに。あなたの夫に対して。あなたの大切な息子や娘たちに対して。親として、友人として、一個のキリスト者として、ほんのわずかでも良いものを贈り与えたいと、あなたは願うでしょうか。「なるほど。これがキリスト教の信仰か。これがクリスチャンというものか」と、いつかあの人が心に思い、あなた自身が受け取っている豊かなものを分かち合えるようになるならと、あなたは願うでしょうか。私は願っています。どうやって出来るでしょう。難しい神学用語やキリスト教信仰の理屈はよく分からなくても、改まった話をすることが苦手でひどく口下手であっても、愚かで、世間知らずでも、たとえそうであっても、せっかく受け取っているこの豊かさと心強さを、晴れ晴れとした安らかさを、この揺るぎなさをあの一人の人にも差し出してあげたいと、あなたは願うでしょうか。このたとえ話を思い起こしたい。『ゆるすべきだ』と頭では理解できます。問題なのは、『どうしたら、できるのか』です。頭でだいたい分かるだけではなく、心底から分かり、よくよく腹に据えることができるかどうか。できることなら許したい。ぜひ許したい。その人を温かく優しく迎え入れ、心を開いていっしょにいることができるようになりたい。なかなか、それが出来ないので苦しんでいます。私は、私自身が深く抱えもってしまった憎しみによって誰かを苦しめているだけではありません。自分の憎しみや怒りによって、他の誰をでもなく自分自身をこそ苦しめています。負債のある人々を牢獄に閉じ込めるばかりでなく、そうする自分自身が暗く狭い魂の牢獄に閉じ込められています。この私たちも、怒りや憎しみのために心の休まるときがなくなってしまいます。できることなら許したい。それができないので、私たちは苦しみ、私たちは自分自身を貧しくしてしまうのです。神さま、罪深い私たちを憐れんでください。
 『主の祈り』の六つの祈願の第五番目は、「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。どうかゆるしてくださいと、なぜ願うのでしょうか。なぜ、そう祈り求めるようにと命じられているのでしょう。私たちがいまだに罪を許されていない、ということではありません。主イエスの、あの丘の上の十字架上で成し遂げられた罪の贖(あがな)いの出来事を、「それは、この私のためだった」と信じ、受け入れたときに、私たちはすでに何の留保もなく、すっかり決定的に罪をゆるされました。その罪がどんなに数多くても、最低最悪の罪であっても、すっかり丸ごとゆるされています。そこには、ほんの少しの疑いをも差し挟む余地がありません。けれども、『我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく』とは、いったい何でしょうか。この一句があるために、私たちはたじろぎます。自分のための罪のゆるしと神の憐れみとを願い求めようとする度毎に、「お前はまだゆるしていない。まだゆるしていない。どうしたわけだ?」と、この私たちは突きつけられます。自分に対する他者の負い目をゆるしてあげることが、自分自身がゆるされるための前提条件なのでしょうか。ゆるすなら、その見返りとしてその報酬として、ゆるされるのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちが罪をゆるされることは、神からの恵みです。一方的な贈り物です。何の条件もなく、ただただ恵みによって、ただ憐れみによって、まったくの無償でゆるされた私たちです。

             ◇

  すると末尾の34-35節を、私たちはどう受け止めることができるでしょうか。教えられ、習い覚えてきた神の御心とその取り扱いと、この34-35節ははなはだしく食い違っています。私たちは、この不届きで恩知らずで冷酷なしもべそのものです。山ほどの借金を丸ごと帳消しにしていただいているくせに、仲間のほんのわずかな借金を許そうとせず、首を絞めたり牢獄に閉じ込めたりしつづけています。多く愛され、多くを許されている私たちですのに、少ししか愛さず、ほんの少ししか許そうとしません。私たち自身がしでかしたとんでもない極悪非道は、すでに王さまの耳にも届いているでしょう。しかも、あなたも私もそのために牢獄に放り込まれた者など一人もいません。王様からの莫大な負債を返すことなどできません。全部どころか、ほんの一部分でも返せません。「もし心からゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさる」とはっきり告げられています。どういうことでしょう。私たちはどういう取り扱いを受けるでしょうか? ――安心してください。教えられ、習い覚えてきたとおりです。私たちが罪をゆるされることは、神からの恵みのできごとです。一方的な贈り物です。何の条件もなく、ただただ恵みによって、ただ憐れみによって、まったくの無償でゆるされた、ゆるされつづける私たちです。ではなぜ、34-35節のように語りかけられるのでしょう。このように情け容赦なく、厳しく厳しく語りかける必要があるからです。「もし心からゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさる」と告げられて、心に痛みを感じる必要が私たちにはあるからです。そうでなければ私たちも、いつまでもこの不届きな、血も涙もない、とても悪いしもべでありつづけてしまうかも知れないからです。親である神、その子供たちとされている私たち。子供を愛しているし、とてもとても大切に思っている。だから折々に、このように厳しい言葉を語りかけもする。なんとかして良い人間に育ってもらいたくて。それが子供を愛して止まない親である神の、『親心』です。きびしく語る必要がある。けれど、現実の取り扱いはもっとはるかに心優しく寛大でありつづけました。私たちに対しても、他のすべての兄弟たちに対しても。教えられ、習い覚えてきたとおりに、『ただ無償の無条件の憐れみによって。ただただ恵みによって、主イエスを信じる信仰によってゆるされ、救われつづける』私たちです。よく覚えておきましょう。救われ、憐れみを受けた恵みの結果として、私たちはだんだんと憐れみ深い者とされていきます。この、恵みの順序です。
このたとえ話を、朝も昼も晩も思い起こしつづけましょう。他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。「なんて身勝手な、思いやりのない人だなあ」と私たちは他人の素振りを見て渋い顔をします。「そんなことがよく平気でできるものだ。どういう神経をしているんだろう」と呆れます。その一方で、自分がどんなふうに人を扱っているか、人に対して何をしているのかは、私たちはあまり気づきません。しかも自分が受けた傷や痛みには、私たちはひどく敏感です。「あんなことをするなんて、ひどい。我慢できない」と私たちは腹を立て、涙も流します。もちろん、あなたは不当な扱いを受けてきたでしょう。誤解され、冷淡で無慈悲な仕打ちをされ、心を痛めたことでしょう。その通りです。それでも。あなたはもう忘れてしまっているかも知れないけれど、私たち自身が『ゆるされること』を必要とし、現にゆるされ続けています。毎日毎日、様々な場面で様々な事柄に対して、私たちはひどくいたらない。ぜひともすべきことをせずにおり、してはならないことをしてしまいます。無責任さや臆病さ、あるいは独りよがりな身勝手さから。言ってはならない言葉を口から出し、ぜひとも語りかけてあげるべき言葉を言い出せずにいます。朝も昼も夜も、私たちは神の憐れみとゆるしを必要としています。わたしの隣人が私に対してする過ちや背きは、私が神と隣人たちに向けてしてしまった過ちと背きに比べるなら、ほんのわずかなものでした。ほんの些細な、取るに足りない、無いも同然のものでした。まことに憐れみ深い神はそれでもなお、そんな私たちをさえ見捨てることも見離すこともなさらなかったと、私たちも知りたい。神の憐れみを受け取り、「本当にそうだ」と心底から味わうために、そのためにこそあなた自身が他者に対して憐れみ深くあるようにと神はお招きになります。神の偉大さ、神の気前のよさをあなたが受け取ることができるためにこそ、神は、あなた自身が他者に対して寛大に気前よくあるように、と促します。罪深く貧しく愚かな兄弟への私の憐れみの眼差しは、同じく罪深い、いいえ彼よりもっと貧しく、もっと愚かでかたくなな私自身への、神の憐れみの眼差しを、この私にも思い起こさせました。弱く小さな、そしていたらない小さな一人の人へ向けられた私の心の痛みは、この私に向けられていた神の痛みを、この私にも気づかせてくれました。備えがなく、貧しく身を屈めていたのは、お互い様でした。かたくなさはお互い様でした。弱さも小ささも、ふつつかさも、お互い様でした。罪深さも、礼儀や慎みを知らず、ひどく身勝手で自分のことしか考えないことも、それはお互い様でした。
例えば、とてもとても悪かった、箸にも棒にも引っかからなかったニネベの都の人々がどんなふうに救われたのかを覚えておられますか? 12万人以上の人と家畜は、救われるに値するから救われたのではありませんでした。悔い改めたから救われたのでもありませんでした(そうであるかのように書かれています。しかし現実は、なににも先立って、ニネベの人々と家畜たちへの『神の憐れみ』があり、ヨナの逃亡などという人間の反逆や抵抗など何度も何度もねじ伏せられ、ねじ曲げられつづけました。そうでなければ、あの彼らが悔い改めることなど決してあり得なかったほどです。反逆のヨナ自身が白状しています;「(ニネベの人々を神がゆるすとあらかじめ自分には分かっていた)それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです」(ヨナ4:2)。憐れみを受けたのです。「右も左も弁えず、ちっとも弁えない、けれど滅びるままに捨て去るにはあまりに惜しくて仕方がない」と(ヨナ書4:11参照)恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富む神さまだったからこそ、あんな彼らでさえも救われたのです。そっくりでしょう、あなたも私も。ニネベのあの12万人の人々と家畜のように救われた私たちでした。とうとう許してあげたときに、ゆるされてある自分を見出しました。与えたときに、折々に山ほど良いものを受け取ってきた自分を思い起こしました。有り余るほど、満ち足りるほどに、あふれてこぼれ落ちるほど豊かに受け取りつづけてきたことに。嫌々ながら渋々と手を差し伸べたとき、「そうだ。この私も手を差し伸べられ、抱え起こされた。担われてきた。あの時もそうだったし、あの時も。あの時も、あの時も」と。受け入れたとき、そこでようやく、そこでまるで生まれて初めてのようにして、この私こそが、受け入れがたいところを受け入れられ、許しがたいところをなお許されつづけてきたことに気づかされました。ああ、そうだったのか。そこでようやく、まるで生まれてはじめてのようにして喜びと感謝が溢れました。後から後から、次々と溢れ出てきました。