2017年7月24日月曜日

7/23「心が頑固なので」マタイ19:1-12,コリント(1)7:12-16

 みことば/2017,7,23(主日礼拝) 日本キリスト教会 上田教会   121
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:1-12,コリント手紙(1)7:12-16  
『心が頑固なので』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:1 イエスはこれらのことを語り終えられてから、ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。2 すると大ぜいの群衆がついてきたので、彼らをそこでおいやしになった。3 さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。                                (マタイ福音書 19:1-8)
                                               
7:12 そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。13 また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。14 なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。15 しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。16 なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。
                 (コリント手紙(1)7:12-16) 




今日は結婚問題の全体像と、また律法と福音についてお話しします。結婚問題については、この二箇所となにより創世記2章が大切です。まずマタイ福音書19:3-8。パリサイ人たちが近づいてきて、主イエスを試みようとして話しかけてきました。「何かの理由で、夫がその妻と離婚してもいいでしょうか。あるいは、何か不都合がありますか」。主イエスは創世記2章を引用して、こう答えました。「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか。つまり、離縁状さえ出せば離婚しても構わないという意味でしょう。ね?」。イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった」。要点は、互いに相反する二重の真実です;「(1)結婚は、なにしろ神さまがその2人を結び合わせてくださった。だから離婚してはいけない。それは罪を犯すことになる。(2)けれどその罪深さも許される。離婚してはいけないが、しかたがない場合には離婚しても良い。なぜなら、あなたも私も誰もが皆あまりに心がかたくなで頑固なので」。以上です。心が痛みます。例えば一人の伝道者が妻と離婚した場合、その教会を辞職しなければなりませんか。いいえ、聖書のどこにもそんなことは一言も書いてありません。それにしても伝道者だけではなく、長老・執事など何かの役職についている者たちだけではなく、洗礼を受けているすべてのクリスチャンにとって、聴いて信じてきた信仰の内容と現実の普段の自分自身の暮らしぶりとは大いに関係があります。もし何の関係もないなら、その信仰は虚しく、ただ口先だけの中身のない信仰です。もし万一、中身のない信仰なら、その伝道者やその一人のクリスチャンの口から出る美しく格調高い言葉や態度を、いったい誰が信頼できるでしょう。できるはずがありません。一人の伝道者も、一人一人のクリスチャンも、いつもの暮らしぶり、態度、家族や隣近所や職場の同僚たちとどう付き合い、どう接しているのか。普段の立ち居振る舞い、いつもの生活ぶりを、まな板の上に載せられて毎日毎日を暮らしています。隠れているもので明らかにされないものはないし、なにしろ『世の光、地の塩とされ、すでに燭台の上に置かれている』(マタイ5:13-14,10:26参照)と断言されている私たちですから。また例えば教会員の子供たちや他の人々が、皆に祝福されて教会で結婚式をあげたとします。しばらくして離婚してしまった場合、その彼らのほとんどはその教会からも神さまからも遠ざかります。結婚生活に失敗してしまった自分自身を恥じるからですし、「神さまにも世間様にもおテントウさまにも顔向けできないし、世間の人々もこの私をそういう目で見るに違いない」と感じるからです。それは、あまりに残念なことで、もったいない。そんなことで神さまとの関係を断ち切ってしまって良いのかどうか。結婚生活に失敗して離婚してしまったから恥ずかしいし、神さまにも世間様にも顔向けできないと、どこに書いてあるんですか。聖書には一言も書いてありません。けれど多くの人間たちの頭の中には書いてあり、世間でそう習い覚えてきたらしいのです。聖書に書いてあってもなくても関係なしに、多くの人々はそういうふうに、世間で習い覚えてきたことを信じています。聖書や神さまを信じ、信頼を寄せるよりも、その5倍も6倍も、世間の常識と人様の顔色を読むのに忙しいからです。それに対しても聖書自身は、神さまの同じ一つの御心を語ります;「結婚は、なにしろ神さまがその2人を結び合わせてくださった。だから離婚してはいけない。けれど、しかたがない場合には離婚しても良い。なにしろ、心があまりにかたくなな頑固者同士なので」。これだけは初めにはっきりと断言しておきます。結婚に失敗して別れてしまった元夫も元妻も、その子供たちもクリスチャンであろうがそうでなくたって、世間様にも神さまに対しても、どこの誰に対してもそれを恥じる必要はまったくありません。本当ですよ。
 では質問。クリスチャンという人種は誠実で純粋なんですか? あなた自身は? この私は? 右の頬を打たれたらさあどうぞと左の頬を(マタイ5:39)ニコニコして差し出す? そんなクリスチャン、ぼくは1人も見たことがありません。「正しい人は1人もいない。誠実で純粋で素敵な人も1人もいない」って聖書にははっきり書いてあったじゃないですか。「神おひとりのほかに誠実で純粋で素敵な人間などどこにもいない」って救い主ご自身もはっきりと仰っていたじゃないですか(ローマ手紙3:9-,マルコ福音書10:17,創世記8:21,申命記7:6-,9:4-7参照)。騙されてはいけません。聖書をそっちのけにして、好き勝手なたわごとを並べ立ててはいけません。人に見せようとして、格調高く美しく感動的にご立派そうに祈ってはいけません。そうでなければ、あの律法学者やパリサイ派の人たちのように、私たちも偽善者と呼ばれて、人一倍きびしい裁きを受けるでしょう。社会や人間どもや世間様などではなく、主なる神ご自身から。いつから、どうやって私共人間はうわべを取り繕うだけの、虚しい偽善者になってしまうでしょうか? 神が生きて働いておられることが分からなくなるなら、私たちは直ちに、うわべを白く塗り固めた虚しい墓穴に成り下がってしまうでしょう(マタイ223:1-参照)。誰1人の例外もなく、私たちは決して聖人君子ではありません。しかもなお、ここがとても難しいところですが「いいんだ、いいんだ。罪深くて弱くて身勝手なあなただけれど、そのままで愛している。だから、死ぬまでず~っと罪深くて弱くて身勝手なままでいいんだからね」というわけでもない。しかも神からの律法は神の御心であり、福音そのものでもあります。なぜなら、もし私たちが「神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶこと」ができるようになるなら、そのように生きて死ぬこともできるならば、それにまさる幸いと祝福はないからです。けれどなお、その律法の要求はあまりに高くて、もし本気で聴くなら、誰独りもそれを守れないはずで、律法こそが私たちの罪深さを逃れようもなく突きつけました (10:17-31,ルカ18:9-14,ヨハネ手紙(1)1:8-10)。『クリスチャン、キリストの教会。罪人の集団にすぎない』;それを、よくよく分かっている必要があります。罪をゆるされた罪人として私たちは生きるのですし、ゆるされた後でもなお罪深いままです。けれどどうしたわけか、2種類の両極端の、とんでもない誤解がキリストの福音を歪ませつづけています。1つは、「いいんだいいんだ罪深いままで」と罪の中になお留まりつづけようとする誤解。もう1つは、素敵な、絵に描いたような理想像を教会とクリスチャンに無理矢理にあてはめようとする誤解。しかも両方共が、聖書と神さまご自身をそっちのけにしています。
  もう1つのこと。クリスチャンと、クリスチャンではない夫や妻、子供たちとの関わりについても話しましょう。自分の息子や娘がクリスチャンではない相手と結婚すると言い出すとき、何と答えることができるでしょう? 当人たちはもう大人なのでもちろん自分で判断して決めますが、けれど、大切な息子や娘なので精一杯に私たち自身の考えを伝える責任があります。子供を愛する親なので。「ダメ」と答える。あるいは、「いいよいいよ、あなたの好きにしなさい」と。申命記7章と、コリント手紙(1)7:12-16とが、互いに相反する正反対の真理を私たちに告げています。1つの真理は、「それはかなり危ない。その結婚相手に引っ張られて、息子や娘の心もあり方も神さまから離れ、神さまを忘れ果てて、神さまと何の関わりもない人間として生きることになる、かも知れない。危ない罠が待ち構えている」と。これが申命記7章の警告。もう1つの正反対の真理は、「いいやチャンスだ。それによって、神さまの恵みと祝福とがその連れ合いや子供たちにまで及ぶ」。コリント手紙(1)7:12を開きましょう。12-14節までと、15-16節と大きく2つの部分から成り立っています。まず14節まで;「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」。『聖なる者』;聖なる日とか、聖なる場所、聖なる人、聖なる書物、聖なる道具など。神さま以外の人間や時や場所や道具について『聖なる~』と言い表すとき、それ自体が清らかで汚れがなくて純粋でなどという意味はそこにほんの少しも含まれません。ただ、神さまのものとされて、神さまの御用のために用いられる、という意味です。またクリスチャンが『聖なる者。聖徒たち』などとも呼ばれますが、同じことで、聖人君子みたいな、天使みたいななどとは決して思い浮かべてはいけません。そんな人は1人もいません(ローマ手紙3:9-参照)。ここでは、少し広く、『神さまの恵みの領域に据え置かれている』という意味で聖なる者と語られます。もし仮に、あなたの連れ合いも子供たちも孫も神さまに見向きもしなくたって、「礼拝にいっしょに行ってみない」と誘っても、プイと横を向くばかりだとしても、なおその人々は神さまの恵みとゆるしの領域にすでに据え置かれている。どうして? なぜなら、そこに信者である1人の人がいるので。神さまを信じて生きる1人のあなたがいるので、だからと。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。牢獄の看守が聞いた約束を私たちも聞きました。この私たちも信じています。ねえ。これが、私たちの責任であり、私たちのための祝福であり、たしかな希望でありつづけます。けれども15-16節。直ちにつづけて、まったく裏腹な真実が語られます。「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。どんな気持ちがしますか。あなたには、これが薄情なように、冷淡に突き放しているように聞こえますか? どうして分かるのか、分かるはずがない。その通り。互いに、あまりに頑固な心を抱えている私たちです。だから、どうしてもダメなとき、どうしても心を通わせることができなくなって、ただただ嘆いたり悲しんだり、相手を傷つけたり傷つけられたりするばかりとなるとき、あなたは心安く、その配偶者・連れ合いを手離すことがゆるされています。本当ですよ。そのことも、ちゃんと覚えていてください。ですから、この箇所とマタイ福音書19章とはまるで双子の兄弟のようです。私たち人間のあまりに頑固な心と性根を見据えて、同じ1つのゆるしが語られています。12-14節までだけじゃなく、15-16節も合わせて語られて、それでようやく、かろうじて律法と福音のバランスが保たれています。福音書で、「心がかたくなで、あまりに頑固なので」と語られたのとまったく同じに(創世記8:24参照)
  罪をゆるす神さまです。根深く抱え持った頑固な心も性分も、日毎にゆるされつづけて生きるほかない私たちです。しかもなお、罪のゆるしは罪からの解放です。「いいよいいいよ。どうでもいいよ」と放ったらかしにされることではありません。また正反対に、ただうわべばかりを取り繕いつづけて後から「偽善者よ」ときびしく叱られることでもありません。1日また1日と、古い罪の自分と死に別れて、身勝手さも了見の狭さもズルさも臆病さも葬り去っていただいて、神さまに向かって、神さまの御前で新しい生命に生きる私たちです。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(コリント手紙(2)5:18-21。していただいたように、私たちもします。多く愛されてきたので、私たちも多く愛したいと願っています。ゆるしがたいところをなおゆるされ続けてきましたから、だから嫌々渋々でも無理矢理にでも、私たちもゆるします。罪の責任を問うことなく、罪の責任を問うことなくと、朝も昼も晩も口ずさみながら。それでもどうしても許せなくて、恨んだり憎んだり根にもちつづけることもあります。ぼくもそうです。その場合には、「それなのに私は」と神さまにも人様に対しても申し訳なく思い、たびたび心に痛みを覚えながら。喜んだり悲しんだりもしながら暮らしていきます。

祈りましょう。