2017年7月24日月曜日

7/23こども説教「実のならないいちじくの木」ルカ13:6-9


 7/23 こども説教 ルカ13:6-9
 『実のならないいちじくの木』

13:6 それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。7 そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。8 すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。                 (ルカ福音書 13:6-9)


 おやつとは、朝ごはん、昼ごはん、晩ごはんでもなく、その合間に食べるおいしい食べ物のことです。「どんなおやつがいちばん好きだい」と聞くと、友だちは「アイスとチョコレートとかき氷が大好きだよ」と教えてくれました。ぶどう畑のあちこちに植えられているいちじくの木の実は、そのおやつにして食べるために植えてあったのです。なんだろう? と首を傾げていたでしょう。ぶどう畑なのに、どうしていちじくの木がわざわざ植えてあるのかと。
  さて、広い広いぶどう畑のあちこちに、いちじくの木が植えられていました。ぶどう畑で働く人たちはお昼休みと3時の休みに、体を伸ばして汗を拭いて、「あ~、くたびれた」とゆっくり休みます。そのとき、もし、甘くておいしいいちじくの実がなっていて食べさせてもらえるなら、疲れも吹っ飛んで、また元気に、嬉しい気持ちで仕事に精を出すこともできるでしょう。広い広いぶどう畑の主人は、それでわざわざいちじくの木を植えておきました。働く人たちを元気づけてあげたくて。ここで働かせてもらえて幸せだと喜んでもらいたくて。甘い実をムシャムシャおいしそうに食べる労働者たちの幸せな顔をぜひ見てみたくて。ぶどう畑の主人は神さまです。働く人は、みんなのこと。いちじくの木はクリスチャンです。世界中のどこもかしこも神のぶどう畑ですが、そのぶどう畑にいる皆のための、元気にして幸せな気持ちを味あわせてあげる、おやつの役割です。ところが、なかなか実がならないいちじくの木がありました。1年待っても2年3年待っても。「切り倒してしまおうか。無駄だし、役に立たないし」。ぶどう畑といちじくの木を世話する人(=園丁)は答えました。「いいえ。今年もそのままにして置いてください。そのまわりを掘って、私が肥料をやってみますから。土を耕したり雑草をむしり水をまき、悪い虫を取り除いて、この私が精一杯に世話してみますから」。長い長い歳月が流れつづけました。どのいちじくの木も、どれもこれも、なかなか良い実を結びませんでした。8090100年とたって、「いいえ待ってください、待ってください待ってください。この私が精一杯に力の限りに世話をして、きっと必ず甘くておいしい実を結ばせますから」。さて質問。ぶどう畑といちじくの木を世話する、とても親切で愛情深くて面倒見がよくて、かんたんに諦めてしまわないただお独りの格別に良い世話係は、だれでしょう? 


    【補足/切り倒してしまわない】
   9節、「それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」と園丁は言う。けれど、この園丁はそれを決してしない。「園丁」が救い主イエスご自身だと分かるなら、私たちは、「まわりを掘って肥料をやって。土を耕したり雑草をむしり水をまき、悪い虫を取り除いて、精一杯に世話して」みた結果、このただお独りの格別に良い園丁が、なかなか実を結ばない木のために、こんな粗末な私共のためにさえ何をしてくださったのかを知っています。木を切り倒す代わりに、自分自身を切り倒して、その根元に埋めて自分が木のための肥料になってくださったと。わおっ。
   1 「3年たって、それでもダメなら切り倒しましょう」。果樹なら、そういう判断もありえるのかも。けれど生身の人間なら、およそ何年で良い結果を出さなければ見捨てられるのでしょう。この現代の人間社会では? 慈しみ深い神さまからは? 良い実がなるのを待ってもらっているのが、もし、あなた自身なら、どうでしょう? 人間が成長して良い実を結びはじめるまで、たとえ何十年もかかっても不思議ではないのに。
     2 いちじくの木はクリスチャンです。500年前の信仰問答は高らかに宣言します、「まことの信仰によってキリストに植え込まれた者が感謝の実を結ばないようなことはありえない」(ハイデルベルグ信仰問答 問641563年)と。そのとおりです。

3 この同じ救い主が「私は良い羊飼いだ」と仰ったとき、「なぜなら私は、羊のことを心にかけており、羊を決して見捨てず導きとおし、羊のために生命を捨てるから」(ヨハネ福音書10:11-18)と仰ったのを覚えています。良い羊飼いであり、良い園丁である救い主イエスが私たちのために何をしてくださったのかも、私たちはよくよく覚えています。「見捨てることも見放すこともしない」と約束し、ついにとうとう十字架の上で生命をささげてくださったと。この同じ独りの主が、「3年でダメなら切り倒しましょう」などと判断なさるはずがありません。