2017年7月10日月曜日

7/9こども説教「何が正しいことかを自分で判断できる」ルカ12:54-59

 7/9 こども説教 ルカ福音書12:54-59
『何が正しいことかを自分で判断できる』

12:57 また、あなたがたは、なぜ 正しいことを自分で判断しないのか。58 たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。59 わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」。      (ルカ福音書 12:57-59)

  小さな子供にも分かりやすいようにと心がけてはいますが、それと同じく、もし大人がよく分かるなら、その子供たちもだんだんと少しずつ分かってゆきます。ですから、とくに今日は大人の方々こそがよく聴いてください。
  58節の「あなたを訴える人」。よくよく注意して眺めると、この「訴える人」はタダ者ではありません。裁判官のところへ引っ張っていき、すると裁判官は「はいはい」と刑務所の番人にあなたを引き渡し、番人も「はいはい」とあなたを牢獄に投げ込んで閉じ込めてしまう。裁判はすでになされ、確定してしまったらしい。いつ、どうやって? 裁判官に引き渡すとき、まるですでに裁きが確定してしまっているかのように。「あなたを訴える人」と歩いていた間、道々、そこですでに裁きがなされつづけていたかのように。しかも普通なら、訴える人が間違っていたり、嘘の訴えをすることもありえます。裁判官が間違った悪い判定をしてしまうことも。けれどこの場合には、どうしたわけか訴えも、裁判官の裁きも牢獄の番人の扱いもまったく正しいらしい。いつもいつも正しいことをする人間は一人もいません。つまり、「あなたを訴える人」とは、変装して身分を隠している救い主イエスご自身です(マタイ25:31-47,
ルカ24:13-32「一緒に歩いて行かれた。しかし彼らの目がさえぎられてイエスを認めえることができなかった」「彼らの目が開けて、それがイエスであることが分かった」(15-16,31節)参照)。だからその訴えは正しいし、訴えどおりに裁かれる。しかも神さまと一緒に道を歩き、神さまがどういう方で、どういう御心なのかを道々よく教えられている私たちです。だから目的地に着く前に、ちゃんと神さまと仲直りしなさい(コリント手紙(2)5:17-21参照)。少なくとも、あなたも私もそうしようと精一杯に努力したほうがよいと。そこで57節、「あなたがたはなぜ正しいことを自分で判断しないのか」。他の人たちはともかくとして、主イエスを信じ、神さまについてよくよく知らされてきた私たちには、『何が神の御心にかなう良いことであるのか。何が御心に反する悪いことなのか』を知っているし、してよいことと悪いことをちゃんと判断できる。「だから、しなさい」と主イエスから命じられています。弟子である私たちに。


    【補足/神との和解】
     神に逆らうことが罪の本質であり、罪の出発点でした。そこから、さまざまな悲惨なことが起こりつづけます。「救い主イエスがこの世に降りて来られたのは、罪人を救うため」「ご自分の民を罪から救うため」(テモテ手紙(1)1:15,マタイ1:21)でした。罪のゆるしは、罪あるままに「いいよ。いいよ」と放置することではなく、罪の奴隷状態からの解放です。言い換えると、『神との和解』です。神に背を向けて生きていたものが、ふたたび神との親しい交わりのうちへと立ち戻り、御心にかなった歩みをしたいと願い求めながら生き始めること。(1)ローマ手紙5:5-11。救い主イエスの十字架の死による神の愛を受け取ること。しかもその愛は、「私たちが不信仰で、弱く、罪深く、神に敵対していたときに示され、差し出されていた」と証言されます。そのように神と和解させていただいた今は、神を誇りとしていると。(2)またコリント手紙(2)5:17-21は、驚くべきことに、神と和解しているはずの私たちクリスチャンに向かって、「あなたがたこそが神と和解させていただきなさい」と強く勧めます。ですから、自分の心と日々のあり方とをつくづくと振り返って熟慮することが要されます。

     (3)59節「最後の1レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」。マタイ18:34も同様に、「主人(=神)は立腹して、負債全部を返してしまうまでと彼を牢吏に引き渡した」。この容赦ないきびしい宣告こそが、神が愛であることと表裏一体です。神に対する負債(=罪)の支払いは、人間にはとうていできません。神ご自身が罪の負債を全額支払ってくださるほかなかったのです。それで、上記のコリント手紙(2)5:19「神はキリストにおいて世をご自分と和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで~」と。罪過の責任の一切を、ただただ救い主イエスが背負ってくださった。だからゆるされ、救われている。この一点の神の真実をこそ魂に刻まねばなりません。