2022年3月28日月曜日

3/20「彼らを許してください」ルカ23:32-38

    みことば/2022,3,20(受難節第3主日の礼拝)  363

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:32-38         日本キリスト教会 上田教会

『彼らを許してください』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:32 さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。33 されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。35 民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。36 兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、37 「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。 ルカ福音書 23:32-38

 

7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。……18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。7:20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 (ローマ手紙 7:15-24)

34節に目を向けてください。神の独り子である救い主イエス・キリストが十字架につけられ、この方は半日以上かけて殺されていきます。その苦しみと痛みの只中にあって、こう叫ばれます。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」。

人々は丘の上へと主イエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせました。ほかにも2人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために引かれて行きました。されこうべと呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけました。犯罪人も、1人は右に1人は左に並べて、十字架につけました。そのとき、イエスは言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」。民衆は立って見つめていました。役人たちも、あざ笑って言いました。「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。ローマ人の兵士たちもイエスに近寄り、侮辱して言いました。「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてありました。十字架にかけられていた犯罪人の1人が、イエスをののしりました。「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」。

十字架の上に、この方に対する人々の憎しみとあざけりが極まるとき、それは同時に、神さまをさえ憎んで退けてしまう私たち人間への、神さまからの愛と憐れみが極まるときでもありました。「父よ、彼らをおゆるしください」。いいえ。むしろ、神さまに逆らってばかりいる、その彼らをゆるすために、ゆるして神の子供たちとして迎え入れるために、救い主イエスの十字架の死があり、神さまの側で高い代償が支払われました。その罪はあまりに深く、他のどんな代価によっても贖いえず、神の独り子の生命の重さに匹敵しました。独り子の生命によって贖われねばならないほどの罪深さ。それを根深く抱えもった彼らとは、いったい何者なのでしょう。どこの、誰のことを、言っているのでしょう。

なぜ、聖書の神さまを信じる者たちが『クリスチャン』と呼ばれ、その人間集団が『キリストの教会』と呼ばれるのか。礼拝の度毎に、嫌になるほどクドクドしく、「あの十字架。十字架の主。主イエスはそこでご自分の体を引き裂かれ、血を流し尽くした」としつこく語られつづけるのか。なぜ、建物の屋根の上には、ひときわ高く十字架が掲げられているのか。それは、ただの飾りではありません。教会の外から見て分かるための目印というだけでもありません。現にここにいる、この私たち自身のための目印です。主イエスの十字架のもとに、ここに、私たちは立っています。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分からずにいるのですから」と神の独り子は叫びました。その叫びもろともに、ご自分の肉体を引き裂きました。尊い血潮を流し尽くしました。死んで葬られました。3日目に墓から蘇らされました。復活の姿を女性たちや弟子たちの前に現し、500人以上の兄弟たちに現れ、天に昇り、今も私たちのために生きて働いておられ、やがて再び来られます。それらひと続きの出来事をもって、私たち罪人を神さまの憐れみのもとへと招き入れ、天の御父からのゆるしを私たちのものとしてくださいました。私たちはそのようにして、『ゆるされた罪人』として、ここに立っております。

1人のクリスチャンは、私たちは、救い主イエスの生命と引き換えにゆるされた罪人として、主のもとに立っています。ゆるされて、なお罪人である者同士として、互いに真向かっています。「彼らをおゆるしください」というあの叫びは、ここにいるこの私たちの救いのためでした。あの引き裂かれた体は、あの、頭からも手のひらからも足からも脇腹からもしたたり落ちた赤い血潮は、私たちの罪のゆるしのためでした。この私は、そのようにして『ゆるされた罪人』です。ただ、『ゆるされて、なお罪人でありつづける者たち』こそが主イエスのもとに立っています。主イエスのゆるしのもとに留まっています。「いいえ、私はあの十字架とは何の関係もない。たとえごくわずかに罪や落ち度があったとしても、私自身によってか他の何かの手段によって十分に埋め合わせをしている。しかも警察に捕まったことも留置所に入れられたこともない。ちゃんと立派にやっているし、なんのやましいところもない私だ」という人は、ここに留まることができません。この、ゆるしを受けつつ生きる恵みの領域には。

「あなたの罪深さ。あなたの罪」と、礼拝ではしつこく語られます。正直なところ、ウンザリしてしまいます。愉快なことや気分が晴れ晴れするような慰めを聞きたいと思ってわざわざ来てみたのに、「あなたの罪深さ、かたくなさ、傲慢さ。あなたの貧しさ、身勝手さ」と語られない日はありません。「あなたの罪深さ。そのあなたのための、神さまからの一方的な無条件のゆるし。ゆるされて、なお罪人でありつづけるあなたであり、私たち」と、1人の伝道者は30年も40年も語りつづけます。やがてその彼が退いた後、次の働き人もまた、「あなたの罪深さ。そのあなたのための、神さまからの一方的な無条件のゆるし。ゆるされて、なお罪人でありつづけるあなたであり、私たち」と。その次の働き人も次の働き人も。キリストのもとに立つ伝道者たちは、ひたすらにこの1点を語りつづけます。ゆるされて、なお罪人でありつづける私たちと。なぜなら、手放しの大きなゆるしを受け取った者こそが、他の人たちを心底からゆるし、なごみ、温かく迎え入れ、仲直りする者とされるからです。けれどもキリストの教会は、私たちクリスチャンは、ゆるされた罪人であるという自覚を実にしばしば見失い、罪に罪を重ねてきました。キリスト教会の傲慢。私たちクリスチャン自身の思い上がり。この2000年の歴史は、あの『放蕩息子の兄』の歴史でもありました。迎え入れられた1人の小さな罪人の幸いをいっしょに喜ぶことができず、おびただしい数の正しい兄たちは家の外で腹を立て、かたくなに拒んでいました(ルカ福音書15:28参照)。「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました。あの1人が喜ぶなら私は喜べない。あの1人が迎え入れられるなら、私は出ていく。私かあの弟か、どちらを選ぶのか」と父に詰め寄った歴史でした。もし、ふさわしく正しいクリスチャンこそがここにいるべきであり、ふさわしく正しい伝道者こそがこの説教壇に立つべきだと言うならば、この私は、ここには到底立つことができません。自分自身を顧みて、恥じ入ることばかりです。しばしば乱暴で軽率な言葉を発し、うっかりして人を苦しめることもたくさん重ねてきました。ぜひとも守ってあげるべきところで怖気づいていました。断固として語るべき言葉を、しかし口に出せず飲み込みました。知りながら、また知らずに、兄弟を傷つけました。1人の夫としても、また子供たちの親としても、申し訳ない振る舞いを重ねました。神さまの御前にも、みなさんの前でも、とうてい立ち得ない私です。もし、ゆるしが神さまのもとにないならば、決してゆるされないはずのことを何度も何度も何度もゆるされてきたのではないならば、この私は、ここにはいないはずの人間です。「罪深い私です。小さな貧しい私です」と口先ではスラスラ祈りながら、その自分に対してどんなに神さまが恵み深くあってくださったのかを、いつの間にか、すっかり棚上げしている私です。神さまが生きて働いておられることも、その神さまが私の目の前におられますことも、しばしばすっかり忘れ果てている私です。「自分が何をしているのか分からずにいる」という主イエスご自身の、私たちに対する深い洞察は、やがて主の弟子の1人によって鏡のように照り返されます;「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。……もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ手紙7:15-24)。自分のしていることが分からない。罪の法則のとりこにされている。私はなんと惨めな人間なのか――人間というものがことごとくそういう存在であり、いや、澄ました顔をして座っているこの私たちも、この私自身さえ例外ではないと告げられます。「あんなことを言ってしまった」「あのとき、なぜ、あんなことをしてしまったのか分からない」。そして、後になって我に返るように、自分の傲慢さや惨めさ、かたくなさ、私という存在の悲惨さに気づかされます。あなたも、「主よ、ゆるしてください」と呼ばわりなさい。憐れみを受け取ってきたことを「あのときもあのときも」と数え上げながら、「主よ、この私を憐れんでください」と呼ばわりなさい。十字架の死と復活の主イエスはなおも、「父よ、この人をゆるしてください」と、そのあなたのためにも呼ばわるからです。主イエスご自身のゆるしと憐れみが、やがてあなたにも手渡され、しっかりと受け取られ、そのあなたの魂の隅々へと深く色濃く染み渡るまで。

 父よ、この人をゆるしてください。この人は、自分が何をしているのか知らないのです。だからこそ、ゆるしてください。ゆるされた罪人として、がんじがらめに縛りつけていたモノから解き放たれて、晴れ晴れと生きることができるようにさせてください。















「磔刑」グリューネヴァルト絵

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 Ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

3/20こども説教「祝福してくださるまでは」創世記32:23-32

3/20 こども説教 創世記 32:23-32

 『祝福してくださるまでは』

 

32:23 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。25 ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。26 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。27 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。29 ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。30 そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。31 こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。32 そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。                                  

(創世記 32:23-32

 

 

  【こども説教】

 ヤコブは、父が兄エサウに与えようとした神からの祝福を横取りして、自分のものとしました。兄エサウにとても憎まれて夜逃げをして出ていきました。それから20年たって、兄エサウが待つ故郷に戻ってきました。ヤコブはとても心細くなり、怖くなりました。兄エサウのことを恐れたのかも知れません。あるいは、何か恐ろしいことが起こるかも知れないと、なんとなく何かを恐れたのかも知れません。しかも、石を枕にして眠ったあの夜、彼はとうとう神を信じはじめたのですし、神ご自身からの御言葉と、神の祝福を、はっきりと受け取っています。もし神を十分に信じているなら、エサウであれ、どこの誰であれ、誰をも恐れる必要もありません。何が起こっても大丈夫です。 

 ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。人間のふりをして、神ご自身がヤコブと夜通し、つかみ合いの闘いをします。26節、ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。神からの祝福がどうしても欲しい、とヤコブは願いました。もし、すでに与えられていた神からの祝福を失ってしまうなら、自分は生きていけないと心から思いました。何があっても神からの祝福を掴んでいたい。神にしがみつくようにして、「祝福してください。祝福を、祝福を」と神にこそ求め続けています。そのように生きることができるなら、その人は幸いです。

 

 

 【大人のための留意点】

 イスラエルの民の中から、やがてあのお方が登場して来られました。本当の意味で神と格闘なさったお方、まことの『イスラエル』として、ゲッセマネにおいて、夜、神と格闘なさったお方が。そのお方は十字架上の戦いを忍ばれました。そして、勝利なさいました。世のために勝利なさいました。われわれのために勝利なさいました。次いで、そのお方は、ご自身の全権を託した者たちを派遣なさいました。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、彼らにバプテスマ(洗礼)を施せ」(マタイ福音書 28:19

ご自身のイスラエルとして、そのお方は弟子たちを諸国民のもとにお遣わしになります。いまや我々は、ひとりの、神との格闘者イエス・キリストを信ずる信仰によって、神との格闘者であるのです。この独りのお方は悪魔と力を競われました。そして、勝利なさいました。このお方は死と対決なさいました。そして勝利なさいました。……けれども、キリストが世の救いのために戦って勝利をおさめられたということは、決して、我々が手をこまねいていてよいということを意味しません。キリストの勝利を信ずる信仰によって、我々はイスラエルとなるべく、すなわち神との格闘者となるべく召されているのです(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3/27「主と共に楽園にいる」ルカ23:39-43

みことば/2022,3,27(受難節第4主日の礼拝)       364

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:39-43             日本キリスト教会 上田教会

『主と共に楽園にいる』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。       ルカ福音書 23:39-43


15:14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。15 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 (1コリント手紙 15:14-20)


40-43節、「もうひとりは、それをたしなめて言った、『おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」。罪人を憐れんで救う神さまです。恵みを受けるに値しない、ふさわしくない罪人をけれどなお迎え入れて、ご自分の子供としてくださる神さまです。聖書がはっきりと証言しているとおりに、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった」(テモテ手紙(1)1:15)。ただもっぱらそのためにだけ世に来られた、と言っていいでしょう。これが、信仰理解の基本中の基本です。救い主がその目的通りに罪人を救い、迎え入れる姿がここに報告されています。目を凝らしましょう。2人の犯罪者が十字架の主イエスのすぐ傍らにいました。主の右側と左側から。彼らは、主イエスが半日以上かけてジワジワ殺されてゆく姿を目撃しました。そこで起きた出来事のすべて一切を見聞きしました。2人の犯罪者は共々に、間もなく死んでゆこうとしている者たちです。主イエスと同じく、2人共々に、体を貫く激しい痛みと苦しみに悩まされつづけてもいました。2人共々に、はなはだしく悪い罪人たちであり、救われるためには共々に、神さまからの憐れみと罪のゆるしを必要としていました。その1人は、神さまの憐れみを信じられないままに死んで行きました。もう1人は、神のもとへと立ち返り、神さまの憐れみを信じ、救われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と主イエスは約束し、その約束通りにあの1人の彼は楽園に迎え入れられました。

ある人々は神さまへと立ち返り、また別の人々は自分自身の罪深さの只中になお留まりつづける。それは、どういうことでしょう。また例えば、同じ1つの礼拝説教を聞いて、ある人々はほとんど何も受け取ることができず、まるで何事もなかったかのように家に帰ってゆく。また別の人々は、心に痛みを覚えて祈り求め、救いを求めて主イエスに向かって呼ばわりはじめます。それは、一体どういうことでしょうか。主イエスの福音は、ある人々の目から隠されつづけ、別の人々には現され、差し出されつづけます。なぜなのか、私たちはよく分かりません。ただ私たちの目と耳と心は、そういうふうに出来ているようです。開かれたり塞がれたり、隠されたり現されたり、素直にされたり、かたくなに頑固にさせられたり。ですから主イエスは、「耳のある者は聞くがよい」と度々おっしゃいました。およそ誰でも耳をもち、だいたいは聞き取る力ももっていると十分に分かった上で、「耳のある者は聞くがよい」と。私たちの耳も目も、心も、開かれたり塞がれたりしたからです。心が開かれたり、閉ざされて鈍くされたりもしたからです。神さまの言葉を聞こうとする度毎に、ですから私たちは祈り求めました。「神さまどうぞ、私たちの耳を開いてあなたの御言葉を聞き分けさせてください。私たちの目を開いて、あなたが生きて働いておられます神の現実が見えるようにしてください。私たちの心を開いて、主イエスの福音の真理を聞き分け、腹に据えることができるようにしてください」と。

あの最低最悪の犯罪者は、ここで悔い改めています。目も心も在り方も、180度グルリと神へと向け返しています。心に痛みをおぼえながら神さまのもとへと立ち返り、そこで救いを受け取っています。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」ともう1人の犯罪者をたしなめています。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と自分自身の罪深さを自覚し、つくづくと実感しています。「しかし、この方は何も悪いことをしていない」と、主イエスが無罪であること、けれどなお十字架にかけられていることに目を凝らしています。この犯罪者は、救い主イエスには彼を救う力があると信じ、また、救ってくださろうと決断しておられることも信じています。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と1人の犯罪者は主イエスに向けて呼ばわります。「私を思い出してください」。救い主イエスにこそ願いをかけながら、謙遜なとても低い心と、主イエスへの十分な信頼を与えられています。「思い出してください」。願い求めているのは、ただこれだけのことです。救い主イエスがこの私を思い出してくださるなら、それで、もう十分であると。もちろん神さまはこの1人の犯罪者のこともあなたのことも、ほんの片時も忘れません。むしろ神さまをすっかり忘れて、しばしば思い起こしもしなくなるのは、いつも私たち人間のほうでした。たとえ死の床にあってもなお、そこでこの私自身もまた、「主イエスと共にいる。主イエスこそ、私と家族を救ってくださる。確かにそうだ」と思い起こすことができるなら、それで十分です。

「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスに、楽園にいる」と救い主イエスは言われました。あの最低最悪の犯罪人のためにも言われましたが、それだけでなく、主イエスを信じるすべての者たちのためにもこう約束してくださいました。あなたは、これを信じますか。問われていたのは、そのことです。こう証言されています;「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。……もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」(コリント手紙(1)15:14-20)。もし、救い主イエスと私たち自身の死と復活を信じ、受け入れ、待ち望むことさえできるならば、私たちはつかの間に過ぎ行くほんの短い人生を、様々な浮き沈みを、喜びと感謝をもって安らかに受け入れることもできます。「それでは、この私はどうやって生きてゆくことができるだろうか。していいこととしてはいけないことは何だろうか」と、今までとはまったく違う新しい判断と心得を受け取って、晴れ晴れとして生きることもできるでしょう。私たちはクリスチャンです。目の前の、「ああでもないこいうでもない」と指図したり注文をつけるその人は、あなたの主人ではありません。なぜなら天に、私たちのただお独りの主人がおられるからです(コロサイ手紙3:18-4:1)

 

さて、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と主イエスは十字架の上で呼ばわりました。マタイ福音書とマルコ福音書は、主イエスのこの言葉を記録しました。けれど残り2つの福音書(ルカ、ヨハネ)は、これを省きました。この発言こそは大きな謎であり、教会の中にとまどいや混乱を呼び起こしもしたからです。今なお、十字架上の主イエスのこの言葉の前に、私たちは、頭を抱えて立ちつくします。いったいどういうことだろうか。ある人たちは、「その通りだ」と言います。救い主イエスは、神からも見捨てられた。そして、「なぜ見捨てたのか」と苦しみと絶望を叫びかけているのだと。別の者たちは、「いいや。もちろん神が救い主を見捨てるはずがない。けれど、苦しみと痛みのあまりに、イエスご自身は自分は神から見捨てられた、と思った。勘違いして、うっかり早合点して。そして嘆きと絶望の叫びをあげた」と。――ぼくは引っかかります。とても苦しんだ。確かに。だからすっかり絶望した? 「私は見捨てられたけど、その代わりにあなたがたは見捨てられないらしい。多分、大丈夫そうだと思うから安心しなさい」などと、絶望して心挫けた者がどうして私たちの救いを約束したり保証したりできるでしょうか。「父よ彼らをおゆるしください」も「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」も、「成し遂げられた」「私の魂を御手にゆだねます」も十字架上のどの1つの発言も、すると苦し紛れの戯言となり、話半分に聞き流さなければならない。もし仮に、救い主イエスに必要なだけ十分に信頼することができなくなったら、キリストの教会は、一体どこへ行くでしょう。もし仮に主イエスを信じられなくなったら、その1人のクリスチャンは毎日の暮らしをどんなふうに生きてゆくでしょう。思い思いに、それぞれの判断で、互いに顔色や空気を読み合いながら、浮いたり沈んだり上がったり下がったりしながら暮らしてゆくでしょう。いいえ。決してそうであってはなりません。このお独りの方は試練を受けて苦しむ罪人を救うことがおできになる。しかも他の誰によっても救いは得られません。十字架につけられて殺され、死者の中から復活させられた救い主イエス・キリスト。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか人間には与えられていないのです(ヘブライ手紙2-14-18,使徒4:10-12)。十字架の上でも、前夜のゲッセマネでの祈りの最中にも、その前にも、ほんの片時も、御父への主イエスの信頼は揺らぎませんでした。「父よ彼らをおゆるしください」と仰った。そのゆるしを成し遂げてくださった。「私の魂を御手にゆだねます」と仰ったし、だからこそ、この私たちも自分自身の魂も何もかも、すっかり丸ごと、父の御手にゆだねることができます。安心して、晴れ晴れして。「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」。そのとおりです。

教えられ続けてきたことを、この私たちは、思い起こしつづけましょう。

 

【お知らせ】

 

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②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
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3/27こども説教「ヤコブと兄の仲直り」創世記33:1‐20

3/27 こども説教 創世記 33:1-20

 ヤコブと兄の仲直り

 

33:9 エサウは言った、「弟よ、わたしはじゅうぶんもっている。あなたの物はあなたのものにしなさい」。10 ヤコブは言った、「いいえ、もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか、わたしの手から贈り物を受けてください。あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。11 どうかわたしが持ってきた贈り物を受けてください。神がわたしを恵まれたので、わたしはじゅうぶんもっていますから」。こうして彼がしいたので、彼は受け取った。12 そしてエサウは言った、「さあ、立って行こう。わたしが先に行く」。13 ヤコブは彼に言った、「ごぞんじのように、子供たちは、かよわく、また乳を飲ませている羊や牛をわたしが世話をしています。もし一日でも歩かせ過ぎたら群れはみな死んでしまいます。14 わが主よ、どうか、しもべの先においでください。わたしはわたしの前にいる家畜と子供たちの歩みに合わせて、ゆっくり歩いて行き、セイルでわが主と一緒になりましょう」。……18 こうしてヤコブはパダンアラムからきて、無事カナンの地のシケムの町に着き、町の前に宿営した。19 彼は天幕を張った野の一部をシケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取り、20 そこに祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。                (創世記 33:1-20

 

 

  【こども説教】

 20年もの長いときを隔てて、互いに憎んだり恐れたりしあっていた兄弟がとうとう仲直りをします。それはとても難しいことでした。けれども、恐れと疑いを少しずつ拭い去って、この仲直りを神さまが成し遂げてくださいました。はじめの1-3節の様子には、兄エサウに対する弟ヤコブの恐れと疑いがはっきりと現れています。兄エサウと400人もの部下たちが待ち構えています。エサウもヤコブも、20年ぶりに会う兄弟が、いったいどんな気持ちで、何を考えているのか、よく分かりません。もしかしたら、ここで、このまま兄に殺されてしまうかも知れないと思ったかも知れません。兄の方へ向かう家族の行列の先頭にヤコブは自分自身が立って進みます。けれどもその次には、主人に仕えるふたりの女性たちとその子供たち、次にレアとその子供たちを、彼が最も愛したラケルとヨセフを最後に置いて進みます。もしもの時には、ラケルとヨセフが逃げ延びるようにと。また、途中で7回ヤコブがエサウにおじぎをしているのは、主人に仕えるしもべの作法です。4節で、「兄が走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた」とき、ようやく2人は疑いと恐れを取り除かれて、心から仲直りをすることができました。神さまが、2人の心をなだめてくださったのです。2人は互いに、「自分は十分に持っている」と言います。神の恵みによって、十分に豊かにされてきた私たちだと。

 20節、ヤコブは「祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた」。「神はイスラエルの神」という意味です。神によって憐みを知らされた者たちは、互いに顔を向け合って生きる者たちとされます。憐み深い神からの贈り物です。

 

 

  【大人のための留意点】

 愛する兄弟姉妹よ。われわれがキリストのうちに御父の御顔を仰ぐことをゆるされたからには、神はわれわれに対して、今度はわれわれが兄弟の顔を見ることを期待なさいます。御父との和解がもしもまことであるならば、その和解は次には兄弟との和解となって結果するはずです。……われわれがその生涯において出会うかぎりの人々の顔を思い巡らしてみるならば、おそらくは、その中にはもはやお目にかかりたいとは思わず、もはや二度と会いたいとは願わない幾つかの顔が思い出されてくるでありましょう。そして、それと同じようなことを、他の人々がわれわれの顔についても経験するかも知れないのです。われわれ自身の中に、密やかな、もしくは公然の敵意が忍び込み、定着してしまっているのです。けれども神は、キリストの憐れみのゆえに恵みをもってわれわれを見てくださる神は、今、われわれに期待なさるのです。われわれがふたたび兄弟たちに対して顔を向けるようになることを(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

2022年3月15日火曜日

3/13(改題)『十字架を無理に担がせられたクレネ人シモン』ルカ23:26-31

      みことば/2022,3,13(受難節第2主日の礼拝)  362

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:26-31            日本キリスト教会 上田教会

(改題)『十字架を無理に担がせられたクレネ人シモン』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:26 彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。27 大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。28 イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。29 『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。30 そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。31 もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。ルカ福音書 23:26-31

 

9:22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」。   ルカ福音書 9:22-25

 

2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。(エペソ 2:1-3)

救い主イエスは不法な裁きを受け、十字架につけられて殺されることになりました。祭司長と律法学者たちと、大勢の群衆がそれを望み、ローマ総督ポンテオ・ピラトがこの判決を決めました。しかも、なによりも神ご自身の救いのご計画の中で、このことはあらかじめ、神ご自身によって定められていました。恵みに価しない罪人と、この世界と、神によって造られたすべての生き物たちを神の祝福のもとへと連れ戻すためにです。十字架をイエスに代わって無理に担がせられたシモンについては、最後に触れます。

27-31節、「大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」」。十字架の死が待ち受ける丘へ向かって歩んでいく救い主イエスのために泣く女性たちに向かって、主イエスは、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と語りかけます。終わりの日の前に、苦しみと悩みの時が用意されています。小さな子供をもつ母親は、その子供たちに、毎日の食事や飲み物や衣服や住居、いのちの安全、幸いな日々を十分には与えてやれず、子供たちと自分自身のために嘆き悲しみ、激しく涙するときが来る。母親がそうであれば、もちろん家族皆が共々に嘆き悲しみます。この教会でも、ウクライナ支援のために募金を募りはじめました。ウクライナ、ミャンマー、アフリカ、アジア、中東のいくつもの地域で、はなはだしい苦難が人々を襲っています。男も女も、若者も、年配の方々も小さな子供たちも、いのちの危険にもさらされつづけています。救い主イエスが十字架にかけられて殺されるその50年後に、エルサレムの都はローマ帝国軍に包囲され、きびしく攻め立てられ、都の狭い城壁の中に籠城する人々は、食べ物にも不自由し、飢えと疫病にもさいなまれて、大勢の人々が無残な死を遂げました。旧約時代にもバビロン帝国に攻め立てられ、1年半の籠城の末に都が落とされるまで、同じようなことが起こりました。

この私たちにも、苦しみと悩みの日々が来ようとしています。

しかもなお、救い主イエスのもとには憐みがあります。ゆるしと、慈しみがあります。「主に感謝せよ。その慈しみはとこしえに絶えることがない」(詩136:5と語られるとおりです。しかもなお、心を頑なにしつづけて悔い改めることをしない者たちには、神ご自身による裁きが用意されています。よこしまでありつづけ、心を頑固にしつづける者たちには、神の怒りが及びます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28と招く救い主イエスは、同時に、「もし悔い改めなければ、その人は滅びるほかない」(ルカ13:1とはっきりと語りかけつづけます。クリスチャンも同様です。だからこそ日毎に悔い改め、終わりの日に備えながら、救い主イエスが来られる日を待ち望みつづけます。

 

さて26節、「彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた」。このクレネ人シモンについて、マルコ福音書は「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた」15:21と報告しています。彼の子供たち、アレキサンデルとルポスとは、初代教会の中でその名前をよく知られる、主に仕える良い働き人たちとされました(ローマ16:13「主にあって選ばれた人ルポスと、彼の母とに、よろしく」参照)。しかも、このとき以前には、このシモンという人物と救い主イエスは何の関りもなかったようです。たまたま偶然のようにして彼は通りかかり、救い主イエスが背負っていた十字架を代わりに、無理に担がせられた。やがて、不思議な仕方で、私たちの思いも及ばない在り方で、彼の家族は救い主イエスを信じて生きる者たちとされました。クレネ人シモンは、この時以来、考え巡らせつづけたでしょう。なぜ、この自分が救い主イエスの十字架を代わって無理に担がせられたのだろうか。救い主イエスというお方は、どういう方だろうか。

十字架を無理に担がせられたクレネ人シモンは、十字架を担いで、主イエスの後につづいて歩いていきました。その姿は、弟子たちが何度も主イエスご自身から教えられ、諭されつづけてきた、主イエスの弟子であることとその根本的な生き方の典型的な姿でした。エルサレムの都に向かう旅時の途上で、救い主イエスはやがて待ち構えているご自身の十字架の死と復活とを弟子たちにあらかじめ告げ知らせて、この語りかけていました。「人の子(=主イエスご自身)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか(ルカ9:22-25。クリスチャンである。あるいは、主イエスの弟子であり、主イエスを信じて生きる者であるとは、このことです。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。自分に与えられた苦しみや担うべき重い荷物を、自分のための十字架を背負い、その上で、主イエスの後から、主イエスにつづいて歩んでゆくこと。そのためには、「自分を捨てて」と主イエスから直々に指図されています。捨て去るべき自分とは、自分の肉の欲望であり、かたくなさであり、自分中心の傲慢な思いです。自分を先立てつづけて、自分自身の思い通りに振舞おうとするわがままさです。

つい先週、礼拝の中の『こども説教』で、年老いたイサクが子供に神からの祝福を手渡そうとする出来事を読み味わいました。創世記27章です。父親イサクは年老いて、目もかすみ、やがて間もなく自分が死んでしまうことを悟ります。その前に、手遅れになる前に、神から受け取った祝福を子供に手渡したいと願いました。双子の兄弟エサウとヤコブが母親の胎内にいるときから、神の御使いによって、「兄は弟に仕える」(創世記25:22とはっきりと告げられていました。それが、彼らのための神の御心であり、ご意志です。けれど年老いたイサクは弟ヤコブではなく、兄エサウに神からの祝福を手渡したいと願いました。母親と弟ヤコブがその祝福を横取りする以前に、むしろ父親イサクこそが神からの、神ご自身のものである祝福を、神の御心に背いてまで横取りしようとしていたのです。一人の説教者は、「それはイサクの弱さである」と、きびしく指摘していました。「祝福を担う後継者という問題において、彼イサクは、あえて別の考えをもとうとするのです。神とは別の考えを。不思議です、本当に不思議です。そこでは何と緊密に、従順と不従順とが隣り合っていることでしょう。誰でも信仰者の生活には、一つや二つ、あるいはそれ以上の、「イサクの弱点」があるのではないでしょうか。自分の恣意(しい。その時々の思いつき。思いのままの考えや願い)のために神の御意志と張り合ってしまうという弱点が。神の御意志を排除しようとする我々の恣意は、どんな場合に働くのでしょうか。……事実上、リベカの策略は、いかにも神の祝福の担い手が思いつきそうな最大の悪行、つまり託された祝福を横領すると言う悪行から、その夫(息子たちの父イサク)を保護するという結果をもたらしているのです。最高の次元においての職権乱用から、です。リベカの罪は、神によって、イサクの救い、ひいては諸国民の救いに役立てられています(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

『イサクの弱さ』を、もちろん、この私たちもそれぞれ自分の心に根深く抱えています。弱さ。いいえ、むしろ強すぎる傲慢さであり、自分を正しいと言い張って、思い通りに振舞おうとする心。強すぎる自己主張です。自分の思いのままの欲望や願いのために神の御意志とさえ張り合ってしまうという弱点が。神の御意志を排除しようとする我々の自己中心の思いは、どんな場合に、どのように働くでしょう。神の御心に従って生きるはずの父親イサクは、その生涯の最後の最後に、最大の悪行、最高の次元においての職権乱用を犯してしまうところでした。リベカとヤコブを用いて、憐み深い神ご自身が、父親イサクをその不信仰と不従順の罪から救い出して、神の御心にこそ聴き従って生きる幸いへと連れ戻してくださいました。

エサウとヤコブの父親イサク。そして主イエスのあの最初の弟子たち、さらにクレネ人シモンと同じく、この私たちも通りかかって救い主イエスと出会いました。その出会いを積み重ねてきました。救い主イエスを信じる信仰を、少しずつ増し加えられてきました。私たちも格別な祝福の招きを聴いたのです、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」。祈りましょう。

 

《祈り》

なんでもおできになる全能の神さま。どうか、あなたの慈しみと福音の光が見える目を私たちにください。私たちは明るい日の日中でも目がよく見えないからです。「自分はよく見える。よく見える」と虚しく言い張ってしまう私たちだからです。偽りの光を捨て去らせて、あなたご自身の御言葉の光にこそ、私たちを導いてください。

 この世界に生きるすべての生き物を顧みて、憐れんでください。身を屈めさせられ、心細く貧しく暮らすものたちが大勢いるからです。食べるもの着るものにも不自由し、安心して体を休める場所も与えられない人や生き物もたくさんいるからです。

あなたのお顔に、この顔でお目にかかるその日まで、今あなたから贈り与えられています知識と、有り余るほどの恵みに、慎ましく満足していられますように。私たちを、あなたの似姿に合わせて、日毎に新しくお造りください。そして、私たちの主イエス・キリストにあなたがお授けになった完全な栄光に、この私たち自身と大切な家族の一人一人と隣人たちをも入らせてください。主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン

 

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 Ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

3/13こども説教「べテルでの夢」創世記28:10-22

 3/13 こども説教 創世記 28:10-22

 『べテルでの夢』

 

 28:10 さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、11 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。13 そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。14 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。……20 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。22 またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。  

(創世記 28:10-22

 

 【こども説教】

 祝福をだまし取ったことで兄エサウからひどく憎まれ、弟ヤコブは夜逃げをします。人里離れた誰もいない山奥で、彼は石を枕に眠ります。夢を見ました。13-15節、「そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。……わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。神がヤコブに向かって自己紹介をしています。わたしは、あなたのおじいさんアブラハムのための神であるし、あなたの父さんイサクのための神でもある。つまり、あなたのおじいさんお父さんのためには神として、彼らの行く道を守り、必要なものを与え、いのちと生活を守り、支えとおしてきた。けれどまだ、あなたは私を信じていない。だからまだ、あなたの神ではない。

その通りです。わたしのお父さんお母さん、おじいちゃんの神であり、彼らもその神を信じて生きてきたことは知っている。けれど、この自分自身は、今までは神のことを何とも思っていなかった。この自分はどうしよう。この神をわたしの神として、神に信頼を寄せ、神を信じて、聴き従って生きていこうか。ここで、ヤコブはとうとう神を信じて生きていこう、ぜひそうしたいと決めました。20-21節、「ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう」。収入の10分の1をささげます。神に仕えるすべての働きも献金も、みな感謝のささげものです。こうして、神を信じて生きる一人の人が誕生しました。

 

 

 【大人のための留意点】

 ヤコブの誓約20-22節)に関してですが、いったい、われわれもまた礼拝への参加ということに何らかの効果を期待しているのではありませんか。少しばかり身心の姿勢がただされ、少しばかりより一層の確信と熱意をもって神に従い、少しばかり喜びと感激をもって御心を行なえるようになる、というような効果を。でも今、われわれは少しばかり喜びをかみしめようではありませんか。神が孤独な男を、つまり疲労以外に何もなく、石を枕にする以外に何もない孤独な男を、かくも尊い約束にあずからせてくださっているのですから。彼によって、つまり罪のゆえに逃亡者となった者によって地上のすべての国民が祝福されるとの約束は、われわれいと小さき者にも妥当するのです。われわれの日常の困難、結婚上の問題、家庭の問題、子供の養育上の心配。そうです、賄い(=まかない。食事を用意して食べさせること)つきの下宿の問題が、神の言葉によって大いなる約束の光の中へ移されているのですから。「わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行なうであろう」。アーメン(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

2022年3月7日月曜日

3/6「十字架につけろ」ルカ23:13-25

     みことば/2022,3,6(受難節第1主日の礼拝)  361

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:13-25        日本キリスト教会 上田教会

『十字架につけろ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:13 ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、14 「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。15 ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。16 だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。17 〔祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。〕18 ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。19 このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。20 ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。21 しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。22 ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。23 ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。24 ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。25 そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた。ルカ福音書 23:13-25

 

5:29 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。 (使徒行伝 5:29)


まず13-17節、「ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。〔祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた〕」。救い主イエスに対する裁判が始まっています。植民地とされたユダヤにローマ帝国から遣わされてきた役人ポンテオ・ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆に向かって言いました、「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていない」と。ユダヤの国の最高責任者の口から公けに、救い主イエスの無罪が宣言されました。私たちの主イエスは、私たちの罪をあがなう捧げものとして、差し出されました。神ご自身が計画した救いのご計画のためにです。

救い主イエスの取り調べをしたローマ総督ポンテオ・ピラトと植民地領主であるヘロデが、イエスについてまったく罪がなく、責められるべき汚点も何もないと公けに宣言したことは、まったく適切です。「この方こそが世の罪を取り除く神の小羊である」と洗礼者ヨハネが指し示し、後に、弟子の一人ペテロが、「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(ヨハネ福音書1:29,36,1ペテロ手紙1:18-19と証言した通りです。

「何の罪も咎もない」と公けに言い渡されたことを、ささいな、取るに足りない事柄のように思う人々もいるかも知れません。いいえ。決して、そうではありません。何の罪もない神ご自身が、救いに価しない私たち罪人のために、その身代わりとなって、罪人の一人に数えられ、不当な裁きを受けて、十字架の上で殺されてくださり、それによってこの私たちは自分自身の罪を洗い清められたのですから。私たち人間は、いったいどうやって自分自身の罪深さを知るでしょうか。その、はなはだしい罪深さの現実を。

胸に手を当てて、心を鎮めて、よくよく思い起こしてみます。毎日の暮らしの中で、私たちは自分自身が当然すべきことをしないでいます。してはいけない悪いことを、しつづけています。まったく正しいお方である救い主イエス・キリストが、私たちの代わりに私たち罪人の場所に立ってくださり、私たちが支払うべき罪の代価を支払ってくださいました。私たちが背きつづけた神の律法の一つ一つを私たちに代わって成し遂げてくださり、神の律法の要求をことごとく満たしてくださいました。救い主イエスこそが、このお独りの方を信じるすべての罪人のための義となり、聖となり、あがないとなってくださいました(ローマ手紙10:4,1コリント手紙1:31。このお独りの方において、彼を信じるすべてのクリスチャンは律法の要求をすべて成し遂げた者とみなされ、そのように取り扱われます。救い主イエスのうちに、聖なる神の眼差しは私たちを見てくださり、救い主イエスの義の衣をまとって、私たちは神の御前に立って生きる者たちとされました。ピラトがキリストについて宣言した通りに、キリストの中にあって私たち一人一人もまた、神ご自身から、「この人には何の咎も罪も見いだせない」と断言していただけるのです。

18-22節、「ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思いました。けれど祭司長たちと役人たちと大勢の民衆もわめきたてて、「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけました。ピラトは三度目に彼らにむかって言いました、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。

23-25節、「ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた」。ローマ総督ピラトは、イエスをゆるしてやりたいと思った。けれど集まった祭司長たちと役人たちと、大勢の群衆は「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」とわけきたて、ますます激しく強く叫びつづけた。人々が、救い主イエスの死刑についての責任を自分たちの頭の上に引き受けようとして、激しく言い立てつづけているということもできるでしょう。けれど、もちろん、ローマ総督ポンテオ・ピラトの責任もまたあまりにも明白です。弟子の一人ペテロが後に、こう証言しています、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」。また別の弟子も、「ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせなかった」(使徒3:13-15,1テサロニケ手紙2:15)と証言します。神を憎み、神に逆らいつづけようとする私たち人間の性分がどれほど深く激しいのかが証言されつづけます。救い主イエスの血潮が、神を侮り、神を憎む者たちの頭の上に注がれました。それは、あのときそこに集まった群衆たちだけでなく、もちろん、この私たち自身と子供たち孫たち、子孫たち全員の頭の上にも注がれます。「神に聞き従うよりも、人間たちの声に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してもらいたい」(使徒4:19参照)と、この私たち自身も問われつづけます。

驚くべきことには、あまりに罪深く、神を侮り、神を少しも信じようとしなかった人々の上に、けれどもなお神からの深い憐れみが残されつづけています。この私たち自身のことです。

 

なんの罪もなかった救い主イエスが十字架の上で殺され、その代わりに、死刑にされるはずだったバラバという名前の一人の囚人がゆるされ、自由の身とされました。驚くべき、いのちと自由の交換が憐み深い神ご自身によって成し遂げられました。憐み深い神の眼差しの中で、一人の罪人が「なんの罪も咎もない」と認められるとき、救い主イエスの立っていた輝かしい栄光の場所と、一人の罪人が立っていた惨めな低い場所とが取り替えられました。聖書ははっきりと証言します、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント手紙5:21。私たち一人一人も、殺されるはずだったあのバラバのように、罪をゆるされ、自由の身とされました。「キリストの十字架。キリストの十字架」と毎週のように語られつづけます。けれどその中身は、いったいどういうものでしょう。「救い主イエスが私に代わって死んでくださった」と多くの讃美歌は歌います。よく考えてみますと、それは言葉足らずで、とても説明不足です。キリストが私に代わって死んだ。それならまるで、だから私たちは死ななくてよいとされたかのようです。いいえ。もし、それだけなら、その恵みはずいぶん割り引かれ、安っぽくされている。救い主イエスは私たちの罪を背負って死んでくださった。その通り。けれど、その続きがあります。墓に葬られ、三日目に復活し、天に昇って今も生きて働いていてくださり、やがて再び来てくださる。それが成し遂げられた救いの御業の全体像です。さらには、あのお独りの方が死んで復活してくださったように、この私たち一人一人もまた、古い罪の自分と死に別れて、罪に支配された体と心のあり方を葬り去っていただいて、キリストと共に、新しい生命に生きることになった(ローマ手紙6:1-,コリント手紙(1)15:1-56)。それこそが、教えられてきた福音の最も大切な中身であり、いのちの部分です。つまり、『私に代わって』ではなく『私に先立って』です。この主イエスに手引きされ、導かれて、私たちもまた古い罪の自分や古いあり方と死に別れ、それらを葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きることになる。日毎に新しく生きる私たちです。だからこそ、何にも代えがたいほどにあまりに素晴らしい。もし仮に、私が今までどおりの古い自分でありつづけるなら、そこからはどんな希望も力も生命も湧いて出てくるはずがありません。「私に代わって死んでくださった」。その意味と中身は、「このお方が私に先立って死んで、死人の中からよみがえり、新しく生きてくださった。この方に率いられて私たちも、古い罪の自分と死に別れさせていただける。キリストと結ばれ、神に対して神さまの御前で新しく生きる者とされつづける。なぜならこのお独りの方は復活し、天に昇り、御父の右に座って今も世界を治める王として生きて働いておられ、やがて再び来てくださいますから。

 

《祈り》

いのちと平和の与え主であられる神さま。救い主イエスの死と復活を私たちは覚えつづけます。私たち罪人を罪と悲惨の中から救い出すために、救い主イエスが死んで復活なさいました。ですから、主イエスを信じる私たちも、日毎に悔い改め、いよいよ古い罪の自分と死に別れて、神の御前に新しく生きる者たちとならせてください。

ウクライナとミャンマーと、アフリカ、アジア、中東のいくいつもの紛争地域で、いのちの危険に脅かされて心細く生きる大勢の人々がいます。その人々のいのちと安全をお守りください。世界中で、この日本で、私たちの周囲でも多くの人々が互いに憎み合ったり、相手を押しのけて排除したり、傷つけたり殺し合ったりしています。虐げられ、身を屈めさせられて心細く暮らす人々を、どうか憐れんでください。この私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。

神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。

主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

 


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     金田聖治
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