2022年3月28日月曜日

3/27「主と共に楽園にいる」ルカ23:39-43

みことば/2022,3,27(受難節第4主日の礼拝)       364

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:39-43             日本キリスト教会 上田教会

『主と共に楽園にいる』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。       ルカ福音書 23:39-43


15:14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。15 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 (1コリント手紙 15:14-20)


40-43節、「もうひとりは、それをたしなめて言った、『おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」。罪人を憐れんで救う神さまです。恵みを受けるに値しない、ふさわしくない罪人をけれどなお迎え入れて、ご自分の子供としてくださる神さまです。聖書がはっきりと証言しているとおりに、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった」(テモテ手紙(1)1:15)。ただもっぱらそのためにだけ世に来られた、と言っていいでしょう。これが、信仰理解の基本中の基本です。救い主がその目的通りに罪人を救い、迎え入れる姿がここに報告されています。目を凝らしましょう。2人の犯罪者が十字架の主イエスのすぐ傍らにいました。主の右側と左側から。彼らは、主イエスが半日以上かけてジワジワ殺されてゆく姿を目撃しました。そこで起きた出来事のすべて一切を見聞きしました。2人の犯罪者は共々に、間もなく死んでゆこうとしている者たちです。主イエスと同じく、2人共々に、体を貫く激しい痛みと苦しみに悩まされつづけてもいました。2人共々に、はなはだしく悪い罪人たちであり、救われるためには共々に、神さまからの憐れみと罪のゆるしを必要としていました。その1人は、神さまの憐れみを信じられないままに死んで行きました。もう1人は、神のもとへと立ち返り、神さまの憐れみを信じ、救われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と主イエスは約束し、その約束通りにあの1人の彼は楽園に迎え入れられました。

ある人々は神さまへと立ち返り、また別の人々は自分自身の罪深さの只中になお留まりつづける。それは、どういうことでしょう。また例えば、同じ1つの礼拝説教を聞いて、ある人々はほとんど何も受け取ることができず、まるで何事もなかったかのように家に帰ってゆく。また別の人々は、心に痛みを覚えて祈り求め、救いを求めて主イエスに向かって呼ばわりはじめます。それは、一体どういうことでしょうか。主イエスの福音は、ある人々の目から隠されつづけ、別の人々には現され、差し出されつづけます。なぜなのか、私たちはよく分かりません。ただ私たちの目と耳と心は、そういうふうに出来ているようです。開かれたり塞がれたり、隠されたり現されたり、素直にされたり、かたくなに頑固にさせられたり。ですから主イエスは、「耳のある者は聞くがよい」と度々おっしゃいました。およそ誰でも耳をもち、だいたいは聞き取る力ももっていると十分に分かった上で、「耳のある者は聞くがよい」と。私たちの耳も目も、心も、開かれたり塞がれたりしたからです。心が開かれたり、閉ざされて鈍くされたりもしたからです。神さまの言葉を聞こうとする度毎に、ですから私たちは祈り求めました。「神さまどうぞ、私たちの耳を開いてあなたの御言葉を聞き分けさせてください。私たちの目を開いて、あなたが生きて働いておられます神の現実が見えるようにしてください。私たちの心を開いて、主イエスの福音の真理を聞き分け、腹に据えることができるようにしてください」と。

あの最低最悪の犯罪者は、ここで悔い改めています。目も心も在り方も、180度グルリと神へと向け返しています。心に痛みをおぼえながら神さまのもとへと立ち返り、そこで救いを受け取っています。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」ともう1人の犯罪者をたしなめています。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と自分自身の罪深さを自覚し、つくづくと実感しています。「しかし、この方は何も悪いことをしていない」と、主イエスが無罪であること、けれどなお十字架にかけられていることに目を凝らしています。この犯罪者は、救い主イエスには彼を救う力があると信じ、また、救ってくださろうと決断しておられることも信じています。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と1人の犯罪者は主イエスに向けて呼ばわります。「私を思い出してください」。救い主イエスにこそ願いをかけながら、謙遜なとても低い心と、主イエスへの十分な信頼を与えられています。「思い出してください」。願い求めているのは、ただこれだけのことです。救い主イエスがこの私を思い出してくださるなら、それで、もう十分であると。もちろん神さまはこの1人の犯罪者のこともあなたのことも、ほんの片時も忘れません。むしろ神さまをすっかり忘れて、しばしば思い起こしもしなくなるのは、いつも私たち人間のほうでした。たとえ死の床にあってもなお、そこでこの私自身もまた、「主イエスと共にいる。主イエスこそ、私と家族を救ってくださる。確かにそうだ」と思い起こすことができるなら、それで十分です。

「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスに、楽園にいる」と救い主イエスは言われました。あの最低最悪の犯罪人のためにも言われましたが、それだけでなく、主イエスを信じるすべての者たちのためにもこう約束してくださいました。あなたは、これを信じますか。問われていたのは、そのことです。こう証言されています;「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。……もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」(コリント手紙(1)15:14-20)。もし、救い主イエスと私たち自身の死と復活を信じ、受け入れ、待ち望むことさえできるならば、私たちはつかの間に過ぎ行くほんの短い人生を、様々な浮き沈みを、喜びと感謝をもって安らかに受け入れることもできます。「それでは、この私はどうやって生きてゆくことができるだろうか。していいこととしてはいけないことは何だろうか」と、今までとはまったく違う新しい判断と心得を受け取って、晴れ晴れとして生きることもできるでしょう。私たちはクリスチャンです。目の前の、「ああでもないこいうでもない」と指図したり注文をつけるその人は、あなたの主人ではありません。なぜなら天に、私たちのただお独りの主人がおられるからです(コロサイ手紙3:18-4:1)

 

さて、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と主イエスは十字架の上で呼ばわりました。マタイ福音書とマルコ福音書は、主イエスのこの言葉を記録しました。けれど残り2つの福音書(ルカ、ヨハネ)は、これを省きました。この発言こそは大きな謎であり、教会の中にとまどいや混乱を呼び起こしもしたからです。今なお、十字架上の主イエスのこの言葉の前に、私たちは、頭を抱えて立ちつくします。いったいどういうことだろうか。ある人たちは、「その通りだ」と言います。救い主イエスは、神からも見捨てられた。そして、「なぜ見捨てたのか」と苦しみと絶望を叫びかけているのだと。別の者たちは、「いいや。もちろん神が救い主を見捨てるはずがない。けれど、苦しみと痛みのあまりに、イエスご自身は自分は神から見捨てられた、と思った。勘違いして、うっかり早合点して。そして嘆きと絶望の叫びをあげた」と。――ぼくは引っかかります。とても苦しんだ。確かに。だからすっかり絶望した? 「私は見捨てられたけど、その代わりにあなたがたは見捨てられないらしい。多分、大丈夫そうだと思うから安心しなさい」などと、絶望して心挫けた者がどうして私たちの救いを約束したり保証したりできるでしょうか。「父よ彼らをおゆるしください」も「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」も、「成し遂げられた」「私の魂を御手にゆだねます」も十字架上のどの1つの発言も、すると苦し紛れの戯言となり、話半分に聞き流さなければならない。もし仮に、救い主イエスに必要なだけ十分に信頼することができなくなったら、キリストの教会は、一体どこへ行くでしょう。もし仮に主イエスを信じられなくなったら、その1人のクリスチャンは毎日の暮らしをどんなふうに生きてゆくでしょう。思い思いに、それぞれの判断で、互いに顔色や空気を読み合いながら、浮いたり沈んだり上がったり下がったりしながら暮らしてゆくでしょう。いいえ。決してそうであってはなりません。このお独りの方は試練を受けて苦しむ罪人を救うことがおできになる。しかも他の誰によっても救いは得られません。十字架につけられて殺され、死者の中から復活させられた救い主イエス・キリスト。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか人間には与えられていないのです(ヘブライ手紙2-14-18,使徒4:10-12)。十字架の上でも、前夜のゲッセマネでの祈りの最中にも、その前にも、ほんの片時も、御父への主イエスの信頼は揺らぎませんでした。「父よ彼らをおゆるしください」と仰った。そのゆるしを成し遂げてくださった。「私の魂を御手にゆだねます」と仰ったし、だからこそ、この私たちも自分自身の魂も何もかも、すっかり丸ごと、父の御手にゆだねることができます。安心して、晴れ晴れして。「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」。そのとおりです。

教えられ続けてきたことを、この私たちは、思い起こしつづけましょう。

 

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     金田聖治
(かねだ・せいじ)

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