2022年3月7日月曜日

3/6こども説教「祝福をだまし取るヤコブ」創世記27:18-29

3/6 こども説教 創世記27:18-29

 祝福をだまし取るヤコブ

 

 27:21 イサクはヤコブに言った、「子よ、近寄りなさい。わたしは、さわってみて、あなたが確かにわが子エサウであるかどうかをみよう」。22 ヤコブが、父イサクに近寄ったので、イサクは彼にさわってみて言った、「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ」。23 ヤコブの手が兄エサウの手のように毛深かったため、イサクはヤコブを見わけることができなかったので、彼を祝福した。24 イサクは言った、「あなたは確かにわが子エサウですか」。彼は言った、「そうです」。25 イサクは言った、「わたしの所へ持ってきなさい。わが子のしかの肉を食べて、わたしみずから、あなたを祝福しよう」。ヤコブがそれを彼の所に持ってきたので、彼は食べた。またぶどう酒を持ってきたので、彼は飲んだ。26 そして父イサクは彼に言った、「子よ、さあ、近寄ってわたしに口づけしなさい」。27 彼が近寄って口づけした時、イサクはその着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った、「ああ、わが子のかおりは、主が祝福された野のかおりのようだ。28 どうか神が、天の露と、地の肥えたところと、多くの穀物と、新しいぶどう酒とをあなたに賜わるように。29 もろもろの民はあなたに仕え、もろもろの国はあなたに身をかがめる。あなたは兄弟たちの主となり、あなたの母の子らは、あなたに身をかがめるであろう。あなたをのろう者はのろわれ、あなたを祝福する者は祝福される」。                      (創世記27:18-29

 

 【こども説教】

 神を信じて生きる親たちには、神から受け取った祝福を子供たちに精一杯に差し出し、手渡すという責任と使命があります。この私たちもそうです。イサクは年老いて、自分が間もなく死んでしまうことが分かりました。その前に間に合ううちに、自分が受け取った神からの祝福を次の者に手渡したいと願いました。しかも、双子の兄弟が生まれたとき、「兄は弟に仕える」(創世記25:22)と神ご自身が決めていて、そう告げられていました。けれど父親イサクは、弟ヤコブではなく兄エサウのほうに祝福を手渡したいと願いました。つまり、神の決定とご意思に従うことよりも、自分の願いを先立てようとしました。神の御心を退けて、自分の願いを無理矢理にも通そうとしています。つまり、リベカとヤコブが祝福をだまし取っただけではなく、むしろ、父親イサクこそが神からの祝福を神ご自身から横取りしようとしています。

 さて、母親リベカと弟ヤコブが父親をだまして、その祝福を奪い取ります。22 -25節、「ヤコブが、父イサクに近寄ったので、イサクは彼にさわってみて言った、「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ」。ヤコブの手が兄エサウの手のように毛深かったため、イサクはヤコブを見わけることができなかったので、彼を祝福した。イサクは言った、「あなたは確かにわが子エサウですか」。彼は言った、「そうです」」。神を信じて生きてきたイサクが、最後の最後に、神の御心と御意志に背こうとしました。危ないところでした。リベカとヤコブを用いて、神ご自身が、父親イサクを神に逆らう不信仰の罪から、信仰の従順へと連れ戻し、父親イサクを救い出しています。ここに、神さまが生きて働いておられます。

 

 

 【大人のための留意点】

 祝福を担う後継者という問題において、彼イサクは、あえて別の考えをもとうとするのです。神とは別の考えを。不思議です、本当に不思議です。そこでは何と緊密に、従順と不従順とが隣り合っていることでしょう。誰でも信仰者の生活には、一つや二つ、あるいはそれ以上の、「イサクの弱点」があるのではないでしょうか。自分の恣意のために神の御意志と張り合ってしまうという弱点が。神の御意志を排除しようとする我々の恣意は、どんな場合に働くのでしょうか。

 ……事実上、リベカの策略は、いかにも神の祝福の担い手が思いつきそうな最大の悪行、つまり託された祝福を横領すると言う悪行から、その夫(息子たちの父イサク)を保護するという結果をもたらしているのです。最高の次元においての職権乱用から、です。リベカの罪は、神によって、イサクの救い、ひいては諸国民の救いに役立てられています(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)