2022年6月27日月曜日

6/26「御子イエスによる救い」へブル2:1-4

            みことば/2022,6,26(主日礼拝)  377

◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:1-4                   日本キリスト教会 上田教会

『御子イエスによる救い』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:1 こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。2 というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、3 わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、4 さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。 ヘブル手紙 2:1-4


1節、「こういうわけだから」と、まず最初に語り継いでいます。先に進むためには、後ろを振り返って、これまで語られてきたことを思い起こす必要があります。何が語られてきたのか。「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」1:2と、最初に告げられました。語りかける神であり、語りかけずにはおられない神です。最初に神は「光あれ」と語りかけることによって、世界を造りはじめた(創世記1:1。その語りかけの言葉には他に並ぶ者もない絶大で圧倒的な力があり、またご自身の御心と願いが込められていました。「けれど今、この終りのときには」と区切りを引いて、神の語りかけが大きく変化しました。神は、この終りの時には、御子イエスによって、わたしたちに語られた。驚くべきことです。すでにもう2000年も前から、神の独り子である救い主イエス・キリストが地上に降りて来られ、神でありながら人間の生身の体をもって生きて、神の国の福音を宣べ伝えはじめた。十字架にかかって殺され、葬られ、死人のなかからよみがえり、天に昇って御父の右の座にすわって、御父から全権をゆだねられた王としてこの世界を治め始めた。だからすでに『終りのとき』が始まって、着々と神の国がこの地上に、私たちの只中に建設されつづける。『終りのとき』とは、ひとたび罪に落ちてしまった世界と、神によって造られたすべての被造物が神の祝福のもとに回復されるときです。それは、この私たちを含めたすべての被造物に対する神の審判のときでもあります。

「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」。神の独り子である救い主イエス・キリストによって天と地とその中にあるすべてが造られた。その同じ救い主イエスこそが世界全体の富と財産の相続者とされている。その救い主イエスがわたしたちに語りかけつづける。徹底的に、ただただた救い主イエスにこそ、全世界と私たちの運命が集中しています。救い主イエスがすべて一切をその手に握っておられます。父なる神が救い主イエスにこそすべてを与え、委ねられた。だからこの私たちも、神によって救られたすべての被造物も、キリストの権限のもとにだけ据え置かれつづけます。救い主イエス・キリストは万物の相続者なのだから、彼のほかに恵みはないということです。ですから、もし、救い主イエスがその富と恵みによって私たちを助けてくださらなければ、私たちはとても惨めな者たちであり、なんの恵みも持たない者たちであり、恐れに取り囲まれて心細く生きるほかないのだと。御子イエス・キリストは神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である。『神の似姿』についての、聖書全体からの最終的な説き明かしがこれです。創世記3章の堕落によって、神の似姿がすっかりまったく失われてしまった。それは、救い主イエスによって、またイエスを信じる信仰によって私たちのうちに回復され、私たちは、キリストと似た者とされてゆきます。「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(コロサイ手紙 3:9-11,ローマ手紙 8:29

「御子は、……その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」。キリストの御言葉、神の御言葉に十分な信頼が寄せられなければなりません。それが神を信じて生きるための不可欠な土台となります。しっかりした岩の上に家を建てたか、あるいは、ただ虚しいだけの砂の上だったかが問われます。数多くの預言者たちが、神のもとから遣わされ、神の言葉を神から預かって語りつづけました。イエスご自身も、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(イザヤ書55:8-11,ヨハネ福音書 5:39-40。厳しい口調で叱られているようにも聞こえます。けれどその本意は、確かに聖書の中に永遠の命があり、それは父なる神と救い主イエスを知り、信じて生きることだ。命を得るために主イエスのところへ行こうとして、イエスから命を受け取ろうとして聖書を調べ、読み、耳を傾けなさい。そうすれば、あなたも命を受け取ることができると。

さて、「御子は、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれた」。父なる神の右に座り、と使徒信条も告白します。ここは、間違って覚えてはいけません。父なる神の右とは、父の単なる補佐役とか、助言者、アシスタントなどという役割ではありません。御父から天と地のすべての権威を授けられた、世界の王として統治し、治めつづける『王の職務』です。救い主イエスこそが私たちの罪をあがない、清める御業を成し終え、すべての権威を授けられ、世界の王として統治しつづける『王の職務』を担いつづけます。いつまでなのか。最後の最後に、すべての権威と権力とを打ち滅ぼしてしまうときまで。1コリント手紙15:24-26です、「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」。

 

                ◇

 

 さて1節、「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう」。聞かされつづけ、習い覚えてきた神の言葉をいっそう強く自分自身の魂に刻み込み、はっきりと思い起こしつづけましょう。そうでないと、おし流されてしまう。どこへ。滅びへと至る、虚しい暗闇の彼方へ。罪と悲惨の只中へと。けれど憐み深い神なら、そんな私たちを罪と悲惨の只中から救い出すことができます。だから、この私たち自身こそは聞かされつづけ、習い覚えてきた神の言葉をいっそう強く自分自身の魂に刻み込み、はっきりと思い起こしつづけなければなりません。救い主イエスによって知らされ、差し出された神の憐れみのもとに留まり、そこに据え置かれて生きるために。やがて、神の永遠の御国に辿り着かせていただくためにです。

2-4節、「というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである」。御使たちをとおして語られた御言とは、神の律法です。他方、福音において宣言されている救いは、御使いではなく、御子イエス・キリストによってもたらされました。神の福音と、神の律法。それらは一組となって、神の憐れみのもとに私たち罪人が生きるための道案内の役割を果たします。かつて、神の律法に反逆して背く者たちに対して、厳しい裁きと懲らしめがなされました。では、神の福音とその救いを軽々しく扱う者たちに対しては、神は何をなさるのか。さらに恐ろしい処罰が与えられます。福音とその救いの言葉をはっきりと拒絶しなくても、そこから身を引いて、神の憐れみの福音から遠ざかる者たちは、そのことに対する処罰と報いを免れません。「わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか」と問いかけられています。

「この救いは、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである」。福音が宣言する偉大な救いは、救い主イエスによって語られました。もちろん救いは、世の初めから、前もって預言者たちが述べ伝えつづけました。その約束がついにとうとう成し遂げられる時が来たと通告されたのは、洗礼者ヨハネが牢獄に閉じ込められた後、主イエスご自身によってなされました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。また、ナザレの会堂でイザヤ書61章の御言葉を主イエスは読み、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである。この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(マルコ1:15,ルカ4:18-と宣言しました。そして今日に至るまで、おびただしい数の伝道者たちははてしないバトン・リレーのようにして、伝えられた言葉をそのまま次のランナーに手渡しつづけ、受け取り、手渡し、受け取り、手渡しつづけています。これからも世の終わりまで、主に仕える働き人たちはバトン・リレーのようにして伝えられた言葉をそのまま次のランナーに手渡しつづけます。「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」(1コリント手紙15:2-5。バトン・リレー走者たちが手渡しつづけるそれら一つ一つの神の言葉を、私たちは決して侮ってはなりません。その一つ一つの言葉によっていのちが差し出され、その言葉によって私たちは神の憐れみのもとに生きる者たちだからです。

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

6/26こども説教「キリストの思いを」ピリピ2:1-5

6/26 こども説教 ピリピ手紙 2:1-5

 キリストの思いを

 

2:1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。(ピリピ手紙 2:1-5

 

 

  【こども説教】

 とても大切な事柄が最初に並べられています。「キリストによる勧め。愛の励まし。御霊の交わり。神が私たちを激しく愛してくださっていること、神のあわれみ」。これらが、神による平和と恵みが私たちの中で実現していくための土台です。それが、「もし、いくらかでもあるなら」と、わざわざ語りかけられています。ほんの少しでもあるなら、神の平和と恵みは必ず実現していく。もし、なかなかそうならないとするなら、それはどうしたことでしょう。と、私たちは問いかけられています。自分の胸に手を当てて、よくよく考えてみなければなりません。

1人いれば1つの思い。2人いれば2つの思い。20人いれば、20個のそれぞれバラバラな思いがそこにあります。すると、その人たちが1つの思いや1つの心になるとすれば、自分の思いや、誰彼の思いなどではなく、それを投げ捨てて、ただただ救い主イエス・キリストの思いになるほかありません。3-5節、「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」。互に人を自分よりすぐれた者としなさい、と命じられます。誰か、優れているように思える何人かを、ではなく、互いに相手を自分よりも優れた者として扱いなさい。つまり、どこの誰に対しても、思い上がって、自惚れてはいけないと注意されています。私たち人間には、とても難しいことです。この難しいことを何とかして分かってもらうために、伝道者は、とうとう十字架について死んでいかれた救い主イエスのことを語りはじめます。キリスト教信仰の中身として最も大切なことが、いよいよ次の6節~11節までで説き明かされます。この救い主イエスを信じて、イエスに従って生きていこうとするなら、イエスと同じようになり、なんとしてでも十字架についたイエスの心と行いとを思い起こそうじゃないかと。そうでなければ、他にはどんな平和も憐みもあるはずがないと。

 

 

 【大人のための留意点】

 自分はこんなに多く愛しているのに、という傲慢な心があると失敗します。自分は、人より大きな愛をもっていると自惚れるほど危険なことはありません。それはあのパリサイ人みたいに、鼻もちならない自惚れになってしまうからです。自分が偉いと思ったら、もう愛はいつのまにやら、どこかへ行ってしまうか分かりません。ですからパウロは、「同じ愛を持ちなさい」と勧めます。愛している人は、とかく、自分のほうがよけいに愛している、いっぱい愛していると思うため、いばったり自惚れたりして、かえって愛の心にヒビが入ってしまいます。……「へりくだった心」には、さらにもっと「人を自分より優れたものと考える」ことが大切になってきます。また、「ただ自分のことばかりでなく、ほかの人のことも考えてみる」ことが、ほんとうの謙遜、へりくだった心なのです。イエスさまは、この世に来て、ただ小さくなっておられたのではなく、いつも神さまと隣り人に喜ばれるように、人のことを考え、そのため十字架におかかりになったのです(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 



2022年6月20日月曜日

6/19「救いを受け継ぐ」へブル1:5-14

          みことば/2022,6,19(主日礼拝)  376

◎礼拝説教 ヘブル手紙 1:5-14             日本キリスト教会 上田教会

『救いを受け継ぐ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:5 いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。6 さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた。7 また、御使たちについては、「神は、御使たちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる」と言われているが、8 御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。9 あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言い、10 さらに、「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。11 これらのものは滅びてしまうが、あなたは、いつまでもいますかたである。すべてのものは衣のように古び、12 それらをあなたは、外套のように巻かれる。これらのものは、衣のように変るが、あなたは、いつも変ることがなく、あなたのよわいは、尽きることがない」とも言われている。13 神は、御使たちのだれに対して、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、わたしの右に座していなさい」と言われたことがあるか。14 御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。    ヘブル手紙 1:5-14


まず5-6節、「いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた」。「あなた」と呼ばれている相手は、直接にはダビデ王であり、けれどダビデ王を遥かに越えて、やがて地上に遣わされる救い主イエス・キリストをこそあらかじめ言い表し、指し示していると世々の教会は受け止めてきました。神は神、生身の人間はどこまで行ってもただ人間に過ぎず、神と人間との間には深い隔たりがありつづけました。1つの決定的な出来事が起こるまでは。

神によって造られた被造物にすぎない人間は、神の御前に深く慎まねばなりません。生身の人間が神を父とし、その子供とされることなどありえないはずだったからです。神の御使いであれ、他の被造物であれ、神以外のものが拝まれ、礼拝の対象とされることなど決して許されないからです。拝まれ、礼拝の対象とされてよい対象は、ただただ神ご自身である他ありません。「神のほかに何ものをも神としてはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」(出エジプト記20:2-6と、神ご自身から断固として命じられているからです。「彼を拝すべき。礼拝すべきである」と言われたからには、その「あなた」とは神ご自身である、神の独り子、救い主イエス・キリストである他ありません。「あなたこそは、わたしの子」とは、ただもっぱら神の独り子イエス・キリストについて言われたことであり、このような栄光は神の御使いにも、他どんな被造物にも与えられるはずがなかったのです。越えることのできないはずの隔たりを、けれども神の側から乗り越えて、人間に近づいてきてくださった。救い主イエスがまことの神でありながら、同時にまことに人間となってくださることによって。

1つの決定的な出来事がすでに起こった。だからこそ今では、神と私たち、神によって造られたものたち(=被造物。ひぞうぶつ)との間の深い隔たりは埋められ、神と私たち被造物との間に一本の道が開かれました。『救い主イエス』という名前の、一本の救いの道が。主イエスはおっしゃいました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない(つまり、救い主イエスを通りさえすれば、誰でも父なる神の憐れみのみもとに辿り着くことができる)」(ヨハネ福音書14:6。その大前提と根本認識のうえで、この独り子イエス・キリストを通してだけ、私たちは憐みを受け、神の子供たちとして迎え入れられました。神の御前にへりくだって、深く慎む。しかも同時に、その同じ神を今では恐れも疑いもなく十分に信頼し、愛し、遠慮なく親しむことさえできるのです。ごく親しい友だち同士として。ただ救い主イエスによって(ヨハネ福音書15:14-17「わたしの友である。友と呼んだ」,讃美歌312番「慈しみ深き友なるイエスは」,ローマ手紙8:14-16,ガラテヤ手紙4:6

5-6節、「いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、『神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである』と言われた」。この世界全体に対する救い主イエスのご支配であり、その支配は全世界に及び、ユダヤ人にも異邦人にも、神によって造られたすべての被造物にも救いとなるのでなければ、もしそうでなければ、王としてのキリストの支配はどんな祝福の源ともなりません。救い主イエスがこの世界に降りて来られ、死と復活の救いの御業を成し遂げてくださったのは、「神は彼(=救い主エス)を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ手紙2:6-11

7-14節、「また、御使たちについては、「神は、御使たちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる」と言われているが、御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言い、さらに、「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。これらのものは滅びてしまうが、あなたは、いつまでもいますかたである。すべてのものは衣のように古び、それらをあなたは、外套のように巻かれる。これらのものは、衣のように変るが、あなたは、いつも変ることがなく、あなたのよわいは、尽きることがない」とも言われている。神は、御使たちのだれに対して、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、わたしの右に座していなさい」と言われたことがあるか。御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか」。救い主イエスについて、彼が、(1)「初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである」ところの創造主であると告げられ、また、(2)この彼が王として世界を支配しつづけることが告げられました。だからこそ、この救い主イエスこそがあがめられ、礼拝され、全幅の信頼を寄せられ、その言葉こそが聴き従うに価します。

父なる神が世界の創造者と呼ばれるように、同時にまた、救い主イエスもまた世界の創造主であること。これは、この手紙の冒頭ですでに語られたことです。「御子によって、もろもろの世界を造られた」1:2と。徹底的に、ただただた救い主イエスにこそ、全世界と私たちの運命が集中しています。父なる神が救い主イエスにこそすべてを与え、委ねられたのだから、この私たちも、神によって救られたすべての被造物も、キリストの権限のもとにだけ据え置かれつづけます。救い主イエス・キリストは万物の相続者なのだから、彼のほかに恵みはないということです。ですから、もし、救い主イエスがその富と恵みによって私たちを助けてくださらなければ、私たちはとても惨めな者たちであり、なんの恵みも持たない者たちであり、恐れに取り囲まれて心細く生きるほかない。聖書は、神の御霊によって導かれる私たちは神の子供たちであり、しかも神の相続人でもあると証言します。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ手紙 8:13-17。救い主イエスが私たちを受け入れてくださるとき、彼と共に、彼によって私たちを富ませ、支えようという御心です。つまり、キリストを差し置いて、キリストの御心を抜きにしては、私たちはどんな財産も富も幸いももつことができないことを私たちがよくよく知り、肝に銘じることができるようにと。このように救い主イエスを信じる信仰であり、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とキリストが御父に信頼し従ったように、私たちもまた同じく、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とイエスからの言葉と御心にこそ聞き従いつづける信仰です。そこにだけ、私たちのための希望と祝福がありつづけます。

この救い主イエスが、唯一無二の、王の中の王として世界を支配しつづけること。「すべての事は父からわたしに任せられている」、また「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに」(マタイ11:27,28:18-19とイエス自身がおっしゃったのです。さらに、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは」と御子イエスは御父から、天と地のいっさいの権威を授けられた王として働き続けます。さて、その期間は、いつまでなのか。1コリント手紙15:24-25にはっきりと告げられています。「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」と。王である救い主イエス・キリストは、その支配と働きに挑戦しようとする敵対者たちと立ち向かいつづけます。必ず勝利する戦いであり、やがてついにあらゆる敵を足もとに置き、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、御国を父なる神に渡されると約束されています。それでもなおキリストの支配は安らかに平穏であることはなく、それを脅かす敵対者たちがありつづける。世界の終わりの日まで、キリストの支配と御自身の闘いはつづきます。

だからこそ、救い主イエスに従って生きようとする者たちは励まされつづけます。罪の誘惑が私たちを誘いつづけるからです。腹の思いと、自分自身の肉の欲望が、私たちの心を鈍くさせ、惑わそうとし、神の御心に背かせようとしつづけるからです。この自分自身が救いからこぼれ落ちてしまわないように、気をしっかり持って、堅く立っていなけれなならないからです。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」と。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」と。神の武具。それは、救い主イエスによって神の憐れみを知り、イエスによって神に必要なだけ十分に信頼を寄せ、その御心と御意志に聞き従いつづけて生きることです。ですから私たちは日毎に悔い改め、日毎に神に助けを願い求めて暮らしていきます。「わたしたちを誘惑に合わせず、悪から救い出してくださいと祈りなさい」と。こう証言されています、「感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(ルカ22:46,11:4,エペソ6:10,1コリント15:57-58と。願い求めましょう。

 

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

6/19こども説教「救いのしるし」ピリピ1:27-30

6/19 こども説教 ピリピ手紙 1:27-30

  『救いのしるし』

 

1:27 ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、28 かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。29 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。30 あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。  (ピリピ手紙 1:27-30

 

 

  【こども説教】

 28節、「かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである」。彼らも私たちも、いろいろな人たちに囲まれて暮らしている。喜んで、あなたを助けたり励ましたりしてくれる人もいるし、あなたを嫌って邪魔をしてくる人たちもいるでしょう。もし、誰かに嫌われて邪魔されても、嫌なことをされても、励ましたり助けたりしてくれる人もいて、あなたが安心して立っていられるなら、それは、神さまがあなたを助けてくれていることの目に見えるしるしです。神さまが、あなたのためにも生きて働いていてくださり、神さまがあなたの味方であるしるしです。

 そして29節、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」。救い主イエスを信じて、嬉しい良いことばかりじゃなく、苦しくてとても嫌なことも神さまから与えられます。喜んで、辛抱することができます。なぜかというと、神さまは私たちを苦しむままに捨て置かないからです。神さまが、ちゃんと味方であってくださるからです。

 

 

 

 

 

 【大人のための留意点】

 私たちの願いや見込みが破れた時でも、決して、神さまの願いや計画が破れたわけではありません。パウロはピリピの人たちがガッカリしてしまわないように、励ましているのです、「わたしのことは、神さまが一番良い道を備えてくださいます、ですから、牢屋の中にいるこのわたしの身にどんなことが起こっても、ただ、あの死人の中からよみがえったイエスさまを信頼してゆきなさい」と。そのようにイエスさまを信頼しているなら、わたしが生きのびて、あなたがたに会えるにしても、また、不幸にしてそういうことができないとしても、問題ではありません。自分たちの生活が、福音にふさわしいかどうか、イエスさまがお喜びになるように生きているかどうか、そのことを考えなさい。イエスさまがお喜びになるように心がけているなら、恐れることはありません。恐がることはありません。少しも慌てることはありません(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 

 

2022年6月14日火曜日

6/12「御子イエスによって」へブル1:1-4

           みことば/2022,6,12(主日礼拝)  375

◎礼拝説教 ヘブル手紙 1:1-4                  日本キリスト教会 上田教会

『御子イエスによって』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。4 御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。ヘブル手紙 1:1-4

 

15:24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。    (1コリント手紙 15:24-26)

 ヘブル人への手紙を、少しずつ読み味わっていきます。

 まず1-2節、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたがこの終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」。語りかける神であり、語りかけずにはおられない神です。最初に神は「光あれ」と語りかけることによって、世界を造りはじめました。その語りかけの言葉には他に並ぶ者もない絶大で圧倒的な力があり、またご自身の御心と願いが込められていました。「光あれ。水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ。天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ。地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ。天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。さらに神は言葉によって命じて、水の生き物と、空の鳥と、地の生き物たちと人間を造り、種のある実を結ぶすべての木と青草を造りました。世界創造の6日目に、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」と報告されています。これが出発点です。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られた」。いろいろな時に、いろいろな方法でとは、例えば夢や幻を用いて、あるいは火の柱や空を流れる雲をさえ用いて、神の民をエジプトから導き出し、また多くの預言者たちをご自身の口として用いて、人々に語りかけつづけました。

「昔は~だった。けれど今、この終りのときには」と区切りを引いて、神の語りかけが大きく変化しました。神は、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。驚くべきことです。すでにもう2000年も前から、神の独り子である救い主イエス・キリストが地上に降りて来られ、神でありながら人間の生身の体をもって生きて、神の国の福音を宣べ伝えはじめ、十字架にかかって殺され、葬られ、死人のなかからよみがえり、天に昇って御父の右の座にすわって、御父から全権をゆだねられた王としてこの世界を治め始めた。だからすでに『終りのとき』が始まって、着々と神の国がこの地上に、私たちの只中に建設されつづけているのです。『終りのとき』とは、ひとたび罪に落ちてしまった世界と、被造物が神の祝福のもとに回復されるときです。それは、この私たちを含めて、神によって造られたすべての被造物に対する神の審判のときでもあります。

「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」。神の独り子である救い主イエス・キリストによって天と地とその中にあるすべてが造られた。その同じ救い主イエスこそが世界全体の富と財産の相続者とされている。その救い主イエスがわたしたちに語りかけつづける。徹底的に、ただただた救い主イエスにこそ、全世界と私たちの運命が集中しています。父なる神が救い主イエスにこそすべてを与え、委ねられたのだから、この私たちも、神によって救られたすべての被造物も、キリストの権限のもとにだけ据え置かれつづけます。救い主イエス・キリストは万物の相続者なのだから、彼のほかに恵みはないということです。ですから、もし、救い主イエスがその富と恵みによって私たちを助けてくださらなければ、私たちはとても惨めな者たちであり、なんの恵みも持たない者たちであり、恐れに取り囲まれて心細く生きるほかない。聖書は、神の御霊によって導かれる私たちは神の子供たちであり、しかも神の相続人でもあると証言します。「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ手紙 8:13-17キリストと共同の相続人。ここが、最重要ポイントです。世界全体の相続者であられる救い主イエスが私たちを受け入れてくださるとき、彼と共に、彼によって私たちを富ませ、支えようという御心です。つまり、キリストを差し置いて、キリストの御心を抜きにしては、私たちはどんな財産も富も幸いももつことができない。このことを私たちがよくよく知り、肝に銘じることができるようにと。救い主イエスを信じる信仰であり、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とキリストが御父に信頼し従ったように、私たちもまた同じく、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とイエスからの言葉と御心にこそ聞き従いつづける信仰です。そこにだけ、私たちのための希望と祝福がありつづけます。

3-4節、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である。『神の似姿』についての、聖書全体からの最終的な説き明かしがこれです。創世記3章の堕落によって、神の似姿がすっかりまったく失われてしまった。それは、救い主イエスによって、またイエスを信じる信仰によって私たちのうちに回復され、私たちはキリストと似た者とされてゆきます。「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」、また「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(コロサイ手紙 3:9-11,ローマ手紙 8:29

「御子は、……その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」。キリストの御言葉、神の御言葉に十分な信頼が寄せられなければなりません。それが神を信じて生きるための不可欠な土台となります。しっかりした岩の上に家を建てたか、あるいは当てにならない砂の上だったのかが問われます。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す(イザヤ書55:9-11。数多くの預言者たちが、神のもとから遣わされ、神の言葉を神から預かって語りつづけました。今日でもまったく同じです。預言者たち、伝道者たちが語る聖書の説き明かしを神は、「私の口から出る私自身からの言葉だ。だから、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。私がそれを約束し、保証する」と仰います。神学生たちがそれぞれの伝道地へと送り出されようとするとき、このように彼らは励まされ、勇気を与えられつづける。たとえ粗末でも、未熟で至らなくても、神自身がそれをご自分の言葉として用いる。神が喜ぶところのことを為させ、命じ送ったことを神ご自身が成し遂げるからと。

また救い主イエスご自身も、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(イザヤ書55:8-11,ヨハネ福音書 5:39-40。厳しい口調のようにも聞こえます。けれどその本意は、確かに聖書の中に永遠の命があり、それは父なる神と救い主イエスを知り、信じて生きることだ。命を得るために主イエスのところへ行こうとして、イエスから命を受け取ろうとして聖書を調べ、読み、耳を傾けなさい。そうすれば、必ず、あなたも命を受け取ることができると。

さて、「御子は、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれた」。父なる神の右に座り、と使徒信条も告白します。ここは、間違って覚えてはいけません。父なる神の右とは、父の単なる補佐役とか、助言者、アシスタントなどという役割ではありません。御父から天と地のすべての権威を授けられた、世界の王として統治し、治めつづける『王の職務』です。私たちの罪をあがない、清める御業を成し終え、すべての権威を授けられ、救い主イエスは、世界の王として統治しつづける『王の職務』を担いつづけます。いつまでなのか。最後の最後に、すべての権威と権力とを打ち滅ぼしてしまうときまで。1コリント手紙15:24-26です、「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」。

 

  《祈り》

   主なる神さま。あなたにこそ心から信頼し、感謝をいたします。救い主イエスを信じる信仰のうちに、私たちを堅く据え置いてください。造られたすべての者たちと私たちのための神の愛と憐みを、この救い主イエスによって知り、イエスによって神に必要なだけ十分に信頼し、聴き従って生きることができますように。

   主イエスのお名前によって祈ります。   アーメン

 


【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

6/12こども説教「キリストと共にいること」ピリピ1:21-26

6/12 こども説教 ピリピ手紙 1:21-26

 『キリストと共にいること』

 

1:21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。25 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。

(ピリピ手紙 1:21-26

 

 

 【こども説教】

 救い主イエスの弟子パウロは、牢獄に閉じ込められて、裁判を待ち、やがて殺されようとしています。キリストの福音を知らせることで殺されるとしても、それは自分にとっても良いことだと受け止めています。また、もし牢獄から出してもらえるなら、ピリピ教会の人たちのところに出かけて助けることもできるので、そうなっても良いと考えています。どちらでもよい、ということです。23節で、「この世を去ってキリストと共にいること」を本当は願っていると書いていますが、もしかしたら、彼は今、大切なことを見落としているかもしれません。「この世を去って」も、キリストと共にいることができます。また、「生きている間も、どこで何をしていても、いつでもキリストと共にいる」とパウロも私たちも教えられています。あとで、彼はそのことを思い出して、皆にちゃんと伝えます。それは救い主イエスからの直々の、大切な教えです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、また「あなたには、わたしがついている」、また「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」(マタイ福音書28:20,使徒18:10,申命記31:8。そして、もし、救い主イエスが共にいてくださり、私たちの味方であり、守ってくださるなら、それでもう十分です。

 

 

 【大人のための留意点】

 わたしたちは、多くの場合、「どちらが本当に神さまの(神に従って生きる)道だろうか」といって悩むのではなく、「どっちの方が得だろうか」と、欲張りのために悩むことが多いのではないでしょうか。「どちらが自分の能力にふさわしいだろうか」と考えて悩むのです。学校を選ぶ時、職業を選ぶ時などがそれです。……しかし、神さまに従う道を歩むということは、ただ自分にとって都合の良ことだけではなく、多くの人に益になる方を選ばせられることなのです。主イエスも十字架を前にして、ゲッセマネの庭で血の汗を流して祈りました、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心のままになさってください」(マルコ福音書14:36(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 

 

2022年6月9日木曜日

6/5「神の御霊が宿っている」ローマ8:1-11

    みことば/2022,6,5(聖霊降臨の主日の礼拝)  374

◎礼拝説教 ローマ手紙 8:1-11           日本キリスト教会 上田教会

『神の御霊が宿っている』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 8:1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。  ローマ手紙 8:1-11)

約束どおり、五旬節(ごじゅんせつ)の日に弟子たちに聖霊がくだりました(使徒 2:1-39,1コリント手紙3:16-17参照)。五旬節はイスラエル3大祭りの1つです。過越祭から7週間後。キリスト教会では、キリストの復活から50日目に聖霊がくだった日として記念します。そして、今日がその日です。今日でも、『洗礼を受けてクリスチャンとされた日から、その人の内に聖霊なる神が住んでくださる』と教えられえ、習い覚えてきました。

まず1-8節、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない」。生まれながらの私たちは、1人の例外もなく、誰も彼もが罪と死の奴隷にされ、それにがんじがらめに縛りつけられていた、と聖書は語りはじめます。肉に従う者は肉のことを思う。肉の思いは死であり、神に敵対している。そこから自由になることは、私たち人間の力によっては到底できなかった。けれど、「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられた」。つまり、救い主イエスの死と復活の御業によって、神がそれを成し遂げ、私たちを罪と死の法則から解放してくださった。だから私たちは、今では、肉のことを思って肉に従って生きるのではなく、神の御霊に従って生きることができる。もちろん、肉の思いや罪からすっかり自由にされ、すっかりまったく清くさせられたというのではありません。そんな聖人君子のような人間などどこにも1人もいません。洗礼を受けてクリスチャンとされた後にも、一生涯、この私たちにも自分自身の肉の思い、さまざまな欲望、傲慢さ、心の頑固さ、自己中心の思いとの格闘がつづきます。けれどもう、それらの奴隷ではなく、言いなりにその肉の思いに従わせられるというのではなく、自分自身の肉の思いに抵抗し、戦い、神の御霊の働きに従って生き始めることができる。人間に出来ることではないが、神ご自身が私たちにもそれを成し遂げさせてくださる。神に信頼し、聴き従い、願い求めつづけて、そうしていただける。だからこそ、あなたは気をしっかり持ちなさい、と励まされます。

ローマ人への手紙では、このことが6章のはじめから、7章、8章へと詳しく説き明かされつづけてきました。「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」。このそもそもの出発点は、エルサレムの都に向かって歩む旅路の途上で、救い主イエスが弟子たちに語り聞かせつづけてきた十字架の死と復活の予告です。十字架の死が待ち受けるエルサレムの都へと旅路を歩みながら、何度も何度も、ご自身の十字架の死と復活について、救い主イエスは弟子たちに繰り返し語りかけつづけました。「人の子(=イエスご自身のこと)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカ福音書 9:22-25と。人の子、つまりこの私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。「必ず~となる」。主であられる神さまがそう決めて、神ご自身がそれを成し遂げるから、だから、「必ず~となる」。ここで聞き分けるべき第一の点は、十字架の上で死ぬことは救い主イエスご自身が自分から進んで、自由な心で受け入れておられる出来事だということです。悪者どもの悪巧みにあって、仕方なしに嫌々渋々、ではなくて。「ぜひそうしよう。十字架の上で、罪人の一人に数えられ、見捨てられて無残に死んでゆくこと。それを私はぜひしたい」と。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神という永遠の神ご自身による救いの御計画です。正しいお方が、正しくないはなはだしい罪人である私たちのために、死んでくださった。それによって、恵みに値しない私たちを憐み深い神のみもとへと連れ戻してくださるために。それこそが救い主としての務めであり、ご自身が担われた第一の使命です。

都へ向かう旅路の途上での主イエスの教えですが、「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。まず、自分を捨てなさい、自分の命を捨て去りなさいと命じられます。神に背かせようとする罪の誘惑と、毎日毎日、戦わねばならないからです。捨て去るべき「自分。自分の命」とは、自己中心の「私が私が」というこだわりであり、心の頑固さです。「好きだ嫌いだ。気が進む。なんだか嫌だ」などと言い張りつづけ、自分の思い通り、願い通りに生きていきたいと我を張りつづける虚しい自己主張です。それらは、主イエスに従って生きることを邪魔しつづけ、自分自身の肉の思いの奴隷にさせつづけるからです。自分自身が自分の主人であり、自分の奴隷である間は、神さまを自分のご主人さまとして迎え入れることが誰にも決してできないからです。要点は、神ご自身の御わざに自分の場所を明け渡すこと。神をご主人さまとして、自分の内に迎え入れること。神にこそ十分に信頼し、聞き従って生きるための訓練です。ついつい私たちは自分を頼りとして、自分の判断や気分に聞き従いつづけて、頑固に思い上がります。だからこそさまざまな困難や悩みの中でへりくだらされて、そこでようやく神の御力と憐みを呼び求めることを私たちは学びます。

「肉に従って歩むのではなく、霊に従って歩む。肉のことを思うのではなく、神の御霊のことを思い、御霊に従って歩む」。それは救い主イエスに従って歩むことであり、父なる神さまの御心に従って歩むことです。十字架にかかる前夜、救い主イエスご自身が、それはいったいどういうことなのかをはっきりと示してくださいました。「一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、『わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい』。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください(マルコ福音書 14:32-36神の独り子である主イエスご自身さえ、自分の願いや考えや判断が御父のそれとは違うこともありうると知っていました。そのことを、とても危ういこととして警戒しつづけました。もし、わたしの願いや判断や考えが御父のそれと違い、御父の御心に背くようなら、私の思いを退けさせてください。私の思いではなく、あなたの御心のままになさってください。その御心をこそ重んじて、服従する私であらせてください。その祈りの中で主イエスは、「アバ、父よ」と呼びかけていました。小さな子供が父親を呼ぶ、信頼と愛情の語りかけです。小さな子供の心で、救い主イエスは父なる神への信頼に堅くしがみついています。その同じ1つの、小さな子供の心を、聖霊なる神が私たちに贈り与えてくださっています。「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(ローマ手紙 8:12-15。神さまに信頼し、聴き従い、自分たちの思いや判断や願いによってではなく、ただただ神の御心をこそ。なぜなら兄弟姉妹たち。自分の願いや考えや判断が御父のそれとは違うことも度々ありうるからです。もし、わたしの願いや判断や考えが御父のそれと違い、「神の御心ではなく、私の思いのままに」と御父の御心に背くようなら、そのとき私たちは直ちに肉の思いの奴隷に成り下がっています。それでは困ります。それでは、あまりに惨めです。ですからどうか、この私の思いを退けさせてください。私の思いではなく、ただただあなたの御心のままになさってください。その御心をこそ重んじて、服従する私であらせてください。「アバ、父よ」と私たちも呼びかけつづけます。小さな子供が父親を呼ぶ、信頼と愛情の語りかけを。同じ1つの小さな子供の心で、救い主イエスと共に、父なる神への信頼に堅くしがみつくことができます。

9-11節、「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」。父なる神さまが、私たちの内に宿っている御霊によって、私たちの死ぬべきからだをも日毎に新しく、生かしてくださいますように。神の御前で、神の御心にこそ聴き従って生きる私たちとならせてください。

 

 《祈り》

 父なる神さま。御子イエスによって神の憐れみへと私たちを招きつづけてくださっていますことに信頼し、感謝をいたします。ますますあなたに信頼し、願い求め、御心にかなって日々を歩むことができますように、お導き下さい。日毎に悔い改め、あなたのゆるしと憐れみへと立ち戻りつづけて生きる私たちであらせてください。

 主イエスのお名前によって祈ります。    アーメン

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

6/5こども説教「キリストがあがめられること」ピリピ1:15‐20

6/5 こども説教 ピリピ手紙 1:15-20

 キリストがあがめられること

 

1:15 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。16 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、17 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。18 すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。19 なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。20 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。            (ピリピ手紙 1:15-20

 

 

  【こども説教】

 彼は今とても自由で、晴れ晴れ清々としています。大切なことが、とうとうはっきりと分かったからです。なにしろ救い主イエス・キリストが宣べ伝えられている。救い主イエスがどんな方で、何をしてくださったのか。その救い主を信じて、どのように毎日を生きることができるのか。その喜びと希望はどういうものなのか。そのことが宣べ伝えられている。キリストの福音が宣べ伝えられ、耳を傾ける者たちがわずかずつ現われ、一人また一人と、救い主イエスを信じて生き始める者たちが神の憐れみによって起こされていく。そうか。じゃあ、それでいいじゃないか。それで、もう十分だ。他には、気にかけなければならないような大切なことなど何一つもないと言ってよいほどに。19-20節、「なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである」。

 

 

 

 【大人のための留意点】

 牢屋に入れられて、今、パウロは死刑にされるかも知れません。死ぬことは誰でも怖いことです。しかし、パウロは生きるにしても、死ぬにしても自分の身によって、キリストがあがめられることを求めました。「あがめる」というのは、もとの言葉では、「大きくする」という意味をもっています。パウロは生きている時も、キリストが大きくなり、(自分が)死ぬ時もキリストが大きくなることを求めました。その反対は自分が大きくなることです。私たちの中には、自分が大きくなることばかり求めている人がいませんか。自分が高くされたり、自分が大きくされたりすることばかり求める人は、自分が低くされたり、小さくされたりすると、怒る人です。そういう人には、いつも恐れがつきまとうものです。自分が小さくされたり、軽く扱われるのを恐れるあまり、いばったり虚勢をはったりします。……(主イエスの弟子たちは)力もないし、知恵もないし、不安でした。それですから、神さまのみ霊のお助けをいただかなくてはなりません。「祈りとみ霊」、この二つはいつも、くっついています。パウロにとっても、そうでした。祈りとみ霊が支えでした。その時、見えないキリストが、私たちの中に生きて働いてくださるでしょう(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 

2022年6月1日水曜日

5/29「新しい国の建設」使徒行伝1:6-11

みことば/2022,5,29(復活節第7主日の礼拝)    373

◎礼拝説教 使徒行伝 1:6-11          日本キリスト教会 上田教会

『新しい国の建設』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。10 イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて11 言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。  使徒行伝 1:6-11


 救い主イエスは、預言者たちによってあらかじめ告げられていたとおりに十字架につけられて殺され、墓に葬られ、その3日目に死人の中からよみがえらされました。その復活の姿を多くの弟子たちに見せた後、弟子たちが見ている前で、このように天に昇っていかれました。まず6-7節、「さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』。彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない』」。見当はずれな、愚かで、とても思い上がった質問がなされました。「弟子たちが一緒に集まっているとき」にこの質問がなされた、と報告されます。つまり、1人2人の弟子たちがこういうことを質問したというのではなく、弟子たち皆によってこの質問がなされたと受け止めねばなりません。何年もかけて主イエスから直々に神の国の福音について教えを受けてきましたが、それでもなお弟子たちは大きな考え違いをしつづけています。「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」。彼らは、アブラハムの子孫であるイスラエル民族のための国の復興を願い求め、ローマ帝国の植民地にされ踏みつけにされつづけている自分たちの国が偉大な権威と力を回復すると思い描きました。地上の王国を。つまり、自分たちの手による、自分たちのための、自分たちのものでさえある王国を。それは、とんでもない大間違いです。ですから、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」と、ありえないほどに厳しく咎められ、叱りつけられました。

その質問のどこがどう見当はずれで思い上がっているのか。彼らのための王国などではなく、御父の権威によって新しく建てられる、御父のものである王国。つまり、神が御力を発揮し、御心にかなって統治なさる、神ご自身のものである王国。御父から全権をゆだねられた救い主キリストの王国であり、神ご自身の御国です。「あなたがたの知る限りではない」。聖書には何が書かれてあるのかと問われて、『罪人が神の憐れみを受け、その罪から救い出されて救われる。そのために知るべき必要なことはすべて十分に書かれてある』と教えられ、習い覚えてきました。知るべき必要なことはすでに教えられています。そこに満足して、慎み深く留まっている必要があります。私たちに知らせずに置きたいと神が願っている事柄は、喜んで、いっさい知らずにおくことです。

8節、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。救い主イエスは彼らと私たち自身を、神の約束へと向けさせます。委ねてくださった任務と役割へと、私たちの目を一途に凝らさせます。神ご自身の権威と御心をないがしろにしようとする不信仰が、知らず知らずのうちに私たちの内に芽生えて、イバラのように生い茂ってくるからです。その不信仰と傲慢を治療するための最も良い薬は、神の約束を思い巡らせつづけることです。何をせよと命じられ、何をしてはいけないと戒められているのか。何に心を注いで努力しなければならないと教えられ、習い覚えてきたのだったか。それを、よくよく思い起こすこと。

「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、わたしの証人となるであろう」。神の御霊が、信じる者たちにくだり、神の御力によって働き、神の御心にこそ従って判断して選び取り、その御力のもとに日々を生きる者たちとされる。なによりも救い主イエスによって示され、差し出された神の憐れみの証人としての一日ずつの暮らしです。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで。とくに、ここで「イスラエル王国。神の民イスラエル」について、弟子たちが間違って抱いていた考え方を大きく修正しています。当時のユダヤ人たちは、主イエスの弟子たちも含めて、肉によってアブラハムから生まれた子孫たちだけがイスラエルであると堅く思い込んでいました。ところが救い主イエスは「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」と言いながら、異邦人の土地サマリヤはユダヤと一体であるべきだと言明なさった。そのうえで、「さらに地のはてまで」と。地の果てに住む、それまで神を知らなかったすべての外国人たちにも、ぜひともユダヤ人と同じ一つの恵みと憐れみにあずからせたいと。だからこそ、はるかな地の果てに住んで、神をまったく知らなかったこの私たちさえもが、今では神を信じる者たちとされています。主イエスの弟子たちを含めて、多くのユダヤ人たちがサマリヤ人をどんなに毛嫌いし、ひどく見下し、憎んでいたのかがよく知られています。例えば主イエスが井戸の傍らで、サマリヤ人の女性に「水を飲ませてください」と頼んだとき、彼女は「あなたはユダヤ人なのに、サマリヤ人の私に、なぜそう言うのか」と驚き怪しみました。また例えば、主イエスと弟子たちの一行がサマリヤの村を通りかかったとき、歓迎しない様子に腹を立てた弟子の一人が、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。主イエスは弟子たちをきびしく叱りました(ヨハネ4:9,ルカ9:52-

神の国の建設計画は、実は、世界の初めからありました。アダムとエバは神の国の最初の建築者たちとされるはずでした。エデンの園が最初の建設予定地でした。彼ら二人の作業員をそこに配置したとき、神はこうお命じになったのです、「この土地を耕し守れ」と(創世記2:15)。ノアと家族を選び出したのも、その建設計画のためでした。アブラハムとサラ夫婦を選び出したことも、その同じ一つの神の国の建設計画でした。建設趣意書の冒頭には、大きな文字ではっきりとこう記されています。「神が造ったすべてのものを見られたところ、それは、はなはだ良かった」。とても良い、嬉しいと初めに神は大喜びに喜んでくださった(創世記1:31参照)。ここです。ご自分が造ったいのちを愛して止まない憐みの神であり、そのいのちの11つを区別せず分け隔てなく、価なしに、ただ恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって救いへと招き入れようとする神だからです。1人の罪人が神に立ち帰るとき、神は大喜びなさり、1人の罪人が迷い出て行くとき、失われようとするその1人を思って、神はとても悲しみ嘆きます。ただただ神の憐れみから、救いの御業のすべてが始まったからです。そして、まず大洪水後にノアに対して、「あなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。……わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。だからこそ、つづいてアブラムとサライ夫婦に向かっても、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記1:31,9:10-,12:3)。ノア。アブラハム。モーセ。ダビデ、そして救い主イエスによる新しい契約。同じ1つの、神の憐れみによる救いと回復の契約です。だからこそ、主イエスご自身が弟子たちを宣教に送り出すとき、同じ1つの憐れみの御心から、こうお命じになりました、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15,日本キリスト教会 式文「教師任職式の任職の辞」)。神の国。それは、神によって造られたすべての生き物、生命あるもののことごとくを祝福するために建設されます。ノアとその家族、あるいはアブラハムとその親戚一同のためだけの国ではなかったのです。けれど神の国の建設事業は、一進一退を繰り返し、難航をきわめました。計画は度々すっかり破綻しかけたかのように見えました。旧約聖書という名前の、膨大な量の建築現場日誌が残されています。長い歳月が流れて、やがて主イエスの弟子たちがエルサレムの壮大華麗な神殿に見とれている間に、その彼らの目の前に、新しい青写真と見取り図が広げられました。神殿を飾る見事な石と立派な奉納物に、「なんとすばらしい石。なんとすばらしい建物でしょう」と弟子たちは心を奪われます。けれど主イエスはそのすばらしい立派な建物と都の人々のために悲しみの涙を流し、「もし、お前もこの日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら」と深く嘆かれたのでした。その嘆きと涙こそ、神の国建設事業の再開のための狼煙でした。こうおっしゃったのです「わたしは(人間の)手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に(人間の)手で造られない別の神殿を建てるのだ」(ルカ19:42,マルコ14:58,15:29)と。私たちの主イエスは、十字架から降りないことによって、罪人の一人に数えられ、唾を吐きかけられ、あざけり笑われることを通して、私たちの罪の贖いのために御自身の生命を投げ捨ててくださることによって、その死と復活によって、別の神殿を建てあげ、まったく別の新しい王国を建てあげてくださった。私たちはその国に住んでいる。いいえ。それどころか、私たち自身が神の神殿とされ、私たちの体の中に神の霊が住んでくださる。『いずれ、そのうちに』ということではなく、今現にその国の住民とされている。今現に、自分たちの内に、神の霊が住んでくださっている(1コリント手紙3:16)

9-11節、「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。神の国がすっかり完全な姿で復興される時期は私たちには知らされていません。けれど、その国がどういう国であって、どのように建て上げられてゆくのかは、はっきりと知らされています。「天におられる私たちの父なる神」と私たちが呼ばわり、「あなたの御名をあがめさせてください。御国を来たらせて下さい。御心が天に成し遂げられるばかりでなく、この地上に、私たちが生きる日々の暮らしの只中にも成し遂げさせてください」とこの私たちが願い求めて生きるとき。「私たちの日毎の糧を今日も与えて下さい。与えつづけて下さっていることに感謝をいたします。私たちの罪をあなたがゆるしてくださったように、私たちも他者が犯す罪をゆるすことができるようにさせてください。誘惑にあわせず、悪から救い出してください」と願い求め、御心に信頼し、聴き従って生きようと努めるとき、そこに確かに、この私たち自身の口から出る何気ない言葉と、普段の行ないと心の思いの只中に、つまり、日々の生活の只中に神の国があり、着々と建て上げられていきます。

こう命じられています、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書 1:15








ミレー「晩鐘」


【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC