2018年4月23日月曜日

4/22こども説教「ダビデの子孫である救い主」ルカ20:41-44


 4/22 こども説教 ルカ20:41-44
 『ダビデの子孫である救い主』

20:41 イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。42 ダビデ自身が詩篇の中で言っている、『主はわが主に仰せになった、43 あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座していなさい』。44 このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。
  (ルカ福音書 20:41-44

 主イエスの教えの間違いを探し出して困らせようとする人々がいて、その人たちと主イエスとの話し合いがつづいています。42-43節で、詩篇の中のやりとりを取り上げています。そこで、『主』である父なる神さまが『わたしの主』である救い主イエスに、『あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座っていなさい』と仰った。そのとおりです。神さまに逆らってその邪魔をする者たちをすべて打ち負かして、ご自分の足の下に踏みつける時までは、救い主イエスは父なる神さまから天と地のすべての権威をゆだねられて、すべてのものの王として働きつづけることになります。それが、『天の御父の右の席に座る』ということです。預言者たちの約束どおりにダビデの子孫の中から救い主イエス・キリストが生まれ、その救い主が王の中の王として働きつづけ、終わりの日にふたたびこの地上に来られて世界の救いを成し遂げられます。主イエスこそがすべてのものに対する唯一の王さまですから、ダビデ王自身も含めて、すべての者たちがこの救い主イエスの御前に膝を屈めて、「わたしの主よ」と呼びかける日が来ます。使徒信条で、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちより復活し、天にのぼりて全能の父なる神の右に座したもう、かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを裁きたまわん」と言い表しているのは、このことです。この世界と私たちを救うために来てくださった救い主イエスを信じることのできる人たちは、とても幸いです。

    【補足/預言者たちの約束】
    多くの預言者たちが、ダビデの子孫の中から救い主が生まれると告げ知らせつづけました(イザヤ9:1-7,11:1-10,エレミヤ23:5-6,エゼキエル34:23-24など)。人々は、その約束を信じて待ち続けました。やがて最初のクリスマスのときに、洗礼者ヨハネの父ザカリヤは預言しました、「(主なるイスラエルの神は)わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである。こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、わたしたちを敵の手から救い出し、生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。主の御使いたちも羊飼いに告げました、「今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ1:69-75,2:11,マタイ9:27,12:23を参照)。


4/22「ペテロの挫折」マタイ26:69-75


              みことば/2018,4,22(復活節第4主日の礼拝)  159
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:69-75                   日本キリスト教会 上田教会
『ペテロの挫折』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


26:69 ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。70 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。71 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。72 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。73 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。74 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。75 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。                                     (マタイ福音書 26:69-75


主イエスが裁判を受けている間に、ここで、私たちは痛ましい出来事に直面します。ペテロという名の、1人の熱心で忠実な弟子の挫折と裏切りです。あの彼は、「イエスなど知らない。何の関係もない」と3度、自分と主との関係を否定します。弟子たちの全員が主を見捨てて逃げ出したのでした。ただ主イエスだけが捕まえられ、裁判にかけられます。主イエスの弟子たちの1人、ペテロは、あの逮捕の際にいったんは逃げ去りながら、それでもこっそりと後を追って来ました。大祭司の屋敷の中庭で、火に当たる人々の間に紛れ込んで、こわごわビクビクしながら、ペテロは座っています。捕えられた主がどんな目にあうのかと、その裁判の成り行きを見守るために。その屋敷で下働きをしている娘たちの1人が、その彼に目を留めます。「あ。この人のことを知っている」。じっと彼を見つめます。「あなたも、あのナザレ村から来たイエスと一緒にいた。そうでしょ」。「本当だ。確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いで分かる」「私も見た」「そうだ、この人だ」。次々に問いただされ、ジロジロ見つめられ、「違う、違う。何のことかサッパリ分からない。そんな人は知らない。人違いだろう」と彼はシラバックレてしまいます。
  彼ペテロは、弟子たちの中でもリーダー格で兄貴分的な存在でした。仲間たちからも信頼されていた力強い断固とした働き人が、けれども救い主に背を向けています。「これが、あのペテロか。私たちがよく知っていたあの同じ人物か」と、私たちは驚き呆れます。彼にも、主イエスを信じる信仰の様々な出来事があったのです。姑の熱を癒していただき、山の上で主の栄光の姿を目撃し、湖の上では危うく溺れそうになところを主に助けられました(マタイ福音書8:14,8:23,14:22,17:1-8。いろいろあった長い旅路を、あの彼は主イエスに従って歩んできました。主イエスに聞き従うことや信頼することを少しずつ学びとり、この方こそ信頼に足る方だと心に刻んできました。その主を「知らない。何の関係もない。赤の他人だ」と、1度ならず2度3度と言い放ってしまいました。彼のつまずきは、ほんの小さな試みから始まりました。時刻は、真夜中をとうに過ぎていました。大祭司に仕える下働きの娘がひとこと質問しました。69節、「あなたも、あのガリラヤ人イエスと一緒だった」。刃物を喉元に突きつけられて、ではありません。大勢の強盗や兵隊たちに取り囲まれて、ではありません。小さな無力な一人の娘の一言が、彼を追いつめました。力強い、断固とした彼の信仰を打ち砕くには、その、ほんの小さな一言だけで十でした。あまりに簡単なことでした。
 けれど、この出来事は告げます;人間がどんなものであるのかを。その意思や決断がどんなに脆く不確かなものであるのかを。たとえ最善の、誠実で堅固な、揺るぎのない人物であっても、その信仰が弱り果て、衰え、ついにつまずいて倒れるときが来ると。だからこそ聖書は、ペテロのつまずきと失敗ばかりではなく、主に仕えるたくさんの働き人たちの弱さを、つまずきと破れを、手痛い挫折と失敗をくりかえし報告してきました。74節。夜明けを告げて、鶏が鳴きました。ペテロは、ほんの数時間前に主イエスから言われたあの言葉を思い出しました。「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」26:34。本当にそうだった。ペテロは、いきなり激しく泣き出しました。その落胆、その涙の中身はなんだったでしょう。「ダメな、どうしようもない私だ。私は失格だ」と彼は、自分で自分を裁いています。私たちもそうです。身近な家族や兄弟や誰彼を裁いているだけでなく、しばしば自分自身を自分で裁いてしまっています。しかも互いに容赦なく裁き合うための材料をそれぞれ山ほど抱えています。不誠実。ごうまん。自分勝手。とても優柔不断。頑固で、意固地でかたくなでと。
  不思議なことです。神の民は、いつもごく少数でありつづけました。そうでなくても良かったはずなのに、大勢ではなく、ごく少数。格別に賢く優秀な強い者たちがではなく、ごく普通のどこにでもいるような、弱く無に等しい者たちこそが、神さまからの招きを受け取りました。また、そのことをよくよく覚えておくようにと度々うながされました(申命記7:6-11,8:17-20,9:4-5,コリント手紙(1)1:26-31。立ち塞がる圧倒的多数の強大な者たちを前にして、彼らは、自分たちの小ささ、弱さ、貧しさを痛感させられました。「自分は強い。豊かで賢い。自信がある」と思っていた者たちも同じ目にあわされました。何度も何度も打ち砕かれ、みじめさと心細さをつくづくと味わされました。「なんて弱く、ふがいない私か。あまりに小さくふつつかで、もろい私だ」と。あのペテロのように。それは一体、なぜでしょう。罪深くあまりに弱い私たち人間を、けれど神さまは愛して止まなかった。私たちを徹底してゆるすために、その弱さと貧しさをよくよく知ってくださるために、どこまでも見捨てず見放さないでいてくださるために、そのために神ご自身である救い主イエスが身を屈めねばなりませんでした。救い主イエス・キリスト。この方は恥を受け、軽蔑され、ツバを吐きかけられ、捨て去られ、十字架の木の上に生命さえ投げ出しました。その鞭打たれ、槍で刺し貫かれ、引き裂かれたからだと、そこで流し尽くされた尊い血潮が、私たちの目の前に差し出されています。いま崖っぷちに立たされているこのペテロのことでは、気を揉んだり、心配してあげる必要は何もありません。なぜなら、やがてペテロは良い羊飼いである救い主イエスのもとへと無事に連れ戻されてゆくからです(ヨハネ福音書10:11-18,21:15-19,ペトロ手紙(1)2:25。そのことは、また別のときにお話しましょう。私たち自身や私たちの大事な家族、友人たちも、あの彼のように聖書の神さまを信じて生きることの崖っぷちに立たされる日々が来るでしょう。恐ろしくて、心細くて心細くてしかたのない日々がやって来るでしょう。そのとき、主イエスへの信頼が保たれるのかどうか。他のモノへの信頼や恐れの中に紛れ込んでしまわないかどうか。なにしろ主イエスへの全幅の信頼。それこそ、私たちにとっての肝心要、また生命線でありつづけます。

 主の弟子ペテロは、この時までは、《わたしは弱い》などとは思っていませんでした。誰かほかの人たちのことを言っているのだろうと高をくくっていました。弱くてふつつかな人間は世間に大勢いるとしても、この自分だけは例外だ、別格だと。あの十字架前夜に泣いた時までは、そう思っていました。けれど突然に鶏が鳴きました。「そんな人は知らない。会ったこともない。何の関係もない」とシラバックレテいるうちに。彼は外に出て、激しく泣きました。ここにいるこの私たちにも、鶏が鳴く時が来るのでしょうか。主イエスを知らないと言い、外に出て泣くときが来るのでしょうか。
  その通り。もちろん、私たちのためにも鶏が鳴く時が来るでしょう。もしかしたら明日か明後日にでも。さて、ほんの少し前に、主イエスご自身がはっきりとおっしゃいました。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」(マタイ10:32-33。確かに、そう仰った。で、その通りなのですか? いいえ、そうではありませんでした。1500ページものこの分厚い書物を隅から隅まで調べて確かめてみなければ分かりませんか。いいえ。主イエスがどんな方で、何をしてくださったのか。自分の胸に手を当てて、私たちをこれまでどう取り扱ってくださったのかを思い出しさえすれば、誰にでも分かります。しかも、「主イエスなど知らない。会ったこともない、赤の他人だ」と言い張りつづけた、あの主の弟子ペテロを知っているのですから。ペテロを、主イエスがどのように取り扱ってくださったのかをよくよく覚えているのですから。主は、あんな彼を、見捨てることも見放すこともなさいませんでした。びっくり仰天です。そこで十分に驚いてびっくり仰天した人々なら、「人々の前で私を知らないと言う者は、私も天の父の前で、その人を知らないと言う」という恐ろしい言葉を聞いても、青くなったり黄色くなったり赤くなったりはしません。だって、なにしろ主イエスを信じて、このお独りの方に信頼を寄せて生きてきた私たちですから。では質問。「人の前でわたしを拒む者、知らないと言う者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むし、私もその者を知らないと言う」とは、どういうことですか。その通りですか。主イエスもその人を知らないと仰るのか、そうではないのか。
 自分の子を愛して止まない親のような神さまでありつづけます。大切に思っているその子のために、かなり厳しい言葉を何度も何度も告げねばならないとしても、それでもなお、語った通りに「知らない。もう今日からは親でもなければ子でもない」と主は見離してしまうのか。いいえ、そうではありません。分かりますか。情け容赦のないその厳しい言葉と、その心の中とは裏腹です。ですから、どんな神さまなのかをよくよく習い覚えてきた人にしか、聖書を安心して適切に読むことはできません。あなたは、どんな神さまなのかを知っていますか。どういう神さまだと習い覚えてきましたか? 私たちの主なる神は、私たちの弱さをよくよくご存知でした。知っているどころか、他ならぬこの神ご自身が私たちを、弱く脆く、限界ある存在としてお造りになりました。人は、土の塵から造られたのです。あなたも土の塵から造られたのだし、この私もそうです(創世記2:7,3:19,90:3,103:14,104:29-30,ヨブ10:9,伝道の書12:7,エゼキエル書37:9。堅い石や鉄やダイヤモンドで造られた人間など誰一人もいませんでした。しかも、その弱く危うい壊れモノのような私たちのために、主はいったい何をしてくださったでしょう。あのペテロのために、何をしてくださったでしょう。「主イエスなど知らない。私には何の関係もない」と繰り返し偽り、そのふがいない自分に絶望して泣いたペテロを、けれども主は、見捨てることも見放すこともなさらなかった。あの大声で泣いて闇の中に駆け去っていった場面が、彼の生涯最後の場面ではありませんでした。主はペテロを、あの暗がりに放置することはなさいませんでした。彼はゆるされ、再び抱え起こされ、神の恵みのもとへと連れ戻されます。ペテロだけではありません。「聖書は主に仕える働き人たちの弱さとつまづきと挫折をくりかえして報告してきた」と先程話しました。こう言い直さなければなりません。『弱さをさらし、つまずいて挫折する度毎に、けれども彼らはゆるされ、忍耐され、助けられ、支えられつづけた。倒れる度毎に、抱え起こされつづけたのだ』と(マタイ27:3-,使徒1:18,創世記9:18-,12:10-,20:1-,26:1-,出エジプト記16:1-,17:1-,民数記11:10-,21:4-,サムエル下11:1-,列王上11:1-,ルカ22:47-。ペテロもユダも同罪でした。ここにいるこの私たちもまったく同じです。もし、ゆるしと憐れみの神さまに出会うことが出来なければ、私たちもふがいない自分自身に絶望し、「偽善者め」と自分で自分を裁き、自分自身で自分を滅ぼしてしまうほかありませんでした。あのユダのように。けれど神は、私たちを憐れんでくださいました。その憐れみはあまりに深かった。

              ◇

 だから今日こそ、私たちは頑固な心を脱ぎ捨てることができます。「私が私が」と、言い張りつづけなくても良いと知らされた私たちです。「私の願いや他誰彼の考えや好き嫌いではなく、ただただ神さまの御心をこそ成し遂げてください」と願い求めつづける私たちです。主イエスを通して神さまにこそ服従し、神さまに対して従順であり、それ以外のモノに縛られず、屈服しないでいられると。ただ口先で言うばかりでなく、心でもそれを感じ取り、理解し、受け入れることのできる私たちにされていきます。神さまがそれをしてくださるからです。そのようにして神さまは、私たちクリスチャンに自由と平和と真理とを贈り与えてくださるのでした。もし誰かが、「イエスこそ主である」と人々に向かっても自分自身の魂に向かっても告げ知らせ、「私は主イエスに聴き従って生きる」と腹をくくり、「イエスこそ私が歩んでいくためのただ一本の道筋、受け取って生きるべき一つの真理、一つの生命である。ああ本当に」とつくづく思い知らされるとするならば、そのとき、その人にいったい何が起こったのでしょうか。そのとき、その一人の人のために、いったい誰が、何を、したのでしょう。神さまが、その一人のためにも、すべてすっかり成し遂げてくださいました。その人自身が難しい本を何冊も読んだからではなく、先輩の誰かや伝道者に丁寧に熱心に教えられたからでもなく、その一回の礼拝が素晴らしく感動的だったからでもなく、ただ、神さまこそがその人に教えてくださったのです。兄弟たち、分かりますか? 
主イエスの弟子ペテロもそうでした。無学な、教養にも知識にも乏しかった、あのごく普通の人間がどうして「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ福音書16:16と告白できたのか。トマスもどうして、「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ福音書20:28と主イエスの御前に喜びにあふれて膝を屈めることができたのか。その頑固で疑い深い人にさえも、神さまご自身が教えてくださったからです。神さまこそが私たちの頑固な心を打ち砕いて、膝を屈めさせてくださったからです。悲しみ嘆く私たちの心に、神さまこそが、再び喜びと感謝を贈り与えてくださったからです。そのように憐れみ深く取り扱われつづけて、それで、こうして私たちは今日あるを得ております。祈りましょう。



2018年4月16日月曜日

4/15こども説教「神に生きる」ルカ20:27-40


 4/15 こども説教 ルカ20:27-40
 『神に生きる』

20:27 復活ということはないと言い張っていたサドカイ人のある者たちが、イエスに近寄ってきて質問した、28 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。29 ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、30 そして次男、三男と、次々に、その女をめとり、31 七人とも同様に、子をもうけずに死にました。32 のちに、その女も死にました。33 さて、復活の時には、この女は七人のうち、だれの妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。34 イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、35 かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。36 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。37 死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。39 律法学者のうちのある人々が答えて言った、「先生、仰せのとおりです」。40 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。
(ルカ福音書 20:27-40

  神さまがご自分のことを聖書によって教えてくださいます。神を信じて生きるために必要なことは、すっかり全部、聖書に書いてあります。死んだあとで生き返らせていただけることも、聖書にちゃんと書いてあります。だから、『死んでそれで終わりではない』と私たちは知らされています(詩16:10-11,エゼキエル37:1-14,ヨハネ福音書11:23-44,ローマ手紙14:7-10,コリント手紙(1)15:12-22。けれど、神を信じていて、聖書も読んでいたはずなのに、ある人たちはそのことが分かりませんでした。ついつい自分勝手に、いい加減に聖書を読んでいたからです。自分の好みに合わせて、都合の悪いところは聞かなかったことにして聞き流しつづけてきたからです。でも、この人たちばかりを悪く言うことはできません。誰でもみんな、ついつい自分勝手に、いい加減に聖書を読んでしまいやすい心を持っているからです。だから、「しもべは聴きます。神さま、どうか教えてください」(サムエル上3:9,ヨハネ福音書5:39-40,20:31と祈り求めながら聖書を読んでいきます。
 さて、「死んだあとで神さまによって生き返らせていただけるし、死んでそれで終わりではない」と、よくよく覚えていましょう。そうすると、いつでもどこでも、何が起こっても、もし神さまが味方でいてくださるなら大丈夫です。「神さまが必ずきっと助けてくださる」とよくよく信じて生きることができるなら(詩27:1-5,139:1-13,イザヤ43:1-3,46:3-4,ローマ手紙8:31-39、その人は安心で、とても幸せです。


                【補足/神に生きる】
        38節、「神に生きている」とは難しい言い方ですね。「神に対して、神の御前で、神に向かって生きている」ということです。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ手紙6:4-11)とあり、これを受け止めて、宗教改革者は説明しました、「生きるにも死ぬにも、私は体も魂も私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものであるということです」(「ハイデルベルグ信仰問答 問11563年」)と。

4/15「裁かれる救い主」マタイ26:57-68


          みことば/2018,4,15(復活節第3主日の礼拝)  158
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:57-68               日本キリスト教会 上田教会
『裁かれる救い主』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:57 さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。58 ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒にすわっていた。59 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。60 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて、61 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。62 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。65 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。66 あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。67 それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、68 「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。                  (マタイ福音書 26:57-68)


救い主イエスに対する裁判が始まっています。まず大祭司カヤパと最高法院議員たちによる裁判、ローマ総督ピラトによる裁判、植民地領主ヘロデによる裁判、そして最後にふたたびローマ総督ピラトによる裁判による裁判。当時、ユダヤの国はローマ帝国の植民地にされていましたから、最終的な決定権はローマ総督ピラトの手の中にあったからです。この26章冒頭の3節を読みますと、大祭司カヤパと最高法院議員たちはすでに、策略をもって主イエスを捕まえて殺すことを決めていました。彼らの望んだとおりに、主イエスは罪がないままに死刑にされます。しかも、これらすべて一切を天の御父と主イエスはすっかりご存知の上で、「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」26:1-2と、そうなることをご自身で決めて、受け入れておられたのです。大祭司の中庭で、主イエスの弟子の一人ペテロが裁判のなりゆきを見届けようとして、そこに集まっていた人々の中に紛れて座っていました。祭司長たちと最高法院議会の全体はイエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていました。61節。最後にふたりの者が出てきて言いました、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。「何も答えないのか」と大祭司が立ち上がって問いただしましたが、主イエスは黙っておられました。けれど、それは本当のことで、確かに主イエスが仰った発言でした(ヨハネ福音書2:19-21。人間の手で造った古い神殿をすっかり打ち壊し、ご自身の死と復活をもって、それを土台として、神ご自身のものである霊的な新しい神殿を建て上げてみせようと。その約束は成し遂げられて、人間の手で造られたのではない新しい神の神殿が次々と建て上げられていきました。もちろん、この上田教会もその新しい神殿の一つです。しかもすべてのキリスト教会がそうであるだけではなく、なんと、神を信じて生きる私たちクリスチャンの一人一人が キリストご自身を土台とする、キリストのものである、神の新しい神殿とされています(コリント手紙(1)3:16-17,6:15-20。このことを、朝も昼も晩も、よくよく覚えておきましょう。
  さて、63節後半からです。「そこで大祭司は言った、『あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ』。イエスは彼に言われた、『あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう』。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか』。すると、彼らは答えて言った、『彼は死に当るものだ』。それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、『キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか』」。神の子キリストなのかどうか。キリストとは救い主のことです。「神の子」とは、神ご自身であるということです。決定的な質問がなされ、主イエスご自身から決定的な答えがなされました。「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子(=主イエスご自身のこと)が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と。救い主イエスはとてもはっきりと語り、誰にでもよく分かるほどまっすぐに答えられました。間もなく、主イエスは十字架につけられて殺され、墓に葬られ、その三日ののちに復活し、その復活の姿を多くの者たちに見せ、やがて弟子たちの見ている前で天に昇っていかれ、父なる神の右に座って天地万物を治める権威を御父から委ねられた王の中の王として世界を治めつづけ、やがて終わりの日に天の雲に乗ってふたたびこの世界に来てくださる。――約束されていた救い主についての預言がこのように着々と成し遂げられてゆく。
 けれどこの同じ64節の言葉が、大祭司カヤパと最高法院議員たちにとってはまったく別の、正反対の意味をもちました。主イエスの弟子たちよ。なぜなら救い主イエスは、聞こえない耳、聞こうとしない耳に向かって語りかけたからです。信じようとしない、偏見に満ちた、自分自身の正しさにしがみつく頑固な心に向かって語りかけたからです。心のかたくなさが分厚い雲のように、彼らの耳と心をすっかり覆い隠していたからです。大祭司カヤパはその衣を引き裂いて、主イエスの発言が神への恐るべき冒涜であると受け止めて、言いました。「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか』。すると、議員たちは答えて言いました、『彼は死に当るものだ』。議員たちはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ちました。ある人は手のひらでたたいて言いました、『キリストよ、言いあててみよ、打ったのは誰か」と。公正な裁判の法廷であるはずの場所が、いつの間にか、ならず者たちの勝手放題な暴力の巣窟に成り下がっています。なんと愚かで痛ましいことでしょう、あの彼らは。ですから私たちは、あの彼らのように神の恵みを無にしないために、神の言葉を聞こうとする度毎に、悔い改めて、大慌てで神の憐れみのもとへと立ち戻らねばなりません。「主よ、私たちの耳と心を開いてください。あなたの御心をはっきりと聞き分けさせてください」と心から祈り求めつづけましょう。
  あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう。この同じ一つの警告と励ましがもう一度繰り返されました。主イエスは復活の姿を多くの弟子たちに見せ、語りかけ、やがて弟子たちが見ている前で、天に昇っていかれました。使徒行伝1章8節以下です、「『聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』。こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』」。なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。主イエスが「天に上り、御父の右に座り」とは御父と同じ立場と権能をもって働かれるということです。実際に何度も、主イエスは「すべてのことは父から私に任せられている」「わたしは天においても地においても一切の権威を(御父から)授けられた。だから」(マタイ11:27,28:18-とはっきりと知らせてくださったではありませんか。一切の権威を御父から授けられ、任された方として、王の権威を担って主イエスは働きつづけます。その主イエスがご自分の弟子として使者として、この私たちを町や村へと、それぞれの家や学校、いつもの職場へとお遣わしになります。
 すべてのものの上に立つ王であられる主イエスが、この世界にふたたび来られる。生きている者と死んでしまった者たち、つまりすべての時代のすべての世界の人々を裁くために、主はふたたび来られます。それが、この世界の終わりの日です。裁くとは、善と悪を区別し、正義と不義とを分かち、神の御心にかなう義と憐れみの秩序を断固として打ち立てることです。この世界の終わりの日。また、世界と私たちを裁くために主イエスがふたたび来られますこと。それは、クリスチャンを含めて、世界の多くの人々を恐れさせてきました。確かに、その裁きにおいて、神の御心に逆らうあり方とその存在とは退けられます。だからこそ例えば、「どんな生き方をしていても、誰でも必ず救われる」などと、私たちは聞き心地のよい都合のよい絵空事を語ることはできません。聖書自身は、そうは語ってこなかったからです。神ご自身による裁きの厳粛さに対する畏れと慎みとを、神を信じて生きるこの私たちこそは、いつも深く覚えて生きる必要があります。「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」(ローマ手紙11:22と警告されています。
 けれどもなお、もし仮に、終わりの日の裁きに対する畏れがキリスト教会の中でまず覚えられるとするならば、それは奇妙なことです。私たちは聖書から教えられ、よくよく習い覚えてきました。主イエス・キリストこそが世界と私たちのための裁き主であると。この私たちの中にも確かにある『神に逆らう在り方=罪』をご自身の身に背負って、裁かれてくださった方こそが裁き主であると。終わりの日、裁きのとき、それは私たちのための救いが成し遂げられるときであるからです。聖書は証言します、「私はあなたがたに裁かれたり、人間の裁判にかけられたりしてもなんら意に介しない。いや、わたしは自分を裁くこともしない」(コリント手紙(1)4:3-5と。なぜなら、私を裁く方は、私のためにも裁きを受けてくださった主イエスである。だから、その主が来られるまでは、先走りをして裁いてはいけないし、どこの誰からも軽々しく不当に裁かれてはならないし、裁かれることもないからである。薄暗い様々なルールやしきたりや約束事、人間同士の軽々しい判断に左右されつづけなくて良いのです。取り繕う必要もなく、誰の顔色をビクビクと窺うことも空気を読むことも、もういらないのです。間違いを犯すまいとして、誰からも非難されまいとして、恐れと薄暗さの中に縮こまっている必要はもうありません。晴れ晴れ清々として、誰に対しても何に対しても恐れることもおじけることもなく一日ずつを生きることができます。なぜ? なぜなら救い主イエスこそが、この世界と私たちのための唯一の裁き主でありつづけるのですから。
  主を待ち望む信仰について、私たちの希望について、預言者イザヤが語りかけています、「ヤコブよ、何ゆえあなたは、『わが道は主に隠れている』と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うか。あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ書40:27-31。たとえほんのわずか、主の支えの御手が伸ばされるときが遅れるとしても、主の守りの外に私たちが置き去りにされることはありえません。私たちの道は、それぞれの一日ずつの歩みは、主の憐れみの眼差しの只中に据え置かれつづけます。私たちの訴えと嘆きは、主の耳に必ず届き、それは必ずきっと聞き入れられます。なぜなら主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたいからです。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられるからです。そのことを、よくよく習い覚えてきた私たちだからです。しかも、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」と念を押されました。主にこそ信頼を寄せることを習い覚える前には、例えば年若い人々を見て、「あらまあ。若くて力にあふれて元気ハツラツとしていて、うらやましいわ。それに比べて私は」などと私たちもつぶやきました。年若くても壮年でも、たとえ百戦錬磨の勇士であっても、熟練の働き手であるとしても、それらはつかの間の、あっという間に過ぎ去ってゆく支えや拠り所に過ぎなかったからです。誰でも弱り、疲れはてて、やがて倒れてしまいます。いくら歯を食いしばっても、心が折れそうになります。これまでにはなかったほどの激しい雨が降り続き、川があふれて洪水が押し寄せるとき、風が吹いて私たちの家に打ちつける日々に、それならば、私たちはどうやって耐え忍ぶことができるでしょうか。何を頼みの綱とし、何を拠り所や支えとして生き延びることができるでしょう。「しかし主を待ち望む者は」と語りかけられています。しかし主を待ち望む者は。しかし主を待ち望む者は。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
  そのことを、私たちは信じます。やがて来られます救い主イエス・キリストを待ち望みつづけて、そのようにして朝も昼も晩も生きることを、私たちは心から願い求めます。イエスは主であると確信し、このお独りのかたの御前に膝を屈め、このお独りのかたにこそ全幅の信頼を寄せているからです。世々のキリスト教会と共に、私たちもこれを同じく信じて告白します、「我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてみごもられ、処女マリヤより生まれ、ポンテオピラトのもとに苦難を受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちより復活し、天にのぼりて全能の父なる神の右に座し給う、かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを裁き給わん――」(使徒信条)

2018年4月11日水曜日

4/8こども説教「神のものは神に返しなさい」ルカ20:19-26


 4/8 こども説教 ルカ20:19-26
 『神のものは神に返しなさい』

20:19 このとき、律法学者たちや 祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。20 そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。21 彼らは尋ねて言った、「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。22 ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。23 イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、24 「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。25 するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。26 そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答えに驚嘆して、黙ってしまった。
(ルカ福音書 20:19-26

主イエスを困らせようとして質問する者たちが来ました。それは、とても大切な良い質問で、私たちも自分自身のこととしてよくよく考えてみるに値します。「カイザル」とは、ユダヤを支配しているローマ帝国の王様です。力づくで言いなりにされ、踏みつけにされつづけるのはユダヤ人たちは大嫌いでした。私たちも、誰でもそうですね。だからローマ帝国の王様になんか税金を支払いたくなかった。けれど、「税金を払わなくていい」と答えれば、ローマ帝国に逆らうことになって捕まえられてしまう。「いや、支払うべきだ」と答えれば、他のユダヤ人から憎まれる。どっちを答えても、イエスを困らせることができるのです。彼らのもっているお金を確かめてみました。それはローマ帝国が発行したローマ帝国のお金でした。「ローマ帝国のお金ならローマに返せば良い。神のものなら神に返したらいい」と主イエスは答えました。
 それなら、私たちそれぞれがもっているお金や財産や宝物はいったい誰のものでしょうか? 主イエスが教えてくださった主の祈りの中の4番目の祈りは、「私たちが生きるために必要な一日ずつの糧をどうか今日も与えてください」です。神さまから必要なもの全部を贈り与えられて生きている私たちです。つまり、私たちが持っているお金や財産や宝物は、何から何まですっかり全部、神さまのものです。その贈り物をひととき預かって、生きるために使わせていただいています。安心して使っていていいですよ。ただし、『やがて時が来て、私たちの財産も生命も、すっかり全部を神さまにお返しする私たちだ』と、よくよく覚えておきましょう。裸で生まれてきた私たちですから、やがて裸で何も持たずに、神さまのもとへと帰る私たちです。


4/8「剣や棒をもって」マタイ26:47-56


            みことば/2018,4,8(復活節第2主日の礼拝)  157
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:47-56               日本キリスト教会 上田教会
『剣や棒をもって』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:47 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。 (マタイ福音書 26:47-56)


救い主イエスが十字架におかかりになるその前の晩のことです。弟子たちと最後の大事な食事をし、ゲッセマネの園で祈りの格闘をし、その直後に同じ場所で、主イエスと弟子たちは敵対者たちに取り囲まれます。しかもその人々は剣と棒によって武装した者たちです。主イエスは、あらかじめご自身の十字架の死と復活を御父との間で決めて、よくよく知っておられました。自分で知っておられただけじゃなく、「あなたがたもちゃんと知って、分かっているように」と弟子たちに繰り返し繰り返し予告なさいました(マタイ福音書16:21-,17:22-,20:17-19。主イエスは、剣や棒をもって大勢で迫ってくる者たちに、力で対抗しようとはなさいませんでした。主イエスの弟子たち。ここで救い主は、あまりに無力で無防備な姿をさらしています。救い主イエスが準備しておられた《神の国》は、剣や棒や、強く大きく賢くあろうとする者たちの願いや欲求とはずいぶんかけ離れたものでした。まるっきり違うのです。彼は、ただ捕えられ、ただ引き渡されていきます。ほふり場に引かれてゆく小羊のように。毛を切る者の前で物言わない羊のように、彼は、ただ捕えられ、ただ裁きを受け、ただただ命を投げ出そうとしています。この方のこの無力さ、この無防備さに、私たちは以前にも出会ったことがあります。最初のクリスマスの夜の出来事です。泊まる宿もなく、村の片隅の、家畜小屋のエサ箱の中に、この方はご自身の小さく無防備な赤ちゃんの身を横たえました。裸んぼうで、ただ布切れ一枚にくるまって。およそ500年ほど前のこと、宗教改革を戦った1人の伝道者は、「この赤ちゃんを見なさい」と指さしました。「この赤ちゃんのものではないものはこの世界に一つとしてないのです。これは、あなたがたの良心が彼を恐れることなく、彼のうちに慰めを見出すためなのです。神さまは、あなたがたが彼のうちに避け所を見出すようにと、あなたの前にこの赤ちゃんを置かれるのです。誰にも、彼を恐れはばかることはできません。……神さまの慈悲は何よりもまず、あなたが絶望しないことを望まれます。彼を信じなさい。彼を信じなさい」(M.ルター『クリスマスブック』,新教出版社,p61)。クリスマスの夜ばかりではなく、一年中、私たちはこの特別な赤ちゃんの姿を思い起こしたいのです。家畜小屋のエサ箱の中に置かれた救い主イエスの姿を。


  55節;「あなたがたは強盗に向かうように、剣や棒をもって私を捕らえにきたのか」。祭司長や民の長老たちから送られてきた大勢の群衆に向かって、主イエスは仰っています。そして裏切ったユダに対しても。いいえ それだけではなく、弟子たちを振り返って、またここにいるこの私たちを振り返って、主は同じことを仰います。「その手に後生大事に握っているものは何だ? どういうつもりか。ずいぶん長く私に従ってきたはずなのに、そのあなたまでもが剣や棒を持つのか。手持無沙汰なように、心細そうに、何か身を守る道具はないかといかにも物欲しげにキョロキョロ見回しているのか。まさか剣や棒によって、私やあなたがた自身を守ろうとでも考えているのか」。私たちは何ほどの者でしょうか? ゆるされた罪人たちよ。ゆるされてなお罪深くありつづける小さな小さな者たちよ。この世界は、実は《剣や棒を握るものたちの王国》でありつづけます。互いに押したり引いたり、見栄や虚勢を張り合ったりしあう。強さや由緒正しい格調の高さや多数であることや、自慢できる得意な何かをもっていることが、その王国で勝ち抜いていくためのルールでありつづけます。教会の中でも外でも()、強さと数の多さがその勢力を決定づけるのであり、優れていなければ、にぎやかに繁盛していなければ、せめて人並みでなければ、ひどく肩身が狭い。そこで、いつも私たちは選択を迫られます――
  ①剣や棒をもつ。丈夫で役に立つ道具を、1つでも多く手に入れる。 ②怖気づいて、散り散りに逃げ去ってしまう。あるいは、③人間からのものではないまったく新しい別の、つまり神ご自身の《強さ,権威》のもとに立つか。
あのお独りの方は、剣でもなく棒でもなく、人間たちの力の強さや数の多さでもない《権威》を携えて来られました。主イエスは律法学者や他のどんな大臣や先生たちともまったく違って、本当に権威ある者として、神ご自身からの権威を担って教えられたので、だから人々はひどく驚きました。驚きつづけます(マタイ7:28-28。だからこそ剣や棒など持たなくても、手ぶらでも、自慢できるような才能や得意なものを何一つ見出せなくても、この方のもとに立つことがゆるされます。いいえ、むしろ、剣や棒や強さや数の多さに目が眩んだままでは、この方の《強さ,権威》に気づくことができません。この後ごいっしょに歌います讃美歌3331954年版)は、不思議な安らかさを歌っていました。あまりに逆説。アベコベで裏腹な真実です。333番の1節、「主よ、どうか私をがっちりと捕まえていてください。そうすれば、私の心は解き放たれて、自由になることができます。私が握っているこの剣を、今にも相手に向かって振り降ろそうとしているこの刃を、どうか粉々に打ち砕いてください。そうすれば、こんな私であっても、私を苦しめ悩ませている敵に打ち勝つことができるでしょうから」。え? 剣や棒を握るのでなしに、どうやって打ち勝てるというのか。だから、52節です。「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者は皆、剣で滅びる」。他の人々に対してではなく、主イエスは特にご自分の弟子である私たちに向かってこう仰り、このように警告なさいました。人間的な力や権威や世間様からの良い評判、見栄を張り、体裁を取り繕おうとする心、由緒正しい伝統、格式の高さなどによってではなく、ただただ主イエスの権威によってだけ立つようにと。そうでなければ、キリストの教会と私たちクリスチャンは滅びると。人間からの、人間たちの間での権威か、それとも神ご自身からの権威のもとに立つのか? 両方はなく、どちらか一方しか選ぶことができません。もしかして、私の敵、私を苦しめ悩ませている敵の正体は、この私だったのか。私自身の心の中にこそ、私を苦しめる手強い敵が巣くっていたのか。

  わが心は定かならず、
  吹く風のごとく絶えず変わる(2節)
    わが力は弱く乏し、
  暗きにさまよい道に悩む   3節)

 2節、「私の心は定かではありません。吹く風のようにコロコロコロコロと移り変わってゆきます。ほんの小さな風が吹き、さざ波が立ちます。すると安心したり、心配になったり、満足して喜んだかと思えば、ほんのささいなことでもう悲しみ嘆いている。ですから主よ、あなたご自身の手で私の手をしっかりと掴んで引っ張っていくように、連れていってください。そうすれば、こんな危うい気もそぞろな私であっても、まっすぐな晴々した道を歩いてゆくことができるでしょうから」。2節、3節は共に、やはり自分自身の不確かさや危うさや弱さを振り返っています。そこから、神に願い求めることをしはじめていますね。むしろ、その心細げな低い場所からでなければ、誰1人も神さまに本気で願い求めることなど出来なかったのです。私たちの信仰の出発点がここにあります。4節の末尾;「そうすれば、永遠の平安を受け取るでしょう」。「永遠の」に含まれる意味は、「ずっといつまでも続く」ことと共に、「いつでもどこでも、どんな場合にも誰と一緒のときでも」という広がりと確かさを含みもちます。その広がりと確かさを自分自身のこととして知っているし、信じているので、それで「どうか主よ」と願っています。この333番のことを1人の友だちに打ち明けたことがあります。「教会に立ち戻ってきて、神さまを信じて生きるようになったその初めの頃から、この333番が自分にとってとてもとても大切なんだ。困り果てたときのお守りみたいなものだし、神さまと自分のことを教えてくれる特別な家庭教師みたいで、心を支えてくれる用心棒みたいで、歌うたびに、ああこういうことだったと教えてもらえる。それで100回でも200回でも、朝も昼も晩も、この歌を口ずさみつづけている」。するとその友だちは、「え、そうですか。嬉しいなあ。実は私も、この歌なんです。学生時代に心を捕らえられて以来ずっと長い間、大事な讃美歌の一つなんですよ」と。主よ、どうか私をがっちりと捕まえていてください。そうすれば、私の心は解き放たれて自由になることができます。私が握っているこの剣を、今にも相手に向かって振り降ろそうとしているこの刃を、どうか粉々に打ち砕いてください。そうすれば、こんな私であっても私を苦しめ悩ませている敵に打ち勝つことができるでしょうから。

             ◇

  主イエスは捕らえられ、引き渡されてゆきました。このことをあらかじめ預言して、イザヤ書53:6ではとても厳しいことが語られていました。「われわれはみな羊のように道に迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置かれた」と。そのわたしたちの不義、罪。たとえ私たちが《羊の群れ》のようであって、その眼差しの低さと了見の狭さ、自分勝手さによって、またその弱さや臆病さのせいで道を誤ってしまったとしても、たとえそうだとしても、それらは私たち自身の不義であり、罪だったのです。どこから来て、どこへと向かっているのかを見失い、そのためにこそ神さまからも、いっしょに生きるはずの人々からも、あるべき自分自身からもはぐれて、迷いだし、おのおのの道に向かって行き、そこで誰かを傷つけたり、誰かから傷つけられたり、誰かを苦しめたり、あるいは苦しめられたとしても、たとえそうだとしても、それらは償われるべき不義の結果でした。私たちの主イエスは、刺し貫かれ、打ち砕かれました。それは私たちのすべての背きと不義を担ってくださるためでした。それは私たちが安らかに平和に暮らすためであり、この私たちもまた癒されて、神の憐れみのもとへと立ち返って生きるためでした。主イエスは軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みと恥と苦しみを背負い、病いを知ってくださいました。あなたの痛み、私たちの病いが、主の体に深々と刻まれました。
  主イエスを見捨てて、弟子たち皆が逃げ出しました。けれども主イエスご自身は、決して彼らを見捨てませんでした。あの弟子たちも私たちも、主を愛したり尊んだりすることに失敗しつづけましたが、主ご自身はなお私たちを愛することをお止めになりませんでした。やがてこの主のもとに私たちは再び呼び集められます。そのとき、主を見捨ててしまったことも、手ぶらで逃げたことも、手ぶらのままで再び主のもとに呼び集められたことも、新しい意味を帯びて、まったく別の驚きをもって、私たちの魂に、キリスト教会の歴史に深々と刻まれたのです。主の弟子たちは裸で手ぶらでしたが、もう恥ずかしがりはしません。恐れもしません。物欲しそうに、心細そうに、周囲の誰彼を見比べることもしません。主ご自身のものであるキリスト教会は、神さまの御前に、またこの世界に対しても、裸であり手ぶらであって、けれどそれを恥とはしません。主のものである私たちは、1人の伝道者も、1人のクリスチャンとしても、なお裸であり、何をもってしても着飾ることもできず、取り繕うこともできないと知らされ、身を隠すべき木立もなく、腰を覆い隠すべき小さな葉っぱも虚しいと告げられ、「そんなものは下らん。つまらない。直ちに投げ捨ててしまえ」と叱られ、けれどなお恥じることなく、ほんのわずかも恐れることもなく、ビクビクして身を隠す必要もありません。なぜなら、慈しみ深い神さまは「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたは塵だから塵に帰る」とアダムとエバに語りかけたあと、二人に皮の着物を造ってを着せかけてくださいました(創世記3:19-21。それだけでなく私たちにも、特別仕立ての着物を作り、私たちのこの裸の身体を覆ってくださったからです。他には、この私たちの哀れさや心細さや恥ずかしさを覆うものなど何もありません。隠され、秘められたもので、明るみに出されないものなど何一つもありません。すっかり丸ごと見通しておられる方があります。神さまの眼差しの中に、この私自身の愛の乏しさも、かたくなさも強情も、憎しみも傲慢さも、卑屈さもズルさもあらわにされ、すっかり知り尽くされていました。しかも、そこに《神さまの憐れみとゆるしの衣》が掛けられ、今ではすっかりと覆われてしまっているではありませんか。私たちは今や、その裸の上に、一枚の衣をまとっています。ご自分の衣をすっかり脱いで、つまり自分は裸になって、それを私たちに着せかけてくださったただお独りの方がおられるからです。救い主イエス・キリストが。「さあ、これを着なさい」と。私たちは驚き、目を見張ります。裸になってくださった救い主イエスの義の衣(ローマ手紙3:21-,ハイデルベルグ信仰問答.問60に。「なぜなら」と何度でも何度でも、いつまででも、同じ一つの答えを答えたい。兄弟や家族に向かっても、この私自身の魂に向かっても。
なぜなら、なぜなら。なぜなら、あの丘の上に。あの十字に組み合わされた木の上に、あの独りのお方が命を献げてくださったのだからと。