2016年4月26日火曜日

4/24こども説教「私を支えるかどうか?」ルカ4:9-13

 4/24 こども説教 ルカ4:9-13
『私を支えるかどうか?
                ~荒れ野の誘惑.3

4:9 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上 に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。10 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。12 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。(ルカ福音書 4:9-13)

  主イエスは荒れ野を4040夜さまよい、悪魔から誘惑を受けました。その3番目の誘惑です。あの彼は私たちの救い主を神殿の屋根の端に立たせました。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、聖書にこう書いてあるからだ;『あなたの足が石に当ることがないように、天使たちはあなたを支える』と」(9-10節,詩91:11-12)。なるほど。そのとおりになれば、イエスが神から送られた救い主であるとおおやけに証明できたことになります。もし神殿の庭に見物人たちが大勢いたら、みな拍手喝采して主を褒めたたえるでしょう。テレビ中継でもされたら、世界中の人々がいっぺんにこの方を信じて、キリスト教の黄金時代が到来するでしょう。けれど救い主イエスもまたすべてのクリスチャンも、見せびらかすために、また自分自身を誇るために、そんなことをしてはいけません。
 それでも緊急事態で、例えば死にそうな誰かを助けるためなど、よくよく考える余地もなく大慌てで、ビルの屋上からでもどこからでも飛び込まねばならないときもありえます。もし祈る時間があるなら、こう祈って飛び降ります。「神さま、あなたが私を支えることができるのを私も知っています。支えてください。けれど私の願いどおりではなく、あなたの御心のままになさってください」(*1。これならOK。
 しかも、私たちの信仰は小さくて乏しい。たびたび不信仰に陥る。神さまをよくよく信じたくて、けれど信じきれずに、ついつい心細さや疑いを抱えてしまいます。その私たちを可哀そうに思って、神さまが憐れみの御手を差し伸べてくださることを覚えておきましょう(*2だって一番の大問題は、神さまを本気で信じることができるかどうか。神さまにこそすべてすっかりお任せできるかどうかです。例えば士師ギデオンが臆病で弱虫だったのは、口先では「信じてる信じてる」と言いながら、正直なところ、神さまをちっとも信じられなかったからです。「私を守って助けてくれるんですか。本当ですか本当ですか、証拠としるしを見せてください」と何度も何度も頼みました。神さまは、信じる心の全然足りないギデオンのために岩の上でパンと肉を焼いて見せたり、羊の毛皮をずぶ濡れにしたり乾かしたり、ずぶ濡れにしたり乾かしたりして何度も何度も試させてあげました。例えば主イエスの弟子トマスが疑い深くて「信じない、信じない」と言い張っていたのは、神さまを信じたくても信じられなかったからです。そのトマスのために、救い主イエスは証拠としるしを突きつけます。「さあさあ、あなたの手をこの脇腹のヤリの傷跡に入れてみなさい。あなたの指を私の手のひらの釘跡に入れて、よくよく触ってみなさい。信じないあなたじゃなく、信じるあなたになりなさい」とグングン迫って来られました。それでやっと、疑い深いトマスも信じる者にされました(士師記6:17-40,ヨハネ福音書2024-29試しもしないし、しるしも証拠も求めない。けれど神さまをなかなか本心では信じきれない。それではただお行儀がいいだけで、いつまでたっても臆病で弱虫で疑い深くて頑固で、なんでもかんでも恐ろしくて心配で、心細いままです。思い切って申し上げましょう。頑固さと不信仰に留まるよりも、よくよく納得できて十分に信じることができたほうが、よっぽど幸せです。信じないあなたじゃなく、信じるあなたになりなさい。もし、「わたしには信じる心が全然足りない」と気づくなら、「神さま。どうか私の信仰を増し加えてください。信じない者ではなく信じる者に、わたしを新しく造り替えてください」と、あなたも願い求めることができます。もし願い求めるなら、あなたでさえも きっと必ずかなえていただけます。

          【割愛した部分の補足】
            (*1)「必ず~してください」では自己中心すぎるし、自分が神さまに指図しています。けれど私たちが主人なのではなく主なる神さまこそが主人であり、主に従う私たちです。しかも、自分の命を捨てなければならないときもあるからです(ルカ9:21-25)。何でも願うことがゆるされていますが、いつも「~けれど私の願いどおりではなく、あなたの御心にかなうことこそが」とへりくだり、慎んでいましょう。御父への信頼と服従。主イエスの、このゲッセマネの祈り(ルカ22:42)こそが、私たちのいつもの基本の心得です。
          (*2)不信仰で頑固な私たちには、信じるためのしるしや手がかりが必要です。その私たちを憐れんで、信仰へと招いてくださる神さまです;ヨハネ福音書2:11,2:23,3:2,4:54,6:2,14,26,30,7:31,9:16,10:41,11:47
(*3)「主なるあなたの神を試みてはならない」(12節)。主イエスが仰り、聖書が戒めるとおりです。「悪をむさぼってはならない。偶像礼拝をしてはならない。不品行をしてはならない。主を試みてはならない。(不平不満を)つぶやいてはならない」(コリント手紙(1)10:8-13)。それらこそが不信仰に陥り、主から背き去ってしまう危うい入口となります。けれどなお、自分自身の信仰の弱さや不信仰に悩む私たちです。信仰を強めてくださいと願い求めるように促され、主に堅く信頼を寄せるためのしるしや手がかりを求めることもゆるされます。
 他方、「神が私たちを試みること」はあるのか、ないのか。聖書は「ない」(ヤコブ手紙1:13)と言い、「ある」(本箇所ルカ4:1-2「聖霊に満ちて、~御霊に引き回されて」=悪魔の誘惑は神のご計画と導きのもとでなされました。他にも、申命記8:1-5。神は訓練や教育の機会として、人を試みることもある。コリント手紙(1)10:8-13)と言い、矛盾する両極端の答えを提示します。
(*4)「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた」(13節)。また戻ってくる、という含みです。ゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘は同時に、御父への信頼と従順に留まるための格闘でもあったし、弟子らにも「誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈りつづけよ」と主は警告なさった。折々に、主イエスが祈りつづけていたことも、誘惑や試練との戦いの継続をそこに見ることもできます。主イエスは『まことの神であり、同時にまことに人間』でもあった。その人間として弱さを抱えるからこそ、御父に向かって祈りつづける必要もあった。十字架上で、「十字架から降りて自分を救え」(マルコ福音書15:29-32)と人々から嘲られたとき、そこに悪魔からの誘惑と最後の挑戦があったのかも知れません。

――これらは、かなり難しい事柄です。聖書を開いて、自分の心でよくよく考えめぐらせてみること。これまで自分が聞き分けてきた福音理解を総動員して、『聖書全体としては何をどう語ってきたか。どういう神さまか』と熟慮すること。よく分からないときは、そのままにせず、牧師に本気で質問すること。もし、その答えに納得できないとき、「◎△牧師が~と言ったから」などと、(たとえ、その牧師をとても信頼しているとしても)そのまま鵜呑みにしてはいけません。その牧師は精一杯に答えようとするでしょうけれど、その牧師も神ではなく神の代理人でもなく、ただの不十分な生身の人間にすぎないからです。勘違いしたり、間違ったことを言ってしまうことも度々ありうるからです。


4/24「無から有を呼び出す神」ローマ4:16-25

                     みことば/2016,4,24(復活節第5主日の礼拝)  56
◎礼拝説教 ローマ人への手紙 4:16-25                日本キリスト教会 上田教会
『無から有を呼び出す神』

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

4:16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって・・・・・・19なお彼の信仰は弱らなかった。20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。22 だから、彼は義と認められたのである。23 しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。                            (ローマ手紙 4:17-25)


 
  あなたは神さまを信じてもいいし、信じなくても構いません。「ぜひ信じたい」と願うなら、それなら、そうしたらいい。「いいや信じたくない。とても信じられない」と思うなら、サッサと止めてしまえばいいのです。あなたが自分で、自由に選べばいいでしょう。けれどもし、信じて生きようとするならば、せっかく信じるならば、信じるに値する十分な神さまをこそ信じるほうがよいでしょう。しかも兄弟姉妹たち、雨の後にまた真っ黒い雲が戻ってきます。まもなく雨が降り、津波や地震や洪水が押し寄せ、大きな風が吹いて私たちをひどく打ちつける日々が近づいています。どんな神を、どのように信じているのかが問われます。ますます問われつづけます。
 まず、16-17節。「このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。遠い昔、アブラハムとサラが神さまからの招きを受けて、神さまを信じて、長い旅をしはじめた(創世記12:1-4。これが、神を信じて生きる人々のそもそもの出発点でした。この16-17節には、とても大事な点が含まれていました。まず「すべては信仰によるのである」と言い始めて、それを直ちに、「恵みによるのであって」と言い直しています。「信仰。信仰。わたしの信仰、あなたの信仰。大きな信仰、小さな信仰。豊かで立派な信仰、それにくらべて小さくて貧しくて粗末な信仰」などと軽々しく言いますが、けれどその『信仰』の中身と実態は神さまからの恵みであったのです。恵みであるとは、「その人がどれだけ熱心か、どれほど見所があるか。善良なのか生真面目なのか、いい加減か」などとその人自身の素性や性分や条件を一切問わずに、ただただ神さまからの一方的な恵みの出来事であるということです。これが『信仰』について考えるときの、いつもの基本線です。そのこととはっきり結びついていますが、17節の終わりで、「この神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」と。その人が今現在、生きていようが死んでいようが、元気ハツラツだろうが虫の息だろうが何しろ、神さまがその人を生きさせると仰るなら、その人は生きる。しかも、何もないところから神さまはご自身の願いと計画通りに物事を生じさせる。無から有を呼び出す神である。だからこそ、それまでは神を神とも思わなかった、信じるつもりが少しもなかった人が、ある日突然に神さまを信じているということが起こるのです。無から有を呼び出す。生命も信仰も、そのようにして神さまから自由に贈り与えられます。ビックリです。
  18-22節、「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである」。「アブラハムの信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」。本当にそうだったでしょうか? 創世記のそこのところに、ちゃんとそう書いてありましたか。いいえ とんでもない。それは、旧約聖書を少しも読んだことのない人の軽率な考えじゃないかなあ。たしかにモリヤの山の上の、信仰深い出来事があった(創世記22:1-19)。でも、いつもいつもあんなふうだったわけではありません。公平に言えば、「あの彼の信仰も強くなったり弱くなったりした。神さまに信頼しているときもあれば、そうじゃなく不信仰に陥って疑うことも度々あった。神に従うときもあれば、背いて離れ去る日々もあった」と言うべきではありませんか。例えば、「子供がもうすぐ生まれる」と神から告げられたときだって、アブラハムは顔を伏せて、クククと苦笑いをしたじゃないですか。妻のサラもまったく同じようでしたね。天幕の陰でその予告を聞きながら、彼女も淋しく笑いました。「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか(あるはずもない)」と(創世記17:17,18:12)。あの夫婦は、不信仰に陥ることが度々、何度も何度もあったし、神の約束と真実さを疑うことも神さまに背くことも何度も何度もありました。この私たち自身に負けず劣らずに、私たちとほぼ同じように。神に従う旅に出た直後に、自分の妻を妹だと偽って王に「さあ好きなようにしてください」と差し出しました。それは神へのあきらかな裏切りでしょ。同じことはもう一度あり、そんな親の不信仰に倣って、息子夫婦もまったく同じ裏切りを犯してしまうほどでした(創世記12:10-,20:1-,26:1-)。自分の息子イシマエルを連れて女奴隷ハガルが家出しなければならなかったのも、アブラハムが妻サラに「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と言ったからでした(創世記16:6)。イシマエルもまた神の恵みの約束のうちに置かれているとアブラハムがちゃんと弁えていたなら、どうしてそんな不誠実なことが言えたでしょう。約束の子供は生まれないと諦めて、自分の召使いを跡継ぎにしようとしたこともありました(15:2-3)彼は神さまからの救いの約束を度々すっかり忘れていたし、当てにならないカラ約束だと侮っていました。ほかにも色々。不信仰につぐ不信仰。疑いと裏切りの連続、それがあの夫婦の日々の現実でした。
  アブラハムの日々と聖書自身を、現実離れした理想や絵空事にしてはなりません。不信仰に陥ることも信仰が弱まることも疑うこともなかったスーパーマンが、一体どうして私たちの『信仰の父』になれるでしょう。どうして私たちが、そんなどこにも存在しないような架空の人物を手本として生きられるでしょう。しかもその超人・超善人たちは、私たちが聞き届けてきたはずの福音の真理(ローマ3:21-,テモテ(1)1:12-17)の枠外にいるというのでしょうか。私たちはキリストの十字架によって救われたが、けれどあの彼らは、彼ら自身の善行や美徳によって、正しくしっかりした強い信仰によって、救われたというのでしょうか。どうぞ、自分の目と心で確かめてみてください。聖書のページを開き、また自分自身のこれまでの日々を振り返って。ここですぐに思い出すのは、とても悪いことをした女の人を皆が救い主イエスのところに連れてきたときのことです(ヨハネ8:1-11)。「こいつは悪い奴だ。神さまを裏切っている。とんでもない。ゆるせない」と子供も大人も年寄りもそれぞれ手に石っころを握って、今にもその女の人に投げつけて殺そうとしました。すると主イエスは、その人たちにこうおっしゃいました;「あなたがたの中で罪のない者が、まず、この女に石を投げつけるがよい」。・・・・・・石を投げつけることのできた人は一人もいませんでした。一人また一人と立ち去っていきました。「罪のない者が」と聞いて、皆はモジモジ、ソワソワしながら考え始めました。「さあ、どうだったかなあ」と自分自身がこれまでどんなふうに生きてきたのかを振り返ってみました。面白いのは、あのときの、立ち去っていく順番です。「年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された」(9)。まず708090代の年長者たちが恥ずかしそうに下を向いて去っていき、その姿を見て、「ああ。そういえばオレも」と5060代の者が、若い父親たち母親たち、高校生・中学生も。その大人たちの姿を見て、ついには小学校3年生の「もちろんそうさ」と胸を張っていたあの子も、「ああ。そういえばボクも」と自分自身の身勝手さやずるさや意地悪さを棚上げして人を責めていた自分自身に気がつきます。「あの人は確かに悪いけど、僕にも石を投げる資格なんてない。ぼくだって、友だちに悲しく淋しい思いをさせたり、ついうっかりして苦しめたり、神さまにも悪いことをしてきたんだった」と。人生経験をつみ、嬉しいことや辛いことや色んな思いを味わって長く生きてきたとは、そのことです。
  それならば、このローマ手紙4:16-を、どんなふうに説き明かしましょうか。「アブラハムは信仰の父。私たちの信仰の手本です。もちろん彼はほんの少しも信仰が弱まりませんでした。不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、信仰によってますます強められ、神を大いに讃美しました。これが私たちのための手本です。この手本に照らして、どんな自分かを思い出してください。信仰が弱まることも疑うこともない、神の約束を忘れることもない人が、この神に従ってきなさい。神の御力と真実を、いつでもどこででも確信できる人こそが、ここに残りなさい。これこそ神の恵みです」と涼しい顔をして言いましょうか。そうしたらモジモジ、ソワソワして、十分に長く生きてきた年長の者から始まって一人また一人と順々に立ち去って、ついにキリストの教会には誰一人もいなくなるでしょう。そう、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ手紙 3:10-12,22-24)
 そうすると、あのローマ手紙4:16-25はあまりに寛大な、あまりに大目に見た報告であると言えるでしょう。事実に即して、もう少し丁寧に親切に報告を言い直すなら;「アブラハムは、たしかに信仰が弱まった。彼は不信仰に度々陥って、神の約束を何度も何度も疑った。繰り返し神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけた。けれどなお神は、そんな彼らをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださり、背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生きる人間としてくださった」と。これが実態です。
  アブラハムも私たち皆も、《憐れみの取り扱い》を受けました。憐れみを受けたのであり、限りなく忍耐され、ゆるされ続けてきたのです。ダビデもモーセもソロモンもノアも、まったく同様です。この私たち一人一人も。弱さや狡さや疑いや迷いや罪深さをそれぞれに山ほど抱えて、けれど、それなのに救われ、神の民の一員としていただきました。だからこそ、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった」(テモテ手紙(1)1:15という証言は真実であり、私たちはそのまま信じて受け入れたのでした。そうするに値する神でした。ローマ手紙4:16-25は、こうして私たち罪人に対する神ご自身のあまりに寛大な憐れみ深い眼差しと取り扱い方法をこそ示したのです。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される神です(ヨナ4:2)
あまりに寛大なその同じ神が、私たちを、アブラハムのように扱ってくださっています。あなたもたしかに信仰が弱まった。これまでもそうだったし、多分これからも。不信仰に陥って、神の約束を何度も何度も疑った。神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけた。度々いつもいつもそうだった。けれどなお神は、そんなあなたをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださる。背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生き、やがて感謝にあふれて晴れ晴れと死んでゆくこともできる人間としてくださいます。「これはアブラハムのためだけではなく私たちのためでもある」と聖書にたしかに書いてあります。「私たちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じる私たちをも、義と認められる」23-24節)と。主イエスに率いられて、私たちもよみがえらされ、新しい生命に生きる者とされます。あなたは、これを信じますか。





2016年4月18日月曜日

4/17こども説教「主イエスにだけ仕え、主イエスにこそ聞き従う」ルカ4:5-8

4/17 こども説教 ルカ4:5-8                
 『主イエスにだけ仕え、主イエスにこそ聞き従う』 
      ~荒れ野の誘惑.2

4:5 それから、悪魔はイエスを高 い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。      (ルカ福音書 4:5-8)


 荒れ野で主イエスが受けた2つ目の誘惑です。悪魔は、救い主イエスに世界の国々を見せて、こう誘います。「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、それを全部あなたのものにしてあげましょう」と。私たちのこの世界には罪と悲惨もあり、片隅へ片隅へと押しのけられて惨めさや心細さを噛みしめる小さな人々も沢山います。悪魔の眼差しは、けれども、この世界が背負っている罪深さや惨めさには向けられません。目に入らないのかも知れません。見て見ぬふりをしているのかも知れません。私たちの救い主は、世界とこの私たちの罪を取り除くために来られました(マタイ1:21)。このお独りの方は、やがて私たちをご自分のものとし、私たちの主となってくださいました。けれど、悪魔にひれ伏し拝むことによってではなく、十字架の苦しみと死をもって悪魔の支配を打ち倒すことによってこそ。
 この世界の権力と栄華は、好きなように思い通りに振る舞って他の人々を従わせる大きな強い力や、お金や豊かさや地位や名声は、悪魔に任されているのでしょうか。本当に? もしそうであるならば、私たちは、この世界で豊かさや喜びを手にしようとするなら、よい評判や地位をえたいと願うならば、悪魔に魂を売らなければならないことになります。あるいは妥協して、ほんの少しは、悪魔やほかの様々なものを拝むことや、ひれ伏して誰かの言いなりにされたり、人の顔色をうかがってビクビクすることも我慢しなければならないことになりますね。そうでしょうか? 一国の大統領や王様が握るような巨大な権力や繁栄があります。また、ごくささやかな権力と繁栄があります。どんなに小規模な集団やサークルの中にもボスがおり、小さな子供たちの世界にも、例えば保育所や幼稚園の子供たちの中でさえ、彼らなりの彼らのためのこじんまりとした、ささやかで小さな権力と繁栄があります。驚くべきことです。私たちはこうして権力と繁栄と地位と良い評判が欲しくて欲しくてしかたがない人々の世界の只中に生きており、そういう気分は、職場にも、一軒の家の中にも、そしてキリストの教会の現実的な営みの中にも忍び込んできます。けれど、キリストの教会よ。主イエスの弟子たちよ。ここに小さな親分たちや小さな小さな子分たちを作ってはいけません。誰も、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶったりいじけたり、恥じたり恥じ入らせたりしてはなりません。なぜ? 救い主イエスこそが、この世界全部と私たちとのただお独りの王様であるからです(*)。私たちがよく知らされてきたとおりに、天に主人がおられます(マタイ11:27「すべての事は父からわたしに任せられています」,17:5「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」,28:18「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。だから」,ローマ14:9,コロサイ4:1。子供のための交読文は告げています;「あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか?」「いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます」(当教会,こども交読文3)「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら」(ローマ手紙10:9参照)、その人は救われます。だからこそ主イエスにだけ仕え、もっぱら主イエスにこそ聞き従いつづけて生きる私たちです。


   【割愛した部分の補足】
(*)天の御父から、天と地のいっさいの権威を救い主イエスは授けられ、王としてこの世界を統治しつづけます。世の終わりまで、主イエスの統治がつづきます。そのことを、わたしどもはよくよく覚え、魂に深く刻み込んでいなければなりません。主イエスが洗礼を受けたときと、山の上で姿が変わったときと、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなうものである。だから、これに聞け」(ルカ3:22,9:35を参照)と二回もつづけて念を押されました。キリスト教の信仰とは、主イエスにこそ聞き従って生きることであり、そこから格別な生命と幸いを受け取りつづけることです。






 ◎とりなしの祈り

 教会と全世界のかしらであられます主イエスの父なる神さま。罪と肉の思いから私たちを日毎に救い出し、主イエスの復活の命にあずかって新しく生きる私たちとならせてください。
 主よ。この国の政治家たちのせいばかりではなく、私たち自身に大きな責任があります。神さま、申し訳ありません。3月末に施行されてしまった安全保障関連法は、誰の平和も安全もほんの少しも保障せず、かえって脅かしつづけます。自衛隊を、思いのままにどこででも戦争できる軍隊に変えてしまいました。この国と私たち自身が深く悔い改めて、自衛隊員たちが無駄に人を殺したり殺されたりし始める前に、とても悪い法律をなんとかして廃止することができますように。また、日本中が人の住めない荒れ果てた不毛の土地になってしまう前に、手遅れになってしまう前に、すべての原子力発電所を止めて、新しく歩みはじめさせてください。なぜなら福島原子力発電所事故はまったく収束しておらず、収束する見込みもなく、いまだに壊れた原子炉の中で何が起こっているのかほとんど分かっておらず、高濃度の放射能汚染水を毎日大量に海に垂れ流しつづけ、誰一人もそれをコントロールできずにいるからです。しかも「収束した、コントロールできて安全だ」と言い張り続けるだけで、電力会社も原子力管理委員会も国家も、誰も責任を負おうとしないからです。また、米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちの怒りと苦しみに、私たちも目と心を向けることができますように。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせてください。貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。年老いた人々にも子供にも若い者たちにも、どうか神さま、生きる喜びと確かな希望を見出させてください。彼らの喜びと悲しみを、どうか、私たち自身の喜びと悲しみとさせてください。
  主なる神さま。ですから。私たちを今こそ地の塩、世の光として用いてください。互いの愛と慈しみを育み合い、子供を精一杯に養い育て、互いによい友人同士であらせてください。富と豊かさと、目の前の損得にばかり執着し、そのことに目も心も奪われつづけることから、私たちをすっかり解き放ってください。エゴが支配する世界ではなく、エゴと自己中心の思いを捨てた世界を、この私たちに造り上げさせてください。あなたの御心にかなって生きることを、この私たちにも本気で願い求めさせてください。

 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

4/17「明日をも分からない生命?」コリント(1)15:17-33

                   みことば/2016,4,17(復活節第4主日の礼拝)  55
◎礼拝説教 コリント手紙(1) 15:17-33           日本キリスト教会 上田教会
『明日をも分からない生命?』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

15:17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。・・・・・・32 もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。33 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。34 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。
                                   (コリント手紙(1) 15:17-33)




 せっかく主を信じてクリスチャンとされながら、その信仰の中身の、肝心要の点に関してはなかなか信じきれない人々がいました。「文化的教養や人生訓、知識や慰めとして、いろいろ役に立つことや為になることが書いてあるらしい。信じていないわけじゃない。けれど復活は、正直な所どうだかよく分からない・・・・・・」と。それで仕方なしに、あの当時の彼らも、思いのままに自由に振舞っていました。32節、「もし死人がよみがえらないのなら、わたしたちは飲み食いしようではないか。明日をも分からぬ命なのだ」と。「さあ飲み食いしようじゃないか」。この彼らの、飲み食いの場面を具体的に現実的に思い浮かべてみましょう。どんな顔つきで、どんな気分で、飲み食いしているでしょう。終戦間際の、カミカゼ特攻隊の、出撃前夜のドンチャン騒ぎによく似ています。いくら飲んでも、ご馳走をたらふく食べても、ハメを外しても、面白くもなんともない。嬉しくもなんともない。それは絶望に犯された、寒々しい、あまりに苦い宴会です。ただこの世の生活の中でだけ、ただ心の片隅でだけ信じているだけなら、「わたしたちはすべての人の中で最も哀れむべき存在となる」19節)と聖書は語ります。その通りですね。何をどう信じているのか、と問われています。キリストは復活したのか、しなかったのか。したのなら、このお独りの方を『初穂』として、私たちもまた新しい生命に生きることになる。もしそうでなければ、それぞれ思いのままに生きて、死んだらそれでおしまいだと。あなたは、キリストに望みをかけているのですか? その望みは、どこにまで及ぶでしょう。どの程度に、どれくらいの範囲で、確かなものでしょうか。自分自身で、その問いに答えねばなりません。
 32節「もし死人がよみがえらないのなら、わたしたちは飲み食いしようではないか。明日をも分からぬ命なのだ」。「明日をも分からぬ命」。しかし実際には、ほとんどの人たちにとって、正確に明日という意味ではありません。戦争中の特攻隊員や死刑宣告された囚人などは例外です。たとえ「あと3カ月です」と医者に宣告された人であっても、正確に3カ月ピッタリというわけではなく、それは2カ月半かも知れず、あるいは案外に半年、1年、あるいは数年の猶予がある場合もありました。私たちのほとんどにとって、自分に残されている時間が半年なのか数年なのか数十年なのかはよく分からないのです。それでもなお、「どうせ明日は」とつい言いたくなるほどの私たち人間の存在の無力さ、短さ、はかなさがここでは見据えられています。かつて、ある人がこう書いていました;「本当の所、人は死んでしまうことが怖いのではなく、ただ、死ぬことが怖いだけなのだ。だから多くの人々は、死の現実を無視し、なるべくそういう縁起でもなく忌まわしいことは考えないようにしている。気を紛らせて、その場その場、その時その時を必死に楽しもうとしている」と。だから、『今、この自分の気分が晴れ晴れしないならば』なんだか満たされず、なんだか物淋しい。この「どうせ明日は」という漠然とした絶望と恐れの中に、私たちのむさぼりと自己中心の思いは育まれていきました。「どうせ」という、この、どうしようもない諦めと絶望と恐れと心細さの中に。ああ分かりました。だからこそ、いくら美味いものを食べても、正体をなくすほどどんなに飲んで騒いでも心が晴れません。絶望と恐れと心細さが、私たちの魂をカラカラに渇かせつづけるからです。
  20節「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。この19-28節の要点は、そして聖書66巻全体の要点は、ここにあります。現に確かにキリストは死者の中から復活なさった。それは私たちの新しい生命のための初穂であり、先を歩く道案内である。だから、あなたの生命さえも、死によって終わるのではないと。主イエスに望みをかけ、このお独りの方を主とするあなたであり、私です。私たちの望みは、この世での生活を心強く支えるだけでなく、死の川波を乗り越えて、その向こう岸までも続く。この主は、生きている者にとってだけでなく、死んだ者にとっても確かに、断固として、主であってくださるのですから(ローマ14:8-9)「主なる神さま。主イエス」と、呼びならわしてきました。《主である》。つまりは全面的に責任を負い、最後の最後まできっと必ず担ってくださる方である。あなたに対しても、この主が主であってくださいます。キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた。あなたの新しい生命の出発にとっても、この方こそが『初穂』です。初めに一粒の、また一房の豊かな実りがあり、実りはただそれだけに留まりません。一切の喜ばしい収穫がそこから始まり、やがて全世界に及ぶのです。あなた自身にもあなたの大切な家族にも確かに及びます。主イエスは死者の中から復活し、主に続いて、この主によって。だからこそ、あなたの生命は死によって終わるのではありません。あなた自身の望みも、死や、体の衰えや、いま目の前にある不自由や困難さによって消えてなくなるのではありません。あなたは、これを信じますか?
 30-34節。思い違いをしてはならない。いや、むしろ今こそ、あなたは正気になって身を正しなさい。背筋をピンと伸ばし、顎を引き、しっかりと目を見開きなさい。あなたは、主なる神さまへと向き直りなさい。特に34節。「目覚めて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ」。「びっくりする話だけれど、神について何も知らない人がいる。それはいったい誰のことだろうね」。信仰をもたない世間の人々のことを言っているわけではありません。仏教徒やイスラム教徒たちのことではありません。自分たちとは関係のない誰か他の人たちのことでもありません。そうではなく神さまのことを知り、その神さまからよくよく知られているはずのコリント教会のあの彼らに向けて、「神についても、信仰をもって生きて死ぬことについても、何にも知らない人がいるらしいんですよ」と。恥入らせようとして、わざとにそんなことを語り出しています。主の弟子パウロという人物は、まったく失礼な人ですね。こんなことを言いだす伝道者は、皆から嫌われて、すぐにも追い出されてしまいかねないでしょうに。けれどあの彼は、そう語りださずにはいられないのです。神さまをよくよく知り、神から知られているはずのこの私たちに向けても、「神について何も知らない人がいる。それはいったい誰のことだろう」と。まるで知らないかのように、一度も出会ったことがないかのように生きているあなたではないか。なぜ、あなたはほんの些細なことに揺さぶられ続けるのか。どうして、あなたは、どこまでもどこまでも引きずられ続けるのか。
 「明日をも分からぬ命。明日は死ぬかも知れない我が身だ」。それは間違いではありません。結構、的を射ております。けれど、むしろ、こう言い直しましょう;「今日の午後か明日か。やがて間もなく、主の御前に立つ身の私なのだ」と。やがて間もなく天の法廷が開かれます。この私たちは、裁判官イエス・キリストの御前に立たされます。全世界の王である裁判官はこう語りかけます;「『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」((*)マタイ25:31-46,ローマ14:10-, コリント(1)4:3-5,(2)5:9-)。今日の午後か、あるいは明日か。数ヵ月後か。間もなく主の御前に立つ身の私たちです。私たちは、どんな宣告を受けるでしょう。確かに、誰かに食べさせたりコップ一杯の水を差しだしてあげたことが何度かはありました。けれど、それだけでなく、「悪いんだけど、ちょっと……」と足早に立ち去ったことも数多くあったのです。ほんの何回かは宿を貸し、服を着せかけてやり、その誰かを見舞ったり訪ねてあげました。けれど別の多くのときには、見て見ぬふりをし、聞かなかったことにして、道端に倒れているその彼の横をさっさと通り過ぎていきました。天の法廷が開かれます。それがいつどのようにしてなのかを知らされていない私にとって、その日は不意に、直ちに訪れるでしょう。
  いいえ兄弟たち。そんなことよりも、そもそも今日わたしたちの目の前にあるこの豊かさはいったい何なのでしょうか。私たちはあらゆるものを受けており、豊かになっています。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と私たちは祈ります。主の祈りの第4番目の願いです。「今日も与えてください」。それは今日までの一日一日を土台としています。「昨日も与えていただいた。一昨日もそうだった。その前の日にも、その前にもその前にも。だからぜひとも、どうぞ今日も」と。「どうせ明日は」と嘆き、絶望し、底知れない虚しさに怯えつづけていた私たちは、そのときには気づきませんでした。「まだ足りない。もっともっと」と、貪りと貪欲の中に囚われ続けていた私たちは、なかなか受け取ることができませんでした。けれど、差し出されつづけていました。……あるとき、私は腹をペコペコに空かせて、ひどく飢えていました。あるとき、私は喉をカラカラに渇かせていました。また、あるときの私は、遠い外国をあてもなくさまよい歩いている者のように、身の置き所がない思いを噛みしめていました。私の心細さを見て、憐れんで、宿を貸してくれた誰かがいました。重い病気に打ちひしがれ、牢獄の奥深くに閉じ込められてしまったかのような私でした。真っ暗な心でうつむいて、ビクビクと怯えていた私でした。あのとき、私は他の誰よりも小さな者でした。その惨めな私を見て、何度も何度も足を運んでくれた誰かがいました。飢えて、腹をペコペコに空かせていた私たちは、食べさせていただきました。喉をカラカラに渇かせていた私たちは、満ち足りるほどに飲ませていただきました。不安で心細い旅をしていた私たちは、思いがけず、宿を貸し与えられました。驚いて、私たちは目を見張りました。
  この後ごいっしょに歌います讃美歌288番は、旅人の不思議な安らかさを告げています。2節です。「行く末遠く見ることを私は願わない」と、この旅人は晴々として歌います。5年後10年後、この私がどうなっているのか。私が先だっていった後、子供たちや孫たちは、どんなふうにして自分の生活を築いてゆくだろうか。それどころか、半年後、一年後の自分自身さえ定かには見通せない。しかも、すでに私の足腰は弱りはじめ、度々よろめいて、おぼつかない。けれど、それで何の心配も恐れもない。それでも大丈夫だと。旅人は、その危うさの只中で目を凝らしています。その旅人は、一途に願い求めはじめています。「主よ、よろめく私の足を、どうぞお支えください。小さな子供の手を引くようにして、私を導いていってください。ひと足、またひと足と。それが、今の私の願いです。ひと足、またひと足と。そうしてくださるなら、こんな私さえ、ちゃんと歩み通すことができるでしょうから。どうぞ、よろしくお願いいたします」と。
荒れ野を行く私たちの旅の日々は、そのようにして豊かに刻み込まれ、積み重ねられていきました。あなたの神、主が導かれたこの荒れ野の旅を思い起こしなさい。あなたのまとう着物は古びず、あなたの足が腫れることもありませんでした(申命記8:2-10)。それは、いったいどうしたわけでしょう。着物がボロボロになっていても不思議ではありませんでした。足がパンパンに腫れあがっていたとしても、それは決して不思議ではありませんでした。それなのに、どうしてでしょう。日毎の糧を、昨日も今日も、主なる神さまが与えてくださったからです。ご自分の着物を脱いで、裸の私たちに着せかけてくださった方があったからです。私たちを背負って歩きつづけいてくださった方があったからです。
 

【割愛した部分の補足】
(*)マタイ25:31-46。ここが、特A級の難解箇所です。しかもこの箇所を、本文中では中途半端で不十分な取り扱いをしてしまいました。申し訳ありません。この箇所だけを、ただ文字通りに読むなら、善い行いをしたかどうかで『天国に迎え入れられるのか』、あるいは『地獄に落とされるのか』が決定されるかのように誤解してしまいます。そのように読めそうな聖書箇所が他にも多数あります。この件に関して、キリスト教会はずいぶん長い間、論争しつづけてきました。けれど聖書66巻全体としては、どう語っているのか。もちろん、善い行いによってではなく、『主イエスを信じる信仰によって、ただただ恵みによってだけ救われる』のです。それでも、善い行いが無価値なのか、できないのか、しなくていいのかというとそうではありません。
他方では、『キリストの教会とクリスチャンは罪人にすぎない』と口を酸っぱくして念を押されつづけます。自惚れたり、理想主義や形式主義、偽善へと道を逸れてしまいやすいからで、信仰の大きな道理があるからです。それでも、生涯ず~っと、自分勝手でワガママで意地悪でズルくて臆病なままで良いのか? いいえ、違います。しかも、それでは何のための信仰なのか分からず、信じて生きることは無意味になってしまう。変質しやすい微妙なバランスと生命が、ここにあります。善い行いは、救いと滅びの条件にはならない。けれど、善い行いをする私たちにされてゆきます。ただ、順序が違うのです。『善い行いを積み上げて、その結果として救われる』のではなく、『ただ恵みによってだけ救われ、救われた者はその結果として、善い行いをしつつ生きる者たちへとだんだんと造り変えられてゆく』のです。神さまご自身が、この私たち一人一人のためにも成し遂げてくださいます。恵みが実を結ぶ、という神さまご自身からの約束です。


2016年4月12日火曜日

4/10こども説教「石をパンに変えてくれたら」ルカ4:1-4

 4/10 こども説教 ルカ4:1-4
 『石をパンに変えてくれたら』

4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて ヨルダン川から帰り、2 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。3 そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。 (ルカ福音書 4:1-4)

  いよいよここから、救い主イエスのお働きが始まります。荒野で悪魔から3つの誘惑を受け、それをすべて退けること。救い主としてその仕事を成し遂げるためには、まず、これが必要でした。荒野の3つの誘惑を、今日から3回に分けて読み味わっていきます。1-2節で、「イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を御霊に引き回されて~」と書いてあります。「聖霊。御霊」、聖霊なる神さまのこと。つまり、荒野を40日さまよって、お腹がすごく空いて疲れ果てていたことも、そこで悪魔から誘惑を受けたことも、それら全部が、神さまのご計画と導きのうちにありました。悪魔は誘いかけました、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。主イエスは答えました。「人はパンだけで生きるものではない」。父なる神さまは私たちに何が必要なのかをよく知っていてくださり、その必要なものの一つ一つを用意して、贈り与えてくださいます(マタイ6:11,31-,121:1)。私たちのための助けと備えは、この慈しみの神さまから来ます――悪魔の攻撃は、まず第一に、神さまへの信頼に向けられます。『神さまに信頼できない私たち』にさせたい。「何に聞き従い、誰に信頼したらいいだろう。いったい何を頼りとできるだろうか」と、悪魔はこの私たちにアタフタオロオロさせたいのです。神さまからの救いの約束もご命令も、「フン。どうせそんなこと」と話半分に聞き流してしまう私たちにさせたいのです。
 それに対して、主イエスも、主イエスだけではなくて 主の弟子とされている私たちも、いつも同じ立ち向かい方をします。「~と書いてある。~と言われている」4,8,12節)。悪魔の攻撃に抵抗して、『聖書にこう書いてある。聖書は、こう語っている』と断固としておっしゃいます。それこそが彼と私たちの唯一最善の武器であり、神の武具です。この私たちも、神さまを信じて生きはじめました。聖書を一人一冊ずつ持っています。聖書の言葉を聞き届けつづけ、聖書に書いてあることをいよいよ本気で信じて生き始めています。さて、「人はパンだけで生きるのではない」(ルカ4:4,申命記8:3)と、主イエスは石をパンに変えることを断りました。パンだけで生きるのではない。それはどういう意味でしょう? もちろん誰一人も、一切れのパンもなしに、仙人のように雲や霞を食べて生きられるわけではありません。私たちは現実には、主の口から恵みによって与えられる一つ一つの言葉によって、そしてまた同時に、主なる神さまが恵みによって与えてくださるパンや米やうどんやソバによっても、生きてきました()(ルカ11:3,出エジプト記16:1-,箴言30:7-9)。言葉だけではなく、パンも水も肉も、不足なく十二分に、神さまご自身から与えられてきました。これまでもそうでしたし、今もこれからもそうです。「本当にそうだなあ」って、実感できますか? 主の口から出る言葉と、主の御手から差し出されるパンと、その両方ともによって、私たちは生きる。それが、この箇所と申命記8:3-の真意です。



         【割愛した部分の補足】
   ~天からのパン、自分の力と手の働き、無くてならぬ食物、パンと小舟の共通点~

           (*)み言葉だけでなく、パンも他すべても、神さまから贈り与えられている。実は、このことが理解しづらいし、そうは思っていないクリスチャンたちも今では多いかも知れません。『主の祈り』の第四の願いは、「わたしたちの日毎の糧を今日も与えてください」です。日毎の糧には、霊的なものも物質的・日常的なものもすべて一切が含まれます。ごく高価な貴重なものから、ありふれているように見える、ごく普通のものまで。一日分ずつの生命も、家族も信頼できる仲間や友達も仕事も、毎月の食費、電気代ガス代も。神さまからただ恵みによって、私たちが生きてゆくために必要なそれら一切が贈り与えられている。そのことをうっかり忘れてしまうとき、わたしたちは欲張りになり、むさぼり、心がおごり高ぶりはじめて、神をも隣人をも軽んじはじめます。出エジプト記16章、申命記8:11-20、箴言30:7-9を参照(けれど、少し親切に丁寧に説明しましょう。(1)出エジプト記16章で『天からの恵みのパン』を贈り与えられたきっかけは、彼ら神の民が食べ物のことで不平不満をつぶやいたことでした。「腹へった、腹減った。こんなことならエジプトで奴隷にされていたほうがまだましだった。あそこでは、肉鍋や飽き足りるほどのパンを食べていたのに。ああ嫌だ。エジプトに帰りたい、帰りたい」と。しかもエジプトから脱出し、荒野の旅が始まって、まだほんの一ヶ月ちょっとです。主なる神さまは彼らをご自分の御前に呼び集めさせました。叱りつけるためではなく、罰するためでもなく、「天からの恵みのパンと天からの恵みの肉を食べさせる」と彼らに告げ知らせるために。主は仰いました、「お前たちのつぶやきを聞いた。夕には肉を、朝にはパンを食べて飽きさせる。そうして、わたしがあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう」(16:12)。いつも、こういう同じ一つのやり方です。また、そうでもしなければ、1000年たっても2000年たっても、彼らも私たちも主が主であられることを習い覚えることができないからです。私たち自身の心が頑固で、誰も彼もがとても心が鈍いからです。そのため16章の末尾、32-36節では「マナを一人分取り分けて壺に収めて保存せよ」と命じられました。覚えて心に刻んでおくための証拠物件です。その壺は神の民に代々受け継がれて、主を覚えておくための教育材料とされました。「わたしたちの日毎の糧を今日も~」という第四の願いこそが、今日の私たちのための『マナの壺』です。
(2)申命記8:11以下は、プライドの高い現代的な私たちにとっては特に耳痛い警告でしょう。先程、「食べて飽きさせる」と約束されていましたが、その豊かさと満足は、「心を高ぶらせて、そのあげくに主を忘れてしまう」信仰の危機と表裏一体でもあったのです。わたしたちは、この耳痛い警告を朝も昼も晩も読み返し、心によくよく刻まねばなりません。自分の力と手の働きでこの富を得た、と言ってはならない。思ってもならない。その途端に主を忘れ、他の神々に従い、仕え、拝みはじめ、この私たちは直ちに滅びるでしょうから。
(3)箴言30:7以下。これは説明不要。ただ、心を鎮めて、立ち止まり、語りかけられていることをよくよく味わいつづけましょう。貧しすぎるようにも、豊かすぎるようにもしないでください、と願い求めています。ただ、「なくてならぬ食物でわたしを養ってください」。この無くてならぬ食物こそ、主の口からのすべての言葉と、主の恵みの御手から贈り与えられる『日毎の糧』です。その両方が無ければ、「主とは誰か。知りません」と背を向け、あるいは盗みを働いて主の御名を汚すことになってしまう。「無くてならぬ食物」と言われて、すぐにルカ福音書10:36-42を思い起こしました。この食物のことをうっかり忘れていたために、マルタ姉さんは信仰の危機に直面していました。心が引き裂かれ、取り乱し、カンシャクを起こしかけていました。せっかくの働きが水の泡になってしまう寸前でした。働き者のマルタのためにも私たちのためにも、主イエスは仰います。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカ10:41-42)。主の口から出るすべての言葉です。日毎の糧さえも 主の言葉に添えて与えられるでしょう。「マリアは良い方を選んだ。彼女から取り去ってはならない」。その通りです。では、マルタからは取り去っていいのか、私たちや他すべての主を待ち望む者たちからはどうか? 問うまでもないでしょう。無くてならぬ主の言葉を、あなたも他の誰も、取り去られてはならない。誰からも取り去ってはならない。「~を参照せよ」と掲げた(1)(2)(3)、少しでもお役に立てばいいのおですが。
          (4)例えば、マルコ福音書では『5000人に食べ物を与えた出来事』と『主イエスが湖の上を歩いて弟子たちのところへ来た』出来事(6:30-4445-52)を連続して報告し、湖の事件のときに弟子たちがアタフタオロオロしつづけた理由をこう断言しています。「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである」52節)と。わずかのパンと魚で大勢の人々が満たされたことと、波風に悩まされる小舟の上の弟子たち。この二つはひと組の出来事であり、先の(1)(2)(3)とも深く響き合っています。天からのパンに関して悟るならば、ほかすべてが理解できたはずでした。もし、パンに関して悟れないならば、ほかすべてが分からないはずです。私たちが生きてゆくための毎日毎日の糧と手段と支えが、どこから、どのように、与えられつづけるのか? 天地を造った主なる神さまから、ただただ恵みによって贈り与えられてです。あなたにも、十分に分かりますか? これを、信じられますか? どうぞ、よい日々を。



 ◎とりなしの祈り

教会と全世界のかしらであられます主イエスの父なる神さま。独り子イエス・キリストを私たちに贈り与えてくださり、罪と悲惨の只中から私たちを救い出し、主イエスの復活の命にあずからせてくださいましたことを感謝いたします。
 主よ。身勝手で無責任で自分たちの目先の損得しか考えないのは、この国の政治家たちばかりではありません。彼らのせいばかりではなく、私たち自身に大きな責任があります。神さま、申し訳ありません。この国と私たち自身が深く悔い改めて、自衛隊員たちが無駄に人を殺したり殺されたりし始める前に、立憲主義にも民主主義にも反する戦争法をなんとかして廃止することができますように。また、日本中が人の住めない荒れ果てた不毛の土地になってしまう前に、取り返しのつかない事態になってしまう前に、すべての原子力発電所を止めて、新しく歩みはじめさせてください。手遅れになってしまう前に、どうかそうさせてください。米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちに、私たちも目と心を向けることができますように。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせてください。貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。年老いた人々にも子供にも若い者たちにも、どうか神さま、生きる喜びと確かな希望を見出させてください。

  主なる神さま。私たちを今こそ地の塩、世の光として用いてくださって、あなたの慈しみと憐れみ深さを証して生きるものたちとならせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

4/10「死んで、それで終りではない」テサロニケ手紙(1)4:13-14,詩23篇

                             みことば/2016,4,10(復活節第3主日の礼拝)  54
◎礼拝説教 テサロニケ手紙(1) 4:13-14/詩23  日本キリスト教会 上田教会
『死んで、それで終わりではない』

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
                                        (テサロニケ手紙(1)4:13-14)

23:6 わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。                   (詩篇23:6)


まずテサロニケ手紙(1)4:13-14です。「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」。やがていつか愛する家族や親しい友人たちに、ぜひこの格別な望みを手渡してあげたいと願っている私たちです。だからこそまず、この私たち自身が改めて問われます。悲しみや心細さの中に飲み込まれてしまわないような、どんな望みを、あなた自身は持っているのかと。その望みは朽ちることも萎むこともない望みだろうか。虫に喰われたり錆びついたり泥棒に盗まれたりもしない、思いがけない災いや苦しみが襲う日々にさえ心安らかでいられるほどにも確かな望みだろうかと。さて、ご存知かも知れませんが、どんなに丈夫な人でも元気ハツラツとした人でも、誰でも年老いて衰え、必ず死にます。いつまでも好きなだけ生きるように、とは定められていません。例外なく、誰もが死ぬし、その時やあり方を自分自身では選べません。立ち去るべきときが告げ知らされると、「はい。分かりました」と私たちは受け入れるほかありません。かつて土の塵から造られ、鼻に命の息を吹き入れられて生きる者とされた私たちです。そのように、「土から造られたあなたは、やがて土に還れ」(創世記2:7,90:3)と命じられています。やがていつか、あなたの愛する連れ合いや子供たちもこのことを自分の腹に収めることができる日が来るでしょう。その前にまず、私たち自身こそがそれを自分の腹によくよく収めましょう。限りある、ほんのつかの間の、一回だけの人生であり、だからこそそれを惜しみながら魂に刻みながら、一日一日と精一杯に生きるのです。「日毎の糧を、主よ、どうか今日もお与えください。贈り与えてくださってありがとうございます」と。その日毎の糧の中に、一日分ずつの生命も入っていました。
  『死んで、それで終わりじゃない』という確かな希望をあなたも私も聞き届けてきたし、必要なだけ十分に知らされてきました。もし、その希望を思い起こせないなら、私たちも他の人々同様にただただ嘆き悲しむ他ありません。告げられ、そして信じてきた中身は、『イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さる』ということです。主と共にいる。目覚めていても眠っていても、生きていても死んだあとでも。元気ハツラツとした日々にも、そうでもない日々にも。しかも、『共にいる主』はただ共にいるというだけではなく、私たちを顧み、私たちのためにも良い業を成し遂げようと生きて働いておられる主です。主とは、最後の最後まで責任を負いとおしてくださる方、という意味でしたね。

  昔々、あるところに、1人の淋しがり屋のおばあさんが住んでいました。その人はクリスチャンでした。「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」と、朝も昼も晩も口癖のようにつぶやきつづけました。心配事が山ほどあり、心細くて、それでいつも小さな声でグチをこぼしていたのです。「このごろ何だか腰が痛くて」とか。「孫が、勉強嫌いで遊んでばかりいて」とか。「台所の水道の蛇口が調子悪くて、いつでもポタポタポタポタ水漏れしていて」とか。「ゴミを出す時に、きちんと分別しない人がいて、いくら注意しても、張り紙をしても全然直してくれないんですよ。まったく」とか。あるとき、そのおばあさんが転んで足を挫きました。毎週毎週の礼拝を何よりの生き甲斐とし、楽しみにしていた人でしたけれど、教会に来ることが出来なくなりました。お見舞いにいったとき、その人の牧師は彼女にこう言いました;「さあ、困りましたね。……そうだ、いいことがある。詩篇23篇を暗記してもらいましょうか。どうです?」。おばあさんは、いつものように顔をしかめて、渋~い返事をしました。「えー、そんなこと嫌だわ。無理だわ。どうして私が? 誰か他の人にさせてくださいよ。面倒くさいし、だいいち私はもうすっかり年をとって、もの忘れがひどくなったんですよ。詩篇23篇の暗記だなんて、絶対に無理です。できません、できません、できませ~ん」。
  そのおばあさんは、暗記しました。もちろん、いつものように「あーでもない。こーでもない」と不平不満や文句を山ほど並べたてながら、嫌々渋々でしたけれど。だってその牧師が「できなきゃ地獄行きです。天の国は立ち入り禁止」などと冗談半分に脅かして、無理矢理に覚えさせたんですから。そのおばあさんの家に、牧師は訪ねていきます。おばあさんは何しろ足を挫いていますし、ずっと横になっていたものですから、腰も背中も首も痛くなって、アイタタイタタイタタタタと、布団の中でうめき声をあげます。「ああ、こんな体になっちゃって。どうせ私なんかは。情けない。恥ずかしい。情けない、恥ずかしい」と、おばあさんはいつものようにグチをつぶやきます。「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」と、朝も昼も晩も口癖のようにつぶやきました。本当はずいぶん欲張りだったので「乏しい。乏しい。乏しい」と不満を募らせました。臆病でしたし、とても見栄っ張りだったので、「情けない。恥ずかしい。情けない。恥ずかしい」と。しばらくそのうめき声や愚痴を聞いた後で、「じゃあ、聞かせていただきましょうか」と牧師は催促します。「やっぱり覚えきれませんよ。無理です。私は頭が弱くなってしまって。それに文語訳聖書から、次は口語訳、そして新共同訳と聖書の言葉が次々と変わっちゃったでしょう。暗記しようとしたら、頭の中でゴチャマゼになってしまって。そのうち、何を言っているんだか自分でも分からなくなって、壊れたレコードみたいに、同じ所に何度も何度も戻ってしまって。できません。ああ情けない、恥ずかしい。情けない、恥ずかしい」。「はいはい。それじゃあ、どうぞ。忘れたら、ときどきカンニングしてもいいですよ」「だって、でも。だって、でも、やっぱり……

     ……主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。

つっかかり、つっかかりしながら、ときどき文語訳と口語訳と新共同訳をゴチャマゼにしながら、ときどきは、チラッと聖書のページを確かめながら、壊れたレコードのように同じ所へ何度も何度も戻ってしまって、その度に赤くなったり青くなったりし、目を白黒させながら、それでも、おばあさんは覚えた言葉を一生懸命に口ずさみます。それが、おばあさんと牧師の日課になりました。体の具合も少しずつ良くなって、起き上がることができるようになり、台所をかたづけ、また近所をソロリソロリと出歩けるくらいにまで回復しました。それでも牧師がやってくると、おばあさんはドキドキします。「あ、また来た。困ったわあ、どうしましょう」。お茶を飲み、世間話を少しして、「じゃあ、聞かせていただきましょうか」と、いつものように牧師が催促します。「エヘン。ン、ン。……主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ」。やがておばあさんの足は治り、また日曜日の礼拝に来ることができるようになりました。それからまた何年かが過ぎました。おばあさんの口癖は、今でもやっぱり、「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」。そうですね。ほんの少し、それを言う回数が減ったかも知れません。1日に10回くらい繰り返していたのが7、8回くらいに。遠い所に離れて暮らすそのおばあさんの息子から、あるとき牧師に、1枚のハガキが届きました;「ありがとうございます。母は礼拝を守っています。いいえ、礼拝が母を守ってくれているのです。心から感謝をいたします」。ときどき、おばあさんは思い出して、独りの部屋で、あの聖書の言葉を言ってみます。「エヘン。ン、ン、……いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」。
  羊飼いに導かれて旅をしつづける羊たちの群れがあり、私たちはその一匹一匹の羊だと聖書は語りかけます。羊たちの格別な幸いが歌われます。けれどその羊たちも、ほんの少し前まではとても淋しがり屋でした。心配事が山ほどあり、心細くて、それでいつも不平不満や文句やグチをこぼしつづけていました。「あれも足りない、これも足りない。乏しい。乏しい。乏しい」と「心細い。心配だ。恐ろしくて恐ろしくて仕方がない」と。何日も満足な食料にありつけず、水場も見当たらず、飢え渇いてさまよう暮らしがつづきます。羊飼いは羊たちに草と水を与えるために、羊たちと一緒に野宿をしながら山々を越え、薄暗い谷間の奥深くにまで分け行って進みます。野の獣が羊たちの命を狙いに来ます。夜の闇に紛れて、羊ドロボウも忍び寄ります。死の陰の谷をようやくくぐり抜けたかと思うと、次の死の陰の谷。また、死の陰の谷。その連続です。それなのに今、あの羊たちは「乏しきことあらじ、何も欠けることがない。十分だ」。いつ、そう言っているのでしょう。青々とした草原で、お腹一杯に草を食べているときに? あるいは冷たくて美味しい水のほとりでゆったりと休んでいるときに、そこで「満足満足」と言っているのでしょうか。「わたしは災いを恐れない。なんの心配も不安もない」。羊たちは、いつそう言っているのでしょう。死の陰の谷を歩いているその真っ只中で、そこで、そう言っているのです。草一本も生えていない、もう何日もつづけて水の一滴も口に出来ない荒れ野を旅しながら、この羊は歌うのです。「乏しきことあらじ、なんの不足もない。これで十分」と。やせ我慢でもなく、体裁を取り繕って見栄を張ってでもなく、腹の底から安心しており、豊かであり、満ち足りることができました。なぜなら、ついにとうとう理解したからです。「主はわが牧者なり」と。「あなたが私と一緒にいてくださる。だから」と。その不思議な慰めと心強さを、格別な豊かさを、あの淋しがり屋のおばあさんは知っています。ここにいるこの私たちも知っています。
  3節で「み名のために」とあります。いったいどうして羊たちをその羊飼いは導き通し、やがてきっと必ず憩いの緑の野と水のほとりに連れていってくださるのか。真面目な羊だからとか、よく働く役に立つ羊だからなどということとは何の関係もなく。痩せっぽちの小さな羊も、へそ曲がりの不平不満をブツブツつぶやいてばかりいる羊も、ひがみっぽいイジケた羊も。いつも気もそぞろで、たびたび迷子になってしまう迂闊な羊も、なんの区別も分け隔てもなく。その理由は、ただただ良い羊飼いである神さまご自身の中にこそある。『御名のゆえをもて。み名のために。御名にふさわしく』。これこれこういう私たちなのでということではなく、何しろ、神さまがそういう神さまなので、だから、そうなさる。ご自分の羊を見放さず見捨てず、必ず導き通す。神さまは何しろそういう性分なので、と。
 詩23篇の末尾(6)です。「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」。恵みと憐れみとを与えてくださる羊飼いご自身こそが私をどこまでも追いかけ、ピタリと寄り添って来てくださる。それは、私たちがしばしば羊飼いの恵みと慈しみから迷い出てしまったからであり、なんだか煩わしくなって羊飼いの恵みと慈しみから時には逃げ出そうとさえしたからです。「追いかけてきた、追いかけてきた。ピタリと寄り添ってきてくださった。これまで、いつもず~っとそうだった。本当に」と彼らは実感しています。では質問。「わたしの生きているかぎりは」とは何でしょうか? この地上に生きている限りは、でしょうか。死んだ後では、羊飼いご自身も、羊飼いの恵みと慈しみも消えうせるというのでしょうか? 「決してそうではない」と彼らも私たちも知っています(イザヤ46:3-4,139:7-12)。これまで、ず~っとそうだった。今もそうだ。ならば、これからも必ずと。