2016年4月12日火曜日

4/10「死んで、それで終りではない」テサロニケ手紙(1)4:13-14,詩23篇

                             みことば/2016,4,10(復活節第3主日の礼拝)  54
◎礼拝説教 テサロニケ手紙(1) 4:13-14/詩23  日本キリスト教会 上田教会
『死んで、それで終わりではない』

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
                                        (テサロニケ手紙(1)4:13-14)

23:6 わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。                   (詩篇23:6)


まずテサロニケ手紙(1)4:13-14です。「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」。やがていつか愛する家族や親しい友人たちに、ぜひこの格別な望みを手渡してあげたいと願っている私たちです。だからこそまず、この私たち自身が改めて問われます。悲しみや心細さの中に飲み込まれてしまわないような、どんな望みを、あなた自身は持っているのかと。その望みは朽ちることも萎むこともない望みだろうか。虫に喰われたり錆びついたり泥棒に盗まれたりもしない、思いがけない災いや苦しみが襲う日々にさえ心安らかでいられるほどにも確かな望みだろうかと。さて、ご存知かも知れませんが、どんなに丈夫な人でも元気ハツラツとした人でも、誰でも年老いて衰え、必ず死にます。いつまでも好きなだけ生きるように、とは定められていません。例外なく、誰もが死ぬし、その時やあり方を自分自身では選べません。立ち去るべきときが告げ知らされると、「はい。分かりました」と私たちは受け入れるほかありません。かつて土の塵から造られ、鼻に命の息を吹き入れられて生きる者とされた私たちです。そのように、「土から造られたあなたは、やがて土に還れ」(創世記2:7,90:3)と命じられています。やがていつか、あなたの愛する連れ合いや子供たちもこのことを自分の腹に収めることができる日が来るでしょう。その前にまず、私たち自身こそがそれを自分の腹によくよく収めましょう。限りある、ほんのつかの間の、一回だけの人生であり、だからこそそれを惜しみながら魂に刻みながら、一日一日と精一杯に生きるのです。「日毎の糧を、主よ、どうか今日もお与えください。贈り与えてくださってありがとうございます」と。その日毎の糧の中に、一日分ずつの生命も入っていました。
  『死んで、それで終わりじゃない』という確かな希望をあなたも私も聞き届けてきたし、必要なだけ十分に知らされてきました。もし、その希望を思い起こせないなら、私たちも他の人々同様にただただ嘆き悲しむ他ありません。告げられ、そして信じてきた中身は、『イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さる』ということです。主と共にいる。目覚めていても眠っていても、生きていても死んだあとでも。元気ハツラツとした日々にも、そうでもない日々にも。しかも、『共にいる主』はただ共にいるというだけではなく、私たちを顧み、私たちのためにも良い業を成し遂げようと生きて働いておられる主です。主とは、最後の最後まで責任を負いとおしてくださる方、という意味でしたね。

  昔々、あるところに、1人の淋しがり屋のおばあさんが住んでいました。その人はクリスチャンでした。「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」と、朝も昼も晩も口癖のようにつぶやきつづけました。心配事が山ほどあり、心細くて、それでいつも小さな声でグチをこぼしていたのです。「このごろ何だか腰が痛くて」とか。「孫が、勉強嫌いで遊んでばかりいて」とか。「台所の水道の蛇口が調子悪くて、いつでもポタポタポタポタ水漏れしていて」とか。「ゴミを出す時に、きちんと分別しない人がいて、いくら注意しても、張り紙をしても全然直してくれないんですよ。まったく」とか。あるとき、そのおばあさんが転んで足を挫きました。毎週毎週の礼拝を何よりの生き甲斐とし、楽しみにしていた人でしたけれど、教会に来ることが出来なくなりました。お見舞いにいったとき、その人の牧師は彼女にこう言いました;「さあ、困りましたね。……そうだ、いいことがある。詩篇23篇を暗記してもらいましょうか。どうです?」。おばあさんは、いつものように顔をしかめて、渋~い返事をしました。「えー、そんなこと嫌だわ。無理だわ。どうして私が? 誰か他の人にさせてくださいよ。面倒くさいし、だいいち私はもうすっかり年をとって、もの忘れがひどくなったんですよ。詩篇23篇の暗記だなんて、絶対に無理です。できません、できません、できませ~ん」。
  そのおばあさんは、暗記しました。もちろん、いつものように「あーでもない。こーでもない」と不平不満や文句を山ほど並べたてながら、嫌々渋々でしたけれど。だってその牧師が「できなきゃ地獄行きです。天の国は立ち入り禁止」などと冗談半分に脅かして、無理矢理に覚えさせたんですから。そのおばあさんの家に、牧師は訪ねていきます。おばあさんは何しろ足を挫いていますし、ずっと横になっていたものですから、腰も背中も首も痛くなって、アイタタイタタイタタタタと、布団の中でうめき声をあげます。「ああ、こんな体になっちゃって。どうせ私なんかは。情けない。恥ずかしい。情けない、恥ずかしい」と、おばあさんはいつものようにグチをつぶやきます。「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」と、朝も昼も晩も口癖のようにつぶやきました。本当はずいぶん欲張りだったので「乏しい。乏しい。乏しい」と不満を募らせました。臆病でしたし、とても見栄っ張りだったので、「情けない。恥ずかしい。情けない。恥ずかしい」と。しばらくそのうめき声や愚痴を聞いた後で、「じゃあ、聞かせていただきましょうか」と牧師は催促します。「やっぱり覚えきれませんよ。無理です。私は頭が弱くなってしまって。それに文語訳聖書から、次は口語訳、そして新共同訳と聖書の言葉が次々と変わっちゃったでしょう。暗記しようとしたら、頭の中でゴチャマゼになってしまって。そのうち、何を言っているんだか自分でも分からなくなって、壊れたレコードみたいに、同じ所に何度も何度も戻ってしまって。できません。ああ情けない、恥ずかしい。情けない、恥ずかしい」。「はいはい。それじゃあ、どうぞ。忘れたら、ときどきカンニングしてもいいですよ」「だって、でも。だって、でも、やっぱり……

     ……主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。

つっかかり、つっかかりしながら、ときどき文語訳と口語訳と新共同訳をゴチャマゼにしながら、ときどきは、チラッと聖書のページを確かめながら、壊れたレコードのように同じ所へ何度も何度も戻ってしまって、その度に赤くなったり青くなったりし、目を白黒させながら、それでも、おばあさんは覚えた言葉を一生懸命に口ずさみます。それが、おばあさんと牧師の日課になりました。体の具合も少しずつ良くなって、起き上がることができるようになり、台所をかたづけ、また近所をソロリソロリと出歩けるくらいにまで回復しました。それでも牧師がやってくると、おばあさんはドキドキします。「あ、また来た。困ったわあ、どうしましょう」。お茶を飲み、世間話を少しして、「じゃあ、聞かせていただきましょうか」と、いつものように牧師が催促します。「エヘン。ン、ン。……主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ」。やがておばあさんの足は治り、また日曜日の礼拝に来ることができるようになりました。それからまた何年かが過ぎました。おばあさんの口癖は、今でもやっぱり、「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」。そうですね。ほんの少し、それを言う回数が減ったかも知れません。1日に10回くらい繰り返していたのが7、8回くらいに。遠い所に離れて暮らすそのおばあさんの息子から、あるとき牧師に、1枚のハガキが届きました;「ありがとうございます。母は礼拝を守っています。いいえ、礼拝が母を守ってくれているのです。心から感謝をいたします」。ときどき、おばあさんは思い出して、独りの部屋で、あの聖書の言葉を言ってみます。「エヘン。ン、ン、……いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」。
  羊飼いに導かれて旅をしつづける羊たちの群れがあり、私たちはその一匹一匹の羊だと聖書は語りかけます。羊たちの格別な幸いが歌われます。けれどその羊たちも、ほんの少し前まではとても淋しがり屋でした。心配事が山ほどあり、心細くて、それでいつも不平不満や文句やグチをこぼしつづけていました。「あれも足りない、これも足りない。乏しい。乏しい。乏しい」と「心細い。心配だ。恐ろしくて恐ろしくて仕方がない」と。何日も満足な食料にありつけず、水場も見当たらず、飢え渇いてさまよう暮らしがつづきます。羊飼いは羊たちに草と水を与えるために、羊たちと一緒に野宿をしながら山々を越え、薄暗い谷間の奥深くにまで分け行って進みます。野の獣が羊たちの命を狙いに来ます。夜の闇に紛れて、羊ドロボウも忍び寄ります。死の陰の谷をようやくくぐり抜けたかと思うと、次の死の陰の谷。また、死の陰の谷。その連続です。それなのに今、あの羊たちは「乏しきことあらじ、何も欠けることがない。十分だ」。いつ、そう言っているのでしょう。青々とした草原で、お腹一杯に草を食べているときに? あるいは冷たくて美味しい水のほとりでゆったりと休んでいるときに、そこで「満足満足」と言っているのでしょうか。「わたしは災いを恐れない。なんの心配も不安もない」。羊たちは、いつそう言っているのでしょう。死の陰の谷を歩いているその真っ只中で、そこで、そう言っているのです。草一本も生えていない、もう何日もつづけて水の一滴も口に出来ない荒れ野を旅しながら、この羊は歌うのです。「乏しきことあらじ、なんの不足もない。これで十分」と。やせ我慢でもなく、体裁を取り繕って見栄を張ってでもなく、腹の底から安心しており、豊かであり、満ち足りることができました。なぜなら、ついにとうとう理解したからです。「主はわが牧者なり」と。「あなたが私と一緒にいてくださる。だから」と。その不思議な慰めと心強さを、格別な豊かさを、あの淋しがり屋のおばあさんは知っています。ここにいるこの私たちも知っています。
  3節で「み名のために」とあります。いったいどうして羊たちをその羊飼いは導き通し、やがてきっと必ず憩いの緑の野と水のほとりに連れていってくださるのか。真面目な羊だからとか、よく働く役に立つ羊だからなどということとは何の関係もなく。痩せっぽちの小さな羊も、へそ曲がりの不平不満をブツブツつぶやいてばかりいる羊も、ひがみっぽいイジケた羊も。いつも気もそぞろで、たびたび迷子になってしまう迂闊な羊も、なんの区別も分け隔てもなく。その理由は、ただただ良い羊飼いである神さまご自身の中にこそある。『御名のゆえをもて。み名のために。御名にふさわしく』。これこれこういう私たちなのでということではなく、何しろ、神さまがそういう神さまなので、だから、そうなさる。ご自分の羊を見放さず見捨てず、必ず導き通す。神さまは何しろそういう性分なので、と。
 詩23篇の末尾(6)です。「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」。恵みと憐れみとを与えてくださる羊飼いご自身こそが私をどこまでも追いかけ、ピタリと寄り添って来てくださる。それは、私たちがしばしば羊飼いの恵みと慈しみから迷い出てしまったからであり、なんだか煩わしくなって羊飼いの恵みと慈しみから時には逃げ出そうとさえしたからです。「追いかけてきた、追いかけてきた。ピタリと寄り添ってきてくださった。これまで、いつもず~っとそうだった。本当に」と彼らは実感しています。では質問。「わたしの生きているかぎりは」とは何でしょうか? この地上に生きている限りは、でしょうか。死んだ後では、羊飼いご自身も、羊飼いの恵みと慈しみも消えうせるというのでしょうか? 「決してそうではない」と彼らも私たちも知っています(イザヤ46:3-4,139:7-12)。これまで、ず~っとそうだった。今もそうだ。ならば、これからも必ずと。