2016年4月26日火曜日

4/24「無から有を呼び出す神」ローマ4:16-25

                     みことば/2016,4,24(復活節第5主日の礼拝)  56
◎礼拝説教 ローマ人への手紙 4:16-25                日本キリスト教会 上田教会
『無から有を呼び出す神』

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

4:16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって・・・・・・19なお彼の信仰は弱らなかった。20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。22 だから、彼は義と認められたのである。23 しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。                            (ローマ手紙 4:17-25)


 
  あなたは神さまを信じてもいいし、信じなくても構いません。「ぜひ信じたい」と願うなら、それなら、そうしたらいい。「いいや信じたくない。とても信じられない」と思うなら、サッサと止めてしまえばいいのです。あなたが自分で、自由に選べばいいでしょう。けれどもし、信じて生きようとするならば、せっかく信じるならば、信じるに値する十分な神さまをこそ信じるほうがよいでしょう。しかも兄弟姉妹たち、雨の後にまた真っ黒い雲が戻ってきます。まもなく雨が降り、津波や地震や洪水が押し寄せ、大きな風が吹いて私たちをひどく打ちつける日々が近づいています。どんな神を、どのように信じているのかが問われます。ますます問われつづけます。
 まず、16-17節。「このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。遠い昔、アブラハムとサラが神さまからの招きを受けて、神さまを信じて、長い旅をしはじめた(創世記12:1-4。これが、神を信じて生きる人々のそもそもの出発点でした。この16-17節には、とても大事な点が含まれていました。まず「すべては信仰によるのである」と言い始めて、それを直ちに、「恵みによるのであって」と言い直しています。「信仰。信仰。わたしの信仰、あなたの信仰。大きな信仰、小さな信仰。豊かで立派な信仰、それにくらべて小さくて貧しくて粗末な信仰」などと軽々しく言いますが、けれどその『信仰』の中身と実態は神さまからの恵みであったのです。恵みであるとは、「その人がどれだけ熱心か、どれほど見所があるか。善良なのか生真面目なのか、いい加減か」などとその人自身の素性や性分や条件を一切問わずに、ただただ神さまからの一方的な恵みの出来事であるということです。これが『信仰』について考えるときの、いつもの基本線です。そのこととはっきり結びついていますが、17節の終わりで、「この神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」と。その人が今現在、生きていようが死んでいようが、元気ハツラツだろうが虫の息だろうが何しろ、神さまがその人を生きさせると仰るなら、その人は生きる。しかも、何もないところから神さまはご自身の願いと計画通りに物事を生じさせる。無から有を呼び出す神である。だからこそ、それまでは神を神とも思わなかった、信じるつもりが少しもなかった人が、ある日突然に神さまを信じているということが起こるのです。無から有を呼び出す。生命も信仰も、そのようにして神さまから自由に贈り与えられます。ビックリです。
  18-22節、「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである」。「アブラハムの信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」。本当にそうだったでしょうか? 創世記のそこのところに、ちゃんとそう書いてありましたか。いいえ とんでもない。それは、旧約聖書を少しも読んだことのない人の軽率な考えじゃないかなあ。たしかにモリヤの山の上の、信仰深い出来事があった(創世記22:1-19)。でも、いつもいつもあんなふうだったわけではありません。公平に言えば、「あの彼の信仰も強くなったり弱くなったりした。神さまに信頼しているときもあれば、そうじゃなく不信仰に陥って疑うことも度々あった。神に従うときもあれば、背いて離れ去る日々もあった」と言うべきではありませんか。例えば、「子供がもうすぐ生まれる」と神から告げられたときだって、アブラハムは顔を伏せて、クククと苦笑いをしたじゃないですか。妻のサラもまったく同じようでしたね。天幕の陰でその予告を聞きながら、彼女も淋しく笑いました。「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか(あるはずもない)」と(創世記17:17,18:12)。あの夫婦は、不信仰に陥ることが度々、何度も何度もあったし、神の約束と真実さを疑うことも神さまに背くことも何度も何度もありました。この私たち自身に負けず劣らずに、私たちとほぼ同じように。神に従う旅に出た直後に、自分の妻を妹だと偽って王に「さあ好きなようにしてください」と差し出しました。それは神へのあきらかな裏切りでしょ。同じことはもう一度あり、そんな親の不信仰に倣って、息子夫婦もまったく同じ裏切りを犯してしまうほどでした(創世記12:10-,20:1-,26:1-)。自分の息子イシマエルを連れて女奴隷ハガルが家出しなければならなかったのも、アブラハムが妻サラに「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と言ったからでした(創世記16:6)。イシマエルもまた神の恵みの約束のうちに置かれているとアブラハムがちゃんと弁えていたなら、どうしてそんな不誠実なことが言えたでしょう。約束の子供は生まれないと諦めて、自分の召使いを跡継ぎにしようとしたこともありました(15:2-3)彼は神さまからの救いの約束を度々すっかり忘れていたし、当てにならないカラ約束だと侮っていました。ほかにも色々。不信仰につぐ不信仰。疑いと裏切りの連続、それがあの夫婦の日々の現実でした。
  アブラハムの日々と聖書自身を、現実離れした理想や絵空事にしてはなりません。不信仰に陥ることも信仰が弱まることも疑うこともなかったスーパーマンが、一体どうして私たちの『信仰の父』になれるでしょう。どうして私たちが、そんなどこにも存在しないような架空の人物を手本として生きられるでしょう。しかもその超人・超善人たちは、私たちが聞き届けてきたはずの福音の真理(ローマ3:21-,テモテ(1)1:12-17)の枠外にいるというのでしょうか。私たちはキリストの十字架によって救われたが、けれどあの彼らは、彼ら自身の善行や美徳によって、正しくしっかりした強い信仰によって、救われたというのでしょうか。どうぞ、自分の目と心で確かめてみてください。聖書のページを開き、また自分自身のこれまでの日々を振り返って。ここですぐに思い出すのは、とても悪いことをした女の人を皆が救い主イエスのところに連れてきたときのことです(ヨハネ8:1-11)。「こいつは悪い奴だ。神さまを裏切っている。とんでもない。ゆるせない」と子供も大人も年寄りもそれぞれ手に石っころを握って、今にもその女の人に投げつけて殺そうとしました。すると主イエスは、その人たちにこうおっしゃいました;「あなたがたの中で罪のない者が、まず、この女に石を投げつけるがよい」。・・・・・・石を投げつけることのできた人は一人もいませんでした。一人また一人と立ち去っていきました。「罪のない者が」と聞いて、皆はモジモジ、ソワソワしながら考え始めました。「さあ、どうだったかなあ」と自分自身がこれまでどんなふうに生きてきたのかを振り返ってみました。面白いのは、あのときの、立ち去っていく順番です。「年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された」(9)。まず708090代の年長者たちが恥ずかしそうに下を向いて去っていき、その姿を見て、「ああ。そういえばオレも」と5060代の者が、若い父親たち母親たち、高校生・中学生も。その大人たちの姿を見て、ついには小学校3年生の「もちろんそうさ」と胸を張っていたあの子も、「ああ。そういえばボクも」と自分自身の身勝手さやずるさや意地悪さを棚上げして人を責めていた自分自身に気がつきます。「あの人は確かに悪いけど、僕にも石を投げる資格なんてない。ぼくだって、友だちに悲しく淋しい思いをさせたり、ついうっかりして苦しめたり、神さまにも悪いことをしてきたんだった」と。人生経験をつみ、嬉しいことや辛いことや色んな思いを味わって長く生きてきたとは、そのことです。
  それならば、このローマ手紙4:16-を、どんなふうに説き明かしましょうか。「アブラハムは信仰の父。私たちの信仰の手本です。もちろん彼はほんの少しも信仰が弱まりませんでした。不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、信仰によってますます強められ、神を大いに讃美しました。これが私たちのための手本です。この手本に照らして、どんな自分かを思い出してください。信仰が弱まることも疑うこともない、神の約束を忘れることもない人が、この神に従ってきなさい。神の御力と真実を、いつでもどこででも確信できる人こそが、ここに残りなさい。これこそ神の恵みです」と涼しい顔をして言いましょうか。そうしたらモジモジ、ソワソワして、十分に長く生きてきた年長の者から始まって一人また一人と順々に立ち去って、ついにキリストの教会には誰一人もいなくなるでしょう。そう、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ手紙 3:10-12,22-24)
 そうすると、あのローマ手紙4:16-25はあまりに寛大な、あまりに大目に見た報告であると言えるでしょう。事実に即して、もう少し丁寧に親切に報告を言い直すなら;「アブラハムは、たしかに信仰が弱まった。彼は不信仰に度々陥って、神の約束を何度も何度も疑った。繰り返し神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけた。けれどなお神は、そんな彼らをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださり、背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生きる人間としてくださった」と。これが実態です。
  アブラハムも私たち皆も、《憐れみの取り扱い》を受けました。憐れみを受けたのであり、限りなく忍耐され、ゆるされ続けてきたのです。ダビデもモーセもソロモンもノアも、まったく同様です。この私たち一人一人も。弱さや狡さや疑いや迷いや罪深さをそれぞれに山ほど抱えて、けれど、それなのに救われ、神の民の一員としていただきました。だからこそ、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった」(テモテ手紙(1)1:15という証言は真実であり、私たちはそのまま信じて受け入れたのでした。そうするに値する神でした。ローマ手紙4:16-25は、こうして私たち罪人に対する神ご自身のあまりに寛大な憐れみ深い眼差しと取り扱い方法をこそ示したのです。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される神です(ヨナ4:2)
あまりに寛大なその同じ神が、私たちを、アブラハムのように扱ってくださっています。あなたもたしかに信仰が弱まった。これまでもそうだったし、多分これからも。不信仰に陥って、神の約束を何度も何度も疑った。神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけた。度々いつもいつもそうだった。けれどなお神は、そんなあなたをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださる。背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生き、やがて感謝にあふれて晴れ晴れと死んでゆくこともできる人間としてくださいます。「これはアブラハムのためだけではなく私たちのためでもある」と聖書にたしかに書いてあります。「私たちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じる私たちをも、義と認められる」23-24節)と。主イエスに率いられて、私たちもよみがえらされ、新しい生命に生きる者とされます。あなたは、これを信じますか。