2016年4月18日月曜日

4/17「明日をも分からない生命?」コリント(1)15:17-33

                   みことば/2016,4,17(復活節第4主日の礼拝)  55
◎礼拝説教 コリント手紙(1) 15:17-33           日本キリスト教会 上田教会
『明日をも分からない生命?』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

15:17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。・・・・・・32 もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。33 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。34 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。
                                   (コリント手紙(1) 15:17-33)




 せっかく主を信じてクリスチャンとされながら、その信仰の中身の、肝心要の点に関してはなかなか信じきれない人々がいました。「文化的教養や人生訓、知識や慰めとして、いろいろ役に立つことや為になることが書いてあるらしい。信じていないわけじゃない。けれど復活は、正直な所どうだかよく分からない・・・・・・」と。それで仕方なしに、あの当時の彼らも、思いのままに自由に振舞っていました。32節、「もし死人がよみがえらないのなら、わたしたちは飲み食いしようではないか。明日をも分からぬ命なのだ」と。「さあ飲み食いしようじゃないか」。この彼らの、飲み食いの場面を具体的に現実的に思い浮かべてみましょう。どんな顔つきで、どんな気分で、飲み食いしているでしょう。終戦間際の、カミカゼ特攻隊の、出撃前夜のドンチャン騒ぎによく似ています。いくら飲んでも、ご馳走をたらふく食べても、ハメを外しても、面白くもなんともない。嬉しくもなんともない。それは絶望に犯された、寒々しい、あまりに苦い宴会です。ただこの世の生活の中でだけ、ただ心の片隅でだけ信じているだけなら、「わたしたちはすべての人の中で最も哀れむべき存在となる」19節)と聖書は語ります。その通りですね。何をどう信じているのか、と問われています。キリストは復活したのか、しなかったのか。したのなら、このお独りの方を『初穂』として、私たちもまた新しい生命に生きることになる。もしそうでなければ、それぞれ思いのままに生きて、死んだらそれでおしまいだと。あなたは、キリストに望みをかけているのですか? その望みは、どこにまで及ぶでしょう。どの程度に、どれくらいの範囲で、確かなものでしょうか。自分自身で、その問いに答えねばなりません。
 32節「もし死人がよみがえらないのなら、わたしたちは飲み食いしようではないか。明日をも分からぬ命なのだ」。「明日をも分からぬ命」。しかし実際には、ほとんどの人たちにとって、正確に明日という意味ではありません。戦争中の特攻隊員や死刑宣告された囚人などは例外です。たとえ「あと3カ月です」と医者に宣告された人であっても、正確に3カ月ピッタリというわけではなく、それは2カ月半かも知れず、あるいは案外に半年、1年、あるいは数年の猶予がある場合もありました。私たちのほとんどにとって、自分に残されている時間が半年なのか数年なのか数十年なのかはよく分からないのです。それでもなお、「どうせ明日は」とつい言いたくなるほどの私たち人間の存在の無力さ、短さ、はかなさがここでは見据えられています。かつて、ある人がこう書いていました;「本当の所、人は死んでしまうことが怖いのではなく、ただ、死ぬことが怖いだけなのだ。だから多くの人々は、死の現実を無視し、なるべくそういう縁起でもなく忌まわしいことは考えないようにしている。気を紛らせて、その場その場、その時その時を必死に楽しもうとしている」と。だから、『今、この自分の気分が晴れ晴れしないならば』なんだか満たされず、なんだか物淋しい。この「どうせ明日は」という漠然とした絶望と恐れの中に、私たちのむさぼりと自己中心の思いは育まれていきました。「どうせ」という、この、どうしようもない諦めと絶望と恐れと心細さの中に。ああ分かりました。だからこそ、いくら美味いものを食べても、正体をなくすほどどんなに飲んで騒いでも心が晴れません。絶望と恐れと心細さが、私たちの魂をカラカラに渇かせつづけるからです。
  20節「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。この19-28節の要点は、そして聖書66巻全体の要点は、ここにあります。現に確かにキリストは死者の中から復活なさった。それは私たちの新しい生命のための初穂であり、先を歩く道案内である。だから、あなたの生命さえも、死によって終わるのではないと。主イエスに望みをかけ、このお独りの方を主とするあなたであり、私です。私たちの望みは、この世での生活を心強く支えるだけでなく、死の川波を乗り越えて、その向こう岸までも続く。この主は、生きている者にとってだけでなく、死んだ者にとっても確かに、断固として、主であってくださるのですから(ローマ14:8-9)「主なる神さま。主イエス」と、呼びならわしてきました。《主である》。つまりは全面的に責任を負い、最後の最後まできっと必ず担ってくださる方である。あなたに対しても、この主が主であってくださいます。キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた。あなたの新しい生命の出発にとっても、この方こそが『初穂』です。初めに一粒の、また一房の豊かな実りがあり、実りはただそれだけに留まりません。一切の喜ばしい収穫がそこから始まり、やがて全世界に及ぶのです。あなた自身にもあなたの大切な家族にも確かに及びます。主イエスは死者の中から復活し、主に続いて、この主によって。だからこそ、あなたの生命は死によって終わるのではありません。あなた自身の望みも、死や、体の衰えや、いま目の前にある不自由や困難さによって消えてなくなるのではありません。あなたは、これを信じますか?
 30-34節。思い違いをしてはならない。いや、むしろ今こそ、あなたは正気になって身を正しなさい。背筋をピンと伸ばし、顎を引き、しっかりと目を見開きなさい。あなたは、主なる神さまへと向き直りなさい。特に34節。「目覚めて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ」。「びっくりする話だけれど、神について何も知らない人がいる。それはいったい誰のことだろうね」。信仰をもたない世間の人々のことを言っているわけではありません。仏教徒やイスラム教徒たちのことではありません。自分たちとは関係のない誰か他の人たちのことでもありません。そうではなく神さまのことを知り、その神さまからよくよく知られているはずのコリント教会のあの彼らに向けて、「神についても、信仰をもって生きて死ぬことについても、何にも知らない人がいるらしいんですよ」と。恥入らせようとして、わざとにそんなことを語り出しています。主の弟子パウロという人物は、まったく失礼な人ですね。こんなことを言いだす伝道者は、皆から嫌われて、すぐにも追い出されてしまいかねないでしょうに。けれどあの彼は、そう語りださずにはいられないのです。神さまをよくよく知り、神から知られているはずのこの私たちに向けても、「神について何も知らない人がいる。それはいったい誰のことだろう」と。まるで知らないかのように、一度も出会ったことがないかのように生きているあなたではないか。なぜ、あなたはほんの些細なことに揺さぶられ続けるのか。どうして、あなたは、どこまでもどこまでも引きずられ続けるのか。
 「明日をも分からぬ命。明日は死ぬかも知れない我が身だ」。それは間違いではありません。結構、的を射ております。けれど、むしろ、こう言い直しましょう;「今日の午後か明日か。やがて間もなく、主の御前に立つ身の私なのだ」と。やがて間もなく天の法廷が開かれます。この私たちは、裁判官イエス・キリストの御前に立たされます。全世界の王である裁判官はこう語りかけます;「『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」((*)マタイ25:31-46,ローマ14:10-, コリント(1)4:3-5,(2)5:9-)。今日の午後か、あるいは明日か。数ヵ月後か。間もなく主の御前に立つ身の私たちです。私たちは、どんな宣告を受けるでしょう。確かに、誰かに食べさせたりコップ一杯の水を差しだしてあげたことが何度かはありました。けれど、それだけでなく、「悪いんだけど、ちょっと……」と足早に立ち去ったことも数多くあったのです。ほんの何回かは宿を貸し、服を着せかけてやり、その誰かを見舞ったり訪ねてあげました。けれど別の多くのときには、見て見ぬふりをし、聞かなかったことにして、道端に倒れているその彼の横をさっさと通り過ぎていきました。天の法廷が開かれます。それがいつどのようにしてなのかを知らされていない私にとって、その日は不意に、直ちに訪れるでしょう。
  いいえ兄弟たち。そんなことよりも、そもそも今日わたしたちの目の前にあるこの豊かさはいったい何なのでしょうか。私たちはあらゆるものを受けており、豊かになっています。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と私たちは祈ります。主の祈りの第4番目の願いです。「今日も与えてください」。それは今日までの一日一日を土台としています。「昨日も与えていただいた。一昨日もそうだった。その前の日にも、その前にもその前にも。だからぜひとも、どうぞ今日も」と。「どうせ明日は」と嘆き、絶望し、底知れない虚しさに怯えつづけていた私たちは、そのときには気づきませんでした。「まだ足りない。もっともっと」と、貪りと貪欲の中に囚われ続けていた私たちは、なかなか受け取ることができませんでした。けれど、差し出されつづけていました。……あるとき、私は腹をペコペコに空かせて、ひどく飢えていました。あるとき、私は喉をカラカラに渇かせていました。また、あるときの私は、遠い外国をあてもなくさまよい歩いている者のように、身の置き所がない思いを噛みしめていました。私の心細さを見て、憐れんで、宿を貸してくれた誰かがいました。重い病気に打ちひしがれ、牢獄の奥深くに閉じ込められてしまったかのような私でした。真っ暗な心でうつむいて、ビクビクと怯えていた私でした。あのとき、私は他の誰よりも小さな者でした。その惨めな私を見て、何度も何度も足を運んでくれた誰かがいました。飢えて、腹をペコペコに空かせていた私たちは、食べさせていただきました。喉をカラカラに渇かせていた私たちは、満ち足りるほどに飲ませていただきました。不安で心細い旅をしていた私たちは、思いがけず、宿を貸し与えられました。驚いて、私たちは目を見張りました。
  この後ごいっしょに歌います讃美歌288番は、旅人の不思議な安らかさを告げています。2節です。「行く末遠く見ることを私は願わない」と、この旅人は晴々として歌います。5年後10年後、この私がどうなっているのか。私が先だっていった後、子供たちや孫たちは、どんなふうにして自分の生活を築いてゆくだろうか。それどころか、半年後、一年後の自分自身さえ定かには見通せない。しかも、すでに私の足腰は弱りはじめ、度々よろめいて、おぼつかない。けれど、それで何の心配も恐れもない。それでも大丈夫だと。旅人は、その危うさの只中で目を凝らしています。その旅人は、一途に願い求めはじめています。「主よ、よろめく私の足を、どうぞお支えください。小さな子供の手を引くようにして、私を導いていってください。ひと足、またひと足と。それが、今の私の願いです。ひと足、またひと足と。そうしてくださるなら、こんな私さえ、ちゃんと歩み通すことができるでしょうから。どうぞ、よろしくお願いいたします」と。
荒れ野を行く私たちの旅の日々は、そのようにして豊かに刻み込まれ、積み重ねられていきました。あなたの神、主が導かれたこの荒れ野の旅を思い起こしなさい。あなたのまとう着物は古びず、あなたの足が腫れることもありませんでした(申命記8:2-10)。それは、いったいどうしたわけでしょう。着物がボロボロになっていても不思議ではありませんでした。足がパンパンに腫れあがっていたとしても、それは決して不思議ではありませんでした。それなのに、どうしてでしょう。日毎の糧を、昨日も今日も、主なる神さまが与えてくださったからです。ご自分の着物を脱いで、裸の私たちに着せかけてくださった方があったからです。私たちを背負って歩きつづけいてくださった方があったからです。
 

【割愛した部分の補足】
(*)マタイ25:31-46。ここが、特A級の難解箇所です。しかもこの箇所を、本文中では中途半端で不十分な取り扱いをしてしまいました。申し訳ありません。この箇所だけを、ただ文字通りに読むなら、善い行いをしたかどうかで『天国に迎え入れられるのか』、あるいは『地獄に落とされるのか』が決定されるかのように誤解してしまいます。そのように読めそうな聖書箇所が他にも多数あります。この件に関して、キリスト教会はずいぶん長い間、論争しつづけてきました。けれど聖書66巻全体としては、どう語っているのか。もちろん、善い行いによってではなく、『主イエスを信じる信仰によって、ただただ恵みによってだけ救われる』のです。それでも、善い行いが無価値なのか、できないのか、しなくていいのかというとそうではありません。
他方では、『キリストの教会とクリスチャンは罪人にすぎない』と口を酸っぱくして念を押されつづけます。自惚れたり、理想主義や形式主義、偽善へと道を逸れてしまいやすいからで、信仰の大きな道理があるからです。それでも、生涯ず~っと、自分勝手でワガママで意地悪でズルくて臆病なままで良いのか? いいえ、違います。しかも、それでは何のための信仰なのか分からず、信じて生きることは無意味になってしまう。変質しやすい微妙なバランスと生命が、ここにあります。善い行いは、救いと滅びの条件にはならない。けれど、善い行いをする私たちにされてゆきます。ただ、順序が違うのです。『善い行いを積み上げて、その結果として救われる』のではなく、『ただ恵みによってだけ救われ、救われた者はその結果として、善い行いをしつつ生きる者たちへとだんだんと造り変えられてゆく』のです。神さまご自身が、この私たち一人一人のためにも成し遂げてくださいます。恵みが実を結ぶ、という神さまご自身からの約束です。