2016年4月6日水曜日

4/3「道、真理、命」ヨハネ14:4-7

                  みことば/2016,4,3(復活節第2主日の礼拝)  53
◎礼拝説教 ヨハネ福音書 14:4-7              日本キリスト教会 上田教会
『道、真理、命』
+付録/聖晩餐のための短い説き明かし(2)
    牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。5 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。7 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。(ヨハネ福音書 14:4-7)
  


  あなたは、どんな自分だと思っているでしょう。何をどの程度に知り、自分とこの世界について、また人が生きてやがて死んでいくことについて、どのように弁え、何をどの程度に掴み取っているあなたでしょうか。ある時には、「自分はかなり分かっている」とうぬぼれ、私たちは鼻高々になります。別の時には、「私には何も分からない。何も分かっていなかった」とがっかりし、溜め息をつきます。この信仰についても、人生についても人間という存在についても、そして自分自身についても。4-5節。主イエスはおっしゃいます。「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。主の弟子たちの一人、トマスはこう言い返します。「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
  ある意味では、確かに、そのとき彼ら弟子たちが知っていたことはほんのわずかだったと言えるかも知れません。主イエスの十字架の死と復活の以前には、やがて彼らが知るはずの全体から比べれば、ほんのわずかしか知らず、また最初の聖霊降臨日の後に彼らが知ることになるはずの福音の真理の大きさや豊かさに比べれば、ほんの少ししか分かっていませんでした。そうかも知れません。何のために主イエスがこの世界に降りて来られたのか。十字架の上で主が私たちのために死んでくださった、それは一体どういうことであるのか。私たちが生きる毎日の生活にとって、私たちの日々の喜びや悲しみや思い煩いの一つ一つにとって、私たちの希望と慰めにとって、それがどんな意味を持つのかということについて。そのとき彼らは、ほんの部分的にしか知らず、幼い子供のようにしか知らなかった(コリント(1)13:11-)とさえ言えるかも知れません。
  でも、そうでしょうか? あの弟子たちは彼らの主イエスが、約束され、待ち望まれていた救い主キリストであると、生きておられる神の子であると知っていました。また、そのことをはっきりと信じてもいました。また、この主を知り、主に信頼して聞き従っていく信仰こそが彼らを神の国へと必ずきっと導きいれるとも知っていました。だからこそ、あの彼らは主の言葉に一途に耳を傾け続けていたのですし、主のなさることにその一挙手一動に目を凝らして、主に従って一途に精一杯に歩んでいたのです。福音書の中で、弟子たちのあまりの愚かさや無理解ぶりにふれ、しばしば心を迷わせたり、トンチンカンなことを言ったりしたりする様子にふれ続けるうちに、私たちはついうっかりして「なんだ。あの彼らは何も分かっていないなあ」と見下したり、軽んじてしまいそうになります。「私の方が彼らよりよっぽどましだ。私の方がよく分かっている」と、ついうっかりして自惚れてしまいそうになります。いいえ。彼らをあなどってはなりません。軽々しく決めつけてはなりません。あの彼らが受け取っていた真理は、彼らが自分自身で気づいていたよりももっと確かだったのです。彼らの心は、彼らの頭の中の思いよりもっとはるかに素直で良いものだったのです。 
  よく似た同じ思い違いを、私たちは周囲の兄弟姉妹たちを見てしてしまいます。あるいは、自分自身を振り返って。「なんだ。あの人は何も分かっていないじゃないか。それに比べたら、私の方がよほどよく分かっている」と。あるいは「あの人、この人に比べて、私なんかはまだまだだ。そこそこだ。ほどほどだ」などと。周りを見回しても、互いに見比べあって品定めしあっても、それは何の意味もありません。何の役にも立ちません。それより何より、神さまの霊がいまや私たちの内に確かに住み、(あのクリスチャンの内にも、このクリスチャンの内にも、そしてあなたの内にも)こんな私たちのためにさえ生きて働いていてくださり、私たちに神の真理を知らせ、教えていてくださる。それを見落としてはなりません。一から十まで、すべて何もかもをすっかり知っているのでなければ、それは何も知らないのと同じなのでしょうか。そうではないでしょう。しかも、知るべきことはそんなに多くはありません。ほんのわずかです。本当に知るべき、なくてはならぬわずかなものを(ルカ10:42,箴言30:7-9)、なんとかしてガッチリと掴み取りたいと私たちは願っています。心底から。心強く晴れ晴れとして生きる一個のクリスチャンでありたいからです。それが望みです。
  6節。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃいます。この小さな一言に、キリスト教信仰の中身がすっかり丸ごと凝縮されます。しかも「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。つまり、天の御父へと至るためのいくつもの道筋があるのではなく、只一本の、ただ一筋の道がある。『それがこの私だ。だから私にこそ聞け。私を通れ。あなたは私から受け取りなさい』と主は断固としておっしゃるのです。いろいろな道があるのではなく只一つの道があり、いろいろな様々な真理があるのでなく、一つの真理があり、一つの生命がある。救い主イエスのうちにこそ。主イエスは『道』である。神の国へ、また天の父の御もとへ、そこにある格別な平和と幸いへと至る道。主は単なる道案内や単なる先生ではなく、ご自身が門であり、階段であり、道そのものだと告げられます。十字架の上でご自身の生命を差し出してくださったお独りの方によって、神と私たち人間の間に、一本の確かな道が開かれたのです。その裂かれた体と流された血潮を通って、私たちは神の御もとへと近づいてゆくことができます。恐れも遠慮もいらず、誰はばかることもなく、誰でも、そこを通って近づいてゆくことがゆるされています。ある人々は、「その道は堅苦しく狭すぎるんじゃないか。もっとゆったりと広々した道にすればいいのに。その門や扉は狭くて小さすぎる。それで、なんだか入りにくい」と言います。そうかも知れません。「なんて広いんだろう。あまりに広々している」とピョンピョン飛び跳ねたり踊ったりしながら喜び勇んで入ってくる人たちがある一方で、「狭い。狭すぎる。これじゃあ、あちこち突っかえて入れないじゃないか。どういうつもりだ」と顔をしかめる人々もいます。ところで、あなた自身は、どんなふうに通ろうと思っていたのですか。肩肘張ったままでは入りにくく、「オレ様は。私こそは」とわざと背伸びをしたりふんぞり返ったままでは、頭も体のあちこちも突っかえてしまいます。「あれも大事、これも大切。これもこれも手離せない」とバーゲンセールで山ほど買い物をした帰り道のように、大きな重い荷物を背中にも両手にもいっぱい抱えたままでは、たしかにその門は狭すぎるかも知れません。その大切な荷物や買い物袋の数々を、いったん脇へ置いてみればいいのに。なにしろ身を低く屈めて、ペコリと頭を下げて、「ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします」と入ってくる必要があったのです。
 7節以下。主イエスはおっしゃいます。「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。さらに、「わたしを見た者は、父を見たのである」7,9節)と。また別の箇所では、聞き間違いようもない仕方ではっきりと証言されます;「恵みとまこととは、イエス・キリストをとおして来たのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:17-18)と。キリストの教会の歴史の中にも、目を惑わされ、心を曇らせた日々がありました。折々にあったのですし、その連続でした。神へと至るいくつもの道筋があり、神と私たちを知るための多種多様な知識や真理があり、より取り見取りのさまざまな生命があるかのように勘違いして、そのあまりに遥か遠くまで迷い出ていってしまった日々が。私たちのそれぞれの生活の中にも、その同じ心の曇りが折々に私たちを惑わせます。どんな神さまだったのかがすっかり分からなくなり、どこにどう足を踏みしめて立ってよいのか、どこから来てどこへと向かっているのかを見失い、生命も喜びも希望もすっかり萎えしぼんでしまう危うい日々が。けれど、私たちは立ち戻りましょう。立ち戻りつづけましょう。なぜなら神と私たちとの間に、いまでは一本の確かな道が開かれているからです。救い主イエスという一本の道が。この道を通るなら、足腰の弱い者も疲れやすい者も、誰でも父の御もとに辿り着くことができます。そこで安らかに憩うことができます。救い主イエスという真理に耳を傾けるなら、どんなに愚かな人でも迂闊な者も鈍い者も、すっかり弱り果てて倒れている者も、誰でも皆、格別な生命を受け取ることができます。受け取ったその生命によって日々を生きることができます。主イエスこそ、私たちのための一本の道、一つの真理、一つの命。その信仰によって、キリストの教会は立ってきました。今もまったくそうであり、そもそもの初めからこの『イエスは道、真理、命』という信仰の内に、教会と個々のキリスト者は足を踏みしめつづけてきました(コリント(1)12:3,使徒行伝2:36,ローマ10:9)。しかもその、足を踏みしめて立つべき立脚点を揺さぶる出来事に、世々の教会は直面しつづけたのです。例えば第二次世界大戦中1933年から45年にかけて、ドイツでは、ヒットラーのナチス政権に抵抗して、ルター派、改革派、そして合同教会は一つの旗印、一つの道しるべのもとに戦いました。1934年のバルメン宣言はその戦いの道しるべとなりました。宣言の第1項はこう告げます;「聖書において私たちに証されているイエス・キリストは、私たちが聞くべき、また私たちが生と死において信頼し、服従すべき、神の唯一のみ言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一のみ言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認できるとか、承認しなければならないという誤った教えを、私たちは退ける」と。『誤った教え』は、かなり手ごわかったのです。この宣言に堅く立ちつづけることは至難の業でした。あの時にもその後でも、ドイツでも日本でも、教会の中でも外でも、神の言葉に並べて別の声が声高に語られつづけます。神と並べて、別の『神ならぬもの』もまた尊敬されたり崇められることを要求し、服従を命じます。「そうかも知れない。それも一理ある・・・・・・」と私たちの心は揺さぶられ始めます。かなり手ごわい。だからこそ主イエスの弟子たちは、揺さぶられ、引き回されようとする度毎に、襟を正し、背筋をピンと伸ばしてこう答えつづけます。「神に聞き従うよりも、あなたがた人間に聞き従うほうが神の前で正しいかどうか判断してもらいたい。もちろん私たち自身はとっくに判断し、腹をくくっているのです」(使徒4:19参照)と。
 だからこそ、主イエスこそ私たちのための一本の道、一つの真理、一つの命。この道は、とても広くてまっすぐで、すごく歩きやすい。この真理はあまりに明快で、小さな子供にさえ分かる。この生命は私たちを生き返らせ、格別な飛びっきりの慰めと勇気を与える。兄弟姉妹たち、お分かりでしょうか。あなたも、この同じ一つの恵みの中に据え置かれています。遠い昔に一人の預言者は語りかけました、「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:28-31。あなたもまた新たな力を得、鷲のように翼を張って上ることができます。弱ることも疲れることも無く、走ったり歩いたり、ピョンピョン飛び跳ねたりもできるでしょう。だって、あなたは今までそうしてきたではありませんか。そのように歩き、そのように耳を傾け、そのように生命を受け取ってきたあなたではありませんか。祈り求めましょう。



付録/聖晩餐のための短い説き明かし(2)

11:27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。    (コリント手紙(1)11:27-29)

  聖晩餐のパンと杯の前での『ふさわしさ。ふさわしくなさ』『何をどう弁えるのか』について、手短に説き明かします。率直に申し上げますが、クリスチャンの誰も彼もが、一人の例外もなく、あまりにふさわしくありません。恵みを受け取るに価する者などただの一人もいないのです。主の体と自分自身に対しても、まったく弁えが足りなすぎる私たちです。ふさわしくないまま、弁えも足りないままに、この憐れみの食卓に招かれました。自分たち自身のふさわしくなさ、弁えの足りなさをよく分かっていることこそが弁えであり、最低限のふさわしさであるとも言えるでしょう。けれど、どうしたらいいのでしょうか?

 「ふさわしくないままで飲み食いする者は、主のからだと血とを犯す。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く」と厳しく警告されています。恐ろしいことです。しかも、そこには大きな道理があります。パンと杯にあずかりつづけることによってしか、私たちの弁えは養われていきません。矛盾しますし、奇妙で裏腹なことですけれど、自分たち自身の弁えのなさを知らされ、突きつけられながら、このパンと杯を飲み食いしつづける中でこそ、私たちはだんだんと主の体と自分自身を弁える者とされてゆきます。このパンと杯を飲み食いしつづける中でこそ、罪深い私たちはだんだんとその罪深さから洗い清められてゆきます。罪ある私たちが裁かれないためにこそ、主イエスは裁かれ、私たちの罪を負って十字架についてくださったのですから。なんと、この食卓は自分自身に裁きを招く恐ろしいときでありつつ、同時に、主からの憐れみを受け取る恵みのときともなったのです。もし、「自分には弁えがまったく足りない。ふさわしくない私だ」と気づくなら、どうぞ、ぜひ、あなたこそパンと杯を受け取ってください。ふさわしくないあなたのために、主イエスは十字架の死を引き受け、復活の生命を差し出しておられるからです。主イエスは弟子たちに仰いました、「これは私の体である」「皆、この杯から飲みなさい。私の血によって立てられる新しい契約である」と。