2018年7月30日月曜日

7/29こども説教「罪がないままに」ルカ23:13-25


 7/29 こども説教 ルカ23:13-25
 『罪がないままに』

23:18 ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。19 このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。20 ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。21 しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。22 ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。23 ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。24 ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。25 そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた。(ルカ福音書23:18-25

  ローマの法律に照らしても、ユダヤの法律に照らしても、主イエスには死に当たるどんな罪も見つけることができませんでした。14-16節と22節と、2回も繰り返してピラトは「罪がないからイエスをゆるそう」と人々に語りかけます。けれど「イエスを十字架につけて殺すように」という人々の声が勝って、それでピラトは人々の願い通りにするというのです。法律も道理も押しのける、でたらめな裁判です。法律よりも道理よりも人間たちの気持ちや声が勝ってしまうなら、それはとても悪いでたらめな社会です。ほんの数日前に、主イエスを大喜びで迎え入れた人々が、今度は手のひらを返すように、「十字架につけろ、十字架につけろ」と大声で叫び立てています。その声はますます大きく激しくなってゆきます。一番権威があって偉いはずのピラトが、人々の心を恐れて、まわりの人々の顔色をうかがって、その人たちの気に入ることをしようとしています。間違っていると自分でも気づいていることを。まわりにいる人間たちを何より恐れて、人間たちこそが一番恐ろしいと思い込んでいる人々は、その人間たちの奴隷のように、言いなりに従って生きるほかありません。それは、淋しく虚しい生き方です。しかも、神に逆らう人々を憐れんで救うために、神ご自身がこの出来事を成し遂げようとしています。法律にも道理にもかなわない悪い人々の手に、救い主イエスの生命が手渡されようとしています。罪がないままに、この私たち罪人の救いのために、救い主イエスが罪人として殺されようとしています。なんということでしょう。

   【補足/人間たちへの恐れと信頼】
    これらは表裏一体です。神を知らず、自分自身と人間たちを信頼したり恐れる他ないなら、私たちは右往左往しつづけて、絶望するほかありません。「神に聞き従うよりもあなたがたに聞き従う方が正しいかどうか、判断してもらいたい」「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒4:19,5:29)。


7/29「どうして怒るのか?」創世記4:1-16

                   みことば/2018,7,29(主日礼拝)  173
◎礼拝説教 創世記 4:1-16                         日本キリスト教会 上田教会
『どうして怒るのか?』 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

4:1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。12 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。13 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。16 カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。                    (創世記 4:1-16)




 1節です。「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。あの彼女は一つの小さな存在に目を留めています。主によって子供が贈り与えられた。得させていただいたのだと。神さまが生きて働いておられたのです。他のさまざまなものの活動や働きや影響をはるかに越えて、神ご自身こそが生きて働いておられたのだと。この小さな一句から、光が差し込んできています。主なる神さまが生きて働いておられます。その意味を理解し、「ああ確かにそうだ」と自分自身のこととして受け取ることのできた人たちは、今日、謙遜な低い心を贈り与えられ、慰めと平安を受けて自分の家に帰ってゆくでしょう。そうでありたいのです。わたしは主によって男子を得た。これが、この一つの家族の出発点でした。エバがその夫と出会い、助ける者を得、その人と共に生きることになったのも、子供が生まれたことも、それだけでなくどれもこれも皆、「主によって得た」ことでした。私たちにとってもまったく同じです。それぞれの生涯に起こった一つ一つの良い出来事も豊かな成果も収穫も、どれも皆残らず、「主によって得た。主の御計らいによって贈り与えられた」ことでした(詩16:5,103:1-2,ローマ手紙8:28,コリント手紙(1)4:7。たまたまなんとなくそうなった、のではありません。《そうしようと決心し、計画して一つ一つ準備し、そのように実行した。がんばった。精一杯によく働いた。だから》こうなった、のでもありません。今その手に掴んでいる豊かなものの本質を誤解してはいけません。子供が生まれたことも、やがてその息子たちが成長してそれぞれの職業に就き、それぞれの収穫を手にしたのも、それら一つ一つは皆、《主によって得た》恵みの贈り物だったのです。なぜ、主はその人にそうしてくださり続けたのか。主は、その人を大切に思い、その人を愛してくださったからでした。主はまず可哀想に思い、憐れんで、だから与え続けてくださった。忘れてはなりません。憐れみを受けたこと(ペテロ手紙(1)2:10,ローマ手紙11:30-32,テモテ手紙(1)1:12-17を。私たちの出発点。立ち返るべき私たちのいつもの出発点です。

 3-5節。主によって生命を贈り与えられた息子たち二人は、主によって成長して大人になり、主の恵みによってそれぞれの職業につき、主の恵みによってそれぞれの格別な収穫を手にしました。兄さんのカインは土を耕す者となり、弟のアベルは羊を飼う者となりました。神さまによって得た働きの実りを神さまに感謝するときがきて、彼らは収穫をもって、主のもとにやって来ました。感謝をし、喜び祝うために。ここにいるこの私たちもまったく同じです。ある者は畑を耕し、ある者は羊を飼う。ある者は大工になり、漁師になり、会社の勤め人になり、学校の教師になり、商売を営み、医者になり看護婦になり、あるいは父さん母さんとして子供たちを育て上げました。今日も私たちは、主によって与えられた収穫の一部分を携えて、また、主によって生かされてある自分自身を携えて、ここに、主の御前へとやって来ました。感謝をし、主の恵みと憐れみのもとに足を踏みしめるために。その神さまからの贈り物を改めて贈り与えられ、互いに喜び祝うために。
 4-7節をもう一度読みましょう。「アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、『なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません』」。兄さんは畑の収穫物をささげました。弟は羊の群れの中から肥えた初子を。けれど主は、弟のアベルとその献げ物に目を留め、喜びましたが、兄さんとその献げ物にはフンとそっぽを向き、目を留めてくれませんでした。ああ、なんということでしょう。カインははらわた煮えくり返り、激しく怒って顔を伏せました(5節)。ここは難しい箇所です。私たちは心を痛めて、考え込みます。なぜだろう。兄さんのどこがどう悪かったのだろうか。どうして神は目を留めてくださらなかったのかと。しかも、この大切な場所で、聖書の報告はあまりに簡単で、そっけないのです。えこひいきをして不公平な扱いをした神こそが、責められるべきなのでしょうか? 「よくがんばったね。大変だったろう。嬉しいよ、ありがとう」と神さまは、あの彼に対して深く感謝をすべきだったのでしょうか。その通りです。神様からも人様からも、それをしてもらいたい。この私を何だと思っているのか。無礼な、礼儀知らずの神だ。「もしお前が正しいのなら、顔をあげろ」ですって。冗談じゃない。私が正しいに決まっているじゃないか。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(6-7)。けれど、神に失望したカインたちよ。なんでもご存知のはずの神が、『どうしてなんだい? 何をそんなに怒っている。顔を伏せている理由は何?』と、わざわざ質問をなさっています。それはご自身のための質問ではなく、問われたその人自身のための質問です。あのカインと共に、ここで襟を正して自分自身に問いかけ、答えねばなりません。この私は、なぜ怒っているのか。どうして顔を地に伏せるのか。
 もちろん怒るべきときはあります。ぜひとも腹を立てるべきときがあり、また、悔しくてハラワタが煮えくり返って仕方のないときもあります。それぞれの手強い現実を懸命に精一杯に生きているのですから。けれど、思い起こしてみてください。その献げものは、そもそもの初めには、感謝の献げものだったはずです。感謝の献げもの。けれども、いったい誰から誰に向かっての感謝でしょう。周りの人たちや神さまがこの私に感謝するための、ではありません。私自身こそが感謝するための。会社や職場やあちこちでの私たちの働きや奉仕も、子供たちを養い育ててきたことも、年老いた親を介護する日々も。それら皆は、この私自身こそが感謝するための、私からの献げものだったはずです。けれどどうしたわけか、いつの間にか、誉められ、認められるための手段となりました。失望し、落胆しつづけるカインたちよ。どうして私たちは度々苛立ったのでしょう。どうして度々、顔を地に伏せて怒ったのでしょうか。喜びと慰めを山ほど与えられてきました。報酬はすでに、十二分に受け取っていたのです。差し出したものは、この私の働きと努力の成果である以上に、それを遥かに越えて、丸ごと全部、神さまからの贈り物でした。献げものには、ただただ感謝があるばかりのはずでした。
  私たちの神は、隠れているものを見、人の心の奥底までも見通す神であったのです(サムエル上16:7,マタイ6:6。神ご自身だけが見通し、けれど私たち人間の目には隠されていたものが、ついにとうとう外にあふれ出しました。やはり、5節の後半です。「カインは大いに憤って、顔を伏せた」。そして8-9節。兄さんのカインが顔を地に伏せて怒り出したとき、そして礼拝からの帰り道に弟を野原に誘い出したとき、その隠されていたものが、私たちの目の前にさらけ出されました。妬ましくて、悔しくて、兄さんは弟を野原に連れ出して殺します。主はカインに再び問いかけます;「弟アベルは、どこにいますか」(9節)と。「知りません。私が弟の番人でしょうか」。「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます」(10)。たとえ深い土の底の底からでさえも、主なる神さまは小さな貧しい者の血の叫びを決して聞き漏らしません。なぜならほんのかすかな呻きや溜め息さえ、主の耳元に響きつづけて、決して鳴り止むことがないからです(出エジプト記3:7-)。「あなたの兄弟はどこにいるのか」と主は、私たちにも問いかけて止みません。ほら、あの人のことだ。「どうか、よろしく頼む。任せたよ」とあなたに委ねておいたあの兄弟は、今どこに、どうしているのか。この私たちは兄弟同士として、神の憐れみを注がれた者同士として、互いに対して大きな責任があります。受け取ってきた憐れみと慈しみを互いに分け合うという、神の恵みのもとにある責任が。
  神さまに仕える奉仕や働き、神さまへの献げものをささげる際に、そこで腹を立ててプンプン怒っている人たちのことが聖書の中でいくつも報告されています。例えば放蕩息子の兄は、「私のものは全部あなたのものだ。あなたはいつもわたしといっしょにいる」と父親からなだめられています。例えばマルタ姉さんも、「妹は良いものを選んだ。取り去ってはならない」となだめられています。カイン兄さんも、「どうして怒るのか。もし、お前が正しいなら顔をあげなさい」となだめられています。また例えばあの朝早くから働いた労働者たちも、「わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」となだめられています。彼らは皆、兄弟や仲間たちを妬んでプンプン腹を立てて、そこで神さまからなだめられています(ルカ福音書10:38-,15:25-32,マタイ福音書20:1-16。現実の信仰生活で、この私たちもよく似た場面や出来事に直面しつづけます。さて13-14節。カインは主に言います。「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。これは彼の祈りです。なんと痛ましい告白でしょう。正しくありたい、ふさわしいと認められたい、私の働きを十分に認めて、ちゃんと評価してもらいたいという願いと自己主張は、あまりに大きかった。一人の兄弟の存在を踏みつけ、葬り、消し去ってしまいたいと願うほどに。その罪はあまりに重い。自分の正しさやふさわしさを気に病み、「私の正しさ。私のふさわしさ」と言い立てて止まず、むしろ、そのこだわりがその人自身を狭い所に閉じ込めていました。その罪深さはあまりに重く、カインであれ他の誰であれ、とうてい背負いきれません。

            ◇

  15-16節。彼を打ち殺すことが誰にも出来ないようにと、主なる神は彼の体に《しるし》を刻みました。それは、恵みと保護のしるしであり、ゆるしのしるしでした。「私の罰は重すぎて負いきれない」と嘆く不届きな罪人を、主なる神さまこそが背負ってくださるのです。主こそが担ってくださるのです。どんなしるしだったは書いてありません。世々のキリストの教会は、それは《十字架のしるし》だったのではないかと読み取ってきました。まったく、その通りです。救い主イエスのしるしこそが、その罪人の体に深々と刻まれます。「わたしの罰は重すぎて追いきれない」と嘆くあまりに惨めで哀れな罪人を、神の独り子、救い主イエスこそが全身全霊をもって背負い通してくださいます。だからこそ、それで、私たちはカインの末裔なのです。まったく、カインそのものではありませんか。「誰もお前を打ち殺すことがないように、誰によってもお前が裁かれたり非難されたり、陰口をきかれたり後ろ指を指されたりすることがないように、この私こそが、お前の味方になってあげよう。私こそが、お前の傍らに立ちつづけよう」と断固として仰るお独りの方がいます。十字架の主イエスです。神の身分をポイと捨て去り、地上にくだり、しもべとなり、十字架の上で死にいたるまで生命を注ぎだし、死んで葬られ、陰府にくだってくださった(ピリピ2:6-,ローマ14:15,イザヤ53:12。それは、失われてしまいそうな一つの惨めな小さな魂を、そのあなたを惜しんで止まなかったからです。とんでもない不始末をしでかして、「ああ私は」と身の縮むような恥ずかしさを噛みしめるときにも、けれどなおそのあなたの額に主イエスの十字架のしるしが深々と刻まれています。誰にも迷惑をかけず、正しく生きてきたふさわしい人間だから、あるいは、与えられた仕事をちゃんと十分にこなしてきたから、だから私たちが誰からも裁かれず、訴えられることもない――わけではありません。ゆるしていただいたからです。憐れんでいただいたからです。恥じることも誰かを恥じ入らせる必要もなく、恐れることも、誰かを恐れさせる必要もなく、あまりに安らかです。なぜでしょう。なぜでしょうか。なぜなら体に、あのお独りの方の憐れみのしるしをはっきりと刻まれているからです。私たちは共々にカインの末裔であり、クリスチャンだからです。ゆるされる必要のある罪人です。しかも現にゆるされつづけている罪人だからです。なんという恵み、なんという喜びでしょうか。

2018年7月23日月曜日

7/22こども説教「主イエスの裁判」ルカ23:1-12


 7/22 こども説教 ルカ23:1-12
 『主イエスの裁判』

     23:1 群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。2 そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。3 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった。4 そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。5 ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。6 ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、7 そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた。8 ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。9 それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。10 祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。11 またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした。12 ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。(ルカ福音書 23:1-12

  ケンちゃん。そのころユダヤの国はローマ帝国に支配されて、その植民地にされていました。だから、裁判も何もかも大事なことはローマから遣わされてきた役人が決めることになっていました。その支配者ピラトによる裁判が始まっています。ピラトは、ユダヤのその土地の支配者ヘロデのご機嫌もうかがいながら、裁判を進めます。救い主イエスについて、ローマの法律に照らしても、ユダヤの法律に照らしても何の罪も見つけることができませんでした。救い主イエスは罪がないまま、法律をそっちのけにした悪い裁判によって死刑にされようとしています。そうやって命を奪い取られることが、旧約聖書によって約束されていました(イザヤ書42,53章参照)。約束通りの仕方で、救い主イエスの命が奪いとられようとしています。救い主が罪がないままに殺されるのは、罪人である私たちを救うための、神さまの救いのご計画です。ここが、いちばん大事な点です。




7/22「神への反逆のはじまり」創世記2:24-3:24


                  みことば/2018,7,22(主日礼拝)  172
◎礼拝説教 創世記 2:24-3:24                   日本キリスト教会 上田教会
『神への反逆のはじまり』


 2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。(創世記 2:24-3:12)


 神さまが、この世界全部と私たちとをお造りになりました。草や木を。太陽と月と星々を。また他のさまざまな生き物たちと共に、私たち人間を。その神さまはご自分が造ったこの世界を愛し、それら造られたすべてのものが神と共に生きることを望みました。私たち人間もまた神さまを愛し、尊び、神さまと共に生き、人間同士もまた互いに慈しみ合って共々に生きることを。キリストの教会では、「あなたがたは罪人である」「あなた自身の罪」と繰り返し繰り返し語られつづけます。・・・・・・あるいはもしかしたら、「そういうことは古臭くて時代遅れだ。聞き飽きたし、もう誰も見向きもしない。だから他のもっと晴れ晴れして元気が出るような、景気のいい素敵なことを語ってくれ」と皆が要求しはじめ、「罪人である」「あなた自身の罪」などとやがていっさい語られなくなる日が来るのかもしれません。ともかく、聖書が語るところの『罪』とは、神さまへの反逆です。神に逆らって、神などどうでもいい、二の次、三の次だと背を向けていた者が、罪あるままに神さまのもとへと迎え入れられ、そのようにして神さまと人間との仲直りがなされたと聖書は告げます。それこそが救いの出来事であり、その出来事のうちに留まって生きるようにと私たちは招かれています。すると、私たちがぜひとも知っておくべきことは、2つです。(1)私たちの罪の現実とその中身。(2)罪から、どのようにして救い出されたのかということ。

  創世記3章は、私たちの罪と堕落の始まりを報告していました。
 善悪の知識の木から実をとって食べた。それだけはしてはならないと言われていたのに、それでも食べた。食べてはいけませんと堅く禁じられていたから、それでよけいに食べてみたくなったのかも知れません。小さな子供も私たちも、「いけません。ダメですよ」と言われると、ますます、それをしたくてしたくて堪らなくなる。「じゃあ、ダメなものをなんでわざわざ目の前に置いといたのか、ズルイじゃないか」と反発してみたくもなります。おいしいお菓子をつまみ喰いした子が、「だってお母さんがそんな所に置いとくからいけないんだよ。大事なものなら、手の届かない見えない所にちゃんと隠してしまっておけばいいじゃないか。鍵でもつけてサ」と口を尖らせるように。さて、彼らを罪に誘う者が現れます。4-6節、蛇が女に言いました。「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女は見ました。木と、そこに実った果実はいかにもおいしそうで、彼女の目を惹きつけ、賢くなるようにと唆していました。女は実をとって食べ、一緒にいた夫にも渡したので、彼も食べました。神のように善悪を知り、善悪を自分自身で判断する者になろうとして。
 むずかしい場面です。善悪を知ることは、悪いことではありません。むしろ私たちはそれを望みます。私たち自身がちゃんと善悪をわきまえ知り、私たちの子供や孫たちも善悪の道理を知り、この国の指導者たちも国民皆も年寄りも若者も子供たちも、十分にちゃんと善悪を知り、よくよく互いに弁えあう私たちでありたい。善いことを選び取り、悪いこと、してはいけないことを捨て去る私たちであり、私自身でありたいと。7節に目を向けましょう。「すると二人の目が開け、自分たちの裸であることが分かったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」。おいしそうで目を惹きつけていた知識は、けれども、とても貧しく片手落ちな、正しくもなんともない善悪知識でした。目が開けて彼らが知ったことは『自分たちが裸だ』ということでした。あまりに恥ずかしくて耐え切れずに、いちじくの木の葉をつづり合わせて腰を覆いました。自分たちが裸である。それは間違いではないとしても、知るべき真実の半分にすぎませんでした。「裸である。とても無防備で、弱く、もろい。愚かだ。粗忽でうっかり者だ」それらの性質は、恥じるべきものでしょうか? はい、その通り。あの木の実を食べてしまったあの時から、その後からは()、そうしたことは恥じるべき、隠すべき、互いにバカにしてあざ笑うべきこととなったのです。恥じたり、恥じ入らせたり、互いに恐れたり恐れさせたり、隠したり暴き立てたり。いちじくの葉っぱを何枚もつづり合わせて腰を覆っても、それでもやっぱり、私たちの無防備さや弱さや愚かさは覆うことができません。パンツをはき、シャツやズボン、おしゃれなネクタイをしめ、上等な背広を着こなしても、それでもやっぱり私たちの裸さは覆うことができません。念入りに化粧をし、素敵な首飾りやドレスに身を包んでみても、それでもやっぱり私たちの裸さは覆うことができません。「本当の自分を知ってもらいたい」とあなたも願っているのですね。同時に、「やっぱり知られたくない。とうてい見せられない。ただ、実際よりも少しでも見栄えよくして、できるだけ素敵に見せかけたい」とも願っているのですか。ぼくもそうです。それで、他人に見せられないような恥ずかしいものをいくつも抱えて、私たちはうわべを必死に取り繕って生きています。ぜひとも知っておくべき真実の、残りの大事な半分は、その裸さや見苦しさがいったい何によって覆われるのかということ。
 さらに、8-10節。「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神さまが近づいてくる足音が聞こえ、彼らはあわてて木の陰に隠れました。神は問いかけます、「あなたはどこにいるのか」。人が答えます、「恐れて身を隠したのです。だって、私は裸だったので」。自分たちの弱さや無防備さ、貧しさ愚かさを知った。すると彼らは、「なんだ。そのおかしな恥ずかしいものは」「あなたこそ何よ。見苦しいし、あまりに粗末で不格好で、よく恥ずかしくないものね」などと互いに恥じたり恥じ入らせたり隠したり暴き立てたりしました。それだけではなく、神さまに対しても、恐れて身を隠し、「私たち下々の者には恐れ多くて、とてもとても」などと逃げ去る者となってしまいました。彼らは知るべき真実の半分を知りました。けれども残りの大切な半分をすっかり見失ってしまったのです。その裸さや愚かさやいたらなさを、粗末さ、見苦しさを、いったい何によって覆われるのかということを。恐れて身を隠す他に、本当は、もう一つの生きる道がありました。「神さま。罪人の私を憐れんでください」と呼ばわる道が。「私を助けてください。どうか支えてください」と願い求め、「主であってくださる神よ。あなたこそ私を助け、私を支え通してくださる方です」と信頼して生きる道が。
  目が開かれた彼らの姿をまざまざと突きつけられて、一つの大きな疑いが芽生えます。目が開かれた。よく見えるようになり、よくよく分かるようになった? むしろ逆、すっかり目が塞がれ、耳も心も閉ざされてしまったのではありませんか。得たのではなく、見失い、手放してしまったのではないでしょうか。今では、私たちのこの世界には善悪を知る知識にあふれています。さまざまな種類の善悪。あるいは好き嫌い。あるいは儲かるとか損する、役に立つとかあまりそうでもないとか。皆が気に入って評判がいいとか、悪いとか。さまざまな種類の善悪があり、さまざまな好都合と不都合とがあり、その世界の中でずいぶん長く生きてきました。さまざまな体験を積み、多くを知り、けれど同時にその只中で損なわれてしまったものもあります。あの彼らのように、私たちも。
  創世記2章の終わりは、「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」25節)と結ばれています。裸なのに、どうしてお互いに恥ずかしいと思わなかったのでしょう。禁じられていた木の実を食べて、それまでは愚かだった二人は、やがて目が開けて、賢くなったんでしょうか。どんなふうに。良いことと悪いことと、していいことといけないことの区別がちゃんとつくようになったんでしょうか。神さまのように、すっごく賢くなって、それで幸せになったでしょうか。どう思います? けれど、あの二人が身につけた賢さは、あんまり嬉しい賢さじゃないですね。あんまり役に立つ知識じゃない。裸で、小さくて弱々しいのは、格好悪くて恥ずかしいことですか。他の人とどこかがほんのちょっと違っていることは、馬鹿にしたり、されたりするのが当たり前でしょうか。そうじゃないですね。木の実を食べる前に、二人が何も知らなかったのかといえば、そうではありませんでした。「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。自分たちが裸で、小さくて弱々しいってことくらい、最初からちゃんと知っていました。それでも、格好悪いとも変だとも思わなかったし、お互いに恥ずかしがらせたり馬鹿にしたりはしませんでした。神さまが自分たちよりもずっと何倍も強くて大きくて、すごく賢いということも、ちゃんと十分に知っていました。それでも、だからといって「何をされるかわからない。恐ろしい」とは夢にも思いませんでした。なぜならこの人たちは、もっと千倍も万倍も大切なことをよくよく知っていたからです。神さまこそが、この私のこともこの人もことも大切に思ってくださっていて、私やこの人が幸せに生きていくために神さまこそがちゃんと十分に守っていてくださるということをです。
 224節で、「その父と母を離れて、妻と結び合い、一体となる」のだと告げられます。もちろん彼らは最初の人間なので、彼らには離れ去るべき父さんや母さんはいません。けれど彼らの後につづく私たちには、それぞれに離れ去るべき父母があります。何のことでしょう。「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12と戒める同じ一つの神は、同時にまったく「あなたの父と母から離れなさい。そうでなければ、あなたがたは互いに一体となることも一人の人のようになることもできない」とも語りかけます。どういうことでしょう。アブラハムとサラの信仰の旅の出発のときにも、これとそっくり同じことが語られていました。創世記12章です。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)。やがてすいぶん後になって、主イエスが弟子たちと出会ったときにも、同じように招かれました。彼らは、「舟と父親とを残して」(マタイ福音書4:22主イエスに従ったのです。父さん母さん、父の家、生まれ故郷。舟や網。それは私たちの後ろ盾です。「私にはこれがある。だから安心で心強い」という支えや頼みの綱のことです。それまでは父さん母さん、兄や姉、親戚の叔父さん叔母さんがいてくれて、何か困ったことがあれば私たちはその人々に相談し、頼みごとをし、助けや支えになってもらいました。それで心強く生活することができました。けれど、その心強く居心地の良い父さん母さん、父の家、生まれ故郷を離れて、舟と魚網まで後に残して、それじゃあ これからはどんなふうに生きてゆくことが出来るでしょう。父さん母さん、父の家と生まれ故郷の人々の代りに、けれどこれからは主なる神こそが私たちの支えや助けとなり、後ろ盾となり頼みの綱となるのです。これからは、神にこそ指し示され、神さまからこそ指図されて旅路を歩んでいくのです。主人はただ神お独りであり、ほか全員が手下であり、部下であるからです。ただただ神さまへの忠実と誠実こそが問われつづけるからです。そのためには、ひとたびすっかり父母や父の家や生まれ故郷を離れて、そこから出てくる必要がありました。積み重ねてきた人生経験、社会的な知恵や知識、能力や技能なども、離れ去るべき父母の一つです。「私にはこれができる」「かなり分かっているし、わきまえている私だ」というささやかな自負心が、貧しいプライドが、主に信頼することや従うことを邪魔し始めるかもしれません。何を頼みとし、支えとして生きるのか。それは直ちに、あなたは誰を主人として生きるのかという根本命題を突きつけます。誰も、二人の主人に仕えることはできないからです。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで、他方を軽んじるか、どちらかだからです(ルカ福音書16:13
 あなたが月曜から土曜まで足を踏みしめて立ってきたいつもの同じ場所、いつもの同じ人々、そこがあなたのためのエデンの園です。心を込めて精一杯に耕し守って暮らしなさい。恵みと祝福の実を取って食べなさい。遠慮なく、誰に気兼ねすることもなく満ちたりるほどに食べたり飲んだりしなさい。けれど、「これだけはしてはいけない」と戒められていることの内に、よくよく身を慎んで留まっていなさい。大丈夫、あなたにはできます。なぜなら、ふさわしい飛びっきりの助け手が、私たちはいてくださいますので。ご主人であってくださる神さまが。あなたの生きるこの世界は、とても素敵な場所です。嬉しいことや楽しいことも、いっぱい味わうことができますよ。何しろ、神さまが生きて働いてくださっているので。「ああ、生きてて良かった。嬉しい。幸せだ」と、これから先にも、きっと何度も何度も思うでしょう。素敵な世界にあなたは据え置かれています。

2018年7月18日水曜日

7/15こども説教「神である救い主」ルカ22:63-71



 7/15 こども説教 ルカ22:63-71
 『神である救い主』

22:63 イエスを監視していた人た ちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、64 目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。65 そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した。66 夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、67 「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。68 また、わたしがたずねても、答えないだろう。69 しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。70 彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。71 すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。        (ルカ福音書 22:63-71

  「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。わたしがたずねても、答えないだろう」と言いながら、それでも救い主イエスはその彼らに本当のことを伝えます。主の弟子である私たちもそうです。分かってくれそうな信じてくれそうな人だけにではなく、聞いてくれそうもない人たちに向かっても、大事なことや本当のことを心を込めて精一杯に語りかけます。目の前のその人たちのほとんどに対しては、もしかしたら語ったことは実を結ばないかも知れません。別のところで別の誰かの心に届いて、ずっと後になってから実を結ぶのかも知れません。たとえそうであったとしても、それでも十分なのです。天の父なる神さまにすっかりお任せしながら、語りつづけます。神さまにこそ信頼を寄せつづけて。「あなたは神の子なのか」と質問されて、「そのとおりだ」と主イエスは答えました。主イエスこそ神ご自身である救い主です。もし信じることができるなら、このお独りの方を信じて毎日毎日の暮らしを生きることができるなら、その人はとても幸いです。

  【補足/必ず実を結ぶ】
   伝道者たち一人一人の口を用いて語られる神の言葉は、「わたしの口から出るわたしの言葉だ」と神から約束されています。しかも、「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:10-11)と。しかも、「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」と仰る主イエスから「だから、あなたがたは行って」と遣わされたのです。いつも共にいるとまで約束されています。彼らがすっかり心挫けて口を閉ざそうとするとき、もちろんこの同じ主ご自身が彼らを励まし、力づけつづけます、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」(使徒18:9,ルカ10:18-20)と。


7/15「荒れ果てた世界のために」創世記2:4-25


みことば/2018,7,15(主日礼拝)  171
◎礼拝説教 創世記 2:4-25                              日本キリスト教会 上田教会
『荒れ果てた世界のために』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・・・・15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。・・・・・・21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。          (創世記 2:4-25)

この世界と、そこに満ちるすべて一切を神さまがお造りになりました。何のためにこの世界が造られ、私たちに生命が贈り与えられたのか。私たちがどこにどう足を踏みしめて立ち、どう生きることができるのか、どこへと向かって生きるのかを聞き分けたいと願っています。やはり、私たちの手元に置かれたこの一冊の聖書こそが、私たちに、私たちのための格別な真実を告げ知らせつづけます。
  創世記2章、まず4-7節です。神さまによってこの世界が造られた初めのとき、地上は草一本も生えない、荒れ果てて荒涼とした物淋しい大地だったと報告されます。どうしてかと言うと、その理由は2つ。まず、(1)雨がまだ大地に降り注いでいなかったこと。また、(2)その恵みの雨を受けとめて土を耕す人がいなかったから(5)雨と、そして土を耕す人。この世界が生命にあふれる、青々とした素敵な世界であるためには、雨が大地にたっぷりと降り注ぎ、そしてその恵みの雨を受けとめて土を耕す人がそこにいる必要がありました。この世界と私たちを造った神さまは、私たちがビックリするような、人の心に思い浮かびもしなかった不思議な仕方で問題を解決していかれます。「いつごろ雨が降るだろう。まだかなあ」と空を見上げて待っていましたら、空の上からではなく、地面の下から水が湧き出てきて大地を潤しました。土を耕す人も、わざわざ土の塵から形づくりました(6,7)。土の塵で人が造られた。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れた。それで、人は生きる者となった。そのことを、ずっと考え巡らせてきました。「オレって何て馬鹿なんだろう。なんて臆病でいいかげんで、ずるくて、弱虫なんだろう。ああ情けない」とガッカリして、自分が嫌になるときがあります。そういうとき、この箇所を読みました。「どうして分かってくれないんだ。なんで、そんなことをする」と周りにいる身近な人たちにウンザリし、すっかり嫌気がさしてしまいそうになるときに、この箇所を読みました。その人の中に小さな一粒の種が芽生え、大きく育ち、素敵な花を咲かせ、やがて嬉しい実を結ぶためには、その人のためにも、やっぱり(1)恵みの雨と、(2)その人を耕してくれる別の耕す人が必要だってことです。もし、そうでなければ、その人も直ちにカラカラに乾いて、干からびて、草一本も生えない寒々しく荒れ果てた淋しい人間になってしまうかも知れなかった。踏み荒らされて壊された砂の道路や、砂の山や砂の家のようになってしまうかも知れなかった。で、その人を耕してくれる人もやっぱり同じく土の塵で造られていて、神さまからの恵みの雨と別の耕す人を必要とした。その耕す人もやっぱり・・・・・・。土の塵から造られ、鼻に生命の息を吹き入れられた私たちです。壊れ物のような、とても危っかしい存在です。それぞれに貧しさと足りなさを抱え、時には、パサパサに乾いた淋しい気持ちに悩んだりもします。恵みの雨に潤され、耕されるのでなければ、この私たちだって草一本も生えない、荒れ果てた、淋しい人間になり果ててしまいます。しかも土の塵。石や鉄やダイヤモンドでできたビクともしない人など1人もいません。ですから、あんまり乱暴なことを言ったりしたりしてはいけません。あんまりその人が困るような無理なことをさせてはいけません。壊れてしまっては大変です。
 7節をご覧ください。「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神が吹き入れてくださった命の息、それは神さまからの恵みと祝福です。それぞれに貧しさや足りない所をもち、ダメなところや恥ずかしい愚かさを山ほど抱え、乏しく危うい存在であり、けれどそれだけではなく、神さまからの祝福を受け、恵みを与えられている。だからこそ生きる者とされ、生きていくことができる。これが私たち人間です。どうぞ、よくよく心に留めていてください。「なんだ、だらしがない。いたらない。あまりにふつつかだ」と他人に対しても自分自身に対しても、私たちはひどく簡単にがっかりしたり失望したり、「どうせこういう人だ」と軽々しく決めつけたりしてしまいます。互いにあまりに簡単に買いかぶったり、見下しあったりしてしまいます。「もっとちゃんとやってくれよ。しっかりしてくれ」とあまりに高い厳しい要求を突きつけあい、互いに追い詰めあったりしてしまいます。けれど、土の塵から造られた私たちであることを、どうぞ思い起こしていただきたいのです。いたらなさもふつつかさも、それはお互い様でした。貧しさも愚かさも、それはお互い様だったのですから。
  18節の言葉はよく知られています。結婚式のときによく語られますし、キリスト教のことをあまりよく知らない人たちでも、この言葉をどこかで耳にします。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。でも、これは別に結婚紹介所の宣伝文句ではなく、独身でいる人に嫌味を言っているのでもありません。結婚はしてもいいし、しなくてもいい。だって結婚したからって幸せになれるかというとそうでもない、かも知れない。子供が生まれて育っても、自分自身もその子供たちも幸せになれるかというと、なれるかもしれないしそうでないかもしれない。この間も質問しましたけど、また聞いてみましょうか。結婚して私はとても幸せだったという人は? そうでもなかったという人は? けれどたとえ独身で生涯過ごすとしても、その人がただ独りで生きているわけではありませんでした。その人のことを分かってくれて、困ったことや悩み事があるとき案じて気をもんでくれたり、暖かく手を差し伸べてくれるはずの多くの仲間たちや友人たちに囲まれ、支えられて暮らしています。今までもそうでした。これからもそうです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。これは、ただそれだけで語られているのではなくて、4-7節の成り立ちと、15節からのつながりの中に置かれています。15節、「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。そして、だからこそ主なる神は言われるのです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と。素敵なエデンの園に連れてこられました。何のため? そこを耕し守るためにです。「骨休めや観光旅行にでも来たつもりで、食べたり飲んだり散歩したりして好きなようにしなさい。のんびり気楽に過ごしなさい」ということではなかったのです。(1)その土地を耕し守って生きる、という大切な働きと役割。(2)すべての木から取って食べなさい、とあまりに気前よく恵みと祝福を与えられました。(3)ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と戒めも与えられて。働きと役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め15,16,17節)。しかも土で造られた私たち人間はあまりに不完全で、ひどく未熟でした。意固地になり、独り善がりになりました。ね、だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りでは、その土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、あまりに気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。独りでは、『これだけはしてはいけない。ダメだよ、止めなさい』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどとうていできないからです。もし、その人を助けてくれる者がいてくれるならば、その人は、たとえあまりに不完全で、ひどく未熟だとしても、たびたび意固地になり、独り善がりになってしまいやすいとしても、それでもなおその土地を耕して守りながら生きることができます。もし助ける者がいてくれるなら、その人は祝福と恵みを十分に受け取って、「こんなに良いものを私なんかがいただいていいんですか。本当ですか。ああ嬉しい。ありがとうございます」と喜び祝い、感謝にあふれて生きることができます。助ける者がいてくれるなら、その人々は、「これだけはしてはならない。口に出して言ってはいけない」という戒めのうちに身を慎んで留まることができます。独りでは度々自分勝手になったり、ひどくうぬぼれたり我がままになってしまう私たちだとしても、そこにもし、助ける者がいてくれるなら。「だめだよ。それはしてはいけないだろ」と互いに注意しあいながら、「そうだった」と思い直し思い直ししながら、かろうじて生きることができます。どうぞ、目の前のその人の不出来さ、了見の狭さ、うかつさをゆるしてあげてください。何度でも何度でも大目に見てあげてください。大目に見てゆるしながらも、それでも、その人が間違うときには「それは違う」、してはいけないことをしようとするときには「してはいけない」と折々に正してあげることも互いにし合いたいのです。なぜなら私たちは、生身の人間にすぎないからです。そういう兄弟が、助ける者として傍らに立っていてくれるならば、私たちは共々に、同じ一つの狭い土地を耕し守って生きることができるでしょう。土の塵から造られた私たちは、皆やがてもとのちりに帰ります(ヨブ33:6,伝道12:7。それでもなお、安らかに晴れ晴れとして生きて、やがて祝福のうちに死んでゆくこともできるでしょう。ぜひそうでありたいと願っています。荒れ果てた不毛の大地と見比べられるような、そんな絵に描いたような楽園などどこにもありません。土地も、人間も人間たちの集団も、みな同じです。それは土の塵で造られました。それは草一本も生えない物淋しい土地に成り下がり、また青々とした豊かな土地にも変わったのです。荒れた、さもしく貧しい人々と対比されるような、見比べられるような、そんな絵に描いたような理想的な人々や集団、社会など、どこにもありません。それは、どこにでもある普通の土地です。泥で造られた泥の土地以外の、この世離れした、ご立派な素敵な土地など、あるはずもないのでした。けれどもし、恵みの雨がそこに降り注ぐならば。地下から水が湧き出るならば、恵みの雨を受け止めて、その土地を精一杯に懸命に耕し守って生きる働き人が起こされるならば、その貧しく痩せた土地は、喜ばしい豊かな実を結ぶのです。
 エデンの園に連れてこられ、そこに据え置かれました。朝昼晩とあなたが暮らすいつもの代わり映えのしない場所、いつもの家と家族、いつもの職場、そこが、あなたのためのエデンの園です。それぞれのエデンの園に連れてこられ、あなたも私も、そこに据え置かれました。その土地を耕し守るために。その土地を耕し守って生きるという、あなたのための大切な働きと役割です。すべての木から取って食べなさい、とあまりに気前よく贈り与えられた、あなたのための恵みと祝福です。ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と、あなたのための戒めも与えられて。働きと役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め。しかも土で造られた粗末な働き人たちよ。私たち人間はあまりに不完全で、ひどく未熟でした。意固地になり、たびたび独り善がりになりました。あなたにあう、ちょうどよく助けてくれる者がそこにいるのに、その人を見失いました。こんな粗末な痩せた土地では気力も失せてしまう、などと不平不満をつぶやきました。他の土地に比べて、私の土地に降る雨は少なすぎる。日照り続きで、もう何日もちっとも雨なんかふらないと嘆きました。私を耕してくれるはずのあの働き人が粗末で、いいかげんで、「もっと親切にしてほしいのに。もっと目をかけてくれて、もっと暖かい優しい言葉を朝も昼も晩もかけつづけてほしいのに。もっともっと」。それなのに、私に対する愛情も親切も心配りも全然足りず、薄情で、思いやりがちっともなくて、だからあの人とあの人とあの人が至らないせいで、私はいつまでたってもこんなに粗末な痩せた貧弱な土地でありつづける。「足りない。貧しい」と僻んだりいじけたり拗ねたりしつづけました。そうするうちにも、あなたを助けるはずの働き人が疲れ果てて、心をなえさせ、カラカラに乾いてしまいそうです。ああ、なんということでしょう。
  それでもなお私たちはその土地に据え置かれて、その土地を耕し守って暮らします。神ご自身こそが、私たち痩せた粗末な土地のための耕し守る働き人でありつづけてくださるからです。あなたやわたしのためにも種を蒔き、懸命に耕し、朝も昼も晩もコツコツと雑草をむしりつづけ、石やイバラの根を一つ一つ取り除き、水をまき、カラスを追い払ってくださる働き人だからです。倦むことなく、疲れ果てることのない、熱情の働き人であってくださるからです。涙し、労苦を背負って働きつづけるその働き人は、他の誰であるよりもなにより神ご自身です。私たちは、そのお方の涙を知っています。背負ってくださった種の袋のそのあまりの重さを知っています。「私たちはその方のお働きの実りであり、収穫である、ご自身の慈しみが結ぶ実りだ」と聖書は告げます(イザヤ書40:10-11,53:11,ルカ福音書8:4-8,コリント手紙(2)9:8-10)。長い長い歳月がすぎて、やがてあるとき、イバラに覆われていたはずのその土地が実を結びました。道端の土地から鳥が種を奪い取ろうとするとき、一粒の種がかろうじて守られました。石だらけの痩せた土地に落ちた種が何日も何日もつづく強い日差しに焼かれてしまいそうになったとき、どうしたわけかその小さな小さな一粒の種が守られました。