2018年7月23日月曜日

7/22「神への反逆のはじまり」創世記2:24-3:24


                  みことば/2018,7,22(主日礼拝)  172
◎礼拝説教 創世記 2:24-3:24                   日本キリスト教会 上田教会
『神への反逆のはじまり』


 2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。(創世記 2:24-3:12)


 神さまが、この世界全部と私たちとをお造りになりました。草や木を。太陽と月と星々を。また他のさまざまな生き物たちと共に、私たち人間を。その神さまはご自分が造ったこの世界を愛し、それら造られたすべてのものが神と共に生きることを望みました。私たち人間もまた神さまを愛し、尊び、神さまと共に生き、人間同士もまた互いに慈しみ合って共々に生きることを。キリストの教会では、「あなたがたは罪人である」「あなた自身の罪」と繰り返し繰り返し語られつづけます。・・・・・・あるいはもしかしたら、「そういうことは古臭くて時代遅れだ。聞き飽きたし、もう誰も見向きもしない。だから他のもっと晴れ晴れして元気が出るような、景気のいい素敵なことを語ってくれ」と皆が要求しはじめ、「罪人である」「あなた自身の罪」などとやがていっさい語られなくなる日が来るのかもしれません。ともかく、聖書が語るところの『罪』とは、神さまへの反逆です。神に逆らって、神などどうでもいい、二の次、三の次だと背を向けていた者が、罪あるままに神さまのもとへと迎え入れられ、そのようにして神さまと人間との仲直りがなされたと聖書は告げます。それこそが救いの出来事であり、その出来事のうちに留まって生きるようにと私たちは招かれています。すると、私たちがぜひとも知っておくべきことは、2つです。(1)私たちの罪の現実とその中身。(2)罪から、どのようにして救い出されたのかということ。

  創世記3章は、私たちの罪と堕落の始まりを報告していました。
 善悪の知識の木から実をとって食べた。それだけはしてはならないと言われていたのに、それでも食べた。食べてはいけませんと堅く禁じられていたから、それでよけいに食べてみたくなったのかも知れません。小さな子供も私たちも、「いけません。ダメですよ」と言われると、ますます、それをしたくてしたくて堪らなくなる。「じゃあ、ダメなものをなんでわざわざ目の前に置いといたのか、ズルイじゃないか」と反発してみたくもなります。おいしいお菓子をつまみ喰いした子が、「だってお母さんがそんな所に置いとくからいけないんだよ。大事なものなら、手の届かない見えない所にちゃんと隠してしまっておけばいいじゃないか。鍵でもつけてサ」と口を尖らせるように。さて、彼らを罪に誘う者が現れます。4-6節、蛇が女に言いました。「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女は見ました。木と、そこに実った果実はいかにもおいしそうで、彼女の目を惹きつけ、賢くなるようにと唆していました。女は実をとって食べ、一緒にいた夫にも渡したので、彼も食べました。神のように善悪を知り、善悪を自分自身で判断する者になろうとして。
 むずかしい場面です。善悪を知ることは、悪いことではありません。むしろ私たちはそれを望みます。私たち自身がちゃんと善悪をわきまえ知り、私たちの子供や孫たちも善悪の道理を知り、この国の指導者たちも国民皆も年寄りも若者も子供たちも、十分にちゃんと善悪を知り、よくよく互いに弁えあう私たちでありたい。善いことを選び取り、悪いこと、してはいけないことを捨て去る私たちであり、私自身でありたいと。7節に目を向けましょう。「すると二人の目が開け、自分たちの裸であることが分かったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」。おいしそうで目を惹きつけていた知識は、けれども、とても貧しく片手落ちな、正しくもなんともない善悪知識でした。目が開けて彼らが知ったことは『自分たちが裸だ』ということでした。あまりに恥ずかしくて耐え切れずに、いちじくの木の葉をつづり合わせて腰を覆いました。自分たちが裸である。それは間違いではないとしても、知るべき真実の半分にすぎませんでした。「裸である。とても無防備で、弱く、もろい。愚かだ。粗忽でうっかり者だ」それらの性質は、恥じるべきものでしょうか? はい、その通り。あの木の実を食べてしまったあの時から、その後からは()、そうしたことは恥じるべき、隠すべき、互いにバカにしてあざ笑うべきこととなったのです。恥じたり、恥じ入らせたり、互いに恐れたり恐れさせたり、隠したり暴き立てたり。いちじくの葉っぱを何枚もつづり合わせて腰を覆っても、それでもやっぱり、私たちの無防備さや弱さや愚かさは覆うことができません。パンツをはき、シャツやズボン、おしゃれなネクタイをしめ、上等な背広を着こなしても、それでもやっぱり私たちの裸さは覆うことができません。念入りに化粧をし、素敵な首飾りやドレスに身を包んでみても、それでもやっぱり私たちの裸さは覆うことができません。「本当の自分を知ってもらいたい」とあなたも願っているのですね。同時に、「やっぱり知られたくない。とうてい見せられない。ただ、実際よりも少しでも見栄えよくして、できるだけ素敵に見せかけたい」とも願っているのですか。ぼくもそうです。それで、他人に見せられないような恥ずかしいものをいくつも抱えて、私たちはうわべを必死に取り繕って生きています。ぜひとも知っておくべき真実の、残りの大事な半分は、その裸さや見苦しさがいったい何によって覆われるのかということ。
 さらに、8-10節。「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神さまが近づいてくる足音が聞こえ、彼らはあわてて木の陰に隠れました。神は問いかけます、「あなたはどこにいるのか」。人が答えます、「恐れて身を隠したのです。だって、私は裸だったので」。自分たちの弱さや無防備さ、貧しさ愚かさを知った。すると彼らは、「なんだ。そのおかしな恥ずかしいものは」「あなたこそ何よ。見苦しいし、あまりに粗末で不格好で、よく恥ずかしくないものね」などと互いに恥じたり恥じ入らせたり隠したり暴き立てたりしました。それだけではなく、神さまに対しても、恐れて身を隠し、「私たち下々の者には恐れ多くて、とてもとても」などと逃げ去る者となってしまいました。彼らは知るべき真実の半分を知りました。けれども残りの大切な半分をすっかり見失ってしまったのです。その裸さや愚かさやいたらなさを、粗末さ、見苦しさを、いったい何によって覆われるのかということを。恐れて身を隠す他に、本当は、もう一つの生きる道がありました。「神さま。罪人の私を憐れんでください」と呼ばわる道が。「私を助けてください。どうか支えてください」と願い求め、「主であってくださる神よ。あなたこそ私を助け、私を支え通してくださる方です」と信頼して生きる道が。
  目が開かれた彼らの姿をまざまざと突きつけられて、一つの大きな疑いが芽生えます。目が開かれた。よく見えるようになり、よくよく分かるようになった? むしろ逆、すっかり目が塞がれ、耳も心も閉ざされてしまったのではありませんか。得たのではなく、見失い、手放してしまったのではないでしょうか。今では、私たちのこの世界には善悪を知る知識にあふれています。さまざまな種類の善悪。あるいは好き嫌い。あるいは儲かるとか損する、役に立つとかあまりそうでもないとか。皆が気に入って評判がいいとか、悪いとか。さまざまな種類の善悪があり、さまざまな好都合と不都合とがあり、その世界の中でずいぶん長く生きてきました。さまざまな体験を積み、多くを知り、けれど同時にその只中で損なわれてしまったものもあります。あの彼らのように、私たちも。
  創世記2章の終わりは、「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」25節)と結ばれています。裸なのに、どうしてお互いに恥ずかしいと思わなかったのでしょう。禁じられていた木の実を食べて、それまでは愚かだった二人は、やがて目が開けて、賢くなったんでしょうか。どんなふうに。良いことと悪いことと、していいことといけないことの区別がちゃんとつくようになったんでしょうか。神さまのように、すっごく賢くなって、それで幸せになったでしょうか。どう思います? けれど、あの二人が身につけた賢さは、あんまり嬉しい賢さじゃないですね。あんまり役に立つ知識じゃない。裸で、小さくて弱々しいのは、格好悪くて恥ずかしいことですか。他の人とどこかがほんのちょっと違っていることは、馬鹿にしたり、されたりするのが当たり前でしょうか。そうじゃないですね。木の実を食べる前に、二人が何も知らなかったのかといえば、そうではありませんでした。「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。自分たちが裸で、小さくて弱々しいってことくらい、最初からちゃんと知っていました。それでも、格好悪いとも変だとも思わなかったし、お互いに恥ずかしがらせたり馬鹿にしたりはしませんでした。神さまが自分たちよりもずっと何倍も強くて大きくて、すごく賢いということも、ちゃんと十分に知っていました。それでも、だからといって「何をされるかわからない。恐ろしい」とは夢にも思いませんでした。なぜならこの人たちは、もっと千倍も万倍も大切なことをよくよく知っていたからです。神さまこそが、この私のこともこの人もことも大切に思ってくださっていて、私やこの人が幸せに生きていくために神さまこそがちゃんと十分に守っていてくださるということをです。
 224節で、「その父と母を離れて、妻と結び合い、一体となる」のだと告げられます。もちろん彼らは最初の人間なので、彼らには離れ去るべき父さんや母さんはいません。けれど彼らの後につづく私たちには、それぞれに離れ去るべき父母があります。何のことでしょう。「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12と戒める同じ一つの神は、同時にまったく「あなたの父と母から離れなさい。そうでなければ、あなたがたは互いに一体となることも一人の人のようになることもできない」とも語りかけます。どういうことでしょう。アブラハムとサラの信仰の旅の出発のときにも、これとそっくり同じことが語られていました。創世記12章です。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)。やがてすいぶん後になって、主イエスが弟子たちと出会ったときにも、同じように招かれました。彼らは、「舟と父親とを残して」(マタイ福音書4:22主イエスに従ったのです。父さん母さん、父の家、生まれ故郷。舟や網。それは私たちの後ろ盾です。「私にはこれがある。だから安心で心強い」という支えや頼みの綱のことです。それまでは父さん母さん、兄や姉、親戚の叔父さん叔母さんがいてくれて、何か困ったことがあれば私たちはその人々に相談し、頼みごとをし、助けや支えになってもらいました。それで心強く生活することができました。けれど、その心強く居心地の良い父さん母さん、父の家、生まれ故郷を離れて、舟と魚網まで後に残して、それじゃあ これからはどんなふうに生きてゆくことが出来るでしょう。父さん母さん、父の家と生まれ故郷の人々の代りに、けれどこれからは主なる神こそが私たちの支えや助けとなり、後ろ盾となり頼みの綱となるのです。これからは、神にこそ指し示され、神さまからこそ指図されて旅路を歩んでいくのです。主人はただ神お独りであり、ほか全員が手下であり、部下であるからです。ただただ神さまへの忠実と誠実こそが問われつづけるからです。そのためには、ひとたびすっかり父母や父の家や生まれ故郷を離れて、そこから出てくる必要がありました。積み重ねてきた人生経験、社会的な知恵や知識、能力や技能なども、離れ去るべき父母の一つです。「私にはこれができる」「かなり分かっているし、わきまえている私だ」というささやかな自負心が、貧しいプライドが、主に信頼することや従うことを邪魔し始めるかもしれません。何を頼みとし、支えとして生きるのか。それは直ちに、あなたは誰を主人として生きるのかという根本命題を突きつけます。誰も、二人の主人に仕えることはできないからです。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで、他方を軽んじるか、どちらかだからです(ルカ福音書16:13
 あなたが月曜から土曜まで足を踏みしめて立ってきたいつもの同じ場所、いつもの同じ人々、そこがあなたのためのエデンの園です。心を込めて精一杯に耕し守って暮らしなさい。恵みと祝福の実を取って食べなさい。遠慮なく、誰に気兼ねすることもなく満ちたりるほどに食べたり飲んだりしなさい。けれど、「これだけはしてはいけない」と戒められていることの内に、よくよく身を慎んで留まっていなさい。大丈夫、あなたにはできます。なぜなら、ふさわしい飛びっきりの助け手が、私たちはいてくださいますので。ご主人であってくださる神さまが。あなたの生きるこの世界は、とても素敵な場所です。嬉しいことや楽しいことも、いっぱい味わうことができますよ。何しろ、神さまが生きて働いてくださっているので。「ああ、生きてて良かった。嬉しい。幸せだ」と、これから先にも、きっと何度も何度も思うでしょう。素敵な世界にあなたは据え置かれています。