2020年1月28日火曜日

1/26こども説教「主イエスの恵みによって」使徒15:1-11


 1/26 こども説教 使徒行伝15:1-11
 『主イエスの恵みによって』

15:1 さて、ある人たちがユダヤ から下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。……6 そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。7 激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。8 そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、9 また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。10 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。11 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。                  (使徒行伝15:1-11


 神を信じる者たちとされるしるしは、最初には「割礼」(創世記17:9-14でした。やがて、そのしるしは「洗礼を受けること」へと取り換えられました。神さまが決めて、それに人々が従いました(マタイ3:1-17,28:16-20,使徒2:36-39,10:42-48。新しいやり方に人々が従いはじめた、そのはじめの頃には、この新しいやり方がよく分からなかったり、とても受け入れられないと強く感じる人々も大勢いました。「今まで通りのやり方が正しい」と言い張る人々もいました。話し合いをしましたが、激しい言い合いになり、とてももめました。7節以下のペテロの言葉に耳を傾けましょう。7-11節、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである(使徒10:1-46参照)。そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。そのとおりです。ただただ主イエスの恵みによって救われる。誰でもそうです(ローマ手紙3:21-26。神さまご自身がこの新しいやり方を決めたのだし、神さまを信じて生きるこの私たちは、しきたりや人間たちの判断や感じ方・考え方にではなく、ただ神さまにこそ聞き従います(使徒4:19,5:29,ルカ福音書9:23,35参照)



              【負いきれなかったクビキ】
        8節。律法主義の慣習、しきたり。この126日の大人説教
(マタイ福音書11:25-30『重荷を負って~』)でもこのことを取り扱っています。神からの律法は、もともとは神に従って生きるための恵みの手段であり、人々を神のもとにある幸いへと導くはずのものでした。けれど、それは人間中心の重荷や足かせと変質し、人々を苦しめ、不自由にしました。中身と本質を考えることを止めたとき、それらはかえって、神を信じて生きる幸いを曇らせ、歪めてしまいました。今日、私たち自身の只中にも、『人間のものであるクビキや重荷』と『神からのものであるクビキ、荷物』と2種類があります。改めて、救い主イエスが「私のクビキを負って、私の荷を運んで、従いなさい」と神への従順の道へと招きます。

1/26「重荷を負って苦労している者は来なさい」マタイ11:25-30


                      みことば/2020,1,26(主日礼拝)  251
◎礼拝説教 マタイ福音書 11:25-30                 日本キリスト教会 上田教会
『重荷を負って
苦労している者は来なさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。26 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 (マタイ福音書 11:25-30)

  まず25-27節。天の御父に向かって主イエスは語りかけています;「あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢いものに隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」。不思議なことです。神の国の福音を、受け取る者たちがおり、受け取らない者たちがいます。これを信じる者たちがおり、信じない者たちもいつも必ずとてもたくさんいます。しかも、どうしたわけか、知恵ある者たちや自分で自分を賢いと思う者たちの目には、神ご自身の賢さや豊かさや、神が生きて働いておられることは隠されている、というのです。小さな子供の心を保ちつづけた者にだけ、それらは現された。そうしたやり方はまったく神の御心にかなっていたと、主イエスがおっしゃる。身分の低い、下っ端の下っ端の下っ端のしもべのようなこんな私にさえも、主なる神さまが目を留めてくださった。これが恵みを恵みとして受け取る私たちのいつもの場所です。力ある神さまが、こんな私のためにさえ 偉大なことをしてくださった。これが私たちのいつもの場所です。低くされていた私の顔と眼差しを、主が高く引き上げてくださった。これがいつもの場所です。飢えていた私を、主が良い物で満たしてくださった。受け入れるに値しない私を、なお主は受け入れ、私に対する憐れみをお忘れにならなかった。これこそが、主の憐れみを憐れみとして受け取り、恵みを恵みとして受け取って喜び祝うための、私たちの福音の場所でありつづけます。
  28-30節、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。それにしても、主イエスの弟子たちよ。「すべて重荷を負うて苦労している者は」と招かれるのです。誰でも皆、例外なく、一人残らずと招かれますが、ただし、それは「疲れた者と重荷を負っている者」でなければならないのです。同じように、「さあ渇いている者は、みな水に来たれ」(イザヤ書55:1)と招かれます。どこに住んでどんな暮らしぶりの何をしている、どんな人であっても構わない。けれど、「ああノドがカラカラに渇いた。苦しい。水が飲みたい、飲みたい」と困り果てている者なら誰でも来なさい。つまり、ノドが渇いていないなら、おいしくて冷たい水を飲みたい、飲みたい、ぜひ飲みたいとは少しも困っていないなら、別に、来ても来なくてもどっちでもいいと言わんばかりに。なぜでしょう? なぜなら「わたしのもとに来なさい」と神が私たちを招くのは、私たちを心安らかに休ませるためだからです。私たちの重くて重くてしかたがない重荷をぜひとも、なんとしても降ろさせてあげたいからです。ノドと魂の渇きを覚えているこの私たちを「さあ、いらっしゃい。あなたも、あなたもあなたも」と招くのは、冷たくおいしい水を満ち足りるほどに飲ませてくださるためです。しかも無料で(イザヤ55:1-3,黙示録21:6,ローマ3:21-24。あまりに出来すぎたうまい話なので、常識かぶれのとても賢い私たちにはなかなか信じられませんでした。何か裏があるんじゃないかと思っていました。クリスチャンの中にさえ、今なお、それを疑い、話半分に聞き流しつづける人々がいます。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(黙示録21:6。その通りにしていただいているくせに、今なお、飲んだ水の代金を渋々ながら支払っているつもりの者たちさえいます。飲んだおいしい水と引き換えに、汗水たらして働いてその代金を支払っていると勘違いしている者たちがいます。なんということでしょう。それでは、せっかくの恵みが台無しではありませんか。
  29節の「わたしのクビキを負いなさい」は、ちょっと難しい。どういうことでしょう。そして「わたしのクビキは負いやすく、わたしの荷は軽い」。なぜ負いやすく、軽いのか。(何十年も昔の農家の普段の仕事ぶりを見たことも聞いたこともない人たちには、ていねいに説明しないと分かってもらいにくいでしょう。耕運機やトラクターの代わりに牛や馬を使っていました)牛や馬の首に渡す横木をクビキと言いました。昔は、それで二頭くらいずつ組にした牛や馬に農耕具を引っぱらせて、土地を耕したりしました。あるいは、その横木に台車を結びつけて、牛や馬に荷物を運ばせたのです。そのようにあなたもその牛や馬のように、主イエスのクビキを負って、主イエスの畑を耕し、主イエスの荷物を運べと命じられています。どうしましょうか。もちろん、あなたの自由です。「そんなのは嫌だ」と言うなら、もちろん、そうしなくてもいいのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。あなたを休ませる。ヨソのクビキや荷物はどうだか知らないが、少なくとも、この私のクビキはとても背負いやすい。鳥の羽根のようにフワフワしてて、あまりに軽い。と救い主イエスが直々に保証し、太鼓判を押してくださった。この招きこそが、私たちを主イエスのもとへと招きつづけました。これまでもそうですし、これからもそうです。実にまったく、私たち人間は(ただの比喩なのではなく荷車を引っ張る牛や馬そのものです。誰もが、それぞれの横木を首にかけられて、それぞれの荷車を引っ張りつづけて生きていきます。喜んで荷物を引っ張っている牛もいれば、そうではない牛もいます。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「自分はなんであんなひどいことをしてしまったんだろう。だめな私だ。どうしようもない私だ」という自責の念や後悔を引っ張って歩いている者たちもいます。「人様に恥ずかしくないような立派な生活をし、立派な仕事を成し遂げ、恥ずかしくない人間にならなければ」「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」と大きな大きな重くて仕方がないはずの荷物を歯を喰いしばって引っ張りつづけている牛もいます。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物を、無数の牛や馬達が必死に懸命に引っ張りつづけています。それがこの世界です。「私の荷物は重すぎて、到底もう担いきれない。疲れ果てた」と溜め息をついている牛や馬たちの中の、そのうちのほんの何頭かが、ついにとうとう主イエスの招きの声を聞き届けました。この私たちも、それでだからこそ、主イエスのもとに来てみました。
 それで皆さん。主イエスのもとに来て、主イエスのクビキを負い、主イエスの荷物を運びはじめた牛や馬たち。で、正直なところ、どうだったんですか? じゃあ、手を挙げてください。「約束どおりで、すっかり休めたし、主イエスの荷物はすごく軽かった」という牛は? 「いやあ、すっかり騙された。休むどころか、今までよりもっと何倍も重い荷物を背負わされ、馬車馬のように休む間もなくこき使われ、ひどい目にあった。だから疲れて疲れて仕方がない」という牛は? ――誰にでもよく分かるように、今日こそは、できるだけはっきりと語りましょう。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物はと~っても軽い》という王国なのです。その王さまに命じられて調査員たちがこの王国全体を訪ね歩き、主イエスのところに来た牛や馬たちの一頭一頭に同じことを聞いて回っています。「で正直な所どうだったんですか?」と。王さまご自身が案じていたとおりの、危うい調査報告が次々に寄せられました。困ったり苦しんだり、怒ったり苛立ったり悲しんでいる牛や馬たちがあちこちにたくさんいました。例えば、豊かな牧草が生い茂る幸いな野原には99頭の牛たちがいました。彼らは腹を立て、心を狭く貧しくさせられて、「けしからん。一頭の迷子の牛を探しに行って、いつまでたっても飼い主が戻ってこない」とつぶやいていました。部屋をピカピカに掃除し、おいしい料理を作っていた牛は、けれど苦しげな物淋しい顔をして、「私ばかりに働かせて、なんとも思わないんですか。他の牛や馬たちに手伝うように言ってください」と叫んでいました。また別の牛は、「何年も主人に仕えてきた。言いつけに背いたことは一度もない。それなのに」と暗い顔をして背中を向けるのです。また別の一群の牛たちは、「最後に来たあの生ズルくて要領がいい牛や馬たちはほんの一時間しか働いていない。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちとどうして同じ扱いをするんだ。それじゃあ、私たちの辛抱も苦労も丸つぶれじゃないか」と(ルカ10:38,15:3,26,マタイ20:10参照)。王国中から調査員たちが次々と戻ってきて、物悲しく淋しい、あまりに嘆かわしく惨めな恥ずかしい報告を告げつづけます。その報告に耳を傾けながら、この王国の王様は心を痛めました。「ああ。なんということだ。一体どうしたらいいのか。ここは、《疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国だったはずなのに。これでは、王国の看板も招きの言葉も嘘いつわりだったことになる。サギのペテンの、ろくでもないイカサマだったことになってしまう。休ませてもらえるはずが、かえってここで、ヘトヘトに疲れ果ててしまうなんて、それでは消費者を騙して儲ける悪質なペテン業者の商売と同じじゃないか」。あの柔和で謙遜な、とても素敵な王様の招きの言葉を、そして《疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国の素晴らしい板を、決して嘘いつわりにしてはなりません。どんな王様のもとに据え置かれているのかをよくよく習い覚えさせられているこの私たちこそは。

     ◇            ◇

  王のもとにやって来た牛たち馬たちよ。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国です。もちろん私たちは主イエスのクビキを負っています。主イエスの荷車を引いて歩いています。それぞれの荷車には、《主イエスが十字架にかかって、死んで復活してくださった。それは私の救いのためだった》という荷物が載せられています。《私の罪をあがなうために、主は十字架を負ってくださった。私の罪のゆるしと救いをこの方こそが約束し、保証してくださっている》という荷物が載せられています。だから軽いのです。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「だめな私だ。どうしようもない私だ」という卑屈さや自責の念や後悔という荷物。「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」という荷物。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物。それら一切、今では主が私の代わりに背負ってくださっている。だから軽いのです。私たちは働いてもいいし、休んでもいい。何かをしてもいいし、しなくてもいい。主であられます神が、第一に、先頭を切って、たしかに生きて働いておられるからです。けれど、一つだけルールがあります。ここは憐れみの王国であるというルールです。《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国でありつづけるというルールです。だから、たっぷりと休ませていただいた、祝福された、とても幸いな牛や馬たちよ。何をおいても何としてでも、この一つのルールだけは死守しなくてはなりません。もし、それが嘘いつわりにならない範囲でなら、もし働きたいというなら、あなたは精一杯に思う存分に働くこともでき、誰に遠慮することもなく満ち足りるまで休むこともゆるされます。だからです。だから時々、特に働いたり担ったりするときに自分自身のその顔つきを鏡で見て確かめてみる必要があります。仲間の牛や馬たちの顔つきや足取りにも目を留める必要もあるでしょう。もし、苦しげで辛そうな顔つきで、困ったような物淋しいような気難しい顔をしはじめるなら、そしたら思い切って、一声かけてあげましょう。「いいから安め。横になれ」と。いつの間にか重くなってしまったその荷物を降ろさせてあげねばなりません。「とっても軽い。すごく軽い」と喜び祝って運べる場合にだけ、この私たちは 主イエスの荷物を運ぶことがゆるされます。そうでないなら、指一本も動かしてはなりません。主ご自身とその教会に十分に信頼を寄せることができます。なにしろ私たちの主なる神は生きて働いておられます。あなたのためにも、こんな私のためにさえ。だから立ち止まり、鎮まって耳を澄ませましょう。あなたの耳にも、王国の王ご自身の同じ一つの呼び声が聞こえますか。主イエスはおっしゃいました;「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。たっぷりと満ち足りるほどに休ませてあげよう。私のクビキは背負いやすい。私の荷物はとてもとても、と~っても軽い。本当のことです。

憐み深い神さま。独り子イエス・キリストによって、造られたすべて生命ある者たちと私たちに対する慈しみを差し出しておられます父なる神さま。他のなによりも、神を信じて生きるこの私たちのためには、すべての信頼を神さまにこそ置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様にこそ従順に仕えて生きることができますように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。この願いを、どうかかなえ続けてください。
生命の与え主である神さま。つかの間に過ぎてゆく、あっという間の短い生命を生きている私たちです。「やがて死すべき自分であることを覚えよ」と昔の人々は言いました。土の塵から造られ、あなたによって鼻に生命の域を吹き入れられ、生きる者とされた私たちは、やがて塵へと還ります。かけがえのない一日ずつの生命を惜しみながら、魂に刻みながら、精一杯に生きる私たちであらせてください。すべての子供たち、お父さんお母さんたち、年配の方々の誰もが心安らかに暮らすことができますように。
また私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。どうか神さまご自身の恵み、憐み、平和を私たちにいつもはっきりと思い起こさせつづけてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


2020年1月20日月曜日

1/19「傲慢と不寛容と」ルカ9:49-56


                   みことば/2020,1,19(主日礼拝)  250
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:49-56                 日本キリスト教会 上田教会
『傲慢と不寛容と』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
9:49 するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。50 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。51 さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、52 自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、53 村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。54 弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。55 イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。      (ルカ福音書 9:49-56)

(1)まず49-50節。ついつい思い上がって頑固になり、了見が狭くなってしまうことについて、主イエスがあの彼らと私たちに警告を与えておられます。弟子の一人が主イエスにこう言いました、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。働きを止めさせられたその人がどういう人物なのか、またどうして彼らの仲間に加わらずに別の行動を取っているのかなど、私たちには分かりません。けれど、この人が悪霊を追い払って、苦しんでいた人を助け、良いことをしているのは誰にでも分かります。しかも、それを主イエスの名によってしているのだということも。「主イエスの名によって」;つまり、主イエスを信じる信仰によって、主イエスにこそ信頼し、依り頼んで、主イエスからの助けと支えにすがりながらその働きをしているのです。見知らぬその一人の人物も、この私たちも。主イエスの弟子の一人は言います、「その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。主イエスが直ちに答えたその言葉にはとても驚かされます。「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。とても断固としており、はっきりした言い方であるからです。
 「わたしたちの仲間でないので、やめさせた」。その人が語っていることやっていることが良いことなのか悪いことなのか、人を助けることなのか困らせていることなのか、神の国の福音のその道理にかなったことなのかどうか。神の御心にかなった神さまに喜んでいただけると思えるやり方と内容なのか、それとも神を侮り、神を嘆かせ悲しませる反逆の行ないなのか。いいえ、そんなこととは何の関係もなく、ただただ自分たちの仲間なのかどうかが問われづけます。この国でも。世界中のあちこちで、大昔から、今もこれからも、そうしたことが大きな判断基準とされ、他の人たちと同じであることが求められ続けます。キリストのものであるはずのキリスト教会でも、多くの人々が、キリスト教会の歴史のほとんどすべての時期に、この同じ間違いを先祖と私たちは繰り返してきました。
 (2)51-56節。報告されているもう一つの出来事です。主イエスとその弟子たちの一行がサマリヤ人の村へ入り、そこからさらにエルサレムの都へと向かおうとしていました。ところが村人たちがその一行を歓迎しようとしなかった。どんな歓迎やおもてなしを弟子たちが期待していたのかは書いてありません。ただ、弟子たちが思い描いていたようには歓迎ももてなしもしてくれなかった。54-55節、「弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、『主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか』。イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった」。サマリヤ人の村の人々をではなく、ご自分の弟子たちをです。
 
 この弟子たちの、いったい何がどう問題であるのか? 単なる道徳やごく一般的な倫理、あちこちに様々ある人間による人間のための人生訓のたぐいが語られているわけではありません。神を信じる信仰そのものと、その中身こそが、ここで問われています。あの彼らと、私たち一人一人に対して。どういう神をどのように信じているのか。神からどんな取り扱いを受けたのか。神を信じる自分たちはいったい何者なのか。信じて、どういう救いへ、どんな祝福と幸いへと導かれていくのか。神からどんな取り扱いを受けたのか、受け続けてゆくのか。———そうしたことを、すべてすっかり分からなくなっていることが大問題です。自分たちの仲間でないので、やめさせては、どうしていけないのか。自分たちと同じ言葉使い、考え方や感じ方、同じやり方、同じ作法であるようにと求め、そうでなければ軽々しく退けたり、やめさせたりしてよいのかどうか。あのサマリヤ人たちを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めては、どうしていけないのか。心を鎮め、ゆっくり落ち着いて思い巡らせているに値します。「あの人のああいう振る舞いを止めさせたい」「天から火を呼び寄せて、あんな彼らを焼き払ってやりたい」。たしかに、あの弟子たちはとても熱心です。けれど、『神がどういう神であるのかを知る信仰の知識』と彼らのその熱心さとははるか遠く離れていて、何の関係もなかったことこそが大問題です(ローマ手紙10:1-4参照)。「あなたがたの主であられる父なる神は、彼らよりも何倍も悪いあなた方に対して、そういう取り扱いはしなかった。あなた自身は、神さまから憐れんでいただいたのではなかったか」と、救い主イエスはお叱りになったでしょう。このことがすべてです。
 しかも、この二つの出来事の間に挟まれて、51節で、「イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」とはっきりと書いてあります。御父との約束通りに十字架につけられ、殺され、葬られ、その三日目に死人の中から立ち上がらされるために、そのことをぜひとも成し遂げようと、そのエルサレムの都へと御自分の心を一途に向けておられるではありませんか。
 それならば、世々のキリスト教会と私たちは、どんな神をどのように信じてきたでしょうか。どんな希望と支えが神さまから贈り与えられているでしょう。聖書と一回一回の礼拝から、主であられる神ご自身の口から出る神の言葉から(イザヤ書55:8-11参照)、この私たちは何を教えられて習い覚えてきたでしょう。例えば、ゴモラの町と人々の姿を見せられ、「さて、あのとても邪まで罪深い彼らをどう取り扱おうか」とアブラハムと私たちは問いかけられました。あの町に50人の正しい人々がいても、その少しの正しい者と悪い者たちとを一緒に滅ぼしてしまうのですか。正しい者が45人では、40人、30人、20人、10人ではどうでしょう。「そのわずかな正しい者のために滅ぼさない。その所のすべての者たちをゆるそう」と主は仰います。例えばニネベの都の人々と多くの家畜たちのことを神がどう思っておられるのかも、親しく打ち明けていただきました(創世記18:16-33,ヨナ書4:6-11。大洪水をへて、例えばノアと家族と生き残ったものたちすべては箱舟からでて、神への最初の1回の礼拝をささげ、そこで驚くべきことが語りかけられました。「人が心に思い図ることは幼いときから悪い。それでもなお、この度したように、もう二度とすべての生きた物を滅ぼさない。地を呪うことも打ち据えることもしない」(創世記8:21と。小さな子供の頃から今に至るまでずっと、ついつい悪いことを思い図ってしまう私たちです。それを百も承知のうえで、なお滅ぼさず、打ち据えず、見捨てることも見離すことも決してしない。そういう神であり、そのように憐み深く、あまりに寛大な取り扱いを受けつづけてきた私たちです。
 それでもなお主なる神さまとはずいぶん違うことを心に思い描きつづける私たちです。預言者イザヤの口を用いて、神ご自身がこう語りかけました、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:8-11「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と、なぜ主はお命じになるのか。主はすぐ近くにおられます。私たちから遠ざかったり、背を向けたり、ご自身の目も耳も塞いだりはなさいません。むしろこの私たちのほうが、自分自身の心を鈍くしてしまい、かたくなになり、主であられます神から遠ざかったり、背を向けたり、自分自身の目も耳も塞ぎつづけるからではありませんか。「尋ねよ。求めよ、門を叩け」とお命じになる神ご自身が私たちを尋ね求めて、私たちの魂の扉を静かにそっと叩きつづけるからではありませんか。叩きつづけて止まないからではありませんか。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」と、なぜ主はお命じになるのか。悪い道と行いにしがみつき続ける者に対してさえも、主は憐みを注ぎかけつづけます。けれど、どうしたわけか、その者たちには届きません。注がれる憐みを、この私たち自身が跳ねのけつづけるからです。主に立ち帰ろうとしない強情で頑固な者たちに対しても、神はゆるしを差し出し続けます。けれどそのゆるしは、どうしたわけか受け取り拒否されつづけます。その憐みもゆるしも、いつまでたっても彼らの手元に届かず、彼らは喜ぶことも感謝することもなく、ただ虚しく日々を送り続けます。だからこそ、なんとしても主に立ち帰らねばなりません。どうしたら、主の憐みのもとへと戻ってゆくことが出来るでしょうか。あの彼らは、そしてこの私たち自身は。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」と、なぜ主はお語りになるのか。なぜ主はわざわざ、とても分かりやすく、小さな子供に語りかけるようにして、かみ砕いて説明しておられるのか。この私たちにも、ぜひよくよく分かってもらいたいからです。この私たち一人一人のためにも、天からの雨や雪のように、主の口から出る主ご自身の言葉のひと粒ひと粒が降り注ぎつづけ、私たちの魂の地面を濡らし、たっぷりと潤しました。私たちの内にも、福音の言葉の種の芽を出させ、葉と茎を伸ばさせ、豊かな実を結ばせたいと願ったからです。そのように天からの雨や雪のように、あなたや私のためにも、絶え間なく止むことなく、膨大な量の神の言葉が降り注ぎつづけたからです。私たち自身の思いや計画、それぞれの願いとはずいぶん違っておられるご自身の思いを分かってもらいたいからです。
 「私たちの仲間ではないので」とついつい言い張りつづけるとき、主の弟子ヨハネも私たちも神さまご自身の御心を踏みにじっているからです。「私たちの意にそわない彼らのために天から炎を呼び寄せて彼らを焼き払ってしまいましょうか」と得意になって思い上がったとき、ヨハネもヤコブも私たちも、この自分たちこそが神の御心を押しのけ、自分の正しさを押し立てようとし、神の正しさと憐み深さに少しも従おうとしなかったからです。仲間ではないどころか自分自身こそが神に背き、神に敵対し、逆らいつづける最低最悪の罪人であり、その自分に対してさえ神の愛が示され、差し出され、受け取ってきたことをすっかり忘れ果てているではありませんか(ローマ手紙5:6-11参照)。それこそが、他の何にもまさって緊急事態であり、最優先の大問題です。「あなたがたの主であられる父なる神は、彼らよりも何倍も悪いあなた方に対して、そういう取り扱いはしなかった。そのあなたこそが、神から憐れんでいただいたのではなかったか」と、救い主イエスは心を痛め、彼らとこの私たちをお叱りになるでしょう。このことがすべてです。私たちが獲得してきた良いものすべてが神の恵みです。救いの約束はただただ恵みと憐みの上にだけ基礎を置き続けます。その恵みは、神ご自身からの価なしの慈悲であり、「滅びるままに捨て置くことはできない。ソドムとゴモラの人々のように、ニネベの弁えの無い人々よりもさらに何倍も何倍も悪いとしても」と、ただただ可哀そうに思っていただいたからでした。私たちはいったい何者でしょうか。いいえ、何者でもありません。神の御心にそわない者であるにもかかわらず憐れんでいただいた、恵みに値しない罪人同士です。聖書は証言します、「あの弟子たちも私たちすべても、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者としていただいた」(1ペテロ手紙2:10参照)。受けた憐みをたしかにこの手に握っており、それを二度と決して手放さず、目を凝らし、だからこそ神さまへの感謝と喜びにあふれている。いま現にそうであり、明日も明後日も朝も昼も晩も、ずっとそうでありたい。この私たちに対しても、他すべて生命ある者たちに対しても、これこそが神ご自身からの切実な願いでありつづけます。





1/19こども説教「弟子たちの旅はつづく」使徒14:24-28


 1/19 こども説教 使徒行伝14:24-28
 『弟子たちの旅はつづく』

14:24 それから、ふたりはピシデヤを通過してパンフリヤにきたが、25 ペルガで御言を語った後、アタリヤにくだり、26 そこから舟でアンテオケに帰った。彼らが今なし終った働きのために、神の祝福を受けて送り出されたのは、このアンテオケからであった。27 彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいてして下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを、報告した。28 そして、ふたりはしばらくの間、弟子たちと一緒に過ごした。
(使徒行伝14:24-28

 神さまは「いる」と思いますか? それとも、「いない」? 神さまはいます。ただ、「いる」というだけでなく、この私たちのためにも生きて働いておられます。このことを信じられますか。
 アンテオケというこの町から彼らの旅ははじまり(使徒13:1-3参照)、一回りして、またその同じ町へと戻ってくることができました。26節で、「神の祝福を受けて送り出された」と報告されています。人々によって送り出されたのでもなく、自分自身で選んで決めて、自分の力で出かけて行ったのでもなく、神さまによって送り出された。だからこそ、困難なことのたくさんあった旅の間中ずっと、神さまからの守りと支えがありつづけて、それで無事に、豊かな収穫を持ち運んで、戻ってくることができました。12人の弟子たちが主のもとから町や村へと送り出されたときと同じです。そのあと72人の弟子たちが主のもとから町や村へと送り出されたときと同じです(ルカ10:17-20,マタイ28:16-20,ヨハネ15:16,使徒18:9-11参照)。私たちそれぞれが、神さまによって神に仕える働きに選び出され、その働きに神さまによって送り出され、守られ支えられ続けて働くのと同じです。人々によってでなく、自分自身で選んで決めてでもなく、自分の力によってでもなく、ただただ神さまによって選び出され、ただただ神さまの御心によって務めに立たされた。だからこそ、神に仕える働きの間中ずっと、神さまからの守りと支えがありつづけて、安心して、神さまに信頼し感謝しながら働くことができます。27節で、「神が信仰の門を異邦人(=ユダヤ人ではない外国人)に開いて下さった」。それまで、神を信じて生きるためのドアが閉じられ、外国人たちは締め出されつづけていた。神を信じる人たちがそのドアを閉めて、他の人たちが入れないようにしていました。ずいぶん長い間、神さまはそれをそのまま放っておかれました。けれど、とうとう神さまご自身が、神を信じて生きる信仰の門が外国人にまで開いてくださったと報告されました。人々は、その報告を聞いてとても励まされ、勇気が与えられました。



2020年1月12日日曜日

1/12こども説教「多くの苦難もある」使徒14:19-23


 1/12 こども説教 使徒行伝14:19-23
 『多くの苦難もある』

14:19 ところが、あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押 しかけてきて、群衆を仲間に引き入れたうえ、パウロを石で打ち、死んでしまったと思って、彼を町の外に引きずり出した。20 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいる間に、彼は起きあがって町にはいって行った。そして翌日には、バルナバと一緒にデルベにむかって出かけた。21 その町で福音を伝えて、大ぜいの人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、22 弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。23 また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。                   (使徒行伝14:19-23

 主イエスの弟子たちの、神の国の福音を宣べ伝える旅がつづきます。22-23節、「弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、『わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない』と語った。また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた」。神さまを信じつづけて生き抜いてゆくためには、神さまご自身からも仲間たちからも、必要なだけ十分に励まされなければなりません。「どうしたの? 大丈夫だよ。神さまがあなたの味方だし、わたしもそうだよ。困ったときには必ずきっと助けてあげるからね」と。誰でも信仰が弱まったり、揺らいだり、心が挫けそうになったりするからです。誰でも、小さな弱い信仰をもっていて、大人も子供も誰でもみな本当はとても心細いからです。仲間たちを励ましている伝道者たちさえ、「どうか私のために祈ってください。口を開くとき、語るべき言葉を神さまから贈り与えられつづけ、そのように大胆に福音の真理を明らかに示すことができるように」(エペソ手紙6:19-20と仲間たちの支えを願い求めつづけて働きます。わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない。その通りです。主イエスの弟子パウロは、彼とその働きを憎む人たちの悪巧みにあって、石を投げつけられ、あやうくそのまま死んでしまうところでした。今回は、神さまが起き上がらせてくださったので、死なずに働きをつづけることができます。いつもいつも起き上がりつづけられるかどうかは分かりません。そのまま死んでしまうこともあるでしょう。誰でもやがて死にます。私たちもそうですが、死んで、それで終わりではなく、死の川を乗り越えて永遠の神の国に辿り着く希望を抱いて生きてゆきます。だから晴れ晴れしているのです。それまでどんな苦難が待ち構えているのかは分かりません。新しく選ばれた働き人をその信じている主なる神さまにゆだねました。もちろん、自分自身の毎日の暮らしも、自分の働きや役割も、生きて死ぬことのすべて一切も同じく、自分が信じている主なる神さまにこそすっかり委ねます。だから、晴れ晴れしているのです。


1/12「だれが一番偉いか病」ルカ9:46-48


                     みことば/2020,1,12(主日礼拝)  249
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:46-48                     日本キリスト教会 上田教会
『誰が一番えらいか病』
~「ある病者の祈り」という治療薬~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
9:46 弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。47 イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、48 「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。           (ルカ福音書 9:46-48)
46-48節、「弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、『だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである』」。あの弟子たちも私たちも、度々繰り返して心を鈍くされてしまいます。弟子たちが、いつ、どういうタイミングでこういうことを熱心に議論し始めたのかに心を留めましょう。(1)十字架につけられ殺され、その三日目に死人の中からよみがえるという受難の2回目の予告を、主イエスご自身から打ち明けられたばかりで、「この言葉をあなたがたは自分の耳によく収めておきなさい」と指図され、でも告げられたことがちっとも分からず、なんだか恐くて恐くて、どういうことかと質問することもできなかったその直後にです。また(2)十字架の死と復活が待ち構えるエルサレムの都へと向かおうと主がいよいよ決意を堅くされる直前の(ルカ福音書9:44-45,51参照)、このあまりに愚かな議論です。また、だからこそ、そういう弟子と私たちを救いへと導き入れるためには、どうしてもその十字架の死と復活が必要だと改めて思い知らされたのかも知れません。
「彼らのうちで誰が一番」という議論です。「誰が一番偉いだろう。素晴らしい立派だと人から誉められたい。皆から認められたい。賢く立派な大きな私になりたい」。それがこの世の多くの人々が望んだことでした。また逆に、「つまらない小さな、役に立たない人間だと思われてしまうかも知れない」と恐れ、心細く物淋しい思いに囚われました。あなたにとっても、やっぱりそれが望みであり恐れでしょうか? どうでしょう。けれどここで改めて、主イエスご自身から問われています。「ところで、あなたは心を入れ替えて、小さな小さな子供のようになったのか? 自分を低くすることを、ついに習い覚えたのか」(3-4節,ピリピ2:3-5,ローマ12:10)と。『だれが一番えらいか病症候群』。聖書の中にも外にも、この上田界隈にも佐久や小諸や丸子、真田町や長野市あたりにも、この病気にかかった人々は大勢います。この私たちも年を取って、誰でもおじいさんおばあさんになります。得意なことや自慢に思っていたことが一つ、また一つと出来なくなります。誰かに何かをしてあげることよりも、してもらうことの方がだんだんと多くなります。「人様にも神様にもしていただき、ただお世話になるばかりで申し訳ない」と、なんだか物寂しいような肩身が狭いような気持ちにもなります。「人様にも神様にもしていただくばかりで、ただお世話になるばかりで申し訳ない」と、なんだか物淋しく、肩身が狭いような気持ちになりますね。聖書は、一つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る。そして喜び、感謝する》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすことです。兄弟たち。自分が神さまの恵みのもとへと招かれたときのことを思い起こしてみなさい。それから、どんなに慈しみ深い御計らいを受け取りつづけてきたのかを。
47-48節、「ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、『だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである』」。そして勿論、知恵や賢さの少ない小さな一人の人を主イエスの名のために受け入れる者は。無学で無力で無に等しいと思われている一人の者を、なお主イエスの名のために受け入れる者は。なるほど。他者をこのように尊び、このように受け入れる人は、それだけではなく、貧しく小さな自分自身をもそのように心安らかに受け入れる者とされるでしょう。たとえ私たちに知恵や賢さが少ないとしても。

             ◇

  兄弟姉妹たち。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる、ご立派な偉い人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に(ピリピ手紙2:5-11,ヘブル手紙2:17-18,4:15-16。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは固執なさらなかったのです。自分で自分を無になさったのです。無にされたのではなく、自分から進んで「ぜひそうしたい」と、しもべの身分を選び取ってくださいました。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、御父への従順を貫き通してくださいました。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう。ここにいる私たちは、知らされています。よくよく知らされています。兄弟たち。それは、「罪人を救うため」(テモテ手紙(1)1:15)でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最低最悪の極悪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。恵みに値しない、極めつけの罪人。それがこの私であり、あなたです。
 神の国とは、神さまご自身の憐れみと恵みの王国です。もし、その国に入り、そこで幸いに暮らしたいと願うなら、その者たちは自分自身の力や才覚や賢さを頼りとすることを止め、それらを誇ろうとすることを止めて、心の頑固さを手放さねばなりません。身を低く屈め、神の憐れみを受けて御国に入れていただくことを願い求めねばなりません。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」(マタイ18:3;するとそれは、ただ小さくて無力で弱くて危うい存在であるだけではなく、十分に愛情を注がれ、受け取り、養い育てられてきた、そのことを覚えている幼な子である必要があります。ほどほどの力や才覚や賢さなどよりも、注がれ受け取ってきた愛情こそが千倍も万倍も私の宝物だと。そうでなければ、物寂しいその幼な子はささいなことをいつも虚しく思い煩いつづける幼子でありつづけてしまうかも知れないからです。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」、その最も大きな秘密は、注がれつづけ受け取ってきた愛情をよく覚えている幼な子です。わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子です。それならば、たとえ708090歳になった後でさえ、『幸いな幼な子である、小さな小さな弱々しい自分』をついにとうとう思い出して、晴れ晴れワクワクしながら、天国に入れていただくことができるかもしれません。しかも、それが主イエスの弟子であることの中心的な中身でありつづけます。なぜなら主イエスの弟子たちよ。自分自身の罪深さをゆるしていただいて神の国に入るには、ただただ神の憐れみによる他なかったからです(ローマ手紙3:21-27参照)。心が鈍くなると、その証拠に、「誰が一番偉いだろうか。二番目は、三番目は。反対に、だれが一番働きが少なくて、役立たずだろうか。二番目は、三番目は」と眺め渡したくなります。神さまのことを忘れ、神さまこそが一番偉くて、よくよく働いてくださることも、ちっとも分からなくなったからです。神ご自身が身を低く屈めてくださいました。救い主イエスこそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまで天の御父への従順を貫きとおしてくださった(ピリピ手紙2:6-)ことを。そのへりくだりの神こそが私たちの唯一の主人であることを。遠い外国の病院の壁に一つの祈りが刻まれています――

「大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよきことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。
人生の楽しみを享受しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ。
(「ある病者の祈り」;ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた詩)

いったいなぜ《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》に身を置きなさいと命じられるのか? いったいなぜ、自分を賢いとか、案外に物の道理が分かっているとか、優れているなどとうぬぼれてはならない、思い上がってはならないと厳しく戒められるのか。なぜ低い場所と、へりくだった低い心へと誘われつづけるのか。慎み深く従順であるためにです。自分が思い描き、自分自身で望んでいたよりも、さらによりよきことができるためにです。神の御心にかなう賢明さを授かるためです。喜び、信頼し、感謝して、神の前にひざまずくことができるためにです。神が贈り与えてくださるあらゆるものを「わあ嬉しい」と喜べるようにです。神の意にしばしば逆らい背く者であるとしてもなお、豊かに祝福され、ゆるされつづける罪人であるためにです。なによりも、へりくだってくださった、低い心の神さまを信じているからです。柔和で謙遜な救い主とすでに親しく出会っているからです。その幸いな出会いを積み重ねてきたからです(マタイ福音書11:25-30)。そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、祝福された幸いな私たちための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。



2020年1月6日月曜日

1/5こども説教「神に立ち帰りなさい」使徒14:8-18


 1/5 こども説教 使徒行伝14:8-18
 『神に立ち帰りなさい』

14:8 ところが、ルステラに足の きかない人が、すわっていた。彼は生れながらの足なえで、歩いた経験が全くなかった。9 この人がパウロの語るのを聞いていたが、パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め、10 大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は踊り上がって歩き出した。11 群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。……14 ふたりの使徒バルナバとパウロとは、これを聞いて自分の上着を引き裂き(注)、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで15 言った、「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである」。 (使徒行伝14:8-18

足が不自由で歩くことのできない人が座っていました。主イエスの弟子の一人が「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言うと、歩けないはずのその人は立って、ピョンピョン躍り上がったり、歩いたりしはじめました。それを見た人々は、声を張り上げ、主イエスの弟子たちのことを「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫びました。そんなことができるのだから、その人たちは神が姿を変えて現れたのだろうと思ったのです。他の神々をあがめる神社の祭司までやってきて、彼らに犠牲をささげて拝んだり、ひれ伏したり、崇めたりしはじめました。「神ではないものや人間を崇めたり、ひれ伏したり拝んだりして、ほかのどんなものでも神さま扱いしてはいけない。それはとても悪いことだ」とはっきり教えられている弟子たちですから、とても困りました。15節。弟子たちは語りかけました、「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである」と。
ひれ伏したり拝んだりしてよい相手は、ただ神さまだけです。「聖書によって知らされているこの神のほか、どんなものも神としてはいけない。神ではないどんなものにもひれ伏してはいけないし、言いなりにされて従ってはいけない、仕えてはいけない」(出エジプト記20:1-6参照)と神さまが、先祖と私たちに厳しく命令なさったからです。


      【補足/自分の衣服を引き裂く】
       14節。自分が着ている衣服を引き裂くのは、とくに旧約聖書中でよく知られた象徴行為で、その心は、衣服を引き裂くように自分自身の心臓を引き裂くほどの悲しみと嘆きの表現です。それゆえ悔い改めの祈りであり、神に向かうお詫びと嘆きです。「あなたを侮り、本当に悪いことをしており、申し訳ありません」と神さまに向かって悔いています。その通り。もし、「ただの人間に過ぎないものを崇めたり拝んだりする悪行」をそのまま放置するなら、神を侮る冒涜の共犯者に成り下がってしまうからです。

1/5「すべての恵みを心に留めなさい」詩篇103:1-13


                      みことば/2020,1,5(主日礼拝)  248
◎礼拝説教 詩篇 103:1-13                            日本キリスト教会 上田教会
『すべての恵みを
心に留めなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
103:1 わがたましいよ、主をほめよ。
わがうちなるすべてのものよ、
その聖なるみ名をほめよ。
2 わがたましいよ、主をほめよ。
そのすべてのめぐみを心にとめよ。
3 主はあなたのすべての不義をゆるし、
あなたのすべての病をいやし、
4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、
いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
5 あなたの生きながらえるかぎり、
良き物をもってあなたを飽き足らせられる。
こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。
……13 父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。

                     (詩篇 103:1-13


 まず詩篇103:1-2。「主をたたえよ、たたえよ、たたえよ」と、この祈りの人は必死に呼ばわっています。しかも他の誰彼に向かってではなく、自分自身に向かって。「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ」。私のうちにあるものは心臓も肺も脳みそも目も口も手も総動員して、神さまをたたえ、感謝し、信頼を寄せ、神さまへのその感謝と信頼とを自分自身の魂に深々と刻み込みなさい。なぜでしょう。何のために、神を讃美し、感謝しなければならないのでしょうか。主の御計らいを、主がこの私にしてくださったとても良い救いと恵みの出来事を、ちゃんと、覚えているためにです。神さまから受け取ったはずの恵みをはっきりと覚えながら、そのようにして毎日毎日を生き抜いてゆくためにです。「喉元過ぐれば熱さを忘るる」と昔の人は言いました。私たち人間は忘れっぽい、ということです。忘れてしまって良いことが沢山あり、むしろ忘れることが出来たなら、どんなに幸せかと思うこともあります。誰かに何か嫌なことを言われたり、されたりして深く傷つき、悔しくて悲しくて、そのために何日も眠れなかったり、ときには何年も何十年もそのことで苦しみつづけて悶々として日々を過ごす人たちもいます。「喉元過ぐれば熱さを忘るる」。つらいことや嫌なことを忘れるだけならよいのですが、それだけでなく私たちは、とても嬉しかったことや感謝して喜んだこと、「ああ。本当にそうだ」と噛みしめたはずの大切なことさえ、うっかり忘れてしまいます。
  1-2節と3-5節とは、関係があります。3-5節は、神さまが私たちにどんな良いことをしてくださったのかという中身を簡略に短く報告しています。「ゆるしてくださった。癒してくださった。購(あがな)い出してくださったこと。冠を授け、良いものに満ち足らせ、若さを新たにしてくださった」ことです。これからも同じく、そうしてくださるという約束でもあります。しかも兄弟たち。これまで神さまが自分を「ゆるしてくださった。癒してくださった。購(あがな)い出してくださったこと。冠を授け、良いものに満ち足らせ、若さを新たにしてくださった」ことをうっかり忘れてしまった者たちは、これからもずっといつまでも、その良いものを受け取り損ねつづけます。それではいつまでも不幸せで、心細くて物寂しくて、とても困ります。
 不思議な仕方で、それは神さまと私たちとの間の《やりとり》であり続けます。「はい、どうぞ。あなたを、ゆるしてあげますよ」(と素敵な贈り物をその人の目の前に置く。けれど、その人は気づかない。あるいは、知らんぷり)。「癒してあげよう」(また贈り物を置く。その人はそっぽを向く)。「あなたを救い出します。冠を授け、良いものに満ち足らせましょう。さあ、鷲のような若さをあなたのためにも新しくしてあげよう」(次々と良い贈り物をその人の前に置く。けれど、その人はつまらなそうに、淋しそうに、そっぽを向き続ける)。では質問;「鷲のような若さを、誰が、どんなふうに受け取っているでしょうか?」。20才前後か40才代くらいまでのほどほどに若くて元気な人たちが。いいえ。健康診断をパスした健康で丈夫な人たちが。いいえ。よく祈って聖書を読んで礼拝に欠かさず出席する信仰深い人たちが。いいえ。聖書自身からの答えははっきりしています。どんな神であられ、また神を信じて生きる人々の幸いはどういうものであるのかを知っている人たちがです;「主を待ち望む人は」幸いを受け取ります。主が、こんな私にもくださると知って、願い求め、ワクワクしながら待ち望む人は誰でも皆。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない(イザヤ書40:29-31)。例えば目の前に、格別な贈り物が山ほど積み上げられ、けれど主を待ち望むことを止めてしまった人たちは、いつまでも淋しく心細いままです。「はい、どうぞ」「ありがとう」と受け取って、そこで初めて、贈り物はその人のものになります。そこでようやく喜びが溢れます。
  いっしょに読みました最後の1行。13節、「父がその子を憐れむように、主はおのれを恐れる者を憐れまれる」。もちろん私たちの主なる神さまは、誰をも分け隔てなく憐れもうとしておられますし、現に憐れみつづけておられます。けれど、どうしたわけか、その憐れみがその人の手元にまで届かないのです。神さまに感謝し、信頼し、その恵みをよくよく覚えている者たちばかりでなく、神さまのことを何とも思わない人々をも、見向きもしない人をさえ、この神ご自身は深く憐れみ、御心に留め、案じつづけておられます。その人の前にも贈り物を差し出しつづけます。はい、どうぞ。はい、どうぞ。はい、これはあなたの分。素敵な贈り物の宅急便の『不在通知の伝票』が郵便ポストの中に何枚も何枚も積み上げられていくように。お届けにあがりましたがお留守でした。どうぞ連絡をください。だからこそ。私の魂よ、主をたたえよ。私のうちにあるものは、私の心臓も脳みそも目も口も手も総動員して、神さまに感謝し、信頼を寄せ、神さまへのその感謝と信頼とを自分自身の魂に深々と刻み込みなさい。神さまから受け取った恵みを決して忘れないでいる私でありなさい。

              ◇

 「喉元過ぐれば熱さを忘るる」。忘れないでいることは、とても難しかったのです。ちゃんと覚えて、心に刻んで生きるためのしるしが、神さまから私たちに贈り与えられ続けました。
  遠い昔、奴隷にされていたエジプトの
国から、モーセと仲間たちが神さまの恵みによって連れだされようとしていたとき、モーセはエジプトの王さまにこう要求しました。もちろんその要求は、神さまご自身からの直接の指図でした;「荒野で、主のための祭りをさせてください。主への礼拝をです。エジプトの王は答えました;「いいよ。いいけど、誰と誰が礼拝に参加するのかね?」。「わたしたちは幼い者も、老いた者も行きます。むすこも娘も携え、羊も牛も連れて行きます。わたしたちは主の祭を執り行わなければならないのですから」(出エジプト記10:9)。言い訳でも方便でもなく、主に礼拝をささげるために、あの彼らも私たちも荒野を旅したのです。40年もの長いあいだ荒野を旅して生き延びることができたのも、主を礼拝し、その中で主の御計らいを覚えつづけたからでした。忘れないで生活するために、神さまが確かに生きて働いておられますことを思い起こすために、先祖と私たちには、主の祭り=主を仰ぎ見、主の御声に耳を傾ける礼拝がどうしても必要なのです。
  彼らは荒野で、天から下ってくるパン
を食べつづけました。毎日、必要な分だけ、家族の人数分だけ集めました。その天からの恵みのパンを壺に入れてずっと保存しておくように(出エジプト記16:33-36)、と神さまから指図されました。災害時の緊急保存食料とするため、ではありません。いつか博物館を建てて展示するため、ではありません。子供や、子供の子供や、その子供の子供にも壺の蓋をあけて見せるためです。「何これ」と子供たちは質問します。大人には、ちゃんと応える責任があります。「ほうら、これが天からのパンだ。こんなふうに神さまは私たちを毎日毎日養ってくださった。今までもそうだったし、これからもずっとそうなんだよ」と子供たち孫たちによく教えてあげるために。つまりは、みんなで神さまの恵みをちゃんと覚えておくために。それで、今でも私たちは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈り、「天からの恵みのパンで一日分、また一日分と日毎に養ってくださってありがとうございます」と感謝を心に刻みつづけています。つまりは、みんなで神さまの恵みとお働きをちゃんと覚え、神さまに十分に信頼を寄せつづけて生きるために。
そうそう、例えばエジプトから出てきた最後の晩のことも、ちゃんと覚えている必要がありました。それで、あの夜の出来事をそっくりそのまま祭りにしました。過越しの祭りです。食事の席で、子供たちは質問します。「いつもはふっくらしたパンなのに、どうして今夜はペッタンコのパンなの。杖を持ち、リュックサックを背負って旅支度を整えて食べるのは、どうして。家の戸口の赤いしるしはどういう意味?」(出エジプト記12:24-27,13:8-10,14-16)。信仰をもって生きる家族の中の父さん母さんは、私たち年長の者たちには、その質問にちゃんと応える責任があります。かつて犠牲にされた小羊の血によって救われた私たちは、いま、救い主イエスの十字架の死と復活によって救い出されている。救い出され続ける。もし、それがなかったならば、今なおエジプトで奴隷にされつづけているはずの私たちである。それが確かにあったとしても、もし、その恵みの現実を忘れて、はっきりと思い起こすことも出来なくなるならば、奴隷の生活に逆戻りしつづける他ない私たち。つまりは、みんなで神さまの恵みをちゃんと覚え、神さまに十分に信頼を寄せつづけて生きていこう。そのため、ここにいるこの私たちこそが真っ先に、神さまの恵みを心底から覚え、神さまに十分に信頼を寄せつづけて日々を生きることをしたい。だから、忘れてはならない。忘れてはならない。
 また例えば、主イエスの弟子トマスはとても疑い深い人でした。「私は決して信じない」。それは、「信じたいけれど、確かなしるしを見るまでは信じることができない。ぜひ、そのしるしが欲しい」という意味です。彼は、「いいえ、いいです。しるしなんか無くても大丈夫」と信仰深いふりを装っていた、見栄っぱりなアハズ王とは正反対の人でした。トマスのためにも、復活の主イエスはわざわざやって来て、こう仰いました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスは答えて、「わが主よ、わが神よ」と喜びにあふれました(イザヤ書7:10-12,ヨハネ福音書20:24-29)。まごついて、ひどく手間取っていた彼でしたが、弟子たちの中で、あの危なっかしい彼こそが真っ先に主イエスの前に膝を屈め、「私の主よ、私の神よ」と喜びにあふれました。
  「決して忘れるな! 魂に刻みこんで生きよ そのための手段としるしを堅く掴んで手離すな」と、神さまは私たちを招きつづけます。信じて生きるためのしるしが、いくつもいくつも贈り与えられました。1回の礼拝。1回の洗礼。1人1冊ずつの、いつでもちゃんと開くことのできる聖書。主をほめたたえて、感謝と信頼を覚えておくための讃美の歌の数々。その土地、その土地に建てられてきたキリストの教会。神さまとそのお働きを覚えて生きる1人のクリスチャン。そして、その人たちのためのとてもとても大切な聖晩餐のパンと杯です。「パンと杯? 洗礼、礼拝や聖書や讃美の歌や、祈りだって? いいえ、そんなしるしは要りません。大丈夫。しるしや支えがあってもなくても、この私こそはちゃんと信じていますよ。クリスチャンですから」。……いいえ。むしろ、あなたは疑い深いトマスでありなさい。「あなたのその指を、あの方のてのひらに当ててみなさい。あなたの手を伸ばして、あの方の脇腹の槍の傷跡に入れて、グリグリグリとこね回してみなさい。満ち足りるまで存分に。そして、信じない者ではなく、主イエスをこそ心底から信じ、このお独りの方にこそ全幅の信頼を寄せるあなたでありなさい」。なぜならば よくよく信じることができなければ、いつまでたっても私たちは確かにされず、ずっと危なっかしいままだからです。なにしろ忘れっぽい私たちです。だからこそ今日もこうして、神さまご自身からの、飛びっきりの贈り物が用意されています。救い主イエスは、十字架の死へと引き渡されようとする夜に、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われました、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」(コリント手紙(1)11:23-)。わたしを記念するため、わたしの記念として、行いなさい。つまり、わたしを覚えているためにこそ、せよ。神さまの恵みをちゃんと覚え、心に深々と刻み、神さまに信頼を寄せつづけて生きるために。月曜日にも火曜日にも水曜日にも、朝も昼も晩も、そのようなあなたであるために。


2020年1月2日木曜日

12/29こども説教「信じない人たちが」使途14:1-7


 12/29 こども説教 使徒行伝14:1-7
 『信じない人たちが』

14:1 ふたりは、イコニオムでも 同じようにユダヤ人の会堂にはいって語った結果、ユダヤ人やギリシヤ人が大ぜい信じた。2 ところが、信じなかったユダヤ人たちは異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対して悪意をいだかせた。3 それにもかかわらず、ふたりは長い期間をそこで過ごして、大胆に主のことを語った。主は、彼らの手によってしるしと奇跡とを行わせ、そのめぐみの言葉をあかしされた。4 そこで町の人々が二派に分れ、ある人たちはユダヤ人の側につき、ある人たちは使徒の側についた。5 その時、異邦人やユダヤ人が役人たちと一緒になって反対運動を起し、使徒たちをはずかしめ、石で打とうとしたので、6 ふたりはそれと気づいて、ルカオニヤの町々、ルステラ、デルベおよびその附近の地へのがれ、7 そこで引きつづき福音を伝えた。
(使徒行伝14:1-7

 もしもし 恐いモノや、嫌なこと苦しくて辛いことがいっぱいあるでしょう。でもね、もし、神さまを本気で信じることが出来たなら、恐いモノは何もなくなります。どう? 素敵でしょ、うらやましいでしょう。本当のことです。
 さて、「主イエスが神の国の福音を語ったときにも、その弟子たちが語っても、信じる人と信じられない人たちとがあった」と聖書に書かれているとおりに話しつづけています。昔も今もこれからも、それは同じです。誰が聞いて信じるのか、誰が信じないのかは、神さましか知りません。ある人々が、主イエスの弟子たちに恥ずかしい思いをさせ、また乱暴して大ケガでもさせてやろうかと悪だくみをしました。けれどもちろん弟子たちは気づいて、危ない悪だくみを逃れることができました。神さまが守っていてくださるので、困ったことにはなりません。少しくらい困っても、ちっとも困りません。神の国の福音はそのように、あちこちで、ここでも、宣べ伝えられつづけます。これまでもそうでした。今も、これからもそうです。どうしてそうなのかをお話しましょう。しばらく前に主イエスが弟子たちを町や村へと送り出したときに、こう約束してくださっていたからです、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ福音書10:18-20)。