2017年9月27日水曜日

2017年日曜学校夏期学校「神のみこころ(2)」

《主題のお話》
  『羊と銀貨をさがす神さま』     201783
                                     牧師 かねだせいじ

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。                (ルカふくいんしょ15:1-10


  10まいの銀貨をもっていた女のひとがその中の1まいをなくしてしまいました。すると、家中ひっくりかえして夜どおし捜しつづけ、見つけたら大喜びに喜ぶというのです。それはちょうど、100ぴきの羊を飼っている羊飼いがその中の1ぴきを見うしない、たいへんな苦労をしてさがしだし、大喜びで連れ帰るのと同じように。それはちょうど、二人の息子がいる父さんが一人の息子がようやく家に帰ってきたのを出迎えて喜びにあふれるのと同じように。1まいの銀貨。1ぴきの羊。出て行ってもどってきた一人の息子。そして、ずっと家にいっしょにいたはずのもう一人の息子。それらが、神を見うしなってはぐれていた私たちじしんである、と聖書は語ります。例えば、あの羊がどんなふうに迷子になったのかは、私たちには分かりません。うっかりしていたのかも知れないし、自分勝手だったのかも知れません。おおかみや羊ドロボウに目をつけられていたのかも知れません。迷子になって、どうしていいか分からなくなって、「帰りたい帰りたい」とメエメエ鳴いたのかも知れないし、あるいは、迷子になったとも気づかず気楽に気ままに草をムシャムシャ食べつづけていたのかも知れません。さて、あの銀貨は、うっかりしていたのでもなく自分勝手だったのでもなく、帰りたいと鳴いたのでもなく、自分で帰ってこようとしたのでもありませんでした。だって、ただの銀貨だったのですから。ただ財布から落ちて、コロコロころがって、タンスとタンスのすきまかテーブルのしたか本や古しんぶんのページのあいだかどこかにまぎれこみました。自分がどこかにいなくなった、とも知りませんでした。放っておけば100年でも200年でもそのままいなくなったままでしょう。見つけだされて主人の手にもどっても、たとえ持ち主が大喜びに喜んだとしても、けれど銀貨は、うれしくも何ともない。持ち主の手にもどったことに気づきもしないでしょう。
 ここで、ひとつ気づくことがあります。3つのたとえ話を始めるきっかけとなったばめん(1-2せつ)。主イエスといっしょに楽しいゆかいな食事の席についている人々。そして、遠くからながめて「どうしてあんな人たちと」とプンプン怒っていた人々。主イエスとともに食卓についていたあの人たちは、それをうれしく思っていました。ちょうど羊飼いのもとに連れもどされた羊のように。ちょうど、父の家に迎え入れられたあの弟のように。そのいっぽうで、遠くから眺めて「どうして」と腹立たしく思っていた人たちはどうでしょう。いっしょに席についたとしても、ソッポをむいて、つまらなそうにしているかもしれません。ちょうど、見つけだされて持ち主の手の中にもどった銀貨がうれしくも何ともないのと同じように。けれど兄弟たち。連れもどされた羊が喜ぼうが喜ぶまいが、見つけだされた銀貨がそれを何とも思わなくたって、なにしろ羊飼いはうれしい。なにしろ銀貨の持ち主はうれしい。なにしろ、あの父親はうれしい。

                      ◇        ◇

 あの羊飼い。そして銀貨をなくした女のひと、そして息子がいなくなってしまった父さん。それらはみな、神さまのことです。すると、「銀貨10まいをもっている女」と言いましたけど、ほんとうには、10まいしかもっていない貧乏な女のひとが、とても貧しくて貧しくてその1まいがなかったらごはんを食べるにも困るほどで、それでとても困って必死にさがしまわる、ということではありません。むしろこの女はビックリするほどの大金持ちで、財布のなかにはありあまるほどのたくさんのお金がウジャウジャはいっています。神さまなんですから。その1まいが見つからなかったら毎日毎日の暮らしに困る、というわけでもありません。困る困らない、都合がいい都合がわるいという話でもありません。

 7,10せつ。「大きな喜びが天にある。神の天使たちのあいだに喜びがある」。神の喜びは、神の悲しみや痛みとひと組です。神さまのほうに向いていたはずの一人のゆるされた罪人が、いつのまにか人間のほうへ人間のほうへと思いを曇らせ、心をまどわせてゆく。ついに人間のことばかり思いわずらい、神を思うことを忘れてしまう。すると、その一人の魂を思って、天に大きな大きな悲しみと痛みがある。その一人の迷い出てしまった10円玉か5円玉のようなかわいそうなかわいそうな罪人を思って、「どんなに心細く、おそろしくて、みじめだろうか。かわいそうだ、かわいそうだ」と神さまがどんなに心を痛め、どんなにふかく嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその一人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさとひと組でした。とてもとても心配して悲しんでいた分だけ、それだけとても大喜びに喜んでいます。目をこらしてください。あの一人の羊飼いは大喜びに喜んでいます。「皆さ~ん、いなくなっていた羊をとうとう見つけましたア。いっしょに喜んでください」。あの一人の女も喜んでいます。「うれしい、うれしい。わあい。ほんとうにうれしい。どうぞ、いっしょに喜んでください」。

2017年9月26日火曜日

9/24こども説教「塩気がなくなったら」ルカ14:34-35

 9/24 こども説教 ルカ14:34-35
 『塩気がなくなったら』

14:34 塩は良いものだ。しかし、 塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。35 土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。
(ルカ福音書 14:34-35

  ケンちゃん。「あなたがたは世の光であり、地の塩である」(マタイ5:13-16と主イエスから教えられている私たちです。光には、自分自身やまわりを照らし出して明るくし、よく見えるようにする役割があります。塩にもいくつか大切な役割があります。食べ物を良い味にしあげますし、食べ物が悪くなって腐ってしまわないように、長持ちさせます。私たちがこの世界のための塩だとしたら、とても優しい良い神さまが私たち皆を大切に思い、可哀想におもってくださって、助けてくださろうとしていることを知っているからです。だから私たちは塩ですし、それが私たちの塩気です。けれど、とても優しい良い神さまが私たち皆を大切に思い、可哀想におもってくださって、助けてくださろうとしていることを、もし、すっかり忘れて、分からなくなってしまったら、その人は塩気がなくなって、もう塩でもなんでもありません。それでは困ります。とても優しい良い神さまがこんな私のことも大切に思い、可哀想に思って、何度も何度も助けてくださったし、これからも助けてくださる。他の人たちに対しても同じくそうだ。もし、その大切なことを思い出すことができさえすれば、ただそれだけで またその人は光の子供に戻り、塩気のある子供に戻っています。ああ、よかった。


      【補足/塩で味付けられている】
塩をかけるとおいしくなるだけでなく、その食べ物は腐らないで長持ちします。塩辛とか、塩魚とか。聖書は勧めます「いつも、塩で味付けられた、やさしい言葉を使いなさい」(コロサイ手紙4:6)私たちは漬物のようです。聖書の言葉を自分の体にふりかけられて、頭の上に重い重い大きな石を乗っけられて、しばら~くするとおいしい漬物になります。しんなり柔らかくなるし、ワガママ勝手で頑固なトゲトゲしいところがだんだんと少なくなっていって、やさしく親切な、思いやり深い人間にされていきます。
      地の塩だし、世のための光だと言われています。それはなにしろ、救い主イエス・キリストこそがこの世界を照らす、明るく輝く光だからです(ヨハネ1:9,8:12,テサロニケ(1)5:5,イザヤ60:1)。主イエスから教えていただいて、主イエスに聴き従って生きているので、私たちも、主イエスの光を鏡のように反射して、その明るい光で自分自身や周りを明るく照らすようになります。これが神さまからの約束です。主イエスからの明るい光に照らされて、するとまず、自分自身が何をしているのか、どんな態度で人と付き合っているかがよく分かるようになります。自分がしている良いことも、悪いことも (ヨハネ手紙(1)2:9-11)。ああ、そうだったのか。「私が私が」と強情を張るのを止めて、やさしい素直な心を取り戻しとき、やっと、神さまのもとに戻ってくることができました。ああ、よかった。

9/24「何をしてほしいのか」マタイ20:29-34

                       みことば/2017,9,24(主日礼拝)  129
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:29-34              日本キリスト教会 上田教会
『何をしてほしいのか?』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
20:29 それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。30 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。31 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。32 イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。33 彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。34 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
                                                                 (マタイ福音書 20:29-34)
                                              

  31節、目の不自由な者たちは主イエスに向かって、「ダビデの子よ」と呼びかけました。ダビデの子孫の中からやがて救い主が遣わされると約束されつづけていたことを受け止めて、つまり『約束されつづけていた救い主』という意味でそう呼ばわっています。それは適切な理解です。
  目の見えない2人の人が、主イエスと出会いました。不自由さと心細さを抱え、どうやって生きていこうかと悩みを抱えている彼らが、だからこそそこで主イエスに目を向け、出会い、このお独りの方から格別な平安と希望を受け取っています。わたしたちもそうでした。目の不自由なこの人たちは、道端に座って物乞いをしていました。「道端がいい。わたしはここに座っていよう」と、彼らは心を決めました。ここでなら、自分たちの惨めな様子が人目を引き、誰かが気がついて心を向けてくれるかも知れないから。当てもなく、ただ虚しく家の奥深くに引っ込んでいることを、この人たちは選び取りませんでした。ただ漠然と、いつか何か良いことが起こるかも知れないと、ただ何となく待っていませんでした。そうではなく、この人たちは自分自身をそこに運んでいき、そこに自分を座らせました。主イエスが通りかかったことを知り、主イエスの憐れみを求めて叫びました。とても不思議なことが、ここですでに起こっています。もし、この日、この道端に座っていなかったら、この人たちは主イエスとは出会えませんでした。主イエスがここを通りかかると知ったとき、もし、「わたしを憐れんでください」と叫ばなかったら、あるいは1度か2度か叫んでみた後で、「やっぱり無理だ。どうせわたしなんかに」とすぐに諦めてしまったとしたら。誰かに「しっ。静かにして」などと注意され、苦情や文句を言われてガッカリし、もし、それっきり押し黙ってしまったとするならば、この人たちは主とは出会えず、一生涯ず~っと、目が見えないまま、物淋しく虚しいままだったかも知れません。たまたま偶然に出会った、のではありません。たまたま偶然に憐れみを求めて叫んだのではありません。そうではないのです。この人たちは自分で判断し、自分自身でその幸いを選び取り、自分でそれを掴み取りました。
 「彼らが主イエスとその福音をどれだけ的確に理解していたかは疑問だ。ただ、熱心に物乞いしただけかも知れない。せいぜい、目が見えるようになることを素朴に求めただけかもしれない」などと、うかつに考える人がいるでしょう。「熱心に叫びさえしたら、信仰を認められて救われるのか。違うはずだ。あまりに素朴に単純に受取られてしまっては困るじゃないか」と、分かったつもりになって案じる人もいるでしょう。そうでしょうか? けれどポイントは、たとえ彼の求めが不完全で未熟で単純すぎるものであったとしても、なお主イエスがそれを「信仰」と認めてくださった点にある。それを喜び、受け入れてくださった点にある。『彼らが○○したから。△□だったから』という彼の素質や態度や努力・根性などを軽々と飛び越えて、まったくの恵みの出来事でした。しかもなお問わねばなりません。まったくの恵みであるとして、現に差し出されているその恵みを彼らはどのようにして受け取ったのか。この私たち自身は、どうやって受け取ろうか、そこで主イエスを信じるその人の信仰はどう働くのかと。
 群衆は彼らを叱りつけて黙らせようとしました。あるいは、気をきかせた弟子たちも、「静かに。主は、お忙しいのだから」など彼らを黙らせようとしたり、片隅へ片隅へと押しのけようとしたかもしれません。けれど主イエスご自身は、別の観点と、ずいぶん違う熱情をもっておられる。1人の人と出会おうとする伝道指針であり、1人の人を救いに導きいれようとなさる熱心な教育です。主イエスのこの同じ1の熱情が繰り返し報告されつづけてきたではありませんか。あらかじめなんでも分かっておられる主が、十分に分かった上で、「何をしてほしいのか」とわざわざ問いかけておられます。彼らに、改めて求めさせるために。自分を主に委ねさせ、恵みをしっかりと受け取らせるために。自分にはいったい何が欠けていて、誰に助けを願えばよいかを彼らは知って、だからこそ彼らは主イエスに向かって必死に叫んでいます。叫び続けていました。私たちは主イエスに何をして欲しいのでしょう。あなたは? 何がどうであったら、あなたや私は幸いと喜びに満たされて生きて死ぬことができるでしょう。その願いを、他の誰に対してでもなく、主であられる神にこそ本気で願い求めることのできる人々は幸いです。
 この人たちの姿はまた、私たちの日々の祈りの手本でもあります。主イエスが通りかかると知って、この人たちは叫びました;「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」(30,31)と。「静かにしていなさい。後ろに下がっていなさい」と叱りつけられたとき、この人たちはそこで黙り込んでしまわなかった。それどころか、ますます必死にますます一途に、ひたむきに叫び続けて、止まないのです。この人たちは自分の貧しさや乏しさを知っていました。そのうえ、語り出すべき言葉も知っていました。それは、ごく簡単な短い言葉でした;「約束された救い主イエスよ、私たちを憐れんでください」。わたしを憐れんでください。『主よ。約束された救い主イエスよ、わたしを憐れんでください』という祈り、そういう人間、そういう居場所がクリスチャンだというのでしょうか? それがキリストの教会の基本姿勢だというのでしょうか。そうです、その通り。このへりくだった低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、クリスチャンのいつもの場所です。なぜなら、ほんの少し前には、「お恵みや憐れみだって? 冗談じゃない。人様からも何様からだって、お恵みも憐れみも施しも受けない。馬鹿にするんじゃないよ」と肩肘張っていたプライドやら埃やらがあまりに高かった、高すぎた私たちです。けれど身を屈めて、へりくだることをついに習い覚えた私たちです(ローマ手紙3:21-28)。誰がこの人を叱りつけても、誰が立ち塞がっても、もうこの人を押し止めることなどできません。この人がどんなに切実に助けを求めているのかを、誰も知りません。けれど、この人たち自身は分かっています。しかも、主イエスご自身がよくよくご存知です。主イエスは、この目の不自由な人たちを喜んで受け入れます。深く憐れんで、それで迎え入れる(34)。主イエスが私たちを迎え入れるやり方は、ただただこのなさり方の一本槍です。可哀想に思って、深く憐れんで迎え入れる。そうではない仕方で迎え入れられた者など、ただの1人もいません。
 32節。主イエスは、彼らの呼び声に耳を傾け、足を止められます。大事な用事があろうが、予定が組んであろうがお構いなしに、ピタリと立ち止まります。他のどんな予定よりも用事よりも、今ここで彼らのために立ち止まることが極めて重要だからです。彼らを呼んで来させました。「何をしてほしいのか」と主イエスは二人に問いかけます。彼らは、探し求めてきたものをとうとう見つけ出しました。このとき、彼らは、一筋のはっきりした光を掴み取りました。肉体的な病気と不自由さや心細さのためにこの人がしたことを、今度は私たち自身が、私たちの魂のためにすることができます。なぜならあの彼の乏しさよりも私自身の乏しさの方がもっと大きく、もっと深刻であるからです。罪と悲惨の病いは、目が見えないことよりも、耳が遠いことよりも、足腰が弱くなって衰えたことよりももっともっと厳しい。はるかに徹底的にその人を痛めつけ、その人を弱らせ、そこないます。「でも、どう祈っていいか分からない。どんな言葉で、何をどう祈ったらいいのか」とためらう人々がいます。けれど例えば病院に行って医者にかかって「どうしました?」と聞かれて、そのとき、どんなに内気で口下手な人でも、小さな子供でさえ答えます。「おなかの下の方がシブシブ痛い。昨日の夕方ころから、なんだか痛くなった」と。身体のこと。おなかの下の方のシブシブとした痛み。腰や膝の痛みについて、あなたの口と舌が説明できるなら、それなら、あなたの普段の生活の心細さや、いじけたり僻んだり恐れたりすることについても、物淋しさや虚しさについても、もちろん魂のことについても、あなたのその口と舌は十分に説明できます。たとえもし、今まで一度も祈ったことがないあなたであっても、祈り始めることができます。どうやって。医者に「どうしました」と聞かれて答えるときのように、祈り始めるのです。まず、こう言ってみましょう。「主なる神さま。どうか、私を憐れんでください」と。
 どんな祈りが、どうやって聞き届けられるでしょうか。その人自身を救う信仰があり、その人を救わない信仰があるのでしょうか。聞き届けられる祈りがあり、聞き届けられない祈りがあるのでしょうか。どんな信仰が、どうやって、その人を救いへと至らせるのでしょう。どんな祈りが、どうやって聞き届けられるのでしょう。あるいは、どんな人々が、どうやって救われるのでしょうか。これらは、同じ1つの福音をめぐる1つの事柄です。自分自身を救う信仰とは何だろうか。助けと恵みを求めて、道端だろうがどこだろうが座り込んで待ち受ける信仰です。「イエスよ、わたしを憐れんでください」と呼ばわる信仰です。叱られても、周囲の誰彼に嫌な顔をされても、「止めておきなさい」となだめられても邪魔されても、なお「憐れんでください。憐れんでください」と声を限りに呼ばわり続ける信仰です。「見えるようになりたい。あなたに、そうしていただきたい」と主イエスに求める信仰です。救われるに値しないと人々から思われるはずの罪人が、けれど周囲の人々や人様・世間様の思いなどとはまったく関係なしに 神さまの憐れみによって、救われます。神の恵みより、無償で、ただただ恵みによって。私たちを憐れむ神さまの救いの御業が主イエスによって成し遂げられてあるので、だから主イエスによって、この方を信じることによって、救われます。そのように救われたのですし、救われ続けます。どんなに罪深い極悪人でさえ、ただただ神の憐れみによって、救われます。どんな信仰がと問うならば、主イエスを信じる信仰が。では、どんな祈りがどうやって聞き届けられるのかと問うならば、どんな祈りでも、「主イエスのお名前によって祈ります」という祈りこそが(ヨハネ福音書14:13,15:16,16:23-24,ローマ手紙3:21-26,テモテ手紙(1)15)。慈しみ深い真実な神ご自身が、私たちのどの祈りをさえも聞き届け、必ずきっとかなえてくださるからです。私たちはそれを知っています。

             ◇

  本当のことを申し上げましょう。最低最悪の、ひどく自分勝手な、見当違いの、間違った、貧弱で粗末な祈りさえ、けれどなお神さまの憐れみによってきっと必ず聞き届けられます。憐れんでくださる神さまがおられ、私たちのためにも主イエスが執り成していてくださり、ぜひとも聞き届けたいと天の父が耳を傾けていてくださって、だからこそ、その貧しく粗末な小さい祈りさえ聞き届けられます。祈りがそうであるなら、ここにいるこの私たち人間も、そのように取り扱われるのです最低最悪の、ひどく自分勝手な、見当違いの、貧弱で愚かで粗末な罪人さえ。主イエスに向かって「私を憐れんでください」と呼ばわる信仰が、その人を救うのです。主イエスのお名前によって、この方が成し遂げてくださった救いのお働きに信頼し、より頼んで、だからこそ、こんな私のこんな祈りさえ聞き届けられると知る祈りこそが、その人を、憐れみの神さまの御もとへと連れ出し、神と出会わせ、その憐れみを受け取らせます。アーメン。神ご自身にこそ、私たちのための真実があります。アーメン。神ご自身の中にこそ、私たちのための救いがあります。憐れんでくださる神さまがおられ、主イエスが執り成してくださり、ぜひとも救いたいと心を注ぎ出してくださりつづけて、だからこそその貧しい小さな人さえも救われます。あなたや、この私でさえもが。しかもなお主イエスご自身こそが、この1人1人を、この叫びを求めておられた。主こそが探しておられました。御心に留めつづけ、深く憐みつづけておられました。だからこそ、こうして主と出会いました。見えるようにしていただいた彼らは、主イエスに従って生きることを選び取りました。それは、なぜ? 何のために。お返しやお礼をするためではなく、もっともっと見えるようになりたかったからです。もっともっと喜びにあふれたかったからです。この私のためにも家族や隣人たちのためにさえある神の現実を、神が確かに生きて働いておられますことを、この目ではっきりと見るために。自分の考えや計画や願いに従って生きるのではなく、御心に信頼して、御心に従い、主イエスに従って生きることがどんなに幸いなことであるのかを現実的に具体的に、ますますはっきりと知るために。自分自身にとってもこの世界のすべて一切に対しても、なにしろ主こそが主であられることを知るための旅がつづきます。私たち自身の旅が。









2017年9月11日月曜日

9/10こども説教「神の国のお祝いパーティー」ルカ14:12-14

 9/10 こども説教 ルカ14:12-14
 『神の国のお祝いパーティ』

14:12 また、イエスは自分を招い た人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。13 むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。
(ルカ福音書 14:12-14

ここは特別に難しいことが語られています。「普段のいつもの付き合いの中で、私たちが人間同士で、お互いに誰とどういう付き合いをして、宴会や食事会で誰と誰を呼んだらいいか」ということではありません。そうではなく、神さまご自身と私たちとの付き合いのことだったのです。その証拠に、この直後の15節を見てください。これを聞いていて、その中の一人が、本当には何のことが語られているのかに気づきました。そして主イエスに、こう言いました。「神の国で食事をする人は幸いです」と。ね? この世の終りの日の、救いが完成されるときの喜びのお祝いパーティ。そのお祝いパーティに、神さまが、誰と誰を呼んでくださるのか? これは、たとえ話で語られています。「友人、兄弟、親族、金持ちの隣り人」のような、自分は正しくて立派で、ふさわしい善人だと思っている人々を、神さまはパーティに呼ばない。そうではなく、「貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人など」のような人々をこそ、神さまは救い出し、神の国へ招き入れ、救われた者たちのお祝いパーティの席につかせてくださる。ここで聖書が語ろうとしたのは、このことです。そのように、神さまから招かれた私たちです。返礼もお返しも何もできませんから、ただただ感謝して大喜びに喜ぶばかりです。神さまに心から感謝して、喜んで生きてゆくばかりです。


   【補足/このように招かれた】
    直後の15節、これを聞いて、語られていた内容に気がついた人が一人いました。「神の国で食事をする人は幸いです」と。そのとおりです。しかも、この箇所の最重要ポイントは、『この私たち自身がこのように神の国に招かれ、今げんに、神の国に住まわせていただいている』という点です。「ただ恵みによって、主イエスを信じる信仰によって招き入れられた」とクドクドと教えられてきました。それは、このことです。『返礼ができないし、していない』ことを、自分自身の魂に深く刻んでおきましょう。『感謝と喜びの生活』と『返礼をしていないし、できないと分かっている』こととは表裏一体です。礼拝献金、維持献金なども、何かの奉仕も働きも、決して『返礼』などではありません。会費を払って何かの団体に入会しているわけでもありません。だからこそ、ただただ神さまに感謝して喜んで生きてゆくことができるのです。ここで誤解してしまうと、私たちも働きの只中で神の恵みを見失ってしまいます。カインのように。ぶどう園で働いた朝早くからの労働者たち、放蕩息子の兄、働き者のマルタ姉さんのように。それでは、神の恵みが水の泡です。


9/10「仕えるしもべになりなさい」マタイ20:17-28

                       みことば/2017,9,10(主日礼拝)  128
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:17-28                日本キリスト教会 上田教会
『仕えるしもべになりなさい』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
                                                       (マタイ福音書 20:20-28)
                                          
 17-19節と20節以下をつづけて読みました。20節冒頭「そのとき」と報告が始まります。主イエスの弟子2人とその母親が主イエスに願い事をしはじめたそのタイミングが大事な意味を持っています。主イエスがご自分の死と復活を3度目に予告した直後に、そこでと。「3度予告した」というのは聖書に馴染み深い言い方で、ただ3回仰ったという以上に、300回も3000回も何度も何度もしつこく繰り返して、という意味です。その挙句に、その矢先に彼らはこういうことを願い出る。また22節の主イエスとその弟子たちとのやりとりにも注目しましょう。「私が飲もうとしている杯を、あなたがたも飲むことができるか」「はいはい、できます。パンでも杯でも、いくらでもいただきますよ」。なんという軽はずみ、主イエスは十字架の苦しみと死を『杯』と仰った。けれど、そんなことを少しも考えもしない。主イエスのあまりに苦い救いの御業を聞き流しつづけ、すっかり棚上げして、彼らはずいぶん違うことを思い描いています。だからこそ、「そのとき」と。
  20-21節。2人の弟子とその母親が主イエスの前に進み出て、願い事を言おうとしました。「何をしてほしいのか」と主から問われ、母親が代表してこう言いました。「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。彼らの申し出は、弟子たちの中に大きな波風を呼び起こします。皆、カンカンに腹を立て、大騒ぎとなりました(24)。母親とその息子たちの願いの中身は、いったい何だったのでしょうか? 主イエスの弟子たちを含めて多くの人たちは、「彼らは権力と名声を主イエスに願い求めたのだろう。主イエスが王様のイスに座るとき、その右と左に。つまり、右大臣や左大臣、内閣官房長官や外務大臣、大蔵大臣などという主要な役職につかせてもらおうと願ったのだな。なるほど」と推測しています。そうかも知れません。そうではなかったかも知れません。それより何より、その直前に主イエスはご自分の死と復活を弟子たちに告げていたばかりでした。17-19節「私は祭司長、律法学者たちの手に引き渡され、死刑を宣告され、あざけられ、むち打たれ、十字架につけられて殺される。その三日目に墓からよみがえる」と。三度目の予告でした。けれど弟子たちは、あっさりと聞き流して、そんなことは何一つ聞かなかったかのようにして、王座につく主イエスと自分たちの晴れ晴れしい栄光の姿を思い浮かべています。それじゃあ、ここにいるこの私たち自身はどうでしょうか。あなたは何が望みでしょう。何がどうであったら晴れ晴れと喜びに満ちて暮らしていけるでしょう? 主イエスご自身からの言葉に耳を傾けましょう。25-28節。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
  「あなたがたの間ではそうであってはならない」。主イエスは、どこの誰に向かって仰っているでしょう。ご自分の弟子たちに。キリストの教会に。そしてもちろん、ここにいるこの私たちに対してです。わざわざそう仰るのは、そうなりやすいからであり、現にしばしば、教会の中で、神を信じるクリスチャン同士の間で、支配したりされたり、権力を振ったり振るわれたり振り回したり回されたり、神によって造られた、たかだか人間にすぎない者同士でむやみに崇めて奉ったり見下したりし合っているからです。「あなたがたの間ではそうであってはならない」と厳しく戒められています。信じたことが無駄になってしまい、せっかく受け取った恵みがすっかり台無しになってしまうからです。『だれが1番えらいだろう』という病気をご存知でしょうか。ずいぶん長い間、この極めて恐ろしい病気は、雑草のように世界中に伸び広がり、私たち人間を苦しめつづけてきました。多くの人々がこの病気にかかり、深い悩みの中に置き去りにされています。「つまらない役に立たない小っぽけな人間だ」と周囲の人々から思われるんじゃないかと、あの彼らはいつも不安です。片隅に押しのけられ、邪魔者にされ、誰からも相手にされず見捨てられてしまうのでは、「もうすでに、そんな扱いを受けているのでは」と。だから必死で背伸びをし、見栄を張り、体裁を取り繕いつづけます。あなたにも、心当たりがありますか?(創世記4:1-16,4:19-24,9:18-28,11:1-9,12:10-,20:1-,26:1-,37:1-11,出エジプト3:11-4:13,32:1-6,列王記上12:25-33,マタイ福音書20:1-16,ルカ福音書10:38-,15:25-32,マルコ9:30-,コリント(1)1:11-13, 26-31, 3:3-9, 4:6-。聖書は、只1つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすこと。兄弟たち。自分が神さまの恵みのもとへと招かれたときのことを思い起こしてみなさい。それから、どんなに慈しみ深い御計らいを受け取りつづけてきたのかを。けれどいったい、「仕えるしもべとなりなさい」(27)と仰った主イエスは何を伝えようとしていたのでしょう。私たちの救い主は、「仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」(マタイ20:28)に来てくださったのです。聖書66巻は「仕えなさい」「思い上がってはいけません。身を低く屈めて、へりくだりなさい」「慎みなさい」と戒めつづけてきただけではありません。だって、それだけでは私たちは、ただただイジケたり僻んだり拗ねたり、「どうせ私は」とガッカリするだけですから。だから、不平不満がいつのかにか心に溜まりつづけてしまう、心淋しい兄弟姉妹たち。よくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ2:6-)ことを。あなたを、この『だれが1番えらいか』病から救い出して、ついにとうとう誉めたり見下したり、誉められたり見下されたりすることからも、名誉や格式や社会的なご立派な肩書きや世間体や体裁ばかりを気に病みつづけることからさえ自由な者とするために。聖書自身も警告しつづけます、「大手大企業の代表取締役係長補佐だの名誉会長だのと、ひとりの人を崇め、ちやほやとたてまつり、ほかの人々を見下げて高ぶることが決してないように。なぜなら、あなたがたの持っている地位も名誉も能力もそこそこの才能も何もかもすべて一切、神からの恵みの贈り物ではないのか。ではなぜ、誇ったり互いに崇めたりして高ぶっているのか。良いお方、正しくご立派な方はただただ神さましかおられないのに。主イエスから直々にそう教えていただいているのに。良いおかた、正しくご立派なかたは、ただただ神さましかおられないのに。主イエスから直々にそう教えていただいているのに、その神さまを差し置いて。神さまを抜きにして」(コリント手紙(1)1:26-31,4:6-7,マタイ19:17「よい方は、ただ神おひとりだけである」参照)しかも、なぜ《仕えるしもべの心低い場所》に身を置きなさいと命じられるのか? そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所だからです。すべての人の後になり、皆に仕える者となってくださった救い主が、その《仕えるしもべの心低い場所》を私たちとの待ち合わせ場所となさったからです。そこで、素敵な贈り物を受け渡ししてくださろうと待っておられます。格別な恵みと平和とを。ですから、皆から「立派だ。さすがだ。偉い」と思われたくてウズウズしている、先頭の上のほうにいるその人たちは、待ち合わせ場所を間違えています。ああ残念です。いくら待っていても、いつまで経っても救い主はそこに現れません。心底から、知りたいのです。神さまとの待ち合わせ場所がどこなのかということを。福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所。それがいったいどんな場所なのかを。
 「クリスチャンは誇りを持ってはいけないんですか?」と、度々質問されます。コリント手紙(1)1:31、それとローマ手紙3:21-31。聖書からの答えははっきりしています。「誇る者は主をこそ誇れ」。また、「キリストの十字架以外に、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤ手紙6:14)。そして《誇る》とは、頼みの綱とし、支えや拠り所とすることです。もし、あなたがどうしても何かを誇りたいのならば、主をこそ誇りなさい。それなら良い。それ以外は止めときなさい。自分に固執しようとなさらず低く下った救い主は恥をかかされつづけています。自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった主イエスは、私たちの間で、侮られ、そのようにして赤っ恥をかかされつづけています。兄弟たち。主イエスは仰いました。「よく聞きなさい。心をいれかえて、小さな小さな子供のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)。賢くて立派な、何でもよく分かっているつもりの、大きな大きな大人のつもりでは、この私たちは決して神の国に入ることはできません(「心を入れかえて」とは、文字どおりの作業です。自分の心の中の今ある中身をすっかり全部ゴミ箱に投げ捨てて、そのカラになった場所に、神さまに新しく入れてもらう。捨てる中身は、「大きな大きな大人のつもり」のもろもろ一切。ある種の依存症でもあるので、自分から捨て去るのは至難の業。とうてい出来ません。けれど、もし、ぜひそうしたいと欲するならば、「自分からは出来ませんが、どうかぜひ神さまがそれをしてください」と願い求めはじめましょう。神さまこそが、きっと必ず成し遂げてくださいます。本当のことです)
  物淋しいクリスチャンたち。神さまが、神であるままに同時に人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身のごく普通の人間にです。ご立派で理想的な人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に。とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは固執なさらなかった。自分で自分を無になさった。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、御父への従順を貫き通してくださいました。こだわりつづけ、我を張ってしがみつきつづける私たちは驚いて、目を見張ります。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう? 主イエスの弟子ヤコブもヨハネも、その母親も、他の弟子たち皆もうっかり聞き流してしまいました。あるいはわざとに、聞かなかったふりをしたのかもしれません。あまりに耳障りが悪かったので、都合も良くなかったので、聞きたい内容ではなかったので。その後2000年にわたって今日まで、その最も大切な教えを軽々しく聞き流しつづけています。キリストの教会は、1人1人のクリスチャンは。そして私たち自身も。主イエスは問いかけます、「私の飲もうとしている杯を、あなたがたも飲むことができるのか。本当か?」。なんと答えましょうか。ここにいる私たちは知らされています。よくよく知らされています。兄弟姉妹たち。その十字架の死と葬りと復活は、「罪人を救うため」(テモテ(1)1:15)です。罪人を救うため。どの程度の罪人を、でしょう? 善良な人や高潔で誠実で清らかな人々を救うことなら、あまりに簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。例えば、ソドムとゴモラの人々よりも罪深い。例えば箸にも棒にも引っかからなかった、あのどうしようのないニネベの人々よりももっと5倍も6倍も弁えていない。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人たちをさえ、ぜひとも救い出したいと神さまは願ってくださった。そのあまりに生臭い、人間のことばかり思い煩い、自分の腹の思いの奴隷に成り下がりつづける、極めつけの惨めな惨めな罪人たち。けれどその彼らは憐れみを受けました。正しく良い人間だから救われたのではありません。恵みに値するふさわしい、美しい心の優秀で立派な人間だから救われたのでもありません。可哀想で可哀想で仕方がないので、憐れんでいただいて、それで惨めで虚しい死と滅びの場所から引き上げていただいたのです。キリスト・イエスがまず限りない忍耐をその彼らにお示しになり、その彼らを、救い主イエスを信じて救われる人々のための手本とするために。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。ただそのためだけに来られました(創世記18:16-33,ヨナ書4:11,ローマ手紙7:13-8:11,テモテ手紙(1)1:15-16を参照)。では、憐れみを受けて救われた彼らとは、いったいどこの誰のことでしょう。……おめでとう、恵まれた方々。私たちは主なる神さまから憐れみをいただきました。力ある方が、貧しく小さな私たちにも偉大なことをなさりつづけています。キリストが死人の中からよみがえらされたからには、この私たちもまた新しい生命に生きる者とされました。わたしたちの内にある古い罪の自分はキリストと共に十字架につけられました。この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや罪の奴隷となることがないためにです。神をそっちのけにして、自分自身と周囲の人々のことばかり虚しく思い煩いつづける『罪』から解放されるためにです。キリストと共に死んだ私たちですから、またキリストと共に生きる者とされた私たちです。罪に対して死んだ私たちであり、キリスト・イエスにあって神の御前で、神に向かって生きている私たちです。朝も昼も晩も、どこで何をしていても。それは、なんという幸いでしょう。


  次週、9月17日は、他の講師による伝道礼拝。その講師自身の判断で、説教印刷物を配布しません。HP版も不掲載です。「当日、来てくださった方が聞いてくださるだけで十分」とのこと。ご理解ください。

2017年9月6日水曜日

9/3こども説教「自分を高くする者は低くされて」ルカ14:7-11

 9/3 こども説教 ルカ14:7-11
 『自分を高くする者は低くされて』

14:7 客に招かれた者たちが上座 を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。8 「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。9 その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。10 むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。11 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。         (ルカ福音書 14:7-11

  この国でも、『部屋の一番奥の真ん中の席や、金ピカの屏風が立てられたその前の席は、一番ご立派で身分の高いおエライ人たちが座る場所。その反対に、入口近くは身分の低いシモジモの者たちの座る場所』と決まっているらしいです。でもそれは、キリスト教の神さまを信じていない人たちのやり方・考え方です。私たちは、そのしきたりには従いません。なぜでしょう? 神さまが「それは大間違いだ」と教えておられ、「あなたがたの間ではそうであってはならない」と命じておられるからです。自分に対してだけではなく、クリスチャンはどこの誰をも高く持ち上げたり、特別扱いしたり、祭り上げたり崇めたりしてはいけません。内閣総理大臣や天皇陛下さまだろうが、どこの何様に対してもです。そうしながら人を分け隔てし、人の値打ちに区別を持ち込み、他の誰かを見下すことになるからです。ご立派で正しくて偉いお方は、ただただ神さまだけだからです。しかも主イエスご自身が、「心を入れ替え、自分を低くして小さな子供のようにならなければ、誰でも決して神の国に入ることはできない」とはっきり仰いました(マタイ18:3「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできない」,20:25-28異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである,コリント手紙(1)4:6「ひとりの人をあがめ、ほかの人を見下げて高ぶることのないため」参照)。あなたも、よくよく覚えていますね。自分や他の誰かを高くしたり低くしたり持ち上げたり見下したりしつづけているうちに、神さまの恵みの場所からうっかり転げ落ちてしまうと困ります。とてもとても困ります。
 しかも低くされた場所こそが、恵みを恵みとして受け取るいつもの場所だからです。そこで神さまと出会うための待ち合わせ場所だからです。そのことを、決して忘れてはいけません。


9/3「取れ。これは私の体である」マルコ14:22-31

 ◎としなしの祈り

できないことは何一つない神さま。この世のことと自分自身の生活にだけ囚われてしまいやすい私たちです。聖書が証言するとおり、「もし私たちがこの世の生活の中でだけ、そこで朽ち果ててしまうほかない虚しいものに望みをかけているだけだとすれば、この私たちはすべての人の中で最も憐れむべき惨めな者」(コリント手紙(1)15:19参照)となってしまいます。あなたからの招き受け、あなたにこそ仕えて生きることをはじめた自分たちであることを忘れてしまわないように、あなたが生きて働いておられますことを覚えつづけて生きるように、どうか神さま、絶えず私たちの目を覚まさせてください。人間中心・自分中心のあり方から離れ去り、あなたへと私たちを向かわせ、心と思いを尽くしてあなたに仕えて生きる私たちとならせてください。どうか今日こそ、あなたの御心を心から尊び、御心に従って生きることを願い求め、隣り人を自分自身のように愛する私たちとならせてください。日本で暮らす外国人を憎んだり排除しようとする人々の在り方や活動に対しても、私たちは責任があります。安く利用され、使い捨てにさせられつづける人々の貧しく惨めな暮らしに対しても、米軍基地を無理矢理に押し付けられている沖縄の同胞たちに対しても、私たちには果たすべき大きな責任があります。貧しく心細く暮らす子供たちとその家族に対して、年老いた人々に対しても、若者たちに対しても。また、様々な障害を負って暮らす人々に対してもてを差し伸べ、寄り添って生きる良い隣人でありたいのです。
  主なる神さま。人間の力にではなく、あなたご自身の力に信頼し、人間の賢さにではなく、あなたご自身の知恵と賢さに聞き従って、そのように御心にかなって生きることを願い求める私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




                           みことば/2017,9,3(主日礼拝)  127
◎礼拝説教 マルコ福音書14:22-31                 日本キリスト教会 上田教会
『取れ。わたしの体である』
       ~聖晩餐の意味と中身~ 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。23 また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。24 イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。25 あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。26 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。27 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。29 するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。・・・・・・31 ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。   (マルコ福音書 14:22-31)
                                               


 私たちと先祖は400年もの長い間、エジプトの国で奴隷にされました。奴隷とは、まるで人間ではないモノや道具のように使い捨てにされ、踏みつけられ、ないがしろに扱われつづける人々のことです。今日でも、おびただしい数の人々が踏みつけにされつづけて、呻き苦しんでいます。世界中で、またこの日本でも。日本人も外国人も子供も若者も年寄りたりも様々な障害を負う人々も。主なる神さまは、その私たちの苦しみをつぶさに見、追い使う者のために泣き叫ぶ私たちの叫び声を聞き、私たちの痛みを自分自身の痛みのようにつくづくと知りました。私たちを可哀そうに思って、先祖と私たちをエジプトの奴隷の家から連れ出してくださいました。これが、先祖と私たちの大切な出発点です。2枚の石の板に刻まれた10の戒めを授けられ、「神を心から愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」と命じられた(出エジプト記20:2-17)のも、神さまが私たちを奴隷の家エジプトの国から連れ出してくださったことをよくよく覚えているためにです。連れ出されたはずの奴隷の家に、罪の奴隷状態へと何度も何度も繰り返し引き戻され、閉じ込められてしまいやすい私たちからです。過越の祭は、エジプトから連れ出されたその最後の夜の出来事を再現して味わう礼拝です。その祭りを祝いつづけるのも、神さまが私たちをエジプトから連れ出してくださった神であり、その神によって救い出された私たちであることを、よくよく覚えているためにです。
  ちょうどその過越の祭の時期に、その時をめがけピタリと狙いすまして、主イエスが十字架につけられて命を差し出してくださったのは、この祭りに、神ご自身の手で新しい大きな意味を付け加えるためでした。かつて小羊の血によって災いが過ぎ越していったように、いま私たちは、救い主イエスの十字架の死と復活によって奴隷の家から救い出された。救い出されつづける、と。主イエスの死と復活による救いの御業を、世々のキリスト教会は『第二の過越し』として喜び祝い、心に刻みつけてきました。それが、聖晩餐を祝う意味と中身です。けれど私たち人間はとても忘れっぽかったのです。「喉元過ぐれば熱さを忘るる」と昔の人が言ったように。苦しかったことも辛かったことも、それだけではなく嬉しかったことも深く感謝したことも、決して忘れてはならないはずの大切なことも、なんでもかんでも、喉元を過ぎてしまえば忘れてしまう。けれど、この主イエスの十字架の死と復活だけは、どうしても、よくよく覚え続ける必要がありました。どうしたらいいでしょう? 喉元を過ぎてしまえば、忘れてしまう。それなら、私たちの喉元に、それがたびたび繰り返して留まってあるようにしたら。そうすれば、とても迂闊で心の鈍い私たちであっても、骨身にしみて覚えていることができるかも知れない。神さまへの感謝と信頼とを魂に刻みつづけて生きることができるかも知れない。主イエスはご自分が十字架の上で肉を引き裂かれ、血を流しつくしたことを、ご自分の弟子たちがいつもちゃんと覚えていることができるようにしておきたいと願いました。過越の食事とその祭りによって、イスラエルの民がエジプトでの最後の夜を覚えつづけたように、パンと杯の食事によって十字架の出来事を再現し、繰り返し味わいつづけるように。食事の席で、主はパンを取り、感謝の祈りを唱え、手に持ったパンを裂き、弟子たちに与えて仰いました。「取れ。これはわたしの体である」。杯を掲げ、感謝の祈りを唱えて、主イエスはその杯を手渡してくださいました。「これは、多くの人のため、そしてあなたのためにさえ流す私の契約の血である」(マルコ14:22-24)。それが、いま目の前に用意されているこのパンと杯の食事です。
 25節をご覧ください。「あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。その、ごくごく質素なつつましい食事は、やがて神の国でなされるお祝いパーティの先取りです。ぶどうの実から作ったものを、今、こうして弟子たちと共に飲んでいる。やがて、天の御父の国で主イエスとその弟子たちは共に新たに飲むことになる。必ず、そうなる。「やがて」と願ってくださった主イエスは、『今、弟子たちと飲み、祝う』ことをも心から願い求めてくださいました。そのときそこでの食事を願った主は、そのパンと杯が指し示すご自分の苦しみと、はずかしめられ嘲られて惨めに死ぬことをも、同じく心から願い求めてくださいました。ゲッセマネの園で「この苦い杯を過ぎ去らせてください」と祈られたとき、十字架の苦しみと死という杯の苦さは、掛け値なく、まったく真実でした。しかもなお、そのご自身の苦しみと死を、主イエスは心から願い求めてもおられたのです。この私たち罪人の救いのために、恵みに値しない、まったくふさわしくないこの私たちのためにも、苦い苦い杯を飲み干そう。ぜひともそうしたいと。
 どうして、十字架にかかって殺されなければならなかったのでしょう。神さまの救いの計画のためです。恵みに値しない、まったくふさわしくない罪人をけれども憐れんで、ゆるして救う。けれど弟子たちは何だかあまりピンときません。いつまでも他人事のようで、その、いわゆる『罪人たち』の中に、この自分自身も入っていることが分からなかった。「罪人? それは誰が、別の人たちのことを言っているんだろう」などと思っていました。この直前17-21節、食事の途中で、ユダはいつのまにかこっそりと席を離れて抜け出していきました。「特にあなたがたに言っておくが。あなたがたのなかの1人で、私と一緒に食事をしているものが私を裏切ろうとしている」(18)と主イエスが仰った。その場に居た誰もかれもが心を痛めて、「まさか私?」「私のことでしょうか」「お前だろう」「いいや、お前こそ」などと口々に言い出し、やがてユダが気まずそうに立ち去っていきました。皆はほっと安心して、「ああ良かった。やっぱりあいつだったのか」などと胸を撫で下ろしました。「なあんだ、ユダのことだったのか」と彼らが安心したちょうどそのとき、災いが過越していっただけでなく、そうやって神さまからの恵みも、その人たちの前をス~ッと通り過ぎていきました。あまりに気前の良い神さまでありつづけます。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される神(ヨナ4:2,出エジプト記34:6,86:5,15,ヨエル2:13-14,民数記14:18,ミカ7:18,エレミヤ26:13)。恵みと憐れみとを現にたしかに受け取り、ゆるされつづけてきた。それは他の誰のことでもなく、この私たち自身のことでした。ユダと他の弟子たちとは、またここにいる私たちもまた、ほぼ同罪です。同じくつまずき、同じく心を惑わせ、主イエスを見捨てて散り散りに逃げ去り、同じように何度も何度も主に逆らいつづけています。ユダとなんの変りもない、50100歩の私たちです。ユダも私たちも思っていました。「罪人を憐れんでゆるし、恵みに値しない者を救う? 誰か他の人たちのことだろう」と。だから、エルサレムの都に来る旅の途中で、「わたしは罪人を救うために十字架にかけられて殺されて、墓に葬られて、その3日目に復活しなければならない」(マタイ16:21-28,17:22-23,20:17-19)と主イエスが何度も何度も仰っていましたけれど、正直言って、あまりピンと来ませんでした。主イエスの弟子たちよ。自分の正しさとふさわしさをついつい言い張りたくなりやすい私たちです。自分の腹の虫と人様の顔色ばかりを窺いたくなりなりやすい私たちです。なぜユダが滅ぼされ、なぜ私たちが恵みと憐れみのうちに留め置かれたのでしょう? それは、私たちには分かりませんし、他の誰にも分かりません。ただ神さまだけがご存知です。『救われるに値しない者たちが、けれどなお神の憐れみによって救われる』、これが信仰の要点です。要点が分からなくなれば、ほか何もかもがすっかり分からなくなります。自分の努力と甲斐性とで救われた。自分の誠実さと責任感と大きな良い働きとで救われた。つまりは自分で自分を救ってきた、などと思いこみます。その途端に、だれでも、自分の思いのままに振舞おうとする王さまになり、利口ぶった偉そうな正しい評論家のつもりになり、まわりの家族や友人たちや仲間たちに対し、情け容赦のない審査委員や裁判官のつもりで振舞いはじめます。だからこそ、うぬぼれ屋で自分のことを少しも知らないあの彼は、「みんなの者がつまずいても私だけはつまずきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどと決して申しません」29,31節)と大見得を切り、そのほんの数時間後に涙を流して逃げ出してゆくあまりに脆く不甲斐ない自分自身だとつくづく知る必要がありました。しかも「そんなダメな私をさえ神さまは決して見放すことも見捨てることもなさらない」と。自分を吟味し、弁え知るべき自分と神とは、このことです。ペテロもユダも私たち全員も含めて。恵みに値しない罪人である私をさえ、神は憐れみ、迎え入れてくださる。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う憐れみの取り扱いを、あなたのためにも、し続けていると。

しかも、喉元過ぐれば熱さを忘るる。それで、弟子たち全員に、一人残らず、ちゃんと分かってもらおうとして、主イエスはあの食事を用意してくださいました。ここにいるこの私たちのためにも。ここに用意されているパンと杯は主イエスの最後の晩餐を再現し、主の十字架の死をわたしたちの体と魂に深々と刻みつけます。主イエスは仰いました、「取れ。これはわたしの体である。これは、多くの人のため、そしてあなたのためにさえ流す私の契約の血である」(26-28)。主イエスの弟子であることの第一の心得は、なにしろ主イエスにこそ従うことです。「取れ」と命令されているので、だから命令されているとおりに、パンと杯を手に取り、食べて飲みほします。「どうしよう。やはり今日は止めておこうか、なんとなく気が進まないし」などと言っている場合ではありません。自分の好き嫌いや気分の問題ではありません。もし、主の命令に従おうとせず、「私のやり方は。私の気持ちは。私の立場と面子は」などといつまでも言い張りつづけるのなら、それは不信仰です。主をあなどり、主に逆らっています。「せよ」と命じられたことをし、「してはならない」と禁じられたことをしないでおく。だから、それで、その人は主の弟子でありつづけます。こちらが主人やボスではなく、主イエスこそが唯一の絶対的な主人であり、ボスであるからです。しかも私たちは、そのパンと杯のうちに、自分たちを『神のもの』とさせる根源の生命を見出します。「ただの儀式じゃないか。形だけのことだろう」と多くの者たちが言うとしても、主イエスの弟子である私たちはこのパンと杯を重んじます。「わたしは、あなたの罪を贖うために十字架を負ったのだ」。この言葉が聖餐式の中に込められます。小さな杯に注がれた赤い飲み物と、小さなひと切れのパン。それが自分の手元にまで差し出されるとき、十字架のゆるしが確実にこの自分にまで差し出され、届けられた。そのことを、確信してよいのです。パンをちぎり分けながら、主イエスは「こうやってわたしの体も、十字架の上でちぎり分けられる。誰かから無理矢理にではなく、自分で自分の体をあなたに手渡す。だから取って食べなさい。このようにわたしもわたしの体をあなたを救うために与える」「この杯の赤い飲み物のように、十字架の上で私の血も流される。あなたと神さまとの新しい契約として、わたしの命をあなたに与える。こうやって、わたしはあなたの救いを保証する。このわたしが太鼓判を押す」と。主イエスが十字架にかかって殺されてしまうその前の晩の食事です。しかも主イエスは、「わたしはぜひ十字架にかかって殺されたい」と心から願ってくださった。弟子たちといっしょにその食事をぜひにと願った主は、同じくまったく、『わたしたちを救うためにご自分で苦しみを受け、生命を奪われる』ことをも心から願っておられました。ぜひ、わたしはそうしたいと。このあと歌います讃美歌204番は救いの恵みを高らかに歌っています。ぼくもこの歌を歌う度毎に、本当にそうだなあと嬉しくなります。歌の2節、「私たちが驚いたり、たいしたものだ素晴らしいと感心したり、大喜びしたり誉めたりする偉大な出来事や事業は、世の中に数多くあるだろう。けれども神の子ご自身が生命を贈り与えてくださった愛には遠く及ばない。それに比べれば、どんなに偉大な働きも業績もごたいそうな肩書きも物の数ではない」。3節、「宴」は宴会ですけど、とても質素な食事です。パンとぶどうの実で作った飲み物。つまり聖晩餐の食卓です。「尊い主イエスは宴会を開いて私たちをその食卓に迎え入れ、生命のもとである本当の食べ物、飲み物を分け与えてくださる。それは、主イエスの体であり血潮だ」。そして4節、「ここには薄暗い人間的な律法の陰さえ、すっかり消え果てている」。「薄暗い律法」、その正体がなんなのか、もう分かりますね。「神を心から愛し、尊び、隣人を自分のように愛しなさい」と命じた神さまの律法が薄暗いはずはない。そうではなく、様々な掟や約束事やルール、しきたり、風習を作って、互いをガンジガラメに縛っていたのは、もっぱらただただ私たち人間でした。人間による、人間のための、人間のものであるしきたりや一般常識やルール。「ここには薄暗い世間様や人様のしきたりや社交辞令の陰さえ、すっかり消え果てている」と気づき、上座も下座も大先生やおエライ方々と下々の者などという格式も、生臭く安っぽい区別もポイと捨て去られて、神さまの恵みと真理のもとに足を踏みしめて立つためにこそ、聖晩餐のパンと杯があり、1回の礼拝が、1人1冊ずつの聖書が、神さまを讚美する格別な歌の1曲1曲が、祈りが、また共に1つの願いを祈る信仰の友が傍らに座っています。