2017年9月6日水曜日

9/3「取れ。これは私の体である」マルコ14:22-31

 ◎としなしの祈り

できないことは何一つない神さま。この世のことと自分自身の生活にだけ囚われてしまいやすい私たちです。聖書が証言するとおり、「もし私たちがこの世の生活の中でだけ、そこで朽ち果ててしまうほかない虚しいものに望みをかけているだけだとすれば、この私たちはすべての人の中で最も憐れむべき惨めな者」(コリント手紙(1)15:19参照)となってしまいます。あなたからの招き受け、あなたにこそ仕えて生きることをはじめた自分たちであることを忘れてしまわないように、あなたが生きて働いておられますことを覚えつづけて生きるように、どうか神さま、絶えず私たちの目を覚まさせてください。人間中心・自分中心のあり方から離れ去り、あなたへと私たちを向かわせ、心と思いを尽くしてあなたに仕えて生きる私たちとならせてください。どうか今日こそ、あなたの御心を心から尊び、御心に従って生きることを願い求め、隣り人を自分自身のように愛する私たちとならせてください。日本で暮らす外国人を憎んだり排除しようとする人々の在り方や活動に対しても、私たちは責任があります。安く利用され、使い捨てにさせられつづける人々の貧しく惨めな暮らしに対しても、米軍基地を無理矢理に押し付けられている沖縄の同胞たちに対しても、私たちには果たすべき大きな責任があります。貧しく心細く暮らす子供たちとその家族に対して、年老いた人々に対しても、若者たちに対しても。また、様々な障害を負って暮らす人々に対してもてを差し伸べ、寄り添って生きる良い隣人でありたいのです。
  主なる神さま。人間の力にではなく、あなたご自身の力に信頼し、人間の賢さにではなく、あなたご自身の知恵と賢さに聞き従って、そのように御心にかなって生きることを願い求める私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




                           みことば/2017,9,3(主日礼拝)  127
◎礼拝説教 マルコ福音書14:22-31                 日本キリスト教会 上田教会
『取れ。わたしの体である』
       ~聖晩餐の意味と中身~ 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。23 また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。24 イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。25 あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。26 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。27 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。29 するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。・・・・・・31 ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。   (マルコ福音書 14:22-31)
                                               


 私たちと先祖は400年もの長い間、エジプトの国で奴隷にされました。奴隷とは、まるで人間ではないモノや道具のように使い捨てにされ、踏みつけられ、ないがしろに扱われつづける人々のことです。今日でも、おびただしい数の人々が踏みつけにされつづけて、呻き苦しんでいます。世界中で、またこの日本でも。日本人も外国人も子供も若者も年寄りたりも様々な障害を負う人々も。主なる神さまは、その私たちの苦しみをつぶさに見、追い使う者のために泣き叫ぶ私たちの叫び声を聞き、私たちの痛みを自分自身の痛みのようにつくづくと知りました。私たちを可哀そうに思って、先祖と私たちをエジプトの奴隷の家から連れ出してくださいました。これが、先祖と私たちの大切な出発点です。2枚の石の板に刻まれた10の戒めを授けられ、「神を心から愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」と命じられた(出エジプト記20:2-17)のも、神さまが私たちを奴隷の家エジプトの国から連れ出してくださったことをよくよく覚えているためにです。連れ出されたはずの奴隷の家に、罪の奴隷状態へと何度も何度も繰り返し引き戻され、閉じ込められてしまいやすい私たちからです。過越の祭は、エジプトから連れ出されたその最後の夜の出来事を再現して味わう礼拝です。その祭りを祝いつづけるのも、神さまが私たちをエジプトから連れ出してくださった神であり、その神によって救い出された私たちであることを、よくよく覚えているためにです。
  ちょうどその過越の祭の時期に、その時をめがけピタリと狙いすまして、主イエスが十字架につけられて命を差し出してくださったのは、この祭りに、神ご自身の手で新しい大きな意味を付け加えるためでした。かつて小羊の血によって災いが過ぎ越していったように、いま私たちは、救い主イエスの十字架の死と復活によって奴隷の家から救い出された。救い出されつづける、と。主イエスの死と復活による救いの御業を、世々のキリスト教会は『第二の過越し』として喜び祝い、心に刻みつけてきました。それが、聖晩餐を祝う意味と中身です。けれど私たち人間はとても忘れっぽかったのです。「喉元過ぐれば熱さを忘るる」と昔の人が言ったように。苦しかったことも辛かったことも、それだけではなく嬉しかったことも深く感謝したことも、決して忘れてはならないはずの大切なことも、なんでもかんでも、喉元を過ぎてしまえば忘れてしまう。けれど、この主イエスの十字架の死と復活だけは、どうしても、よくよく覚え続ける必要がありました。どうしたらいいでしょう? 喉元を過ぎてしまえば、忘れてしまう。それなら、私たちの喉元に、それがたびたび繰り返して留まってあるようにしたら。そうすれば、とても迂闊で心の鈍い私たちであっても、骨身にしみて覚えていることができるかも知れない。神さまへの感謝と信頼とを魂に刻みつづけて生きることができるかも知れない。主イエスはご自分が十字架の上で肉を引き裂かれ、血を流しつくしたことを、ご自分の弟子たちがいつもちゃんと覚えていることができるようにしておきたいと願いました。過越の食事とその祭りによって、イスラエルの民がエジプトでの最後の夜を覚えつづけたように、パンと杯の食事によって十字架の出来事を再現し、繰り返し味わいつづけるように。食事の席で、主はパンを取り、感謝の祈りを唱え、手に持ったパンを裂き、弟子たちに与えて仰いました。「取れ。これはわたしの体である」。杯を掲げ、感謝の祈りを唱えて、主イエスはその杯を手渡してくださいました。「これは、多くの人のため、そしてあなたのためにさえ流す私の契約の血である」(マルコ14:22-24)。それが、いま目の前に用意されているこのパンと杯の食事です。
 25節をご覧ください。「あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。その、ごくごく質素なつつましい食事は、やがて神の国でなされるお祝いパーティの先取りです。ぶどうの実から作ったものを、今、こうして弟子たちと共に飲んでいる。やがて、天の御父の国で主イエスとその弟子たちは共に新たに飲むことになる。必ず、そうなる。「やがて」と願ってくださった主イエスは、『今、弟子たちと飲み、祝う』ことをも心から願い求めてくださいました。そのときそこでの食事を願った主は、そのパンと杯が指し示すご自分の苦しみと、はずかしめられ嘲られて惨めに死ぬことをも、同じく心から願い求めてくださいました。ゲッセマネの園で「この苦い杯を過ぎ去らせてください」と祈られたとき、十字架の苦しみと死という杯の苦さは、掛け値なく、まったく真実でした。しかもなお、そのご自身の苦しみと死を、主イエスは心から願い求めてもおられたのです。この私たち罪人の救いのために、恵みに値しない、まったくふさわしくないこの私たちのためにも、苦い苦い杯を飲み干そう。ぜひともそうしたいと。
 どうして、十字架にかかって殺されなければならなかったのでしょう。神さまの救いの計画のためです。恵みに値しない、まったくふさわしくない罪人をけれども憐れんで、ゆるして救う。けれど弟子たちは何だかあまりピンときません。いつまでも他人事のようで、その、いわゆる『罪人たち』の中に、この自分自身も入っていることが分からなかった。「罪人? それは誰が、別の人たちのことを言っているんだろう」などと思っていました。この直前17-21節、食事の途中で、ユダはいつのまにかこっそりと席を離れて抜け出していきました。「特にあなたがたに言っておくが。あなたがたのなかの1人で、私と一緒に食事をしているものが私を裏切ろうとしている」(18)と主イエスが仰った。その場に居た誰もかれもが心を痛めて、「まさか私?」「私のことでしょうか」「お前だろう」「いいや、お前こそ」などと口々に言い出し、やがてユダが気まずそうに立ち去っていきました。皆はほっと安心して、「ああ良かった。やっぱりあいつだったのか」などと胸を撫で下ろしました。「なあんだ、ユダのことだったのか」と彼らが安心したちょうどそのとき、災いが過越していっただけでなく、そうやって神さまからの恵みも、その人たちの前をス~ッと通り過ぎていきました。あまりに気前の良い神さまでありつづけます。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される神(ヨナ4:2,出エジプト記34:6,86:5,15,ヨエル2:13-14,民数記14:18,ミカ7:18,エレミヤ26:13)。恵みと憐れみとを現にたしかに受け取り、ゆるされつづけてきた。それは他の誰のことでもなく、この私たち自身のことでした。ユダと他の弟子たちとは、またここにいる私たちもまた、ほぼ同罪です。同じくつまずき、同じく心を惑わせ、主イエスを見捨てて散り散りに逃げ去り、同じように何度も何度も主に逆らいつづけています。ユダとなんの変りもない、50100歩の私たちです。ユダも私たちも思っていました。「罪人を憐れんでゆるし、恵みに値しない者を救う? 誰か他の人たちのことだろう」と。だから、エルサレムの都に来る旅の途中で、「わたしは罪人を救うために十字架にかけられて殺されて、墓に葬られて、その3日目に復活しなければならない」(マタイ16:21-28,17:22-23,20:17-19)と主イエスが何度も何度も仰っていましたけれど、正直言って、あまりピンと来ませんでした。主イエスの弟子たちよ。自分の正しさとふさわしさをついつい言い張りたくなりやすい私たちです。自分の腹の虫と人様の顔色ばかりを窺いたくなりなりやすい私たちです。なぜユダが滅ぼされ、なぜ私たちが恵みと憐れみのうちに留め置かれたのでしょう? それは、私たちには分かりませんし、他の誰にも分かりません。ただ神さまだけがご存知です。『救われるに値しない者たちが、けれどなお神の憐れみによって救われる』、これが信仰の要点です。要点が分からなくなれば、ほか何もかもがすっかり分からなくなります。自分の努力と甲斐性とで救われた。自分の誠実さと責任感と大きな良い働きとで救われた。つまりは自分で自分を救ってきた、などと思いこみます。その途端に、だれでも、自分の思いのままに振舞おうとする王さまになり、利口ぶった偉そうな正しい評論家のつもりになり、まわりの家族や友人たちや仲間たちに対し、情け容赦のない審査委員や裁判官のつもりで振舞いはじめます。だからこそ、うぬぼれ屋で自分のことを少しも知らないあの彼は、「みんなの者がつまずいても私だけはつまずきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどと決して申しません」29,31節)と大見得を切り、そのほんの数時間後に涙を流して逃げ出してゆくあまりに脆く不甲斐ない自分自身だとつくづく知る必要がありました。しかも「そんなダメな私をさえ神さまは決して見放すことも見捨てることもなさらない」と。自分を吟味し、弁え知るべき自分と神とは、このことです。ペテロもユダも私たち全員も含めて。恵みに値しない罪人である私をさえ、神は憐れみ、迎え入れてくださる。ユダとまったく同じなんだけれども、しかしユダとは違う憐れみの取り扱いを、あなたのためにも、し続けていると。

しかも、喉元過ぐれば熱さを忘るる。それで、弟子たち全員に、一人残らず、ちゃんと分かってもらおうとして、主イエスはあの食事を用意してくださいました。ここにいるこの私たちのためにも。ここに用意されているパンと杯は主イエスの最後の晩餐を再現し、主の十字架の死をわたしたちの体と魂に深々と刻みつけます。主イエスは仰いました、「取れ。これはわたしの体である。これは、多くの人のため、そしてあなたのためにさえ流す私の契約の血である」(26-28)。主イエスの弟子であることの第一の心得は、なにしろ主イエスにこそ従うことです。「取れ」と命令されているので、だから命令されているとおりに、パンと杯を手に取り、食べて飲みほします。「どうしよう。やはり今日は止めておこうか、なんとなく気が進まないし」などと言っている場合ではありません。自分の好き嫌いや気分の問題ではありません。もし、主の命令に従おうとせず、「私のやり方は。私の気持ちは。私の立場と面子は」などといつまでも言い張りつづけるのなら、それは不信仰です。主をあなどり、主に逆らっています。「せよ」と命じられたことをし、「してはならない」と禁じられたことをしないでおく。だから、それで、その人は主の弟子でありつづけます。こちらが主人やボスではなく、主イエスこそが唯一の絶対的な主人であり、ボスであるからです。しかも私たちは、そのパンと杯のうちに、自分たちを『神のもの』とさせる根源の生命を見出します。「ただの儀式じゃないか。形だけのことだろう」と多くの者たちが言うとしても、主イエスの弟子である私たちはこのパンと杯を重んじます。「わたしは、あなたの罪を贖うために十字架を負ったのだ」。この言葉が聖餐式の中に込められます。小さな杯に注がれた赤い飲み物と、小さなひと切れのパン。それが自分の手元にまで差し出されるとき、十字架のゆるしが確実にこの自分にまで差し出され、届けられた。そのことを、確信してよいのです。パンをちぎり分けながら、主イエスは「こうやってわたしの体も、十字架の上でちぎり分けられる。誰かから無理矢理にではなく、自分で自分の体をあなたに手渡す。だから取って食べなさい。このようにわたしもわたしの体をあなたを救うために与える」「この杯の赤い飲み物のように、十字架の上で私の血も流される。あなたと神さまとの新しい契約として、わたしの命をあなたに与える。こうやって、わたしはあなたの救いを保証する。このわたしが太鼓判を押す」と。主イエスが十字架にかかって殺されてしまうその前の晩の食事です。しかも主イエスは、「わたしはぜひ十字架にかかって殺されたい」と心から願ってくださった。弟子たちといっしょにその食事をぜひにと願った主は、同じくまったく、『わたしたちを救うためにご自分で苦しみを受け、生命を奪われる』ことをも心から願っておられました。ぜひ、わたしはそうしたいと。このあと歌います讃美歌204番は救いの恵みを高らかに歌っています。ぼくもこの歌を歌う度毎に、本当にそうだなあと嬉しくなります。歌の2節、「私たちが驚いたり、たいしたものだ素晴らしいと感心したり、大喜びしたり誉めたりする偉大な出来事や事業は、世の中に数多くあるだろう。けれども神の子ご自身が生命を贈り与えてくださった愛には遠く及ばない。それに比べれば、どんなに偉大な働きも業績もごたいそうな肩書きも物の数ではない」。3節、「宴」は宴会ですけど、とても質素な食事です。パンとぶどうの実で作った飲み物。つまり聖晩餐の食卓です。「尊い主イエスは宴会を開いて私たちをその食卓に迎え入れ、生命のもとである本当の食べ物、飲み物を分け与えてくださる。それは、主イエスの体であり血潮だ」。そして4節、「ここには薄暗い人間的な律法の陰さえ、すっかり消え果てている」。「薄暗い律法」、その正体がなんなのか、もう分かりますね。「神を心から愛し、尊び、隣人を自分のように愛しなさい」と命じた神さまの律法が薄暗いはずはない。そうではなく、様々な掟や約束事やルール、しきたり、風習を作って、互いをガンジガラメに縛っていたのは、もっぱらただただ私たち人間でした。人間による、人間のための、人間のものであるしきたりや一般常識やルール。「ここには薄暗い世間様や人様のしきたりや社交辞令の陰さえ、すっかり消え果てている」と気づき、上座も下座も大先生やおエライ方々と下々の者などという格式も、生臭く安っぽい区別もポイと捨て去られて、神さまの恵みと真理のもとに足を踏みしめて立つためにこそ、聖晩餐のパンと杯があり、1回の礼拝が、1人1冊ずつの聖書が、神さまを讚美する格別な歌の1曲1曲が、祈りが、また共に1つの願いを祈る信仰の友が傍らに座っています。