2020年10月26日月曜日

10/25「私には責任はない?」使徒20:25-28

 10/25 こども説教 使徒行伝20:25-28

 『私には責任はない?』

 

20:25 わたしはいま信じている、あなたがたの間を歩き回って御国を 宣べ伝えたこのわたしの顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。26 だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。27 神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。28 どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。

(使徒行伝20:25-28

 

 エペソの町のキリスト教会からわざわざ会いに来てもらった長老たちを前にして、主イエスの弟子は語りつづけています。エルサレムの都で牢獄に閉じ込められ、とてもきびしく苦しい扱いを受けることを神さまからあらかじめ知らされていました。牢獄に閉じ込められたままになるかも知れないし、もしかしたら生きて出てこられないかも知れないと覚悟もしています。26-27節で、「わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである」。このパウロも含めて、すべての伝道者の働きは『神のみ旨を人々に伝えること』です。どういう神であり、どういう救いと恵みであり、神を信じる人々がどのように生きることができかということです。神から「しなさい。伝えなさい」と命じられたことを精一杯に行い、また伝えてきました。神の御心にかなうことをと願って働いてきました。だから、「わたしには何の責任もない」と、きっぱり言い切っています。え? ちょっと無責任すぎるような、乱暴で、いいかげんのようにも聞こえるかも知れません。けれど、この考え方がふさわしいと思えます。では、だれに責任があるのか。なぜなら、神さまにすべての責任を負っていただいているし、神さまにすべてをお任せしているし、神さまにこそ従って生きているということです。なんと晴れ晴れした生き方でしょうか。そのうえで、キリスト教会の上に役割を与えられ、神によって務めに立てられたあなたがたも、自分自身と群れの人々によくよく気を配って働きなさいと励ましています。どのように気を配るのか。神に忠実に聞き従い、よくよく信頼し、神にすべてを任せて生きるようにとです。

10/25「からし種とパン種」ルカ13:18-21

           みことば/2020,10,25(主日礼拝)  290

◎礼拝説教 ルカ福音書 13:18-21              日本キリスト教会 上田教会

『からし種とパン種』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

13:18 そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。19 一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。20 また言われた、「神の国を何にたとえようか。21 パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。     (ルカ福音書 13:18-21)

                                               

8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。(ローマ手紙8:2-13)


 これら2つのたとえ話によって、救い主イエスはご自身の弟子たちをなんとかして励まし、勇気づけようとしておられます。とくに、神の国の福音の伝道がはじまり、それが根付いて広がってゆく最初の頃には、手間がかかり骨の折れる、悩んで頭を抱えてしまうような厄介な問題が次々に起こります。主イエスの弟子たちは疲れ果てて、心が挫けてしまいそうにもなるでしょう。また、この信仰を信じていない他の人々は、神の国の福音を侮ったり、毛嫌いしたり、あざけり笑ったりもするかも知れません。しかも、その福音を宣べ伝える者たちは、社会や周囲の人々からの評判が格別によいわけでもなく、高い地位についているわけでもなく、とても尊敬されている学者や名士などでもなく、どこにでもいるようなごく普通の人々です。むしろ、そのような無力で弱々しく貧しい人々をわざわざ神が選んだと聖書は告げます;「この世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選び、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。……あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられた。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである」(1コリント手紙1:26-31。神をこそ誇って、神を頼りとし、主に従ってゆく働きを心安く担うためには、あの彼らにも私たちにも、主ご自身からの励ましと支えがなおまだ必要でありつづけます。

 まず18-19節、「そこで言われた、『神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる』」。神の国の福音の種が蒔かれます。それはとても小さな種で、ある研究者は当時のそのからし種の大きさは0.5ミリ程度だったらしいと言います。種をまかれた土地であるその人にとっても、その大切な種は、あるかないか分からないほどの、目にも見えにくい、小さな小さな一粒の種でした。その小さな一粒の種はあまりに弱々しく、助けも支えもなく、無力で、その貧しい土地に根付いて生きるようになるとはとうてい思えないほどでした。その種のために土台を作り、種に最初の生命を吹き込んだお独りの方は、この世界ではあまりに貧しい者でした。十字架の上で、極悪人の犯罪者の一人として処刑されて命を奪われました。救い主イエス・キリストです。彼を信じる最初の信者たちは、彼が十字架の上で殺されたとき、おそらく1000人にも満たないほどのごく少数の群れでした。神の国の福音を宣べ伝える最初の伝道者たちは、ほんの数人の漁師たちや取税人たちで、そのほとんどは無学で、あまりに何も知らない人々でした。その最初の出発点は、広大で強い権力を誇るローマ帝国の片隅の、ごく小さな貧しい植民地でした。その最初の教えは今日でも同じく変わらず、『犯罪者として死刑にされ、墓に葬られた罪人を、神が死人の中からその三日目によみがえらせた。あらかじめ約束されていたとおりに、その方を世界のための主、また救い主(キリスト)となさった』(使徒2:29-38参照)という教えです。その教えは、ごく普通の大勢の人々の心に、あざけりや敵意や憎しみを呼び起こしました。救い主イエス・キリストが十字架につけられて殺され、復活なさったことは、しるしを求めるユダヤ人たちにとっては理解することも受け入れることもできない「つまずきの石」となりました。賢さや知恵を求めるギリシャ人にはあまりにバカバカしい愚かなことでした。世間からの最初の反応は、周囲のあらゆる人々からの迫害でした。パリサイ派もサドカイ派も含めたすべてのユダヤ人、ギリシャ人、さまざまな神を信じる人たちも、あるいは自分を哲学者だと自認する人たちも、皆こぞってキリスト教信仰とクリスチャンたちを憎み、反対し、押し退けて排除しました。しかも、広大で強い権力を誇るローマ帝国がこの信仰を信じることを厳しく禁じました。多くのクリスチャンたち、伝道者たちが、この信仰のために殺されつづけました。

 けれども、福音の種がひとたび地に蒔かれたあと、その前進と成長は力強く、着々と進んでいきました。からし種のような種は、あるかないか分からないほどの小さな一粒の種でしたけれど、やがて「育って大きな木となり、空の鳥もその枝に宿るように」なりつづけました。きびしい迫害があり、反対する人々があり、たくさんの暴力沙汰もあり、それでもなおキリスト教信仰はだんだんと世界中に広がり、数を増していきました。神の国を宣べ伝える伝道者たちが次々に生み出され、働きを終えて去っていった者たちのその働きの場所を引き継ぎつづけました。救い主イエスの死と復活から数百年たって、小さなナザレ村から出てきた1つの信仰は、ユダヤ人の中でも、また世界中でも多くの人々が信じる信仰となっていきました。育って、やがて大きな木となり、空の鳥もその枝に宿るようになりつづけます。

 このたとえ話を聴かされた私たちは、救い主イエスのためになされるどんな小さな貧しい働きも決して侮ってはなりません。なぜなら、それらの働きのすべては、いつも、弱々しく小さかったからです。最初の頃にはつまらない働きに思え、何の役にも立たないかのように見えるかも知れません。この譬え話を思い起こして、勇気を出しましょう。また、謙遜な慎み深い思いを取り戻しましょう。その一人の働き人に十分に信頼を寄せましょう。なぜなら、その手の中にある福音の種のひと粒ひと粒は生きており、種の中に神ご自身の真実を宿しているからです。

 

 もう一つの譬え話です。20-21節、「また言われた、『神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる』」。パン種のたとえは、神を信じて生きる一人のクリスチャンの心の中にある福音がどのように成長してゆくのかを教えようとしています。神に背く一人の罪人の中に神の恵みの働きが起こり、その働きの最初のはじまりはごく小さなものです。ちょうど、ひとかたまりの練り粉の中のパン種のようにです。

例えばそのわずかなパン種は、その日に聴いた礼拝説教の中のほんの一言です。あるいは耳に入った聖書の一節、そのほんの短い言葉のかたまりです。誰かから受け取った小さな思いやり深い労わりや、ちょっとした配慮、何気ない気遣いです。こうしたささいな出来事の中のいくつかは、しばしば、その人の霊的な生活が始まってゆく大切な出発点となります。あるとき不意に私たちは気づきます、「どうして、あんなひどいことをしてしまったのか。私はなんて自己中心な人間なのか。他人を思いやることも少なく、自分の満足ばかりを求め、自分のちっぽけなプライドばかりを満たそうとする。『自分を捨てて主に従いなさい』と命じられ、それをよくよく習い覚えてきたはずなのに」と。神の御心に従って生きようとする、その霊的な生活にとって、最初のきっかけはごく小さくささやかなものです。あるとき、とても真剣な思いがその人の心に湧き起り、チクリとその人の胸を突き刺すことがあります。例えば、「ただ形どおりの祈りではなく、心底から、本気になって神さまに向かって祈ってみたい」とか、「聖書を独りで、自分自身のために読み始めてみよう」とか。私たちを取り囲んでいるいくつもの恵みの手段に関心を寄せて、それに近づいていきたいと願ったり、ずっと生涯にわたって抱え持ってきた悪い習慣や悪い仲間たちとの付き合いがだんだんと嫌になって、それから離れたいと願い始めたり。――それらのことは、しばしば神の恵みの最初の小さな兆しとなり、その人の魂を揺さぶり動かし始めます。世間のほとんどの人々はそういうことに少しも気づかないとしても、それでもなお、それらの兆しはしばしば悔い改めの力強い実が結ばれてゆくための最初の出発点になります。それらは、私たちの心の練り粉の中で膨らんでいく神の恵みのパン種です。

 その人の魂の中で始まった神の恵みの働きは、いったん動き始めてしまえば、もう二度と決して立ち止まりません。だんだんと、少しずつ、練り粉全体が膨らんで、すっかり全部がパン種になります。パン種が練り粉に混ぜ入れられたならば、練り粉と別々のままではいられません。少しずつ少しずつ、パン種はその人のモノの考え方や、思いやりや、心の動き、その人の意志に影響を与え、その人の心と体の全体がパン種の力に深く影響され、そのようにして神へと向かう悔い改めが始まります。ある人の場合は、他の人たちよりその進み具合がとても速いこともありえます。別の時には、そのパン種の働きの結果はとてもはっきりと、決定的に表れることもあるでしょう。けれど聖霊なる神さまの働きがその人の心の中で始まってしまったならば、その人のすべての性格は、遅かれ早かれ、パン種のようになり、変えられてゆきます。聖書は証言します、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント手紙5:17

 このパン種のたとえを学んだ私たちは、神を信じて生きることにおいて『小さなことが起こる日』に、それを決して軽んじてはなりません(ゼカリヤ書4:10。私たちの魂は、歩きはじめる前にまずハイハイをし、走り始める前に、まず危うげにヨチヨチと歩くのです。もし私たちが、1人の兄弟姉妹の中に神の恵みのなにかの兆しを見つけたならば、たとえそれが弱々しく小さな兆しであるとしても、神さまに感謝をしようではありませんか。そして、希望にあふれて見守っていましょう。恵みのパン種は、ひとたび誰かの魂に植えこまれたならば、きっと必ずその人の練り粉全体を膨らませるのです。聖書は証言します、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」(ピリピ手紙1:6からです。

 では、私たち自身についてはどうでしょうか? 私たちの魂の中に、恵みのパン種が混ぜ入れられ、その働きはすでに始まっています。膨らみはじめ、練り粉全体を良いものへとだんだんと作り変えていきます。私たちの魂の中で起こっている、神の恵みのパン種の働き。たとえ目に見えなくても、私たちの主なる神は生きて働いておられます。その恵みの働きは立ち止まることなく、少しずつ勢いを増し、数を増やし、ついに私たちの練り粉全体を膨らませるのです。

 

 

         ≪いのり≫

         主イエス・キリストの父なる神さま。神がわたしたちの味方であってくださいますことを知らされています。自身の御子をさえ私たちすべての者のために死に渡されたかたが、御子だけではなく、必要なすべて一切のものを必ず贈り与えてくださいます。

         それなのにどうしたわけか、心細く貧しく暮らすものたちが世界にあふれています。私たちもそうです。さまざまな差別や、他の人々を憎む自分中心の思いが多くの人々の心を曇らせ、狭くさせています。とても自分勝手で思いやりのない世界に私たちは暮らしています。そして私たち自身が自分勝手で思いやりのないものたちです。「恵みに価しない罪人が、けれど神のあわれみを受けて、ただ恵みによって救われる」ことを、御子イエス・キリストによってこそよく分かり、そこにすべての信頼と希望を寄せ、そこですっかり満ち足りていることができるように、私たちの信仰を堅く守りつづけてください。

         主イエスのお名前によって祈ります。     アーメン

2020年10月19日月曜日

10/18「神の国」ルカ13:10-17

            みことば/2020,10,18(主日礼拝)  289

◎礼拝説教 ルカ福音書 13:10-17               日本キリスト教会 上田教会

『神の国』


牧師 金田聖治
(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp) 

13:10 安息日に、ある会堂で教えておられると、11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。17 こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。   (ルカ福音書 13:10-17)  

4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。4:11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。          (ヘブル手紙4:7-11)

 まず10-14節、「安息日に、ある会堂で教えておられると、そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。イエスはこの女を見て、呼びよせ、『女よ、あなたの病気はなおった』と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、『働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない』」。ある会堂で安息日に、救い主イエスは独りの女性と出会いました。その人は18年もの間、病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことが全くできずに暮らしていました。この女性について、私たちはほとんど何も知りません。生まれ育ちも、名前も、どういう暮らしをしているのかも何も分かりません。けれど主イエスは、ただ、「この女性はアブラハムの娘である」とおっしゃいます。神を信じて、神の憐みのもとに生きてきた者の一人だ、ということです。主イエスが神の国の福音を告げ知らせていたとき、その女性もまたその会堂にいました。神への礼拝に集うためにです。体をまったく伸ばすことができず、小さく屈みこんだままで、ずっと朝も昼も晩も暮らしていくなど、とても苦しく辛いことでしょう。あまりに厳しいその困難や病いでさえ、神の家の礼拝に集うことを妨げるための理由にはなりません。困難と苦しみにもかかわらず、それだからこそなおさら神の安息日と神の御言葉をほめたたえ、神の民とされた人々がいっしょに集う場所に集いたいと心から願い、そのための手段と道筋をその女性は見つけ出しました。彼女は神の祝福を受け取りました。これまで味わってきた大きな苦しみの、その何倍もの祝福を。

 なぜ、その一人の女性は、その一回の礼拝に集っていたのか。自分にも向けられていた神の招きを聞き分けて、その招きにぜひ応えたいとその人は願ったからです。「求めなさい。捜しなさい。門を叩きなさい」という神からの招きを私たちも聞きつづけてきました。この女性もそうです。「あなたは求めなさい」と命じられて、神の祝福を求め続けました。「捜しなさい。門を叩きなさい」と促されて、神を捜し、その神の家の門を叩いて、中に入れてもらいました。そのようにして、真実な神と出会い、神さまからの祝福と恵みをついにとうとう受け取りました。

 けれども、この女性のように神からの祝福を受け取ることのできる人は、実は、ほんのわずかしかいません。なぜなら、この世の思いや肉の欲望は神の御心に逆らい、神を二の次三の次へと押し退けつづけるからです。しなければならないいくつもの仕事や用事や約束事に心を紛れさせて、多くの人々は、神を思うときがほんの僅かもないからです。けれど、一人の罪人の心が神へと向け返されるとき、その魂が神へと連れ戻されるとき、礼拝に集うことを困難にしていた様々な不都合や、別のいくつもの大事な用件は、どうしたわけか消えてなくなっています。神へと向かうその新しい心は、安息日を聖いものとすることに何の差しさわりもなかったことに気づきます。不思議なことです。

 「イエスはこの女を見て、呼びよせ、『女よ、あなたの病気はなおった』と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた」。この1つの奇跡は、罪にむしばまれた数多くの魂に希望と慰めを与えるために、わざわざ安息日に、人々の見ている前でなされました。かたくなに、とても頑固になってしまっている心を柔らかくすることが、救い主イエスにはできるのです。救い主イエスが共におられるところでは、できないことなど何一つもないからです。ですから私たち自身と大切な家族の救いを、私たちは決して諦めてはなりません。たとえ私たちの罪が数限りなくあっても、罪に罪を重ねつづけてきたとしてもです。私たちが生涯の多くの時間をこの世の愚かさの中で、虚しく浪費しつづけてきたとしてもです。けれどもし、救い主イエス・キリストのもとへと向かいたいと願うならば、キリストにこそ仕えて生きていきたいと願うなら、もしそうであるなら、そこに、なおまだ確かな希望があります。救い主イエスは、この私たちを、十分にすっかり癒すことがおできになります。もし、私たちが大切な誰かの救いを心から願っているとするなら、その人が生きている限り、その切なる願いを決して諦めてしまってはなりません。主イエスの御前で、その人の名前を申し上げて昼も夜も祈り、彼らのために、また自分自身のためにも、主イエスに祈り求めることができます。「神を敬う正しい在り方はどういうものですか」と問いかけ、宗教改革期の信仰問答はこう説き明かします、「すべての信頼を神に置くこと。その御意志に服従して、神に仕えまつること、どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです」(『ジュネーブ信仰問答』問7 J.カルヴァン)

 あの女性が癒されて幸いを得たことに会堂司が腹を立てて、ののしったとき、救い主イエスが彼をきびしく叱りつけました。15-16節、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。『安息日に何の仕事もしてはならない』と教える神の律法は、もちろん必要な働きや、人を愛し、慈しむための働きを禁じるものではありません。安息日は人に神をほめたたえさせ、神に感謝をささげさせ、人々が神の憐みの御前に幸いであることを目指しています。人を殺すことではなく、生かすことを私たちに要求します。「隣人を愛し、尊ぶ」とは、その隣人をただ嫉んだり憎んだり、怒ったりしないだけではありません。その人に対して忍耐と平和と柔和、憐みと友情を示し、その人に降りかかる災いを力の及ぶかぎり精一杯に防ごうと努力し、願い求めることです(『ハイデルベルグ信仰問答 問答106-107』)。だからこそ、神に信頼して聞き従おうとすることも隣人を自分自身のように愛し、尊ぶことも棚上げして、ただただ腹を立てていたあの会堂司たちは、神の律法と神ご自身をはなはだしく侮っていました。それで、「偽善者たちよ」と厳しく叱られました。

  ここで主イエスは、その女性が「サタンに縛られていた」、「その(サタンの)束縛から解いてやるべきではなかったか」と皆に問いかけます。そのとおりです。あの一人の人は、神の祝福と憐みのもとへと連れ戻される必要がありました。そのための安息日であり、一回の礼拝です。そうであるなら、安息日に成し遂げられた神の勝利と祝福は、残りの6日間にまで及ぶのです。一週間に一日だけが神に祝福された聖なる日であるに留まらず、この一日に率いられて、一週間、7日間すべてが、誰とどこにいて何をしていても、そこでそのようにして神にこそ仕えて生きる私たちとなることができます。

17節、「こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ」。ここでもまた、救い主イエスは「燃え盛る火」を人々の魂の中に投じ、分裂と争いを投じています。一方に自分自身を恥じ入る人々がおり、また他方に、神の働きと恵みを喜び祝う人々がいます。

 分裂や争いはまた、一人の人の内部でも起こります。1人の人の魂の中に、神に従おうと願う自分と、神を侮り、心をますます頑固にさせてゆく自分自身とが分かれ争いつづけるからです。哀れな一人の女性が救われた姿を見て、喜び祝っている自分がおり、他方で、あの会堂司のようにどうしたわけか腹を立てている自分がいます。安息日のとても大切な生命は、憐み深い神ご自身に感謝をし、ますます信頼を寄せ、それゆえ神に聴き従い、神を喜び祝うことにあります。ヘブル人への手紙4:6以下は証言します、「そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」。毎週毎週の安息日は、神への従順と信頼へと帰ってくるための日です。そこで、もし「自分自身の心がいつの間にか、とても頑固に、かたくなになっていた」と気づくことが出来るなら、その人は幸いです。神の安息へと立ち返るようにと、そこで神が招いてくださっているからです。安息日に、そして他すべての日々にも、神の平安と憐みとゆるしが私たち一同にありますように。なぜなら、天の国、あるいは神の国とは、この神の安息が日曜日だけでなく、次の日も次の日も、ずっと永遠に続くことであるからです。主であられます神が生きて働いておられます。そのお働きと真実の中に包み入れられて、私たちの一日一日の営みと歩みがあります。「安息日を覚えて、これを聖としなさい」。なぜならば時が満ち、神の国がますます近づいたからです。この私たちも悔い改めて、自分自身の思いもあり方も神へと向け返して、いよいよ心底から福音を信じて一日、また一日と、どこで何をしていても憐み深い神の御前で生きることができます。ここに、私たちのための格別な幸いと祝福がありつづけます。

 

 


10/18こども説教「何が待ち受けていても」使徒20:17-24

10/18 こども説教 使徒行伝20:17-24

 『何が待ち受けていても』

 

20:17 そこでパウロは、ミレトからエペソに使をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。18 そして、彼のところに寄り集まってきた時、彼らに言った。「わたしが、アジヤの地に足を踏み入れた最初の日以来、いつもあなたがたとどんなふうに過ごしてきたか、よくご存じである。……20 また、あなたがたの益になることは、公衆の前でも、また家々でも、すべてあますところなく話して聞かせ、また教え、21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである。22 今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。23 ただ、聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ。24 しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。

(使徒行伝20:17-24

 

 大急ぎの旅なので、エペソの町に立ち寄ることができませんでした。それで、そこの教会の長老たちを呼び寄せて、彼らを励まします。パウロ自身もその長老たちも、「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」を堅く持ちつづけることと、「神のめぐみの福音をあかしする」という働きを神から贈り与えられているからです。さて、エルサレムの都に急ぐ理由がここではっきりと打ち明けられます。22-24節、「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。ただ、聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ。しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない」。都で牢獄に閉じ込められることも、苦しみにあうことも、神のめぐみの福音をあかしするためです。そういう仕方で役割を果たすようにと、神さまがあのパウロのために決めておられました。その御計画と指図に従って、彼は自分の役割を担って働きます。神の御心に従って生きることが自分自身のための幸いでもあるからです。

2020年10月12日月曜日

10/11「実のならないいちじく」ルカ13:6-9

 みことば/2020,10,11(主日礼拝)           288

◎礼拝説教 ルカ福音書 13:6-9                  日本キリスト教会 上田教会

『実のならないいちじく』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

13:6 それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。7 そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。8 すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。(ルカ福音書 13:6-9)

                                               

3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。  (ローマ手紙 3:19-28)


 救い主イエスは終わりの日の裁きと永遠の御国に入る約束とを思い起こさせながら、人々とご自身の弟子たちに向かって語りかけつづけています。「あなたがたも悔い改めなければ滅びる。あなたがたも悔い改めなければ滅びる」と二度も重ねて仰ったのは、「あなたがたも他の誰でも悔い改めて、神へと立ち返ることができる。神の憐みのもとに新しく生きはじめることが必ずできる。だから、あなたがたも神へと立ち返りつづけて暮らしなさい」と強く励ましつづけておられるからです。

 さて、そのために、もう一つのたとえ話を救い主は語ります。6-7節、「それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』」。ぶどう園の主人が自分のものであるぶどう園にいちじくの木を植えておいた。たびたび何度も何度も、いちじくの実を探しに来た。「おいしい実がなっているだろうか、まだだろうか」と。けれど、何度探しに来てみても、いつまでたっても、いちじくの実は見つからなかった。けれどなぜ、『ぶどう園に、いちじくの木をわざわざ植えておくのでしょうか』。思い浮かべてみましょう。もし、あなたがそのぶどう園で働く労働者だったとしたら、そこにいちじくの木が植えられていて、みずみずしく甘くおいしいいちじくの実がなっていたら、どんな気持ちがするでしょうか。朝早くから一所懸命に働いて、ひと休みする休憩時間に、いちじくの実を食べることがゆるされるなら、どんな気持ちがするでしょう。それを楽しみにして仕事もはりきってできるでしょう。なぜ、いちじくの木をわざわざ植えておいたのか。そこで汗水たらして労苦する労働者たちに、その格別に甘くおいしい実を食べさせてあげるためだったかも知れません。その彼らを慰め、元気づけ、彼らに喜びと力を与えるためだったかも知れません。労働者たちもぶどう園の主人も楽しみにして待ち続けました。

 これは、たとえ話です。神がどんな神であり、何をなさり、その神の御前に私たちがどのように幸いに生きることができるのかを教えるためのたとえ話です。いちじくの木をわざわざ植えた、あのぶどう園の主人は誰のことでしょうか。神さまです。広大なぶどう園は、私たちが生きるこの世界です。あわれみ深い主人は、ご自身のものである広大なぶどう園に生きる多くの人々のために、すべての生き物たちのために、いちじくの木を植えました。格別に甘くおいしい実を彼ら皆に食べさせてあげるために。彼らを慰め、元気づけ、彼らに喜びと力を与えるために。おじいさんおばさんにも、お父さんお母さんにも、小さな子供たちにも毎日いろんなことがあって、悩みや困ったことや辛いこともあって、その中で、それぞれ精一杯に生きています。身近な人たちの中にも、さまざまな喜びがあり悲しみがある。そういう人々の中に、ぶどう園のあちこちに一本また一本と、いちじくの木が植えられています。この私たちのことです。いちじくの木は、キリストの教会であり、一人一人のクリスチャンです。私たちが、このいちじくの木です。主人から多く与えられ、多く任せられ、主人がどんな心の持ち主であるのかをよく知らされており、それゆえ多くを求められるからです(ルカ12:42-48参照)。「おいしい実がなっているだろうか、まだだろうか」とたびたび主人は楽しみにして見にきました。園丁が、あらゆる手を尽くし、いちじくの木を養い育てるために肥料をやり水をまき、心を砕きつづけます。「甘いおいしい実がなれば、ここで生きている人たちを喜ばせてあげられる。嬉しい元気な気持ちを皆に分けてあげよう。まだかな、どうだろうか」。主人から多く与えられ、多く任せられ、主人がどんな心の持ち主であるのかをよく知らされており、それゆえ多くを求められる。そのとおりです。神を喜びたたえる慰めの実を、あわれみと慈しみの実を豊かに結ばせるために。また、その格別に甘くおいしい実を分け与えさせるためにこそ、私たちすべてのクリスチャンは主人のぶどう園に植えられました。

 「わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか」。いつまで待っても実がならないのなら、こんな木は切り倒してしまおうか。臆病で頑固でひがみっぽくって、わがままで自分のことばかり考える、こんな木は切り倒してしまおうか。「イエスは主である」(1コリント手紙12:3,ローマ手紙10:9)と告白するすべてのキリスト教会に対して、すべてのクリスチャンに向かって、この警告が告げられます。まったく、その通り。しかもなお、にもかかわらず、この私たちは切り倒されていません。どういうわけでしょう。すでにずいぶん前に切り倒されていて当然だったはずのこの私たちが、けれど切り倒されていません。それは、いったいなぜでしょうか。ただお独りの、格別な園丁がいてくださったからです。8-9節。主人といちじくの木々の間に立って、独りの園丁が答えます。「今年もこのままにさせてください。木のまわりを掘って、力のつく栄養のある肥料をやってみます。水も、たっぷりとかけてやります。悪い毛虫がつかないように、いつも目を配り、念入りに手入れをしてやります。カラスが来たら追い払い、イバラが生えたらすぐに抜いてやります。そうすれば、来年こそは実がなるかも知れません。お願いです、お願いです」。この園丁こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。このかたがどんなふうにぶどう園といちじくの木の一本一本を世話しつづけて来られたのかを、私たちは知っています。どんなふうに手入れをし、肥やしを与え、どんなふうに毎年毎年、主人といちじくの木の間に立って粘り強く諦めずに執り成しつづけてきたのかを、私たちは知っています。よくよく知っています。

 アダムとエバが神に背いて罪に落ちたとき、けれどあの彼らは地獄に投げ込まれはしませんでした。彼らの神は慈しみとあわれみのかみだったからです。あの大洪水の日々にも、神は災いを思い直してくださいました。「人が心に思うことは幼い時から悪い。けれどもなお」と。アブラハムとサラ夫婦が繰り返し何度も何度も神に背いても、不信仰に陥って神の約束を疑っても、神を裏切りつづけても、けれども彼らは神から見捨てられはしませんでした。彼らの神はあわれみの神であり続けるからです。ニネベの町の人のはなはだしい罪と悪に神は心を痛めましたが、かれらを滅ぼすことを思い直しました。恵みとあわれみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される神だったからです。預言者ヨナに対しても同じでした。ヨナが神から逃げても背いても、神に対して怒っても嫌っても、なお神はヨナを惜しんで止みません。ニネベの町の弁えの少しもないあまりに愚かな人々と多くの家畜を惜しむ、その同じ憐みをもって、ヨナをも惜しむ神です(創世記3:20-,8:21,ヨナ3:1-4:12,ローマ手紙11:30-36,1ペテロ手紙2:10,ルカ福音書1:50-55,1:72-77

 

              ◇

 

 さて、ぶどう園のあのいちじくの木。さらに1年たって、もし実がならなかったら、そのとき、ぶどう園の園丁でもある救い主イエスはどうなさるでしょうか。これまで2000年もの間、どうして来られたでしょう。「だめでした。じゃあ約束ですから切り倒しましょう」と。いいえ、決して、そうではありませんでした。いちじくの木々は、どの木もどの木も、かなりの難物でありつづけました。そう簡単には実を結びませんでした。むしろ手に負えず、箸にも棒にも引っかからず、ほとんど絶望的でした。……「また1年たったぞ」と主人が言います。まだ実を結んでいない。その気配も兆しもない。いよいよ切り倒してしまおうか。「待ってください。肥料をやり、水をまき、雑草をむしり、いつも心を込めて手入れをし、私がこの木をどんなに愛して、どんなに大切に育てているのかを、この木に伝えます。いつかこの木々が『ああ、そうか。本当にそうだったのか』と心底から分かるようにしてやります。だから、待ってください。この木のための園丁である私が、きっと必ず『神を愛する実』『隣人を自分自身のように愛し、尊び、慈しむ実』をつけさせますから。その前にまず、なにしろ『神から、こんな私さえも愛されている。本当に、という実』をつけさせますから。どうか、待ってください。

 あのお独りの格別な園丁は、私たちの救い主イエス・キリストは、「待ってください、待ってください待ってください」と執り成しつづけ、粗末ないちじくの木々のための世話をしつづけました。あまりに憐み深い、格別な園丁は、決して諦めません。決して見離すことも見捨てることもなさいません。ありとあらゆる肥料が試されましたが、これらのいちじくの木々には、どんな肥料も効きませんでした。やがて、あのお独りの、あまりに憐み深い園丁は、木の脇を掘って、そこにご自分の血をすっかり注ぎだし、そこにご自分の体を引き裂いて埋めました。なんということでしょう。そうやって自分で自分を、恵みに価しない、あまりに粗末ないちじくの木々のための肥料になさったのです。恵みに価しない、あまりにふさわしくないこの私たちも憐みを受け、惜しんでいただきました。「人が心に思うことは幼い時から悪い。けれどもなお」と、何度も何度も繰り返して、思い直していただきました。くりかえし神に背いても、けれども私たちは主なる神から見捨てられることもなく見放されることもありませんでした。あのヨナのように、ニネベのあまりに邪まで愚かすぎる人々と家畜たちのように。

 「実がなるのは、はたして来年か再来年か、その数年後か」。いいえ、そこに、いちじくの木々のための希望があるのではありません。「待ってください。この私が必ず世話をして」とおっしゃる憐み深いお独りの園丁が、救い主イエス・キリストが、この私たちのためにさえ、私のためにもあなたのためにもいてくださる。だから、実を結ばせていただける。ここに、私たちのための確かな希望があります(1テモテ手紙1:15。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される神です(出るエジプト記34:6,ヨナ書4:2を参照)。だからこそこんな私たちでさえも、ここにこうして、今日あるを得ています。

 

 

     ≪祈り≫

救い主イエス・キリストの父なる神さま。世界中に争いが絶えず、私たちは互いを押しのけ合い、とても自分勝手になって暮らしています。身を屈めさせられ、貧しく心細く暮らす人たちが大勢います。希望と喜びを見失って、惨めに生きる年配の人たちや、親たち、若者たち、子供たちが困り果てています。どうか、私たちを憐れんでください。

     世界と生き物すべてと私たちを愛してくださる神さま。ですから私たちは、日毎に三つのことを願い求めます。神さまとそのお働きとその御心をはっきりと見分け、感じ取ることができますように。神さまと隣人とを心の底から愛し、尊ぶことができますように。神さまの御心にかなうことを願って毎日の暮らしを生き、そのようにして神さまに近づいて行くことができますように。

     神さま。あなたが生きて働いておられますことを、どうかこの私たちにもはっきりと知ることが出来るようにさせてください。この世界が生きるに値する素晴らしい世界であることを、私たちとすべての大人たちと、すべての子供たちによくよく習い覚えさせてください。

     主イエスのお名前によって祈ります。     アーメン

 

 


10/11こども説教「兄弟姉妹を訪ねる理由」使徒20:1316

 10/11 こども説教 使徒行伝20:13-16

 『兄弟姉妹を訪ねる理由』

 

20:13 さて、わたしたちは先に舟に乗り込み、アソスへ向かって出帆した。そこからパウロを舟に乗せて行くことにしていた。彼だけは陸路をとることに決めていたからである。14 パウロがアソスで、わたしたちと落ち合った時、わたしたちは彼を舟に乗せてミテレネに行った。15 そこから出帆して、翌日キヨスの沖合にいたり、次の日にサモスに寄り、その翌日ミレトに着いた。16 それは、パウロがアジヤで時間をとられないため、エペソには寄らないで続航することに決めていたからである。彼は、できればペンテコステの日には、エルサレムに着いていたかったので、旅を急いだわけである。                   (使徒行伝20:13-16) 

 

 「旅を急いでいるんです」と少し前にお知らせしました。16節、「それは、パウロがアジヤで時間をとられないため、エペソには寄らないで続航することに決めていたからである。彼は、できればペンテコステの日には、エルサレムに着いていたかったので、旅を急いだわけである」。もうすぐ、はっきりと知らされますが、パウロはそのエルサレムの都で神さまからとても大切な役割を与えられることになっているからです22-23節を参照)。それで、とても大急ぎで次々と土地を訪ね歩いています。「急いで行きたいから」ではなく、「神さまから、そうしなさいと命令されたので」神さまの指図とその御心にこそ従っています。いつでもどこでも、「私の願いどおりではなく、神さまの御心にかなうことが成し遂げられますように」(マルコ福音書14:36,ローマ手紙8:14-16参照)という心得です。これが一番の大切なこと。次に目を留めておくべきことは、とても急いでいるのに、それでも途中の兄弟姉妹たちのところを次々と訪ね歩いていることです。時間がなくても、あわただしくても、彼らの顔を見て、ぜひ励ましたり、力づけたりしたいと願いました。自分たちの願いでもあり、それは神ご自身の願いでもあります。神の国の福音を語り、救いの恵みを確かめ、それを共々に味わうことが一番の励ましになります。彼らにとっても私たちにとっても、それが慰めです。

 

2020年10月8日木曜日

#嘆きに応える神の御言 「王と太后への哀歌」エレミヤ13:18-25

  #嘆きに応える神の御言  ~エレミヤ書を読み味わう~              

 第27回 エレミヤ13:18-25「王と太后への哀歌」

 

 

 こんばんは。エレミヤ書をごいっしょに読み味わっていきましょう。13:18-25です、

「王と太后とに告げよ、「あなたがたは低い座にすわりなさい。麗しい冠はすでにあなたがたの頭から落ちてしまったからです」。ネゲブの町々は閉ざされて、これを開く人がない。ユダはみな捕え移される、ことごとく捕え移される。「目をあげて、北の方からくる者を見よ、あなたに賜わった群れ、あなたの麗しい群れはどこにいるのか。彼らがあなたの親しみ慣れた人たちを、あなたの上に立ててかしらとするとき、あなたは何を言おうとするのか。あなたの苦しみは、子を産む女の苦しみのようでないであろうか。あなたが心のうちに、『どうしてこのようなことがわたしに起ったのか』というならば、あなたの罪が重いゆえに、あなたの着物のすそはあげられ、はずかしめを受けるのだ。エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。わたしはあなたがたを散らし、野の風に吹き散らされるもみがらのようにする。主は言われる、これがあなたに授けられた定め、わたしが量ってあなたに与える分である。あなたがわたしを忘れて、偽りを頼みとしたからだ」。

 

 

「あなたがたは低い座に座りなさい。冠はすでにあなたがたの頭から落ちてしまった」。王とその母親に対してだけでなく、神を信じて生きるはずの先祖と私たちは度々同じような厳しい言葉を語りかけられました。「思い上がって心が高ぶるとき、主を忘れるだろう」と警告されつづけました。主を忘れることが無いよう慎まなければならないと。ここでもさらに主ご自身からの厳しい懲らしめが告げられます。なぜ、懲らしめを受けるのか。「あなたがわたしを忘れて、偽りを頼みとしたからだ」と。

 

 祈りましょう。

 主なる神さま。様々な虚しいものに心を奪われ、惑わされて、あなたの御声になかなか耳を傾けようとしない私たちです。思い煩いと悩みの中でわれを忘れている私たちです。どうか私たちの心を明るく照らしてくださって、あなたからの諭しと戒めを心に留めることができるようにさせてください。あなたが憐み深い方であることに十分に信頼させてください。あなたの御声に聴き従って、この私たちも平和と恵みと生命を得ることができますように。主イエスのお名前によって祈ります。   アーメン

 

 

まず18節、「王と太后とに告げよ、『あなたがたは低い座にすわりなさい。麗しい冠はすでにあなたがたの頭から落ちてしまったからです』」。預言者は、エホヤキム王とその母親に直接に語りかけるように神から命じられます。預言者たちの口を用いて神から告げられる真実は、世界中のすべての権威や権力をはるかに超えているからです。エレミヤが預言者として立てられたとき、主は彼にこう語りかけました。「わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」1:10と。また、救い主イエスの母マリヤは神を讃美してこう歌いました、「そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(ルカ1:50-55主なる神からの憐みは主を恐れかしこむ者に及ぶ。一人の女性は自分自身が受け取った幸いと重ね合わせて、神の民とされたイスラエル全体の幸いを見渡しています。自分自身も神からの憐みを受けた。神の民イスラエルもあわれみを受けた。主ご自身は先祖と私たちへの憐みをいつまでも忘れない。他方で、この私たちは思い上がるときに、受け取ってきた憐みを簡単に忘れてしまいます。王と太后も、また私たち自身も、思い上がって神とその預言者を侮り、語りかけられる言葉を退けつづけます。どうして主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろすのか。なぜ、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせるのか。こうした「上げたり下げたり、満ちたらせたり、追い散らしたり」という神の取り扱いは、「高ぶっている者。富める者。権力ある者たち」にとっても、「低い者。小さく貧しい者」にとっても、その両者にとって「憐みの取り扱い」であったかも知れません。「自惚れてはいけない。思い上がってはいけない」と先祖と私たちは何度も何度も釘をさされつづけました。そうでなければ、神さまからの憐みを受け取り損ねるからです。王と太后も、先祖とこの私たちも皆、神さまからの憐みの取り扱いを憐みとして喜び感謝するためには、低くされ、麗しい冠を頭から投げ捨てられ、恥ずかしめを受ける必要がありました。だからこそ先祖と私たちが思い上がるとき、神は憐みをもって私たちを追い散らし、引き下ろし、追い返し、懲らしめさえなさいます。その低い場所こそが、「主を恐れかしこむ者」たちが幸いと祝福を受け取るためのいつもの定位置だからです。

 19節、「ユダはみな捕え移される、ことごとく捕え移される」。ユダとエルサレムの人々が遠い外国に捕虜として捕らえ移されてゆく日々が、いよいよ目前に迫っています。バビロンへの捕囚です。少し前にも「主の群れがかすめられた」と語られ、「あなたに賜わった群れ、あなたの麗しい群れはどこにいるのか」と、やがて来る荒廃が指し示されます。神を信じて生きるはずの人々が散り散りにされ、遠い外国に捕らえ移されてしまいます。

 24-25節でも、主は先祖と私たちに対して厳しい裁きを下すと改めて語りかけます、「わたしはあなたがたを散らし、野の風に吹き散らされるもみがらのようにする。主は言われる、これがあなたに授けられた定め、わたしが量ってあなたに与える分である。あなたがわたしを忘れて、偽りを頼みとしたからだ」。なぜ、主なる神は主を信じて幸いに生きるはずの先祖と私たちを散らし、風に吹きさらされるもみがらのようにし、懲らしめるのか。私たちが主を忘れて、偽りを頼みとするからだという。「偽りを頼みとする」とは、どういうことでしょう。それは、迷信や神ではない様々なものを崇めたり拝んだりする偶像崇拝に陥ることでもあり、また、生き延びるための虚しい策略や手段に囚われることでもあります。それは、いつもの具体的な暮らし方でもあります。ずいぶん長い間、イスラエルは自分よりもはるかに強く大きな国々に取り囲まれて生きてきました。アッシリヤ、エジプト、バビロンなど。強い敵が攻めてくるとき、これまでいつもイスラエルはそれと対抗するために、他の強い国と軍事同盟を結んで身を寄せ、その親しい友となったふりをして助けを求めます。形勢が不利になると、身をひるがえして、かつて敵であった国々と手を結ぼうとします。生き延びるために鳥の仲間になったり動物の仲間のふりをしてフラフラさまよいつづける、あの生ずるいコウモリのようにです。もしエジプトやアッシリヤやカルデアなどの近隣諸国と親しい関係を保っておきさえすれば、彼らの支援と助けを受けてどんなに恐ろしい危機でも軽々と乗り切ることができるだろうと見込んでいます。けれどそれらの友人の誰もが、支えや助けになどなりません。主なる神にこそ信頼して、堅く依り頼んでいるべきだったのに。別の預言者も警告していました。「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い」(イザヤ30:15-16。今や神ご自身が、かつて友であった者たちを恐るべき敵とし、ご自身の道具としてイスラエルを懲らしめるために襲いかからせようとしています。

 さて23節、「エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる」。あちこちで似たような格言や教訓が語られてきたけれど、カエルの子はカエルなどという宿命的な人間観が告げられるのではなくて、悪とよこしまにすっかり慣れ親しんでしまった人間の惨めさが告げられます。そうした人々は悔い改めて神へと立ち返ることがとても難しいと告げられます。長い間の暮らしの中で沁みついてしまった邪さが、まるで生まれつきの性分のようになっている。

 けれどエレミヤも私たち自身も、ここで神ご自身の力と働きについてはまだ何一つ語っていません。彼ら自身が心を頑固にしてしまったこと、先祖と私たち自身に今日のはなはだしい苦境について責任があると認めざるをえないこと、その通りです。それでもなお、私たちの主なる神は先祖と私たちを救い出すことがお出来になります。地の底のどんな深みからでも、これまで何度も何度もそのように神の民を救い出しつづけてこられたようにです。ああ、預言者は問いかけていました。先祖と、この私たちに向かって。「悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるのか?」と。つまり、正しいことや良いことへと心を切り替えることができるだろうか。それとも、あまりに根深く悪に染まり、慣れ親しんでしまった後では、あなたがたは悪いことをする他は何一つの習い覚えて来なかったのだろうかと。それがある種の病気であるとして、けれどもう治すことのできない病気なのか。誰にも手の施しようがなく、ただただ絶望するほかないのかどうかと?

 

 ふたたび祈りましょう。

主よ、あなたに多くの物を賜り、生かされてきました。この命を与えてくださったのは、あなたです。しかし、見えないあなたに頼ることができず、目に見えるもの、自分が理解でき、自分がなしうることに信頼してしまい、しかも、そうせずにはおられないのです。望む善を行わず、望まない悪を行っている。あなたの言われる通り、死に至る病にかかっています。

 主よ、憐れんでください。

 人間は死者を生き返すことはできません。

あなただけがこの死ぬばかりの私を救うことがおできになります。

罪人を救うため、死に渡され、復活させられた、あなたの独り子、私の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。

 

 5.新約朗読と思い巡らし

 エルサレムの都に向かう旅の途中で、救い主イエスは弟子たちに何度も繰り返してご自身の十字架の死と復活を予告しつづけました。ルカ福音書9:22-25、「人の子(つまりこの私)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」と。しかも今も、あの時と同じく、主イエスからの言葉はあの彼らや私たちの耳には留まらず、ただ虚しく失われてしまいます。まるで何も聞かなかったかのように、あの彼らも私たちも聞き流し、聴き捨てています。「彼らはなんのことか分からなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかった。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた」9:45と報告されています。

 なぜ、私たちの心は度々繰り返し鈍くされてしまうのか。「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と語られたからであり、自分を捨てることがとても嫌だったからです。自分の命、自分の都合、自分のささやかな自尊心、自分の好き嫌いにばかり深く囚われすぎていて、それに邪魔されて、主イエスに従って生きることがとても難しかった。この私たちも同じです。自分勝手でわがままで頑固で、とても自己主張が強くて「私が私が」と言い張り続けることを『自己中、自己中(ジコチュウ)』と言います。自己中心という意味ですが、むしろそれは「中毒」「依存症」です。『自分中毒』、自分の肉の思いの言いなりにされ、奴隷にされています。その『自分の肉の思い。自分の好き嫌い』は自分をちっとも幸せにしてくれず、自分も家族もまわりの人たちも、かえってますます心が貧しくなり、不幸せになるばかりです。それは「自分」という病気です。聞いてください。その「自分」は無くてもいい自分であり、主に従って生きることを邪魔する厄介な「自分」です。その「自分」は無くても、ちっとも困りません。『自分の肉の思い』を投げ捨てるのはもったいないし、難しいし、嫌だと思い込んでいました。でも本当は、もったいなくないし、無くても困らない。ポイと投げ捨てるのはとても簡単で、かえって晴れ晴れ清々します。要点は、神ご自身の御心と御わざに自分の場所をすっかり丸ごと明け渡すことです。神をご主人さまとして、自分の内に迎え入れることです。神さまを自分のご主人さまとして迎え入れ、自分の中に神の居場所と働き場所を確保するためには、自分を後ろへ退け、神ご自身に働いていただくために、この自分は出しゃばり続けることを止めて、休む必要があります。その邪魔をしている『自分中毒』、『自分の腹の思い』(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19参照)をポイと投げ捨てましょう。ハイ、できますよ。私たちの主であられます神さまご自身が、この私たちのためにも、必ずきっと成し遂げてくださるからです(ピリピ手紙2:6そのようにして初めて、ついにとうとうこの私たちは、幸いに晴れ晴れとして生きることができます。