2021年7月25日日曜日

7/25「小さな子供のようになりなさい」ルカ18:15-17

               みことば/2021,7,25(主日礼拝)  329

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:15-17                   日本キリスト教会 上田教会

『小さな子供のように

なりなさい』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:15 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。16 するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。   ルカ福音書 18:15-17

                                               

8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。

        (ローマ手紙 8:11-16,マルコ福音書 14:36「アバ父よ」)


 15-17節、「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。人々が小さな子供たちを主イエスのそば近くへと連れてきました。その人々と小さな子供たちを追い払おうとした弟子たちが主イエスから厳しく叱られました。「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない」。注意して読むべきは、特に小さな子供たちだけを優先的に迎え入れようとする判断ではないということ。救い主イエスにとっては、小さな子供も若者も大人も年配の方々も、皆、分け隔ても区別もなく、まったく同等です。むしろ、誰も彼もが幼子のようになって、『神の国を受け入れようとする者たち』であってほしいと願っておられます。これが、救い主イエスの変わることのない本意です。「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。また別の福音書でも主イエスご自身が、同じように、「幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない」(マルコ10:15と断固としておっしゃいます。とても難しい内容です。幼子とは何なのか、どういう存在なのか。神の国に入る、神の国を受け入れるとは、どういうことなのか。確かな判断材料を手にしているのでなければ、主イエスご自身が何を差し出そうとしているのかが分かりません。まず『神の国』とは、たとえのような、聖書独特の表現です。神ご自身がその力を発揮しておられる、神のご支配の領域。それを受け入れる、それに入るとは、神への十分な信頼であり、神に聴き従って生きることです。それを、幼子がどうやって、どのように受け入れ、入るのか。その最も大きな秘密は、注がれつづけ受け取ってきた愛情をよく覚えている幼な子です。わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子です。救い主イエスこそが、わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子であることの手本を、それがいったいどういうことであるのかを、私たちに見せ、差し出してくださいました。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書14:36と。「アバ」お父ちゃん、おっとうと、救い主イエスは小さな子供の言葉と心で御父への信頼と従順を言い表しています。「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。「私自身の考えでするのではなく私を遣わされた御父の御旨を求めている。自分の心のままを行うのではなく、私を遣わされた天の御父の御心を行うために来た」(ヨハネ5:30,6:38)と自分の魂に刻みつづけた心です。御父への信頼と深い結びつき。その幸いな小さな子供の心をこの私たちも贈り与えられ、神の子供たちである身分と中身を受けました。聖霊なる神を自分の身体の中に受け、その御霊に導かれつづけて。

聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(マルコ14:36,ローマ8:14-16と。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。それならば、たとえ708090歳になった後でさえ、『幸いな幼な子である自分』をついにとうとう思い出して、自分自身の心の中にも日頃の在り方にもそれをはっきりと取り戻して、晴れ晴れワクワクしながら、神の国に留まりつづけることができるかもしれません。しかも、それが主イエスの弟子であることの中心的な中身でありつづけます。なぜなら主イエスの弟子たちよ。自分自身の罪深さをゆるしていただいて神の国に入るには、ただただ神の憐れみによる他なかったからです(ローマ手紙3:21-27参照)。救い主イエス・キリスト。ほかの誰によっても、救いはない。私たちを救うことができる名は、天下に、この名のほか人間には与えられていない(使徒4:12)。そして、このお独りの方、救い主イエスがちゃんと与えられております。もちろんこの私にも、あなたにも。

  神を信じて生きはじめる前には、私たちは自分自身の努力と甲斐性で自分の居場所を獲得し、それを強く大きく高くしていこうとあくせくし続けていました。神を信じて生きはじめる前には、「他人よりも偉くありたい。もっと賢く強く大きく立派な人間だと思われたい」と渇望して、周囲の人々と虚しい競争をしつづけていました。「自分の働き。自分の役割。自分の働き。自分の役割」と呪文のように唱えつづけて。けれど今では、その虚しさや愚かさの代わりに、天の国の贈り物として生命を受け取りはじめました。神に願い求め、神から受け取り、神にこそ感謝をしながら。するといつの間にか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか役に立つとかそうでもないとか、偉いとか偉くないなどと得意になったりいじけて僻んだりする虚しさを、私たちもようやく手離しはじめていました。受け取った恵みの大きさに比べて私たち自身は小さい。受け取った恵みの豊かさに比べて、私たちはとてもとても貧しい。恵みの賢さ、力強さに比べて、私たちはあまりに愚かであり、弱々しく、その恵みにまったく値しない者たちであると。値しないにもかかわらず、それなのに受け取った。だから、ただただ恵みなのだと。

 主を喜び祝うことの中身は、主への感謝です。感謝は、主が惜しみなく分け与えてくださる方であることへと深い認識であり、信頼です。あなたも私自身も今までは、ずいぶん長い間、何か他のことを喜び祝っていました。自分自身の長所や短所をこね回して、それで喜んだり悲しんだりしていました。自分のまわりにいる他の誰彼の良い働きや悪い行いに一喜一憂し、泣いたり笑ったり、苛立ったりホッとしたり気を揉んだり。周囲の人々や私自身のいたらなさや貧しさや不足を嘆き悲しみ、そこに閉じ込められて上がったり下がったりしていました。「人様にご迷惑をかけて申し訳ない」などと人間のことばかり思い煩うあまりに、神ご自身こそが私たちの誰よりも、その千倍も万倍も生きて働いておられることをすっかり忘れ去ってしまいました。ある夜更けに、主イエスの前で、ニコデモという名前のおじいさんが苦々しく、悲しく物寂しく言い張っていました。「人は年をとってからもう一度生まれることがどうしてできますか。そんなことができるわけがない。そんなタワ言を信じられるわけがない」と。なんて可哀想で憐れな、惨めな惨めなおじいさんでしょう。主イエスは、分かったつもりになって何も分かっていなかった、分かろうともしなかったあのおじいさんと、そしてここにいる私たちに向かっても仰います。「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、新しくもう一度、小さな子供になるのでなければ、神の国を見ることはできない。そこに入ることも、そこで幸いに喜びにあふれて暮らすこともできない」(ヨハネ福音書3:3参照)と。その私たちが、けれどこれからは主の豊かさ、主の慈しみ深さへと思いを向け返される。主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食い、回り道をしてしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。多分、まだ間に合います。

 さて十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と主イエスは必死に祈っていました。天の御父への信頼にしがみつき、それを改めて受け取ろうとしていました。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。そのようにしてだけ天国に入れていただけるので、この私たちは同じように、小さな子供たち同士として、互いに守り、支え、養い合う者たちとされました。天の御父への十分な信頼。幼な子のようになるという、その幼な子の中身はこれです。神への信頼が健やかにすくすくと育ってゆくのかどうか、信仰の中身もこれです。ですから主イエスは弟子たちに仰いました。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:31-33と。『神の国』、それは神が全世界の王として力を十分に発揮してくださることであり、その領域の中にこの自分自身も住まわせていただくことです。『神の義』、それは王の中の王であるその神が正しく真実であり、慈しみ深くあってくださること。『まず神の国と神の義を求めよ』とは、最初にはそうしなさいということでなく、最初から最後までずっと、いつでもどこでもどういう場合にも、神が慈しみ深い真実な王として力を十分に発揮してくださることを求め続けよ。他一切はすべて添えて与えられると約束されているのですから、他のことは願うまでもないということです。神を知り、神に十分に信頼を寄せ続けて生きることができるなら、それで十分です。小さな子供たちよ。とても幸いな小さな子供たちよ、そのとおりです。そのようにして、神さまとの格別な出会いを一回また一回と積み重ねてきました。ですから私たちも、「わたしの思いではなく、他の誰の思いや願いや考えでもなくて、ただただ御心のままになさってください」と天の御父に信頼しています。すっかり全部をお任せし、安心して、この私たちも、もう小さな子供です。なぜなら神の憐れみのもとに、神の子供たちとされているからです。


7/25こども説教「この人は神だと言いだした」使徒28:1-6

 7/25 こども説教 使徒行伝28:1-6

 『この人は神だと言い出した』

 

28:1 わたしたちが、こうして救 われてからわかったが、これはマルタと呼ばれる島であった。2 土地の人々は、わたしたちに並々ならぬ親切をあらわしてくれた。すなわち、降りしきる雨や寒さをしのぐために、火をたいてわたしたち一同をねぎらってくれたのである。3 そのとき、パウロはひとかかえの柴をたばねて火にくべたところ、熱気のためにまむしが出てきて、彼の手にかみついた。4 土地の人々は、この生きものがパウロの手からぶら下がっているのを見て、互に言った、「この人は、きっと人殺しに違いない。海からはのがれたが、ディケーの神様が彼を生かしてはおかないのだ」。5 ところがパウロは、まむしを火の中に振り落して、なんの害も被らなかった。6 彼らは、彼が間もなくはれ上がるか、あるいは、たちまち倒れて死ぬだろうと、様子をうかがっていた。しかし、長い間うかがっていても、彼の身になんの変ったことも起らないのを見て、彼らは考えを変えて、「この人は神様だ」と言い出した。

(使徒行伝28:1-6) 

 

神さまが約束してくださったとおり(使徒27:24に、舟に乗った全員がマルタという島に無事に上陸できました。土地の人々も親切にしてくれました。焚火にあたっていたとき、パウロさんは恐ろしく強い毒を持った蛇に噛まれました。するとその土地の人々は、「せっかく嵐の海から生き延びることができたのに蛇に噛まれるなんて、きっと人殺しか、とんでもない悪者に違いない。神さまからの罰を受けたのだろう」と考えました。けれど、いくら待ってもパウロは元気で、死にそうな様子が少しもありません。6節、「彼らは、彼が間もなくはれ上がるか、あるいは、たちまち倒れて死ぬだろうと、様子をうかがっていた。しかし、長い間うかがっていても、彼の身になんの変ったことも起らないのを見て、彼らは考えを変えて、『この人は神様だ』と言い出した」。私たち人間は皆、神ではないものをこうやってなんでも神のように拝んだり祭り上げることが得意です。それは神に対してとても恩知らずなせいで、神の栄光をほめたたえるかわりに、その栄光を他のものにすりかえてしまいやすいからです。ですから大人も子供も、うっかり心を迷わせてしまわないように、よく気をつけていなければなりません(使徒3:12,4:10-12参照)。教えられて習い覚えてきたとおりに、拝んだり、十分に信頼を寄せつづけて良い相手は、ただ神さまだけだからです。

2021年7月19日月曜日

7/18「神殿で祈った2人」ルカ18:9-14

             みことば/2021,7,18(主日礼拝)  328

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:9-14                   日本キリスト教会 上田教会

『神殿で祈った2人』

 

 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。    ルカ福音書 18:9-14

                                               

51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、

あなたの豊かなあわれみによって、

わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

2  わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。

3  わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

……14 神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。

わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。

15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。

わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。

16 あなたはいけにえを好まれません。

たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。

17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。

神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。 (詩篇 51:1-17)


 ご自身の十字架の死と復活に向けて、主イエスは旅路を進んでいかれます。私たちもまた古い罪の自分と死に別れて日毎に新しい生命に生きることへと向けて、歩んでいきます。主イエスは旅路を歩みながら、語りつづけます。9節、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、このたとえ話は語られている。もちろん、弟子たちのためにも語られています。様々な人々が、その話に耳を傾けています。信じる人たちも信じない人たちも、半信半疑な人たちも。高ぶってうぬぼれている人も、「どうせ私なんか」と卑屈にいじけている人も。ほんの少し聞いただけでそのまま立ち去っていく人もあり、そうかと思うと粘って、腰を据えて聞き続ける者たちもいます。けれど主イエスの弟子たちこそは、必ずその中にいました。「『うぬぼれて他人を見下している人』。ふうん。誰が他の人たちのことだろう。私は別に、そんなにうぬぼれていないし、人を馬鹿にしたこともないし」などと、いつの間にか高みの見物を決め込んでいる弟子も混じっていたでしょう。

  たとえ話の中の2人の祈りは、この2人がそれぞれに自分というものをどう見ているのかをはっきりと表します。10-12節。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。まず、当時の社会で正しく立派な人たちの代表格だと思われていたパリサイ派の人の祈り。この祈りの姿には、小さな子供にでも分かるような、一つの大きな失敗があります。ここには、神さまに向かうどんな願いもなく、感謝もなくお詫びもありません。神さまご自身から来るどんな喜びもありません。自分自身の罪深さや悲惨さをこの人はまったく知らず、だからこそ神さまの憐れみと恵みにすがることもありません。ただただ、どんなに自分が立派にやってきたかと自慢話をしています。あるいは、もしかしたら自分自身の弱さや貧しさやいたらなさに薄々気づきながら、それでなおさら虚勢を張り、必死に取り繕っているのかも知れません。この人は自分自身の罪深さを知らず、とても大切なものが自分には欠けているとも気づいていません。自分自身の虚しさや罪深さを知らず、神の憐れみを慕い求めることもない。自分のまわりにいる人たちの中に、こういう類いの『パリサイ派の病気』を見つけ出すことは簡単です。こういう人たちは大勢います。「この人もそうだ。この人もこの人もこの人も」。けれど待ってください。じゃあ、この私は。この自分自身はどうでしょう。もし、自分自身の中に、この同じ病気を発見することが出来るなら、その人はとても幸いです。もしかしたら、その病気を治していただけるかも知れませんから。

 このパリサイ人の祈りには、自分を正しいとして他者を見下す「うぬぼれ。自己義認(自分は正しいと、自分自身で強く思い込んでしまうこと)」の罪があります。自分は正しいと自惚れて、その正しさに執着し、言い張って止まないこと。これこそが罪の中の罪であり、もっとも罪深い罪です。「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:1-3。私たちは皆、誰でも生まれつき、そのように出来ています。

 この「うぬぼれ。自己義認」の罪という病気を治していただくには、罪人を憐れんでゆるそうとなさる神であると知らねばりません。また、神の憐れみとゆるしをぜひとも必要とする、とても罪深い自分であると知らねばなりません。心を打ち砕かれ、後悔して心を痛め、へりくだった低い心を与えられ、そのようにして憐れみと慈しみを受け取って生きるはずの自分であると気づくためには。

 自惚れて他者を見下しているこの人と正反対の場所に、もう1人の人が立っていました。13-14節です。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。この取税人の祈りに目を向けましょう。「私は罪人だ」と、この祈りははっきりと言い表します。「神さま。罪人の私をあわれんでください」。これこそ、その人自身とその家族を救う信仰の出発点です。この祈りの中で、なにしろ《神さまからの憐れみ》こそが第1であり、肝心要です。神さまからの憐れみをこの自分が受け取ることが第1であり、この人の願いはひたすらそこに集中します。遠く離れて立って、目を天に上げようともせず胸を打ちながら、この人は言いました。「神さま。罪人の私を憐れんでください」。そして帰っていきました。「神はこの人を義とした」;それでいいんだと神さまご自身は、この人を認めてくださった。聖書にもはっきりと書いてあり、主イエスご自身が断言なさっています。「神によって義とされたのは、思い上がって他人を見下していたあの人ではなく、この人だ」と。

胸を打ちながら、「神さま。罪人の私を憐れんでください」とこの人が祈ったのは、その祈りが心から湧き出てきた祈りだからです。心から溢れ出て来ようとするものがあり、けれど、その思いがどうしても出てこない。言葉にもならない。それで、どうしてよいか分からずに、この人は胸を打ち叩いています。砕かれた魂が、神に向かおうとして悶えています。神が、その砕かれた心を喜んで迎え入れようとしておられます。

 すると、ここに、私たちが信仰をもって生きて死ぬためのよい見本があります。心細そうに震えている惨めな取税人が、私たちの目の前にもいます。何と言って、その1人の人を送り出してあげることができるでしょう。いいえ。他の誰のことでもなくしばしば 私たち自身が、あの彼のように恐れと不安に満ちて、心細くうつむいています。「どうやって、何を頼みの綱として生き抜いてゆくことができるだろうか」と。けれど私たちは、神さまがこの小さな貧しい1人の人を憐れんでくださったと知っています。この私のことも、同じくまったく憐れんでくださったと知っています。神は憐れむ神であり、こんな私さえ憐れみを受けて、今や神の民とされている(ヨナ4:2,ローマ3:24-,ペテロ(1)2:10)。と知っています。なお依然として罪人のままの愚かでかたくなな私だけれども、今では、神の御前へと何の恐れも気兼ねもなく、どんどんどんどん近づいてゆける(ヘブル4:16)ことも知っています。なにしろ神さまが憐れんでくださったのです。だからもう、「人からどう思われどう見られるだろうか。私は惨めだ。恥ずかしい。恐ろしい。顔向けできない」などと私たちは思わなくていいのです。「どうせ私なんか」と卑屈にいじけなくてよい、と知っています。神さまは罪人の私を憐れんでくださった。いつ、どこで、どんなふうにして、その憐れみは示され、はっきりと差し出されたでしょうか。

 聖書は証言します、「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」1テモテ手紙1:13-16救い主イエスが何のためにこの世界にくだって、十字架の死と復活の救いの御業を成し遂げてくださったのかを、私たちはほんの片時も忘れてはなりません。ふさわしくない、恵みに価しない罪人を救うためにです。そのために救い主イエスは恥をうけ、人々からあざけり笑われ、見捨てられ、罪人の無残な死を耐え忍ばねばなりませんでした。ただただ罪人を救うためにこそ、その死を甘んじて受けとおしてくださいました。そして兄弟姉妹たち、私たちはこの自分自身が何者であるのかも、よくよく覚えておきましょう。そのようにして憐みを受けて救われた罪人であり、罪人の中の罪人、最低最悪の極悪人でさえある私だと。死ぬはずの私たちが、けれど、にもかかわらず憐みを受けて生かされたことを、確かに覚えておきましょう。しかも神を信じて生き始める以前に神をそしり、迫害し、不遜なものだっただけではなく、神を信じて暮らしながらも今もなお度々、自分の正しさやふさわしさを言い張りつづけ、不信仰に陥って神に背き、神を侮り、隣人や仲間や家族を踏みつけにする、あまりに傲慢で愚かで心がかたくなな私自身であると。憐みを受け、限りない寛容を示されたおかげで神の子供たちとして迎え入れられ、今日こうしてあるを得ている私たちであると。神の憐れみの元へと立ち帰ることが私たちにはできます。なぜなら、神が限りない忍耐を示して下さっているからです。神が私たちをなお憐れんでくださり、罪人である私たちを救うために救い主イエスをこの世界に送り、こんな私たちのためにさえ、救いの御業を確かに成し遂げてくださったからです。それなのになお、どうして互いに高ぶったり卑屈にいじけたり、互いに恐れたり恐れさせたりしていいでしょうか。私たちのための、その神さまの憐れみを無にしていいはずがありません。だから私たちは顔をあげて、「神さまがこんな私をさえ憐れんでくださった。本当に」と大声で叫ぶことができます。嘆きのあまりではなく、喜びに打ちふるえて自分の胸を打ち叩き、そのように一日一日を神への感謝と信頼のうちに生きることがこの私たちにもできます。

 

 

7/18こども説教「皆が上陸して救われた」使徒27:39-44

 7/18 こども説教 使徒行伝27:39-44

 『皆が上陸して救われた』

 

27:39 夜が明けて、どこの土地かよくわからなかったが、砂浜のある入江が見えたので、できれば、それに舟を乗り入れようということになった。40 そこで、いかりを切り離して海に捨て、同時にかじの綱をゆるめ、風に前の帆をあげて、砂浜にむかって進んだ。41 ところが、潮流の流れ合う所に突き進んだため、舟を浅瀬に乗りあげてしまって、へさきがめり込んで動かなくなり、ともの方は激浪のためにこわされた。42 兵卒たちは、囚人らが泳いで逃げるおそれがあるので、殺してしまおうと図ったが、43 百卒長は、パウロを救いたいと思うところから、その意図をしりぞけ、泳げる者はまず海に飛び込んで陸に行き、44 その他の者は、板や舟の破片に乗って行くように命じた。こうして、全部の者が上陸して救われたのであった。       (使徒行伝27:39-14 

 

   41節;「へさき」=舟の前の先端。

                           「とも」=舟の後ろの端。

 

 夜が明けて、砂浜のある入江が見えました。そこに舩を乗り入れようとして、けれど途中で浅瀬に乗り上げて動けなくなり、舟のうしろのほうも壊れて、もうすぐ舟は沈んでしまいそうです。困りました。兵隊たちは、囚人たちを逃がしてしまうくらいなら殺してしまおうと考えました。そういえば少し前の16章で、子の兵隊たちとよく似た苦しい立場に牢獄の1人の看守が追い込まれました。牢獄の囚人たちが皆で逃げてしまったと勘違いした看守が自殺しようとしたのです。つまり、囚人を閉じ込めて逃がさないようにしておく務めは、とても重くて、責任重大だからです。しかも、パウロの信じる神のおかげでここまで生き延びてきたことも、兵隊たちはすっかり忘れてしまっています。けれど、まだ神のこともよく知らず、神をはっきりとは信じてもいない人たちがほとんどですから、それは仕方のないことです。42-44節、「兵卒たちは、囚人らが泳いで逃げるおそれがあるので、殺してしまおうと図ったが、百卒長は、パウロを救いたいと思うところから、その意図をしりぞけ、泳げる者はまず海に飛び込んで陸に行き、その他の者は、板や舟の破片に乗って行くように命じた。こうして、全部の者が上陸して救われたのであった」。神さまが百卒長の心を動かし、パウロたちをぜひ助けたいと思わせてくださいました。こうして神の約束どおりに、皆が陸に上がって命拾いできました。

2021年7月12日月曜日

7/11「悪い裁判官でさえも」ルカ18:1-8

           みことば/2021,7,11(主日礼拝)  327

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:1-8               日本キリスト教会 上田教会

『悪い裁判官でさえも』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。3 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。4 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、5 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。  ルカ福音書 18:1-8

                                               

4:1 だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。……4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。         (ピリピ手紙 4:1-7)


 まず1-7節、「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」。神を信じて生きようとする人々のために、救い主イエスご自身がたとえを語り、しかも、たとえの意味するところをご自身ではっきりと説き明かしておられます。正しくない裁判官が1人の未亡人を取り扱うその在り方がたとえとして語られました。その行動や心の思いと判断に照らして、神が救いと祝福へと選び取っているご自身の民に対して、神ご自身が、どういう取り扱いをなさるのかが、はっきりと告げられます。6-7節、「そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」。正しくない裁判官であり、さらに神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官の姿が描かれます。悪い裁判官のその正しくないふさわしくない裁判官よりも、はるかに真実で正しく、ご自身が救いと祝福へと選び取っているご自身の民に対して、憐み深いお方である主なる神がどういう取り扱いをなさるのかは、誰にでもはっきりと分かるはずではないかと。聞き取るべき重要点は、ここにあります。また、神が正しい裁きを決定的に最終的になさるのが『世界の終わりの日』であることも知らされています。終わりの日に、ふたたび救い主イエスがこの地上に来られて、世界とすべての生き物たちのために裁きをなさり、救いの御業を完成なさいます。この箇所は、そのことと深く関わっています。

 まず、ここで、「失望せずに常に祈るべきこと」が私たちに命じられます。その未亡人には助けになってくれる家族も友人もなく、その裁判官だけが頼りでした。裁判官は、正しくはなく思いやり深くもない、あまりにふさわしくない働き手でした。けれども彼女がたびたび彼のところに来て、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけました。失望せず、諦めず、しつこく何度も何度も。ついにその裁判官は彼女のために適切な裁判を行います。イエスご自身が、この譬えに込められた真意を説き明かします。「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」。ましてや、真実な正しい裁判官である天の御父が、神の民とされて救いへと選び入れられている者たちのために、はるかに良い取り扱いをしてくださらないはずがないと。

 「日夜叫び求める選民のために」と、わざわざ言い添えられています。またこの箇所の冒頭で、失望せずに常に祈ることが必要であり、そのためにこのたとえを語っていると注意を促されました。あなたは、普段どのように祈っておられますか。なにかのきっかけがあって祈りはじめることは簡単です。けれど、その祈りをしつづけるためには神を信じる確かな信仰が必要です。しかも私たちは心が弱く、ほんのちょっとしたことで簡単に挫けてしまいやすいのです。「祈っても無駄だ」とサタンが耳元でささやきかけます。その誘惑にたやすく惑わされてしまいそうになる私たちです。ついつい気が紛れ、他のことに気を盗られ、祈ってなどいられないと思えるときがありますか。祈りを簡単に切り上げたくなり、仲間や家族といっしょに祈ることを省いてしまいたくなることがありますか。そのとき、サタンが私たちを神から遠ざけようと誘惑し、攻撃をしかけています。神を信じて生きることの根源的な不可欠な土台を、サタンが切り崩そうとしています。そのようにして、多くの者たちが遠くへ連れ去られていきました。だから、「絶えず祈りなさい」「目をさまして、感謝のいつに祈り、ひたすら祈りつづけなさい」「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」(1テサロニケ5:17,コロサイ4:2,ルカ22:46と警告されつづけます。手強い敵が私たちをつけ狙っており、その攻撃に屈してしまわないように、なにより祈りによってこそ武装を整えていなければならないからです。

 「選民のために」と言い添えられています。主であられる神はこの地上に、ご自身が救いと祝福へと選び入れたご自身の民をもっており、その者たちは神の格別な配慮のもとに据え置かれます。主イエスご自身が、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」(ヨハネ15:16-17とはっきり知らされたのは、このことです。私が神を選んだのではなく、救い主イエスが救いと祝福へとこの私たちを選び入れてくださった。だから、救い主イエスにこそ全幅の信頼を寄せ、イエスに願い求め、イエスに聞き従い、私の願いや考えや計画どおりにではなく、ただただ神の御心にかなって生きることを願って生きてゆく私たちです。

 『神ご自身が選んでくださった。神の選び』。ただ恵みと憐れみによって、神の自由な選びによってです。これこそ、聖書の中の最も深い真実の1つです。神がご自身の憐れみの御心によって選んでくださったことこそが、私たちすべてのクリスチャンに、神への感謝と信頼を呼び起こします。ただ神の恵みによるのでなければ、罪の中に死んでいた私たちの誰一人も神の国に入ることはできません。私たちの誰一人も、神の民とされることもなく、救いに入れられることも有りえませんでした。価なしの恵みであり、神の選びは、ただ神の自由な憐れみによりました。つまり自分自身のうちに、救われるに値するどんな良いものも、何一つも見出すことのできない私たちです(申命記7:6-7,9:4-5。よくよく心に覚えておかねばなりません。

 8節、「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。終わりの日の裁きのときに、救い主イエスがふたたび来られることと、この忍耐深く祈り求め続けるべきことが深く結びついていると申し上げました。救い主イエスは、ご自身がふたたび来られるとき、「地上には、神を信じる人々はほんのわずかしか残されていないだろう」とおっしゃいました。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。主イエスご自身からのこの厳しい問いかけは、私たちの心に痛みを覚えさせ、私たち自身をへりくだらせ、謙遜な、慎み深く低い心を与えます。憐れみ深い神によって救いへと選ばれた者たちには、選ばれた者であることの目に見えるはっきりした『しるし』が刻まれています。なぜ、その人々は日夜、神に向かって呼ばわるのか。何のためか。自分自身の危うさ、もろさを痛感させられつづけるからです。罪と悲惨の誘惑に脅かされ、誘われつづけている危うい自分であると知らされているからです。今もなお罪のうちに死んでしまいそうになる、しばしば肉の思いの奴隷にされてしまいそうな私であると気づかされるからです。だから昼も夜も、神を呼び求めます。自分自身の心の頑なさ、強情であること、思い上がった傲慢さ、よこしまさな心を抱えている私だと思い知らされているからです。救いにまったく価しない罪人である私が、にもかかわらず神の憐れみを受け、救われるためには、救い主イエスによって神の憐れみを知り、その神を信じ、救い主イエスによって神の憐れみにすがるほかない惨めな自分であるとつくづく思い知らされ続けるからです。その彼らは救い主イエスの御名によって、日夜、憐みの神に向けて呼ばわり、そのようにして神の憐れみを受けとりつづけます。「罪深い私だ。本当にそうだ」と感じ取ることが出来るからこそ、私たちは日毎に神に心底から感謝し、主イエスに信頼を寄せて生きることができます。その信仰が道を逸れてしまうとき、まず祈りが弱くされます。信仰が神に祈り求める心を生み出し、心を注ぎだして祈りつづけることが、その信仰を堅くし、支えつづけます。そのようにして私たちは、「すべての信頼を神に置き、そのご意思に服従し、自分自身にではなく他の誰にでもなく、ただ神にこそお仕えすることができます。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求め、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めること」ができます。

 聖書は証言します、「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(「ジュネーブ信仰問答 問7」Jカルヴァン,ピリピ手紙4:5-7。祈りは、私たち自身の心と思いを救い主イエス・キリストによって守っていただくための道具であり、あのための欠くことのできない手段でありつづけます。ですから先ほど、「あなたは、普段、どのように祈っておられますか」とお尋ねしました。自分自身を振り返って、よくよく確かめてみる必要があるからです。

 

       《祈り》

       主なる神さま。感謝と信頼をもって、あなたに祈りと願いをささげる私たちであらせてください。そのようにして、神ご自身の平安が、私たちの日毎の心と思いを、救い主キリスト・イエスによって堅く守りつづけてくださいますように。神が私たちのためにも生きて働いておられますことを、はっきりと信じさせてください。このただ一つの願いを、生涯ずっとかなえつづけてください。主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン

 


7/11こども説教「髪の毛1本までも神が守る」使徒27:33-38

 7/11 こども説教 使徒行伝27:33-38

 髪の毛1本までも神が守る

 

27:33 夜が明けかけたころ、パウロは一同の者に、食事をするように勧めて言った、「あなたがたが食事もせずに、見張りを続けてから、何も食べないで、きょうが十四日目に当る。34 だから、いま食事を取ることをお勧めする。それが、あなたがたを救うことになるのだから。たしかに髪の毛ひとすじでも、あなたがたの頭から失われることはないであろう」。35 彼はこう言って、パンを取り、みんなの前で神に感謝し、それをさいて食べはじめた。36 そこで、みんなの者も元気づいて食事をした。37 舟にいたわたしたちは、合わせて二百七十六人であった。38 みんなの者は、じゅうぶんに食事をした後、穀物を海に投げすてて舟を軽くした。                 (使徒行伝27:33-38

 

 海の上をさまよっていたその2週間もの間、皆は、ほとんど何も食べないで過ごしていました。恐れに取りつかれ、生きる希望もほとんど失いかけて、食事をする気にもなれなくなっていたからです。33-34節、「夜が明けかけたころ、パウロは一同の者に、食事をするように勧めて言った、「あなたがたが食事もせずに、見張りを続けてから、何も食べないで、きょうが十四日目に当る。だから、いま食事を取ることをお勧めする。それが、あなたがたを救うことになるのだから。たしかに髪の毛ひとすじでも、あなたがたの頭から失われることはないであろう」。パウロと仲間たちばかりではなく、その船に乗り合わせているすべての人々を救ってくださると神が約束してくださっています24節)食事をして元気を出しなさいと励ましただけではなく、「神が救ってくださる」ことを皆に思い出させました。だから食事をする気持ちにもなって、元気が出て、それで飲み食いをすることもできました。あなたがたの髪の毛一本でも、あなたがたの頭から、ただ虚しくは 失われることはない。なぜなら、一本ずつの髪の毛まで含めて、神さまが彼らの生命と安全を保障してくださっているからです。食事のときに、神に感謝して祈りました。生きるためのパンを与えてくださった神が、パンだけでなく彼ら皆のいのちさえ守っていてくださることを神に感謝しました。37節で、「船に祈り合わせていたのは皆で276人だ」とわざわざ報告されています。髪の毛1本1本のように、この1人1人のいのちを神が守ってくださっている。この大切なことを、あの彼らも私たちも、ちゃんと、いつも覚えておくためにです。

2021年7月5日月曜日

7/4「終わりの日に」ルカ17:26-37

               みことば/2021,7,4(主日礼拝)  326

◎礼拝説教 ルカ福音書 17:26-37                    日本キリスト教会 上田教会

『終わりの日に』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:26 そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。27 ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。28 ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。31 その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。32 ロトの妻のことを思い出しなさい。33 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。34 あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。35 ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。36 〔ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。37 弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。   ルカ福音書 17:26-37

                                               

5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。26 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。   (ガラテヤ手紙 5:24-26)


 26-31節、「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな」。この世界の終わりの日に、救い主イエスが審判を行い、世界のための救いをまったく成し遂げるために、やがてふたたび来られます。「ノアと家族が箱舟に入ったとき、大洪水が起こって、すべてを滅ぼし尽くした日のように」、その日は来る。「ソドムの町が滅ぼされたとき、ロトとその妻と娘たちが逃げ延びようとして、けれどその妻と、他すべての住民たちが滅ぼされたその日のように」、その日はやってくる。とても厳しい光景を描き出しながら、そのときキリストの教会と私たち自身を含めて、この世界にどんなことが起こるのかを、救い主イスご自身が語り聞かせておられます。別のところで聖書は証言します、「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、……突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう」(1テサロニケ手紙5:3-6

 平和と豊かさを楽しんでいたはずの、この日本も含めて世界中の国々が、救い主イエスがふたたび来られる終わりの日に、ここまで徹底して打ち砕かれ、ひっくり返される。その姿が、あからさまに描き出されています。救い主イエスがふたたび来られるとき、この世界と多くの人々は、なお悔い改めておらず、神へと立ち返っていません。主であられる神を知る知識に満たされてもおらず、神との平和はなおまだ、この地上に築きあげられてもいません。神を信じて、その御心にかなって生きようとする者たちは、ノアやロトの時代と同じように、その日にも、また今日でも、ほんのわずかしかいません。

 だからこそ私たちは、自分自身に気をつけていなければなりません。この自分がいったい何を思い、何を願い求め、どのように一日ずつを生きているのかと。神を知らず、信じることもしない人々と同じように、「食べたり、飲んだり、ものを売り買いし、食物を植え、家を建て」て、ただそういうことのためだけに生きて死ぬのであれば、もし、そうであるならば、それはまったく不十分です。ソドムの町とその暮らしから逃れて、この私たちも、ロトとその家族のように生きのびる必要があります。大洪水が迫る日に、ノアと家族と生き物たちのように、神の箱舟に避難する必要があります。そうでなければ、この私たちも滅び去ってしまうからです。救い主イエスがふたたび来られる日に、その日は、ノアが箱舟にはいった日のようにやってきます。ロトと家族がソドムの町から出ていった日のように、やってきます。

 32-36節、「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。「ロトの妻のことを思い起こしなさい。あの彼女がどう振る舞い、どのように去っていったのかを覚えていなさい」と命じられます。彼女は、神を信じて生きる人の妻であり、その家族でした。夫ロトを通して、アブラハムとも深い結びつきの中に生きていました。神の命令によって夫ロトが自分と家族のいのちを救うためにソドムの町を出たとき、あの彼女も夫や娘たちと共にその町を逃れ出ました。けれども、彼女は後ろに残してきた町と親しい人々と、そこでの暮らしに、ついつい自分の心を残してしまいました。神の御使いは、あのとき彼らに厳しく言い渡していました、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」(創世記19:17。後ろを振り返ってはならないときつく戒められていましたが、あの彼女は振り返ってソドムの町を見て、すると直ちに死んで塩の柱に変えられてしまいました。「ロトの妻のことを思い起こしなさい」と私たちも、救い主イエスご自身の口によって戒められます。彼女に起こった出来事は、神を信じて生きるすべてのクリスチャンのための戒めであり、警告です。救い主イエス・キリストがふたたび来られるとき、多くのクリスチャンがその同じ誘惑にさらされるのかも知れません。ソドムの町と、その日々の暮らしと、そこで慣れ親しんだ人々に引かれる心を、この私たち自身も自分の胸に持っているからです。救い主イエスに仕えながら、自分の連れ合いや家族に仕え、救い主イエスに喜んでもらいたいと願いながら、正直なところ、自分の家族や親族や親しい友人たちにも喜んでもらいたい、また自分自身の心をも喜ばせたいと願う私たちです。この世界とソドムの町々と、そこでの暮らしと人々に心魅かれつづける私たちです。それで、こどものための信仰問答はこう語りかけます、「あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか」。「いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます」。

 33節、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」。エルサレムの都に向かって、そこに待ち構えている十字架上での死と、葬りと、復活に向かって上って行かれるとき、主イエスは弟子たちに繰り返し、同じ一つのことを語り聞かせていました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカ9:23-25救い主イエスに従って生きてゆくためには、自分を捨て去る必要がありました。「自分がしたいこと。したくないこと。自分の欲望や願い」、それらを「捨て去るべき自分。自分のいのち」と言い表されていました。それに執着し、こだわりつづけて抱え持っている間は、主イエスに従うことができないと。自分自身を捨て去り、自分を退け、否定すること。神を自分のご主人さまとして迎え入れ、自分の中に神の居場所と働き場所を確保するためには、自分自身のための働きを後ろへ退けて、脇に控える必要があります。「私が私が」と我を張って、いつまでもどこまでも私が自分のための主人であり、中心であり続けている間は、神の御心とそのお働きは邪魔されつづけています。主イエスに従っていくこともできません。主イエスにご主人さまとして力を発揮していただくためには、その邪魔をしている自分の一切の欲望を投げ捨てる必要があります。そのようにして初めて、そこでようやく、私たちは幸いに生きることができます。神に信頼し、聞き従い、神への従順のうちに日々の生活を生きること。ここに、私たちのための格別な幸いがあります。なぜ、この私たちは、自分のために用意されている十字架を背負い、苦しみと悩みに耐えなければならないのか。それこそが、神にこそ十分に信頼し、聞き従って生きるための訓練であるからです。自分自身の弱さや危うさを、私たちはよくよく知らねばなりません。しかも私たちはとても思い上がりやすい性分をもっていて、ついつい他の人間たちに対しても神さまに対しても頑固に自惚れて、思い上がってしまうからです。恥を受け、重い病に苦しみ、さまざまな困難や悩みの中でへりくだらされて、そこでようやく神の御力と憐みを呼び求めることを私たちは学びはじめます。聖書は証言します、「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない」(ガラテヤ手紙5:24-26。だからこそ主イエスは仰います。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救う」と。そうか。自分の命だと思い込まされていたものは自分の肉と情と欲の誘惑にすぎず、ただ虚しいだけの偽りの命でした。本当の生命は、救い主イエスによって、ただ神から贈り与えられます。

 37節で、「主よ、それはどこであるのですか」と弟子たちが問いかけたのは、語られた主イエスの言葉によって彼らがひどく混乱し、心を乱していたからです。さて、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。「死体」とは何なのか。そこに集まってくる「はげたか」とは何か。はげたかたちは死体に何をしようとするのか。多くの解釈と議論がなされつづけて、この発言の意味はよく分かりません。ただ、「罪の中で死んでいた私たち」であり、「神の恵みによるのでなければ、罪に死んでいた者は誰も神の国に入ることはできない」と、世々の教会は習い覚えてきました(エペソ2:8,ヨハネ3:5,使徒4:12,ローマ5:6-12,8:11。私たち自身の心とその普段の生活の只中で、なお罪が力を発揮し、私たちを『罪の中に死んでいる人間』へと連れ戻そうと狙いつづけます。だからこそ神の恵みによって、新しく御心にかなって生きる者であらせていただきたいのです。御霊の働きによって生かされ、その御霊によって進んでゆくことができますように。しかも、キリストに属する私たちであるので、そのように生きることができるからです。神ご自身が、そうさせてくださるからです。