2020年7月6日月曜日

7/5「信じるためのしるし」ルカ11:29-32


                           みことば/2020,7,5(主日礼拝)  274
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:29-32                     日本キリスト教会 上田教会
『信じるためのしるし』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:29 さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。30 というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。31 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。32 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。   (ルカ福音書 11:29-32)
                                               
7:10 主は再びアハズに告げて言われた、11 「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。12 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。13 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。                     (イザヤ書7:10-14)

12:3 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。                      (1コリント手紙12:3)

29節、「さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、『この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう』」。この時代は邪悪な時代であると、救い主イエスは集まった人々に語りかけました。「邪悪である」とは、神を侮り、不信仰に陥り、心を頑なにし、傲慢やむさぼりに陥ってしまう状態です。それはもちろん、どの時代や社会にもありつづけ、私たち一人一人の心の中にもそういう性質が深く根付いてもいます。主イエスが人々に語りかけていた時代や社会、またそこにあつまった人々の中に、そうした不信仰や傲慢さ、心の頑なさがたしかにあったことでしょう。けれど、その人々についての推測はほどほどのことにしておかねばなりません。むしろ、今これを聞いている私たち自身、一人一人の中にそういう邪悪さがあると認めねばなりません。神や周囲の人々を侮り、不信仰に陥り、心を頑なにし、ついつい思いあがって傲慢やむさぼりに陥ってしまう心の傾きが、自分自身にも確かにあると。だからこそ今日も、この私たちは、救い主イエスからの語りかけに耳を傾けています。その自分自身の神を押しのけようとする邪悪さや思い上がりや頑固さから救い出していただくためにです。
さて、神を信じるためのしるしを求めることと、自分自身が抱えている邪悪さや不信仰についても思い巡らせてみましょう。必ずしも、神を信じるためのしるしを求めることが邪悪であり不信仰だというわけではありません。むしろ私たちの心の中を探り、心にあることをすっかり見通しておられる神です。
例えばギデオンは、臆病さや人間中心の思いのために、神に信頼を寄せることがなかなかできませんでした。「もしできることなら、ぜひ神を信じたい」と願いました。それで、神を信じるためのしるしを神に求めました。何度も何度もです。岩の上でパンを真っ黒こげに焼き焦がしていただいたり、羊の毛皮を地面の上に敷いて、夜の間に毛皮だけ濡れて地面が乾いているようにしていただいたり、逆に毛皮が乾いていて地面が濡れているようにしていただいたり、もう一度もう一度と(士師記6:17-40。神はギデオンの願いに応えて、何度も何度もしるしを与えつづけます。神を信じることのできない人間ではなく信じる人間にしてあげたいと、その彼を憐れんだからです。このことをいつも思い起こします。ギデオンと正反対に、とても不信仰で心の頑なな、神を信じることを拒み続けるアハズという名前の王がいました。「しるしを求めよ。それを与える。そして、あなたは神を信じなさい」と語りかけられました。けれどアハズ王は、頑として拒みました。「しるしを求めて神を試みることなど私は決していたしません」と。預言者は不信仰で傲慢な王を叱りつけてこう語りかけました、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ書7:13-14。不信仰でかたくなな王を叱りながらも、けれど神の民とされた先祖と私たちを憐れんで、神は私たちに神を信じて生きるための一つのしるしを贈り与えてくださいました。インマヌエル、神はわれらと共にいますと呼ばれる救い主イエスをこの地上に、私たちの間に遣わすこと。これこそが、神からの最も大きな恵み深い贈り物です。神は憐れんでくださり、私たちが自分自身の不信仰と傲慢さに打ち勝つためのしるしを差し出しつづけます。例えば主イエスの弟子トマスは、救い主イエスの復活を信じたくても信じられませんでした。疑い深さと心の頑固さが彼自身を悩ませ、苦しめていました。「私はその手に釘の跡を見、わたしの指をその釘跡に差し入れ、また、わたしの手をその脇の槍の傷跡に差し入れてみなければ、決して信じない」とトマスは言い張りました。その彼のために、救い主イエスはわざわざもう一度彼に合いに来てくださり、信じるためのしるしをトマスに差し出します。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」」(ヨハネ福音書20:27-29。しるしを見ても見なくても、神を本気で心底から信じて生きることができるなら、その人は幸せです。トマスは、てのひらの釘跡やわき腹の刺し傷に手を入れるまでもなく、信じる者とされました。「わが主よ、わが神よ」と救い主イエスの御前にひれ伏して、喜びにあふれました。なんと幸いなことでしょう。
 さて、私たち人間の心の中に巣くう邪悪さや不信仰は、信じるためのしるしを求めるかどうかではなく、その一人一人の心の中にありました。不信仰に留まろうとするその傲慢さや、心の頑固さです。30-32節、「というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」。神を知る知識を聞きたいと願って、遠い南の国から女王がソロモンに会いに訪ねてきました。そのソロモンよりも、何倍も優って神を知る知識を授ける独りのかたがおられます。救い主イエス・キリストです。また預言者ヨナは、悪の町ニネベに遣わされ、町を行き巡りながら、「四十日を経たらニネベは滅びる」と呼ばわりつづけました。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで悔い改めて神へと立ち返るしるしに荒布を着ました。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。荒布をまとうことも、断食も、灰の中に座ることも、皆すべて悔い改めて神へと立ち返るしるしであり、その心のあらわれです。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった(ヨナ書3:4-10。とても悪いニネベの町の王は滅びを告げる厳しい宣告に心を刺し貫かれ、打ち砕かれ、思いあがっていた心を低く屈めさせられました。ひたすら神に呼ばわり、それぞれ自分自身のその悪い道、日ごろの行ない、およびその手にある強暴を離れよ。「神がわれわれを滅ぼすのを止めてくださるに違いない」と考えたのではありません。そうすれば、「もしかしたら、許してくださるかも知れない」と神ご自身の憐みに期待をかけました。ソロモンの知恵にまさり、預言者ヨナの死と滅びの宣教に遥かにまさる、ただお独りの方がおられます。救い主イエス・キリストです。
 32節、「ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである」。ニネベの町の人々のことを思い起こさせながら、ご自身とその福音を拒む人々に向けてなお救い主イエスは語りつづけます。あのニネベの町で、真実な神についての言葉を少しも聞いたことが無かった不信仰な人々が、ふらりとやってきた、どこの誰とも分からない外国人の宣教の言葉を聞いて悔い改めた。それに比べて、あなたがたはどうだと。ニネベの人々は神の預言者を見たこともなく、その教えを聞いたこともなかった。預言者ヨナは、敬われるはずのどんな風貌も威厳もなく、どこの馬の骨かも分からない怪しい人物として退けられて当然でした。けれどもその彼らの耳と心は、無きに等しい小さな使者の口から出た貧しい言葉に対して開かれ、胸を刺し貫かれ、彼らは神へと立ち返りました。その使者は神から遣わされた者であり、その口から出た言葉は、神ご自身の御心を教える神の言葉であると分かったからです。その一方で、主イエスの目の前にいた人々は神の国の福音を救い主ご自身の口から聞きながら、なおこのかたが天から遣わされた教師であり、約束されていた救い主であると認めることができませんでした。また地上で福音を宣べ伝えていた間は、多くの人々はこのかたを信じることができませんでした。

信じさせていただく前には、この私たちも神ご自身の力や慈しみ深さを疑い、拒み、退け続けていました。神を侮り、神に逆らいつづける邪悪なものをたくさん抱えていた私たちです。
 にもかかわらず、いま、私たちは『イエスは主である』と信じています。何が起こったのでしょうか。「誰でも聖霊によらなければイエスは主であるということはできない」(1コリント手紙12:3と聖書は証言します。つまり、もし私たちが今、『イエスはこの世界にとっても、また私自身にとっても主であられる。私はその主人に仕えるしもべにすぎない。主人であられる救い主イエスへの信頼、このお独りの主人への忠実こそが私たちに命じられている』とはっきりと知り、そのことを堅く信じているとするならば、それは聖霊なる神ご自身のお働きの結果です。神ご自身が、この私たち一人一人のためにも、神を信じて生きる心を贈り与えてくださったからです。神の御霊が私たちのうちに確かに宿り、そこで生きて働いておられ、この私たちのためにも良い業をなしつづけておられます。


7/5こども説教「外国人への伝道」使徒18:5-8


 7/5 こども説教 使徒行伝18:5-8
 『外国人への伝道』

18:5 シラスとテモテが、マケド ニヤから下ってきてからは、パウロは御言を伝えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかしした。6 しかし、彼らがこれに反抗してののしり続けたので、パウロは自分の上着を振りはらって、彼らに言った、「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」。7 こう言って、彼はそこを去り、テテオ・ユストという神を敬う人の家に行った。その家は会堂と隣り合っていた。8 会堂司クリスポは、その家族一同と共に主を信じた。また多くのコリント人も、パウロの話を聞いて信じ、ぞくぞくとバプテスマを受けた。
(使徒行伝18:5-8

 別のところで神さまのために働いていた仲間たち、シラスとテモテが戻ってきてくれました。1節で、パウロは御言を伝えることに専念し、「イエスがキリストであることを証しした」と。イエスこそ救い主であり、このお独りのかたを信じて救われる。神の国の福音も、聖書の中身も、このことを教えつづけます。
 さて、もちろんいろいろな人々がいます。ユダヤ人の中にも、救い主イエスが宣べ伝える神とその福音を信じる人たちもいれば、信じない人々もいました。もともとユダヤ人でなかった外国人の中にも、信じる人たちと信じない人たちがいます。どうしたわけかユダヤ人たちは、ずっと長い間、「神さまはユダヤ人だけの神であり、ユダヤ人だけの祝福と救いだ」と思い込みつづけていました。けれど、それは大間違いでした。なぜなら神さまはこの世界のすべてをお造りになった神ですから、すべての人間と生き物に神を信じて生きてゆくようにと願いつづけておられるからです。神を信じて、この神さまからの祝福を受け取りながら生きるようにと(創世記12:1-3参照)。パウロたちは、「今から私は異邦人のほうに行く」と言って、神の国の福音をもっぱらユダヤではないその他の人たちに伝えることに自分たちの働きをしぼりました。いよいよ、いろいろな外国人たちにも神の国の福音が伝えられ、その中から神を信じて生きてゆく人々が生み出されてゆきます。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として」(マタイ福音書28:19と救い主イエスから命令されていたことが、少しずつ実を結んでいきます。


2020年7月1日水曜日

私を導く讃美の歌 ♪神はわが力


私を導く讃美のうた    (お試しサンプル品⑤/讃美歌286番) 
♪ 神はわが力  

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。1954年版讃美歌の286番、賛美歌21457番『神はわが力』。昔の言葉遣いにもだんだん慣れてきて、あまり苦にならなくなってきましたか。そうだと嬉しいんですけど。また少し整理しておきましょう。2節2行目、「我いかで恐れん」。どうして恐れることがあるだろうか。はいはい、例の質問しているようで全然質問じゃない言い方ですね。「どうして恐れることがあろうか、いや、あるはずもない」。4節2行目、「与えて尽きせじ」は、いくら与えても与えても、(その命も水も)尽きることがない。
 さて、楽譜の右下に小さい文字で詩46:1と記されています。むしろ詩編46編の全体がこの祈りの歌に生命を送り込んでいるようです。読んでいてまず気づきましたが、この歌の2節、3節、4節では水の様々な姿が次々と私たちの目の前に現れます。2節では、ノア時代の大洪水そのもののような、暴力的で圧倒的な力を帯びて荒れ狂う海。その海が地上のすべてを今にも飲み込んでしまおうとする。それなのに、「私はどうして恐れるだろうか、恐れるはずもない」。でも、なぜでしょう。その祈りの人より、海の水のほうが遥かに強いことはよくよく分かっている。それなのに彼は「へっちゃらだよ」と涼しい顔をしている。神さまに信頼しているからです。海よりも山よりも、他の何よりも主なる神さまご自身の権威と力こそが圧倒的である、本当にそうだと確信しているからです。世界を覆い尽くそうとする荒ぶる海に対して、主なる神はそれに限界を定め、海を押し止める扉にかんぬきを付け、「ここまでは来てもよいが超えてはならない。高ぶる波をここで止めよ」と命じました。「黙れ、鎮まれ」と波や風を叱りつける神さまだったのです(ヨブ記38:10-11,マルコ4:39)。3節、4節では一転してその水は人々を潤し、疲れを癒す恵みの贈り物となります。新しい生命を与え、それは尽きることがないと喜びにあふれて歌っています。また生命を与える水は『み言葉の水』であると。
 それにしても、1節、2節、3節で語りかけられている中身は少し抽象的で、漠然としている気がします。例えば1節、この人は苦しみの只中で神さまの力を感じ取っています。すごく身近で現実的なものとしてです。2節で、天変地異の恐るべき脅威にさらされながら、それら諸々の力を遥かに超えた神さまの力を実感させられている。5節も同じです。これまで自分を悩ませ続けてきた苦しみが跡形もなく消え去ってしまうほどの、神さまご自身からの平和をついに受け取って、その平和に包まれています。何かが起こった。その1人の祈りの人と神ご自身との決定的な出会いが。さて、これらすべてを説き明かす鍵は歌の1節2行目だと思えます、「苦しむとき、私のすぐ傍らにある助けだ」。どういうことでしょう。神さまからの助けは近づいたり遠ざかったりするのでしょうか。しかも苦しんでいるときには近づき、あまり苦しんでいないときには神さまからのその助けは遠く離れている。むしろ、神さまの力や助けに近づいたり遠ざかったりするのは、もっぱら私たち人間の側だったのではありませんか。苦しむとき、自分自身の弱さや危うさをつくづくと実感するとき、私たちは主なる神さまの御もとへと駆け戻り、そこでようやく「助けてください。どうか支えてください」と呼ばわりはじめます。『苦しい時の神頼み』と言います。普段は神も仏も拝まない信仰心のない人間が苦しい時や困難に出会ってそこで神に助けを求める姿を、「なんだ。あれは」と少し批判的に眺める人々がいます。けれど、そこにはかなりの道理も潜んでいました。じゃあ、日頃から神を拝んでいるはずの私たちは、苦しむとき悩むときにどうするのか。もちろん必死になって神さまを拝み、神の助けと慈悲を求めてしがみつきます。いや待ってください。何不自由なく暮らしている間は、私たちの信仰や祈りはどことなく他人行儀で形式的で、なんだか上っ調子になりました。だからこそ、「弱き我も力尽くし、わが主にすがらば力をぞ得ん」と歌いました。弱くて危うい私だとつくづく思い知らされ、そこでようやく主にすがり、主にしがみつき、主からの助けと力とを受け取りました(「主のまことは」讃美歌85)。また、「我弱くとも主は強ければ恐れはあらじ、ああ本当にそうだ」と分かったのは、やはり私自身の弱さを思い知った後のことでした。それまでは、主が強いなどとは思ってもいず、自分が強くてしっかりしているから大丈夫だと自惚れていました(「主われを愛す」讃美歌461)。とても苦しむまでは、「間に合っています。結構です」などと主の力を自分で遠ざけていました。
 この詩編46:10は、そのような私たちと神さまとのやりとりの姿をよく言い表しています。10節の直前で主なる神さまはまず弓を砕き、槍を折り、盾や戦車を焼き払う。そのうえで、「静まりなさい」「そして知れ」。文語訳聖書では、「なんじら静まりて、我の神たるを知れ」。新改訳では、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」。口語訳では、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」。新共同訳では、「力を捨てよ、知れ、わたしは神」。元々の言葉では、「こだわって抱え込んでいたものを放棄し手放して、静かにすること」。そのようにして初めて、神が神であられることを知ることができる。ですから新共同訳の「力を捨てよ」は1歩踏み込んで、その意味を明らかにしようとしました。私たちの心をざわめかせていたものは、力への渇望でした。虚勢を張り、いつまでも鎮まることができなかったのは、自分自身の力に執着して、「自分が自分が」とどこまでもこだわっていたためでした。すると、神に敵対する諸国民に対して「力を捨てよ」と命じられていただけではなくて、むしろ神さまに信頼して生きるはずの私たち自身に対して同じく全く「力を捨てて鎮まれ」と命じられていました。そうでなければ、いつまでたっても神を知ることも信じることもできないだろうと。
 神の民イスラエルの歴史は、まさしく力に目の色を変えて右往左往し、心を惑わせつづけた歴史でした。今日でもまったく同じだと思えます。例えばモーセに率いられてエジプトを脱出する際、葦の海を渡ろうとしていたとき、追い迫ってくるエジプト兵の軍勢に圧倒されて人々はパニックに陥りました。主は語りかけました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(出エジプト記14:13-14)。預言者イザヤも同じことを語りつづけました。「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。『そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう』と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また『速い馬に乗ろう』と言ったゆえに、あなたたちを追う者は速いであろう」。さらにこう言いました、「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし、御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家、悪を行う者に味方する者を攻められる。エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」(イザヤ書30:5-16,31:1-3)。例えばギデオンと仲間たちがエン・ハロドのほとりに陣を敷いたとき、敵方のミディアン人の軍勢は圧倒的多数でした。けれど主は兵力の増員増強をではなく、それどころか逆に、「こちらの兵力を減らす」と仰る。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と」(士師記7:32-3)。こうして兵力は32000人から10000人へ、さらに300人へと減らされます。心がすっかり折れてしまいそうなほどの、驚くべき兵力削減。もし万一、これで勝てたとしたら、自分たちの力で勝利を勝ち取ったとはとうてい言えない、「ただ恵み。ただただ恵み」としか言えないような兵力でした。また例えば、大男のゴリアトと戦った1人の小さな羊飼いの少年は、晴れ晴れとして呼ばわりました、「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ」(サムエル記上17:45-17)。ずいぶん長い時間が過ぎて、主イエスの弟子たちは余分なものをすっかり脱ぎ捨てさせられ、丸裸にされて、新しく出直しました。見栄を張り体裁ばかりを取り繕っていたはずのあまりに生臭い彼らが、やがてこんなことを言い始めるのです;「私たちを見なさい。私には金や銀はないが持っている飛びっきりに素敵なものをあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒3:6参照)
 兄弟姉妹たち。恵みのときは、この私たちのためにはいつ訪れるでしょうか。「神ご自身の力こそ、苦しみのときの近き助けである。ああ本当にそうだ」と喜びと感謝にあふれるときは、いつ来るでしょうか。自分自身の力への渇望を、主はこの私たちのために、いつ打ち砕いてくださるでしょう。悩みと苦しみの中で、主の恵みは十分であるととうとう受け止めることができた兄弟がいました。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリント手紙(2)12:9-10)。本当でしょうか、それともただの社交辞令に過ぎないのでしょうか。満足しているって言うのですから、本当に、いま現に満足しているのです。なぜ。神さまが満足させてくださったからです。神さまご自身が彼を打ちのめし、「参りました」と彼を屈服させ、弱くされたあの彼の内に、ついにとうとうキリストの力を宿らせてくださったからです。キリストの力を、彼自身の弱さの中で、いよいよ十分に発揮させはじめてくださったからです。だから今現に、彼は大いに喜んでいます。それはもはや「誇り」となどではなく、むしろ感謝です。ただただ感謝です。なにしろ、「こんなに素敵でご立派な私だぞお」ではなく、「こんなに素敵な神さまだあ」と。「神ご自身の力こそ、苦しみのときの近き助けである。ああ本当にそうだ」。「弱き我も力尽くし、わが主にすがらば力をぞ得ん」「我弱くとも主は強ければ恐れはあらじ、ああ本当にそうだ」。この飛びっきりに難しい1つの心得は、神さまご自身が直々に授けてくださるほかありません。私たちにも、ぜひ授けていただきたい。とても良い素敵な神さまがいてくださるからです。この私のためにも、あなたのためにも。しかも私たちは、その神さまと出会いました。その出会いを今日まで積み重ねてもきました。





2020年6月30日火曜日

6/28こども説教「コリントの町で」使徒18:1-4


 6/28 こども説教 使徒行伝18:1-4
 『コリントの町で』

18:1 その後、パウロはアテネを 去ってコリントへ行った。2 そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため、彼らは近ごろイタリヤから出てきたのである。3 パウロは彼らのところに行ったが、互に同業であったので、その家に住み込んで、一緒に仕事をした。天幕造りがその職業であった。4 パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。                          
(使徒行伝18:1-4

 いよいよコリントの町での伝道がはじまり、ここにもキリストの教会が建てられていきます。主の弟子パウロは、ここでアクラとプリスキラというテント造りの職人夫婦といっしょに仕事をし、またその家に迎え入れてもらって住まわせてもらいました。彼らが神の国の福音を宣べ伝えるためにも、手助けをしつづけてくれました。1節を読むと、そのアクラとプリスキラという夫婦は、「クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため、近ごろイタリヤから出てきた」と書いてあります。ローマというとても大きな国の王様は、すべてのユダヤ人をローマから追い出しました。それは、神を信じる彼らの信仰が邪魔で、王様にとってはとても都合が悪かったからです。無理矢理に追い払われても、それでも、ほとんどのユダヤ人たちは神さまを礼拝することを止めませんでした。ユダヤ教に対しても、キリスト教に対しても、きびしい取り扱いがつづきます。その中で、神の国の福音がこうして宣べ伝えられていきます。



6/28「神の言葉を聞いて、それを守る人たち」ルカ11:27-28


                           みことば/2020,6,28(主日礼拝)  273
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:27-28                     日本キリスト教会 上田教会
『神の言葉を聞いて、それを守る人たち』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:27 イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。28 しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。             (ルカ福音書 11:27-28)
                                               

6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。……16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、18 罪から解放され、義の僕となった。   (ローマ手紙 6:3-18)

 救い主イエスは、神の国の福音について語りかけつづけておられます。聖書の神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるのか。隣人や職場の同僚や自分の大切な家族との、普段のいつもの付き合い方をどうすることができるか。毎日の暮らしをどう建てあげてゆくことができるのかという根本問題について。つまりは、神からの福音と律法の本質と生命についてです。27-28節、「イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、『あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう』。しかしイエスは言われた、『いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである』」救い主イエスは神でありながら、生身の肉体を取ってこの地上に降り立ち、人間となってくださいました。恵みに値しない罪人である私たちを罪から救い、神の子供たちとして迎え入れてくださるためにです。そのように生身の人間として生まれ育った際に、救い主イエスを生み育てた母親のおなかがあり、乳を吸わせて養った乳房があり、父親母親、いっしょに育てられた兄弟たちもいました。「その人たちは格別に幸いで、祝福され、とても恵まれている」と声を上げて叫んだ女性がいました。主イエスは、その声に応えて、はっきりと仰いました。「いいや、決してそうではない。神の恵みはそんなこととは何の関係もない。まったく別の事柄である」と。「恵まれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
 神の言葉を聞いて、それを守る人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。少し前に、ほぼ同じことを主イエスご自身が語りかけたことがありました。同じルカ福音書の6:46-49です、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。神に向かって、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。けれど、もし主の言葉を聞いてもそれを行わないならば、何の役にも立たず、それは虚しいだけです。主のもとに来て、主の言葉を聞いて行うとはどういうことでしょうか。神を信じる信仰によって、この私たちは、毎日毎日の暮らしを、どんなふうに生きることができるのでしょうか。その6章48-49節、「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし主イエスの言葉を聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
 神の言葉を聞いて、それを守り、また行って生きる人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。とても大切なことなので、2回繰り返して、念入りに告げ知らされています。よくよく注意を払って、このことを思い巡らせてみる価値があります。神の言葉を聞いて、それを守り、またそれを行って生きること。主イエスは、二種類の家を私たちの前に並べて見せます。よく見比べてみるようにと。一方は、土台なしに建ててしまった家です。もう一方は、しっかりした十分な土台と基礎の上に建て上げられた家です。これら二種類の家は、外見上はとてもよく似ていて、見分けがつきません。けれど雨が降り、洪水や津波や地震が押し寄せ、風が強くその家に打ちつけるとき、二つの家の違いは誰の目にもはっきりしてしまいます。しかも、私たちの地域にも間もなくはなはだしい雨が降りはじめ、あなたや私の家にも強い風がひどく打ちつけはじめます。
今日では様々な人々が救い主イエスの説教を聞いています。悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るようにと促されます。主イエスとその福音を信じるように。清い暮らしを送るようにと。すると、ある人々はただ聴くだけで満足せずに、実際に、神さまへと腹の思いも普段のあり方も向け返し、主イエスとその福音を信じて暮らしはじめ、実際に、神さまが心を痛めたり、嘆き悲しむような悪い行いをすることを止め、善い働きをすることを少しずつ習い覚えはじめます。その人々は、耳を傾けて聴く人々であるだけではなく、聴いた言葉を実際に行い、そのように暮らしはじめる人々です。この人々こそが、うっかりと土台なしに家を建ててしまう者ではなく、しっかりした十分な土台と基礎の上に自分の家を建て上げてゆく幸いな人々です。
  私たちのほとんどは大工さんではなく、建築の専門家でもありません。けれど、それぞれに家を建てています。建物のことではなく、その中身です。救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。あるいは神でありながら人となられた救い主イエスと身近に接して、親しくかかわった人間たちがいたとして、それがその人が毎日の暮らしを生きるうえでどんな影響を与えたのかと問われます。例えば、一個のキリスト教会が家です。一つの家族も家です。クリスチャンの一つの生涯も、建て上げられてきた一軒の家に似ています。私たちは一つの家族を築き上げ、建てあげていきます。一軒の家を建てあげてゆくように、毎日の生活を生きてゆきます。私たちそれぞれのごく短い生涯も、それぞれ一軒の家を建てあげてゆくことに似ています。さあ私たちは、この私自身は、どんなふうに自分の家を築きあげてゆきましょうか。屋根をどんな形にしようか。壁を何色にしようか。間取りや玄関周りをどうしようか。どんな家具を揃えようか。――いいえ。それよりも何よりも、なにしろ家を建てるための土台こそが肝心要だ、と主イエスはおっしゃるのです。地面を深く深く掘り下げ、大きな岩の上に土台をガッチリと据えて、そこに、あなたの家を建てあげてゆくならば。そうであるなら、大洪水になって川の水が押し寄せてくるときにも、激しい雨や嵐にも、あなたのその大切な家は少しも揺り動かされず、ビクともしない。私たちの人生が平穏であるとき、家の土台がどうなっているか、耐震強度がどのくらいかなど誰も気にも留めません。何の問題もないように思えます。この上田教会も。それぞれの職場や家庭生活も。夫婦や親子の関係も。子供たちを養い育てることも。先々のための私たちの蓄えも。けれど不意に突風が吹き荒れます。川の土手があまりにたやすく崩れ落ち、濁流が荒々しく押し寄せます。私たちの日々が脅かされるとき、その時に、苦労して建てあげてきた大切な家の土台が何だったのかが問われます。その時に、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と呼ばわったことや、礼拝に出席して神の言葉を聞いたこと、心に噛みしめ刻みつけたこと、心をこめて祈りつづけたことが、その人に何をもたらし、主なる神から何を贈り与えられつづけたのかが分かります。その中身こそが。
 やがて主の弟子の一人が、この同じ一つの真理をさらにはっきりと説き明かします、「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント手紙5:16-17救い主イエス・キリストに対しても、また他の誰に対しても自分自身についても、肉によって知ることはしないでおこう。「肉によって知ったり、判断したりする」とは、うわべの外観によって、ごく表面的な事柄によって見たり、軽々しく判断したりはしないというのです。なぜなら兄弟姉妹たち。洗礼を受けた最初の日から、私たち一人一人のためにも新しい自分がはじまり、神の御前で神に向かって生きる新しい生活がはじまったからです。クリスチャンとされた私たちはこの世界に対しても、古い罪の自分自身や肉の思いに対してもすでに死んだ者とされ、それらと死に別れつづけ、それらと引き替えのようにして新しく生きる者とされたからです。また、自分自身としては無に等しい罪人であり、救い主イエスに仕えて生きるしもべとされたからです。耳を傾けて主の言葉を聴きつづけ、それだけでなく、聴いたことを実際に行い、そのように毎日の暮らしを積み重ねてきた私たちであるからです。聖書は証言します、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」、また「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」(ロ―マ手紙6:6-11,8:11。語られ、聞き重ねてきた神の御言葉こそが、私たちを神の憐みのもとに据え置き、私たちの心と行いとをキリストによって守りつづけます。主イエスご自身の口から聞いてきた言葉が私たちのうちにあり、私たちを清くしているからです(ヨハネ福音書15:3,7を参照「もっと豊かに実らせるために、(父が)手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」)。なんという幸い、なんという恵みでしょう。



 【補足/主日礼拝と説教】
    (1)主日礼拝。主イエス・キリストが死人の中からよみがえられたのが一週の第一日、つまり日曜日であったことから、初代のキリスト者たちは日曜日を主の日として、神に礼拝をささげるために用いるようになったのです。そこでは、み言葉が語られ、パンを裂く交わり(聖餐、せいさん)が持たれます。それは主イエスの復活の記念であると同時に、復活されたキリストとのいのちの交わりの場です。その中で、神への讃美、祈り、告白、献身といった信仰者の応答がなされます。この主日礼拝を誠実に守ることが、その日から始まる信仰者の日々を、神に仕えるものとして用いることにつながります。「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ手紙12:1ろ記されているとおりです。
    (2)礼拝説教。説教は、説教者による単なる聖書の解説や宗教講話や体験談などではありません。それは、主なる神の今、ここでの言葉を取りつぐことです。その日示された聖書の言葉に基づいて、聖霊の導きの下に説教者が教会の会衆と共に受け取った神のみ心が語られる、それが説教です。説教は、したがって、説教者個人の言葉ではなく、教会の宣教の言葉としての働きを担っています。礼拝者は、説教の言葉を「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れる」(1テサロニケ手紙1:13ことが大切です。
  説教が正しく(聖書に基づいて)語られ、正しく聞かれるところに教会は神の教会として存在します。そのために、説教者も礼拝者も祈りを欠かすことができません。パウロが、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、わたしのためにも祈ってください」(エペソ手紙6:19と訴えたことは、今日においても大切な教会の祈りの課題です。(『日本キリスト教会 教会員の生活』p5-6 日本キリスト教会出版局)


 救い主イエスは、神の国の福音について語りかけつづけておられます。聖書の神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるのか。隣人や職場の同僚や自分の大切な家族との、普段のいつもの付き合い方をどうすることができるか。毎日の暮らしをどう建てあげてゆくことができるのかという根本問題について。つまりは、神からの福音と律法の本質と生命についてです。27-28節、「イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、『あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう』。しかしイエスは言われた、『いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである』」。救い主イエスは神でありながら、生身の肉体を取ってこの地上に降り立ち、人間となってくださいました。恵みに値しない罪人である私たちを罪から救い、神の子供たちとして迎え入れてくださるためにです。そのように生身の人間として生まれ育った際に、救い主イエスを生み育てた母親のおなかがあり、乳を吸わせて養った乳房があり、父親母親、いっしょに育てられた兄弟たちもいました。「その人たちは格別に幸いで、祝福され、とても恵まれている」と声を上げて叫んだ女性がいました。主イエスは、その声に応えて、はっきりと仰いました。「いいや、決してそうではない。神の恵みはそんなこととは何の関係もない。まったく別の事柄である」と。「恵まれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
 神の言葉を聞いて、それを守る人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。少し前に、ほぼ同じことを主イエスご自身が語りかけたことがありました。同じルカ福音書の6:46-49です、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。神に向かって、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。けれど、もし主の言葉を聞いてもそれを行わないならば、何の役にも立たず、それは虚しいだけです。主のもとに来て、主の言葉を聞いて行うとはどういうことでしょうか。神を信じる信仰によって、この私たちは、毎日毎日の暮らしを、どんなふうに生きることができるのでしょうか。その6章48-49節、「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし主イエスの言葉を聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
 神の言葉を聞いて、それを守り、また行って生きる人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。とても大切なことなので、2回繰り返して、念入りに告げ知らされています。よくよく注意を払って、このことを思い巡らせてみる価値があります。神の言葉を聞いて、それを守り、またそれを行って生きること。主イエスは、二種類の家を私たちの前に並べて見せます。よく見比べてみるようにと。一方は、土台なしに建ててしまった家です。もう一方は、しっかりした十分な土台と基礎の上に建て上げられた家です。これら二種類の家は、外見上はとてもよく似ていて、見分けがつきません。けれど雨が降り、洪水や津波や地震が押し寄せ、風が強くその家に打ちつけるとき、二つの家の違いは誰の目にもはっきりしてしまいます。しかも、私たちの地域にも間もなくはなはだしい雨が降りはじめ、あなたや私の家にも強い風がひどく打ちつけはじめます。
今日では様々な人々が救い主イエスの説教を聞いています。悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るようにと促されます。主イエスとその福音を信じるように。清い暮らしを送るようにと。すると、ある人々はただ聴くだけで満足せずに、実際に、神さまへと腹の思いも普段のあり方も向け返し、主イエスとその福音を信じて暮らしはじめ、実際に、神さまが心を痛めたり、嘆き悲しむような悪い行いをすることを止め、善い働きをすることを少しずつ習い覚えはじめます。その人々は、耳を傾けて聴く人々であるだけではなく、聴いた言葉を実際に行い、そのように暮らしはじめる人々です。この人々こそが、うっかりと土台なしに家を建ててしまう者ではなく、しっかりした十分な土台と基礎の上に自分の家を建て上げてゆく幸いな人々です。
  私たちのほとんどは大工さんではなく、建築の専門家でもありません。けれど、それぞれに家を建てています。建物のことではなく、その中身です。救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。あるいは神でありながら人となられた救い主イエスと身近に接して、親しくかかわった人間たちがいたとして、それがその人が毎日の暮らしを生きるうえでどんな影響を与えたのかと問われます。例えば、一個のキリスト教会が家です。一つの家族も家です。クリスチャンの一つの生涯も、建て上げられてきた一軒の家に似ています。私たちは一つの家族を築き上げ、建てあげていきます。一軒の家を建てあげてゆくように、毎日の生活を生きてゆきます。私たちそれぞれのごく短い生涯も、それぞれ一軒の家を建てあげてゆくことに似ています。さあ私たちは、この私自身は、どんなふうに自分の家を築きあげてゆきましょうか。屋根をどんな形にしようか。壁を何色にしようか。間取りや玄関周りをどうしようか。どんな家具を揃えようか。――いいえ。それよりも何よりも、なにしろ家を建てるための土台こそが肝心要だ、と主イエスはおっしゃるのです。地面を深く深く掘り下げ、大きな岩の上に土台をガッチリと据えて、そこに、あなたの家を建てあげてゆくならば。そうであるなら、大洪水になって川の水が押し寄せてくるときにも、激しい雨や嵐にも、あなたのその大切な家は少しも揺り動かされず、ビクともしない。私たちの人生が平穏であるとき、家の土台がどうなっているか、耐震強度がどのくらいかなど誰も気にも留めません。何の問題もないように思えます。この上田教会も。それぞれの職場や家庭生活も。夫婦や親子の関係も。子供たちを養い育てることも。先々のための私たちの蓄えも。けれど不意に突風が吹き荒れます。川の土手があまりにたやすく崩れ落ち、濁流が荒々しく押し寄せます。私たちの日々が脅かされるとき、その時に、苦労して建てあげてきた大切な家の土台が何だったのかが問われます。その時に、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と呼ばわったことや、礼拝に出席して神の言葉を聞いたこと、心に噛みしめ刻みつけたこと、心をこめて祈りつづけたことが、その人に何をもたらし、主なる神から何を贈り与えられつづけたのかが分かります。その中身こそが。
 やがて主の弟子の一人が、この同じ一つの真理をさらにはっきりと説き明かします、「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント手紙5:16-17救い主イエス・キリストに対しても、また他の誰に対しても自分自身についても、肉によって知ることはしないでおこう。「肉によって知ったり、判断したりする」とは、うわべの外観によって、ごく表面的な事柄によって見たり、軽々しく判断したりはしないというのです。なぜなら兄弟姉妹たち。洗礼を受けた最初の日から、私たち一人一人のためにも新しい自分がはじまり、神の御前で神に向かって生きる新しい生活がはじまったからです。クリスチャンとされた私たちはこの世界に対しても、古い罪の自分自身や肉の思いに対してもすでに死んだ者とされ、それらと死に別れつづけ、それらと引き替えのようにして新しく生きる者とされたからです。また、自分自身としては無に等しい罪人であり、救い主イエスに仕えて生きるしもべとされたからです。耳を傾けて主の言葉を聴きつづけ、それだけでなく、聴いたことを実際に行い、そのように毎日の暮らしを積み重ねてきた私たちであるからです。聖書は証言します、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」、また「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」(ロ―マ手紙6:6-11,8:11。語られ、聞き重ねてきた神の御言葉こそが、私たちを神の憐みのもとに据え置き、私たちの心と行いとをキリストによって守りつづけます。主イエスご自身の口から聞いてきた言葉が私たちのうちにあり、私たちを清くしているからです(ヨハネ福音書15:3,7を参照「もっと豊かに実らせるために、(父が)手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」)。なんという幸い、なんという恵みでしょう。



 【補足/主日礼拝と説教】
    (1)主日礼拝。主イエス・キリストが死人の中からよみがえられたのが一週の第一日、つまり日曜日であったことから、初代のキリスト者たちは日曜日を主の日として、神に礼拝をささげるために用いるようになったのです。そこでは、み言葉が語られ、パンを裂く交わり(聖餐、せいさん)が持たれます。それは主イエスの復活の記念であると同時に、復活されたキリストとのいのちの交わりの場です。その中で、神への讃美、祈り、告白、献身といった信仰者の応答がなされます。この主日礼拝を誠実に守ることが、その日から始まる信仰者の日々を、神に仕えるものとして用いることにつながります。「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ手紙12:1ろ記されているとおりです。
    (2)礼拝説教。説教は、説教者による単なる聖書の解説や宗教講話や体験談などではありません。それは、主なる神の今、ここでの言葉を取りつぐことです。その日示された聖書の言葉に基づいて、聖霊の導きの下に説教者が教会の会衆と共に受け取った神のみ心が語られる、それが説教です。説教は、したがって、説教者個人の言葉ではなく、教会の宣教の言葉としての働きを担っています。礼拝者は、説教の言葉を「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れる」(1テサロニケ手紙1:13ことが大切です。
  説教が正しく(聖書に基づいて)語られ、正しく聞かれるところに教会は神の教会として存在します。そのために、説教者も礼拝者も祈りを欠かすことができません。パウロが、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、わたしのためにも祈ってください」(エペソ手紙6:19と訴えたことは、今日においても大切な教会の祈りの課題です。(『日本キリスト教会 教会員の生活』p5-6 日本キリスト教会出版局)


2020年6月24日水曜日

私を導く讃美の歌 ♪たえなる道しるべの


私を導く讃美の歌 (お試しサンプル品④) 
 ♪ たえなる道しるべの   (讃美歌288)   

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。
 『旅人の歌』シリーズ。56番、270番、285番と味わってきて、最後は1954年版讃美歌の288番です。賛美歌21では460番。ちょっと予告、次回からの4曲はクリスマスの讃美歌です。楽しみにお待ちください。さて、旅人の歌。信仰をもって生きてゆくことは、長い旅路を歩いてゆく旅人の姿に似ています。まず、1節と4節は双子の兄弟のようによく似ていますね。1節;「たえなる道しるべの光よ、家路もさだかならぬ闇夜に、さびしくさすらう身を導き行かせたまえ」。4節;「しるべとなりたまいし光よ、今よりなおも野路に山路に、闇夜の明けゆくまで導きゆかせたまえ」。「とても素敵な頼もしい道しるべの光」(119:97-112,ヨハネ福音書5:39-40)がある。それを私もこの手に掲げ持ち、その光に足元を明るく照らされながら歩いている、ああ本当に嬉しい、なんて心強いことかと噛みしめています。それが、私たちクリスチャンの生涯の姿です。足元を明るく照らし出す道しるべの光。それこそが希望と慰めの中身です。わが家と故郷はまだまだ遠い。それなのに日は暮れ、野道や山道を私は物淋しく心細く、トボトボさすらっている。そういう日々はあります。あなたにもこの僕自身にも。足腰弱り果てて、膝もガクガクしてきた。道端のちょっとした小石や凸凹に、よろけて倒れそうになる。そういう日々もあります。あなたにも、また他の誰にでも。けれどなお、主イエスご自身と主からの御言葉の光こそが頼みの綱であり、支えであると、この祈りの人は噛みしめています。
 さて、明るく輝く灯火のような、素敵な大きな人物たちが私たちの周囲にもいますね。信仰の世界でも、芸術や文化や学問や社会的な平和活動の分野でも、スポーツの世界でも。野球の好きな人々にとっては長島茂雄やイチローのような大選手。歌や芸能分野では、昔は美空ひばり、今はモーニングとかAKBなんとかとか。キリスト教の世界でもキング牧師、マザーテレサ、八重の桜、華岡青洲の妻、塩狩峠の青年。「こんなに素晴らしい信仰ですよ。ほらほら、見てください」とその素敵な彼らを私たちはキリスト教の宣伝材料に使おうとします。でも都合が良すぎますね。誇大広告にもなりかねない。「いいけど。でも確かあなたもクリスチャンでしたよね」「え、私ですかあ? いやいやいや、罪深くて愚かで小さくてふつつかで、あまりに恥ずかしいから私のことなんか見ないでください。もっぱら、マザーテレサやキング牧師のことばっかり注目してください」。えええ、それじゃあなんだかイカサマみたいだ。主イエスの時代には、明るく輝く灯火のその飛びっきりの代表選手は洗礼者ヨハネでした。「ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハネ福音書5:35)と救い主イエスご自身が仰いました。ほんのつかの間、明るく輝いて見せる者たちがいる。次から次へと現れては消えて、私たちを慰めたり励ましたり喜ばせたり、勇気を与えてくれたりもするでしょう。けれどその人間的な光はやがて直ちに衰えてゆき、彼らは皆、薄暗がりの中へとあっという間に立ち去ってゆきます。私たちもそうです。ほんのつかのま明るく輝く、線香花火程度の光では全然足りない。キング牧師、マザーテレサ、八重の桜、華岡青洲の妻、塩狩峠の青年らを1つに合わせたほどの大きな輝きをほんの束の間、手にしたところで、けれど私たちは幸せにはなれません。救い主イエス・キリストご自身が仰った;「わたしこそが世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」(ヨハネ福音書8:12参照)。テレサさんもキングさんもヨハネさんも光を分け与えることができません。この救い主イエスにならできる。だから主イエスを信じる人々もまた「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」(マタイ福音書5:14-16)とも約束されました。まことの光である主イエスを信じ、このお独りの方に聴き従って生きているし、その福音の光によって私たち自身の生き様や口から出る1つ1つの言葉も腹の思いも照らされつづけており、そのようにして、主イエスの福音の光を周囲の世界や人々に反射させることもできるから。主イエスの言葉と行いとを聞いて、信じた。それこそが、私たちが「世の光」「光の子」と呼ばれる中身であり、理由です。そうそう、もう1年分の放送メニューを組み立ててあるんですけど、来年の9月の終わり第51回目は子供讃美歌の「♪光の子になるため」を味わう予定です。賛美歌21-509番。子供讃美歌の121番;「1 光の子になるため付いて行きます。この世を照らすため来られた主イエスに。(くりかえし)主のうちに闇はなく、夜も昼も輝く。心の中をわが主よ、照らしてください。2 主の輝き見るため進み行きます。示された小道をみ神のみもとに。3 主のふたたび来る日を待ち望みます。信仰を守り抜き、み前に立つ日を」。この子供讃美歌を歌うたびに思います。ああ、そうだったのか。主イエスに付いてゆく。この主が私の心を照らして、暗がりに隠してあった心にも光を当てる。主の輝きを見るために進んでゆく。主を待ち望んでいるし、やがて主イエスの御前に立つ私だと。主イエスの明るく暖かな光をおすそ分けしていただきながら、私たちも、その同じ光の中を歩いてゆくことができる。それが神さまからの約束です。ね、素敵でしょ?
 2節を飛ばして先に3節;「あだなる世の栄えを喜び、誇りておのが道を歩みつ、虚しく過ぎにし日を、わが主よ、忘れたまえ」。この世界で高い地位や名声や財産や大きな栄誉を受けること。人々から誉められたり、感謝されたり、信頼を寄せられたりすること。人から誉められるだけでなく自分自身でも、まんざらでもない。「なかなかたいした人物だ。オレって」と。けれど、その自慢の種や誇りやプライドが自分自身の目をくらませ、歩んでいく足取りを危うくさせる。かけがえのない人生の時間を虚しく浪費させもする。こうした調子の指摘や警告はキリストの教会の中で繰り返し繰り返しなされつづける。伝道者たちがそのように語りかけるだけでなく、いくつもの讃美歌がそのように歌うだけでなく、やはり聖書自身が私たちにそれを警告しつづけます。これは、いったいどうしたわけでしょう。「クリスチャンは誇りやプライドを持ってはいけないんですか?」と度々文句を言われ、嫌な顔をされます。さあ、なんと答えることができるでしょう。聖書自身は、これについて何を語りかけるでしょう。高い地位や名声や大きな栄誉を受けること。人々から誉められたり、感謝されたり、信頼を寄せられたりすること。それらは良いものです。良いもので、とても魅力的なので、私たちの心を虜にしてしまいます。薬物依存症のように、それなしには生きていけない人間を作り出してしまいます。心の自由をすっかり奪ってしまう誘惑ともなります。分かりますか。どんな手を使ってでもそれを手に入れたくなるし、できなければあまりに惨めな虚しい気持ちになります。しかも『誇りやプライド』の中身は『これがあるから私は生きていける』という安心材料であり、頼みの綱です。腕が自慢の職人や料理人はその腕1本が生きてゆくための頼みの綱です。もし怪我でもして、その大切な腕が使えなくなったら、たちまち生活に困り始めます。お金が十分にあるし、銀行に預けてあるから安心だ。すると、その安心材料は直ちに不安材料ともなります。その銀行が倒産したらどうしよう。健康で元気でピンピンしているから安心。じゃあ病気になり年老いて働けなくなったらどうしよう。皆が好意をもってくれて色々助けてくれるから安心。すると、その人々から嫌われ見放されてしまったらどうしようか。もし、それが頼みの綱であり安心材料ならば、その人々から嫌われないように、皆から良く思われるように気をつけて、周囲の人々の顔色と空気を必死に読みつづけて生きていかねばなりません。うんざりするでしょ、息が詰まりますね。だから、「天に宝を積みなさい」と勧められました。ただ恵みによって救われたのだから誇りは取り除かれた。うぬぼれることも卑屈にいじけることも、あなたはもうしなくていいと教えられました。それでも、どうしても誇りたくて誇りたくて仕方がないなら、主なる神さまをこそ誇りなさい。それならいい。それ以外はやめておきなさいと(ローマ手紙3:21-28,コリント手紙(1)1:26-31)。そうすると歌の3節「わが主よ、忘れたまえ」。虚しい生き方をしてきましたが、それをジクジク叱ったり嫌味を言う神ではありません。それじゃあクリスチャンになって、誉められたりけなされたりして一喜一憂する虚しさや惨めさとキッパリ縁を切れたのかと問われるなら、どうです? そうでもない。いまだに、同じように、つまらないことでうぬぼれたりいじけたりしつづけている。忘れて、新しくなりたいのは、むしろ自分自身のほうです。それなら、「わが主よ忘れてください」ではなく、「主よ、私に、あの虚しい在り方を忘れさせてください。『誇る者は主をこそ誇れ』と聖書に書いてあるとおりの私になりたいのですと共々に願い求めたいのです。「世間的に見て繁栄している、豊かに満ち足りて快適に暮らしている、若くて体力もあり、健康で元気で、だから幸せ」と、信仰とは別の腹積りで、ずいぶん違う心得をもって歩いていた日々があり、そういう虚しい日々を思い起こす中で、この人はいっそう主への信頼を強めています。ああ。わたしは勘違いしていた。勘違いしながら、うぬぼれたり僻んだりしていた。けれど今は、この一筋の光こそが私の頼みの綱であると。
さて、2節。「行くすえ遠く見るを願わず、よろめくわが歩みを守りて、ひと足またひと足、導き行かせたまえ」。びっくりです。「ええ嘘ォ!」と誰もが驚くようなことを、この祈りの人は歌っています。「行くすえ遠く見ることを、私は願いません」と。5年後、10年後に、私がどうなっているか。私が死んだ後、愛する連れ合いや子供たち孫たちがどんなふうに生活を立てているか。困っていないだろうか、などと僕も気に病みます。それがどうでもいいというわけではありません。とても大切なことなんだけれど、だからこそ神さまにすっかりお任せして、それで安心、と晴々して歌っています。たとえ今、私の足腰や膝がガクガクヨロヨロしているとしても問題なし。このよろめく足を、私たちのおぼつかない危うい歩みを、けれど主こそが、ひと足、またひと足と導いてくださるなら。それなら安心だ。それなら心強い。ぜひそうしていただきたい。この1点をこそ願い、確信し、信頼し、感謝し、さらに願い求めています。
行くすえ遠く見るを願わず、よろめくわが歩みを守りて、ひと足またひと足、導き行かせたまえ。ここを歌う度毎に、びっくり驚かされます。ああ、そうだったそうだったと思い返します。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。一日分ずつの必要な糧、そこには今日一日の生命さえ含まれていたのでした。これもまた数ヶ月、数年分ずつではなく、一日また一日とただ恵みによって神さまから贈り与えられていたのです。神さまが決めておられる日が来て、「はい。ここまで」と言われるとき、私たちは「分かりました。今日までありがとうございました」と感謝を述べて立ち去ってゆくのです。それがいつなのか、いつまでなのかは私たちには知らされておりません。ずいぶん長く旅路を歩んできた私たちです。そうそう、別れを告げる長い説教の中でモーセは仲間たちに、「あなた自身のこれまでの歩みを振り返ってみよ」と語りかけました。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:2-4)。ああ本当だ。喜びと感謝があふれます。






2020年6月22日月曜日

6/21こども説教「死んでよみがえる希望がある」使徒17:32-34


 6/21 こども説教 使徒行伝17:32-34
 『死んでよみがえる希望がある』

17:32 死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。34 しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。
(使徒行伝17:32-34

 主イエスの弟子たちが神の国の福音を語り続けています。
 32節をもう一度、読みましょう。「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った」。それで、主イエスの弟子パウロは、いったんその場所から立ち去ってしまいます。
とくに、「死人のよみがえり」のことを聞いて、いろいろな受け止め方がされました。「いずれまた聞くことにする」というのは、どういう気持ちで言っているでしょう。「何月何日ごろに、ぜひ聞きたい」ということではなく、「もしちょうど良いチャンスがあれば聞いてみてもいいけど、今は聞きたくないし、聞かない」とその人は思っています。そんな馬鹿なことがあるものかとあざ笑う人たちがおり、「いずれまた聞く」と耳を塞ごうとする人たちもいました。けれど、それを聞いて信じた人たちもほんの何人かいました。今もそうです。死んだ人間がまたよみがえることなどあるはずがないと多くの人たちが思っているからです。しかも、この「死人のよみがえり」こそが、キリスト教の信仰の最も大切な中身です。(1)まず救い主イエスが神の約束のとおり、死んで、死人の中からよみがえりました。救い主だけではなく、主イエスを信じる私たちもまた、死んだ後でよみがえり、神の国に迎え入れられて神さまといっしょに新しい生命に生きることになっています。(2)しかも生きている間にも、神を信じる私たちは、自分勝手でわがままな悪い心や在り方を殺していただいて、神さまの御心に従った新しい生き方をはじめることができます(ローマ手紙6:1-18,8:1-13を参照のこと)。ここに、この信仰の生命と希望があります。