2020年2月24日月曜日

2/23こども説教「はげしく言い争って」使徒15:36-41


 2/23 こども説教 使徒行伝15:36-41
 『はげしく言い争って』

15:36 幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。37 そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。38 しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。39 こうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。41 そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。               (使徒行伝15:36-41

 主イエスの弟子たちの働きによって、すでにたくさんの町や村に福音の種がまかれ、芽を出し、育っていこうとしていました。それで36節、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」と弟子たちは相談しました。そのように、神の畑は心を配って耕しつづけ、水を撒いたり、肥料をあたえたり、雑草をむしったりして世話をしつづけねばなりません。けれど、そこで、マルコ(使徒13:13参照)という若い仲間を連れていくかどうかで、激しい言い争いになり、パウロとバルナバは二手に分かれて出かけてゆくことになりました。
 その人を連れていくか行かないか、両方ともに正しい理由があり、両方ともに筋が通った理屈をもっていました。けれど激しい言い争いになって、そのまま二手に分かれてしまったのはとても残念でした。互いによく話し合うのは大切ですが、そのあまりに激しく言い争ってしまうのは危ないことです。悪魔がそこにつけこんできて、私たちを神に背く罪へと誘い出そうとするからです。しかも、大きな苦労や難しい問題をいくつもいくつも彼らは一緒に乗り越え、心を合わせ、一つ思いになって働いてきたからです。互いを信頼して、相手を重んじて、互いに喜び感謝し合って、ずいぶん長くいっしょに働いてきたからです。それは夫婦も同じことです。親子も友だち同士も、仕事の仲間どうしも同じことです。


2/23「名が天に書き記されている」ルカ10:17-20


                      みことば/2020,2,23(主日礼拝)  255
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:17-20                  日本キリスト教会 上田教会
『名が天に書き記されている』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
10:17 七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。18 彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。19 わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。20 しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。  (ルカ福音書 10:17-20)

 救い主イエスのもとから遣わされた72人の弟子たちが、主のもとへと戻ってきました。喜びにあふれて、その活動内容と結果を報告いたします。17節、「七十二人が喜んで帰ってきて言った、『主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します』」。そのとおりです。ここで最も大切な点は、主イエスのお名前によってそれをした。だから、このような喜ばしい十分な結果となったということです。主イエスの名によってとは、その御人格と御心とご自身のお働きによってということです。他の何によってでもなく、ただただ「主イエスのお名前によって」、それこそが私たちのための希望と幸いの中身であり、その根本の土台でありつづけます。だからこそ例えば、やがて神殿の入り口に座っていた足の不自由な人と出会ったときにも、弟子たちはこう呼びかけました、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒3:6。金銀も、他その類いの良いものを何一つも持たない私たちである。けれど、わたしたちにある格別に良いものを、あなたにもぜひあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。私たち自身も同じように、何度も何度も立ち上がり、歩きつづけているわけです。それこそが私たちのための希望であり、支えと幸いでありつづけます。
 また例えば、喜べないとき、苦しくて辛くて仕方がないときにも、「どんなときにも、喜べ」ととても奇妙で不思議なことを神さまから命じられ、それが出来ると約束されている理由も、同じ一つのことです。主にあって喜べ、と指図されています。そのためには、「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ手紙4:4-7。主イエスの名によってとは、その御人格と御心とご自身のお働きによってということだと申し上げました。主ご自身こそがなさる。主が成し遂げてくださる。そのことに信頼を寄せ、聴き従って、していただく。ですから、あの彼らも私たちも、その一つ一つの働きの度毎に主への信頼と忠実こそが問われつづけることになります。「主よ、あなたの名によっていたしました。それで、このようになりました」と報告している中身は、このことです。
 18-19節、「彼らに言われた、『わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けだから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう』」。「サタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」と主がおっしゃるとき、私たちは自分自身を振り返り、胸に手を当てて、自分の心と普段の在り様とをつくづくと吟味してみる必要があります。語られていることは、そのとおりです。牧師や長老や執事、そのほかすべての働き人、そしてすべてのクリスチャンは自分たちが手掛けている働きが順調に成し遂げられてゆくことを願います。その願いは正しいし、良いことです。ものごとがうまく運ばず、障害にぶつかり、困った事態に陥るとき、私たちは落胆して心が挫けそうにもなるでしょう。同じように、とてもよく仕事や役割が果たされてゆくとき、私たちはつい思い上がってしまいます。まるで、自分自身の力と手の働きで何事かを成し遂げたかのように。だぁらこそ、神さまに仕える働き人たちのために警告も与えられています、「高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。そしりを受け、悪魔のわなにかかる」(1テモテ手紙3:6-7こともありうると。たしかに、私たちすべてのクリスチャンは、「へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授け」られています。だから、私たちに害をおよぼす者はまったく無い。神に敵対するものたちはどこにいるでしょうか。その敵対者たちは、どんな力を私たちに及ぼしてくるでしょうか。やはり、最も恐るべき敵は自分自身のうちに潜んでいます。うちなる敵。神に敵対し、背かせようとする、自分自身の腹の思い、肉の思いです。自分の正しさやふさわしさを主張し、言い立てようとさせる悪魔の働きです。その最大最悪の敵にさえ打ち勝つことのできる圧倒的な権威を、すべてのクリスチャンは、つまりこの私たちもまた授けられています。「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ手紙8:5-8。つまり私たちもまた、肉の思いの言いなりにされなくてもよいのです。神の御心に従おうとすることを喜び、神に喜んでいただけることを願って一日一日と生きることができます。しかも権威だけでなく、権威や力と共に、主イエスご自身がいつも私たちと共にいると約束されています。だからです。だからこそ、私たちは、いつも慎み深くあるようにと勧められます。ゲッセマネの園で祈りの格闘をなさった主イエスのようにです。神さまに向かって、どんなことを願い求めても良いでしょう。しかも主イエスに仕えて働く働き人たちは、この私たちも、必ず、そこに、こう付け加えます。「しかし私の思いではなく、御心が成るようにしてください(ルカ22:42と。これこそが、贈り与えられた恵みのうちに留まるための、いつもの緊急かつ最優先の課題でありつづけます。自分自身の心に注意を払っていなければなりません。私たちの畑に、気が付かないうちに、悪魔がそっと悪い種をまいてゆくかも知れないからです。私たちはそれぞれに豊かさや知恵や力を手に入れて幸いに暮らしています。こう語りかけられます、「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう」(申命記8:17-19。神の御心を押しのけて、御心をさしおいて、自分の思いや願いを先立ててしまいやすい私たちだからです。自分の思いや願いこそが、知らず知らずのうちにどこまでもどこまでも膨れ上がってしまいやすいからです。しかし私の思いではなく、御心が成るようにしてください。しかし私の思いではなく、どうぞぜひ御心が成るようにしてください。そのことを心から願い、喜んで受け止めることのできる私にならせてください。
 20節、「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。自分自身の名が天に書き記されてある。そのことをこそ喜びなさい。恵みに値しない罪人を、にもかかわらず憐れむ神です。憐みを受けて、ただただその恵みによってこそ、神の国に入れていただけるはずの私たちです。例えば言葉巧みに、また雄弁に感動的に語ることが出来たとしても、賢く信仰深い知恵を仲間たちに披露できたとしても、キリスト教信仰の道理を十分に会得したとしても、聖書の言葉を思いのままに引用できても、それらは神の恵みの中の中心的な中身ではなく、しかも、それで救われるわけではありません。私たちも、また他の誰も彼もが罪に死んでいた者たちでした。けれど、ただ神の恵みによって神の国に入れていただき、神ご自身のお働きの只中にあって、そこで生きる者たちとされています。「主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、この私も洗われ、きよめられ、義とされた」(1コリント手紙6:11のだと、あなた自身の魂に、神さまが語りかけ、「ほんとうにそうだよ」と知らせてくださるとき、そのときこそ私たちは、この自分の名前さえも、たしかに天の御父のひざ元にある命の書に書き記されてあると確かに知ることができるのです。そのことをこそ、心底から喜び感謝する私たちでありたいのです。
 そのとき、私たちは救い主イエス・キリストと一つに結び合わされています。キリストが私たちの体のうちにおられます。
 そのとき、私たちは、自分自身がキリストのことを書き記されたキリストご自身からの手紙とされていることに気づきます。「墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれた手紙としていただいた(2コリント手紙3:3と。手紙なので、私たちは多くの人々に読まれ、知られます。キリストのことを書き記されたキリストご自身からの手紙とされているので、私たちの柔和さや、思いやり深い親切や、寛大さによって、へりくだった謙遜さによって、神を心から愛し、隣人を自分自身のように愛し尊ぶことによって、神への従順と誠実さによって、高清であることや平和を愛することによって、「ああ、この人は本当にキリストの手紙なんだな」と人々に知っていただくことになります。誰にでも、キリストのことを書き記されたキリストご自身からの手紙とされた私たちは、どこの誰にでもページを次々とめくられて、いくらでも、どこまででも、その手紙を読んでいただくことが出来ます。これらが救われていることの中身です。また、私たち自身と家族を救う信仰がもたらす実りです。神さまご自身が、それを成し遂げてくださいます。救い主イエス・キリストのお名前によって。つまり救い主イエス・キリストの、その御人格と御心とご自身のお働きによってこそ。




2020年2月17日月曜日

2/16こども説教「主の言葉を」使徒15:30-35


 2/16 使徒行伝15:30-35
 『主の言葉を』

15:30 さて、一行は人々に見送られて、アンテオケに下って行き、会衆を集めて、その書面を手渡した。31 人々はそれを読んで、その勧めの言葉をよろこんだ。32 ユダとシラスとは共に預言者であったので、多くの言葉をもって兄弟たちを励まし、また力づけた。33 ふたりは、しばらくの時を、そこで過ごした後、兄弟たちから、旅の平安を祈られて、見送りを受け、自分らを派遣した人々のところに帰って行った。34 〔しかし、シラスだけは、引きつづきとどまることにした。〕35 パウロとバルナバとはアンテオケに滞在をつづけて、ほかの多くの人たちと共に、主の言葉を教えかつ宣べ伝えた。        (使徒行伝15:30-35

 大切なことを知らせる手紙を渡して、それだけでなく4人で出かけて口でもていねいに説明し、分かってもらいました。中身は神を信じて生きるためのしるしが「割礼」を受けることから「洗礼」を受けることへと変わったこと。神さまがそうなさったので、人間たちはそれに従いました。また、そもそもの最初からそうでしたが、聖書の神を信じて生きることは誰にでもゆるされていること。そのあと、「兄弟たちから旅の平安を祈られて、見送りを受け、(エルサレムに)帰って」行った者があり、そのまま残って働きをつづけた者たちもいました。出かけるときも帰るときにも、仕事をしはじめるときにもその仕事を終わるときにも、主の言葉を教えたり、知らせたりする働きも何もかも、なにしろ神さまからの守りと平安と助けを願い求めます。もし神さまが助けてくださるなら、それでもう、すっかり安心だからです。そうではないなら、もし、神さまが助けてくださらないなら、誰がどうやって働いても、危なっかしくて、心細くて心配でしかたがないからです。



2/16「聞き従う者は」ルカ10:12-16


                  みことば/2020,2,16(主日礼拝)  254
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:12-16               日本キリスト教会 上田教会
『聞き従う者は』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
10:12 あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。13 わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。14 しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。15 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。16 あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。    (ルカ福音書 10:12-16)

 
 12人の弟子たちを送り出したことに続いて、主イエスは72人の弟子たちを送り出します。この私たちをもご自分の弟子として、使者として、それぞれの町や村へ、学校や職場やそれぞれの家庭へと送り出しつづけます。救い主イエスの使者とされたクリスチャンはなんと幸いでしょう。なにしろ神が私たちの味方であってくださり、神との平和を保証され、それを現にこの手に受け取り、主イエスによって神を喜び、神に感謝をしながら一日ずつを生きる私たちだからです。まず12-15節。救い主イエスご自身が神の国の福音を宣べ伝えたときにも、それを喜んで聞き入れる者たちがおり、また拒んで退ける多くの人々がいました。主イエスの弟子たちが主のもとから送り出されて、神の国の福音を告げ知らせる場合にも、やはり、それと同じことが起きます。喜んで聞き入れる者たちがおり、また拒んで退ける多くの人々がいつづけます。「あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムのほうが耐えやすいであろう」。ソドムの町にははなはだしい悪がはびこっていました。そして、アブラハムの時代に滅ぼされてしまいました。その町にはロトの家族が住んでいました。ロトの妻は逃げ去る途中で後ろを振り返ってしまったために、塩の柱にされてしまいました(創世記18-19章を参照)。なぜ、目の前にあるその町より、ソドムの町のほうが終りの日の裁きのときに耐えやすいというのか。コラジン、ベツサイダ、カペナウムなどの町とそこに住む人々が叱られています。それらの町々は、主イエスが何度も何度も訪れて、繰り返し、神の国の福音を熱心に宣べ伝えたところでした。直々に救い主を見て、その驚くべき御業を目にし、神の国の福音を告げ知らされて、それでもなおその言葉を多くの人々は聞き入れることができなかったからです。
 ツロとシドンの町が、それらの町と見比べられています。それらの外国人の町には主イエスと弟子たちはまだ足を踏み入れておらず、福音を宣べ伝えることもまだしていませんでした。ただ、噂を聞いて、それらの地区からも人々が話を聴きに来ていました(ルカ福音書6:17-18。それで13節。もしそこで福音が語られ、力ある業がなされていたなら、「彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中に座って悔い改めたであろう」。荒布をまとい灰の中に座ってとは、神さまの前に深くへりくだって、激しく心を痛めて神へと立ち返る姿です。預言者ヨナのきびしい裁きの知らせを聞いて悔い改めた、あのニネベの町の人々のことを思い起こします。ニネベの町の人々もソドムに負けず劣らず、とても罪深い人々でした。「四十日を経たらニネベは滅びる」と、その大きな町を行き巡って預言者ヨナはよばわりました。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着ました。このうわさがニネベの王の耳に達すると、彼はその王座から立ち上がり、上等できらびやかな服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座りました。布告を出して、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神さまは彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえしました(ヨナ書3章)あの彼らと私たち自身のことを思い巡らせましょう。ニネベの町のとても頑固でよこしまだった王は、どうしたわけか、「あるいは神は御心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない」と思い至りました。「滅ぼさないにちがいない」ではなく、「あるいは、もしかしたら、滅ぼさないかも知れない」と。救いに値しない私たちだけれども、それでもなお神は憐れんでくださるかもと、その憐みにすがりついたのです。慈しみ豊かな神へと、自分の心をひるがえしました。どうして、そんなことが起きたでしょうか。それ以前に、「四十日をへたらこの町と人々は滅びる」と告げ知らされ、人々は心に痛みを覚え、神へと立ち返りました。大きな賢い者から小さな者にいたるまで、誰も彼もが。そのへりくだって悔い改めた姿を見て、身を低く屈めさせられたその貧しい魂にふれて、王様もまた悔い改めました。いいえ、王も人々も悔い改めることができたから、だから幸いなのではありません。それ以前に、なによりも、「あと40日をへたら滅びる」と告げ知らせながら、神ご自身はそもそもの最初から憐み深い神でありつづけたからです。厳しく叱りながらも、救いに値しない罪人たちの生命の一つ一つを惜しみ、神は憐みつづけておられたからです。あの彼らと私たちのために悲しみ、嘆きつづけてくださったからです。預言者ヨナこそは、その神の本質をはっきりと知らされていました。「わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていた」(ヨナ書4:2と。ここにこそ、彼らと私たちすべてのものたちのための希望があります。たとえ私たちがニネベやソドムの町よりもなおはなはだしく悪く、心が頑固であるとしても、私たちがなおコラジン、ベツサイダ、カペナウムの人々よりも思い上がって、心を鈍くしているとしても、なお神はこのわたしたちにも憐みを差し出し、私たちの生命を惜しんでやまないからです。ここに、私たちのための希望があります。兄弟姉妹たち。罪に死んでいる人が、いったいどうやって神の国に入れていただけるでしょうか。ただ神の恵みによる他ありません。しかも救い主イエスよって、神の憐みを十分に知らされ、私たちを罪から解き放つために十字架についてくださったキリストが、目の前に示されたではありませんか。示されつづけているではありませんか。ここに、私たち罪人のための確かな希望と慰めがありつづけます。「わざわいだ。わざわいだ、わざわいだ」と厳しく叱りつけておられる救い主イエスの御声は同時に、彼らと私たちを格別な幸いと祝福へと招きつづけます。遠い昔の預言者の声が、そこに重ねて鳴り響きつづけるからです、「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。……しかしイスラエルの家は『主のおこないは正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしのおこないは、はたして正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル書18:23-32。ここに、あまりに罪深く心がかたくなになってしまった罪人たちのための希望と慰めがあります。私たち自身のための希望でもあります。
 さて16節、「あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。主に仕えて働くすべての働き人たちのための格別な祝福と幸いが語られます。12人の弟子だけでなく、72人の弟子たちのためにもこの約束が語られました。72人ばかりでなく、主に仕えて働くすべての働き人たちのために、この私たちのためにもです。主に仕える働き人たちは、伝道者だけでなくすべてのクリスチャンは、キリストの使者の役割を担って働きます。務めに召してくださった救い主イエスに信頼を寄せ、主に対して忠実に働くことができます。「その者たちを見下し、侮る者たちは、同時に彼らの主人をも軽んじ、侮ることになる。宣べ伝えよと命じられて彼らが語る救いの言葉を退ける者たちは、同時に、彼らの王であられるおかたを退けることになる」と約束されています。

              ◇

 送り出されようとしている72人と、それにつづく私たちを、神さまがなんとかして精一杯に励まそう、慰めと確かな勇気を送り与えたいと願いつづけます。それは、主のもとから送り出されたはずの、主のものである私たちが、たびたび恐れに取りつかれ、心を惑わされ、弱り果てるからです。自分自身と周囲の人々やモノゴトにばかり囚われ、虚しく思い煩いつづけるからです。また私たち人間の耳と心は、たびたび塞がりました。なにより語りかけられている神の御声に対して、何度も何度も。恐れたり惑わされたり弱り果ててて思い煩いつづける理由もそこにあります。だからキリストは、「聞く耳のある者は聞くがよい」と謎をかけつづけました。聞く耳のある者は聞くがよい。聞く耳のある者は聞くがよい。それは、私たちの耳と心をぜひ開かせたいという神ご自身の切なる願いです。こんな私たちにも、神ご自身の願いを受け取ることができます。天の御父と御子が成し遂げてくださいます。どのようにしてか。つまり、御父と御子イエスからの御言葉によってです。主イエスはおっしゃいました、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである」。だからこそ、私たちは主イエスが語りかけてくださった「言葉によって既に清くされている」し、余分なものを一つまた一つと取り除かれて、ますます清くされてゆきます。主イエスの言葉のうちに留まっているなら、私たちもまた本当にこのお独りのかたの弟子であり、神からの真理を知り、その真理が私たちのうちに根を張り、その真理こそが私たちについにとうとう自由を得させるからです(ヨハネ福音書8:31-32,14:23-24,15:3。まず手始めに、私たち自身こそが、自分の腹の思いや願いに神を従わせようとするのではなく、自分を退け、自分の思いを引き下がらせて、神に従う者たちとされてゆきます。人間中心・自分中心のあり方からきっぱりと離れ去らせ、この私たちをも、きっと必ず神へと向かわせてくださいます。『サタンと自分の腹の思いに従って生きること』を止めて、その代わりに、『心と思いを尽くして神さまの御心にだけ聴き従って、神さまにこそ仕えて生きる私たち』とならせてくださいます。それこそが最も幸いな祝福された生き方であると、私たちはすでにはっきりと知ってしまったからです。人間の力にではなく、神ご自身の力にこそ信頼し、人間の賢さにではなく、神ご自身の知恵と賢さにこそ聞き従って生きる私たちであらせてくださいます。救い主イエスの御言が、この私たちのうちにも確かに植え付けられ、根を張り、そこで生きて働いているからです。




2020年2月10日月曜日

2/9こども説教「手紙が送られる」使徒15:22-29


 2/9 こども説教 使徒行伝15:22-29
 『手紙が送られる』

15:22 そこで、使徒たちや長老たちは、全教会と協議した末、お互の中から人々を選んで、パウロやバルナバと共に、アンテオケに派遣することに決めた。選ばれたのは、バルサバというユダとシラスとであったが、いずれも兄弟たちの間で重んじられていた人たちであった。23 この人たちに託された書面はこうである。「あなたがたの兄弟である使徒および長老たちから、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟がたに、あいさつを送る。24 こちらから行ったある者たちが、わたしたちからの指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ、あなたがたの心を乱したと伝え聞いた。25 そこで、わたしたちは人々を選んで、愛するバルナバおよびパウロと共に、あなたがたのもとに派遣することに、衆議一決した。26 このふたりは、われらの主イエス・キリストの名のために、その命を投げ出した人々であるが、27 彼らと共に、ユダとシラスとを派遣する次第である。この人たちは、あなたがたに、同じ趣旨のことを、口頭でも伝えるであろう。28 すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。29 それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。    (使徒行伝15:22-29

 神さまを信じて生きるものとされるしるしは、昔には「割礼」を受けることでした。後から、「洗礼」を受けることに取り換えられました。ユダヤ人だけでなく、ほかのすべての外国人も同じく神を信じて生きることができることも確かめられました。なにしろ神さまが決めて、人間たちがそれに従ったのです。けれど、神さまがそれを決めたと信じられず、古いやり方にしがみつこうとする人たちがたくさんいました。遠くに住む人たちにも、この大切なことを知らせねばなりません。手紙を書きました。ただ手紙を読んでもらうだけでは足りません。信頼されている確かな人たちが4人で出かけていって、その人たちの口から出る言葉でも、いっしょに説明することにしました。とても大切なことを、ぜひ分かってもらう必要があったからです。


2/9「平安がこの家にあるように」ルカ10:1-11


                       みことば/2020,2,9(主日礼拝)  253
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:1-10                     日本キリスト教会 上田教会
『平安が この家にあるように』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
10:1 その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。2 そのとき、彼らに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。3 さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。4 財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。5 どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。6 もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。7 それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。8 どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。9 そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、11 『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。             (ルカ福音書 10:1-11)
  ルカ福音書だけがこの出来事を報告しています。私たちの主は12人の弟子たちを町や村に送り出した(9:1-6)だけではなく、さらに72人の弟子たちをも送り出します。すると、もしかしたら第3次の派遣があり、第4、第5、第6と続き、おびただしい数の主の弟子たちが2人ずつ組にされて町や村へと、家々へと遣わされつづけてゆくのでしょう。主ご自身が行くはずの場所へ、主に先立って。送り出される際に彼らが受けた主からの指図は、とても興味深いものです。目を凝らして味わうに値します。
 まず3節。多分、あの72人は格別に優れた資質を持っていたというわけでもなかったでしょう。どこにでもいるような、ごく普通の人々が、けれどなお主イエスの平和の使者として送り出されます。そこには侮りがたい危険と困難が数多く待ち構えます。「大丈夫、なんとかなるさ」などと、気休めを語ることはできません。乏しさを嘆き、恐れに打ちのめされる他ない旅です。この私たち一人一人も同じです。一筋縄ではいかない危険と困難が数多く、次々と待ち構えます。その連続です。あの彼らも私たちも、主のもとからこの世へと、つまりそれぞれの家庭や家族の只中へ、学校へ職場へ、それぞれの土地とそれぞれの集団の中へと毎週毎週送り出され、主の弟子として一週間ずつを生きて、主のもとへと水曜日や日曜日毎に立ち戻り、ふたたび送り出され、立ち戻り、また送り出され――と生きるのです。主のもとから主の弟子として遣わされ、その所々で生きる。その危険で困難な旅の期間は、ほんの数日、数ヶ月かも知れません。1週ずつ区切られた旅は、40506070年、あるいはもっと長い期間に及ぶかもしれません。
 2,5-6節。「収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」「平安がこの家にあるように、と言いなさい」。2種類の祈りについての主イエスからの指示です。だれかのために祈る前に、また皆のために祈る前にまず、主の弟子たちは自分自身のために祈り求めねばなりません。この私のためにも働き手を送ってくださるようにと。彼らは、自分たちの力だけでその仕事を成し遂げるようにとは求められていません。彼らを助けて、労苦や辛さを分かち合いながら共に働いてくれるものたちを必要としました。その働き手たちを送ってくださるように収穫の主ご自身に願い求めなさい、と命じられました。また、だからこそ、彼らは2人1組で送り出されたのです。ちょうど、そもそもの初めに、この世界を耕し守るために、土で造られた人が2人1組で送り出されたのと同じように。あのアダムとエヴァという名前の2人組です。「人が独りでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:15)。ゆだねられた土地を耕し守るという使命は、独りでは重すぎて担いきれませんでした。神からの祝福を受け取って喜びと感謝のうちに生きることも、独りではできませんでした。「これだけはしてはならない。慎め」という戒めに従って、神さまからの戒めと祝福のうちに留まって生きることも、ただ独りでは難しかったのです。2人1組である理由は、その土地を耕し守るという主からの使命を共々に担ってゆくために。2人1組である理由は、主からの祝福を受け取って共に喜び祝うために。2人1組である理由は、「これだけはしてはならない」という主からの戒めのうちに留まって生きるために。なにしろ、土の塵をこねて造られた者たち同士です。未熟であることも、ふつつかさも貧しさも、いたらなさも、それはお互い様でした。そうでしょう。だから私たちは、互いに許しあい、忍耐し合い、支えあうのです。困難な長い旅路をゆく旅の仲間たちは、道々互いに語り合います。「私の助けはどこから来るだろう。来るのか来ないのか。あるのかないのか」「何を言ってるのか。あなたは知っていたはずじゃないか。天地を造られた主のもとから来る」と互いに慰めあいます(121:1-)。「これだけはしてはならないと言われていたじゃないか。わきまえよ慎めと命じられていたじゃないか。あなたはもう忘れてしまったのか」と互いに戒めあいます。しかも収穫の主に願い求めつづける中で、さらに1人、また1人と、ふさわしい助け手が新しく造られ、新しく送り出され、少しずつゆっくりと働き手の輪が広がってゆきます。
  4,7節。「財布も袋もくつも持っていくな。その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。家から家へと渡り歩くな」。前回12人の派遣の場合(9:1-6)にも、主イエスから同じ指示を与えられていました。杖も袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな」。ひどい話です。まったく、勘弁していただきたいものです。それで、どうしろとおっしゃるのでしょう。そんなことで、現実の毎日毎日の生活が成り立つでしょうか。成り立つはずがありません。主のもとから送り出された弟子たちは、出掛けていってほんの1日か2日で、早くも生活に困りはじめます。何かをしようとする度に「さあ、どうしたらいいだろう」と頭を抱えます。食べるにも飲むにも服を着るにも不自由します。だって持っていくなと命じられたのですから。町や村へと遣わされていった弟子たちは、そこで、その土地に住む人々に頼って生活せざるをえません。「すみません。ちょっと食べ物を何か分けてもらえませんか。醤油と味噌と米と調味料と鍋を貸してほしいんですけど。それから箸と茶碗も。その玄関の隅っこで少し休ませてくださいませんか。申し訳ないけど、ちょっと手を貸してください」と。なんと不自由で肩身が狭く、心細いことでしょう。まるで、わざわざ、そのように仕向けられているかのようです。その通り。
 それこそ『主の弟子として生きるための訓練』です。人様に頼り、主に頼る。主によって支えられ助けられ、人々によっても支えられ助けられる。人にも委ねながら、その中で主にこそ委ねることを学ぶのです。世渡り上手になるためではありません。流され、巻き込まれ、言いなりにされてゆくためでもありません。しかも「迎え入れられたその家に留まり、そこで出されるものを飲み食いしなさい。家から家へと渡り歩くな」と。「なぜ、よりにもよってこの家なのか。なぜ、この夫、この妻、この家族であり、どうしてよりにもよってこの職場なのだろう」と怪しみ疑うでしょう。むしろ相手のその彼らのほうが、あなたに対して度々首を傾げました。それでもキリスト教か、それがクリスチャンかと。なにしろ普段のいつもの姿を、いつもの右往左往や身勝手さやズルさを、あまりに臆病であることを、彼らの前にさらしているのです。家族への伝道が一番難しい。そのとおり、そのとおり。「家族や親しい友人たちへの伝道は、やっぱり私には無理だ」と多くのクリスチャンが諦めかけます。けれど、そここそが、あなたが耕し守るべき第一の守備範囲です。その家、その人々。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と聴いて、私もあなた自身もその約束を信じたはずです。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われる。もちろんです。
 9節。「神の国はあなたがたに近づいた、と言いなさい」。神の国とは、神さまが生きて働いてくださり、その所に確かに力を発揮し、神ご自身こそが力と支配を及ぼしてくださるということです。救い主が地上に降りてこられ、その方ご自身によって福音が告げ知らされ、主イエスの福音を信じて生きるものが一人また一人と起こされました。しかも、主イエスの福音の使者である彼らがその町に来たのは、その家族の只中へと送り出されてきたのは、やがて主イエスご自身がその町へ、その一軒の家へも来てくださるというしるしであり、先触れです。主がやがて自分で行こうとしている所へ、御自身に先立って、送り出されたのですから。『神の国はあなたがたに近づいた』という告知と『平安がこの家にあるように』という祈りとは1組です。主の弟子である私たちは、その一軒の家に平和があるためにこそ、主のもとから送り出されました。
 付属幼稚園の子供たちに語り聞かせてきたことも、このことです。「友だちと、どうやって仲良しでいられるだろう。何でも言うことを聞いて、顔色やご機嫌をうかがってハイハイと言いなりになっても、それは仲良しじゃありません。自分の思い通りに従わせても、それは仲良しじゃありません。大きくて強そうに見える友達にもビビってはいけません。小さく弱々しそうに見える友だちも、軽んじてはいけません。付き合いにくいお友だちを、でも仲間外れにしちゃいけません。この人はこういう人だからと、簡単に決めつけてはいけません。苦しいときも、あきらめないで。あなたを助けてくれる人がきっといるから」と。これで十分かも知れませんが、大人の人たちにはもう少し語りましょう。あるとき、そこに、軽々しく他者を裁いてしまっているあなたがいます。あるとき、そこに、自分の思い通りに相手を従わせようとして、「どうしてそうなのか」と責め立てているあなたがいます。あるとき、そこに、惨めに身をかがめて言いなりにされてゆくあなたがいます。「許せない」と怒りつづけるあなたがいます。「どうして分かってくれないのか」と、すっかり失望してしまっているあなたがいます。「わたしは。わたしは」と我を張って私を主人とすることを止め、「だって、あの人がこう言う。この人がこうしろと言うから」と言いなりにされつづけて周りの人やモノを自分のためのご主人さまとすることを止めにしたいのです。主をこそ主とし、右にも左にもそれることなく心強く生き抜いてゆく私たちとなりたいのです。せっかく、神さまを信じて生きることをしはじめたのですから。兄弟たち。あなたの家にあるべき平和は、主による平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。あなたの職場にあるべき平和は、主による平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。その一人の人とあなたとの間にぜひとも回復されるべき平和は、建て上げられてゆくべき平和は、もちろん主による平和であり、主ご自身が勝ち取ってくださった平和です。この私たちが『平和と和解の使者』とされるとして、どういうふうにそれを成し遂げてゆけるでしょう。そのやり方は、コリント手紙(2)5:18-21。これは、よくよく覚えて身につけなければなりません。『神さまがキリストを通して私たちをご自分と和解させてくださった。罪の責任を問うことなく、それを確かに成し遂げてくださった』。これが、平和と和解の流儀です。していただいたとおりに、私たちもその同じやり方と流儀で働くのです。そのためにこそ、まずこの私たち自身こそが神さまと和解させていただこう、と勧められました。
 町や村へとそれぞれに遣わされながら、あの弟子たちは、いったい何をしているのでしょう。主イエスの福音を伝え、イエスの弟子とする。神の国を宣べ伝える。あるいは、いつも私たちが言っているように、『伝道している』と言い換えてもよいでしょう。初めに、救い主イエスご自身が仰っていました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。また、「1人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の、自分は正しいと思い込んでいる人たちに対してよりも、はるかに大きな喜びが天にある」と。罪深い、あまりに自己中心の身勝手な者であっても、なおその1人の人が神へと立ち返って生きるなら、それを大喜びに喜んでくださる神さまであったのです(マルコ1:15,ルカ15:7,10,24,32,エゼキエル18:23,31-32。悔い改め。それは自分自身の在り方や腹のすえ方の向きを変えることです。目の前の楽しいことや嫌なこと、嬉しいことや辛いこと、自分がしてほしいこと、ほしくないことなど心を奪われ、一喜一憂して生きてきた者たちが、自分自身の腹の思いばかりに目を奪われていた者たちが、180度グルリと向きを変え、神さまご自身とその御心へと思いを向け返して生きること。そのために、この私たちも主イエスの弟子とされました。
 主イエスの弟子たちは町や村へと遣わされつづけていきます。神の御前で、神さまに向かって生きる者たちが、その活動の中で1人また1人と生み出されていきます。悔い改めて、福音を信じる。神さまに背を向けて生きていた者たちがグルリと180度向きを変えて、神さまに向かって、神さまの御前に据え置かれて、そこで精一杯に生きはじめる。その、まったく新しい『方向転換』は、いつどこで、誰から始まるでしょう。私たちのための救いの時は、いつ満たされるでしょう。あなたの夫や息子たち娘たち、孫たちは大切な友人たちは、あなた自身は、いつ、どこで、どんなふうに方向転換し始め、神さまからの祝福と幸いを受け取りはじめるでしょうか。――主なる神さまへと思いを向け返すあなたを、まざまざと目の前に見たときに。悩みや辛さの只中で、「けれど私の願い通りではなく、あなたの御心のままになさってください」と願い求める1人のクリスチャンの生き様にふれたときに。そこで、そのようにして、神さまへと向かうあなた自身やこの私を見たときに。







2020年2月2日日曜日

2/2こども説教「神さまの願い」使徒15:12-21


 2/2 こども説教 使徒行伝15:12-21
 『神さまの願い』

15:12 すると、全会衆は黙ってしまった。それから、バルナバとパウロとが、彼らをとおして異邦人の間に神が行われた数々のしるしと奇跡のことを、説明するのを聞いた。13 ふたりが語り終えた後、ヤコブはそれに応じて述べた、「兄弟たちよ、わたしの意見を聞いていただきたい。14 神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を負う民を選び出された次第は、シメオンがすでに説明した。15 預言者たちの言葉も、それと一致している。すなわち、こう書いてある、16 『その後、わたしは帰ってきて、倒れたダビデの幕屋を建てかえ、くずれた箇所を修理し、それを立て直そう。17 残っている人々も、わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである。18 世の初めからこれらの事を知らせておられる主が、こう仰せになった』。19 そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。21 古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。   
                              (使徒行伝15:12-21

 神さまが、この世界のすべての人と生き物とほかすべてを造りました。ご自分が造ったこれらすべてのものたちを、神さまは大切に愛します。ユダヤ人だけでなく、ほかすべての人間も、人間だけでなくすべての生き物もです。そして、神さまがそれらすべてをとても愛しておられるので、「私に愛されているすべてのものたちも、この私のことを愛するようになってほしい。ぜひ、そうであってほしい」と神さまは願いました。だってね、自分がその相手を大好きなだけなら、ちょっと淋しい。もし、相手もこの自分のことを大好きでいてくれるなら、とってもとっても嬉しい。17節、「残っている人々も、わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである」。これが、世界のはじめからの神さまの心からの願いです。


2/2「主イエスの弟子であること」ルカ9:57-62


                        みことば/2020,2,2(主日礼拝)  252
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:57-62                     日本キリスト教会 上田教会
『主イエスの弟子であること』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 9:57 道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。58 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。59 またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。60 彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。61 またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。62 イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。   (ルカ福音書 9:57-62)
 主イエスの弟子になろうとした3人の候補者たちと主イエスとのやりとりです。主イエスの弟子であり、クリスチャンとされているとはどういうことであるのかが、ここで改めて告げられています。
 まず、57-58節。最初の一人との問答。「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。主イエスはその人に言われました、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります。主イエスの弟子とされ、クリスチャンとされた私たちは、もちろん主イエスが歩んで行かれるその同じ一つの道を従ってゆきます。この直前、51節で、「イエスが天にあげられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して」と報告されています。はずかしめられ、見捨てられ、十字架の上で殺され、葬られ、その三日目に死人の中からよみがえらされるという道です。だからこそ、主イエスについていきたいと願うならば、誰でも、自分を捨て、自分の十字架を負って、主イエスにこそ聴き従って、ついてゆくことになります。それはとても祝福された幸いな人生ですけれど、そこには苦しみや悩みや惨めさも伴います。労苦することもあり、はたはだしい心細さや恐れも待ち構えています。ほかのなによりも、「自分を捨てる」9:23ことが待ち構えています。

【補足/自分を捨てること】

……自分を捨てることがとても嫌だったからです。自分の命、自分の都合、自分のささやかな自尊心、自分の好き嫌いにばかり深く囚われすぎていて、それに邪魔されて、主イエスに従って生きることがとても難しかった。私たちも同じです。だからその同じことを何度聞いても、なんのことか分からず、隠されていて、この私たち自身も悟ることがなかなか出来ずにいます。けれども兄弟姉妹たち。自分勝手でわがままで頑固で、とても自己主張が強くて「私が私が」と言い張り続けることを『自己中、自己中(ジコチュウ)』と世間の人たちは言い慣わしています。自己中心という言葉を短く言い表していますが、むしろ本当は「中心」というより「中毒」「依存症」です。『自分中毒』、自分の肉の思いの言いなりにされ、奴隷にされています。その『自分の肉の思い。自分の好き嫌い』は自分をちっとも幸せにしてくれず、自分も家族もまわりの人たちも、かえってますます心が貧しくなり、不幸せになるばかりです。それは「自分」という病気です。その「自分」は無くてもいい自分であり、主に従って生きることを邪魔する厄介な「自分」です。『自分の肉の思い』を投げ捨てるのはもったいないし、難しいし、嫌だと思い込んでいました。でも本当は、もったいなくないし、無くても困らない。ポイと投げ捨てるのはとても簡単で、かえって晴れ晴れ清々します。「古い罪の自分と死に別れて、キリストと共に新しく生き始める」と何度も何度も教えられてきたではありませんか。「肉の思いに従ってではなく、神の御霊に従って生きる私たちだ」(ローマ手紙6:3-11,8:1-11参照)と習い覚えてきたではありませんか。なぜなら、自分自身が自分の主人である間は、神さまを自分のご主人さまとして迎え入れることが決してできないからです(目を凝らしてよくよく眺めてみると、いつもいつも大問題で厄介な「自分」は、「自分は正しい、正しい」と主張しつづける自分です。「神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」ローマ手紙10:1-4参照)要点は、神ご自身の御心と御わざに自分の場所をすっかり丸ごと明け渡すことです。神をご主人さまとして、自分の内に迎え入れることです。神さまを自分のご主人さまとして迎え入れ、自分の中に神の居場所と働き場所を確保するためには、自分を後ろへ退けて、神さまの脇に慎み深く控え、神ご自身に働いていただくために、この自分は休む必要があります。「私が私が」と我を張り続けている間は、神の御心とそのお働きは邪魔されつづけています。救い主イエスに主権を明け渡して、ご主人さまとして力を発揮していただくためには、その邪魔をしている『自分中毒』、『自分の腹の思い』(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19参照)をポイと投げ捨てる必要があります。できますよ。私たちの主であられます神さまご自身が、この私たちのためにも、必ずきっと成し遂げてくださるからです(ピリピ手紙2:6
            (ルカ福音書9:37-45の礼拝説教(2019,12,29)から抜粋)

59-60節。ほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と主イエスが言われました。「まず、父を葬りに行かせてくださいと答えると、その人に向かって、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。もちろん主イエスご自身もキリスト教会も、葬儀や葬りを決して軽んじるわけではありません。亡くなった方々の遺体を、葬りもしないでそのまま放置することは恥ずべき、また無慈悲で冷酷な行いです。葬りをすることは神の御心にかなったことであり、世々のキリスト教会は葬りを誠実に執り行いつづけてきました。それは第一に、終りの日のよみがえりと復活の生命の約束、神の国に招き入れられる希望を私たちの間にいっそう確かにすることになるからです。もし万一、私たちの希望や喜びがこの世に生きている間だけの、やがて朽ちてしまうはずのものであるなら、この私たちこそは最も惨めなものたちとなってしまうからです。では、何が告げられているのか? ずいぶん長い間、ユダヤの社会では、「あなたの父と母を敬いなさい」と教えられつづけてきた子供たちには、父とその家族に対して大きな義務が課せられていました。父の存命中は、その権威に服従しつづける、どんな指示にも従うという、他の何にも優先される最優先の責任です。「まず先に、父を葬りに行かせてください」。つまり、「やがて父が亡くなったなら、とうとう自由の身になって、あなたにでも誰にでも従ってゆくことができるし、自分の思い通りの生活を切り開いてゆくこともできます。けれども、それまでは何かしたくても私には父の許可と同意なしには何もできません」と遠回しに、主の招きを断っています。そういう社会と、そういう人々に向かって、「その死人を葬ることは死人に任せておくがよい」と主イエスはおっしゃいます。父親や親族、目上の人々の権威、家や社会の慣習やしきたりを自分自身のための主人とし、その主人たちに聞き従って生きることが自分自身の安全と安泰を保証しています。神に従う新しい生き方は、そうした古い生活と心得などと決定的に対立します。ようやく「死」と「死人」の中身が見えてきました。神に信頼を寄せ、神にこそ聴き従って生きることから私たちを脇道へと逸れさせ、神の御もとから引き戻そうとする様々な誘惑と迷いこそが『死んでしまうこと』の中身です。
61-62節。またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。イエスは言われた、手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。この「まず家の者に別れを言いに」と、先ほどの「まず、父を葬りに行かせてください」はとても良く似た同じような方便です。だからこそ、主イエスはここで、「家の者に別れを」と言う彼の心の隠された内面をはっきりと見抜いて、滅多に言わないほどの厳しい語りかけをしておられます。あの彼は、この世界と自分のいつもの今まで通りの古い在り方や暮らしにあまりに強く縛り付けられています。身動きもできないほどに。救い主イエスについてゆくことも、この主に聞き従うことも、自分を捨て去ることも、とうていできませんし、そんなことはしたくないと頑固に居座っています。すきに手をかけてしまったのに、あの彼は名残惜しくて名残惜しくて、それで後ろを振り返りつづけています。目も心も奪われながら。塩の柱になってしまったロトの妻のように。だからこそ、今にも滅びかけようとしているその魂を憐れみながら、その人のためにとても悲しみながら惜しみながら、主はおっしゃいます。「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない」。

               ◇

 もし、ただ自分自身を喜ばせ、人々に喜ばれることばかりに囚われて、神を忘れて生きるならば、その人たちは生きていても死んでしまったのと同然だと告げられます。しかも、『かつては罪の中に死んでいた私たち』が、神のもとにある新しい生命へと招き入れられたと聖書は証言します。この私たちは「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」(エペソ手紙2:1-5。父と、生まれ育った家、故郷などと深く結びついた人間的な権威、人間的なしきたりや慣習が『父に関する諸々の義務や服従』として立ちふさがっています。例えばアブラハムとサラ夫婦も、湖のほとりで主イエスの弟子とされた人々も、それらの古い主人や古い権威・伝統を後に残して、天におられる新しい主人に仕えて生きる生活へと招き入れられました。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」とは、このことです。「舟と網を捨て、父を後に残して従った」とは、このことです(創世記12:1,マルコ1:17-20。しかもこの私たちもまた、「主イエスについていきたいと願うならば、誰でも、自分を捨て、自分の十字架を負って、主イエスにこそ聴き従って」ついてゆくことになるからです。そのうえで、「あなたは出て行って、神の国を告げ広めなさい」と命じられたからです。それこそが、伝道者だけでなくすべてのクリスチャンにとって、自分自身がなすべき緊急の務めだからです。世々の教会と私たちが教えられ、習い覚えてきたことは、「王、祭司、預言者」という三つの職務を担って救い主イエス・キリストがお働きになる。それゆえ、主に従って生きる私たちすべてのクリスチャンも、この同じ「王、祭司、預言者」という三つの職務を担って働くのだと。それらの役割にふさわしくない、まったく値しない私たちだとしても聖霊なる神の支えと導きを受けて務めに立ち、働き、その働きは良い実を結ぶと約束されています。例えば、ひきつけを起こして倒れつづけていた一人息子と生きるあの一人のお父さんのようにです。「その人を、私のもとに連れてきなさい」(ルカ福音書9:41と主イエスから命じられました。あのお父さんも、この私たち一人一人も。「その人を私のもとに連れてきなさい」と、救い主イエスが憐みと慈しみを差し出そうとして、すでに準備万端であられるからです。私たち自身と、私たちの愛する家族の一人一人に対してさえも、この同じお独りの救い主が今も確かに生きて働いておられ、なお慈しみ深い力を発揮しておられるからです。だからこそ、この救い主イエスを信じる私たちもまた、自分自身とその大切な家族や親しい者たちのためにさえ、それぞれに精一杯の良い働きをすることができるからです。その喜びも、「いつも喜びなさい」と命じられたあの不思議な言葉の意味も、これです。そう簡単に喜べないとき、苦しくて苦しくて、心が今にも折れてしまいそうなとき、そのときこそどうやって喜ぶことができるのか。何を喜ぶことができるのか。聖書は証言します、「主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ手紙4:5-7)。主は近い。救い主イエス・キリストはその働きのはじめに、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と語りかけました。神の国が近づいたのは、救い主イエスご自身が地上に降り立ち、福音を宣べ伝え、その死と復活によって救いの御業を成し遂げてくださったからです。それによって信じる者たちとされた私たちの只中に、すでに神の国があるからです。その救い主がふたたび来られます終りの日、救いの完成される日が刻々と近づいているからです。だからこそ、クヨクヨと思い煩いつづけるのではなく、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、求めるところを神に申し上げる私たちです。「そうすれば」と確かな約束を与えられています。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ると。ただここにだけ、私たちは望みをかけています。もちろん、死んでそれで終わりではないからです。神によって造られたこの世界と私たちであり、それ以前に救いへと選ばれている私たちです。しかも、終りの日に救い主イエスによる裁きをへて、神の国へと招き入れられ、そこでいつまでも生きることにされている私たちだからです。他には、どんな晴れ晴れした生き方も死に方も、たしかな希望も慰めも、この私たちにはあり得ないからです。