2020年2月17日月曜日

2/16「聞き従う者は」ルカ10:12-16


                  みことば/2020,2,16(主日礼拝)  254
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:12-16               日本キリスト教会 上田教会
『聞き従う者は』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
10:12 あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。13 わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。14 しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。15 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。16 あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。    (ルカ福音書 10:12-16)

 
 12人の弟子たちを送り出したことに続いて、主イエスは72人の弟子たちを送り出します。この私たちをもご自分の弟子として、使者として、それぞれの町や村へ、学校や職場やそれぞれの家庭へと送り出しつづけます。救い主イエスの使者とされたクリスチャンはなんと幸いでしょう。なにしろ神が私たちの味方であってくださり、神との平和を保証され、それを現にこの手に受け取り、主イエスによって神を喜び、神に感謝をしながら一日ずつを生きる私たちだからです。まず12-15節。救い主イエスご自身が神の国の福音を宣べ伝えたときにも、それを喜んで聞き入れる者たちがおり、また拒んで退ける多くの人々がいました。主イエスの弟子たちが主のもとから送り出されて、神の国の福音を告げ知らせる場合にも、やはり、それと同じことが起きます。喜んで聞き入れる者たちがおり、また拒んで退ける多くの人々がいつづけます。「あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムのほうが耐えやすいであろう」。ソドムの町にははなはだしい悪がはびこっていました。そして、アブラハムの時代に滅ぼされてしまいました。その町にはロトの家族が住んでいました。ロトの妻は逃げ去る途中で後ろを振り返ってしまったために、塩の柱にされてしまいました(創世記18-19章を参照)。なぜ、目の前にあるその町より、ソドムの町のほうが終りの日の裁きのときに耐えやすいというのか。コラジン、ベツサイダ、カペナウムなどの町とそこに住む人々が叱られています。それらの町々は、主イエスが何度も何度も訪れて、繰り返し、神の国の福音を熱心に宣べ伝えたところでした。直々に救い主を見て、その驚くべき御業を目にし、神の国の福音を告げ知らされて、それでもなおその言葉を多くの人々は聞き入れることができなかったからです。
 ツロとシドンの町が、それらの町と見比べられています。それらの外国人の町には主イエスと弟子たちはまだ足を踏み入れておらず、福音を宣べ伝えることもまだしていませんでした。ただ、噂を聞いて、それらの地区からも人々が話を聴きに来ていました(ルカ福音書6:17-18。それで13節。もしそこで福音が語られ、力ある業がなされていたなら、「彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中に座って悔い改めたであろう」。荒布をまとい灰の中に座ってとは、神さまの前に深くへりくだって、激しく心を痛めて神へと立ち返る姿です。預言者ヨナのきびしい裁きの知らせを聞いて悔い改めた、あのニネベの町の人々のことを思い起こします。ニネベの町の人々もソドムに負けず劣らず、とても罪深い人々でした。「四十日を経たらニネベは滅びる」と、その大きな町を行き巡って預言者ヨナはよばわりました。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着ました。このうわさがニネベの王の耳に達すると、彼はその王座から立ち上がり、上等できらびやかな服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座りました。布告を出して、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神さまは彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえしました(ヨナ書3章)あの彼らと私たち自身のことを思い巡らせましょう。ニネベの町のとても頑固でよこしまだった王は、どうしたわけか、「あるいは神は御心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない」と思い至りました。「滅ぼさないにちがいない」ではなく、「あるいは、もしかしたら、滅ぼさないかも知れない」と。救いに値しない私たちだけれども、それでもなお神は憐れんでくださるかもと、その憐みにすがりついたのです。慈しみ豊かな神へと、自分の心をひるがえしました。どうして、そんなことが起きたでしょうか。それ以前に、「四十日をへたらこの町と人々は滅びる」と告げ知らされ、人々は心に痛みを覚え、神へと立ち返りました。大きな賢い者から小さな者にいたるまで、誰も彼もが。そのへりくだって悔い改めた姿を見て、身を低く屈めさせられたその貧しい魂にふれて、王様もまた悔い改めました。いいえ、王も人々も悔い改めることができたから、だから幸いなのではありません。それ以前に、なによりも、「あと40日をへたら滅びる」と告げ知らせながら、神ご自身はそもそもの最初から憐み深い神でありつづけたからです。厳しく叱りながらも、救いに値しない罪人たちの生命の一つ一つを惜しみ、神は憐みつづけておられたからです。あの彼らと私たちのために悲しみ、嘆きつづけてくださったからです。預言者ヨナこそは、その神の本質をはっきりと知らされていました。「わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていた」(ヨナ書4:2と。ここにこそ、彼らと私たちすべてのものたちのための希望があります。たとえ私たちがニネベやソドムの町よりもなおはなはだしく悪く、心が頑固であるとしても、私たちがなおコラジン、ベツサイダ、カペナウムの人々よりも思い上がって、心を鈍くしているとしても、なお神はこのわたしたちにも憐みを差し出し、私たちの生命を惜しんでやまないからです。ここに、私たちのための希望があります。兄弟姉妹たち。罪に死んでいる人が、いったいどうやって神の国に入れていただけるでしょうか。ただ神の恵みによる他ありません。しかも救い主イエスよって、神の憐みを十分に知らされ、私たちを罪から解き放つために十字架についてくださったキリストが、目の前に示されたではありませんか。示されつづけているではありませんか。ここに、私たち罪人のための確かな希望と慰めがありつづけます。「わざわいだ。わざわいだ、わざわいだ」と厳しく叱りつけておられる救い主イエスの御声は同時に、彼らと私たちを格別な幸いと祝福へと招きつづけます。遠い昔の預言者の声が、そこに重ねて鳴り響きつづけるからです、「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。……しかしイスラエルの家は『主のおこないは正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしのおこないは、はたして正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル書18:23-32。ここに、あまりに罪深く心がかたくなになってしまった罪人たちのための希望と慰めがあります。私たち自身のための希望でもあります。
 さて16節、「あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。主に仕えて働くすべての働き人たちのための格別な祝福と幸いが語られます。12人の弟子だけでなく、72人の弟子たちのためにもこの約束が語られました。72人ばかりでなく、主に仕えて働くすべての働き人たちのために、この私たちのためにもです。主に仕える働き人たちは、伝道者だけでなくすべてのクリスチャンは、キリストの使者の役割を担って働きます。務めに召してくださった救い主イエスに信頼を寄せ、主に対して忠実に働くことができます。「その者たちを見下し、侮る者たちは、同時に彼らの主人をも軽んじ、侮ることになる。宣べ伝えよと命じられて彼らが語る救いの言葉を退ける者たちは、同時に、彼らの王であられるおかたを退けることになる」と約束されています。

              ◇

 送り出されようとしている72人と、それにつづく私たちを、神さまがなんとかして精一杯に励まそう、慰めと確かな勇気を送り与えたいと願いつづけます。それは、主のもとから送り出されたはずの、主のものである私たちが、たびたび恐れに取りつかれ、心を惑わされ、弱り果てるからです。自分自身と周囲の人々やモノゴトにばかり囚われ、虚しく思い煩いつづけるからです。また私たち人間の耳と心は、たびたび塞がりました。なにより語りかけられている神の御声に対して、何度も何度も。恐れたり惑わされたり弱り果ててて思い煩いつづける理由もそこにあります。だからキリストは、「聞く耳のある者は聞くがよい」と謎をかけつづけました。聞く耳のある者は聞くがよい。聞く耳のある者は聞くがよい。それは、私たちの耳と心をぜひ開かせたいという神ご自身の切なる願いです。こんな私たちにも、神ご自身の願いを受け取ることができます。天の御父と御子が成し遂げてくださいます。どのようにしてか。つまり、御父と御子イエスからの御言葉によってです。主イエスはおっしゃいました、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである」。だからこそ、私たちは主イエスが語りかけてくださった「言葉によって既に清くされている」し、余分なものを一つまた一つと取り除かれて、ますます清くされてゆきます。主イエスの言葉のうちに留まっているなら、私たちもまた本当にこのお独りのかたの弟子であり、神からの真理を知り、その真理が私たちのうちに根を張り、その真理こそが私たちについにとうとう自由を得させるからです(ヨハネ福音書8:31-32,14:23-24,15:3。まず手始めに、私たち自身こそが、自分の腹の思いや願いに神を従わせようとするのではなく、自分を退け、自分の思いを引き下がらせて、神に従う者たちとされてゆきます。人間中心・自分中心のあり方からきっぱりと離れ去らせ、この私たちをも、きっと必ず神へと向かわせてくださいます。『サタンと自分の腹の思いに従って生きること』を止めて、その代わりに、『心と思いを尽くして神さまの御心にだけ聴き従って、神さまにこそ仕えて生きる私たち』とならせてくださいます。それこそが最も幸いな祝福された生き方であると、私たちはすでにはっきりと知ってしまったからです。人間の力にではなく、神ご自身の力にこそ信頼し、人間の賢さにではなく、神ご自身の知恵と賢さにこそ聞き従って生きる私たちであらせてくださいます。救い主イエスの御言が、この私たちのうちにも確かに植え付けられ、根を張り、そこで生きて働いているからです。