2018年2月26日月曜日

2/25こども説教「良いしもべと悪いしもべ」ルカ19:11-27

 2/25 こども説教 ルカ19:11-27
 『良いしもべと悪いしもべ』

19:11 人々がこれらの言葉を聞いているときに、イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである。12 それで言われた、「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。13 そこで十人の僕を呼び十ミナを渡して言った、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。・・・・・・16 最初の者が進み出て言った、『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナをもうけました』。17 主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。18 次の者がきて言った、『ご主人様、あなたの一ミナで五ミナをつくりました』。19 そこでこの者にも、『では、あなたは五つの町のかしらになれ』と言った。20 それから、もうひとりの者がきて言った、『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。21 あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。           (ルカ福音書 19:11-27

  ケンちゃん、ケンちゃん。「神の国」とは、神が王さまとして力を発揮し、支配なさるところです。この私たち自身も他のすべてのものたちも、皆一人残らず神のご支配のもとに据え置かれていることを心得ておきましょう。さて、たとえ話です。「王になろうとしている身分の高い人」は神さまのこと、「その財産を預けられたしもべたち」は私たちのことです。良いしもべと悪いしもべがいます。商売が上手か下手か、仕事がよくできる達者な賢い働き者かどうか、その財産で儲けたか損をしたかなどと問われているわけではありません。うまくやったから良いしもべだなどと誉められたわけでもありません。主人の財産を布に包んでしまっておいたしもべが、なぜ、悪いしもべだと叱られたのか? そのしもべは、実は、とても悲しくて可哀想なしもべでした。自分が仕えている主人がどんな主人なのかを、ちっとも知らなかったのです。知らないどころか、誰かに騙されて、根も葉もないデタラメをうっかり信じさせられていました。ほら、21節、「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです」。なんと惨めで悲しくて、可哀想なことでしょう。他にも、可哀想で愚かで淋しいしもべたちが大勢いるかも知れません。ところであなたは、どんな主人に、どんな気持ちで仕えているんですか?  まさか、あなたの主人は厳しくて恐ろしい極悪非道の主人じゃないでしょうね。もしそうなら、間に合ううちにその主人とキッパリ手を切ったらいいのに。良い主人に仕えているしもべは、とても幸せで安心です。欲ばりで悪い主人に仕えているしもべたちは、このように、とても不幸せで心細いのです。


2/25「わざわいが過ぎ越してゆくために」マタイ26:14-19

              みことば/2018,2,25(受難節第2主日の礼拝)  151
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:14-20                  日本キリスト教会 上田教会
『わざわいが過ぎ越してゆくために』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:14 時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って15 言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。16 その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。18 イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。
                                                      (マタイ福音書 26:14-20)
                                               
 どうぞ、お聴きください。
  14-16節、「時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた」。かつて子羊の血が流され、神の民にふりかかろうとする災いが過ぎ越していったように、世の罪を取り除く神の子羊である救い主イエスの血が流され、それによって私たちに及ぼうとする災いが過ぎ越してゆきました。それゆえキリストの教会は、イエス・キリストの死と復活の出来事を『第二の過ぎ越し』と呼び慣わし、魂に刻みつづけてきました。救い主イエスの十字架の死が、『第二の過ぎ越し』が、ほんの数日に迫っています。
  心のかたくなさ。思い上がって自惚れたり、卑屈にいじけたり、他人と見比べて妬んだり、ひがんだりすること。臆病。自己中心の身勝手さ、了見の狭さ。神を押し退け、神に背きつづけることからくるもろもろの罪から、この私たちが救い出されるためには、主イエスの十字架の死と復活がどうしても必要でした。そのために、ユダも含めて弟子たち皆がつまずき、主イエスを裏切り、主を見捨てて逃げ去る必要もあったのです。神ご自身が私たちの救いのためにそれを計画し、成し遂げてくださいました。それにしても、なんということでしょう。なぜ、ユダは目が眩み、心を鈍くさせてしまったのでしょう。銀貨30枚は、あの時の彼にとってどれほどの魅力だったのでしょう。いいえ、そんなものに何の価値もなかったのに。ユダ自身もほんの少し後、はっきりと気づきました。273-5節、「後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、『わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました』。しかし彼らは言った、『それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい』。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ」。そうやって、イスカリオテのユダは自分で自分の始末をしました。恐ろしいことです。例えば、かつてエジプト脱出のとき、エジプト王パロの中にもサタンが入り込みました。神の民が荒野に出てゆくことを「ゆるす」と言い、「いいやダメだ」「ゆるす」「やっぱり許さない」と何度も何度も心をかたくなにし続け、そうやって災いを自分自身に招き寄せ、とうとうパロもまた自分で自分の始末をしなければなりませんでした。エジプトの王パロとユダは双子の兄弟のようです。そのようにして、あまりに裏腹な仕方で、神の民が救われるための役割を彼らは担わされました。また例えば、弟アベルを殺したカインも、そうでした。自分自身の正しさやふさわしさを言い張ろうとして、カンカンに腹を立てて顔を地面に伏せたとき、主なる神さまはカインに仰いました、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6-7。もちろん、罪とサタンを治めることもねじ伏せることも、私たち人間には誰にも決してできません。ユダの裏切りを、ルカ福音書は「そのとき、十二弟子のひとりでイスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンが入った」(ルカ22:3と報告しています。そう言えば、ユダやパロやカインだけではなく、主イエスの弟子ペテロの中にもサタンが入り込み、ペテロを思いのままに操ろうとしたことがありました。エルサレムの都に向かう旅の途中で主イエスがご自分の死と復活を予告なさったとき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」とペテロが主イエスを諌めはじめたときに。主イエスはペテロを厳しく叱りつけました、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:21-23と。あのペテロ自身に向かって言ったのですし、ペテロの中に入り込んでペテロを思いのままに操っているサタンに向かっても言ったのです。私たちも、彼らとまったく同じではありませんか。四六時中、朝から晩まで自分自身の腹の思いと周囲の人間のことばかりああでもないこうでもないと思い煩って、そのあまりに、神を思う暇がほんの少しもない。なんと惨めな私たちでしょう。サタンが、この私たちをも付け狙いつづけています。神に背かせようとして。私たちを支配し、思いのままに操ろうとして。自己中心のよこしまさへ、あまりに惨めな虚しさへと転がり落とさせようとして。そのとき、ユダ、パロ、カイン、ペテロたちと同じようにこの私たち一人一人も、神をすっかり忘れ果てています。どんな神さまであるのか、どういう希望と救いを贈り与えられていたのか。神の御心にかなう良いことはなんであるのか、御心にかなわない悪いことは何なのかもすっかり分からなくなり、そこでもし、自分で自分の始末をしなければならないとしたら、私たちもユダのように絶望するほかありません。ですから兄弟姉妹たち。サタンが私たち自身の中にも入り込もうとして、言いなりに従わせようとして付け狙っていることを、「ああ本当にそうだ」と私たちは本気になって恐れねばなりません。『主の祈り』の6つの願いの最後の願いでは、2つのことを神さまに願い求めています。『試みにあわせないでほしい』。そして、『悪い者から救い出してください』と。また、このように願い求めつづけて生きるように、と神さまから命じられています。どういうことでしょうか? 弱く危うい私たち自身であることをよくよく知りながら、また、だからこそ神さまの助けと支えを受け取りつづけて生きるように、と私たちは神さまご自身から命じられています。このことを受け止めましょう。
  (1)悪い者から救い出してください。エペソ手紙6:10-は語りかけます;「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」。強くあるように、と励まされます。勇気と力を出すように。なぜなら私たちは、私たちを弱くしようとする様々なものたちに取り囲まれているからであり、しかも、私たち自身ははなはだしく弱く脆く、あまりに危うい存在であるからです。それならば、一体どうしたら私たちは強くあることができるでしょうか。何を支えとし、いったい誰の力添えと助けとを求めることができるでしょう。主なる神さまの助けと守りによってです。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」と勧められているのは、このことです。そうでなければ、他の何をもってしても私たちは強くはなりえません。しかも兄弟姉妹たち、そうでありますのに私たちは度々この単純素朴な真理から目を背け、脇道へ脇道へと道を逸れていきました。自分自身の弱さと危うさを忘れ、思い上がりました。あるいは自分自身の弱さをつくづくと知った後でもなお、神さまからの助けと支えをではなく、ほかの様々なものの支えと助けを探して、ただ虚しくアタフタオロオロしつづけました。立ち返るようにと、預言者らは必死に警告しつづけました。神さまの御もとへと立ち返って、神さまご自身への信頼をなんとしても取り戻すのでなければ、落ち着くことも穏やかであることも誰にもできないはずでした。けれど先祖と私たちはそれを好まなかった。神をそっちのけにして、速い馬に乗ることばかりを求めつづけた。だから、私たちを追う者の足はさらにもっと速いだろう(イザヤ30:15-17参照)。その通りです。立ち返って、主ご自身に信頼しはじめるのでなければ、私たちは力を失い、ますます痩せ衰えてゆくばかりです。よくよく心に留めましょう。
 (2)さて、「試みにあわせないでください」という神への願い。おそらく、苦難と試練の事柄こそが人生最大の難問です。『試み。誘惑』は、ごく一般的には『罪に陥れようとする試み、誘惑』を意味します。ヤコブ手紙1:13以下は証言します;「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない」。他の何者のせいにもできない。自分自身の欲望とむさぼりこそが原因ではないか、と突きつけられます。そこには大きな真理があります。けれど、これが知るべき真理の中の半分です。残り半分は、『神さまご自身が私たちを試みる場合もありうる』。それは、神さまへの信頼と従順に向かわせるための信仰の教育であり、恵みの取り扱いです。例えば、モーセと仲間たちが旅した荒野の40年がそうでした。「主はあなたを苦しめ、あなたを試み、あなたの心を知ろうとなさった。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためだった。あなたはまた、人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練することを心に留めなければならない」(申命記8:2-3。十字架前夜のゲッセマネの園へと立ち戻りましょう。あのとき、主イエスはご自身の祈りの格闘を戦いながら、同時にご自分の弟子たちを気遣いつづけます。気がかりで、心配で心配でならないからです。何度も何度も彼らのところへ戻ってきて、眠りつづける彼らを励ましつづけます。「眠っているのか。眠っているのか、まだ眠っているのか。ほんのひと時も私と一緒に目を覚ましていることができないのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが肉体が弱いのである」(マタイ26:40-41参照)。私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの時がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して本気になって祈りなさい。主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「目覚めていなさい。気をしっかり持って祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて冷たくなって死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。エジプトの王パロやユダやカインが唆されたように、サタンが私たちの中に入ってこようとして付け狙いつづけているからです。しかも私たちは、一人の例外もなく誰もが皆、自分自身で自分の始末をつけることなどできません。神の憐れみにすがることができなければ、あまりに無力で弱々しく、心細い私たちです。だから本気で、必死になって祈りつづけなさい。主イエスはご自身の祈りの格闘をしつつ、しかし同時に、弟子たちをなんとかして目覚めさせておこうと心を砕きます。あの彼らのことが気がかりでならないからです。
 17-20節、「さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた」。「先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます」。主イエスの時とは、十字架の死と復活のときです。この私たち一人一人のためにも救いの御業を成し遂げてくださる恵みのときです。わざわいが私たちを過ぎ越してゆくために、救い主イエスこそが、私たちのための災いを引き受け、そこから救い出してくださいました。救いの中に据え置かれ、そこに堅く留まってこの私たちも晴れ晴れとして健やかに生きることができるために、憐れみの食事が用意されています。一回のパンと杯の食卓が。一回の礼拝が。あの弟子たちと一緒に、またこの私たちと一緒に過越しの食事を守ろうと主イエスが招いておられます。その聖晩餐の食事によって、その一回ずつの礼拝の交わりによって、私たちを罪とサタンの誘惑から堅く守ってくださろうとして。どうか主なる神さまが、私たちを憐れんでくださいますように。




2018年2月19日月曜日

2/18こども説教「取税人ザアカイ」ルカ19:1-10

 2/18 こども説教 ルカ19:1-10
 『取税人ザアカイ』

  19:1 さて、イエスはエリコにはい って、その町をお通りになった。2 ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。3 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。4 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。5 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。6 そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。7 人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。8 ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。9 イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。                    (ルカ福音書 19:1-10

  その頃、その国では、「取税人」という仕事は人からバカにされたり、仲間はずれにされて見下される仕事でした。そういう惨めな人々の中からも神の恵みにあずかる人々を起こしてあげよう、と神さまは決めておられました(*)。まず手始めに、取税人の中から12人の弟子の1人を選び、取税人たちと親しい友だち付き合いをずっと続けました。ザアカイに対しても、彼と出会うずっと前から、ザアカイの家に泊まって、神の子供たちの一人にしてあげることに決めていました。5節で、「きょう、あなたの家に泊まることにしている」と主イエスが仰ったのは、このことです。また9-10節、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子(=主イエスご自身のこと)がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」と。あの彼らばかりではありません。神さまからはぐれて迷子になっている人たちが、いまでも大勢います。「その人たちを私が捜し出して救う」と救い主イエスが仰います。そのために この世界に、この私たちの所へも、来てくださったのです(テモテ手紙(1)1:15

(*)【補足/軽々しい判断】
「取税人」がユダヤ人たちから毛嫌いされ、見下されていた理由は、当時のユダヤがローマ帝国の植民地にされていたためでした。集めた税金は、もっぱらローマ帝国のために使われました。ローマ帝国に腹を立て、言いなりに従わせられている自分たち自身にも腹が立ちました。それで八つ当たりのようにして、人々は取税人を軽蔑し、憎み、毛嫌いしました。学校や職場でのいじめのように。
「罪人の家に」(7節)などとバカにしながら、自分こそが誰よりも罪人だとは人々は少しも気づいていません。例外なく誰もが皆、神に背く「罪人」。けれど私たちは、社会的地位や仕事や人相風体で判断して、ごく表面的に他人を決めつけやすい。


2/18「主イエスの葬りのために」マタイ26:1-13

          みことば/2018,2,18(受難節、第1主日) No.150
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:1-13                日本キリスト教会 上田教会
『主イエスの葬りのために』

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。2 「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。・・・・・・6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、7 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。8 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。9 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。10 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。11 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。12 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。13 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。                 (マタイ福音書 26:-13)

  なによりまず、救い主イエスが弟子たちに、ご自身の死を心に留めさせようとしておられるのかと目を凝らしましょう。2節、「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子(=主イエスご自身)は十字架につけられるために引き渡される」。過越祭が近づいていることばかりではなく、主イエスの十字架の死についても、弟子たちはよく知らされていました。エルサレムのみyタコへ向かう旅の間にも、何度も何度もそれを予告なさり、都に入って、その十字架の死の直前にもこのように予告しつづけています。しかも、この言葉は、直前の25章と深く堅く結びついています。つまり、花婿である主イエスの到着を待つ花嫁たちのたとえ話、主人から財産を預かったしもべたち、そして世界の終わりのときに来られる王であり裁き主であられる主イエス。このお独りの裁き主イエスの前に、私たちは立つことになります。それらの言葉や有様が弟子たちの心に鮮やかに残っている間に、それにつづけて直ちに、主イエスはご自身の十字架の苦しみと無残な死について語りはじめます。主イエスは唯一絶対の王様としてこの世界をご自身の支配下に収める前に、まず一人の罪人として身を屈め、ご自分を虚しいものとし、バカにされ、唾を吐きかけられて辱められ、苦しみ、死なねばなりません。
  6-13節。主イエスと弟子たちは、重い皮膚病にかかっているシモンの家にいました。ひとりの女性が高価な香油が入れてある壺をもって入ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭にその香油を注ぎかけました。すると弟子たちは、これを見て、とても腹を立てて言いました。8-9節、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。主イエスは弟子たちに語りかけました。10-13節、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。この一人の女性は、ただただ主イエスを尊び、主イエスに深く感謝をしています。「主イエスからとても良いことをしていただいた。ああ本当に嬉しい」と大喜びに喜んでいて、その喜びと感謝こそが彼女にこれをさせています。その感謝のしるしに、とても高価であるらしい香油を主イエスの頭に注ぎかけました。彼女としては、その献げものはとても高価だとか、高すぎる献げものだとか、もったいないなどとはまったく思ってもいません。なにしろ、自分が献げたその献げもののその千倍も万倍も良い贈り物を主イエスからいただいたことをよく覚えているからです。すると、「ムダ遣いだ。ああ、もったいない、もったいない」などと腹を立てて騒ぎ立てているこの弟子たちとはずいぶん違うことを心に思っているのですね。「こんなムダ遣いを」8節)と弟子たちは呆れて、腹を立てています。もっと良い、もっともっと役に立つ使い道が他にいくらでもあるだろうにと。なんということでしょう。主イエスは直ちに、彼らの心の狭さを、了見の貧しさを、自分ではよくよく分かったつもりの冷え冷えとした心を叱りつけます。「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ」。さらにこう予告なさいます、「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と。
 さて、11節で「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と主イエスは仰いました。やがてほんの数日後に十字架に付けられて殺され、葬られるからです。今しばらくの間、あの彼らと離れるときが来ます。けれど、その続きがありました。葬られたままで終わりではなく、その後、三日目に墓からよみがえると。弟子たちが見ている前で天に昇っていかれます(使徒1:6-11参照)が、しかもなお、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。ですから、今では、主イエスはその約束のとおりに私たちといつも一緒にいてくださっています。このことを、片時も忘れてはなりません。
  それならば、天と地の一切の権威を授けられた主イエスがいつも共にいてくださるのならば、この私たちは、朝昼晩と、毎日毎日をどのように働いたり休んだりして暮らすことができるでしょうか? 心が鈍くされたあの弟子たちのように、「ムダ遣いだ。ああ、もったいない、もったいない」などと見当はずれに腹を立てたり、虚しく騒ぎ立てたりしないでいることができます。あの一人の女性のように、ただただ主イエスをこそ尊び、主イエスに深く感謝をして暮らすことができます。「主イエスからとても良いことをしていただいた。ああ本当に嬉しい」と大喜びに喜んで、その喜びと感謝によって、ますますキリストに信頼し、聴き従い、キリストに願い求めて良い贈り物を受け取りつづけ、キリストに感謝することができます。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えることをキッパリと止めることもできます。何をするにも、誰に向かってするにも、人に対してではなく、主に対してするように。例えば年老いた親の世話をし、家族のために心を砕き、職場でも道を歩いていてもどこで誰と何をしていても、そこでそのようにして、私たちも主であるキリストにこそ仕えて生きることができます。
  あの女性のした感謝の献げものが記念として語られつづけるように、救い主イエスご自身がしてくださった救いの御業こそが、私たちの魂にますます深々と刻まれはじめます。主イエスを覚え、「イエスこそが主である。私たちを救いうるお方はこのお独りの方以外にはない」と魂に刻みつづけるための一回一回の礼拝が私たちを招きつづけるからです。「これは私の体である。私の血による新しい契約である」と聖晩餐のパンと杯が私たちを憐れみの食卓へと招くからです。「主イエスを覚えつづけるための記念としてこのように行いなさい」と命じられているからです。私たち一人一人も、この女性のようにされてゆくでしょう。あるいは、神殿で、わずかな額の献げものをささげた貧しい未亡人(マルコ12:41-44のような私たちとされてゆくでしょう。神こそが、してくださいます。

  あの未亡人もこの女性も、他の誰にもまして豊かであり、必要なものを不足なく不自由なく、たっぷりと与えられていました。「本当にそうだ」と、それをはっきりと実感することもできました。もちろん、ここにいる私たち一人一人もまったくそうです。さらにそのうえ、あの未亡人もあの女性も、自分が持っているものすべてがどこから来たのか、いったい誰から与えられたのかを知っていました。天におられます神さまから贈り物のようにして与えられた、と知っていました。カインとアベルの献げもの(創世記4:1-から始まって黙示録に至るまで、さまざまな献げものが神の御前に差し出されつづけます。その中で、《ふさわしい献げものとは何なのか。またいったい誰が価値ある献げものを差し出すのか》と人々は思い巡らせ、《私の献げものを、どうか神さまが喜んでくださいますように》と願い求めました。私たち人間から神さまへと、献げものは差し出されつづけました(イザヤ1:11-17,50:7-23,アモス5:21-22)。そこでは、その奉仕と献げものの場所では、いつもいつも、それらの奉仕や献げものと共に差し出されるはずの心やその人々の在り方こそが問われました。つまり、「打ち砕かれ、神へと立ち返る心」(詩51:17が。神さまの御前に丸裸にされ、ひれ伏す魂が。主なる神さまは、私たち人間の内面にある心をこそ差し出してもらいたいと望んでおられます。神さまは、動物の肉を食べるわけではなく、ヤギの生き血をすするわけでもありません。私たち人間に面倒をみてもらったり、私たち人間に世話され、養ってもらわなければ腹がペコペコに減ったり喉が渇くような神ではありません。ただ、神を神として仰ぐ信仰を、また神さまへのひたすらな信頼と感謝をこそ差し出してもらいたい(51:12-14)。ぜひ、そうしてもらいたい。それは、けれども、とても難しい要求でした。
  やがて、人間から神さまへと差し出される献げものは、神さまから私たち人間へと差し出される献げものに、道を明け渡すことになりました。つまり、神ご自身の体と魂を、神さまが私たちのために、すっかり献げ尽くしてくださったただ1回の出来事の中へと覆い尽くされ、すっかり飲み込まれてしまったのです。神の独り子である主イエスの十字架の犠牲に。「世界と私たちすべてを罪から救う神の小羊」(創世記22:13-,ヨハネ1:36と、この方は呼ばれました。なにしろ、あの十字架の決定的な出来事がありました。それ以来、もっとも重要な献げものは、私たち人間が神さまへと差し出すのではなく、神さまこそが、ご自身を私たちへと差し出したもの。差し出しつづけておられるもの。神さまが受け取るのではなく、私たちが受け取る。イエス・キリストというお独りの方の人格と体とを通して。ある人は、ついにとうとう、自分の悪と罪深さをさえ、神さまへと差し出しはじめました。「神さま。罪人の私を憐れんでください。助けてください」と。精一杯に、心を込めて、喜びにあふれて働いたときばかりでなく、ある人は、ついにとうとう、そうではない自分自身を差し出しはじめました。破れと欠けに満ちた愚かな自分を。苛立ったり、不平不満をつぶやきながら、嫌々渋々ながら働いた自分を。「神さま。私は人を悪く思いました。あなどったり、『私はこんなにやっている。それなのに』と裁いたり、軽蔑したり、憎んだりして。神さま、私は思い上がりました。『どうせ私は』と、卑屈にいじけました。意固地に偏屈になり、心を閉ざしました。人を困らせたり苦しめたり、傷つけたり、踏みつけにしたりしてしまいました。この私の冷淡さを、私の思いやりのなさを、どうかゆるしてください」と。ああ、兄弟たち。ご覧ください。ついにとうとう、その人も、最低最悪の罪人たちの仲間入りを果たしました。そこでようやく、その人も、《ゆるす神》と出会い、《神のゆるし》を自分のこととして受け取りはじめました(詩130:3-4。ゆるしは主のもとにあり、しかも、こんな私のためにさえ、格別なゆるしが用意されていました。喜びがあふれました。
賽銭箱の中に誰よりもたくさん入れた『貧しいもの』がどなただったのかを、今はもう、私たちは知っています。よくよく知っています。自分の持っているものを残らず、すべて一切を入れた方がどなたなのかを知っています。神であられることのその尊厳も、栄光も、力も身分さえ惜しげもなく捨て去り、ご自分を無になさって地上に降り立ち、泥にまみれ、ツバを吐きかけられ、軽蔑され、見捨てられ、ついに十字架の死にいたるまでご自分の魂を注ぎ出してくださった方(ピリピ2:6-11,イザヤ53:1-11を、私たちは知っています。私たちの主イエス・キリストを。あのお独りの方にとって、私たちを愛する愛の前では、私たちを惜しむ憐れみの前では、ご自身がそれまで持っておられた豊かさは無に等しかったのです。「そんなものはどうでもいい。いったい何ほどのものか。くだらん、つまらん」と、ポイと投げ捨てて見向きもしないほどに、それほどに無に等しかったのです。こんな私たちをさえ救い出して神の子としてくださるために、救い主イエス・キリストは貧しくなってくださいました。兄弟たち。ぜひご覧なさい。よくよく目を凝らしてください。その貧しさと惨めさは、あのお独りの方にとっては、神の独り子ナザレのイエスにとっては、何にもまして豊かだったのです。罪人を憐れみ、ゆるし、憐れみを受けた子供たちとして私共を迎え入れること、それこそが、何にもまして大きな大きな喜びでした。神の独り子イエス・キリスト。「子よ。お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部、お前のものだ」(ルカ15:31,コリント(1)3:21-22と仰います。私たちをご自分の富、ご自分の宝物として愛し、尊び、選び取ってくださいました。お前たちこそ私の宝の民(申命記7:6だ、と仰るのです。なんということでしょう。私たちが喜びと幸いのうちに生きて死ぬために、そのために、誰よりもたくさん献げてくださったのは、あの方だったのです。しかも兄弟たち。惨めな私たちのためにです。どうしようもない、こんな私たちのためにさえ。なんという幸い、なんという恵みでしょう。


2/10「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」創世記2:4-25

                           号外/2018,2,10 結婚式のメッセージ
◎礼拝説教 創世記 2:4-25                       日本キリスト教会 上田教会
『人と妻は二人とも裸であったが、
恥ずかしがりはしなかった』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・・・・15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23 そのとき、人は言った。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。(創世記 2:4-25)


まず4-7節です。神さまによって造られた初めのとき、この地上は草一本も生えない、荒れ果てて荒涼とした物淋しい大地だったと報告されます。どうしてかと言うと、その理由は2つ。まず、(1)雨がまだ大地に降り注いいなかったこと。また、(2)その恵みの雨を受けとめて土を耕す人がいなかったから(5)。雨と、そして土を耕す人。この世界が生命にあふれる、青々とした素敵な世界であるためには、雨が大地にたっぷりと降り注ぎ、そしてその恵みの雨を受けとめて土を耕す人がそこにいる必要がありました。「いつごろ雨が降るだろう。まだかなあ」と空を見上げて待っていましたら、空の上からではなく、地面の下から水が湧き出てきて大地を潤しました。土を耕す人も、わざわざ土の塵からペタペタペタと泥をこねて造られました(6,7)泥人形のように、土の塵で人が造られた。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れた。それで、人は生きる者となった。そのことを、ずっと考え巡らせてきました。「オレって何て馬鹿なんだろう。なんて臆病でいいかげんで、ずるくて、弱虫なんだろう。ああ情けない」とガッカリして、自分が嫌になるときがあります。そういうとき、この箇所を読みました。「どうして分かってくれないんだ。なんで、そんなことをする」と周りにいる身近な人たちにウンザリし、すっかり嫌気がさしてしまいそうになるときに、この箇所を読みました。どんなに強くてしっかりしているように見える人でも、それでもなお、堅い石や鉄やダイヤモンドで造られた人なんか誰1人もいないのです。土の塵で、泥をこねて造られた私たちです。土を耕して生きるはずのその人も、土でできている。どういうことか分かりますか? その人の中に小さな1粒の種が芽生え、大きく育ち、素敵な花を咲かせ、やがて嬉しい実を結ぶためには、その人自身のためにも、やっぱり(1)恵みの雨と、(2)その人を耕してくれる別の耕す人が必要だってことです。もし、そうでなければ、その人も直ちにカラカラに乾いて、干からびて、草一本も生えない寒々しく荒れ果てた淋しい人間になってしまうかも知れなかった。しかも土の塵。石や鉄やダイヤモンドでできたビクともしない人など1人もいません。ですから、あんまり乱暴なことを言ったりしたりしてはいけません。あんまりその人が困るような無理なことをさせてはいけません。壊れてしまっては大変です。例えば信治には、互いの土地をずっと耕し合いつづけてきた賢治がいる。畑仕事を大好きにしてくれた千葉の信雄じいちゃんがいる。中学、高校のバスケの監督や大切な仲間たちがいた。それらの人々は信治という土地を耕してくれた人たちです。種を蒔き、雑草をむしり、肥料をほどこして。おくがの村の師匠の糸賀盛人さんと奥さん、村の人たち。津和野町の人たち、酒蔵のご主人、他にもたくさん。有季ちゃんの土地を耕し守ってくれた格別な働き人たちもいました。大石家の寅さんと奥さんと姉さん兄さんたち。長崎教会と筑紫野教会、この姫松教会の人々、職場の同僚たちもそうです。父さん母さんと奏ちゃんと和歩くんと。それらの人々こそ、この2人のための恵みの雨、土を耕し守る格別な人々でありつづけました。ありがとうございます。
  18節。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。結婚相談所のキャッチフレーズではありません。結婚をしないで、ずっと独身で生涯をとても幸いに生きる人たちも大勢います。そうだとしても、その人たちも、ただ独りで生きているわけではありません。さて、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。これは、ただそれだけで語られているのではなくて、4-7節の成り立ちと、15,16,17節のつながりの中に置かれています。「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。そして、だからこそ主なる神は言われるのです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と。素敵なエデンの園に連れてこられました。何のため? そこを耕し守るためにです。(1)その土地を耕し守って生きる、という大切な働きと役割。(2)すべての木から取って食べなさい、とあまりに気前よく恵みと祝福を与えられました。(3)ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と戒めも与えられて。働きと役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め(15,16,17)。しかも土で造られた私たち人間はあまりに不完全で、ひどく未熟でした。たびたび繰り返して意固地になり、心を閉ざして独り善がりになりました。ね、だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りでは、その土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、あまりに気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。独りでは、『これだけはしてはいけない。ダメだよ、止めなさい』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどとうていできないからです。どうぞ、目の前のその人の不出来さ、了見の狭さ、うかつさをゆるしてあげてください。何度でも何度でも大目に見てあげてください。大目に見てゆるしながらも、それでも、その人が間違うときには「それは違う」、してはいけないことをしようとするときには「してはいけない」と折々に戒めることも互いにし合いたい。なぜなら私たちは生身の人間にすぎないからです。そういう兄弟が、助ける者として傍らに立っていてくれるならば、私たちは共々に、同じ1つの狭い土地を耕し守って生きることができるでしょう。安らかに晴れ晴れとして生きて、やがて祝福のうちに死んでゆくこともできるでしょう。
 信治と有季ちゃんも2人のためのエデンの園に連れてこられ、そこに据え置かれます。おくがの村です。朝昼晩とあなたたちが暮らすいつもの場所、いつもの家と家族、いつもの仲間たちと職場、そこが、信治と有季ちゃんのためのエデンの園です。その土地を耕し守って生きるという、あなたたちのための大切な役割と格別な祝福です。

       ◇

さて、もし、この二人が神を信じて生きていきたいと願っているなら、もう少し言い添えておくことがあります。どんなふうに暮らしていきましょうか? 「家族や仲間たちや隣人を愛し、精一杯に人と付き合い、骨惜しみせずよく働き、その後で、もし時間の余裕があったら神さまとも少しはお付き合いをする?」。いいえ、とんでもない。もし神を信じて、神さまから恵みと幸いを受け取りつづけて生きていきたいと本気で願うのならば、そうではありません。「第一に、なにより神を愛すること」(マタイ22:34-40と聖書は告げました。「なにしろ神が第一」と世々の教会は習い覚えつづけてきました。わざわざそう言うのは、水は低いほうへ低い方へとどんどんと流れ落ちてゆくからです。私たちはその水のようです。他に大切な用事や仕事や約束事が次々と出てきて、ふと気がつくと、神を愛することが二の次、三の次にされ、どんどん後回しにされつづけていき、やがて間もなく神のことを少しも思う隙のない、自分自身の腹の思いと周囲の人間たちのことばかり思い煩いつづける、心細く虚しい生活の中に沈み込んでしまうかも知れません。それは恐ろしいことです。例えば、夫婦が夫婦として一個の人間同士として愛し合い、尊び合い、一緒に生きることを互いに喜び合いつづけるのは、なかなか難しいことです。「愛している」と言いながら、自分の思い通りに言いなりにその相手を従わせたくなります。良かれと思って、けれど相手を苦しめたり、困らせたりしてしまうこともあります。「愛される」ことも難しいです。ゆるすことも信頼することもできなくなって、相手が何を考え、何を願っているのかもすっかり分からなくなって、淋しく背を向け合う日々が来るかも知れません。「どうせ分かってもらえない」と互いに心を閉ざしあってしまうかも知れません。夫婦も親子も、親しい仲間同士も。ぼくと真理も繰り返し大失敗して、「一体となる」はずがバラバラに砕け散ってしまいそうな崖っぷちが何度も何度もありました。神さまがつなぎとめてくださいました。多分、信治と有季ちゃんにもそういう日々があるでしょう。その崖っぷちの日々を乗り越えて、幸いに生涯ずっと良い助け手同士として添い遂げることができるでしょうか? 親しい仲間同士も同じです。誰でもとても弱くて、心細くて、独りで生きてゆくことなどできません。助けてくれる者が傍らにいてくれなければ。助けてくださる神が傍らにいてくださると気づいているのでなければ。そのために、あなたがたにとっては、神を本気で信じて生きることこそが肝心要の生命線でありつづけます。それが、新しく始まろうとするこの家族の土台です。だから、いちばん大切な第一の戒めです。あなたがたのためにも神は生きて働いておられ、他のどこからでもなく、ただただ天地を造られた神から、あなたがたのための助けが必ず来ます。主こそが私たちの思いを励まし、戒め、私たちの心を夜ごと諭し、生命の道を教えてくださる。そうであるからこそ、私たちは揺らぐことがない。そうでなければ、右へ左へと揺さぶられっぱなしだ。創世記2章の結びに、「2人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」。この2人も自分たちが裸で小さくて、あまりに未熟で世間知らずで弱々しいってことを、小さな頃から知っていました。まわりにいる人間たちのことを恐がって、たびたび臆病風に吹かれました。神さまを信じて生きはじめる前には、まわりの強そうで何でも分かっていそうな賢そうに見える人間たちが恐くて恐くて、ビクビクして縮みあがっていました。何をされるか分からないと。何十年も神さまを信じて生きてきたはずの私たちクリスチャンたちも、たびたび周りにいる人間たちのことが恐ろしくなって、「あの人たちから何と思われるだろうか。どう見られてしまうだろう」などと心細くなって臆病風に吹かれます。そのときには大抵、神さまのことを忘れて、どんな神様なのかがすっかり分からなくなっています。だからです。だから、神ではない人やモノを恐がりはじめます。けれど、「神さまこそが自分たちよりもほかの誰彼よりも千倍も万倍もずっと強くて大きい」と思い出して、「神さまこそが、私やこの人が幸せに生きていくために神さまこそがちゃんと十分に守っていてくださる、本当にそうだ」と分かって、それでやっと安心しはじめます。その繰り返しです。実は、誰でも皆そうで、強がって見せても本当はとてもとても心細い。救い主イエスの弟子たちも何度も何度も臆病風に吹かれつづけて、けれどやがてとうとう神さまを本気で信じはじめました。とてもご立派で強くて賢そうに見える人たちに取り囲まれて厳しく脅かされたときに、胸を張って、晴れ晴れ清々して答えました。「神に従わないであなたがたに従うことが神の御前に正しいかどうか考えてください」と(使徒4:19,テモテ手紙(1)1:15-16,フィリピ手紙2:6-11,16:7-11。しかも信治と有季ちゃんが、神を自分のための神とするかどうかを自分自身で選び取ります。神さまによくよく信頼すること。周囲の人間たちにではなく、自分の腹の思いに聴き従ってでもなく、神さまの御心にこそ聴き従って一日また一日と暮らすことを習い覚え、困ったことや苦しみの只中にあっても神にこそ助けを1つ1つ願い求め、支えられ、助けられつづけて生きることができるなら、もしそうであるならば、その人たちはとても幸いです。


2018年2月17日土曜日

2/11こども説教「あなたの信仰があなたを救った」ルカ18:35-43

  2/11 こども説教 ルカ18:35-43
 『あなたの信仰があなたを救った』

18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。36 群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。37 ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、38 声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。39 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。40 そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、41 「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。42 そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。43 すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。 (ルカ福音書 18:35-43)

「ダビデの子よ。ダビデの子よ」38-39節)と、この人は主イエスに呼びかけています。ダビデ王の子孫の中からやがて救い主が起こされると神さまから約束されていました。そのことを受け止めて、「約束されていた救い主」という意味で、このように主イエスに向かって彼は呼ばわっています。彼は、主イエスを約束されていた救い主であると信じています。その上で、救い主イエスに「私をあわれんでください」と呼ばわりました。救い主イエスはその人に、「私に何をしてほしいのか」と問いかけ、その人は「主よ、見えるようになることです」と答えました。主イエスは願い通りにしてあげて、その彼に、「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけました。憐れんでくださる神さまがおられます。「あなたの信仰があなたを救った」とわざわざ語りかけられました。その人を救う信仰と救わない信仰とがあるのでしょうか? どういう信仰なら、その人を救うことができるのでしょう。よくよく考えてみましょう。主イエスを信じて、主イエスに向かって「私を憐れんでください」と主イエスに呼ばわる、その祈りが、その人を、憐れみの神さまの御もとへと連れ出します。神さまと出会わせ、神さまからの憐れみを受け取らせます。もし、彼のように主イエスを信じることができるなら、その人はとても幸せです。


   【補足/なぜ、彼は神をあがめて、主イエスに従って行ったのか?】
    受け取った恵みが、この人にも、神をあがめさせて、神に信頼を寄せさせています。だから、ますます神に聴き従う者とさせています。主イエスに従っていったのは、神に感謝しているからです。しかも、まだまだ神の憐れみと支えを必要としているからです。この私たちも同じです。


2/11「私が飢えていたときに」マタイ25:31-46

                        みことば/2018,2,11(主日礼拝)  149
◎礼拝説教 マタイ福音書 25:31-46             日本キリスト教会 上田教会
『私が飢えていたときに』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
25:31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、やぎを左におくであろう。34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。41 それから、左にいる人々にも言うであろう、・・・・・・45『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。46 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。     (マタイ福音書 25:31-46)
                                    


  理解することがとても難しい聖書箇所の1つです。
 もし、ここだけを文字通りに、書かれているとおりに読むならば、福音の本質をすっかり読み間違え、見失ってしまうでしょう。なぜなら、「親切な良い行いをしたかどうかによって救われる者と滅びる者とを選び分ける」と書いてある、かのように見えるのですから。けれど、聖書全体が告げる福音の本質は違います。良い行いによってではなく、ただ恵みによって、救い主イエスを信じる信仰によって救われる。ふさわしくない罪人が、にもかかわらずただ憐れみを受け、ゆるされて救われる。救いの道筋はこの1本道しかない(ローマ手紙3:21-26,4:16,5:6-11,10:9-13,テモテ手紙(1)1:13-16,ペテロ手紙(1)2:10参照)。だから、とても難しく、勘違いしやすい危ない聖書箇所です。それなら、なぜ、このように書かれているのか。良い行いがどうでもいいわけじゃなく、とても大切。救われて神の子供たちとされた者たちは、神から贈り与えられたその恵みの結果として、だんだんと良い子になっていきます。良い行いをすることが救いの条件ではなく、救われた者は、その後からだんだんと良い行いをする者たちへと新しくされてゆくのです。神さまが、それをしてくださいます。

  すぐ目の前に、この自分よりもほんの少し小さな、ほんの少し弱々しい、ほんの少し人から迷惑がられたり除け者扱いされたり、軽く見られている、心細く惨め~な人がいるとします。神さまは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(出エジプト記20:13-17,マタイ22:34-40)と私たちに告げます。あなた自身のように。その意味は、もし、そこにいるその人を自分自身だ、自分と同じだと感じることができるなら、その人を大切にしてあげることができる。思えないなら、できない。もし思えないなら、その人がいくら困っていても、可哀そうでも心細そうにしていても、あなたは知らんぷりをしつづけます。自分さえよければそれでいいと自分のことばかり考える、ひどくわがままで意地悪で冷たい人間でありつづけ、それで、ほんの少しも心が痛くならない。恐ろしいことですね。終わりの日に、救い主イエスがこの世界にやってきて、私たち皆を裁きます。そのとき、何て言って誉められたり叱られたりするのかを、私たちはよくよく覚えておきましょう。まず、35-40節。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」。その人たちは、全然覚えがありません。42節以下、『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ』と言われても、なんのことかサッパリ分からないのです。もう一方に集められた人たちに向かっても、救い主イエスはこう仰います。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』(42-45)。それから、もちろん、こんなことも仰いますよ。「あのときの、あれはたしか君だった。君のことだ。君は、わたしが友だちから馬鹿にされたり、からかわれていたり、除け者扱いされていたとき、黙って、面白がって、ニヤニヤしながらただ眺めていたねえ。君は、その悪い友だちといっしょになって、からかって笑い物にしたねえ。あのとき笑い物にされ、除け者にされて悲しい嫌~な思いをしていた小さな者、あれは、私だったんだよ」と。
 思い浮かべてみましょう。再び来られる救い主イエスは、変装の名人だったのです。私たちが思っても見なかった、似ても似つかない姿形でやってきます。いつも目にする、なんだか邪魔で目障りな、「あんな奴が目の前にいなけりゃ、どんなに晴れ晴れ清々するだろう。チェッ」とか、そういうふうに人から見られ、「そばに来ないで。どこかヨソに行ってよ、シッシッ」などとあちこちで冷たく追い払われる小さな人たちの姿で。いいえ、すでに私たちの目の前に何度も何度も来ておられました。「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(40)。「その温かい心遣い、その労わり、あなたが折々に差し出してくれたその慰めは、それは私にしてくれたことだ。とても嬉しかった。あなたの目の前に立っていた小さな1人の人。それは、この私自身だ」と主イエスは仰います。私たちが信頼を寄せ、目を凝らして仰ぎ見ているのは、「それは私自身だ」とおっしゃるこのお方です。最も小さい、心細い、惨めな淋しい者の1人の姿をとったこの私を、あなたはどうするつもりなのか。
 なぜ、その人に心細い惨めな、嫌~な思いをさせてはいけないのか。なぜ、心を痛めさせてはいけないのか。なぜ、その人ががっかりして隅っこで小さくなっているのをそのままに放っておいてはいけないのか。なぜ傍らに立って、手を差し伸べてあげるべきなのか。聖書は証言します。「その1人の兄弟のために、キリストは死んでくださった」(ローマ手紙14:15,コリント手紙(1)8:11)と。しかもキリストは、その1人の兄弟のうちに生きてくださるからです。だから、キリストに対してするように、それと同じように、目の前の小さな1人の人に対してしなさい。それは断固たるご命令であると共に、それこそが同時に キリストの教会自身に対する祝福であり、クリスチャンである私たちに対する格別な祝福です。主のものである小さな羊たちの世話をし、互いに心を配りあい、手を差し伸べあうことこそ、私たちが主から恵みと幸いを受け取る場所です。世話をしあい、互いに養いあい、その只中で恵みと幸いを受け取るあなたになることができる、という神さまからの約束です。     
この最も小さい者の1人にしてくれたことは、この私にしてくれたことなのだ(40)小さな1人の人とは誰のことなのかを、私たちははっきりと知っておきましょう。私たちを幾重にも取り囲んでいる《最も小さい人々の顔ぶれ》を告げて、聖書は証言します。友だちの中に、その人がいます。隣近所や同じ町内や同じ団地の中に、その人がいます。あなたの夫や妻が、あなたのための小さな人です(コロサイ手紙3:19-4:1)。あなたの子供たちが、あなたのための小さな人である。あなたの年老いた父や母が、あなたのための小さな人である。あなたの職場の部下や上司たち、同僚たちが、あなたのための小さな人である。主を信じる者にふさわしくあなたは、その目の前の人たちに仕えなさいとは、このことです。主を信じ、主イエスにこそ聴き従って生きる私たちです。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えてはならない。真心を込めてとは、このことです。何をするにも、誰に向かってするにも、人に対してではなく、主に対してするように。《主に対してするように》。それは、言葉のあやではなく、たとえや比喩でもなかったのです。何ということでしょうか。文字通りに、そこで、そのようにして主に対してしている私たちです。そこでそのようにして、主であるキリストに仕えている私たちです。では、そこで、その人に対して何をすべきであり、何をしてはならないのか。なにを語りかけるべきであり、何を言ってはならないのか。改めてこまごまと指図されるまでもありません。よくよく知らされている私たちです。なぜなら私たちには、「天に主人がおられます」(コロサイ手紙3:22-4:1参照)。その主人は隠れた姿をもって、ごく普通のどこにでもいるような、当たり前の人々の姿形をもって、私たちを何重にも取り囲んでおられます。1杯の水を求めながら。腹を空かせながら。心細そうに肩をすくめて、うなだれて人知れずに小さな溜め息をつきながら。「どうしたらいいだろう。誰が私を支え、私の傍らに立ってくれるだろう」と途方に暮れながら。あなたの夫や妻の心の痛みをもって。あなたの子供たちの淋しさをもって。ふつつかな小さな人の失望や落胆の顔つきをもって。その1つ1つの顔つきや眼差しを、私たちは思い浮かべることができます。ご覧なさい。そこに主がおられます。

 そして皆さん。今日ここに集まった私たち自身が、折々に、小さな者の1人でもありました。それとも、もうすっかり忘れてしまったでしょうか。あの時のことです。そして、あの時。あの時にも。ほら、あなたが裸だったとき、寒さに凍えそうだったとき、やさしく服を着せかけてくれた者がありました。あなたががっかりして心細い惨めな思いを噛みしめていたとき、「ここで休んでいきなさい」と宿を貸してくれた者があったことを。1杯の水を飲ませ、「大変でしたね。調子はどうです。何か手元にほしいものがありませんか」などとあなたを見舞い、あなたを訪ねてくれた者たちがあったことを。枕もとに屈み込んで抱え起こし、また背中や足をいつまでもいつまでもさすってくれた者があったことを。たまたま偶然に、親切な人や家族がそこにいたと思っていたのでしょうか。あなたの目の前に立っていたその人。林檎の皮をむいたり、すりおろして、口元に運んでくれたその人。それは、姿を隠したキリストご自身だったのです。何ということでしょう。互いに1杯の水を飲ませあい、「大変だったね。大丈夫かい」などと見舞いあいながら、互いに心を配りあいながら、私たちは不思議な仕方で主イエスと出合いつづけてきました。1人の兄弟の姿を通して、主イエスご自身が、こんな私にも1杯の水を飲ませ、私にさえも食べ物を与え、裸の私に着るものを着せかけてくださり、私を見舞い、私のためにも心を砕いてくださり、私を格別な仕方で慰めつづけてくださいました。ご覧ください。隠れた姿の救い主イエスが、そこにおられます。あなたがいる場所に、家にいても道を歩いている時にも朝も昼も晩も、救い主イエスが、そこに必ずいてくださいます。「いつも共にいて、必ず救う」という主イエスご自身からの堅い約束です(申命記31:8,マタイ1:23,18:20,28:20