2018年2月4日日曜日

1/28「神こそが、生きて働いておられる」イザヤ46:1-4

                         みことば/2018,1,28(主日礼拝)  147
◎礼拝説教 イザヤ書 46:1-4                      日本キリスト教会 上田教会
『神こそが、
 生きて働いておられる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

46:1 ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。
あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。
2 彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができず
かえって、自分は捕われて行く。
3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、
生れ出た時から、わたしに負われ、
胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。
4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(イザヤ書 46:1-4)
                                               
127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。
主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
(詩127篇1節)

 
  まず1-2節は、『神ではない当てにならない虚しいものに信頼を寄せ、それを支えや拠り所とし、頼みの綱としてて生きる生き方』を紹介し、そうした生き方がどんなに虚しく惨めであるのかを私たちに告げます。「ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができず、かえって、自分は捕われて行く」。ベルとネボはその周辺の土地で広く崇められていた神々です。ちょうどお祭りのときのように、木や石で造ったその神々の偶像を牛や馬の背中に乗せたり、荷車や神輿のようなものに乗せて、ワッショイ、ワッショイと、景気よく賑やかに担ぎ回ります。そうした祭りが何時間も何日もつづくこともあります。すると神輿や荷車を担いだり引っ張ったりする牛や馬や、力自慢の男たちも、ヘトヘトに疲れ果てて、ついには屈み込み、倒れ伏してしまう。なぜなら、その神々は自分で歩くことも動くこともできず、誰かを助けることもできない、何の役にも立たない虚しいものたちだったからです。他人事ではありません。私たちも同じような、よく似たことをしつづけています。
  神ではない当てにならない虚しいものに信頼を寄せ、それを支えや拠り所とし、頼みの綱としてて生きる生き方。例えば、「拝金主義」などと言いました。お金や財産を拝み、当てにする生き方です。同じように、名の知れた良い学校を優秀な成績で卒業することや、よい会社に就職することや、履歴書に素敵な輝かしい経歴や実績が長々と書き連ねられることを頼みの綱とし、その肩書きや、世間様からの良い評判を自分の支えや拠り所とする生き方。けれど、それらはあまり当てにはなりませんでした。「これがあるから、だから私は大丈夫だ。何が起こっても、どんな災いが降りかかっても、それでもなお安心して生きていける」という「これ」。そうした様々なものの中で、私たちは主なる神をこそ信じ、神さまをこそ頼みの綱とし、支えとして生きることを自分自身で選び取って、そのように生きてきました。だから、私たちはクリスチャンです。聖書は断固として、はっきりと証言します;「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある」。また、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。・・・・・・しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物(=ひぞうぶつ。神によって造られたすべてのものと生き物たち)も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。さらに、救い主イエスご自身が仰いました;「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(詩27:1-3,ローマ手紙 8:31-39,ヨハネ福音書16:33と。すでに世に勝っておられ、私たちをも固く支え、守り抜いてくださるこのお独りの方、救い主イエス・キリストこそが、私たちのただ一つの拠り所です。
  3-4節、「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」。お母さんのお腹の中から、オギャア、オギャアと生まれ出たときから、先祖と私たちは神さまによってオンブされたりダッコされたりして、持ち運ばれつづけてきた。聖書の別の箇所は、「いいや、生まれる前からずっとそうだった」(エレミヤ書1:4-8,139:13とさえ証言します。だからこそ、今もそうであり、これからもずっと変わることなく、神ご自身こそが私たちとキリストの教会を持ち運び、必ず背負ってくださり、支え保ち、いつでもどこからでも、どんな災いや苦難からさえも必ず何度でも何度でも救い出しつづける。これが、神からの約束です。だから、神にこそ十分な信頼を寄せ、神にこそよくよく聴き従いつづけて、幸いと祝福を贈り与えられて生きる私たちです。偉い学者の○○先生がこう仰るとか、総理大臣の△○首相がこう約束してくださったからということではなく せっかく神さまを本気で信じて生きはじめたのならば、主イエスにこそ聞け(マタイ3:16-17,17:5、と断固として命じられています。主イエスご自身の言葉こそが、私たちのための一切の判断基準とされる(ヨハネ福音書5:39-40,20:30-31,使徒4:10-12,19-20。それは、他の誰の言葉にもほんの少しも耳を貸すなということではありません。けれど、それらはもう程々のこととされました。もし、その誰彼の言うことが主ご自身の言葉にかなっているなら、それは聞き入れてもいい。そうでないなら、誰のどんな言葉も聞き流したら良いということです。学者や役人や権力者たちから脅かされたとき、主イエスの弟子たちは晴れ晴れ清々として答えました;「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の御前に正しいかどうか判断してもらいたい」(使徒4:19-20と。もちろんあの彼らも私たち自身も、神にこそ聞き従って生きてゆくと判断し、腹をくくっています。だから「主なる神」と言い、「主イエス」と呼ばわります。神こそがただお独りのご主人さまであり、私たちは神さまに聴き従って生きる召し使い同士です。神の御前に深く慎むことのできる者だけが、慎み弁える限りにおいてこそ、神ご自身のお働きのごく一部分を喜ばしく担うことをゆるされる。片隅の、ほんのごく一部分を。神さまから許可されている期間、ほんの一時だけ。「私たちがこう計画し、こう働いた。だから」と出来事や1つ1つの結果を眺めるならば、私たちは大事なものを見落とすことになります。主ご自身のお働きをです。「神ご自身が造った。神が背負い、持ち運びつづけてきた。だから」という神さまからの約束を堅く信じることができるなら、私たちは安心です。何が起きても、どんな事態に直面しても、「大丈夫だ」と安らかに晴れ晴れとしていることができます。もし、そうではないなら、ほんのちょっとした波風が立つ度毎にアタフタオロオロしつづける他ありません。神は生きて働いておられます。私たちの先頭に立ち、しんがり(=最後尾)を守り、群れの只中にあって、神さまこそが第一に、全責任を担って生きて働いておられます(イザヤ書52:12,58:8,マタイ28:18-20。あなたは、これを信じるこいとができますか?
  同じ一つのことを、聖書はこれでもかこれでもかと証言しつづけます。例えば詩篇127篇は、「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」。主なる神こそが家を建ててくださる。それをよくよく弁えた上で、私たちもそれぞれの分に応じて、その家を建てる働きに参加します。ここに集まった私たちのほとんどは、大工さんでもなく建築設計師でもありません。けれどなお私たち全員は、《家を建てる者》たちです。それぞれの家をそれぞれに、また、この上田教会という一軒の家を共々に力を合わせて建てつづけている者たちです。そして、この建築作業はまだまだ続きます。図面を引き、釘を打って柱を組み立て、土台にコンクリを流し込んだり壁にペンキを塗ったり、そのような作業だけが家を建てることではなく、建物だけが家なのではありません。家の中身、そこに住む人々とその様々な営みもまた、《家》です。○○家、△▽家、□▽家などというように。『一家の大黒柱』といいますね。父親が、あるいは母が、その家が揺るぎなく建つための肝心要と。けれど詩篇127篇は、それとは違う大黒柱を指し示します。主ご自身が建ててくださる。そうであるならば、その限りにおいて、家は建つ。主ご自身が守ってくださる。そうであるならば、その限りにおいて、町はうれしく堅固に守られる。どんなことがあっても断固として心強く守られる。人のクリスチャンも、1握りの家族も。その家庭の日々の営みも。主ご自身が建て、守る。それが、私たちが受け取っている戒めであり、祝福です。家を建てることも町を守ることも。キリスト者がキリスト者として自由に喜ばしく、また堅固に立っていることも、いつも、それをきびしく脅かすものに直面しており、揺さぶられつづけます。《そうであるならば、その限りにおいて》という神さまの絶対条件を私たちがうっかり忘れてしまうときに、直ちに、いとも簡単に、その家は崩れ去ってしまいます。「そりゃあ理屈はそうだろうけど。建前やお題目としては分かるけれども、現実はきびしいからねえ」などと誰かが分かったふうなことを言い出し、その口車にうっかり乗せられて他の人たちも「そうそう。そうなんだよ」と巻き込まれてゆく日々に、この家の柱も土台も蝕まれていきます。ほんのわずかの間に、それこそあっという間に、取り返しがつかないところまで損なわれてしまいます。だからこそ、「主ご自身が建ててくださるのでなければ、むなしい。主ご自身が守ってくださるのでなければ、むなしい。それは虚しい」と執拗に繰り返されます。心配して、ハラハラしながら見つめてくださっている方が、「大丈夫か。肝心要のことを、ちゃんと分かっているか。虚しくなってしまうぞ。あなたたちのせっかくの労苦が水の泡になってしまうぞ」と警告してくださっています。主ご自身が建てる。主ご自身が守る。その1点を、あなたは何としても、どこまでも死守せよと。なぜでしょうか? 「むなしくはない」と言いたい。虚しくはない、という揺るぎない信頼と喜びを掴み取りたい。そうであるなら、ぜひとも《主ご自身が建て、ちゃんと守ってくださる》と知りたいのです。他の誰がという以前に、この私自身こそ、この魂に刻みたい。《主ご自身が建て、ちゃんと守ってくださる》ことを、よくよく弁えた、そこに足を踏みしめた建て方・守り方をがっちりと掴み取りたい。

  神ご自身のものである神の祈りの家を、一個のキリスト教会を、また私たちの家族を、私たち自身のただ一回きりのかけがえのない生涯を、どんなふうに建てあげてきましょうか? 「こうあるべきだ。~でなければならない」という期待や願いは、しばしば私たち自身の眼差しを狭くし、貧しくし、目くじらを立てさせて、共に生きる大切な人々を追い詰めさせ、私たち自身をとても窮屈に、とても息苦しくさせてしまいます。「~であるべき。それなのに」と批判しあう材料に、私たちは事欠きません。苦情や文句や不平不満のタネは、それぞれに山ほど抱えている。けれど兄弟姉妹たち、待ってください。1つ1つを値踏みし、56点、48点、30点などと辛口の採点をしつづけるその私やあなたの眼差しの、どこに、神がおられるでしょうか。生きて働いておられ、慈しみ深くあってくださる主なる神さまは、あなたの眼差しのどこに位置を占めているでしょうか。あなたの主なる神さまは、生きておられます。私の主であってくださる神さまも、生きて働いておられます。御目を凝らし、御耳を傾け、御手を差し伸べようとしておられます。その神さまの憐れみとゆるしの領域に、さっきからずっと私たちは立っていました。昨日も一昨日も、私たちは主なる神さまの憐れみとゆるしの領域に据え置かれつづけていました。いいえ、そもそもの初めの日から今日に至るまで、オギャアと生まれ出る前から、主の慈しみは、ほんの片時も私たちを離れることがなかったのです。その肝心要を、単なるお題目、単なる建前としてはなりません。この私たちこそは、受け取ってきた神の恵みを無にしてはなりません。