2017年8月28日月曜日

8/27こども説教「良いこと、正しいことをする」ルカ14:1-6

 8/27 こども説教 ルカ14:1-6
 『良いこと、正しいことをする』

14:3 イエスは律法学者やパリサ イ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。・・・・・・5 それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。               (ルカ福音書14:1-5)


ケンちゃん。日曜日のいつもの礼拝の日に、主イエスは可哀想な困っている人を助けてあげました。すると、いつものように、文句を言いたそうにしている人たちがいました。『安息日に働いてはいけない』と神さまから命令されているのに、その命令に逆らっているじゃないかと。そこで主イエスは、その彼らと私たちに質問なさいます。3-5節、「安息日に人を癒すのは正しいことかどうか? あなたがたのうちで、自分の息子か牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからと言って、すぐに引き上げてやらないだろうか?」と。それとこれとは同じことだからです。安息日には仕事を休んで、手の働きを止め、大事な約束も用事もできるだけ後回しにし、静かに過ごす。なぜでしょう? 神を思い、神に感謝し、神にこそ聴き従って、幸いを神さまから受け取りつづけて生きるためにです。自分が幸いに生きるために。これが一番大切な第一の掟(マタイ22:36-40。その上で、日曜日でもいつでもどこでも、神の御心に従って、(人様にではなく 神さまに喜んでいただけることを願って)良いことや正しいことを精一杯にしながら生きることができます。

8/27「三度目の受難告白」マタイ20:17-19

                           みことば/2017,8,27(主日礼拝)  126
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:17-19            日本キリスト教会 上田教会
『三度目の受難予告』
    ~クリスチャンとして幸いに生きて死ぬための6つの心得~

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
20:17 さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、18 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、19 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう。              (マタイ福音書 20:17-19)
                                               


  主イエスと弟子たちは、エルサレムの都に向かって旅をしつづけています。エルサレムの都で、過越の祭を祝うために。十字架につけられ、殺され、葬られ、その三日目に復活して救いの御業を成し遂げるために。さて、恐ろしい十字架の死の出来事をほんの数週間後に控えながら、大勢の弟子たちの中から12人の弟子たちだけをひそかに身元に呼び寄せ、その彼らにだけ打ち明けます。18-19節、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。十字架にかけられ殺されることについて、旅路の途中で三度、最後の食事の席でさらにもう一度、そのことが予告されます。その四度の中の三度目の受難予告です(マタイ16:21-28,17:22-23,本箇所,26:27-35
  救い主イエスとその弟子たちの集団は、救い主イエスの死と復活が待ち構えるエルサレムの都へとしだいに近づいていきます。主イエスが生身の体をもって弟子たちの只中におられた間、主イエスがそこに一緒におられることが弟子たちをひとつに結び合わせていたように、やがて墓からよみがえった復活の主イエスが共におられることこそが主イエスの弟子たちの共同体を一つに結び合わせつづけます。主イエスは仰いました、「よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19-20と。その言葉をよく覚えていて、信じることができるなら、主イエスの弟子たちの集団は一つに結びついて共にいることができます。けれどもし忘れてしまったら、私共は直ちにバラバラに引き裂かれ、いがみ合ったり、分け隔てをし合ったりそれぞれ思い思いの道へと迷いだしてゆくほかないでしょう。どのキリスト教会でも、この上田教会でも。あれ以来ずっと、今ここにおいても、これから先も。
  弟子たちの共同体が思いを合わせて共にあることができるために、主イエスは念入りに準備をしていかれました。18章では、『主イエスの弟子である共同体』として共に生きるためのルールと心得が説かれていました。クリスチャンとして幸いに生きて死ぬための心得です。それを受けて1920章のたとえ話では、共同体の具体的な姿が「ぶどう園に労働者たちが招かれて~」などと、さらにくわしく描かれつづけました。主イエスの弟子たちの共同体であること。それは、ただ頭の中の小難しいだけの理屈ではなく、『神の国。天の国』に私たちが現に住んでいることであり、神さまのご支配と取り扱いの只中で暮らしていることと普段のいつもの暮らしとが深く結びつき合い、具体的に現実的に響きあってありつづけることです。主イエスの弟子たちの共同体の結びつきが健やかに保たれるには、二つのことが大切です、『神さまに感謝して喜ぶ生活であること』。『私共一人一人が身を低くして仕えるしもべであること』。悩みや苦しみが折々にあって、私たちの心を惑わせます。しかも私たち自身の内側にも、主イエスの弟子であることを見失わせる大きな手ごわい曲者(=くせもの=気をゆるすことのできない要注意人物。どろぼうなど挙動不審の怪しい者)が潜んでいます。自己中心の思いと、自惚れや心の頑固さです。それらが邪魔をして、主イエスの弟子であることも、その格別な幸いも祝福も恵みもすっかり分からなくなってしまいやすい。『救い主イエスが死んで墓からよみがえった』と繰り返し告げ知らされ、よくよく覚え、心に刻みつけているようにと堅く命じられつづけるのには、理由があります。「キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ローマ手紙6:4-8。私たちもまた新しい生命に生きることが、はっきりとした確かな現実となり、出来事となり、積み重なってゆく。それこそが神さまから私たちへの救いの約束そのものだからです。しかも、新しい生命に生きるとは、いままでと違う新しいやり方、新しいモノの考え方であり、普段のいつもの生活の中での福音の道理にかなった一つ一つの具体的な判断と心得です。「自分に対してガッカリすることは悪いことじゃない。心底から自分が嫌になって初めて、人は変われると思うから。自分に落胆することは成長につながる(そして、新しい生命に生きることに)」(TVドラマ『コードブルー。ドクターヘリ救急救命』第三シーズン、第6回)とある人が言いました。そのガッカリさせられる嫌な自分こそが古い罪の自分なのですから。
  ――例えば、ある一人のクリスチャンが神を信じて生きて、やがて神さまへの信仰と信頼に守られつづけながら死んでいきました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31と告げられたあの約束を彼も信じました。私自身の救い。そして、私の大切なかけがえのない家族の救いをと心から願い求めつづけて。けれどさまざまなことが起こって、その家族はその人の信仰を理解したり、分かって受け入れてあげたりすることがなかなかできず、その人の葬儀もまたキリスト教のやり方では行われませんでした。すると、どういうことになるでしょう? ①何も不都合はありません。なんの困ったこともありません。もちろん人生の締めくくりですし、自分が生きて死んだことを重んじて、それを大切に思って、そのような葬儀式を執り行ってもらいたいと私たちは願います。神さまをこそ信じて生きて死んだ、この私自身の人生なんだからと。他の誰のものでもないのだからと。また、残された家族が神さまと出会うための最後の良い機会になるかも知れないし、そうなってもらいたいとも願って。もちろんそうです。「私はこういう神さまを信じて、こうやって生きてきた。それは格別に幸いな人生なので、もし良かったらあなたもどうぞ」と精一杯に愛する連れ合いや、息子たち娘たちにも伝えてあげたい。祈り求めながら、あなたも私も精一杯にそのように努めてきました。それならば、最後は神さまにすっかり任せて、ゆだねることができます。「神さま。私自身のことも私の大切な家族のことも、どうぞよろしくお願いします。けれど私の願いどおりではなく、ただただあなたの御心のままになさってください」と。
  「私の願いどおりではなく、ただただあなたの御心のままに」。これこそが信仰の中心部分にある生命です。つまり私自身の生涯も、愛する連れ合いや息子たち娘たちが私の信仰を認めて重んじてくれるかどうかも、やがて信じるようになるのかどうかも。私の願いどおりに葬儀をキリスト教のやり方で行ってもらえるのかどうかも、精一杯の努力をし、その後で、すべて一切を神さまにこそ委ね、すっかり神さまにこそお任せする。大事に思い、心から願っていることのために精一杯に努力をする。その後は、「どうぞよろしく」とその結果を神さまにこそ、すっかり全部、委ねる。覚えておいてください。例えば、この私が死んだあと私の葬儀を無宗教のやり方や仏教式で行われても、葬儀も祈りも何もなく誰にも顧みられずに野ざらしにされたとしても、この私自身はまったく困りません。なぜ? 神さまの慈しみの御手の中に、私の救いも生命もすべてすっかり大切に握られているからです。救いを神さまから約束されている私たちだからです。クリスチャンにとって、自分の葬儀は自分のためではありません。どんな葬儀をしようがしまうが、そんなこととは関係なく、私の救いと生命と幸いの一切は天の父なる神さまの御心のままに取り扱われているからです。
 ③「クリスチャンなので、仏教や他の宗教や無宗教の葬儀には出席しないし、いっさい関わらない」とか、「私はお参りはしない」などと言う人もいます。家族や親兄弟や親しい友人が死んだとき、その葬儀に参列することは、「お参り」などではありません。参列するかどうかだけでなく、普段の生活の具体的・ごくごく個人的な事柄も含めて、すべて一切の判断は、好き嫌いやその時々の気分によるのではなく、ただただ習い覚えてきた福音に従っての判断ですとくに葬儀式の場合、参列するかどうかは、亡くなった故人をよく知っているのか、顔も見たことがなく親しく付き合ったこともないのかどうかは、まったく関係ありません。それは神を信じるクリスチャン全員が招かれている感謝のささげものですし、そこで神からの恵みと祝福を自分自身が受け取るための大切なときだったのです。そのように教えられてきましたね)。他の人々はともかくとして、少なくとも神を信じて生きる私たちクリスチャンにとっては。神さまのなさることに、気に入らなくても渋々でも「はい。分かりました」と従う。なぜなら 私やあなたがボスや主人なのではなく、私たちの主なる神さまこそがご主人さまであり、ただお独りの絶対的なボスなのですから。神にだけ聴き従うはずの私たちですから。主の弟子であり、召使である私たちです。その人の人生を尊び重んじ、その人が生きてきた歩みをしみじみと思い浮かべ、噛みしめる幸いを神ご自身によってゆるされています。
  ④反対に、どんどん参列するし、そこで命じられ勧められるままに何でもかんでもどんどんやってしまう。祭りの神輿も担ぐし、数珠も鳴らすし、線香もたくし、念仏もお経もいっしょになって唱えるし、白い紙飾りのついた棒や木の枝をシャラシャラシャラと振り回したりもする? いいえ、まさか、そんなことは決して出来ないでしょう。もし、あなたがクリスチャンならば。仏教や他の信仰をもつ人や無宗教の人の葬儀に出席するときにも、そこでお参りするわけでもなく、他の神々を拝むわけでもありません。「だって、その人たちに対して失礼に当たる。その人たちの信仰や作法や流儀を重んじて、彼らがするとおりに指図されるままに従うのが当然でしょう」と言うクリスチャンまでいます。「じゃあ、あなたが信じているはずの主なる神さまに対しては失礼じゃないんですか?」。もちろん、大変に失礼です。そのようにして、あなたの主なる神をはなはだしくあなどり、神をないがしろにしています。それで少しも心が痛まないのなら、あなたはどうかしています。あなたもご存知のとおり、神を信じるクリスチャンは神さまと結婚している関係です。主イエスが花婿であり、すべてのクリスチャンはその花嫁とされました(エペソ手紙5:23-32,ヨハネ福音書3:28-30,マタイ福音書9:15,25:1-13。「あなたはこのお方(=救い主イエス)をあなたの夫とすることを願いますか。この結婚(=クリスチャンとされること)が神の御心によることを確信しますか。妻としての道を尽くし、常にこの方を愛し、敬い、このお独りの方に対して堅く節操を守ることを誓いますか?」。洗礼を受けたとき、これらの問いかけに対して「はい」と私共は答えました。主イエスも私どものために「はい」と答えてくださいました。ですから、そういうわけで、主イエスは私共を慰め、助けて変わることなく、私共が健やかな時も病む時にも、私共の夫としての道を尽くして愛し抜いてくださるのです。主イエス・キリストとすでに結婚している身として、他の神々(=異性)とどのように付き合ったらいいでしょう。人間同士の場合とまったく同じです。結婚後も多少の付き合いはします。けれど、勧められ誘われるままにどこまでも、何をしても良いのかというと、そうではありません。決して踏み越えてはならない一線があります。このお独りの方に対して堅く節操を守るつもりがないなら、その家庭は直ちに崩れ去る。これが基本中の基本。
 ⑤そうそう、「仏教の葬儀に参加したとき、私は数珠を鳴らさないし、線香をたかないし、正面や右や左に敬礼したりしないし、柩や写真にお辞儀したりもしない」というクリスチャンもいます。それは結構ですが、それじゃあ、そこで何をするんですか。「いいえ、何もしない。私の神さまに失礼に当たるので」。なるほど、なかなか良い心がけです。それなら、もう一歩先に進んで、せっかく葬儀に参列しているなら、そこで、そのようにして、私たちの主なる神に向かってこそ祈ったらいい。そこで、柩や写真に向かってではなく、他の神々や仏に向かってでもなく、父、子、聖霊なる神に向かって感謝をささげ、願いを言い表し、祈り求めたらいいじゃないですか。その遺族の幸いと慰めを求めて。その人の生涯をさえ神さまが幸いで満たしてくださったことを感謝して。自分自身と家族もまた、主なる神の恵みと憐れみを注がれて幸いに生きることができますようにと。
  944ヶ月の生涯を生きて死んだあの彼もまた、十分に幸いに生きて死ぬことができました。もっとも祝福され、恵まれた人々の中の一人です。もしそうしたいと願うなら、私共も、そのように生きることができます。なぜ?「わたしのぶどう園に来なさい。そこで働きなさい。あなたも、あなたも」と招かれて、来てみたからです。すると、どこもかしこも寺も神社の境内でも、自分の家に居ても道を歩いていても、そこは天の主人のぶどう園の敷地内であり、天の門、神の家ではない場所などこの地上にほんの少しも残っていないからです。どのように生きることができるのか。500年前の信仰問答が、聖書に聞き従いながら、はっきりと答えています。「全信頼を神に置くこと。そのご意志に服従して、神に仕えて生きること。どんな困窮と悩みの中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中にこそ求めること。そして、すべての幸いはただただ神から出ることを心でも口でも認めること」(ジュネーブ信仰問答,問7。あなたとご家族にも、神さまからの恵みと憐れみと平和がありますように。ぜひ、そうでありつづけますように。



 【要点/6つの心得】
(1)私はこういう神さまを信じて、こうやって生きてきた。格別に幸いな人生なので、もし良かったら、あなたもどうぞ」と精一杯に愛する家族や友人たちにも伝えたい。その後で、神さまにすっかりゆだねる。
  (2)神さまのなさることに「はい。分かりました」と従う。「私の願いどおりではなく、ただただあなたの御心のままに」と。好き嫌いやその時々の気分によってでもなく、牧師や役員や有力な人々の意見に従うのでもなく、ただただ習い覚えてきたはずの福音の道理にこそ従って()、一つ一つを自分で判断し、選び取ることができる。
 (3)仏教や他の宗教や無宗教の葬儀に出席することがゆるされている。その相手と家族の人生と思いを重んじることができる。
  (4)クリスチャンは神さまと結婚している関係。主イエスが花婿であり、すべてのクリスチャンはその花嫁とされた。決して踏み越えてはならない一線がある。もし万一、このお独りの花婿イエス・キリスト対して堅く節操を守るつもりがないなら、その家庭は直ちに崩れ去る。
 (5)(仏式葬儀場でも、どこででも)そこで、私たちの主なる神に向かって祈る。その遺族の幸いと慰めを求めて。その人々の生涯をさえ神さまが幸いで満たしてくださったことを感謝して。自分自身と家族もまた、主なる神の恵みと憐れみを注がれて幸いに生きることができますようにと。
  (6)どこで何をしていても、そこは天の主人のぶどう園の敷地内であり、私には天に主人がおられると心得つづける。天の主人の御心にこそかなって生きるはずの私であると弁える。「全信頼を神に置くこと。そのご意志に服従して、神に仕えて生きること。どんな困窮と悩みの中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中にこそ求めること。そして、すべての幸いはただただ神から出ることを心でも口でも認めること」(ジュネーブ信仰問答,問71545


2017年8月22日火曜日

8/20こども説教「翼の下にヒナを集めるように」ルカ13:31-35

 8/20 こども説教 ルカ13:31-35
 『翼の下にヒナを集めるように』

13:31 ちょうどその時、あるパリ サイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。32 そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。33 しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。34 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。35 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。    (ルカ福音書 13:31-35

  31節。「ヘロデ王があなたを殺そうとしている。だから、ヨソヘ逃げていきなさい」とパリサイ人たちが主イエスに言いました。親切で言っているわけではありません。救い主イエスのお働きを喜ぶ者と憎む者と、その両方共ががいつづけるのです。ヘロデ王もパリサイ人たちも、主イエスが邪魔でした。それで主イエスを殺してしまうか、それともイエスがどこかにいなくなってしまえばいいと考えていました。主イエスはエルサレムの都に向かってどんどん進んでいきます。十字架の上で殺されるためにです。殺されて、三日目に復活するためにです。それこそが、救い主としての自分の仕事だからです。けれどエルサレムの都も多くの人々も、救い主イエスを信じようとはしませんでした。35節で、「見よ、お前たちの家は見捨てられてしまう」と主イエスは言います。けれど主イエスが神の家を見捨てるはずがありません。その言葉と正反対に、強盗の巣に成り下がっていた家を『神の祈りの家』にまったく新しく立て直すためにこそ、主イエスは十字架の死と復活に向かって進んでいきます。やがて主イエスが私たちの目の前に来られるとき、自分の王さまとして、ご主人として、喜び迎えることのできる人たちはとても幸せです。


   【補足】救い主イエスは、ここでもご自分を預言者と呼んでいます(33-34節)。神の御心を伝える『預言者』として、神と人との間をとりなす『祭司』として、またこの世界を治める『王』として、この三つの職務を担って救い主イエスは働きます。イエスに率いられて、すべてのクリスチャンもまた、『預言者』『祭司』『王』の役割を担って働きます。
         35節。「主の名によって~」とエルサレム入城のとき、人々は主イエスを大歓迎します。けれど数日後に、多くの者たちが背を向けます。


8/20「奇妙なぶどう園がある」マタイ20:1-16

                           みことば/2017,8,20(主日礼拝)  125
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:1-16                 日本キリスト教会 上田教会
『奇妙なぶどう園がある』
 
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
20:1 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。                    (マタイ福音書 20:1-16)
                                               



  1節「天国は」と語りはじめています。聖書の神さまを信じる人々は、とても慎み深い人たちでした。しかも誰に対してより、なにしろ神さまに対してこそ深く慎んだのです。もし、どうしても神について語りたいとき、語りはじめねばならないとき、「天国は。神の国はね」と言いはじめる。「天国は、~のようなものである」。つまり、《神はこういう神。神の前に、どういう私たちか。神は、私たちをどんなふうに取り扱ってくださるのか》ということです。救い主イエスご自身によって、たとえ話を用いて語られます。この《ぶどう園》は、神が生きて働いておられる場所。《ぶどう園の主人》は神さま。《そこで働く様々な労働者たち》は私たちのことです。特に、目を凝らして見つめるべき主人公は、ぶどう園の主人です。この主人がどういうふうに動いているのか。何を考え、何を仰っているのかと、よくよく目を凝らしましょう。
 ある家の主人が「自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に出かけて行くようなものである」と書いてあります。夜明けの時間だけじゃなく、9時、12時、3時、夕方の5時と、このぶどう園の主人は朝から晩まで何回も何回も出かけていっています。この主人は、現場監督やほかの部下の誰かに頼むのではなく自分自身で、わざわざ何回も何回も出かけて、労働者たちを連れてきます。朝早くから一日中、きっとその日だけではありません。その前の日も前の日も、毎日毎日繰り返し、「さあ、おいで。来てみなさい」。町の市場やあちこちでブラブラしている人たちをぶどう園に招き入れることが、とても大事だったからです。どうしてでしょう。ぶどう園が人手不足だったからでしょうか。働く人が足りなくて経営危機に陥っていたからでしょうか。でも考えてみてください。ぶどう園は神の国のことです。神が王さまとして統治しておられ、神が生きて働いていて全責任を担っていてくださる。その神の国が人手不足で困ったり、経営危機に陥ったり、赤字続きでとうとう店じまいになったりするでしょうか? いいえ、ありえません。では、どういうことでしょう。――招いてあげたいからです。ぶどう園で働くことがとても楽しく嬉しいことだから、だから1人でも多くの人に、これを味合わせてやりたいからです。聖書によって、主イエスご自身によって私たちに知らされている神は、こういう神です。あなたが気に入ろうが気に入るまいが、こういう神さまなのです。
 6-7節。5時ごろ、夕暮れ時になってもまだ町の市場に立っている人々がいました。もうすぐ日が沈み、1日が終わろうとしています。私たちの人生によく似ています。オギャアと生まれ、朝が始まったかと思っていたら昼になり、あっという間に夕暮れどきで、まもなく日が沈もうとしています。だから、とても素敵なぶどう園の持ち主である神さまは、広場に虚しくたたずみつづける人々を憐れみます。可哀想で可哀想でしかたがないと。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っていたのか?」とぶどう園の主人が問いかけます。彼らは答えます、「誰も私たちを雇ってくれませんから」。誰も自分に、働く甲斐のある嬉しい仕事を与えてくれない。自分にふさわしい本当の居場所が、どこにもない。それで仕方なく、ただブラブラ歩いたり、佇んだりしていました。無駄に、何の意味もなく。物淋しく心細い彼らは溜め息をつきます。自分は何者なのか。どこから来てどこへと行くのか。自分が生きている意味は何なのか。渋々我慢してでも、かなり無理を重ねてでも、しがみついて生きてゆく甲斐があるのか無いのか――誰も、そのことを教えてくれませんでした。そして日が沈もうとしています。大事な、かけがえのない私の人生がむなしく過ぎ去ろうとしています。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と質問しているのは、神さまです。……ちょっと待ってください。何でも知っているはずの神さまが、どうしてわざわざ質問しているのでしょう。この人に考えさせようとしています。大事なことを気づかせようとしています。あなたは自分の大事な時間を、残り少ない人生を、どうやって使うつもりなのか。ああ、もったいない。惜しくて惜しくて、たまらない。あなたは何を見つめて生きて、どうやって生きていくつもりなのかと。さて夕方。賃金を受け取る時に、ぶどう園で働いていた労働者たちの中には、プンプン怒って腹を立てて、文句を言っている人たちがいます。ご覧ください。12節「この最後の者たちは1時間しか働かなかった。それに比べて私たちは、まる一日暑い中を汗ドロドロになって我慢して働いた。それなのに同じ扱いをするのか。どういうつもりだ」。神さまは、このプンプン怒る人たちに、「友よ」と呼びかけています。
 13-15節。このプンプン怒っている労働者たちは、大事なことをすっかり忘れてしまっています。自分もやっぱり同じように、町の市場に佇んでいたのです。昨日も、その前の日も、その前の日にも。神さまが「さあ来てごらん」と招いてくださらなかったら、この日も、次の日にもまた次の日にも、すっかり夜がふけて真っ暗になってしまうまで、何の意味もなく無駄にただ立っていただろうことを。神さまがそういう私を可哀そうに思って、私の時を、かけがえのない私の生命の時間を惜しんでくださって、だからこそ ご自分のぶどう園に呼んでくださった。他には理由など何もない。嬉しい仕事と居場所を与えてくださった。「相当な賃銀を払うから」(4)と招かれました。「あなたに対しても誰に対しても、私は不正をしていない」(13)と主人はおっしゃいます。目を開けてよくよく見てご覧なさい。一所懸命、休まずしっかり働いたか、それとも隠れて度々サボっていたかとか、仕事が上手だったか下手だったかなど何一つ言っていません。「そんなことはどうでもいい。そんなこととは何の関係もない」と言わんばかりに。支払われる賃金のふさわしさ、適切さは、それぞれの労働に対するふさわしさではありませんでした。私たちを愛して止まないこの主人ご自身の正しさ、ご自身のふさわしさだったのです。だからこそ、どれほど働いたか、どんな成果をあげたかと一切問うことなしに、過分にかつ義しく()、1デナリずつ。それらはどの1人の労働者に対しても、あまりに気前のよい代価でした。14節後半、「私はこの最後の者にも、あなたと同様に払ってやりたいのだ」。払ってやりたい。ぶどう園に招かれた労働者たち。払ってやりたいと神さまが、私たちへの思いを語ります。「ぜひ払ってやりたい。自分の物を自分がしたいようにする。私は気前がいいんだ」。あなたは、私の気前のよさを妬ましく思うのか。文句があるのか。あなた自身がどれほど気前よく取り扱われているのかを今ではすっかり忘れ果てて、ほかの人へと差し出されようとする同じ気前のよさを、その慈しみ深さを、あなたは妬むのか。あなたを気前よく扱ったのとまったく同じに、この1人の人にも、私はぜひ気前よく扱ってやりたい。あなたに対して惜しみなかったのとまったく同じに、この1人の人に対しても、私はぜひとも惜しみなくありたい。神がどのように気前がいいのか。その惜しみなさをどのように差し出しておられるのかを、キリストの教会は、そして私たちも、繰り返しはっきりと聴きつづけてきました。それは、単なる理念ではなく何かの気分や雰囲気でもなく、具体的な1つの出来事です。多くの事柄についての様々な証言ではなく、1つのことについての同じ1つの証言でありつづけます。神の独り子であるイエス・キリストが成し遂げて下さった、たった1回の救いの出来事です。この1つの出来事を伝えるために、1500ページあまりの分厚い報告書が届けられています。聖書が。どのページも「本当にそうだ」と、この1つの出来事を指し示しています。例えば聖書の別の箇所は、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実で、そのまま受けいれるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けた」(テモテ手紙(1)1:15-16)と。

             ◇

 さて、たとえ話の中に戻りましょう。ある人は、この夕方の支払いの場面を読んでこう思いました。「支払いの順序が逆にされたのは、朝早くから先に招かれた労働者たちにとって、とても良かった」と。もし、そうでなかったら、先に招かれた労働者たちは、ほかの人たちがどういう支払いをどんなふうに受け取るか、その支払いの本当の意味も、本当の喜びも知らないまま、ただ当たり前のように受け取って帰ってしまったことだろう。例えば、もし時給860円、よく働いた者には歩合をつける、有能な者は部長、課長、係長に取り立てる、として雇われたなら、どうでしょう。もし、そのぶどう園で賢く力強い者が重んじられ、愚かで弱々しい者たちが軽んじられるならば。もし、かたくなで貧しい者が退けられるならば。もし、才能ある優秀な人材が、その才能と優秀さのままに取り立てられてゆくならば。それなら私たちは直ちに神を誤解し、神の民とされた自分自身をはなはだしく見誤ることになるでしょう。私は優秀で大きな人材だ、と誤解してしまうでしょう。私の信仰深さによって、私の誠実さ、私の熱心と努力によって、私はふさわしく取り立てられてこのぶどう園の労働者とされたと、すっかり勘違いしてしまうことでしょう。それでは困ります。とてもとても困るのです。もし、神の恵み深さが分からなくなり、『憐れみを受けて、だからこそ、こんな私さえここにいる』と知らないなら、この恵みの場所は私共にとって無益です。何の意味もありません。現実の信仰生活で、この私たちもよく似た場面や出来事に直面しつづけます。精一杯に働いたり献げたりしながら、けれどなんだか満たされない。正直なところ、喜びも感謝もちっとも湧いてこない。物寂しくて、腹立たしくて、虚しくて。誰かに文句を言ったり、グチをこぼしたり、顔をしかめて「チェッ」と舌打ちしたくなります。腹を立てて喰ってかかろうとしていたあの時、妬んだり拗ねたりイジケたりしていたとき、強情になっていたとき、あの彼らは、滅びの道へと転がり落ちてしまいそうな危うい分かれ道に立っていました。この私たちもそうです。神のぶどう園の労働者たちよ。本当は、1デナリ以上の、その千倍も万倍も素敵なものが贈り与えられるはずでした。喜びと感謝が、です。ふさわしい代価? 賃金? 不当なことはしていない? 神さまの正しい尺度、計り、道理にかなった正当で適切で、ふさわしい御判断? いいえ、とんでもない。神さまご自身の尺度と計りは、私たちがずっと習い覚えてきた合理的で理性的な一般常識から見れば、ものすごく歪んで理不尽に見えます。夕方5時ギリギリで駆け込んできた雇い人にも、たとえその人が指一本も動かす暇さえなくたって、義しくかつ過分に()1デナリです。私たちの目からは、ありえないほど奇妙な、腰を抜かして驚くほどのその尺度と計りは、「罪人のゆるし」「ただただ憐れみ」という名の尺度です。

 支払いの列の後ろに並ばせられて、この人たちがすぐにプンプン怒ったりしないで待っていたら、とても嬉しい光景を見ることができたでしょう。夕方雇われた人たちが支払いを貰った時の、そのビックリ驚いた、嬉しそうな不思議そうな顔つき。「え、本当にこんなに貰っていいんですか。わあ、すごい。だって、ぶどう園に着いたと思うと、もう支払いだという。ほとんど何も働いていないのに、約束された通りに本当に1デナリもくれるなんて。ありがとう。ありがとう」。その喜ぶ顔に、私たちは見覚えがあります。この主人と初めて出会って、「あなたも来てみなさい」と声をかけられた時の、この私の顔だ。豊かなぶどう園に連れて来られ、そこで働く人たちを目にし、園を見回し、見よう見真似で働きはじめた頃の、あの私の、喜びに溢れた顔だ。うっかり忘れていたが、この私もあなたも、そうやってここで働きはじめたのでした。夕方の支払いを待つまでもなく、「来てみなさい」と声をかけられた初めから、招き入れられて働きはじめたそもそもの最初から、たしかにこの私も喜びに溢れたのでした。そのように喜ぶ顔を次々と見続けて、とうとう自分の順番が来ました。「支払ってやりたい。さあ、義しく適切な賃金だ」。手渡されて、見ると、山ほどの有り余る豊かな贈り物です。ぶどう園の主人はこう仰います、「知っている。あなたが妬み深くて了見が狭くて、不平不満と生臭い気分に首まで浸かって、誰がどれだけ役に立って誉められて、誰があまり役に立たなかったか、得をしたか損したかとソロバン勘定しつづけて、気がつくとブツブツブツブツつぶやいてばかりいることくらい、百も承知だ。そのあなたにこそあげたい。丘の上で流し尽くされた救い主の生命を、あなたにあげたい。むなしく過ぎ去ろうとするあなたの生命が、あなたが生きるその1日1日が、私には惜しくて惜しくてたまらなかった。右も左も弁えないニネベの人々と家畜の生命を惜しんだように、滅び去ろうとするソドムの町の邪悪な人々を滅びるままに捨て置くことが心苦しかったように、あなたの生命が惜しまれてならない。もし良かったら、また明日もこのぶどう園に来てごらん。あなたを待っているから」。私たちの神はこういう神さまです。こんな私たちをさえ、このように取り扱っておられます。来る日も来る日も出かけて来て、熱心に語りかけます。憐れみ深いこの主人は、そうせずにはいられません。「さあ、私のぶどう園に来てみなさい。あなたも、ぜひ来てみなさい」。

2017年8月14日月曜日

8/13こども説教「狭い戸口から?」ルカ13:22-30

8/13 こども説教 ルカ13:22-30
 『狭い戸口から?』

13:22 さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。23 すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。24 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。26 そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、27 彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。・・・・・・30 こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。          (ルカ福音書13:22-30

  ここは難しい所です。小さな子供にとっても、大きな大きな大人である私たちにとっても。「幼な子のようにならなければ誰も決して神の国に入ることはできない」(ルカ18:17とはっきりと言われています。ですから、大きな大人のつもりの私たちにはなおさら難しい。「救われる人は少ないのか?」と誰かが主イエスに質問しました。それについては少ないとも多いとも答えていません。少ないか多いのかは、その人にも私たち自身にも何の関係もありません。むしろ、あなた自身やこの私、私の大切な家族が救われるのかそうではないのかこそが大問題です。24節。主イエスは仰います、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから」。入ろうとしても入れない人が多い。では、誰がどんなふうに救われるのか? ヒントは27節と30節。「悪事を働く者どもよ、行ってしまえ」。そして、「後のものが先になり、先の者で後にされるものもある」。主イエスを信じている。それは中身のある信仰である必要があります。信じて、朝昼晩とどんなふうに暮らしているのか(*)。「信じている信じている」と口では言いながら、もし、その私たちが誰かを困らせたり苦しめたり踏みつけにしても、それでも心が少しも痛まないなら、「あなたは、一体どういうつもりか」と厳しく問い正されます。また、大きな大人のつもりであることを止めて、へりくだった低い小さな子供の心になれたのかどうかと。

   【補足/救われたなら、その人も良い実を結ぶようになる】
(*)ここが、キリスト教信仰の肝心要です。良い行いをどれくらいしたかどうかではなく、ただ救い主イエスを信じるだけで救われる。けれど行いや、普段の生活がどうでもいいわけではない。その人をさえ導いて、神ご自身が、その人にも良い働きをさせてくださる。これが神からの約束です。


8/13「神にはできる」マタイ19:27-30

                  みことば/2017,8,13(召天者記念の礼拝)  124
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:23-30                   日本キリスト教会 上田教会
『神には出来る』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
19:23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。26 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。27 そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。28 イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。29 おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。30 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。           (マタイ福音書 19:23-30)
                                               

  23節で「それから」と始まっています。主イエスと弟子たちとのやりとりの直前に、金持ちの青年が主イエスと語り合い、けれど悲しみながら立ち去っていきました。その出来事を受けて、今度は主イエスとその弟子たちとがこのように語り合っています。まず16節。去っていった青年は主イエスに、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と問いかけました。すると21節で主イエスは、「もしあなたが完全になりたいのなら、~あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と答えました。この言葉を聞いて、若者は悲しみながら立ち去っていきました。この出来事を受けて、主イエスは弟子たちに23節でも24節でも、「富んでいる者が天国に入ることはとても難しい」と教えはじめています。言葉遣いが少し分かりにくいので、まず説明しておきます。若者は「永遠の生命を得る」ことについて質問し、主イエスは若者に「あなたが完全になりたいのなら」と言い、弟子たちには「天国に入ることは」と教えはじめています。これらの言葉は普通に世間でやりとりされている意味では使われていません。「永遠の生命」と言っても不老不死でいつまでも死なないで長生きすることではなく、「完全になる」と言っても、ロボットのように間違ったことをしないで決まりきったことをするわけでもなく、神や仏のようにいつでも正しく真実なことをするなどという意味でもありません。つまり、「永遠の生命を得ること」「完全になること」「天国に入ること」は、みんな同じ一つの事柄を言い表そうとしています。生きて働いておられる神を信じ、その神の御心にかなった生き方をしたいと精一杯に願い求めながら生きてゆくことについてです(例えばノアや、マリアの夫ヨセフなどが『正しい人』と呼ばれました。完全も同様。神ではない被造物(=神によって造られたに過ぎないものたち)の正しさ・完全さは限定的・部分的意味であり、不完全さや偽りや大きな欠けをも含んでいます。すべての人間が例外なく 憐れみを受け、ゆるされて救われるほかない惨めな罪人に過ぎないからです。よくよく弁えておかねばなりません。そのため、わざわざ、ノアは洪水後に醜態をさらし、マリアの夫ヨセフは人間的な臆病さや身勝手なズル賢さを暴露されてしまいます。創世記8:21,9:20-27,マタイ1:18-21,ローマ手紙3:21-28
  もう一つ、21節、金持ちの青年に対して主イエスは「持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と命じました。神を信じて生きていきたいと願う者たちすべてがこのように厳しく命じられるのか、私たち皆もそう命じられ家も土地も財産全部も投げ捨てて、裸一貫になってクリスチャンとされたのかというと、決してそうではありません。どうぞ安心してください。誰にでも「持ち物を売り払って、そして私に従ってきなさい」と救い主イエスが仰るわけではありません。とくに自分がもっているたくさんの財産に目も心も奪われ、ガンジガラメにされていたあの若者に対しては、そこまで言ってあげる必要があったからです。自分の宝のあるところに自分の心もあるからです。それらが邪魔をして、いつまでたっても神さまを思うことができず、天に宝を持つことも決してできないからです。すると主イエスと弟子たちの間でやりとりされつづけていた、23-24節の「富んでいる者が天国に入ることはとても難しい」という発言は、いろいろな豊かさや財産のことです。私たちの目と心をひきつけてやまない、様々な『生きるための支え、拠り所、頼みの綱』のことです。例えば、腕一本を頼りとして世の中を渡ってきた職人はその腕一本こそが何にも代えがたい財産です。先週も言いましたが例えば、自分を信じると書いて『自信』。もし、あなたが本気で神を信じ、神さまをこそ頼みの綱として生きていきたいと心から願っているならば、その『自信』はほどほどのことと弁えておかねばなりません。自分の能力や甲斐性や働きを信じており、自分を頼みの綱としているのなら、神を信じ、神さまをこそ頼みの綱として生きる余地がほんの少しもないではありませんか。神の御心にかなって生きてゆくことよりも、他にもっと好きな、もっともっと大切に思うものがあるからです。心がその宝物に縛り付けられていて、神を思う暇がほんの少しも無いからです。
  主イエスの弟子の一人ペテロが、こういうことを言い出しました。27節、「ごらんなさい。わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるのでしょうか」。ペテロも他の弟子たちも、ここにいるこの私たち一人一人も、ずいぶん長い間、主イエスから神の国の教えを聞きつづけていますが、たびたび心が鈍くされて、どんな神さまなのか、どういう救いか、救われた者たちがどのように生きてゆくことができるのかなどがすっかり分からなくなってしまいます。「小さな子供のようにならなければ決して天国に入ることはできない」(マタ18:1-3,19:13-15と念入りに教えられたばかりでした。ここでは、「富んでいる者が天国に入ることはとてもとても難しい」と教えられています。同じ一つのことを伝えようとしています。『小さな子供のようであること』と『富んでいる者』『何でもよく知っており弁えていて、仕事がよくできるとか、高い地位を得て人々から尊敬され、頼りにされ、良い評判を得ている、自分は大きくて強くて立派で賢いと自惚れている者』『生きるための支え、拠り所、頼みの綱をいくつも沢山もっている者』とは、ちょうど正反対の在り方です。小さな子供は、無力で、自分を守ってくれるものもなく、生きてゆくために必要なものを自分で手に入れてゆく手段も道具もなく、もしただ独りで放り出されるなら死んでしまうほかない危うい生命です。それが、聖書が言おうとしている小さな子供の本質です。『小さな子供のようになる』とは、小さな子供が父さん母さんを頼りとするように、神さまを自分のお父さんお母さんとして受け入れることです。欠けている多くのものがあり、けれど神さまが小さな子供のお父さんお母さんのようにちゃんと用意して、与えてくれる、だから何の不足も恐れも心細さもないと。それが、神を自分の親とする『小さな子供の心』です。もう分かりましたね? それと比べると、富んでいる者は神からあまりに遠く隔たっているし、ますます遠くへ離れ去ろうとしつづけています。その人は自分自身を自分の主人としつづけ、ただただ自分の思うまま望むままに生きてゆこうとしつづけるでしょう。
  すっかり心が鈍くされて、トンチンカンで見当外れなことを言い立てていたペテロでした。しかも胸を張って、晴れ晴れと鼻高々で。27節。このことも、すっかり解決しておきましょう。「ごらんなさい。わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるのでしょうか」。貧しい片田舎の湖のほとりで、漁師をして暮らしを立てていた彼らです。「わたしに従ってきなさい」と招かれて、魚をとる小舟も網も捨てて、それどころか頼みの綱だった父親さえ後に残して主イエスに従って旅立った彼らです。主に聴き従い、主をこそ頼りとして生きることは、主イエスにも聞くけど他の誰彼の言うことにも従うというのではなく、主にこそ聴き従うこと。主を頼りとし、自分自身や他の誰彼をも頼りとするというのではなく、ただもっぱら主イエスをこそ頼みの綱として従ってゆくことです。主に従うことを邪魔するものを後に残してくる必要が、あの彼らにはありました。だからそうしました。聖書の神に従って生きることをし始めたアブラハムとサラの夫婦もまったく同じでした。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1-3と命じられて、神さまから命じられるままに、国を出て、親族に別れ、父の家を離れて旅立ったのです。神をこそ支えとし頼みの綱とし、神にこそ聴き従って命と幸いを受け取りつづけて生きるために。「あなたに従いました。ついては、何がいただけるのでしょうか」。苦労して汗水たらして、嫌なことも我慢して、必死に従ってきたし、主イエスのために働いてきた。その分の当然の報酬がもらえるはずだ、と彼らは言いたい。まだまだ何も良いものを受け取ってない、と不平不満も訴えたいのかも知れません。他の労働者の何倍も苦労し、高い犠牲も払って、我慢して我慢して主に従ってきた。では、あのペテロたちは、この私たち一人一人にも、その権利がある? いいえ、それは大間違い。邪魔なもの要らないものを後に残して身軽になって、主に従って歩んできたはずの私たちです。けれど、『私はこんなにちゃんと働いてきた』という自惚れこそがとても邪魔。ついては、何がいただけるのでしょうか? 何をいただきつづけているのか。しかもそれは当然の報酬でも分け前でもない、給料でもない。贈り物として、ただただ恵みとして、豊かなものを有り余るほどに分け与えられつづけていることに、あなたは、まだ少しも気づいていないのですか? 主イエスに聴き従いつづけて生きることこそが、飛びっきりの幸いであり祝福であり、何にもまさる贈り物でありつづけます。

             ◇

30節をご覧下さい。「しかし、多くの先の者はあとにあり、あとの者は先になるであろう」。恵みの贈り物を受け取って大喜びに喜ぶために、感謝にあふれるために、神の恵み深さと気前のよさを知って驚くために、そのためには、なんでも出来る神さまご自身が私たち一人一人のためにも力業を十分に発揮してくださる必要がありました。奇妙なぶどう園で、朝早くから汗水たらして働いて、夕方の賃金支払いのときにプンプン腹を立てて怒ったり妬んだりした、あの労働者たちのように。「私ばかりに働かせて」と腹を立てて寂しくなってしまった働き者の姉さんのように。プンプン腹を立てた放蕩息子の兄さんのように(マタイ20:1-16,ルカ10:38-42,15:25-32。朝早くからずっと天国に居させていただいたのに、あのうかつな彼らは、そこが天国だとは夢にも思いませんでした。ただ人間たちの間で嫌々渋々働かされているとばかり誤解しつづけていました。豊かな良いものをあふれるほどに受け取りつづけながら、それなのに物寂しくて、惨めで嫌で、辛くて苦しくて我慢して損ばかりしているような気分でした。あの若者も弟子たちも私たち皆も誰も彼もが失格でした。当たり前のように澄ました顔をして神の国にいれてもらえる人間など誰一人もいません。もちろん、「財産や宝物や取り柄や役に立つ長所、知恵や賢さなどが悪い。ないほうが良い」などと簡単に切り捨てるわけではありません。役に立つし、その人や周囲の人々を助けたり、世の中で良い働きをすることに用いられる場合もたくさんあるでしょう。それを十分に分かった上で、けれどなお、それらは自分の心を奪い、度を越して執着させうる。神から目をそらさせるとても危険な誘惑ともなる。覚えておきましょう。聖書は証言します、「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」(箴言30:7-9と。富と財産と支えと頼みの綱についての願いです。豊かになりすぎて思い上がり、むやみに自惚れて他人を見下すこともなく、あるいは貧しすぎて妬んだり恨んだり、いじけたりもしないように、わたしのために神さまが定めて用意してくださった無くてならぬ食物で、天から恵みによって贈り与えられる一日分ずつの糧で私と家族を養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないため。しかも誰ができ、誰が救われて天国に入ることができるのか。26節、聖書からの唯一の答えです。「人にはそれはできないが、神にはなんでも出来ないことはない」。つまり神さまご自身が、その人の首根っこを捕まえて無理矢理に入れてくださるなら、どこの誰でも神の国に入って、そこで幸いに生きることもできる。そうでなければ、誰にも決してできない。しかも何でも出来る神さまは、そうしてくださる御心なのです。







2017年8月7日月曜日

8/6こども説教「からし種のように。パン種のように」ルカ13:18-21

 8/6 こども説教 ルカ13:18-21
 『からし種のように。パン種のように』

13:18 そこで言われた、「神の国 は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。19 一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。20 また言われた、「神の国を何にたとえようか。21 パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。             (ルカ福音書 13:18-21

 「神の国」。神さまが王さまとして力を働かせ、その御心にかなうことを着々と成し遂げてゆく世界です。それがどんなふうに始まり、また広がってゆくのかを、救い主イエスがたとえを用いて私たちに教えようとしておられます。それは、一粒の小さな小さな種のようであり、パン種のようであると。一粒の小さな小さな種をまくある人、それはもちろん神さまです。パン種を粉の中にまぜる女、それも神さまです。神さまがみ言葉の小さな小さな種を、ある人の心にまきました。それは小さな芽を出し、すくすくと育って木になり、空の鳥もその枝に宿るようになります。巣を造り、ヒナ鳥を育て、育てられたヒナ鳥が次々と巣立ってゆくようになる。小さな小さな種だったのに、こんなに大きな素敵な木になって、枝には鳥たちが巣を作り、ヒナ鳥を育てて。わあ、すごい。また、粉にまぜられたパン種が練り粉全体をふくらませ、焼き上げられ、やがてふかふかしたおいしい味のパンになってゆく。しかも、『こういうふうに実を結ばせる』という神さまからの約束です。じゃあ、どういうことになるでしょう。私たち一人一人にも神のことばの小さな小さな種がまかれました。だから 神さまの約束どおりに、やがて芽を出し、私たちは育って一本の木のようになってゆきます。パン種のように、練り粉全体をふくらませ、焼き上げられ、この私たち一人一人も、ふかふかしたおいしいパンのようになってゆきます。なんということでしょう。



    【補足/神の言葉は実を結ぶ】
    神さまが御言葉の種をまきました。それは、必ず実を結ぶ。必ず実を結ばせるという神の約束でもあるからです。しかも、神さまは、良い実を結ばせたいという願いをもって種をまきました。そのように種をまいた神さまは、種を放ったらかしにはしないのです。愛情をもって、心を砕きつづけ、精一杯に種の世話をなさいます。だから、実を結ばないはずがないのです。聖書は証言しつづけます;「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる」(イザヤ55:10-11,マルコ4:26-28,コリント手紙(2)9:8-11)。


8/6「持ち物を売り払って」マタイ19:16-26

                           みことば/2017,8,6(主日礼拝)  123
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:16-26                日本キリスト教会 上田教会
『持ち物をみな売り払って』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
19:16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。20 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。(マタイ福音書 19:16-22)
                                               
1:27 神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。         (コリント手紙(1)1:27-31)



 初めに一つ、誤解しやすい事柄を解きほぐしておきましょう。21節で、主イエスが「もしあなたが完全になりたいと思うなら」と語りかけます。「完全。正しい」は、聖書の中では2種類に使い分けられます。一つは、神ご自身についての文字通りの意味で。もう一つは、神によって造られた人間やそのほかの被造物に対して、ずいぶん割り引いた、限定的な意味で用いられる場合と。なぜなら基本的に、神ご自身以外には、本当の意味で完全なものや正しいものなど有るはずがないからです。「神の御心にかなって生きようとする」「神の御前に慎み、へりくだることができる。神に従い、神を尊んでありたいと願って生きる」などという程度の意味で。ここでも、そういう意味です。『天に宝を積みながら、主イエスに従って生きることができる』ことが、若者にとっても私たちにとっても、最大限の精一杯の完全さと正しさです(例えばノアや、マリアの夫ヨセフなどが『正しい人』と呼ばれました。その正しさが限定的・部分的意味であり、大きな欠けをも含んでいることが直ちに暴かれます。彼らも含めて、憐れみを受け、ゆるされて救われるほかない惨めな罪人に過ぎないからです。弁えておかねばなりません。そのため、わざわざ、ノアは洪水後に醜態をさらし、ヨセフは人間的な臆病さや身勝手なズル賢さを暴露されてしまいます。創世記8:21,9:20-27,マタイ1:18-21,ローマ手紙3:21-28

  まず、23-26節の主イエスと弟子たちとのやり取りに目を向けましょう。一見すると、「財産のある者や金持ちが神の国に入ることは難しい」と主イエスが仰っている、かのように見えます。そうでしょうか? では逆に、貧乏人や借金を山ほど抱えた人なら、それなら簡単に神の国に入れるのでしょうか。神さまは金持ちが嫌いで、貧乏な人をえこひいきするのか。いいえ、そうではありません。神さまは分け隔てをなさらない。むしろ分け隔てをしつづけるのは、もっぱら私たち人間のほうです。神の国に入ることは金持ちにとっても貧乏な人にとってもかなり難しかった。ものの道理をよく弁えた、賢く優れた人々にとって難しいというだけでなく、あまりそうではない普通の人たちにとっても、同じくまったく難しかった。どうして? 神の国と神さまご自身が気難しすぎるのでしょうか。いいえ。気難しくて心が頑固なのは、私たち人間のほうではありませんか。もう一つ、律法の要点『神を愛し、隣人を愛すること』を告げられ、金持ちの青年は「それはみな守ってきました。他に、何が足りないのでしょう」(20)と誇らしげに胸を張りました。来週読み味わうつもりの後半部分、27節のペテロの発言もこれとよく似ています。そっくりです。「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。「ちゃんとやってきた。何でも持っているし、分かっている」という強い自負心とプライドが彼らの共通点。むしろそれらこそが、彼らの飛びっきりの財産です。それならば、すっかり全部捨ててきたと胸を張るペテロなら、こういう自信満々で立派そうな人なら、簡単に神の国に入れるのでしょうか? 神の国に迎え入れられるために、どんな人物がふさわしいでしょう。あなた自身は? 26節の、主イエスご自身からの決定的な答え、「人にはそれはできないが、神には何でも出来ないことはない」。これが聖書自身からの唯一の答えであり、今日の道案内です。
  では、はじめから順を追って確かめていきましょう。一人の裕福な若者が主イエスと語り合い、立ち去っていきました。マタイ福音書だけでなく、マルコ福音書もルカ福音書も、この同じ一つの出来事を報告します。つまり、とても大切な対話だった。この末尾に、主イエスとのやりとりがうまく実を結ばなかったとき、その若者は「悲しみながら立ち去った」(22)とあります。あの彼は神さまを真剣に求め、答えを見出したいと心から願いました。どのようにして自分は心安く晴々として生きてゆくことができるだろうか、と。この私はどこから来て、どこへと向かおうとしているのか。いま現在、どこにどう足を踏みしめて立っているのか。何のために生きて、やがてどんな腹積もりで死んでいくのか。いったい何があれば自分は安らかに満たされ、幸いを噛みしめることができるか。
 16-20節。主イエスは答えながら、十戒を、かつてシナイ山でモーセが神から受け取ったあの10の戒め(出エジプト記20:1-,申命記5:6-)を、彼と私たちに思い起こさせます。「なぜ、よい事について私に尋ねるのか。よい方はただ独りだけである」。つまり、神お独りこそが善いお方である。それはモーセの十戒の第一の部分の要約であり、神さまをこそ愛し、尊ぶことです。第一の戒めにつづいて、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」。それは十戒の第二の部分の要約であり、自分自身を愛することに負けず劣らず、隣人をも心から愛し尊びなさいということです。すると、「それはみな守ってきました。他に、何が足りないのでしょう」と若者は誇らしげに胸を張ります。申し分のない、とてもちゃんとした立派な自分である。「それはみな守ってきました」。本当でしょうか。いいえ、とんでもない。
 16節。「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と彼は問いかけ、心から願い求めました。神との親しい交わりを。また喜ばしく幸いに生涯を生き、やがて希望を持って死んでいくこともできるようにと。パッと見た感じでは、あの彼が主の弟子とされるには何の不都合も落ち度もないように見えます。けれど残念なことに彼には、永遠の命よりも、他に大切に思えるものを抱えていました。21節、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。「お金のことかァ。私はそんなに金持ちじゃないから関係ないや」と、あなたは安心してはいけません。あなたや私には、色々な種類の《財産。宝》が他にも沢山あります。目に見える、誰にでもすぐに分かる財布の中身や通帳の残高に記されてあるような財産もあるでしょう。けれど、それだけではありません。「立派に、ちゃんとやってきた」という自負とプライドもまた私たちの大切な財産でした。財産。「私にはコレがあるから大丈夫。心強く安心」という支えであり、頼みの綱であり、誇りや自慢の種のことです。財産をいっぱい持っている人も少ししかない人たちも、共々に、その大好きなものにばかり目も心も奪われて、なかなか天に宝を積むことができなかった。神さまを愛することも隣人を十分に尊ぶことも、そのおかげで、とてもとても難しかった。主イエスご自身から、あの山の上での長い礼拝の中で、「貧しい人は幸いだ」と告げられていました。それはいったいなぜだろう、と思っていました。「神は、この世の愚かな者を選び、弱い者を選び、身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者をあえて選ばれた」と告げられました。なぜだろうと私たちは思っていました。「小さな子供のようにならなければ、だれも決して神の国に入ることはできない」(マタイ5:3, 19:30,20:16,コリント(1)1:26-)と告げられていました。なぜだろう? へそ曲がりで変わり者の、偏屈な神なのだろうか。恥をかかせてそれを喜ぶ神か。いいえ、そうではありません。大きな者や賢く偉い者や金持ちや、社長や名誉会長が神は嫌いなのだろうか。いいえ、決してそうではありません。もちろん彼らの中にも神の救いに預かり、憐れみを受け取る者が起こされました。けれど一筋縄ではいかなかった。彼ら自身の大きさや高さや偉さや豊かさが、彼らと神との間に入って、邪魔をしていました。人様の前でも神様の前でも自分を誇ろうしてウズウズする思いや、「誇りたい。それなのに」という願いや鬱屈が邪魔をしていました。「本当は私は大きい。賢く優れていて誰よりも立派だ。私が偉い。私が先だ」と思い込んでいました。大きな大人のつもりで神の国を受け入れようとしていました。あ もしかしたら、彼らはその誇り高い豊かで偉い場所で神を待ったのかも知れません。けれど、そこに神はおられません。待ち合わせ場所を、うっかり間違えています。そこでは、憐れみの神と出会うことも、神の憐れみを受け取ることもできるはずがなかった。後にされ、低い場所へと引き下ろされて、そこで初めて気づきました。打ち散らされ、空腹のまま追い返され、恥をかかされて、そこでようやく我に返りました。「ここだったのか。神さまとの待ち合わせ場所はここだ。ここが恵みと憐れみを受け取るためのいつもの場所だった」と。
 あの若者は、「私にはとても出来ない。無理だ」と思いました。ひどくがっかりして気を落とし、悲しみました。けれど兄弟たち、それでいいのです。神さまは、分け隔てをなさらない。が、「この人にはこれをこういうふうに。この人にはこうやって」と人を見て法を説く。「持ち物を全部売り払え」といつも乱暴に誰彼構わず言うわけではなかった。ほとんどこの彼だけが、こんなに厳しいことを命じられます。みなさんの中で、同じようなことを言われた人はいますか? 家、土地、田畑、財産すべて売り払って施せと。そんな人は他には滅多にいません。自負心と財産に執着してガンジガラメに縛られていたあの彼だから、ここまで言ってあげる必要がありました。例えば、大金持ちのザアカイにはそんなこと一言も言いませんでした。身を屈めさせられ小さくされた人たちには、わざわざ恥をかかせたりはしません。エコヒイキしているわけでもない。自分は賢く強く立派で信仰深いと思い込んでいる人たちには、わざとたっぷりと大恥をかかせてあげます。大金持ちで、しかも自分はちゃんとやってきたと自惚れている者たちには特に、「じゃあ、それならあなたは全部を売り払え」と突きつけて、心底から悲しませる必要がありました。恥をかかされたとき、心を痛めて悲しんだそのとき、神さまの憐れみへと向かう入口に立たされていました。逆に、ちゃんとやっている正しいとうぬぼれて晴れ晴れしたとき、私たちは崖っぷちに立たされ、あやうく救いからこぼれ落ちようとしていました。「自分を信じている」と書いて「自信」。もし仮に、自分を信じているし、自分自身を頼りとしているのなら、神を信じたり、神を頼りとして生きる余地はまったくないではありませんか。あなたはどうですか? 私たちも誰も彼も、何かが出来るから出来ているからとここにいるわけではありません。ねえ皆さん。かなり欠けており、出来ないから、自分では到底できないと嘆き悲しむからこそ、だから私たちは神さまを求め、救い主イエスの御前へと向かいました。自分自身の罪深さや、憐れさ惨めさを知り、囚われている自分の不自由さをつくづくと思い知らされ、そこからなんとかして自由になりたくて、だからこそ私たちは、救い主を一途に仰ぎ見ました。あの若者は、必死に質問しました。弟子たちも、「では、だれが救われるだろうか」と首を傾げました。主イエスはお答えになりました;26節、「人にはそれはできないが、神には何でも出来ないことはない」。あなた自身には逆立ちしてもできないと告げる神は、そこで直ちに、「あなたのためにも、この私こそがしてあげよう」と招く神です。「あなたに欠けているものがある」と容赦なく指摘なさる神は、そこで直ちに、「この私の憐れみのもとでなら、あなたは十分に満たされる。ぜひ私が満たしてあげたい」と願ってくださる神です。そういう神さまです。

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 一つの真実を、あなたに告げましょう。自分のものを全部すっかり売り払って貧しい者に分け与えたのは、それは誰だったでしょう。自分が抱え持っていた大切なものを投げ捨ててくださった方は、どなただったでしょう? 分けていただいたあまりに貧しい者とは、いったい誰のことでしょう。あまりに貧しいままに受け入れていただいた私たちでした。あなたや私を貧しいままに迎え入れるために、神ご自身が身を屈め、ご自分を低くし、あまりに無防備になって貧しく小さく惨めな姿になってくださいました(ピリピ2:5-)私たちは思い至りました。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてあげること。いつ、誰が、それをしたのか。……神ご自身こそが そうか。憐れみの神こそが、この私のためにさえ、こうしてくださったのか。私たちは、このようにしていただいたのか。遠く離れて、神と何の関係もなく生きていたあまりに貧しく虚しい私たちでした。小さな子供のような、途方に暮れた、どうしようもない私でした。まったく備えのなかった貧しい私たちに、こんな私のためにさえ、神さまは、ご自分のための特等席を譲り渡し、ご自分のための格別に良い財産を分け与え、それどころか、貧しい私たちのために心を砕くあまり、神の栄光も尊厳も力も権威も、生命さえ売り渡してくださった。ああ良かった。「あなたに欠けているものがある」と厳しく叱っていただけて。その欠けたもの、足りないものは誰によっても他のどんなものによっても満たしようがない、と教えていただけて。うかつで気もそぞろだった私も、それで救い主のもとへと大慌てで戻って来られて。「あなたに欠けているものがある」と突きつけられ、とても心を痛めたそのとき、そこが、この私にとっても別れ道でした。信仰と不信仰の、悲しみながら立ち去ることと、神さまの憐れみのもとに大喜びで留まることの、いつもの別れ道であり続けます。留まらせていただけて、本当に嬉しい。だからこそ私たちは、こんな私さえ今日こうしてあるを得ています。
 あの若者からの初めの質問です。「永遠の命を贈り与えられて、喜んで受け取ることができるためには、救われるためには、何をしたらいいですか。何があったら十分ですか?」。答え。《神さまからの恵み恵み恵み。憐れみ、憐れみ、憐れみ。後は、それをただ受け取るだけ。受け取って、がっちりと抱え、手離さずにいること》。以上です。他には、何一つ付け加えてはなりません。主イエスからの恵みと平和がありますように。あなたの大切なご家族お一人お一人にも、あなた自身にも、ぜひありますように。ありつづけますように。