2017年8月22日火曜日

8/20「奇妙なぶどう園がある」マタイ20:1-16

                           みことば/2017,8,20(主日礼拝)  125
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:1-16                 日本キリスト教会 上田教会
『奇妙なぶどう園がある』
 
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
20:1 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。                    (マタイ福音書 20:1-16)
                                               



  1節「天国は」と語りはじめています。聖書の神さまを信じる人々は、とても慎み深い人たちでした。しかも誰に対してより、なにしろ神さまに対してこそ深く慎んだのです。もし、どうしても神について語りたいとき、語りはじめねばならないとき、「天国は。神の国はね」と言いはじめる。「天国は、~のようなものである」。つまり、《神はこういう神。神の前に、どういう私たちか。神は、私たちをどんなふうに取り扱ってくださるのか》ということです。救い主イエスご自身によって、たとえ話を用いて語られます。この《ぶどう園》は、神が生きて働いておられる場所。《ぶどう園の主人》は神さま。《そこで働く様々な労働者たち》は私たちのことです。特に、目を凝らして見つめるべき主人公は、ぶどう園の主人です。この主人がどういうふうに動いているのか。何を考え、何を仰っているのかと、よくよく目を凝らしましょう。
 ある家の主人が「自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に出かけて行くようなものである」と書いてあります。夜明けの時間だけじゃなく、9時、12時、3時、夕方の5時と、このぶどう園の主人は朝から晩まで何回も何回も出かけていっています。この主人は、現場監督やほかの部下の誰かに頼むのではなく自分自身で、わざわざ何回も何回も出かけて、労働者たちを連れてきます。朝早くから一日中、きっとその日だけではありません。その前の日も前の日も、毎日毎日繰り返し、「さあ、おいで。来てみなさい」。町の市場やあちこちでブラブラしている人たちをぶどう園に招き入れることが、とても大事だったからです。どうしてでしょう。ぶどう園が人手不足だったからでしょうか。働く人が足りなくて経営危機に陥っていたからでしょうか。でも考えてみてください。ぶどう園は神の国のことです。神が王さまとして統治しておられ、神が生きて働いていて全責任を担っていてくださる。その神の国が人手不足で困ったり、経営危機に陥ったり、赤字続きでとうとう店じまいになったりするでしょうか? いいえ、ありえません。では、どういうことでしょう。――招いてあげたいからです。ぶどう園で働くことがとても楽しく嬉しいことだから、だから1人でも多くの人に、これを味合わせてやりたいからです。聖書によって、主イエスご自身によって私たちに知らされている神は、こういう神です。あなたが気に入ろうが気に入るまいが、こういう神さまなのです。
 6-7節。5時ごろ、夕暮れ時になってもまだ町の市場に立っている人々がいました。もうすぐ日が沈み、1日が終わろうとしています。私たちの人生によく似ています。オギャアと生まれ、朝が始まったかと思っていたら昼になり、あっという間に夕暮れどきで、まもなく日が沈もうとしています。だから、とても素敵なぶどう園の持ち主である神さまは、広場に虚しくたたずみつづける人々を憐れみます。可哀想で可哀想でしかたがないと。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っていたのか?」とぶどう園の主人が問いかけます。彼らは答えます、「誰も私たちを雇ってくれませんから」。誰も自分に、働く甲斐のある嬉しい仕事を与えてくれない。自分にふさわしい本当の居場所が、どこにもない。それで仕方なく、ただブラブラ歩いたり、佇んだりしていました。無駄に、何の意味もなく。物淋しく心細い彼らは溜め息をつきます。自分は何者なのか。どこから来てどこへと行くのか。自分が生きている意味は何なのか。渋々我慢してでも、かなり無理を重ねてでも、しがみついて生きてゆく甲斐があるのか無いのか――誰も、そのことを教えてくれませんでした。そして日が沈もうとしています。大事な、かけがえのない私の人生がむなしく過ぎ去ろうとしています。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と質問しているのは、神さまです。……ちょっと待ってください。何でも知っているはずの神さまが、どうしてわざわざ質問しているのでしょう。この人に考えさせようとしています。大事なことを気づかせようとしています。あなたは自分の大事な時間を、残り少ない人生を、どうやって使うつもりなのか。ああ、もったいない。惜しくて惜しくて、たまらない。あなたは何を見つめて生きて、どうやって生きていくつもりなのかと。さて夕方。賃金を受け取る時に、ぶどう園で働いていた労働者たちの中には、プンプン怒って腹を立てて、文句を言っている人たちがいます。ご覧ください。12節「この最後の者たちは1時間しか働かなかった。それに比べて私たちは、まる一日暑い中を汗ドロドロになって我慢して働いた。それなのに同じ扱いをするのか。どういうつもりだ」。神さまは、このプンプン怒る人たちに、「友よ」と呼びかけています。
 13-15節。このプンプン怒っている労働者たちは、大事なことをすっかり忘れてしまっています。自分もやっぱり同じように、町の市場に佇んでいたのです。昨日も、その前の日も、その前の日にも。神さまが「さあ来てごらん」と招いてくださらなかったら、この日も、次の日にもまた次の日にも、すっかり夜がふけて真っ暗になってしまうまで、何の意味もなく無駄にただ立っていただろうことを。神さまがそういう私を可哀そうに思って、私の時を、かけがえのない私の生命の時間を惜しんでくださって、だからこそ ご自分のぶどう園に呼んでくださった。他には理由など何もない。嬉しい仕事と居場所を与えてくださった。「相当な賃銀を払うから」(4)と招かれました。「あなたに対しても誰に対しても、私は不正をしていない」(13)と主人はおっしゃいます。目を開けてよくよく見てご覧なさい。一所懸命、休まずしっかり働いたか、それとも隠れて度々サボっていたかとか、仕事が上手だったか下手だったかなど何一つ言っていません。「そんなことはどうでもいい。そんなこととは何の関係もない」と言わんばかりに。支払われる賃金のふさわしさ、適切さは、それぞれの労働に対するふさわしさではありませんでした。私たちを愛して止まないこの主人ご自身の正しさ、ご自身のふさわしさだったのです。だからこそ、どれほど働いたか、どんな成果をあげたかと一切問うことなしに、過分にかつ義しく()、1デナリずつ。それらはどの1人の労働者に対しても、あまりに気前のよい代価でした。14節後半、「私はこの最後の者にも、あなたと同様に払ってやりたいのだ」。払ってやりたい。ぶどう園に招かれた労働者たち。払ってやりたいと神さまが、私たちへの思いを語ります。「ぜひ払ってやりたい。自分の物を自分がしたいようにする。私は気前がいいんだ」。あなたは、私の気前のよさを妬ましく思うのか。文句があるのか。あなた自身がどれほど気前よく取り扱われているのかを今ではすっかり忘れ果てて、ほかの人へと差し出されようとする同じ気前のよさを、その慈しみ深さを、あなたは妬むのか。あなたを気前よく扱ったのとまったく同じに、この1人の人にも、私はぜひ気前よく扱ってやりたい。あなたに対して惜しみなかったのとまったく同じに、この1人の人に対しても、私はぜひとも惜しみなくありたい。神がどのように気前がいいのか。その惜しみなさをどのように差し出しておられるのかを、キリストの教会は、そして私たちも、繰り返しはっきりと聴きつづけてきました。それは、単なる理念ではなく何かの気分や雰囲気でもなく、具体的な1つの出来事です。多くの事柄についての様々な証言ではなく、1つのことについての同じ1つの証言でありつづけます。神の独り子であるイエス・キリストが成し遂げて下さった、たった1回の救いの出来事です。この1つの出来事を伝えるために、1500ページあまりの分厚い報告書が届けられています。聖書が。どのページも「本当にそうだ」と、この1つの出来事を指し示しています。例えば聖書の別の箇所は、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実で、そのまま受けいれるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けた」(テモテ手紙(1)1:15-16)と。

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 さて、たとえ話の中に戻りましょう。ある人は、この夕方の支払いの場面を読んでこう思いました。「支払いの順序が逆にされたのは、朝早くから先に招かれた労働者たちにとって、とても良かった」と。もし、そうでなかったら、先に招かれた労働者たちは、ほかの人たちがどういう支払いをどんなふうに受け取るか、その支払いの本当の意味も、本当の喜びも知らないまま、ただ当たり前のように受け取って帰ってしまったことだろう。例えば、もし時給860円、よく働いた者には歩合をつける、有能な者は部長、課長、係長に取り立てる、として雇われたなら、どうでしょう。もし、そのぶどう園で賢く力強い者が重んじられ、愚かで弱々しい者たちが軽んじられるならば。もし、かたくなで貧しい者が退けられるならば。もし、才能ある優秀な人材が、その才能と優秀さのままに取り立てられてゆくならば。それなら私たちは直ちに神を誤解し、神の民とされた自分自身をはなはだしく見誤ることになるでしょう。私は優秀で大きな人材だ、と誤解してしまうでしょう。私の信仰深さによって、私の誠実さ、私の熱心と努力によって、私はふさわしく取り立てられてこのぶどう園の労働者とされたと、すっかり勘違いしてしまうことでしょう。それでは困ります。とてもとても困るのです。もし、神の恵み深さが分からなくなり、『憐れみを受けて、だからこそ、こんな私さえここにいる』と知らないなら、この恵みの場所は私共にとって無益です。何の意味もありません。現実の信仰生活で、この私たちもよく似た場面や出来事に直面しつづけます。精一杯に働いたり献げたりしながら、けれどなんだか満たされない。正直なところ、喜びも感謝もちっとも湧いてこない。物寂しくて、腹立たしくて、虚しくて。誰かに文句を言ったり、グチをこぼしたり、顔をしかめて「チェッ」と舌打ちしたくなります。腹を立てて喰ってかかろうとしていたあの時、妬んだり拗ねたりイジケたりしていたとき、強情になっていたとき、あの彼らは、滅びの道へと転がり落ちてしまいそうな危うい分かれ道に立っていました。この私たちもそうです。神のぶどう園の労働者たちよ。本当は、1デナリ以上の、その千倍も万倍も素敵なものが贈り与えられるはずでした。喜びと感謝が、です。ふさわしい代価? 賃金? 不当なことはしていない? 神さまの正しい尺度、計り、道理にかなった正当で適切で、ふさわしい御判断? いいえ、とんでもない。神さまご自身の尺度と計りは、私たちがずっと習い覚えてきた合理的で理性的な一般常識から見れば、ものすごく歪んで理不尽に見えます。夕方5時ギリギリで駆け込んできた雇い人にも、たとえその人が指一本も動かす暇さえなくたって、義しくかつ過分に()1デナリです。私たちの目からは、ありえないほど奇妙な、腰を抜かして驚くほどのその尺度と計りは、「罪人のゆるし」「ただただ憐れみ」という名の尺度です。

 支払いの列の後ろに並ばせられて、この人たちがすぐにプンプン怒ったりしないで待っていたら、とても嬉しい光景を見ることができたでしょう。夕方雇われた人たちが支払いを貰った時の、そのビックリ驚いた、嬉しそうな不思議そうな顔つき。「え、本当にこんなに貰っていいんですか。わあ、すごい。だって、ぶどう園に着いたと思うと、もう支払いだという。ほとんど何も働いていないのに、約束された通りに本当に1デナリもくれるなんて。ありがとう。ありがとう」。その喜ぶ顔に、私たちは見覚えがあります。この主人と初めて出会って、「あなたも来てみなさい」と声をかけられた時の、この私の顔だ。豊かなぶどう園に連れて来られ、そこで働く人たちを目にし、園を見回し、見よう見真似で働きはじめた頃の、あの私の、喜びに溢れた顔だ。うっかり忘れていたが、この私もあなたも、そうやってここで働きはじめたのでした。夕方の支払いを待つまでもなく、「来てみなさい」と声をかけられた初めから、招き入れられて働きはじめたそもそもの最初から、たしかにこの私も喜びに溢れたのでした。そのように喜ぶ顔を次々と見続けて、とうとう自分の順番が来ました。「支払ってやりたい。さあ、義しく適切な賃金だ」。手渡されて、見ると、山ほどの有り余る豊かな贈り物です。ぶどう園の主人はこう仰います、「知っている。あなたが妬み深くて了見が狭くて、不平不満と生臭い気分に首まで浸かって、誰がどれだけ役に立って誉められて、誰があまり役に立たなかったか、得をしたか損したかとソロバン勘定しつづけて、気がつくとブツブツブツブツつぶやいてばかりいることくらい、百も承知だ。そのあなたにこそあげたい。丘の上で流し尽くされた救い主の生命を、あなたにあげたい。むなしく過ぎ去ろうとするあなたの生命が、あなたが生きるその1日1日が、私には惜しくて惜しくてたまらなかった。右も左も弁えないニネベの人々と家畜の生命を惜しんだように、滅び去ろうとするソドムの町の邪悪な人々を滅びるままに捨て置くことが心苦しかったように、あなたの生命が惜しまれてならない。もし良かったら、また明日もこのぶどう園に来てごらん。あなたを待っているから」。私たちの神はこういう神さまです。こんな私たちをさえ、このように取り扱っておられます。来る日も来る日も出かけて来て、熱心に語りかけます。憐れみ深いこの主人は、そうせずにはいられません。「さあ、私のぶどう園に来てみなさい。あなたも、ぜひ来てみなさい」。