2019年11月25日月曜日

11/24こども説教「救い主イエスを信じて生きるための道備え」使徒13:24-25


 11/24 こども説教 使徒行伝13:24-25
 『救い主イエスを信じて生きるための道備え』

13:24 そのこられる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に悔改め のバプテスマを、あらかじめ宣べ伝えていた。25 ヨハネはその一生の行程を終ろうとするに当って言った、『わたしは、あなたがたが考えているような者ではない。しかし、わたしのあとから来るかたがいる。わたしはそのくつを脱がせてあげる値うちもない』。(使徒行伝13:24-25

 24節、「その来られる前に」というのは、約束されていた救い主の来られる前にという意味です。
 救い主イエスが来られるほんの少し前に、洗礼者ヨハネは、私たちが救い主イエスを迎え入れ、救い主イエスを信じて生きるための準備をしました。救い主イエスを信じて生きるためには、まず心の向きをグルリと180度回して、神へと向き直らねばなりません。自分自身とまわりの人間たちのことばかり考え、クヨクヨと思い悩んで生きていた私たちが、そうではなく、神さまのほうを向いて生きはじめること。それを聖書は、『悔い改め』と言います。神を信じて生きはじめるための最初の儀式が洗礼ですが、そのときばかりでなく、その日から毎日毎日、神さまへと向き直りつづけて、神さまに信頼し、聞き従い、良いものを贈り与えられつづけて生きること。25節。洗礼者ヨハネは言いました、「わたしは、あなたがたが考えているような者ではない。しかし、わたしのあとから来るかたがいる。わたしはそのくつを脱がせてあげる値うちもない」。洗礼者ヨハネと共に、すべての伝道者とすべてのクリスチャンは同じことを言い続けます。「救い主イエスが来てくださる。私も他の誰一人も、その方のくつを脱がせてあげる値打ちもない。だから、その救い主イエスにこそ私たちは聞き従って、信頼を寄せ、その方から良いものを贈り与えられ、助けられ、守られつづけて一日ずつを生きていこうじゃないか」と。



11/24「救い主イエスにこそ聴き従いなさい」ルカ9:28-36


                 みことば/2019,11,24(主日礼拝)  242
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:28-36               日本キリスト教会 上田教会
『救い主イエスにこそ
聴き従いなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
9:28 これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。30 すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、31 栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。32 ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た。33 このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。34 彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。35 すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。36 そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、そのころだれにも話さなかった。           (ルカ福音書 9:28-36)
 28節で、「これらのことを話されたのち」。「これらのこと」とは、救い主イエスが十字架委につけられて殺され、その三日目によみがえること。その最初の予告が語られた後でです。31節、「エルサレムで遂げようとする最後のことについて」も同じことです。
  28-32節。「これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た」。救い主イエスはご自身の栄光に輝く姿を弟子たちに、ほんのひととき見せました。つき従ってきた大勢の弟子たち皆にではなく、選び出された12人にでもなく、ほんの数名の弟子たちだけにです。ご自身の死と復活についての最初の予告をなさり、その死と復活が目前に迫ってくる中で。1つには、その御自身の死と復活を裏付けて、それを弟子たちが信じるための手助けとするために、栄光に輝く姿を見せてくださったと受け止めることができます。口で何度も予告するだけではなく、その栄光の姿をあらかじめ見せてくださることが弟子たちを励まし、勇気づけるために役に立つかも知れません。嫌々渋々ながら、惨めな死に飲み込まれていったのではなく、あの十字架の死は、父なる神さまへの従順のささげものだったと。救い主が苦しみを受けて死んで行かれたことは、このお方の弱さと惨めさではなく、むしろそこで神の力が示され、私たちの救いのための神の御計画だったと。神ご自身であることの栄光も力強さも地上での生活の間は覆い隠されつづけていました。墓から復活なさったとき、ようやくその覆いが取り除けられて、彼の栄光が現わされるとき、弟子たちは、まえもってその栄光の輝きが現わされていたことを思い起こすことができるかも知れないからです。
「祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた」。主イエスの地上の生涯の中で最もよく知られた出来事の一つが、ここで報告されています。「山上の変貌」と言い慣わされてきました。この直前、主イエスは弟子たちにご自分の十字架の死と三日目のよみがえりを予告し始めました(9:21-27)。弟子たちは混乱し、怖れおののき、深く悲しみ嘆きます。その8日後に、主はご自分の厳かで栄光にあふれた姿を彼らに見せてくださったのです。弟子たちの悲しみ嘆いた心は、次には、主の栄光にふれて喜び踊ります。
 この私たちは、なお生身の肉体を抱えて地上を歩んでいます。すぐ目の前の出来事にあまりに深く囚われ、目も心も奪われてしまいます。耳に入るほんの少しの事柄、周囲の人々のいくつかの声が、私たちの心を激しく揺さぶり動かします。まるで、いま目に映っているもの、いま耳に入っているものが私たちのためのすべてであるかのように。神の栄光や尊厳は、そうした私たちの生身の目からは隠されてしまい、厚いベールに覆われてしまっているかのようにです。その厚いベールの片隅が、今、ほんのわずか持ち上げられて、その後ろに隠されているものがひと時だけ姿を垣間見せます。主イエスの栄光と尊厳です。その顔は太陽のように輝き、身にまとっておられる服は光のように白くなりました。やがて再び来られる主イエスの栄光の姿を、私たちも自分自身の心によくよく刻んでおきたいと願います。なぜなら、それぞれの思い煩いと疲れと忙しさの只中で、私たちは栄光の主をすっかり忘れて、それぞれに物寂しく、心細く、アタフタと暮らしているからです。また、地上のものすべてがこの方に従うようになると告げられながら、いまだにそのような光景を見ていないからです(ヨハネ手紙(1)3:2)。けれど人の心に思いも浮かばなかったことを、神ご自身が私たちのために用意してくださっています。ただ約束されているだけではなく、主イエスの栄光の一部分は、3人の弟子たちの目ではっきりと見られ、証言されてもいます。彼らは「その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1:14)のです。
  30-32節。弟子たち3人が見ていますと、旧約聖書の大勢の預言者たちを代表してモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていました。1500年近く前に死んで葬られたはずのモーセと、900年以上前につむじ風によって天に持ち運ばれていったエリヤ(申命34:6,列王下2:1)とが、3人の弟子たちの前に、その生きた姿を現しています。いいえ、それよりも何よりも、太陽のように輝いた主イエスの御顔、光のように白くなった主イエスの衣服。栄光に輝くこの姿は、復活の主イエスの姿の先取りです。主イエスの復活は、ここにいるこの私たち自身が新しい生命によみがえることの初穂です。もし、主が復活したのなら、主イエスを信じて生きるこの私たちもまた復活します。もし仮に、そうではないのならば、私たちはやがて衰えるままに衰え去り、朽ちるままに朽ち果ててしまう他ありません。兄弟姉妹たち。この世の生活の中でだけキリストに望みをかけているのだとするならば、私たちの心の中でだけ、ほんの気休め程度にキリストに希望を託しているだけだとするならば、もしそうなら、私たちの信仰はあまりに虚しく、私たちはなお罪と悲惨さの只中に留まりつづける他なく、『すべての人の中で最も惨めな者』ということになります。もしそうならば、キリストを宣べ伝えることも、キリストを信じる信仰も無駄だった、ということになるでしょう(コリント(1)15:19)。その通りです。主はたしかに復活したのであり、私たち自身も復活します。私たちはただ衰えるままに滅び去るのではなく、朽ちるままに朽ち果てるのではありません。この世の生活を越えて、死の河波を乗り越えて神の都にきっと辿り着くと、私たちも、キリストによって望みをかけています。
  33節。モーセとエリヤが主イエスと語り合う光景を見て、主の弟子がこう提案します。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのために」。主イエスご自身と御父は、このペトロの提案をどう聞いたでしょうか。はたして喜んだのか。あるいは、渋い顔をなさったでしょうか? 小屋は、今日風に言えば『○○記念会館。△□記念礼拝堂』といったところでしょう。モーセ記念会館、エリヤ記念会館、イエス記念礼拝堂。3つの福音書がこの同じ出来事とペテロの発言を報告していますが、ここでも、「ペトロは自分が何を言っているのか分からないで言った」と報告しています。その通りです。確かにモーセやエリヤは重要だったし、旧約時代の預言者たち一人一人と同様に、大切な働きをさせていただいた人物たちでした。そうだとしてもなお、神ではない者たちのために、たかだか人間にすぎないものたちのために記念会館や記念礼拝堂などを建ててはなりません。銅像も建ててはダメです。素敵なリーダーや周囲にいる素敵なクリスチャンたちを偶像に仕立てたり、聖人君子扱いして拝んだり、神と並べて祭り上げたりしては決してなりません(コリント(1)1:12-13,4:6-7)。なぜなら、(1)「モーセ記念会館、エリヤ記念礼拝堂を」などととペトロが見当ハズレなことを言いだした途端に、雲が彼らをすっかり覆い尽くして何も見えなくされたからです。(2)また、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」と、ただただ主イエスを指し示す天の父の御声が聞こえたからです。(3)ひれ伏して恐れる弟子たちにイエスが近づいてきて話しかけ、彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかったからです。人間にすぎない者たちの声に信頼して、ついつい限度を超えて聞き従おうとするいつもの習慣や性分が、私たちの中になお根強く残っています。信仰をもつ私たちの間でもそうです。神の声は聞き分けにくかったからですし、イエスに聞き従うためにこそ聖書を調べよ(ヨハネ5:39-40,20:30-31,使徒17:11,テモテ(2)3:15-17)と命じられても、自分の心で聖書を読むことはとても難しかったからです。けれどモーセもエリヤもダビデも、キング牧師もマザーテレサさんも皆、生身の人間たちであり、罪人の1人にすぎません。たびたび間違うこともあり、大きな心得違いをすることもあります。「あの立派な、物のよく分かった、賢い信仰深い○○先生がそう言うので」とついうっかりして言いなりに鵜呑みに信じたくなります。けれど天の御父の愛する子、イエス・キリスト。御父の御心に適う者、イエス・キリスト。「ただただ、この方に聞け」とあの弟子たちも私たちも命じられています。主イエスご自身も「私こそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命」と。歩んでいくべきただ一筋の道があり、聞き従うべきただ1つの真理があり、私たちを自由に晴れ晴れとして生かしてくれるただ1つの格別な生命があります。救い主イエス・キリスト。この方による以外に救いはありません。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからです(ヨハネ福音書14:6,使徒4:12)。もし、このお独りの方を信じて歩むなら、必ずきっと天の御父のもとへと辿り着ける。この方に聴き従うなら、神を信じて生きて死ぬために必要な真理をちゃんと掴み取ることができる。このお独りの方から受け取るなら、十分な生命をいただきつづけて生きることができる。救い主イエスこそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命。文字通りに、そのまま丸ごと信じて受け止めつづけることができるかどうかが、いつもの別れ道でありつづけます。御父が主イエスを指差して、『これは私の子、私の選んだ者である。これに聞け』と私共に命じた。命じつづけます。「救い主イエスにこそ聴き従う」。それはイエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聴き従うということではありません。
世俗化の波がキリストの教会を覆い尽くそうとしています。兄弟姉妹たち。教会の世俗化とは、主イエスに聴き従うことを私たちが止めてしまうことです。神さまへの信頼と従順がすっかり骨抜きにされ、ただただ口先だけの絵空事にされてしまうことです。神さまが第一であったはずの私たちの生活が、いつの間にか神に聴き従って生きることが二の次、三の次にされ、どんどん後回しにされつづけてゆく。この私たち自身のことです。例えば使徒行伝3-4章、足の不自由な人を神殿の入り口で癒してあげたあと、主イエスの弟子たちは議会に連れていかれて厳しく脅かされました。彼らは答えました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」と。同じく主イエスの弟子とされた私たちも、この同じ一つの質問を一生涯、突きつけられつづけます。神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたいと。しかも、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである」(使徒4:19,マタイ福音書6:24)。いったい誰を自分の主人として、この私たちは心安らかに生きて死ぬことができるのでしょうか。

私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そんな態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。と私たちに語りかける声がありました。「イエスは主である。他のナニモノをも主とはしない」と口でも心でも認めているはずの、そのあなたが、争ったり妬んだり、人を軽々しく裁いたり、退けている。そのあなたが卑屈にいじけている。そのあなたが、ふさわしいとかふさわしくないとか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか品定めをし、また品定めをされることに甘んじているのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。どう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、すっかり我を忘れ、神さまを忘れてしまっている。『イエスこそ私の主』と言っているくせに、そのあなたが、主イエスに聴き従うことを後回しにし、それを二の次三の次にしつづけて、「なにしろ私の考えや好き嫌いは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。イエスは主なりと魂に刻んだあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。救い主イエスをこそ自分のただお独りのご主人さまとして、この方に聴き従って生きることを第一として生きることができるなら、私たちは幸せです。もし、そうではないなら、私たちの地上の生涯はあまりに危うく不確かでありつづけます。




2019年11月18日月曜日

11/17こども説教「救い主が与えられる約束」使徒13:22-23


 11/17 こども説教 使徒行伝13:22-23
 『救い主が与えられる約束』

13:22 それから神はサウロを退け、ダビデを立てて王とされたが、彼についてあかしをして、『わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人で、わたしの思うところを、ことごとく実行してくれるであろう』と言われた。23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救主イエスをイスラエルに送られたが、(使徒行伝13:22-23


 お父さんお母さんに、きびしく叱られたことがありますか? あなたが友だちに意地悪をしたり、わざと誰かを困らせたり、してはいけない悪いことをしてしまったとき、それを知って、お父さんお母さんはどうするかな? 「こらー、ダメですよ」ときびしく叱ってくれるなら、その父さん母さんはとても良い親で、あなたのことを愛しており、大切に思っています。どんな悪いことをしても、「いいんだよ」とニコニコしているようなら、その父さん母さんはもうあなたのことを愛していません。
 さて、サウロが神によって王の仕事をクビにされたのは、神に背くとても悪いことを2回も繰り返したからでした(サムエル記上13:8-15,15:1-26参照)。実は、ダビデもまた、サウロ王に負けず劣らず、とても許されないほどのとんでもない悪さをしでかしました(サムエル記下12:1-15。けれど悔い改めて、神のもとへと立ち返ることができたので、神さまはゆるしてくださいました。私たちもサウロもダビデもペテロもユダも、皆だいたい同じです。とうてい許されないはずのことをついついしでかしてしまう私たちです。神の憐みとゆるしなしに生きることのできる正しい人間など、ただの一人もいません。けれど、もし、神さまが私たちの心を神へと向けさせてくださるなら、どんなに強情でねじ曲がった心を持った私たちでも、誰でも、どんな人でも、悔い改めて神へと立ち返ることができます。
 ダビデの子孫の中からやがて救い主がこの世界に送られると約束されました。その通りになりました。


11/17「自分を捨てて、主イエスに従う」ルカ9:21-27


                       みことば/2019,11,17(主日礼拝)  241
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:21-27                      日本キリスト教会 上田教会
『自分を捨てて、主イエスに従う』
   +(付録)『民主人権記念館(韓国)という視点へ

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
9:21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。27 よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。    (ルカ福音書 9:21-27)
21-22節、「イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる』」。主イエスはご自身のことを「人の子」と呼んでいます。エルサレムの都に向かう途上で、救い主イエスはついにとうとうその都で待ち構えているご自身の死と復活について弟子たちに打ち明け始めます。受難予告の第一回目です。人の子、つまりこの私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。
「必ず~となる」。私たちの間では「必ず~となる」などとはっきり決まっていることなど何一つありません。先のことを知ることのできない私たちであり、とても不確かな危うい中を驚きながら生きる私たちだからです。「必ず~となる」。主であられる神さまがそう決めて、神ご自身がそれを成し遂げるから、だから、「必ず~となる」。ここで聞き分けるべき第一の点は、十字架の上で死ぬことは救い主イエスご自身が自分から進んで、自由な心で受け入れておられる出来事であるということです。悪者どもの悪巧みにあって、仕方なしに嫌々渋々、ではなくて。「ぜひそうしよう。十字架の上で、罪人の一人に数えられ、見捨てられて無残に死んでゆくこと。それを私はぜひしたい」と。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神という永遠の神ご自身による救いの御計画です。正しいお方が、正しくないはなはだしい罪人である私たちのために、死んでくださった。それによって、恵みに値しない私たちを憐み深い神のみもとへと連れ戻してくださるために。それこそが救い主としての務めであり、担われた使命です。

23-24節、「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。まず、自分を捨てなさい、自分の命を捨て去りなさいと命じられます。神に背かせようとする罪の誘惑と、毎日毎日、戦わねばならないからです。捨て去るべき「自分。自分の命」とは、自己中心の「私が私が」というこだわりであり、心の頑固さです。「好きだ嫌いだ。気が進む。なんだか嫌だ」などと言い張りつづけ、自分の思い通り、願い通りに生きていきたいと我を張りつづける自己主張です。それらは、主イエスに従って生きることを邪魔しつづけるからです。
できるだけていねいに、詳しくお話しします。救い主イエス・キリストに従って生きるためには、まず第一に自分自身を捨て去り、自分を退け、否定することです。なぜなら自分自身が自分の主人である間は、神さまを自分のご主人さまとして迎え入れることが決してできないからです。聖書は証言します、「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブル手紙4:9-11神を自分のご主人さまとして迎え入れ、自分の中に神の居場所と働き場所を確保するためには、自分の働きを後ろへ退けて、脇に控え、神ご自身に働いていただくために、自分は休む必要があります。「私が私が」と我を張って、私が自分のための主人であり、中心であり続けている間は、神の御心とそのお働きは邪魔されつづけています。救い主イエスに主権を明け渡して、ご主人さまとして力を発揮していただくためには、その邪魔をしている自分の一切の欲望を投げ捨てる必要があります。そのようにして初めて、私たちは幸いに生きることができます。いかがですか? けっこう難しいことですね。自分自身では逆立ちしても100200年かかっても出来ません。けれど、もし、「ぜひそうしたい」とあなたが願うならば神ご自身があなたのためにもそれを成し遂げてくださいます。
キリストに従って生きることの第二の部分は、「自分に与えられ、課せられる十字架を負って、主イエスに従うこと」である。救い主イエスにとって、死の間際の数時間が十字架の苦しみであっただけでなく、その全生涯が苦しみと試練の十字架だったと言うこともできるかも知れません。聖書は証言します、「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである」。忍ばれたさまざまな苦しみによって、御子イエスは御父への従順を学ばねばならなかった。また、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに」(ヘブル手紙5:7-10,ピリピ手紙2:6-9。救い主イエスが御父への従順の手本を示してくださり、「ご自身に従順である者たちに対して」永遠の救いの源となられたのです。また、「十字架の死の出来事は御父への従順のささげものでもあった」(ピリピ手紙2:6-8参照)とはっきりと証言されています。主イエスの弟子とされたすべてのクリスチャンは、この私たちは、御子イエスと同じ形になるという目的のもとに救いへと選び入れられた者たちです。神に信頼し、聞き従い、神への従順のうちに日々の生活を生きること。ここに、私たちのための格別な幸いがあります。苦しむとき、大きな災いと悩みが私たちを襲うとき、そこでそのようにして私たちは救い主キリストの苦しみにあずかって、あのお独りの方と同じ一つの道筋を通って、救いへと導き入れられます。聖書は証言します、「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」(ピリピ手紙3:9-11。私たちが逆境に苦しめられれば苦しめられるほど、それだけますます救い主キリストと私たちとの結びつきは堅くされ、強められ、そのようにして救い主キリストとの交わりにあずかることによって、その苦しみや悩み自体が私たちに祝福をもたらします。また、私たちのためにあらかじめ用意されている救いへの道を一歩また一歩と先へ進むことになります。
なぜ、この私たちは、自分のために用意されている十字架を背負い、苦しみと悩みに耐えなければならないのか。それこそが、神にこそ十分に信頼し、聞き従って生きるための訓練であるからです。自分自身の弱さや危うさを、私たちはよくよく知らねばなりません。しかも私たちはとても思い上がりやすい性分をもっていて、ついつい他の人間たちに対しても神さまに対しても頑固に自惚れて、思い上がってしまうからです。自分を頼りとして、自分の判断や気分に聞き従いつづけて、いつの間にか、神の恵みと憐みなしにでも自分自身の力だけで十分であるかのように、神に対しても頑固に思い上がります。だからこそ自分の弱さ、愚かさ、もろさをつくづくと思い知らされます。恥を受け、重い病に苦しみ、さまざまな困難や悩みの中でへりくだらされて、そこでようやく神の御力と憐みを呼び求めることを私たちは学びます。例えば主の弟子パウロもそうでした。何度も何度も繰り返して、彼は痛めつけられ、恐れと悩みに取りつかれ、身を屈めさせられました。その中で、へりくだって神に信頼を寄せることをあの彼も少しずつ習い覚えていきました。「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント手紙(1)12:7-10。彼に与えられたトゲがどんな種類のトゲなのかはよく分かりません。けれど、とても苦しかった。ものすごく辛かった。しかもそのトゲは高慢にならないために与えられたのだと言います。とても痛くて苦しくて辛いトゲをどうか抜いてくださいと彼は神に祈り求めます。「三度も」というのは聖書に特徴的な数字の使い方で、何百回も何千回も、繰り返し何度も何度もという意味です。けれど神さまは、そのトゲを抜いてくださらない。いいえ むしろ、その苦しみや辛さがあなたにはあるほうがいいと仰るのです。主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。これまではよく分からなかっただろうけれども、私の恵みはすでにあなたに対して十分でありつづけた。今もそうだ。あなたへの恵みは十分だけれども、それは、あなた自身の強さや頑固さや自惚れに邪魔をされて、なかなか発揮できなかった。神の力は、私たち人間が弱いときに、そこでようやく十分にあらわされる。だから、わざわざトゲを与えた。あなたがへりくだって神の憐みに本気になってすがることができるようにと。そこでようやく彼は気づいて、神の恵みがすでに十分に与えられており、神の御力が働こうとして準備万端でありつづけていたことを知ります。その憐みと御力のうちに心安らかであることができると。そのトゲこそが、彼のための「自分の十字架」であり、「自分を捨て、自分の命を捨てる」ことだったのでした。自分自身の偽りを知らされ、神への従順に新しく生きはじめるための訓練だったのだと。その同じ一つの訓練が、この私たちのためにも続きます。一日また一日と。
だからこそ、私たちのご主人さまである主イエスからの命令はとても分かりやすくて、単純明快です。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。よくよく考え巡らせねばなりません。自分を捨てることは、現実的に具体的に、どこでどのようにしてなされるでしょうか。毎日毎日、十字架を背負って生きるとはどういうことでしょう。主イエスに従って毎日の暮らしを生きることは、どんなふうになされ続けていくでしょうか。しかも、それなしには、私たちは決して救われないと断言されています。聖書は証言します、「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない」(ガラテヤ手紙5:24-26。だからこそ、主イエスは仰います。24節、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」と。さらにつづけて、25節、「人が全世界をもうけても、自分自身を失い、または損したら、なんの得になろうか」。全世界と、そこにあるすべての富、財産、地位、名誉を残らず手に入れたとしても、それで人は満たされるわけではなく、幸せにもなれません。しかもなお悪いことには、やがて死が待ち構えており、私たちが手に入れたすべての良いものを奪い去っていきます。裸で生まれてきた私たちは、やがて裸でこの世界を去っていきます。手遅れになる前に、間に合ううちに、主イエスに従って生きることを、この私たちもよくよく習い覚えたいのです。






(付録)『民主人権記念館(韓国)という視点へ     金田聖治

 「韓国の歴史現場を訪ねる旅・2019」の初日の訪問先の一つは、2022年に正式開館を予定する民主人権記念館だった。国家暴力の現場を民主人権の教育の場に。しかも、「戦時中の日本軍の」ではなく、戦後の、197080年代の自国政府による学生・労働運動に対する組織的・計画的拷問という国家暴力が対象である。水責め、電気ショックなど。衝撃だった。もちろん当局はその膨大で邪悪な暴力のすべてを隠蔽しようとした。けれど、そうした悪事が闇に葬られることを許さない人々がいた。歴史の闇を忘れず、記憶し、教育し、人権・正義・平和の価値を共々に学ぶという。もし、それをしないなら、私たちは罪深く愚かなままであり、非道な過ちを繰り返しつづけるからだ。正式開館に向けて、20数年来の願いと準備が積み重ねられている。
 ドイツにはドイツの、韓国には韓国の過去との向き合い方がある。それが今日の在り方のそれぞれの土台となっている。他方、日本は過去と向き合うことを回避しつづけて、今日の愚かな在り方を方向づけている。いつの間にか日本は世界有数の軍事大国となり、憲法改悪の動きは加速し、天皇を国家統合の手段とする新たな天皇制刷り込みの時代が到来しているからだ。また私たちの国家が行った従軍慰安婦、徴用工などの罪責を認め、保障することが棚上げされつづける。戦後すぐ、1953年に内閣法制局は「公権力の行使または国家意思の形成への参画に携わる公務員となるためには日本国籍が必要」とする公式見解を示した。「当然の法理」と呼ばれ、今日でも、地方公務員にもこの法理が当てはまるとされている。大きな公権力をもつ公務員上級職・管理職に外国人がつくことを排除し、日本人に対して彼らが命令や指示を行えないようにする。他者を排除し、軽蔑し見下す意識がここにある。日本に住む外国人は、このように不当に排除され、踏みつけにされつづけてきた。それらは東アジアの和解と平和の創出を阻害する要因としてアジアの人々の憂慮するところとなっている。現在の東アジアの緊張と対立の根底には、私たち日本人の大多数がこうした過去と現在の罪責、人権抑圧を真摯に悔い改めてこなかったばかりか、忘却と正当化さえはばからない。こうした状況にいたった責任の大きな部分は、戦争罪責と戦後罪責を明白にしてこなかったこの私たち自身にあると、ようやく思い至った。


●(補足)2019115-8日、「韓国の歴史現場を訪ねる旅・2019」(外キ協/外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会,主催)

 訪問先 民主人権記念館(韓国の民主化運動の歴史)/戦争記念博物館(1910-1945年の歴史)/タブゴル公園/西大門刑務所歴史館(植民地時代・独裁時代)/戦争と女性人権博物館(日本軍「慰安婦」たちの歴史)/韓国NCCを表敬訪問/草洞教会での水曜礼拝に出席/3・1運動記念館(日本軍の村民虐殺事件)/水原広橋博物館(日本の植民地支配の歴史資料展示)など。




2019年11月12日火曜日

11/10こども説教「サウロ王のとき」使徒13:20-21


 11/10 こども説教 使徒行伝13:20-21
 『サウロ王のとき』

13:20 それらのことが約四百五十年の年月にわたった。その後、神はさばき人たちをおつかわしになり、預言者サムエルの時に及んだ。21 その時、人々が王を要求したので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間、彼らにおつかわしになった。    (使徒行伝13:20-21

 教会では、「主なる神」「主なる神」と何度も言います。神がご主人だという意味です。「主イエス。主イエス」とも、何度も繰り返し言いつづけます。救い主イエスこそが私の主人であり、そのご主人さまにこそ信頼を寄せ、その主人に聴き従って生きてゆく私であるという意味です。「主イエス」とは、そのことをとても短い言葉で言い表しています。このことが、一番大切です。
 神さまを信じて、聴き従い、神にこそ信頼して生きるためのしつけと訓練のときがだいたい450年ほど過ぎました。エジプトで400年の間、奴隷にされたこと。荒れ野での40年の旅路。それから約束の地に渡ってヨシュアに率いられて過ごした日々。さばき人たちのとき(士師記1-21章)が過ぎて、人々が「人間の王さまが欲しい。欲しい、欲しい」としつこく要求しました。神さまご自身がそのとき預言者サムエルに打ち明けました。「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。今その声に聞き従いなさい」(サムエル記上8:7-9昔も今もこれからも、神さまご自身こそが先祖と私たちの上にいるただお独りの王さまです。だから、神を信じて生きる私たちのためには、人間の王などいりません。「人間の王が欲しい、欲しい、どうしても欲しい」というその願いは、神に背く悪い願いでした。けれど、神さまはしかたなしにその願いをかなえてくださって、イスラエルに王が立てられました。その最初の王がサウロです。40数名の人間の王が次々に立てられ、やがてその国は神ご自身の手によって滅ぼされてしまいます。何のためでしょう? 神ご自身こそを自分たちのただお独りの王さま、ご主人さまとして、もう一度、新しく生きはじめるためにです。


11/10「イエスを誰と言うのか?」ルカ9:18-22


                       みことば/2019,11,10(主日礼拝)  240
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:18-22                       日本キリスト教会 上田教会
『イエスを誰と言うのか?』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、彼らに尋ねて言われた、「群衆はわたしをだれと言っているか」。19 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。しかしほかの人たちは、エリヤだと言い、また昔の預言者のひとりが復活したのだと、言っている者もあります」。20 彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。(ルカ福音書 9:18-20)
 20-22節で主イエスは弟子に「私を誰と言うか」と問いかけ、弟子の一人が「あなたこそ神であられる救い主です」と答えると、「(そのことを)だれにも言ってはいけない」と釘をさされました。このことを、まず解決しておきましょう。あのとき弟子たちは、主イエスについて人々に知らせるための準備が整っていませんでした。「まだ、いけない」という期限付きの禁止でした。今では、私たちも含めてすべての弟子たちに準備が整っています。ですから今では、安心して晴れ晴れして、「イエスこそ救い主である」と私たちも誰にでも知らせることができます。救い主イエスの死と復活についての最初の予告がつづきます。その中身、22節以下については、次のときに話します。
  さて、13節。ペテロが主イエスへの信仰を言い表したとき、主と弟子たちは「ピリポ・カイザリア地方」にいました9:10で、「ベツサイダという町」と。その付近一帯)。その土地は、ギリシャ神話の多くの神々を拝むことでよく知られていました。その当時、ユダヤの国はローマの植民地にされていました。ヘロデ王がローマ皇帝からこの土地を任せられた際、皇帝にお世辞を言うつもりで「カイザリア=ローマ皇帝さまの地域」と名付けました。その子供ヘロデ・ピリポがさらに「ピリポ・カイザリア=ピリポが治める、皇帝のものである地域」と名を改めました。ここはそういう土地です。多くの神々と共にローマ皇帝が神のように崇められ、また地元の支配者たちが権力を振るう土地。そこは、主イエスが弟子たちに、ご自分が神の独り子であり救い主であると認めさせるのにふさわしい場所だったのです。「ピリポ・カイザリア」はまた、私たちの住むこの世界によく似ています。目に見えない神は、見えにくく分かりづらかったのです。語りかけるその御声はあまりにか細く、ささやき声のようで、聞き分けることがとても難しかった。だからここでも、目に見える多くの神々が崇められ、目に見える多くの支配者たちが、それぞれ小さな小さな粗末な神にでもなったつもりで我が物顔に振舞います。多くの神々、多くの支配者たちが、入れ替わり立ち代りやって来て、「頭を下げなさい。ひれ伏して崇めなさい。ただただ従いなさい」と迫ります。その只中で救い主イエスは、「人々は私(『人の子』=主イエスご自身)のことを誰と言っているか」と問いかけます。多くの人々が様々なことを言います。けれど、他の者たちがイエスについて何と言っているのか、どう考えているのかはほどほどのこと。問題は、あなたがどう言うのかです。あなた自身がどう考えるか、ということです。
 多くの神々、そして神に似た多くの支配者たちが満ちあふれる世界で、『私たちは何に従うのか、何を自分自身の導き手とするのか』と選択を迫られつづけます。平穏な日々には、『イエスを何者と言うのか』という問いはあまり大きな意味を持たない、と思えるかも知れません。『誰を主とし、誰に聞き従うのか』とわざわざ確かめなくてもよいと思い、その都度その都度、目に見える、目の前にある誰彼のそれらしい声に聞き従えばいいと思えるかも知れません。だって何しろ、目に見えない神は、見えにくく分かりづらかったのですから。語りかけるその御声はあまりにか細く、ささやき声のようで、聞き分けることがとてもとても難しかったのですから。けれどなお『イエスは主である』という信仰によって、『イエスをこそ主とする』という信仰を岩として、キリストの教会は立ってきました(同じ一つの出来事を報告したマタイ福音書16:18で、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と主イエスが仰った。その『岩』とは何かということを巡って、いくつかの理解が並び立ちつづけます。「ペテロが岩だ」と考える人々もいます。確かに、ペテロ(岩という意味)というあだ名を彼に付けたのは主イエスでした。ヨハネ福音書1:42。けれど岩のようにビクともしない確固たる人間などどこにもいません。ペテロも私たちも、むしろ砂粒のような者たちです。誰も彼もが、小さく危うく、あまりに脆い、壊れ物のような存在です。それでもなおイエスを信じる信仰こそが、その砂粒のような人々を岩のように生きる者とします砂粒のようでありつづけながら、なお確固として生きる者たちへとされる。奇妙なことです)。雨が降り出すからです。川があふれ、風が吹き、その家をすさまじい濁流と大きな嵐が襲うからです。しっかりした岩を土台としているのでなければ、その家は倒れてしまうからです。しかもその倒れ方はひどいからです(マタイ福音書7:25-)。すでに警戒警報と住民への避難勧告が出され、まもなく暴風雨圏内に突入しようとしているからです。『イエスは主である』という信仰によって、キリストの教会は立ってきました。1人のクリスチャンも、その生活も、イエスは主であるという眼差しと腹の据え方によって立ってきました。むしろ、こう言いましょう。『イエスは主である』という根源の土台をうっかり見失いかけて、その信仰は幾度も幾度も泥にまみれ、致命的な打撃を受けたのだと。例えば1933年から45年にかけて、ドイツではヒットラーのナチス政権に抵抗して、ルター派と改革派と、そして合同教会は1つの旗印のもとに戦いました。34年の『バルメン宣言』はそのきびしい戦いの道しるべとなりました。宣言の第1項は告げます;「聖書において私たちに証しされているイエス・キリストは、私たちが聞くべき、また私たちが生と死において信頼し、服従すべき、神の唯一のみ言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一のみ言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認できるとか、承認しなければならないという誤った教えを、私たちは退ける」と。兄弟姉妹たち。『誤った教え』は、かなり手ごわかったのです。しかも目に見えない神は、見えにくく分かりづらかったのですから。語りかけるその御声はあまりにか細く、ささやき声のようで、聞き分けづらかったのですから。その隙をついて、目に見える目の前にいる父のような顔つきで、母のような声で、やさしい兄や姉のようなそぶりでそれは語りかけてきました。イエスをこそ主とする信仰に堅く立ちつづけることは、至難の業でした。戦時中にドイツの国中を巻き込んだ『誤った教え』と、それへの苛酷な戦いに、戦後の日本のキリストの教会は驚きながらよくよく目を凝らしました。そっくり同じことが、この日本でも起こっていたのですから。ヒットラーも天皇も神ではありませんでした。勇敢に戦った兵隊も英雄も聖母マリアもマザーテレサさんも、たとえ死んでも人間は神になどなるはずがなかったのです。人間はどこまで行っても人間にすぎなかったのですから。けれど、それには目をつぶって、神をあがめながら同時に神ではないものを横に並べて、キリストの教会は崇めつづけてしまいました。それでも何の問題も不都合もない、と教えられました。右に左に道を逸れ、また立ち戻り、また道を逸れ、立ち戻り、またいつの間にか逸れていって。それが、キリストの教会の歴史です。

               ◇

  例えば、『牧師(あるいは長老、役員、大会議長、中会議長など)という人間』に対して、私たちはどう考え、どのように付き合ったらいいでしょうか。それについてのまったく正反対の2種類の判断が、私たちの教会の中にありつづけます。ある人々は、『牧師は教会の責任者であり、お父さんのようなリーダーだ。だから、なにしろこの人の判断に聞き従い、この人の指示に従っていく。この人の思い通りの、望むままの仕方で教会を運営していくことが良いことなのだ』と。別のほんの一握りの、ごく少数の人々は言います。『いや、そうじゃない。その考え方は間違っている。牧師は頭ではない。父親のような権威者でもない。キリストに仕えるしもべだ。聖書はそう言っていたじゃないか。私たちは仕えるしもべ同士だったじゃないか。主にこそ従っていくのだ』と。けれどなお多くの者たちは言います、『主など、いったいどこにいる。そんなもの、ただの建前じゃないか。ただのお題目にすぎないじゃないか。目に見えず、その声も聞き分けにくい。だったら、目の前にいるリーダーたちに従って、その人たちの判断に任せていくほうがずっと分かりやすく、簡単じゃないか。私たちは、主に従うことなどできない。あの人この人たちに従い、あの人この彼らに仕えていこう』と。教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、親戚たちの間では幅を効かせている叔父さん叔母さんに従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことを聞いて、国家権力や政府をオカミと崇めたてまつって言いなりに従っていればいい。主なる神に従うことなど、私たちにはできるはずがない』と。神ではないものたちと多くの支配者・指導者たちが君臨し、思いのままに人を従わせつづける土地に、私たちも住んでいます。数の多いものや賢い者や強い者たちが、「膝を屈め、従いなさい」と私たちに迫ります。心が弱ります。ついうっかりして膝を屈めようとするときに、けれど『イエスは主である』と告白している私には、それはできません。高ぶって、誰かを軽々しく裁こうとするとき、冷たく退けようとするときに、私の主であってくださる方がどんな方だったか、何をなさったのかが、私の前に立ち塞がります。兄弟に対して、また貧しく身を屈めさせられ小さくされた1人の人に向けて、何ごとかをなそうとするとき。何気ない一言を口に出そうとするとき、思いとどまらせるものがあります。見て見ぬふりをし、恐れて口をつぐんでしまおうとするとき、なお私を促すものがあります。「それは、イエスは主であるという言い表しに反しているじゃないか。キリストはその1人の兄弟のためにも死んでくださったのではなかったか」(コリント手紙(1)12:3,ローマ手紙10:9,14:15)と。「年老いた。衰えて、体も心もすっかり弱り果てた」という私の恐れと嘆きにとっても、イエスこそが主です。「人がどう思うだろう。どんなふうに見られるだろうか」とキョロキョロ見回している私の心細さや臆病さに対しても、イエスこそ主。家の土台が、踏みしめている私の足もとから物を言っています。「子供たちが安心して豊かに生き抜いていけるように、心強い確かなものを、ぜひ手渡してあげたい」という私の切なる願いにとっても、イエスは主であってくださる。「私自身も、誰を恐れることもなく誰に何を恥じることもなく日々の生活を安らかに送りたい」という願いと恐れにとっても、なおさら、そこでこそ、イエスは主である。イエスこそ、唯一の主である。家の土台が、踏みしめている私の足もとから物を言っている。踏みしめている土台に確かな岩がある。堅くしっかりした岩の上に、私たちの家が立っている。立ちつづけます。
もちろん、波風立つのは当たり前です。周囲の人々に受け入れられる時もあれば、退けられ拒まれるときもある。年老いて衰えてゆくことも、貧しく身を屈めさせられる日々もある。いつか病気になって足腰立たなくなることも、やがて誰でも必ず死んでゆくことさえ、それらは驚くに及びません。よい日も悪い日もある。喜ぶときもある。痛みに耐える日々も来る。人の気持ちや痛みが分かるようでありたいが、あまりに顔色をうかがうようでは困ります。他人の考えやあり方を尊重する私でありたいが、言いなりにされ、引き回され流されつづけるようでは困ります。自己中心で身勝手なのも困るが、臆病に恐れつづけるのも、とても困ります。広々として心安らかであり、確固としてありたいからです。子供たちも孫も、それぞれの愛する連れ合いも、誰もが自分自身で選び取り、自分自身で行く道を決めなければなりません。だから、私自身は決めました。がっちりしたビクともしない岩の上に家を立てようと。ぜひとも、なんとしても。イエスは主である。この1つの岩の上にこそ、私は立っていようと。私は、ここに立ちます。立ち続けます。




2019年11月3日日曜日

11/3こども説教「エジプトからの脱出、荒野の40年、約束の地」使徒13:13-19


 11/3 こども説教 使徒行伝13:13-19
約束の地

13:13 パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。14 しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。15 律法と預言書の朗読があったのち、会堂司たちが彼らのところに人をつかわして、「兄弟たちよ、もしあなたがたのうち、どなたか、この人々に何か奨励の言葉がありましたら、どうぞお話し下さい」と言わせた。16 そこでパウロが立ちあがり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を敬うかたがたよ、お聞き下さい。17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び、エジプトの地に滞在中、この民を大いなるものとし、み腕を高くさし上げて、彼らをその地から導き出された。18 そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ、19 カナンの地では七つの異民族を打ち滅ぼし、その地を彼らに譲り与えられた」。(使徒行伝13:13-19 

 例えば、お父さんお母さんは自分の大切な子供が小学校に通うずっと前から、いろんなことを心を込めて子供たちに教えてあげます。ハシの持ち方とか。手づかみでいきなり食べ始めたり、肘をついて食べたりすると、「いいえ、ダメですよ」と。こうやってこうやってと。道路の正しく安全な渡り方とか。おはよう。いただきます。ありがとう。ただいまと挨拶することとか。誰かを困らせたり、いじめちゃいけないとか。とても大切なことは、その子が本当によく分かるまで、何回も何回も繰り返し教えつづけます。
 安息日に会堂で聖書が読まれ、主イエスの弟子パウロが語り始めました。もちろん読まれた聖書の中身をです。神さまはどんな神で、何をしてくださったのか、この神を信じて先祖と私たちはどのように晴れ晴れとして生きて死ぬことができるのかということを。それは長い長い説教になりましたから、何回かに分けて読み味わっていきましょう(使徒13:13-43。アブラハムに知らされていた神さまからの約束のとおりに、神を信じる人たちはエジプトの地で400年の間、奴隷にされ(創世記15:13-16参照)、苦しめられつづけました。そこから神さまが人々を連れ出してくださいました。荒れ野を40年間さまよって旅をしました。やがて約束の土地カナンに辿り着いて、そこに住まわせていただきました。神さまが、それらすべてを計画し、その計画通りに彼らを持ち運んでくださいました。長い長い旅の目的が、ずいぶん前に、モーセによって説き明かされました。「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない」(申命記8:3-5)と。それらの日々は、神さまを信じて、よく信頼して、神にこそ聞き従って生きるための訓練の時間でした。同じ訓練が私たちのためにも続いています。今日も明日も、毎日毎日つづきます。



11/3「パン5つと魚2匹」ルカ9:11-17

                          みことば/2019,11,3(主日礼拝)  239
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:11-17                     日本キリスト教会 上田教会
『パン5つと魚2匹』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

9:11 ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。12 それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。13 しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。14 というのは、男が五千人ばかりもいたからである。しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。15 彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。16 イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。17 みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。        (ルカ福音書 9:11-17)


1-13節。神の国について、主イエスは語りつづけていました。そこは人里離れた場所でした。ずいぶん時間がたち、日も暮れようとしています。みな疲れており、腹も減ってきたのです。しかも集まった人々はとても大勢でした。弟子たちはそばに来て、主イエスにこう提案しました。「もうそろそろ群集を解散させてはどうでしょう。そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、それぞれが自分で食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れた寂しい所にいるのですから」。この提案は理にかなっております。ものの道理をわきまえた、とても理性的な大人の判断です。けれども主イエスは乱暴なことを命じます。13節。「あなたがたが、自分の手で、彼らに食べ物を与えなさい」と。「パンが5つ、魚が2匹。これだけです。私たちにはこれだけしかありません」と弟子たちは答えました。貧しくて腹が減って困っているのは、あの彼らだけではありません。私たちだって同じです。私たちにも、たったこれだけしかありません。何もないのと同じじゃありませんか。大勢の群衆ばかりでなく、主イエスの弟子たちも今や、途方にくれています。飢え渇いている私たちだ。この貧しさ乏しさを誰が担ってくれるだろう。この私の飢え渇きを、いったい誰が。
 16節です。主は天を仰いで、讃美の祈りを唱えました。パン5つと魚2匹を抱えて、主はそれらを掲げもちます。「これだけしかありません」と嘆くのではありません。その乏しさを「なんだ。これだけか」と軽蔑するのではなく、「これだけある」と感謝し、それらを大切に尊ぶ祝福でした。ここで主が祈った祈りは、どのような祈りだったのでしょうか。どのような感謝と祝福だったのでしょう。主イエスの、ここでのこの祈りこそが重要です。なぜなら、この祈りによって事態が決定的に180度の転換をしているからです。・・・・・・思い浮かべてみていただきたいのです。もし、あなたが主イエスの立場だったら、あるいは主イエスから「お前が代りに祈りなさい」と命じられたら、どんなふうに祈りましょうか;「父なる神さま。このパン5つと魚2匹をありがとうございます。あなたが、私たちを愛する愛によって、この良いものを私たちに与えてくださいました。心から感謝をいたします。この豊かな贈り物によって、私たちの心も体も養ってください。まだまだ他にもあります。家族や隣人たちがこれらのパンと魚のように与えられていることに感謝します。職場や居場所や私の健康や一日ずつの生命を、これらのパンと魚のように贈り与えてくださって、本当にありがとうございます。どうか、ただ恵みによって支えてください。大事に受け取って、その喜びと確かさを魂に刻む私たちであらせてください。あなたから受け取りつつ、あなたによって養われ支えられて、そのようにして心強く、喜びにあふれて生きる私たちであらせてください」。
 私たちがいつも祈る『主の祈り』。その中の一つの大事な願いは、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」です。私たちが生きるために必要なもの。高価なものも、ごくありふれてささやかに見えるものも、霊的なものも物質的なものも、大きなものから、ごくささいな、他人からはつまらないと思われる小さなものまで。それら一つ一つを、一日分ずつ、主であってくださる神こそが贈り与えてくださった。どうか今日も与えてください。主から与えられる必要な、十分な、そして豊かなものを、驚き喜んで、感謝して受け取ることができるようにさせてください。あのとき、あの弟子たちはとまどい、思い悩み、抗議をしていました。「金もパンも、私たちにはない。できるわけがない」と。主イエスは、私たちの乏しさや困窮を無視なさるわけではありません。そこにも目を留め、十分に分かっていてくださる。私たちの困窮をあわれんでくださる主です。例えば、家族の生活や子供たちの養育をどうしようか。どんなふうに育てていったらいいのか。病いに苦しむ大切な家族を、どんなふうに支え、どうやって慰め、どんなふうに寄り添って生きてゆくことができるだろう。その人に何を与え、何を取り除いてあげることができるだろうか。何を支えとし拠り所として生き抜いてゆくことができるだろう。私たちの健康。私たちの一日分ずつの生命。自分自身も年老いて衰えてゆくことに対して、私たちはどんなふうに立ち向かってゆくことができるでしょう。けれど、その深刻で重大な悩みと課題の一つ一つは、『私たちに必要な一日分ずつの糧を今日も与えてください』という祈りとは別の事柄なのでしょうか。「それはそれ。これはこれ」と私たちは言わねばならないのでしょうか。いいえ、私たちは神さまを信じています。
  詩篇の信仰者は祈ります。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。あなたのしもべをあわれんでください。あしたに、あなたのいつくしみをもって、われらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください」(90:12,14)と。私たちも祈ります。「白髪になってもなお実を結び、命にあふれ、主の救いの御業を生き生きと宣べ伝えることができますように」と。自分自身の生涯の日を、けれどどうやって数えることができるでしょう。もし万一、わたし自身の努力と働きと才能によって勝ち取ってきた日々だと誤解するなら、私はかなり数え間違っています。もし、若く健康で力にあふれている限りにおいて実を結び、年老いて白髪になれば後はただ枯れてゆくだけだと誤解するならば、私たちはすっかり数え間違っています。目の前にある目に見える事柄に一喜一憂し、恐れつづけ気に病みつづけ、山ほどある思い煩いの只中で、すっかり神を見失ってしまうでしょう。神さまが生きて働いておられますことなど、いつの間にか思いもしなくなるでしょう。それでは困ります。とてもとても困ります。つい先日お話ししましたように、「静かに落ち着いて、神さまによくよく信頼して」(イザヤ書30:15参照)、神さまの前にひざまずくことができるなら、そこで私も、私自身の生涯の日を正しく数えはじめ、ついに知恵ある心を贈り与えられるでしょう。「主のあわれみと慈しみが、私の日々の一日ずつにあった。確かにあった」と数えはじめるでしょう。なぜ、白髪になってもなお実を結び、生き生きと命にあふれることなどできるでしょう。若者も倦み、疲れ、百戦練磨の勇士さえもが次々とつまずき倒れる中で、なぜ、その一握りの人々は新しい力を獲得し、鷲のように翼を張ってのぼることができるのでしょうか。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。本当でしょうか。あるはずのなかったことが、一体どうして起こるのでしょうか。『私があなたたちを造った』とおっしゃる主がおられるからです。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。なにしろ私は、あなたたちを造った。私が担い、私が背負い、私こそがきっと、いつでもどこからでも救い出す。何度でも何度でも、救い出しつづける」(71:18,90:12,92:14-15,イザヤ40:30-31,46:3-4参照)と。

 16節です。主イエスの仕草は、あの最後の晩餐のときの主の仕草そのままです。「イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これは私の体である』。また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」。あの晩餐には、またそれにつづく聖晩餐のパンと杯には、主の十字架の出来事こそが深く刻まれます。主はパンと魚を掲げ持ったように、十字架の上で、私たちのために、ご自身の体を掲げたのです。主は天を仰いで祈りを唱えました。感謝と、切なる願いの祈りをです。主はパンを裂くようにして、あの丘の上で、あの十字架の木の上で、私たちのために、ご自身の体を引き裂き、ご自身の血を流しつくしてくださいました。主はこの世界をご覧になり、あわれんでくださいました。私たちに、この私にも目を留め、あわれんでくださいました。そのあわれみの深さは、「取りなさい。これは、あなたのための、あなたを主のものとして迎え入れ、主のものとして支え、養いつづけるための私の体である。あなたは、ぜひ受け取りなさい」と差し出してくださるほどに、それほど深く、それほどに惜しみなく、どこまでも徹底したものでした。
 私も健康を望みます。大きな良い仕事をぜひ成し遂げたいと願います。富も力も欲しい。けなされてばかりいるよりは、みんなから「素晴らしい。さすがだ。あなたのおかげだ」と誉めてもらいたい。もちろん幸せになりたい。あなたもそうですか? それでも、ほんの何年か若返る程度の健康や力では全然足りません。ちょっとやそっとの富や賞賛や支えでは、全然足りません。そうであるならば、私たちは健康も病気も受け取りましょう。老いも衰えも、そのまま受け取りましょう。なぜなら、健やかなときも病める日々にも、弱り果てる日々にさえ、心安くありたいからです。富を受け取るだけでなく、貧困も貧しさも受け取りましょう。満ち足りて喜ぶ私でありたいからです。賞賛も侮辱も、そのまま受け取りましょう。人から誉められれば嬉しい。けなされれば悔しい。それでも何しろ「善かつ忠なるしもべよ。お前の名は天に書き記されてある。命の書に、あなたの名前をちゃんと書いておいた」(マタイ25:21,ルカ10:20)と、ただお独りのご主人さまから誉めていただけるなら、とても嬉しい。虫が食ったり、さび付いたり、泥棒に盗まれたりしない宝でなければ役に立ちません。朽ちることのない色褪せない宝でなければ、いざというとき使い物になりません。大雨が降り、川があふれ、やがて強い風も吹き荒れはじめます。私たちの乗ったこのごく小さな貧しい舟は大きな波に飲み込まれそうになるでしょう。しかも何度も何度も。手元にぜひとも残しておくべき道具や装備は、そう多くはありません。よくよく知っておくべきことは多くはありません。貧しく乏しい私たちであること。しかも、その貧しさ乏しさは、主によって豊かにされ、主によって満たされること。弱い私たちが主によってこそ心強く支えられること。信頼し委ねるに値する主であったのです。願い求め、待ち望むに足る神と私たちは出会っていたのです。主に相対し、主が私の右にいてくださり、夜も昼も私を諭し、私を励まし、私を苦難の度毎にその都度その都度、慰めつづけてくださるならば、もし本当にそうであるなら。そこでようやくこんな私さえ揺らぐことがない(16:7-参照)と知りたいのです。骨身にしみて、つくづくと腹の底から分かりたいのです。
 ご一緒に読んだ最後の部分。「そして、残ったパン屑を集めると12カゴもあった」(17)。主イエスは、残ったパン屑をいったい誰に集めさせたでしょう? もちろん、あの大切な弟子たちにです。だから、1人にカゴ1個ずつ持たせて、それで、ちょうど12カゴ。人々の間をまわり、パン屑を集めながら、彼らは激しく驚いて、心がうち震えたでしょう。「あなたがたが自分の手で食物を与えなさい」と命じられたとき、戸惑ったり腹を立てたりしたことも思い出したでしょう。「できるはずがない。どういうつもりか」と不平不満をつぶやきたかったことも、チェッと舌打ちしたことも、主イエスを信じなかったこともつくづくと思い出したでしょう。申し訳ありませんでした、と主に謝りたい気持ちがしたかも知れません。そして感謝があふれました。私は願います。「信頼するに足る主である」。その一つの確信を、妻と分かち合いたいと。その肝心要をこそ、大切な息子たち娘たちにも、ぜひ手渡してあげたいと。大切な友人たちと、また同じ神さまに信頼を寄せて生きる兄弟姉妹たちと、この一点を分かち合い、共々にそれを喜び祝いたい。強さも弱さも、私たちはそのまま受け取りましょう。静かに落ち着いて、心安らかに神さまにこそ十分に信頼を寄せる私たちでありたいからです。なにしろ、神の御前に晴れ晴れとしてひざまずく私たちでありたいのです。喜びと悲しみをもって、困難と願いをもって、感謝と信頼をもって、そこでそのまま主に向かう私たちでありたいのです。「助けてください。支えてください」と主に向かって呼ばわる私たちでありたいのです。「ありがとうございます。感謝をいたします」と主に向かって喜び祝う私たちでありたい。私たちのための力と喜びの源は、ここにあります。飛びっきりの格別な祝福は、ここにあります。