2017年3月25日土曜日

3/19こども説教「わたしたちの日毎の食べ物を」ルカ11:3

 3/19 こども説教 ルカ11:3
 『わたしたちの日毎の食べ物を』

わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。
(ルカ福音書 11:3

 主イエスが教えてくださった『主の祈り』を少しずつ読み味わっています。弟子たちは主イエスが祈っている姿をいつもいつも見ていました。「ああ、あんなふうに私たちも祈りたいものだ」。教えてくださいと弟子たちは願い出、主イエスは教えてくださいました。
  ケンちゃん、朝ごはんは何を食べたかな。ご飯を食べるときに、お祈りもしたのかな。「食べ物を」と言ったら、ヨソでは食べ物のことです。けれどそここでは、ただ食べ物のことばかりではないんです。私たちが毎日毎日、安心して嬉しく生きてゆくために必要なすべて全部を、という意味です。それらすべて全部を、父なる神さま、あなたこそが毎日毎日私たちに恵み与えてください。あなたから受け取って、あなたに感謝し、あなたに信頼して生きる私たちとならせてください。「このように祈りなさい」とわざわざ主イエスから命令されているのは、このように心得て毎日毎日を暮らすことがとても難しいことだからです。難しいけれど、とてもとても大切なことことだからです。
  だってね、そう命じられて、いつもいつも祈っているくせに、そうは思っていないクリスチャンがたくさんいるらしいんですよ。じゃあ、どんなふうに思っているかというと、『私たちが毎日毎日、安心して嬉しく生きてゆくために必要なすべて全部を、この自分が、自分の力と努力で手に入れている』とか、『うちの父さん母さんが毎日汗水流して苦労してがんばって働いてくれて、それで生活費も食費も稼いでくれている。やっぱり、父さんと母さんのおかげだ』などと。じゃあ、神さまに何をどう助けてもらってるんですかと質問すると、その人たちは、「別に。たいして何もしてもらっていない」などと知らんぷりしています。だからです だから、その人たちはたびたび淋しい悲しい気持ちになり、なんだか物足りないような、心配で心細いような気持ちになります。だから、たびたび自惚れすぎて、人をバカにしたり怒ったりもしてしまいます。困りました。父さん母さんや私たちそれぞれの働きをも大切に用いてくださっているとしても、そのうえでなお、私たちが生きてゆくために必要なすべて全部を、父なる神さまが恵み与えてくださっている。この肝心要を、この私たちも、はっきりと思い出せるといいですね。いつもいつも覚えていられると、とても幸せです。



    【補足/神への信頼】
    もし仮に、家では父さん母さんが家庭を支え、教会では牧師や長老や私たち自身が教会をささえ、維持し、守っていると思うなら、この私たちはすっかり心得違いをしています。神ご自身のお働きを現実的に具体的に思い描くことも、そこに信頼を十分に寄せることもできないなら、その人はいつの間にか人間中心の考え方に陥って、そこに深く囚われてしまっているかも知れません。信仰をもって生きることの大きな危機がそこにあります。

この教会のホームページに掲載中ですが、『キリスト教の中身が分かるコース』では、この祈りについてこう説明しています。問37「『われらの日用の糧を今日も与えたまえ』という願いは何ですか」「私たちが自分にとって無くてはならないものしか欲しがらず、欲張らないためです。また無くてはならないすべて一切を、ただ神さまからこそ受け取ろうと期待するためにです」。
ここでも最重要のポイントは、やはり天の御父への信頼です。願うなら、そうなる。願わないなら、そうはならない。自分自身でも、親兄弟や友だちやほかの人間たちやモノでも、それらへの信頼はほどほどのことで、あまり当てにできません。けれど神に十分に信頼を寄せて生きられるなら、とても安心です。そうではないなら、心細くて、いろいろなものが恐ろしく感じられて、ビクビクオドオドしながら暮らすことになるでしょう。臆病にもなり、意地悪にもなり、ひがみっぽくもなるかも知れません。神への信頼は、朝昼晩の食べ物のようなささいなことから始まります。出エジプト記16章を読みましたね。12節)「あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』。肉を食べ、パンに飽き足りて、そうして『主が主であることを知る』であろうと。つまり逆に言えば、そうでなければ、いつまでたっても、主を信じることも、信頼を十分に寄せることも感謝することも、主によくよく聴き従うこともできないままだろうと。そのとおりです。だからこそ、不平不満を並べつづける神の民を集めて、神さまはきびしく叱るわけでもなく、懲らしめるわけでもなく、「それじゃあ、肉もパンもたっぷりと食べさせつづけよう。神を信じない者ではなく、信じるあなたがたになりなさい。いいえ この私こそが、ならせてあげよう」と。
  そのようにして、神さまへの十分な信頼と感謝がこの私たちの中にも積み重なり、大きく大きく育ってゆきますように。その信頼と感謝の上に立って、この私たちも一日ずつを暮らすことができますように出エジプト記16:1-12,箴言30:7-9,申命記8:1-20)。




3/19「パン5つと魚2匹」マタイ14:13-21

                みことば/2017,3,19(受難節第3主日の礼拝)  103
◎礼拝説教 マタイ福音書 14:13-21                日本キリスト教会 上田教会
『パン5つと魚2匹』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:13 イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。15 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。16 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。17 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。18 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。20 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。21 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。      (マタイ福音書 14:13-21)
                                               

ガリラヤ湖のほとりです。洗礼者ヨハネの無残な死の知らせ(14:1-12)を聞いて、主イエスは人里離れたところに独りで退かれました。祈るためにです。何より、祈るためにこそ。ヨハネという名の、働きを終えた主の仕え人のために。救いを待ち望む人々のために。そして、そこからいよいよ本格的に始まってゆく御自身の働きのために。このときだけではなく、主イエスにとってもまた私たちにとっても、天の御父へと向かう祈りはなお続きます(13,23)。群衆が追いかけてきました。主は、彼らを見て深く憐れみました。弟子たちがそばに来て、主イエスにこう提案しました。「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」(15)。この提案は理にかなっています。ものの道理をわきまえた、とても理性的な大人の判断です。けれども主イエスは乱暴なことを命じます。「彼らが出かけて行くには及ばない。いいえ あなたがた自身の手で食物をやりなさい」(16節参照)と。
  人々を見て、主イエスが深く憐れむ。それは、このことです。たしかに《言葉の神》です。けれど、言葉だけの神ではなく、心の中にだけいるらしい神ではなく、ただ口先だけの神ではありません。現実に具体的に、生きて働かれる神です。素敵な教えを語り、立派な美しい言葉を聞かせるだけでは何の役にも立ちません。「思い悩むな」と主は確かにおっしゃいました。あのときも、着るもの食べるもの飲むものなどどうでもいいと冷淡に突き放したのではありませんでした。聖書の神を知らない外国人と同じに私たちクリスチャンも、誰でも皆、食べるもの着るもの住むところを必要とします。霞を食べて生きる仙人のような人間など一人もいません。「これらのものが皆あなたがたに必要なことを、天の父はご存知だ。何よりまず、神の国と神の義を求めよ。そうすれば、これらのものは皆、添えて与えられる」(マタイ6:33)。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4,申命記8:3)と確かに主はおっしゃいました。けれどあの時も、パンなど要らないと乱暴なことを言ったのではありません。神の口からの1つ1つの言葉とそしてパンと、その両方をもって人は生きるのです。神の言葉も朝昼晩の飢えを満たす食べ物も、その両方を私たちが必要とすることを主はよくよくご存知です。ですから、主イエスは彼らをそのまま放り出すことはしません。行かせることはない。この私自身が、私の弟子であるあなたがたに、彼らに食べ物を与えさせよう。
 19節です。主は天を仰いで、讃美の祈りを唱えました。パン5つと魚2匹を抱えて、主はそれらを掲げもちます。「これだけしかありません」と嘆くのではありません。その乏しさを「なんだ。これだけか」と軽蔑するのではなく、「これだけある」と感謝し、それらを大切に尊ぶ祝福でした。ここで主が祈った祈りは、どのような祈りだったのでしょうか。どのような感謝と祝福だったのでしょう。主イエスの、ここでのこの祈りこそが重要です。なぜなら、この祈りによって事態が決定的に180度の転換をしているからです。私たちがいつも祈る《主の祈り》。その中の一つの大事な願いは『私たちの日用の糧を今日も与えてください』です。私たちが生きるために必要なもの。高価なものも、ごくありふれてささやかに見えるものも、霊的なものも物質的なものも、大きなものから、ごくささいな、他人からはつまらないと思われる小さなものまで。それら一つ一つを、一日分ずつ、主であってくださる神こそが贈り与えてくださった。どうか今日も与えてください。主から与えられる必要な、十分な、そして豊かなものを、驚き喜んで、感謝して受け取ることができるようにさせてください。あのとき、あの弟子たちはとまどい思い悩み、不平不満を言い立てたくなりました。「金もパンも、私たちにはない。できるわけがない」と。主イエスは、私たちの乏しさや困窮を無視なさるわけではありません。そこにも目を留め、十分に分かっていてくださる。私たちの乏しさや貧しさをあわれんでくださる主です。例えば、家族の生活や子供たちの養育をどうしようか。どんなふうに育てていったらいいのか。病いに苦しむ大切な家族を、どんなふうに支え、どうやって慰め、どんなふうに寄り添って生きてゆくことができるだろう。その人に何を与え、何を取り除いてあげることができるだろうか。何を支えとし拠り所として生き抜いてゆくことができるだろう。私たちの健康。私たちの一日分ずつの生命。自分自身も一日また一日と年老いて衰えてゆくことに対して、この私たちはどんなふうに立ち向かってゆくことができるでしょう。詩篇の信仰者は祈ります。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。あしたに、あなたのいつくしみをもってわれらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください」と。私たちも祈ります。「彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です」(90:12,14,92:14-15)と。私たちが生きて死ぬまでの生涯の日の一日一日を、けれどどうやって数えることができるでしょう。もし万一、わたし自身の努力と働きと才能によって勝ち取ってきた日々だと誤解するなら、私はかなり数え間違っています。もし万一、若く健康で力にあふれている限りにおいて実を結び、年老いて白髪になれば後はただ枯れてゆくだけだと誤解するならば、私たちはすっかり数え間違っています。目の前にある目に見える事柄に一喜一憂し、恐れつづけ気に病みつづけ、山ほどある思い煩いの只中で、すっかり神を見失ってしまうでしょう。神さまが生きて働いておられますことなど、いつの間にか思いもしなくなるでしょう。それでは困ります。とてもとても困ります。神さまの御前に慎んで心安くひざまずくことができるなら、そこで私たちも、私自身の生涯の日を正しく数えはじめ、ついに知恵ある心を贈り与えられるでしょう。ヨソの学校や他の書物からは決して与えられないはずの、神ご自身からの知恵を。「主のあわれみと慈しみが、私の日々の一日ずつにあった。確かにあった」と数えはじめるでしょう。なぜ、白髪になってもなお実を結び、生き生きと命にあふれることなどできるでしょう。若者も倦み、疲れ、百戦練磨の勇士さえもが次々とつまずき倒れる中で、なぜ、その一握りの人々は新しい力を獲得し、鷲のように翼を張ってのぼることができるのでしょうか。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。それは根も葉もない絵空事にすぎなかったのでしょうか? それとも本当のことでしょうか (イザヤ40:30-31,46:3-4)
 19節です。主イエスの仕草は、あの最後の晩餐のときの主の仕草そのままです。イエスはパンを取り、天を仰いで祝福を御父に願い求め、パンを裂き、弟子たちもまた主イエスからのお指図そのままに、教えられたとおりに、パンを取り、天を仰いで祝福を御父に願い求め、兄弟姉妹たちに分け与え、同じく言います。主イエスがこうなさり、『取って食べなさい。これは私の体である』と仰った。『取って食べなさい。これは私の体である』。同じくまた杯を取り、感謝の祈りを唱えて、主イエスは弟子たちに渡し、弟子たちは渡されるままに、指図され教えられてきたとおりに、天を仰いで祝福を御父に願い求め、兄弟姉妹たちに手渡しつづけています。今までもこれからも。あの晩餐には、またそれにつづく聖餐式のパンと杯には、主の十字架の出来事こそが深く刻まれます。主はパンと魚を掲げ持ったように、十字架の上で、私たちのために、ご自身の体を掲げたのです。主は天を仰いで祈りを唱えました。感謝と、切なる願いの祈りをです。主はパンを裂くようにして、あの丘の上で、あの十字架の木の上で、私たちのために、ご自身の体を引き裂き、ご自身の血を流しつくしてくださいました。主はご覧になり、この世界と私共一人一人を憐れんでくださいました。
 私たちも健康を望みます。大きな良い仕事を成し遂げたいと願います。富も力も欲しい。みんなから「素晴らしい。さすがだ。あなたのおかげだ」と誉めてもらいたい。もちろん幸せになりたい。それでもほんの何年か若返る程度の健康や力では全然足りません。ちょっとやそっとの富や賞賛や支えでは、全然足りません。そうであるならば、私は健康も病気も、その両方を受け取りましょう。老いも衰えも、そのまま受け取りましょう。健やかなときも病める日々にも、弱り果てる日々にさえ、心安くありたいからです。富を受け取るだけでなく、貧困も貧しさも受け取りましょう。満ち足りて喜ぶ私でありたいからです。賞賛も侮辱も、そのまま受け取りましょう。人から誉められれば嬉しい。けなされれば悔しい。それでも何しろ「良い忠実な僕よ、よくやった。お前の名は天の御父の膝下に置かれた命の書に書き記されてある。あなたの名前をちゃんと書いておいた」(マタイ25:21,ルカ10:20)と、あの方から喜んでいただけるなら、とても嬉しい。虫が食ったり、さび付いたり、泥棒に盗まれたりしない宝でなければ役に立ちません。主イエスをこそ信じ、主イエスにだけ忠実に聴き従って生きていこうと決意なさった兄弟姉妹たち。朽ちることのない色褪せない宝でなければ、いざというとき使い物になりません。大雨が降り、川があふれ、やがて強い風も吹き荒れはじめます。私たちの乗った小さな小さな粗末な舟は大きな波に飲み込まれそうになるでしょう。手元にぜひとも残しておくべき道具や装備は、そう多くはありません。よくよく知っておくべきことは多くはありません。貧しく乏しい私たちであること。しかも、その貧しさ乏しさは、主によって豊かにされ、主によって満たされること。弱い私たちが主によってこそ心強く支えられること。信頼し、すべて一切を委ねるに値する主であられます。願い求め、待ち望むに足る神と私たちは出会っていたのです。主に相対し、主が私の右にいてくださり、夜も昼も私を諭し、私を励まし、私を慰めてくださるならば、そうであるなら、そこでようやくこんな私さえ揺らぐことがない(16:7-)と知りたいのです。骨身にしみて、腹の底から、分かりたいのです。
 私は願います。その一つの確信を、自分の妻と分かち合いたいと。その肝心要をこそ、大切な息子たち娘たちにも、ぜひ手渡してあげたいと。兄弟たちと、この一点を分かち合い、共々にそれを喜び祝いたい。だから私も祈ります。いつもの食事をする時にも、大切な仕事の前にも、友と語り合うときにも、夜眠るときにも、朝目覚めたときにも。「・・・・・・父なる神さま。あなたは生きて働いておられます。このパン5つと魚2匹も、あなたが恵みによって与えてくださったものでした。ありがとうございます。私たちを愛するあなたの愛によって、この豊かな贈り物を通して、私たちの心も体も養ってください。あなたからの贈り物は、まだまだ他にもあります。家族や隣人たちが、これらのパンと魚のように与えられていることに感謝します。私たちを憐れんでくださって、あなたの恵みのお計らいでした。職場や居場所や私の健康や一日ずつの生命を、これらのパンと魚のように贈り与えてくださって、本当にありがとうございます。どうか、ただ恵みによって支えてください。大事に受け取って、その喜びと確かさを魂に刻む私たちであらせてください。あなたから受け取りつつ、あなたによって養われ支えられて、そのようにして心強く、喜びにあふれて生きる私たちであらせてください」。
なにしろ、命と息とすべてのものの与え主である神(使徒17:25の御前に、晴れ晴れとしてひざまずく私たちでありたいのです。喜びと悲しみをもって、困難と願いをもって、感謝と信頼をもって、そこでそのまま主へと向かう私たちでありたいのです。「助けてください。支えてください」と主に向かって呼ばわる私たちでありたいのです。「ありがとうございます。感謝をいたします」と主に向かって喜び祝う私たちでありたい。私たちのための力と喜びの源は、ここにあります。飛びっきりの格別な祝福は、ここにあります。



2017年3月13日月曜日

3/12こども説教「どう祈るか?」ルカ11:1-2

 3/12 こども説教 ルカ11:1-2
 『どう祈るか?』
+上田駅前アピール『♪青くなって尻込みなさい』3/11

11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。       (ルカ福音書 11:1-2

 ケンちゃん。もう自分でお祈りができるようになったんでしょ。お祈りすることを、ケンちゃんは誰から教えてもらったかな。お母さんかな、それともお姉ちゃんたちからかな。主イエスの弟子たちは、もちろん、イエスさまから祈りを教えてもらいました。何を、どういうふうに祈るか。いいえ その前に、祈りを聞いてかなえてくださる神さまがどういう神さまなのか。どういう神さまをどんなふうに信じているのか。それが、一番大事なことです。そうやって、あのときに教えてもらったのが、いつも私たちが祈っている『主の祈り』です。
  『父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように』。なによりまず、神さまに向かって『父よ』と呼びかけています。おかしいですね。だって、神さまは神さまでしょ。私たち人間は人間にすぎません。神は神、人間はどこまで行っても人間にすぎません。血がつながっているわけでもなく、親子でも親戚でもない。それまでは誰も、神さまに向かって『父よ』なんて呼びかけませんでした。けれど、この時から神さまを『父よ』と呼んで、その父から『私の子供たちよ』と呼んでいただける、いままでになかったまったく新しい関係がはじまりました。「『父よ』と呼んでいいんですよ。神さまがあなたがたの本当のお父さんになってくださいましたから」と主イエスから教えられたこの時から、神さまにすっかり信頼して生きる生き方が始まりました。ものすごく心強くて、何が起きても平気。とても安心です。



         【補足/親に対する小さな子供の信頼】
         (*)ゲッセマネの園で、十字架前夜に、救い主イエスは小さな子供の心になって御父に願い求めていました、「アバ父よ」(マルコ14:36と。「アバ」とは、2~3才くらいの小さな子供が「父ちゃん。おっとう」と呼びかける幼児語です。そういう信頼。安心して何の遠慮も恐れもなく、愛し受け入れてくれている父親母親に、小さい子供の心で呼びかけています。それを受け止めて、ローマ手紙8:14-15すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と。天の御父へのそういう信頼を、私たちも贈り与えていただけます。それが、神からの約束です。






上田駅前アピール    (2017/3/11
『♪青くなって尻込みなさい』

大手町一丁目の、上田高校に登っていく途中にある日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。もう6年もたっちゃったんですね。あのとき斉藤和義が替え歌で語りかけたように、この国の政府が語ることの多くは嘘だったからです。しかもこの国の国民の大多数があまりに無責任な嘘八百が大好きな人々に成り下がっていこうとしています。原発事故はちっとも収束していないし、収束するというはっきりした見込みもメドもない。避難している人たち、避難できずに無理にも連れ戻されようとしている父さん母さん子供たち。原発施設で安く使い捨てられつづける下請けの下請けの下請けの労働者たち。沖縄の人々。無駄に人を殺したり殺されたりするため、これからも海外の紛争地域・戦闘地域に送り出されつづける自衛隊員たちとその家族のこと。駅前でこうやって語ってきた中身の一つ一つがボクを責め立て、苦しくて、心が壊れそうになりました。それで、駅前でのマイク活動を無期限休止にしました。だから今は本当は病気療養中みたいなもンです。それなのに悪い友達に騙されて、無理矢理ここに連れて来られました。しょうがないんで少しだけ喋ります――

♪ 青く~なって しりごみなさい。にげなさい かくれなさい。
 命はひとつ 人生は1回 だから 命をすてないようにネ
 安心安全、明るい未来。保証金もガッポリなどと言われるとネ
すべての原発とそこに住む地元のおじいちゃんおばあちゃん、父さん母さん、子供たち孫たちのことです。原発施設で安く使い捨てられ
つづける下請けの下請けの下請けの労働者たちのことです。
♪ 御国は俺達 死んだとて ずっと後まで 残りますヨネ
 見舞金9000万円と危険手当でお茶を濁されて終るだけ
 命の 部品交換は ありませんヨ
 青くなって しりごみなさい。にげなさい かくれなさい
南スーダンからの自衛隊の撤収を政府は昨日310日に決めました。けれど少しも安心などできません。「治安がどんどん悪化する一方で日常的に戦闘行為がなされているから、だから」ではなく 一定の成果をあげて一段落ついたから引き上げるだけだ、治安悪化と撤収とは何の関係もない、というのですから。すると、危ない紛争地域は世界中に他にいくらでもあって、これからも自衛隊員たちをどんどん何百人も送り出して戦争行為に参加させつづけるつもりだからです。歩みを振り返って反省することのできない国は、日本もアメリカも他のどの国も人々も、同じ過ちをいつまでもどこまでも繰り返しつづけます。無駄に使い捨てられようとする自衛隊員一人一人に、私たちと同じくかけがえのない家族と人生があるからです。犬死させられる自衛隊員の中に、自分たちの息子や娘や孫たちが入っていなければ、この私たちはそれで安心して高みの見物をしてていいんですか。家族も親戚も親しい友達の中の誰も『出稼ぎの戦争』に送り込まれなければ、それでいいんですか。自分たちとは関係ない他人事ですか。いいえ。子供や孫にも、後から来る新しい世代に対しても申し訳が立ちません。お詫びのしようもありません。
♪ 死んで 神様に なるはずもない。
 生きてバカだと いわれましょうヨネ
 嘘八百の でまかせ並べられても その命を すてないようにネ
 青くなって しりごみなさい。にげなさい かくれなさい
 黄色くなって しりごみなさい。にげなさい かくれなさい
真っ白くなって しりごみなさい。にげなさい かくれな~さい。                    (加川良『教訓Ⅰ』の替え歌)


(*)斉藤和義 『ずっと嘘だった
You Tube で、なんと6年たった今でも視聴可能。うわおっ。
びっくりです、彼は今も少しも変わっていない。斉藤~っ。

♪ この国を歩けば 原発が54基。
  教科書もCMも言ってたよ「安全です」
  俺たちを騙して 言い訳は「想定外」
  なつかしいあの頃 くすぐったい黒い雨
  
  ずっと嘘だったんだぜ
やっぱバレてしまったな
本当 嘘だったんだぜ
原子力は安全です
ずっと嘘だったんだぜ
ホウレン草喰いてえなあ
本当 嘘だったんだぜ
気づいてたろう この事態
風に舞う放射能は もう止められない。
何人が被爆すれば気がついてくれるの この国の政府。
この町を離れて うまい水みつけたかい?
教えてよ。やっぱいいや
もうどこにも逃げ場はない。

ずっとクソだったんだぜ。
T電もK電も、S電もH電も
もう夢ばかり見てないけど
ずっとクソだったんだぜ
それでも続けるつもりだ
本当 クソだったんだぜ。
何かがしたいこの気持ち、

ずっと嘘だったんだぜ、本当 クソだったんだぜェ。

3/12「洗礼者ヨハネ、退場」マタイ14:1-12

 ◎とりなしの祈り
 主なる神さま。あなたが恵み深く、憐れみあり、怒ること遅く、慈しみ豊かであられることを私たちは知らされ、また自分自身のこととして習い覚えさせられてきました。心から感謝をいたします。
  神さま。あの東日本震災から6年の年月が過ぎ去りました。311日だけではなく、いつもいつも、あの日から今日にいたるまで続いている大きな苦難を思い起こさせてください。その苦難と痛みの只中に置き去りにされようとするおびただしい数の人々がいるからです。ほんのわずかな人々がぜいたくで快適な暮らしを楽しんでいる一方で、多くの人々が毎日の暮らしや食事にも困るような貧しさにあえいでいます。生きるための基本的な権利をその人たちが奪い取られないように、どうか助けてください。しかも私たちは、しばしば気づかないフリをしています。自分自身と家族のことばかりに目を向け、その人々の心細く惨めな暮らしに目も心も塞いでいます。自分自身のように隣人を愛し、思いやり、尊び、それゆえ貧しくされ、惨めにされ、身を屈めさせられたその隣人たちに慈しみの手を差し伸べる私たちとならせてください。私たちはしばしば思うべき限度を超えて思い上がり、あまりに傲慢にふるまいました。まるで自分自身が主人であるかのように。神さま、まことに申し訳ありません。神がお造りになった、神ご自身の世界であり、神さまのものである私たちの一日ずつの生命であることを、ですから、この私たちにも深く魂に刻ませてください。あなたに信頼と感謝を十分に寄せ、心を尽くし精神をつくし力をつくしてただあなたにこそ聴き従い、そのようにして互いに慎んで生きることができますように。主よ、どうか私たちを憐れんでください。救い主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


              みことば/2017,3,12(受難節第2主日の礼拝)  102
◎礼拝説教 マタイ福音書 14:1-12                   日本キリスト教会 上田教会
『洗礼者ヨハネ、退場』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、2 家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。3 というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。4 すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。5 そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。6 さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、7 彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。8 すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。9 王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、10 人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。11 その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。12 それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。                 (マタイ福音書 14:1-12)
                                               




 洗礼者ヨハネの、心痛む退場についての報告です。3-12節。「というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。すなわち、ヨハネはヘロデに、『その女をめとるのは、よろしくない』と言ったからである。そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。すると彼女は母にそそのかされて、『バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます』と言った。王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した」。
  どんなによこしまで極悪非道な人間にも、ひとかけらの、ほんの小さな『良い心』が宿っています。エジプト王のパロにもです。決して許されないはずのとんでもない悪事をしでかしたダビデ王にもです。神に背きつづけたイスラエルの歴代の王たちにもです。みなさんにも、この私にも。そして、かの悪名高きヘロデ王にさえも。1節です。ヘロデは救い主イエスの噂を聞いて、ひどく恐ろしくなって縮みあがりました。彼は家来に言いました、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。とてもよこしまで腹黒いヘロデは、神を信じるあの人にこの自分が一体どんなひどい仕打ちをしてしまったのか、その一つ一つを思い出して、すっかり心が挫けてしまいました。彼の魂の中にある『小さな良い心』が、彼に語りかけます。あのヨハネという人が神を信じる心から「悪いことをしてはいけない」と戒めてくれたのに、けれどお前はそれをバカにして、フンと鼻でせせら笑い、とんでもなく悪い殺人を犯してしまったと。彼の魂の中にある『小さな良い心』はまた語りかけます、「あの彼を殺して葬ってしまっても、終わりのときの裁きの日にヨハネともう一度顔を合わせることになるだろう。そのとき、あの人に対して、お前はいったい何と言って詫びるつもりなのか。なんということをしてしまったのか。申し訳も立たず、お詫びのしようもないではないかと。その人自身の魂の中に宿っている小さな小さな『良い心』こそが、その人を朝も昼も晩も責め立てて止まないのです。生まれつき、たとえどんなに堕落し、絶望的なほどにもよこしまで性悪の人間であっても、神はなおその人自身の中にその人を見張る小さな番人を住まわせておられます。その人のものである、ひとかけらの小さな良い心を。それでもなお聖霊なる神さまの導きなしには、その良い心は貧しすぎ、弱々しい道案内にすぎず、だれをも罪と滅びの道から救うことができず、だれをも救い主キリストのもとへと連れ出すことができません。もし、神ご自身がご自分のもとへと引き寄せてくださるのでなければ(ヨハネ福音書 6:44参照)
  だからこそ伝道者と教師たちは、すべての人々の魂の中に『小さな良い心』が宿っていることを思い起こし、その『ひとかけらの小さな良い心』がやがていつか目覚めて働きはじめることを信じましょう。心を込めて精一杯に教えられたことであっても、その時には少しも実を結ばなかったかのように見える場合もあります。その時にはたとえ見向きもされなかったとしても、虚しく忘れ去られているように見える日々にも、それらがいつもいつも虚しく無意味だったとは限りません。語られ、また教えられた説教や学びが、その人々が墓に眠ったずっと後になってから再び起き上がることは有り得ます。あの洗礼者ヨハネの場合のように。たとえヘロデが認めなかったとしてもなお、それは正しかったのだと明らかにされる日々がきます。しかも主に仕えるその働き人たちの働きは、お百姓さんが畑に小さな小さな種粒をまくような仕事だからです。主イエスがおっしゃいました、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」(マルコ4:26-29
  また、憐れみを受けて神の子供とされた人々よ。神さまのために働き、神さまに仕え、神さまの御心にかなって生きようと精一杯に努めてきたことの報いを、この私たちは、いつ受け取るでしょうか。『私が生きているあいだに、この私の目の黒いうちに』などとあまり決めつけすぎてはなりません。この世界で、生きているうちに良い収穫にあずかることができる場合もあるでしょう。あるいは、そうではなく私たちが死んだそのずっとずっと後になってから、そこでようやく喜ばしい収穫と実りを受け取る場合もあったのです。こう願い求めましょう、「父なる神さま。どうか私が生きているうちに私の願いをかなえてください。遅くとも、あと7、8年くらいのうちに。できればもう少し早く4、5年くらいで。――けれど、私の願いどおりではなく、私の思いのままにでもなく、あなたの御心のままになさってください。あなたに信頼し、あなたの御心にすべて一切を委ねることのできる信仰を、この私にも与えてください」と。生きている間には、どんな素敵な報いも報酬も実りも与えられない場合もありえます。洗礼者ヨハネの場合をご覧ください。彼のごく短い働きの間、多くの者たちが目を見張るほどの仕事を成し遂げました。そして生涯の終わりには、あの彼にも、無残な死が待ち構えていました。「そら見たことか。神さまに仕えて、神の御心に従って生きることに、いったいどんな良いことがあるだろうか。苦しくて辛くて惨めなことばかりじゃないか」などと言う人々も大勢いるでしょう。まるで犯罪者のように牢獄に閉じ込められました。34歳になるかならないかというとき、突然に、暴力的な死によって幕が下ろされました。性的不品行を咎められた女性の、その激しい怒りと憎しみを買ってしまったからです。
  では、この私たちは、いったい何が望みでしょうか? 何がどうあれば、この私たちは満たされ、満足し、十分に神さまに感謝することができるでしょうか。「主よ主よ。あなたがご主人さまであり、私は主人に仕えるしもべです。けれど、あなたの願いどおりではなく、ただただこの私の心のままにさせてください。この私の心のままに、この私の心のままに」と、もし私たちがいつまでも強情を張りつづけるなら、私たちはどうなるでしょう? いいえ、決してそうであってはなりません。自分自身では心のかたくなさを脱ぎ捨てることは難しいですけれど、神になら、神に素直に従って生きる私たちとならせることができます。主よ。主の御心をこそ第一とし、精一杯に重んじ、あなたの御心にこそ従って生きる私たちとならせてください。ぜひ、この一つの願いを、私共のためにもかなえてください。聖書は証言します;「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者(きりゅうしゃ=外国から出稼ぎにきた労働者)であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」(ヘブル手紙11:13-16。信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜んだ。不思議ですね。「約束のものはまだ受けていなかったが」というのは、ていねいに申しますと「すっかり全部は受けていなかったが」という意味です。何一つまったく受け取っていなかったのなら、ただただ空約束のままでありつづけたのだったら、いったいどうして喜ぶことなどできるでしょう。十分な手付けを受け取っていました。あの彼らも、洗礼者ヨハネも、「今こそこのしもべを安らかに去らせてくださいます。私の目が今あなたの救いをこの目で見たのですから」と満ち足りたシメオンのように、ピスガの山の頂で約束の地をはるかに見渡させていただいたモーセのように、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と息を引き取った救い主イエスご自身のように、そしてもちろんこの私たちも(ルカ2:29,申命記34:1-4,ルカ23:46
 やがてしばらくして、救い主イエスはヨハネのことを群衆に語りました、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。・・・・・・預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」(マタイ11:7-11と。しかし天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。この主イエスの発言の意味を、今日こそこの私たちははっきりと知り、心に深々と刻むべきです。なぜなら彼の道備えを受けて、救い主イエスがこの地上に降り立ち、救いの御業を成し遂げ、罪のゆるしによる救いへと私ども罪人らを招き入れてくださったからです。救いに値しない、ふさわしくない者たちが、けれども神の憐れみを受けて、神の子供たちとされ、神の国へと迎え入れられたからです。新しい契約が、そのようにして確かに成し遂げられ、その同じ一つの道筋で、この私たちもまた迎え入れられ、神の子供たちとされ、神が王としてご支配なさる神の国に住んでいるからです。「新しい契約を立てる日が来る。・・・・・・すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ31:31-34とかつて預言者が告げたとおりのことが起こり、今や大きいも小さいもなく、豊かだとか貧しいとか賢いとか愚かだなどという区別も分け隔てもなく、小さい者も中くらいに小さい者もほどほどに小さい者たちもとても小さい者たちさえ皆、主を知るようになったからです。新しい契約がついにとうとう神と私たちとの間に結ばれ、救い主イエスが流し尽くした血潮と引き裂いたご自身の体によって結ばれ、その救いの契約の只中にこんな私たちさえもが据え置かれているからです。だからこそ、恵みにふさわしくない、弁えのまったく足りない罪人たちよ。私たち最も小さい者たちさえも、あの彼と同じ程度には大きい。なぜなら古いものは過ぎ去り、すべては神ご自身によってすっかり新しくされたからです。神の恵みのあまりの大きさのゆえに、もはや、たかだか人間同士で大きいも小さいも豊かだの貧しいだのもないからです。
これらすべてのことは、ただただ神の憐れみから出て、私たちに贈り与えられたからです。ただ恵みによって。なんという恵み、なんという幸いでしょう。




2017年3月6日月曜日

3/5こども説教「たった一つしかない良いものを」ルカ10:38-42

 3/5 こども説教 ルカ10:38-42
 『たった1つしかない良いものを』

10:38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。            (ルカ福音書 10:38-42

 ケンちゃんよ、ケンちゃんよ。主イエスには仲良しのともだちがたくさんいるんだけど、その日は、マルタさん、マリヤさん、ラザロくんという3人兄弟の家に来てくださいました。でも、遊びにきたんじゃないんだよ。神さまがどういう神さまで、どんな素敵なことをしてくださるのか。神さまを信じたら、どんなに嬉しく安心して暮らしていくことができるのかを教えてあげるために、そのために来ました。たまたまラザロくんは留守で、とても残念でした。
 せっかくわざわざイエスさまが来てくださって、姉さんのマルタはすごく嬉しく思いました。それでイエスさまに喜んでもらおうと精一杯におもてなしの用意をしました。部屋中をピカピカに掃除して、きれいに片付けて、お茶やお菓子の用意をして、おいしい料理もあれこれたくさん作って、それからそれから。がんばりすぎて働くうちにくたびれてくたびれて、へとへとになり、なんだかイライラして寂しくて悲しくてムシャクシャもしてきました(*)。だあって、誰も手伝ってくれないんです。「イエスさま、なんとも思わないんですか。私だけに働かせて。妹のマリヤに、こらあ手伝いしなさいって、厳しく叱りつけてやってください」。主イエスはおっしゃいました。「マルタよマルタよ、あなたは多くのことに心を配って、心がバラバラに引き裂かれて困っている。無くてならぬものは1つだけ。神さまの話をよく聞いて、分かって、神さまを信じて生きることですよ。あなたは他のいろいろを選んだけど、妹のマリヤはそのたった1つしかない良いものを選んだ。・・・・・・じゃあ、あなたも、(どうしてもと無理には勧めないけど)もし良かったら、そのたった1つしかない格別に良いものを選んだらいいじゃないか。どうだい?」


   【補足/マルタ病の治療指針】
(*)あの彼女は、とても重い病気にかかっていました。いろいろのもてなしのために忙しく立ち働いて、多くのことに思い悩み、心を乱し、心を引き裂かれてしまう。これを、『マルタ病』というのです。この病気は命にかかわります。急速に症状が悪化して、放って置くと死んでしまいます。この病気によって、『神さまがどんな神さまなのか。私たちをどれほど愛していてくださり、どんなに大切に扱ってくださるのか』が日に日に分からなくなります。信仰がみるみるやせ衰え、ついに喜びも慰めも希望も死に絶えてしまう。恐ろしいことです。あの骨惜しみしない善良な彼女は、主の慈しみの只中に生きるはずのあの彼女は、あやうく死んでしまうところでした。
 ですから、プンプン怒って主イエスのもとへ近寄っていったとき、彼女は、緊急遭難信号のSOSを発信し、助けを求めていたのです。ちょうど溺れそうな人がバタバタと水面を打ちたたくように。手足を無我夢中で振り回すようにして。主イエスは彼女のSOS信号に答えて、断固としておっしゃる、「必要なことはただ一つだけだ」42節)と。この猛烈に苦い薬だけがマルタを救う。この苦い薬だけが、マルタ病にかかったすべての人を救うことができる。飲みづらくても苦くても無理矢理にも飲み下して、そして主の足元に座り、耳を傾けること。詩127編です。『主ご自身が建て、守る。そうであるならば、その限りにおいて家は建ち、町は守られる』。神からのこの絶対条件を私たちがうっかり忘れてしまうとき、いとも簡単に、神の祈りの家であることも一個のキリスト者であることも崩れ去ってしまいます。一つのキリスト教会も、一人のクリスチャンの生涯も、一握りの家族も。その家庭の一日一日の営みも。


3/5「つまずく人々もいる」マタイ13:53-58,列王記上19:1-14

                       みことば/2017,3,5(受難節第1主日の礼拝)  101
◎礼拝説教 マタイ福音書 13:53-58,列王記上19:1-14    日本キリスト教会 上田教会
『つまずく人々もいる』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
13:53 イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。57 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。                                                    (マタイ福音書 13:53-58)
                                        


 主イエスはご自分の生まれ育った故郷で、昔から自分と家族たちのことをよく知っているはずの人々から、どうしたわけかとても奇妙な取り扱いを受けます。もちろん主イエスご自身はこれまで他の町や村で語り聞かせてきたとおりに、同じ一つの中身を、これまでと変わらず同じ口調で語りつづけています。そこらの律法学者たちのようにではなく、他のどんな権威ぶった人々のようにでもなく、本当に権威ある者として教えられた(ヨハネ7:46,マタイ7:28-29参照)そのままの口調で。けれど、生まれ故郷ナザレの人々には、主イエスの語るその言葉も語った内容も、まったく耳にも心にも届かず、何の役にも立ちませんでした。「この人はこの知恵とこれらの力ある業をどこで習ってきたのか」54節)と驚きはしても、けれど彼らの心は、ほんの少しも動かされませんでした。あの彼らは互いに首を傾げて言います、「おかしいなあ。あのヨセフとか言う大工の子じゃないか」。あの彼らは、「自分たちはよく知っているし分かっている」と思い込んで、だからイエスという人物をあなどり、軽く見ていました。主イエスの家族はとても貧乏で、十分な教育も受けていなかったのかも知れません。それで、「ああ。あの地域の、あの家族の子供か」などと。それは、この国でも、この地域でも大昔からあり、今もあり、今後ともありつづけるかも知れません。私たちの心の貧しさやよこしまさがそういう『差別する人々』と『差別されつづける人々』とを産み出しつづけます。ごく表面的に決めつけて人を見下したり差別や区別をしてしまうのは、あまりに恥ずかしい。神様にも人様に対しても申し訳のないことです。
  この私たちも、とても簡単に心が鈍くなってしまいやすいです。いつも目の前にあり、当たり前のことのように慣れ親しんでしまうと、神からの恵みの一つ一つを軽んじ、ないがしろに扱いはじめます。例えば、こんなことを思い浮かべたことがありますか。もし自分が主イエスの姿を目の前に見て、その言葉を聞いていたならば、あっという間に、とても信仰深い忠実な弟子になっていただろうにと。もし、洗礼者ヨハネが自分の目の前で、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」(マタイ3:7-10などと、厳しく、本気で語りかけてくれたならば、そうすれば、きっと私は直ちに心底から悔い改めていただろうにと。あるいは、主イエスや洗礼者ヨハネや他のごく有名な誰彼がたまたま自分の家の近所に住んでいて、本人やその親兄弟をよく知っていて、ずいぶん前からの付き合いで、その人々をよく知っていて、普段の暮らしぶりもよく見かけていたとしたなら、それなら、この私だっていつまでもどっちつかずの状態ではなく、半信半疑のままでなく身を入れて神を信じて暮らしていただろうにと。そうかも知れないし、そうではないかも知れない。ナザレの人々の振る舞いと腹の思いをよく観察してみてください。また実際には、救い主イエスは生まれ故郷のナザレでだけ敬われなかったのではありません。あの彼らのような人々は、どこにでもいるからです。どんな社会、どの時代にも。ヨソの国にも、この国にも。
  けれども主イエスを信じて生きることをしはじめた、主イエスの弟子たちよ。わたしたちは「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」ようにと習い覚えさせられ、実際そのように毎日の暮らしを積み重ねてきたのでしたね。見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのだからと。さまざまなことが身の回りで起きても、けれどなお落胆せず、たやすく揺さぶられもせずにいられる理由は、ただただそこにこそありました。「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(コリント手紙(2)4:16-18と。
  どうして、わたしたちは「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」ことができるのか。「見えないもの」と言いながら、まったく見えないわけではなく、薄ぼんやりとはしているとしてもよくよく目を凝らして見ると見えるからです。現にこれまでずっと見続けてきたからです。何を。神を信じて生きることの希望と喜びと慰めを。救いの実態を。神が、たしかに生きて働いておられますことを。しかも主なる神ご自身こそが、見えないはずのものと隠されているものをさえすっかり見抜いておられるお方だからです。聖書は証言しました;「顔形や身の丈をではなく、人の外側のあれこれをでもなく、主は心をこそ見る」(サムエル上16:7参照)と。ようやく思い出しました。例えば預言者エリヤも、危うくつまずきかけた人物でした。よくよく目を凝らして見ると見えるはずのものに目を凝らしつづけることに失敗し、「自分自身と周囲の人間たちのことばかりああでもないこうでもないと思い煩いつづけ、そのあまり神を思う暇がほんの少しもなくなってしまったあまりに生臭い俗物」に成り下がってしまうその寸前まで、あの彼も転げ落ちました。列王記上18, 19章は、1人の働き人の栄光と挫折を、そして挫折からの回復を物語ります。預言者エリヤは、他に並ぶ者がないほどの飛びぬけて偉大な働き人でした。あの彼こそ、ピカイチのナンバーワンでした。この直前の18章での彼は断固として立ち、自信にあふれ、得意の絶頂にありました。彼の国の王も王妃も、神ではないものを神として崇め、主の預言者たちを次々と殺しました。多くの人々もまた心をさまよわせました。山の上でエリヤはバアルに仕える450人の預言者たちにたった一人で立ち向かい、彼らを打ち破りました。さすがはエリヤ。「私こそは」と彼自身も思い、鼻高々でした。その偉大で立派で揺るぎないはずのあの彼が、どうして性悪の王妃イザベルが一言脅かしただけで、ブルブル恐れ、あわてて逃げ出したのでしょうか19:1-318章の偉大で勇敢な彼とはまったく別人のようです。でも別に、不思議でも何でもありません。私たち自身のいつもの醜態も含めて、そんなことは日常茶飯事。これが普通。得意満面で鼻高々だった者が、次の日には卑屈にいじけている。「大丈夫。何の心配もない」と自信たっぷりに太鼓判を押した者が、ほんの数時間後には「もうダメだ」と頭を抱えて絶望している。「大好きよ。死んでも離れないわ」と熱烈に愛しあった者たちが数日後には「もう顔も見たくない」とそっぽを向いている。エリヤは絶望し、なにもかも嫌になって死を願います。4節、「主よ、もはや十分です。いま私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」。先祖に勝る者ではない? あの彼は何を寝ぼけているのでしょう。まるで、ほんの少しも信仰のない人のような眼差しではありませんか。彼の得意と絶望の原因と中身が、ここにあります。今あの彼は、「自分は先祖に勝る者ではない。だから」と絶望しています。ほんの少し前には、「同世代の仲間たちや先輩や先祖たちよりも自分の方が多少は勝っている」と得意になっていました。やっぱりなあ。なるほど。そうであれば、鼻高々になることも、かと思うとてのひらを返したようにすぐに絶望してしまうことも、あまりに簡単。上がったり下がったり右に転がったり左に転がったり、吹く風のようにコロコロコロコロ移り変わってゆくのも、それは当然です。「救われたのは、ただ恵みによった」(エペソ2:4)と聖書に書いてあったじゃありませんか。臆病風に吹かれて逃げ出して、預言者エリヤが向かった先は神の山ホレブです。別名シナイ山とも呼ばれたこの山は、かつてモーセが神と出会った場所。よかった。彼は、ただ闇雲に逃げ出したのではなかったのです。すっかり絶望し、支えと拠り所を見失った彼は、改めて神ご自身と出会いたいと切望しました。神の語りかけを今こそぜひとも聞きたい、聞き届けたいと。失意の只中で、あの彼は神へと向かいます。ふたたび立ち上がるために、ふたたび揺るぎなく確固として歩き出すために。この私たちもそうです。ガッカリして失望するとき、弱り果てるとき、心を惑わせ希望も支えも見出せない日々に、けれどもそこで、帰ってゆける場所を私たちは持っています。そこで神に向かい、その悩みの只中で祈り求め、目を凝らし、神の語りかけを聞き届けたいと切望する――そこで神へと向かう。だから、私たちはキリスト者なのです。キリスト者であることの中身は、《そこで、なにしろ神へと向かう》ことの中にあり、キリスト者であることの慰めも希望も確かさも、《そこで神へと向かう》中でこそ差し出され、受け取られます。ホレブ山の洞窟前で、神とエリヤは同じ問答を2度繰り返しています。「ここで何をしているのか」と問う神。「わたしは主のために非常に熱心に働いてきました。人々はあなたとの契約を捨てました。ただわたし独りだけ残り、彼らはわたしの命も取ろうとしています」と答える彼。(1)すべてを知っておられる神がわざわざ問うとき、それは神ご自身のための質問ではなく、その人のための質問です。ぜひとも気づくべき根本の事柄が問われています。「ここで何をしているのか。何のつもりでここにいるのか」。どこにどう立っているのかを、あなたは気づいているのか。あなたが踏みしめているその足もとをよく見てみなさいと。(2)「わたし独りだけが」;これが彼の責任感であり、誇りでした。これまで彼を支えていたものが、けれど今、逆に彼を苦しめています。独りだけであることが今では彼の重荷となり、絶望の原因ともなっています。だって、『独りで背負っている。わたし独りで担っている』と勘違いしています。わたし独り。じゃあ、それならば、あなたの主である神はどこで何をしておられるのか。神こそが第一に先頭を切って働き、神こそが担い、背負ってくださっているのではなかったのか。主の語りかけを、彼は聞きます。山を裂くほどの大きな強い風。しかし、この中には神はおられない。次に地震。火。けれど、その中にも神はおられない。静かにささやくか細い声によってこそ、神さまは語りかけます(で、神は結局エリヤに何を告げたのか。それは、いつか別のときに詳しく語ります。19:15-18参照)

        ◇

マタイ13章の終わりの、なんとも恐ろしい言葉に、けれど私たちも目を留めねばなりません。58節、「そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった」。わざとしなかったというよりも、むしろ神である救い主ご自身にさえ難しかったし、力ある業をしようとしても出来なかったのです。彼らの不信仰に行く手を塞がれ、阻まれて。あの彼らの不信仰。神を信じて生きるはずの皆さん。天にも地にも、自分自身が不信仰であることのほかには、彼らの救いを妨げるものなど何一つありません。ほとんどすべての罪がゆるされるとしても、それでもなお、ただただ恵みと憐れみであるはずの神の救いからこぼれてしまう人々はいます。ほかの誰のせいでもなく ただ自分自身の不信仰のゆえに。天の御父の愛はすでにあの彼やこの私共を受け入れ、十字架の上で流し尽くされた主イエスの血潮はあの彼やこの私共をすっかり洗い清めようとして準備万端であるとしてもなお、聖霊なる神の力はあの彼やこの私共を新しく生まれさせようと待ち構えているとしても、それでもなお大きな隔ての壁が高く高く立ち塞がっています。神を信じようとしない心のかたくなさが(ヨハネ福音書 5:40参照)100数十年前に生きた一人の伝道者がこんなことを言いました、「神の子供たちが日毎によく祈り、日毎に神の御心に聴き従って生きることを邪魔するものは三つある。思い上がりと、この世のやり方やこの世の思いに深くまみれすぎていることと、そして神を信じる心が足りなすぎること。これら三つの中で一番タチが悪いのは、神を信じる心が足りなすぎることです」JC.ライル。聖公会=英国国教会の主教,1816 – 1900と。