2019年10月29日火曜日

10/27こども説教「魔術師との対決」使徒13:4-12


 10/27 こども説教 使徒行伝13:4-12
 『魔術師との対決』

13:4 ふたりは聖霊に送り出されて、セルキヤにくだり、そこから舟でクプロに渡った。5 そしてサラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言を宣べはじめた。彼らはヨハネを助け手として連れていた。6 島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、……この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロとを招いて、神の言を聞こうとした。8 ところが魔術師エルマ(彼の名は「魔術師」との意)は、総督を信仰からそらそうとして、しきりにふたりの邪魔をした。9 サウロ、またの名はパウロ、は聖霊に満たされ、彼をにらみつけて10 言った、「ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。11 見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ」。たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。12 総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた。   (使徒行伝13:4-12

 いま、ケンちゃんは生きています。かずきさんも、よしき君も、姉さんたちも。お父さんお母さん、家で留守番をしているおじいちゃんも、学校の友達皆も生きていて、それぞれ働いたり、勉強したり遊んだり。でもね、それだけではなく、神さまも生きて働いておられます。本当ですよ。
 主イエスの弟子たちは人々によってではなく、神ご自身によって送り出されて、神の国の福音を宣べ伝える働きをしつづけています。あの時も、今もこれからも。神ご自身が送り出したからには、その働きの間中、彼らの働きは神ご自身によって守られ、支えられつづけます。サウロが魔術師と対決して打ち負かすことができたのも、神ご自身が彼のためにも働いてくださっているからです。9-11節、「サウロ、またの名はパウロ、は聖霊に満たされ、彼をにらみつけて言った、『ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ』」。その通りになりました。神さまが私たちをご自分のほうへと引き寄せ、また御心にかなって歩ませようとする道や手段を、それは『主の道。しかも、主のまっすぐな道』10節)だと聖書は語ります。道が曲がりくねって凸凹で、狭くて、とても歩きにくいと感じる人々がいます。なぜかと言うと、サタンが邪魔をして、そのように見せています。けれど、その道は本当はまっすぐで、広々していて平らで、とても歩きやすいのです。なぜなら、主に従って歩く道だからです(「♪主に従うことは」;こども讃美歌53番,讃美歌21-507番)。心が晴れ晴れして、力が湧いてくる道です。うれしい気持ちになって、他の人たちといっしょに歩くこともできる道です。ビクビクして怖がっていた人も、安心して主に従って進む道を歩いてゆくことができます。



10/27「12人の弟子を送り出す」ルカ9:1-6


                       みことば/2019,10,27(主日礼拝)  238
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:1-6                       日本キリスト教会 上田教会
『12人の弟子を送り出す』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
9:1 それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。2 また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして3 言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。4 また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。5 だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。6 弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。      (ルカ福音書 9:1-6)

  主イエスによって選び出された弟子たちであり、またその同じ主によって町々村々へとこの私たちも主イエスの弟子たちとして送り出されてゆきます。神の国の福音を宣べ伝えさせるために弟子たちを遣わす一番最初の報告です。選び出された12人の中には、やがて主イエスを裏切るイスカリオテのユダが混じっていました。しかもユダだけではなく、あの十字架前夜には弟子たち皆が一人残らず主イエスを裏切って、主イエスを置き去りにして逃げ出してしまった。神の民とされたイスラエル12部族を象徴し、代表して、12人の使徒である。その光栄と誇らしさと共に、なおかつ罪人であり、共々に主イエスを裏切ってしまう限界ある不十分な者たちでもある。このことが大切です。最後の晩餐のときにも、「わたしを裏切る者がわたしと一緒に食卓に手を置いている」と告げられて、「主イエスを裏切る者。まさか、それは私のことでは」とあの12人も私たち一人一人も自分自身の不確かさと危うさとを恐れなければなりません(ルカ22:23参照)。その恐れと心の痛みこそが、私たちにへりくだった心の低さと慎みとを与えつづけるからです。逆に、「いいや、この私こそが主に対して忠実であり、よく働いている」という思い上がりこそが、私たちを主に背かせようとする罪と邪悪さのとても手強い根でありつづけるからです。
  1-2節で、「すべての悪霊を制し、病気を癒す力と権威を授け、神の国を宣べ伝え、病気をなおすために」町や村へと遣わされたと報告されえています。病気を治したり、悪霊を制するという奇跡的な力や権威など、今日の私たちにはちっとも与えられていないかのように見えます。そうかもしれません。「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい。どんな大変な病気でも治るから、だからぜひ教会に来てみなさい」などと人を招くことを私たちはしません。それでもなおこの約束と権威のもとに私たちは町や村、それぞれの社会の中へと送り出されて、主イエスからの使命と働きを担って生きていきます。教師たち、伝道者が、というだけでなく、すべてのクリスチャンがです。神の国の福音を宣べ伝え、あるいは重い病人や死にそうな人の傍らでいっしょに時を過ごし、「主よ、もしあなたの御心でしたら、病いから回復させてください」と心を合わせて祈ることもします。辛く苦しい病いを抱えて、なお忍耐しなければならない場合もあるからです。そして共々に、私たちは、病人たちの痛みも不自由さも悩みや辛さも、主なる神さまにこそお委ねいたします。
『天国、あるいは神の国』とは、神さまが生きて働いてくださり、その所に確かに力を発揮し、神ご自身こそが力と支配を及ぼしてくださるということです。神であられる救い主イエス・キリストがこの地上に降りてこられ、その方ご自身によって福音が告げ知らされ、主イエスの福音を信じて生きるものが一人また一人と起こされました。しかも、主イエスの福音の使者である私たちがこの町に来たのは、またそのそれぞれの家族の只中へと送り出されてきたのは、そのパートタイムのいつもの職場へと主のもとから送り出されてきたのは、やがて主イエスご自身がその町へ、その一軒の家へ、そのいつもの職場へも来てくださるというしるしであり、先触れです。救い主がやがてご自分で行こうとしている所へ、ご自身に先立って、私たちは送り出されたのです。『神の国は近づいた』という告知と『この家に平安があるように』という祈りとは一組です。主イエスの弟子である私たちは、その一軒の家に、その一つの職場に、その町やその土地に平和があるためにこそ、主のもとから送り出されました。神さまからの平和の使者として。しかも、その家にもその町にも誰一人も平和を受け取ろうとする人が見当たらない場合もありえます。それでもほんの少しも困らない、というのです。神からの平和に誰もふさわしくなく、誰一人も受け取ろうとしない場合、そのとき祈り求めた平和はあなた自身のところに戻ってくる。戻ってきて、あなた自身の魂の内に一つ、また一つと蓄えられ、積み重ねられてゆくと。
 あるとき、そこに、軽々しく他者を裁いてしまっているあなたがいます。あるとき、そこに、自分の思い通りに相手を従わせようとして、「どうしてそうなのか」と責め立てているあなたがいます。あるとき、そこに、惨めに身をかがめて言いなりにされてゆくあなたがいます。「許せない」と腹を立ててプンプン怒りつづけるあなたがいます。「どうして分かってくれないのか」と、すっかり失望してしまっているあなたがいます。「わたしは。わたしは」と我を張って私を主とすることを止め、「だって、あの人がこう言う。この人がこうしろと言うから」と言いなりにされつづけて周りの人やモノをご主人様とすることを止めにしたいのです。主をこそ主とし、右にも左にもそれることなく心強く生き抜いてゆく私たちとなりたい。兄弟姉妹たち。あなたの家にあるべき平和は、主イエスによる平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。レタス畑のある、外国からの出稼ぎ労働者たちが安く過酷に働かされつづけているあなたの小さな村や、あなたの職場にあるべき平和は、主による平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。その一人の人とあなたとの間にぜひとも回復されるべき平和は、建て上げられてゆくべき平和は、もちろん主による平和であり、主イエスご自身が勝ち取ってくださった平和です。この私たちが『平和と和解の使者』とされるとして、どういうふうにそれを成し遂げてゆけるでしょう。そのやり方は、コリント手紙(2)5:18-21。これは、よくよく覚えて身につけなければなりません。「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである」。神さまがキリストを通して私たちをご自分と和解させてくださった。罪の責任を私たちに負わせることなく、それを確かに成し遂げてくださった。これが、平和と和解の流儀です。していただいたとおりに、私たちもその同じやり方と流儀で働きます。
 町や村へとそれぞれに遣わされながら、あの弟子たちは、いったい何をしているのでしょう。主イエスの福音を伝え、イエスの弟子とする。神の国を宣べ伝える。あるいは、いつも私たちが言っているように、『伝道している』と言い換えてもよいでしょう。初めに、救い主イエスご自身が仰っていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。また、「1人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の、自分は正しいと思い込んでいる人たちに対してよりも、はるかに大きな喜びが天にある」と。罪深い、あまりに自己中心の身勝手な者であっても、なおその1人の人が神へと立ち返って生きるなら、それを大喜びに喜んでくださる神さまであったのです(マルコ1:15,ルカ15:7,10,24,32,エゼキエル18:23,31-32。悔い改め。それは向きを変えることです。目の前の楽しいことや嫌なこと、嬉しいことや辛いこと、自分がしてほしいこと、ほしくないことなど心を奪われ、一喜一憂して生きてきた者たちが、自分自身の腹の思いばかりに目を奪われていた者たちが、180度グルリと向きを変え、神さまへと思いを向け返して生きること。そのために、この私たちも主イエスの弟子とされました。
 3-4節。「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい」。主イエスはご自身の弟子である私たちを送り出すにあたって、慎ましく暮らすように、また与えられ、許されて持っているもので満足しているようにと指図なさいます。何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。これがすべての伝道者の基本の心得であり、すべてのクリスチャンの心得でもあります。もし迎え入れられて、どこかの家に入ったら、そこに慎ましく留まっていなさい。乏しく、心細く、ひどく無防備な手ぶら状態で送り出されたことの意味があるでしょう。何かをしようとするたびに弟子たちは障害にぶつかり、困り果て、がっかりして頭を抱えます。周囲の人々にも頼り、もちろん神ご自身に必死に助けと支えを懇願しつづける日々です。実地訓練の最大の目的と意味はここにあったでしょう。神を信じて生きる信仰の、基本の基本をしっかりと身に着けるための、第一回目の伝道実習訓練です。お聞きください。あの12人の実習生たちにとっても私たち一人一人にとっても、ぜひとも身に着けるべき基本は、「神さまにこそ必要なだけ十分に、よくよく信頼を寄せること。その御意思に服従して、どこで何をしていても、そこでそのようにして神さまにお仕えしていると分かっていること。年老いた親の介護をしていても、子供たちを養い育てていても、パートタイムでスーパーマーケットのいつもの職場でお客様相手に同僚の仲間たちと働いていても、そこでそのようにして神さまにお仕えしている。だから、一つ一つ神さまの御心にかなって働くことを願いながら神さまにお仕えします。どんな困難や恐れや心細さや悩みの只中にあっても、助けてくださいと神にこそ呼ばわって、救いとすべての幸いはただ神さまからこそ出ることを知り、それを心でも口でも認めること」(「ジュネーブ信仰問答」問7参照。1545年)です。そのために、「何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。また、どこかの家にはいったら、そこに留まっていなさい」と、乏しく、心細く、ひどく無防備な手ぶら状態で送り出されました。神によく信頼して生きる腹のすえ方を、あなたも私も、よくよく習い覚えるようにと。
  5-6節にも目を向けましょう。「『だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい』。弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした」。もしかしたら、私たちはまったく迎え入れられず、見向きもされず、語りかける言葉に耳を傾けてももらえない場合もありうる。それでも良いのだと教えられています。ちっとも構わないし、何の不都合もないのだと励まされます。そのとき、足のちりを払い落として、晴れ晴れとしてその家や町を出てきなさいと。しかも、約束された言葉を私たちははっきりと覚えています。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:18-。主イエスの弟子である私たちは町や村へと遣わされつづけていきます。それぞれのいつもの職場へ。家庭へ、家族や友人たちの只中へと。神の御前で、神さまに向かって生きる者たちが、その活動の中で一人また一人と生み出されていきます。悔い改めて、福音を信じる。神さまに背を向けて生きていた者たちがグルリと180度向きを変えて、神さまに向かって、神さまの御前に据え置かれて、そこで精一杯に生きはじめる。その、まったく新しい『方向転換』は、いつどこで、誰から始まるでしょう。私たちのための救いの時は、いつ満たされるでしょう。あなたの夫や息子たち娘たち、孫たち、大切な友人たちは、あなた自身は、いつ、どこで、どんなふうに180度グルリと向きを変え始め、神さまからの祝福と幸いを受け取りはじめるでしょうか。――主なる神さまへと思いを向け返すあなたを、まざまざと目の前に見たときに。悩みや辛さの只中で、「けれど私の願い通りではなく、私や他の誰彼の気分や好き嫌いや腹の虫に従ってではなく、そんなことにはお構いなしに、ただただ、あなたの御心のままになさってください」と願い求める1人のクリスチャンの生き様にふれたときに。そこで、そのようにして、神さまへと向かうあなた自身やこの私を見たときに。
 私たちの労苦は、そう簡単には良い実を結ばないかも知れません。「ああ。やっぱり無駄だったか。何の役に立つのだろう」とがっかりする日々がつづくかも知れません。けれど思い出してください。主イエスがよくよく指図を与え、「皆が皆、すぐに簡単に神の国の福音を信じるわけではない。拒まれることもあり、嫌な顔をされたり、押しのけられたりもするだろう」と言い含められて、そのように最前線に送り出したあの最初の働き人たちの姿を。すぐに諦めたりせず、あなたも忍耐深く働きなさい。弱り果てずに、良い種をまきつづけなさい。私たちはそれぞれに土を耕し、雑草をむしり、水をまき、土に肥料を与え、しかも、それだけではなく神ご自身が成長させ、実を結ばせてくださる。聖霊なる神さまだけが、その種に生命の息吹を吹き込んでくださる。主イエスは、私たちそれぞれの心の中に何があるのかをよくよく御存知です。もし、私たちが撒いた種がほんのわずかしか実を結ばなかったとしても、それでもなお主イエスは、その一つ一つの働きや労苦を決して軽んじたり見下したりはなさいません。なぜなら、「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくる」からです。主の口から出る主ご自身の言葉も私たち一人一人も、主のもとに虚しく帰ることはありません。主の御もとに帰るそのときまで、主なる神さまの喜ぶところのことを願い求め、精一杯になし、主が命じ送ったことを必ずきっと果たします(詩篇126:5-6、イザヤ書55:10-11参照)。主ご自身からの約束だからです。


2019年10月20日日曜日

10/20こども説教「主の働き人を送り出す」使徒13:1-4


 10/20 こども説教 使徒行伝13:1-4
  『主の働き人を送り出す』

13:1 さて、アンテオケにある教 会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。2 一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。3 そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。4 ふたりは聖霊に送り出されて、セルキヤにくだり、そこから舟でクプロに渡った。                   (使徒行伝13:1-4

 神さまは本当にいるんだよ。ただ居るだけじゃなく、大切な良い仕事をしつづけている。人を助けてくれたり、その人が良い働きができるように手助けしてくれたり、悪いことをしないように叱ったりなだめたりしてくれたり。御自分で作った世界と生き物たちを守り続けておられるんだよ。本当に。
 2-4節、「一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。ふたりは聖霊に送り出されて、セルキヤにくだり、そこから舟でクプロに渡った」。聖霊である神さまが、二人を仕事に当たらせなさい」と命令しました。神さまが2人にさせようと決めておられた仕事をです。そこで皆は祈って、手を二人の上に置いて、そうして彼らを送り出しました。「バルナバとパウロはあの彼らによって送り出されたのだ」と思っていたら、4節で、「ふたりは聖霊に送り出されて」と書いてあります。あ、そうだったのか。神さまご自身があの二人を送り出してくださいました。神さまが送り出したし、それだけではなく、どこに行っても、誰と何をしていても、彼らは神さまにこそ助けられて働きつづけます。神さまを信じて生きるようになった私たち一人一人もまったく同じです。「神さまの御心にかなうように働けますように。そうではないことは、しないでいられますように」と願いながら毎日毎日を暮らすようになります。そのように、私たちのご主人さまである神さまは、私たちを自分の手足のように使いながら、そうやって確かに、生きて働きつづけます。


10/20「出血の病の女性を癒す」ルカ8:43-48


                       みことば/2019,10,20(主日礼拝)  237
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:43-48                        日本キリスト教会 上田教会
『出血の病の女性を癒す』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

8:43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。(ルカ福音書 8:43-48)
 43-44節。この1人の女性には、長い長い苦しみの日々がありました。12年間も。気の遠くなるような、うんざりして、すっかり心が挫けてしまっても不思議ではないほどの、長い長い時間です。
 「医者のために自分の身代をみな使い果たしてしまった」と報告されています。さまざまな治療を試み、たくさんの医者にかかり、けれどもその結果はむなしいものでした。今日でもさまざまな社会や場所で、救いや平安を求めながら、けれど途方に暮れ、打ちひしがれて心細く暮らす人々が大勢います。どこに救いや助けを求めて良いか分からずに。その彼らもまた間違った解決策にすがり、「少しも良くならない。かえって、ますます悪くなった」とため息をつくかも知れません。さまざまな宗教を頼みにして渡り歩く人々もいます。人間が勝手に作り出した怪しげな救いに騙される人々もたくさんい続けます。そして、何の役にも立たなかったと。「どこにも何の希望も見いだせない。誰にも助けてもらえないだろう」と打ちのめされ、がっかりしています。「探しさえすれば必ずきっと見つけ出せるのに」と聖書は語りかけます。あの彼らが救いと解放を求めてコンコンとノックしてみなかった、ただ一つのドアがあります。尋ねてみなかった、ただお独りのとても良い医者がいます。あの彼女は、けれどとうとう辿り着きました。他すべての医者を試した後で、とうとう救い主イエスのもとに来てみました。他の大勢の人々も、あの彼女と同じようにしてみればいいのに。
そうした悩みの日々に、あの彼女は、主イエスのことを耳にしました。群衆の中に紛れ込み、後ろからそっとイエスの服に触れました。「この方の服の房にでも触れれば癒していただける」と思ったからです。そして癒されました。けれどもどうして、群衆に紛れて、なぜ後ろからそっと触れ、そのまま立ち去ろうとしたのでしょうか。出血を伴う病気は、当時のこの社会の中では『汚れたもの』とされ、その人自身も、その人の寝床も、衣服も手にもつ小物や袋もなにもかも皆、『汚れたもの』と見なされました(レビ記15:25-参照)。その人は行動をきびしく制限され、「人前に出ることを極力慎むように、自宅周辺で、ただ独りで安静にしているように」と命じられました。そうでなければ、うっかり触れてしまった相手に迷惑をかけてしまうからと。神さまに対しても周囲の世間様や人様に対してもふさわしくない私、癒されるに値しない私だからと、この人は身を慎んで、陰に隠れて暮らしてきました。ですから、禁じられている集団の中にひそかに紛れ込んだとき、この人は、恐ろしさと申し訳なさと心細さで、身の縮む思いがしたでしょう。「見つかったら、なんと責められるだろうか。いったいどれほどきびしく非難されるだろう」と気が気ではなかった。けれどその一方で、この一人の女性は信じたのです。このお独りの方こそが、私を癒してくださる。ここに私の救いがある。このお独りの方からの救いを、誰に叱られても何を言われても、私はぜひ受け取りたい。ぜひ何としてでも受け取ろう。掴み取ろう。
  たとえ主イエスの衣の房にでも、後ろからでも、触れさえすれば癒される、と彼女は思いました。恐る恐る、そお~っと手を伸ばしました。「素朴な、単純すぎる信仰だ」などと侮って、見下してはなりません。「主イエスとこの信仰のことを、どの程度に知っていたのか。十分に分かったうえで、それをしたのか」などと、品定めしてはなりません。あなたも私も、他の誰も、審査委員でも試験官でもありません。48節をご覧ください。主イエスご自身こそが、はっきりと太鼓判を押しておられます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。主イエスの言葉を、そのまま文字通りに、額面通りに受け取りましょう。たじろぎ、何をされるかと恐れながら、けれどもこの一人の人は主イエスへと手を伸ばしました。彼女の信仰は、主へと手を伸ばし、主へと向かう信仰です。悩みがあり、とても抱えきれない困難があり、重すぎる課題があります。それらを抱えて、あの一人の人は、そこで、そのようにして主イエスへと向かいました。ただ信じて。主イエスは、この人の在り方をつくづくと見て、こう仰います。「よし。それだ。それでいい」と。私の抱えたこの問題、この困難は、主イエスの御前に持ち出すにはふさわしくない。主にふさわしくない私、値しない私だ。帰ろう。いつかそのうち都合がついて準備がだいたくい整ったら出直そう、諦めよう。けれども救い主イエスは、その人を迎え入れるためにすでに準備万端だったのです。いつでも来なさい。とにかく来なさい。まずあのことこのことと後回しにし、二の次三の次にしつづけるのではなくて、いっそ今すぐに来たらどうなんだと。恐れや不安や、一見慎ましそうに見える遠慮に惑わされてはなりません。あのことこのこと、あの人たちこの人たちに目を奪われすぎて、あなたは主を見失ってはなりません。私たちは、主イエスに近づいてゆくことを断念してはならないのです。あなたに触れようとして、ぜひあなたと出会おうとして、あなたのためにも、すでに主イエスは準備万端でありつづけます。
  私たち人間への神さまからの招きは、あなどられ、軽んじられ、誤解されつづけます。「さあ渇いている者は皆、水に来たれ」「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい(イザヤ書55:1,マタイ福音書11:28-。そこで、いったい何が語りかけられていたでしょう。神さまはどんな神さまで、この私たちのために、何を願ってくださっているでしょう。格別なおいしい水を、どの旅人にも飲ませてあげたいのです。ただで。担いきれない重荷を下ろさせ、休ませてあげたいのです。何の交換条件もなしに。それだけです。けれど無理矢理にはできませんし、無理矢理にはしたくはない。しかもそれは、仕事でも義務でも責任でもありません。ただただ恵みの贈り物であったので、双方合意のうえでのやりとりだからです。「あげますよ。はいどうぞ」「ありがとう」と。ですから、せっかく格別な井戸の水の傍らまで連れてこられても、「もしチャンスがあれば、いずれそのうちに」などと言いつつ飲もうとしない者たちが大勢おり、つまらなそうにうさんくさそうに通り過ぎてゆく者たちがたくさんいます。「重荷を降ろしたらどうです」と誘われても、「いいえ、間に合っています」などと。もちろん分け隔てをなさらない神さまです。線引きをし、分け隔てをしつづけているのは、もっぱら私たち人間たちではありませんか。招かれる者は多い。けれど、「それじゃあ」と実際に水を飲む者は少ない。重荷を下ろす者たちは、とてもとても少ない。
  45-48節。「イエスは言われた、『わたしにさわったのは、だれか』。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが『先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです』と答えた。しかしイエスは言われた、『だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ』。女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。そこでイエスが女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」。なぜ主は、わざわざ振り向いて「触ったのは誰か」と問いかけ、その人を探しつづけ、とうとうこの人を見つけて、この人に『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』とわざわざ声をかけるのでしょう。彼女自身のために、この語りかけをこの人にぜひとも聞き分けてもらう必要があるからです。なお救われつづけて、この人が安心して毎日毎日を生きるためにです。この一人の女性にも、私たち一人一人にもやはり主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。だから、安心して行きなさい」とおっしゃいます。それは、むしろ「信じるあなたとしてあげよう」という主の約束です。「きっと信じるあなたとする。私が、する。そうすれば、あなたはしっかりすることもできる」という主の決断であり、主イエスを信じて生きることへの招きであり、断固たる宣言です。ですから信仰は、『信じるあなたとしてあげよう』という主イエスへの屈服であり、「参りました。よろしくお願いします」という同意です。疑いながら、迷いながら、けれど私たちは信じました。ここに私たちの救いがあります。この方からの救いを、私はぜひ受け取りたい。ぜひ何としても受け取ろう。掴み取ろう。喜びの日に、その喜びをもって主へと向かう信仰です。それだけでなく悩みと苦しみの日にも、その崖っぷちの日々にこそ、その悩みと苦しみをもって主イエスへと向かう信仰です。主イエスを信じたあなたであり、私です。信じたことは積み重なり、深まっていきます。主と出会いつづけ、主を知りつづける中で、ますます色濃く、ますます深くはっきりと魂に刻み込まれていきます。さまざまなものを恐れていた私です。震えて身をすくませていた私です。不思議なことに、今、主の御前に据え置かれている私たちには恐れはありません。しかも兄弟たち、主の御前ではないどこか他の別の場所などどこにもなかったのです。主の力が及ばない他の別の場所など、どこにもなかったのです。出血の病いに長く苦しみつづけて、主イエスと出会い、とうとう助けていただいた一人の女性。「これは私のことだと、つくづく思いました。本当に嬉しかった」と、ずいぶん前に一人の人が語っていました。「ああ、本当にそうだねえ」と喜び合いました。苦しんでいた長い時間があり、私の失望と落胆があり、願い求めた素朴な期待があり、ついに、とうとう主イエスと出会いました。ですから渋々でも恐れながらでも、他の誰が言っても言わなくても、なにしろ私は言いましょう。「はい、私です。私こそが主の衣のすそに触れました」と。「主イエスと出会いました。その出会いを一つまた一つと積み重ねてきました。主によって支えられ、主によって慰められ、心強く励まされてきた私です。確かにそのとおりです。救い主イエスを信じる信仰こそが私を救いました。この私を、どんな困難や悩みや恐れからも救い出しつづけます。この救い主からこそ、私のためのすべての助けと格別な良いものが贈り与えられつづけます。ですから貧しく身を屈めさせらるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。恐れと心細さに飲み込まれそうになるとき、ガッカリし、疲れ果てて、心がすっかり挫けそうになるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。「一体どうしたらいいんだろう。誰が私を助けてくれるんだろうか」と途方に暮れるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。恨みや憎しみに身を焦がすとき、苛立つとき、踏みにじられ傷つけられるとき、人を傷つけてしまったとき、激しく怒るとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。もちろん、恐れることは度々ありました。心を曇らせ、すっかり嫌気がさし、とても心細いときがありました。今も度々そうです。けれど主へと向き直る度毎に、それは取り払われました。そこで、主と出会いました。主との出会いを、この私たちもまた、一つまた一つと大切に積み重ね、つくづくと噛みしめてきました。

              ◇

だからこそ、私たちはここにいます。それは、まったく恵みであり、自由な贈り物でした。まったくの恵み。だからこそそれは、この私が何者であるのかをもはや問いません。この恵みとゆるしのもとに据え置かれて、私たちはもう互いに、大きいだの小さいだの、貧しいだの豊かだの強いだの弱いだの、見苦しいだの見劣りがするだのと見比べ合うことをしなくてよいのです。それら一切は、取るに足りない、あまりにささいなこととされました。それよりも千倍も万倍も大切なことがあるからです。私たちの主なる神さまは生きて働いておられます。私たちの主は、私たちを愛してくださり、私たちのためにも十分に、十二分に、強く豊かであってくださいます。
だからこそ、たとえ私が弱くても、私には恐れはありません。私が貧しくても、小さくても愚かであるとしても、ひどく不確かであっても、何の不足もありません(讃美歌461番,詩23:1-427:1-6参照)。この私がたとえ若く未熟であっても、世間の道理をわきまえずあまりにモノを知らなくても、私が年老いていても、弱り果て、今はまだ心を挫けさせているとしても、それでもなお、私たちには一つの確信があります。救い主イエスに対する確信です。この主に私たち自身の一切をゆだねることができる、という確信です。ゆだねるに足るお独りの方と出会った、という確信です。


天と地とその中に満ちるすべて一切の造り主であられる神さま。
世界と隣人と私たち自身の平和を思うための季節を過ごしています。「私の平和を残していく」と御子であられる救い主イエスが約束なさったからです。長野県とこの近隣地域も含めて、各地で自然災害の甚大な被害を受け続けています。そのため心細く不自由に暮らす人々、亡くなった方々の遺族を慰め、支えて下さい。救助と支援にあたる人たちの安全をお守りください。路上生活を余儀なくされたホームレスの数多くの人々もまた、邪魔者扱いされることも不当に排除されることもなく、一日ずつを生き延びて、心安らかに暮らすことができますように。
また私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。どうか神さまご自身の恵み、憐み、平和を私たちに思い起こさせてください。私たちの出会いを通して悲しみの中に慰めを、痛みの中に癒しを、 疑いの中にあなたへの信仰を、主よ豊かに注ぎ込んでください。私たちを新たにし、 あなたの示される解放と平和への道を歩む者としてください。
神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。

主イエスのお名前によって祈ります。  アーメン

2019年10月15日火曜日

10/13こども説教「神に栄光を帰すこと」使徒12:19-25


 10/13  こども説教 使徒行伝12:19-25
 『神に栄光を帰すこと』

12:19 ヘロデはペテロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り 調べたうえ、彼らを死刑に処するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤにくだって行って、そこに滞在した。20 さて、ツロとシドンとの人々は、ヘロデの怒りに触れていたので、一同うちそろって王をおとずれ、王の侍従官ブラストに取りいって、和解かたを依頼した。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。21 定められた日に、ヘロデは王服をまとって王座にすわり、彼らにむかって演説をした。22 集まった人々は、「これは神の声だ、人間の声ではない」と叫びつづけた。23 するとたちまち、主の使が彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えてしまった。24 こうして、主の言はますます盛んにひろまって行った。25 バルナバとサウロとは、その任務を果したのち、マルコと呼ばれていたヨハネを連れて、エルサレムから帰ってきた。            (使徒行伝12:19-25

 少し前に、ヘロデ王がどうしてクリスチャンたちをいじめたり、殺したり、牢獄に閉じ込めていたのかを皆で確かめました。あの王様が人々の気に入ることをぜひしたいと願ったからでした。そうでないと王様をクビにされてしまうかも知れないと。人々が気に入ることさえしていれば、自分は安心で、心強いからと(使徒12:3-4参照)。しかもツロとシドンの人々も、ヘロデ王とよく似た心です。
彼らはヘロデ王が怒るような何かををしてしまったので、なんとかしてヘロデ王にゆるしてもらわないととても困ったことになります。ぜひともご機嫌をとって、精一杯にゴマをすっておきたい。王様と彼らはそっくりです。彼らは王様に気に入られたかった。王様は人々の御機嫌をとる。人々も王様のご機嫌を取る。その相手に気に入られていれば安心だし、そうではないと何をされるか分からないと、王様も人々も互いにビクビクしていました。21-22節。王様の演説を聞いて、ツロとシドンの人々は、「これは神の声だ、人間の声ではない」と叫びつづけました。主の使いがヘロデ王を打って、ヘロデ王はバッタリ死んでしまいました。「神に栄光を帰することをしなかったからだ」と聖書ははっきりと説明しています。ヘロデ王だけでなく、あのツロとシドンの町の人々も私たちも皆、神を信じて生きるはずのものたちです。ツロとシドンの人々もこの私たちも、上田教会や日本キリスト教会も、ほかの誰でも、この通りにされます。神にこそ信頼し、聞き従って生命を得ようと願うなら、私たちは神の憐みによって生きるでしょう。もし、そうではないなら、あのヘロデ王のように打倒されてしまうことでしょう。よく覚えておきましょう。

          【補足/牢獄の番兵や看守の責任】
           19節で、「番兵たちを死刑に処するように命じた」と報告されています。死刑にする予定だったペテロがいなくなりました。牢獄の番をしていた兵隊たちはその責任をとって、ペテロの代わりに死刑にされます。厳しいけれど、これが当時の普通の規則です。しばらく後の16章でよく似たことが起こりました。牢獄の扉が開いて囚人たちがみな逃げ出したと早合点した看守は責任をとって、その場で自殺しようとします。牢獄の看守も番兵も囚人に対してそれだけ重い責任を負わされていました。

10/13「娘を起き上がらせる」ルカ8:40-42, 49-56


                        みことば/2019,10,13(主日礼拝)  236
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:40-4249-56              日本キリスト教会 上田教会
『娘を起き上がらせる』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 8:40 イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ちうけていたのである。41 するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。42 彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた。……49 イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った。50 しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。51 それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」。53 人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。54 イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、「娘よ、起きなさい」。55 するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずをされた。56 両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた。   (ルカ福音書 8: 40-4249-56

「湖の向こう岸に渡ろう」と救い主イエスが弟子たちに呼びかけ、彼らは小さな舟に乗って、向こう岸のどこかへ出かけていってしまいました22節)。まず40-42節。彼らが戻ってくると、大勢の人々がその岸辺に待ち構えていて喜び迎えました。戻ってきてくれるかも知れないと期待したからですし、ぜひ戻ってきてくださって、ふたたび主イエスと出会いたい、神の国についての話をまだまだ聞きたいと強く願っていたからです。会堂司であるヤイロという人が主イエスの足もとにひれ伏して、「わたしの家にぜひ来ていただきたい」としきりに願いました。彼の12歳ばかりになる娘が死にかけていたからです。主イエスならば、きっと娘を元気にしてくださるだろうと信じたからです。主イエスと弟子たちは彼の家に向かいました。湖の岸辺で待ち構えていたあの群衆も、今度はそのままついて来ました42節)
 救い主イエスはご自身の死と復活に先立って、その先ぶれのようにして、死んでいた3人の人たちを生き返らせました。マルタ、マリアの兄弟ラザロと、ナインの町の未亡人の息子(ヨハネ福音書11:1-44,ルカ福音書7:11-17と、そしてこの娘です。この3人以外にも同じようなことをなさったのかどうかは分かりません。けれどもこれらの出来事で、救い主イエスが出来ないことは何一つないほどの絶大な力と権威をもっておられることがはっきりと示されました。一人はこの少女、彼女は主イエスが来られるほんの少し前に息を引き取ったばかりでした。もう一人は若者、彼は死んで、町の外にある葬儀場へと運ばれてゆく途中でした。もう一人のラザロは、死んで墓穴に収められて、すでに4日もたっていました。その3人ともが、「起き上がりなさい。墓から出てきなさい」という主イエスの御命令に従って外へ出てきたり、直ちに起き上がったりしました。
 49-53節。「イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、『お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません』と言った。しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ』。それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた、『泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである』。人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った」。とくに復活に関する奇跡は今はまだあまり人々に知らせたくなかったのかも知れません。それで目撃する人数を制限し、必要最小限に絞っています。父母の他は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブとう3人の弟子だけが家の中に同行します。この3人は主イエスの重要場面でのいつもの目撃証人たちです。このときと、山上の変貌、そしてゲッセマネの園での主イエスの孤独な祈りの格闘のとき(ルカ9:26-,マタイ26:39、いつもこの3人が側に置かれました。見たことを後で皆に報告させるためにです。さて会堂司は、主イエスこそが自分の娘の命を救ってくださると信じ、主イエスという独りのお方にこそ期待をかけました。お嬢さんは亡くなりましたという知らせを聞いたとき、主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」と仰いました。人々が娘のために泣き悲しみ始めると、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」。すると泣き悲しんでいたその人々は主イエスをあざ笑いはじめました。そのときの娘の父親や母親の様子は、ここにははっきりとは報告されていません。もし私たちがその娘の親たちだったらどうでしょう。主イエスご自身の言葉と、あざ笑う人々の様子を、どんなふうに受け止めることができるでしょうか。主イエスを信じようとする私たちの信仰は揺さぶられて、きびしい挑戦にさらされるかもしれません。もしかしたら他の人々といっしょになって、主イエスを信じる心をほかの様々なものに紛らせてしまうかも知れませんでした。残念だが仕方がないと。近所の人々も誰も彼もが泣いて、すでに娘の死を受け入れているのだし。しかも、「死んだのではない。眠っているだけだ」と主イエスが仰った言葉を皆がバカにして、そんなことがあるものかとあざ笑っているのだし。それじゃあ、仕方がない。みんなもそう考えているし、諦めるほかないと。『主イエスの死と復活を、そして、この方に率いられて私たちも古い罪の自分と死に別れて新しい生命に復活すること』を、私たち自身は信じていないわけではありません。けれどなお恐れており、度々心細くもなります。けれどなお、ほんのちょっとしたことが起こる度毎に心を激しく揺さぶられつづけます。どういうわけでしょうか。――主イエスの御声に聴き、けれど、それだけではなく 他のさまざまな声にも聴き従っているからです。主イエスを信じ、またその一方では他さまざまな意見や主張にも、同じように信頼し、聴き従っているからです。主イエスを信じる心を、その度毎に、紛らせてしまうからです。そうだったのか。じゃあ残念だが仕方がないと。「娘は死んだ。救い主イエスだろうが誰だろうが、たとえ娘の所に来ても、手も足も出せないだろう。何をやっても無駄だ」と告げられ、「なんだ。そうだったのか」。「死んだのではない。眠っているだけだ」と主イエスが仰った言葉を皆がバカにして、あざ笑うときにも、「本当だ。また、根も葉もない絵空事が語られている」と、もしかしたら一緒になってあざ笑いながら。この私たちも物寂しく、ただ虚しく笑うかも知れません。
 「お嬢さんはなくなられました」。愛する大切な家族や親しい友人との死の別れほど、私たちの心を深く切り裂き、揺さぶるものは他にないかも知れません。まして、あまりに若いひとり娘を看取るときの父さん、母さんの心の痛みほど重く苦しい痛みは他にはほとんどないかも知れません。しだいしだいに衰えてゆくこと、やがて死んでしまうこと、それらを身近な親しい人間たちや自分自身のこととして受け止めることは、なかなか難しいです。誰もが皆、年老いて衰え、やがて必ず死ぬべき存在であると、誰でも知っています。それなのに、どうしたわけかこの自分だけは別だと、なんの道理も根拠もなく、ついつい考えてしまいます。ある人は、「誰でも死んでしまうことが嫌だし、恐ろしい。だから、そのことをできるだけ考えないようにして、ただただ気を紛らわせつづけて、その日その日を生きてゆく」と。それでは、やがて自分の順番が来ても、ただアタフタオロオロするばかりで、慌てたり怒ったり嘆いたりするばかりで、死んでゆくための準備も心備えも何一つできていません。それは虚しい生き方です。好むと好まざるとに関わらず、家族や親しい友人や自分自身の死は必ず訪れます。ですから遥かな昔から、賢い人々は、「やがて必ず死すべき自分であることを、よくよく覚えよ。肝に銘じよ」と互いに戒め合いました。しかも、神を信じて生きる方々。やがて衰えて死んでしまうことの恐れから、この私たちを救い出すことのできるただお独りのかたがおられます。救い主イエス・キリストが。こう証言されています、「キリストは死を滅ぼし、福音によって命と不死とを明らかに示された」。「信じるものには永遠の生命がある」「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』」。(ヘブル手紙2:15,テモテ手紙(2)1:10,ヨハネ福音書6:47,11:25ピリピ手紙1:21
 娘の父親である会堂司に向かって、「恐れることはない。ただ信じなさい」と主イエスが語りかけたのは、あの父親が恐れに取りつかれはじめていたからであり、そのためにせっかく主イエスを信じようとしていた心に冷や水が浴びせかけられ、信じる心がどんどん弱く影が薄くなり、やがてついに消え去ってゆこうとしていたからです。人々の悲しみ嘆く声と、主イエスをあざけり笑う声や態度や様子が、あの父親や私たち自身の心を神から引き離し、どんどんどんどん遠ざけようとしていたからです。恐れないでいられるためには、恐れと日毎の思い煩いと不信仰にすっかり飲み込まれずにいるためには、あの父親も私たちも、神をこそ本気で信じる必要があるからです。児童公園に置いてあるシーソー台のように。子供たちが板の両端に乗って、上がったり下がったり、上がったり下がったりする、あのシーソー台のようにです。「あれも心配。これも、これもこれも」と恐れと日毎のさまざまな思い煩いがどんどんどん大きく重くなってゆくとき、神への信頼はその分だけ軽くなっていきます。その分だけ、どんどん小さくなって、脇へ脇へと押しのけられ、二の次、三の次にされつづけます。ますますその人は恐れ続けます。するとこの私たちは、あの父親のようではありませんか。そっくりです。だからこそ救い主イエスは、あの父親と私たちに語りかけます、「恐れるな。ただ信じなさい」と。恐れないためには、よくよく信じなさい。目を凝らしなさいと。必要なとき、必要なだけ十分に救い主イエスからの励ましと慰めが贈り与えられるのかどうか。その秘密は、ここにあります。救い主イエスが私たちをとても大切に思い、愛してくださっている。その方こそが他の誰よりも力強くあってくださる。習い覚えてきたはずのその格別な真理に、あなたも必死にしがみつくことです。大慌てで駆け戻ってきて、「主よ、助けてください。わたしは溺れそうです」と。
 「神に信頼し、神さまを信じる心を増し加えてください」と、いつもいつも私たちは願い求めましょう。平安であること、穏やかで心静かであるために、「主よ、私の信仰を増し加えてください」と朝も昼も晩も祈り求めましょう。このよこしまな時代に、数えきれないほどの心痛む出来事が私たちに毎日毎日、襲いかかるとしても、私たちの貧しく弱々しい心ではそれがなぜなのかは分かりません。神に信頼する心なしには、強い風が吹き荒れ、大きな波が打ち寄せ続けて、私たちは心砕けてしまうほかありません。キリストの愛と、キリストの知恵と、私たちの上にあるキリストの支えと守り以外に、他どんなものも私たちを勇気づけず、励ますことも慰めることもできません。ただ信仰だけが、私たちを落ち着かせ、やがて来る良いときを待ち望ませることができます。真っ暗な夜更けにも、ただ神を信じる信仰だけが私たちに明るく輝く光を見させてくれます。「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」(イザヤ書28:16と。それでは、なぜ、私たちがたびたび恐れおののき、慌てふためいているのか。神さまを信じることをいつの間にか忘れてしまったからです。ただ信じなさい。恐れないでいられるために。
 54-56節、「イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、『娘よ、起きなさい』。するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずをされた。両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた」。救い主イエスは死さえも打ち破り、退けてしまいました。ヤイロの家の娘の
いる部屋に入り、嘆きを喜びに変えてくださいました。娘の手を取って、『娘よ、起きなさい』と呼びかけました。娘は直ちに立ち上がりました。その力にあふれた御声によって、生命が呼び戻されたからです。
 さて私たちはすでに十分に年を取り、あとどれほど生きるのか分かりません。それにしても、残りほんのわずかです。「やがて必ず死すべき自分であることを、よくよく覚えよ。肝に銘じよ」と私たちも互いに戒め合いましょう。それでもなお十分です。やがて衰えて死んでしまうことの恐れや心細さから、この私たちを救い出すことのできるただお独りのかたがおられるからです。救い主イエス・キリストが。先祖たちも、イスラエルの40数名の王たちも、預言者も使徒たちも、みな死んでいきました。土の塵から取られたものたちは皆、やがて時がきて土に帰りました。まもなく、私たちもそのように帰ってゆきます。けれど主なる神に感謝をいたします。死よりも強く、死のとげにも力にさえも打ち勝つただお独りのかたがおられるからです。罪人たちの友となってくださったただお独りのかたがおられます。主イエス・キリストです。このお方は私たちに対するご自身の愛と力強さを、何度も何度もはっきりと見せてくださいました。最初に、この地上に降りて来られたときに。会堂司ヤイロの家で。ベタニア村の墓穴の前で。ナインの町の門の外で。「感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(コリント手紙(1)15:55-58


2019年10月7日月曜日

10/6こども説教「神様が助けてくださったことを覚えておく」使徒12:12-18


 10/6 こども説教 使徒行伝12:12-18
 『神さまが助けてくださったことを覚えておく』

12:12 ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの 母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。13 彼が門の戸をたたいたところ、ロダという女中が取次ぎに出てきたが、14 ペテロの声だとわかると、喜びのあまり、門をあけもしないで家に駆け込み、ペテロが門口に立っていると報告した。15 人々は「あなたは気が狂っている」と言ったが、彼女は自分の言うことに間違いはないと、言い張った。そこで彼らは「それでは、ペテロの御使だろう」と言った。16 しかし、ペテロが門をたたきつづけるので、彼らがあけると、そこにペテロがいたのを見て驚いた。17 ペテロは手を振って彼らを静め、主が獄から彼を連れ出して下さった次第を説明し、「このことを、ヤコブやほかの兄弟たちに伝えて下さい」と言い残して、どこかほかの所へ出て行った。18 夜が明けると、兵卒たちの間に、ペテロはいったいどうなったのだろうと、大へんな騒ぎが起った。  (使徒行伝12:12-18

 牢獄に捕まっているはずのペテロがこの家の門のところに立っていると女中が皆に知らせました。15節、すると、「人々はあなたは気が狂っている」と言った」。まさか、そんなことがあるはずもないと、まったく信じられなかったからです。だからペテロ自身を見て、皆はびっくり仰天で驚きました。
 神さまを信じて生きていて、そのおかげで嬉しいことや良いことも起き、反対に、嫌なことや苦しいこともあります。両方です。困ったことや、苦しく辛いことが起こるとき、「神さまをよくよく信じていて、どんな苦しみや辛いこと困ったことからも助けてくださいと神さまに願い求める」ことです。救いも幸いも、いつもただ神さまから来るのだと信じることができるなら、その人たちはとても幸せです。さて、主イエスの弟子ペテロが捕まえられて、牢獄に閉じ込められました。ペテロが捕まえられていた間ずっと、神を信じる仲間たちは彼のために祈っていました。「神さま、どうかペテロを助け出してください。けれど、私たちの思いや願い通りではなく、あなたの御心のままになさってください」と。けれどペテロが助け出されたとき、彼らはそれを信じることがなかなかできませんでした。困りましたね。あの彼らが神さまを信じられなかったことには理由があります。神さまを、本当にはあまり信じてはいなかったからです。どんな神さまなのかも、あまりよく分からなかったからです。この私たちは、じゃあ、どうしたらいいでしょう? 神さまが願いをかなえて助けてくださったとき、神さまからとても良い贈り物をいただいて大喜びに喜んだとき、それじゃあ私たちは、それをよくよく覚えておきましょう。あのときもそうだった、あのときもと。

     【補足/信じられなかった人々】
    あの彼らと同じようなことが何度も何度も繰り返されています。せっかく祈りつづけて、神さまの助けを求め続けてきたのに、そのときに信じられなかった人々のことが。とても残念です。アブラハムもサラもそうでした。洗礼者ヨハネの父さんザカリヤもそうでした(創世記17:15-21,18:9-15,ルカ福音書1:10-20,1:57-64)。


10/6「墓場に住む男」ルカ8:26-39

                   みことば/2019,10,6(主日礼拝)  235
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:26-39                     日本キリスト教会 上田教会
『墓場に住む男』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


8:26 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。28 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。29 それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。30 イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。31 悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。32 ところが、そこの山ベにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。33 そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。34 飼う者たちは、この出来事を見て逃げ出して、町や村里にふれまわった。35 人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた。36 それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた。37 それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去ってくださるようにとイエスに頼んだ。彼らが非常な恐怖に襲われていたからである。そこで、イエスは舟に乗って帰りかけられた。38 悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった。39 「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。  (ルカ福音書 8:26-39)

 主イエスと弟子たちは小舟に乗って湖を渡り、向こう岸にあるゲラサ人の地に着きました。この出来事の発端は、同じ822節です。「向こう岸に渡ろう」と主イエスが弟子たちにお命じになり、彼らを促したのです。向こう岸に渡ろう。救い主を主と仰ぐ信頼と一途さにおいても、信仰の歩みにおいても、この自分の日々のあり方や腹の据え方においても、《向こう岸》があります。一緒に渡り、ぜひ辿り着こうと主は私たちを招きます。そして向こう岸には、主イエスの福音を求める一人の惨めな男が待ち構えていました。
  まず28-29節。悪霊にとりつかれた彼が墓場から出てきて、主イエスに出会いました。「その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた」、また「悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていた」と報告されています。彼にとりついた悪霊が、あの彼にとんでもない乱暴を無理矢理に行わせ、獣のような暮らしをさせていたのでしょう。あの彼の中から、悪霊どもが主イエスに向かって叫びかけます。28節、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。たしかに悪霊どもは、目の前に立っておられるかたが神の独り子、救い主イエス・キリストであることを知っていました。もちろん悪霊どもと、そしてあの彼や私たち一人一人と、救い主イエスは大いにかかわりがあります。しかも悪霊はあの惨めな男をとてもとても苦しめています。喜びや幸いばかりではなく、辛いことや恐れも悲しみも大きな苦しみが私たちを襲うこともある。そのとおりです。それでもなお、悪霊や悪魔が好き放題に私たちを苦しめてよいはずがありません。それを、ただ見過ごしになさる神ではありません。悪霊どももまた私たち一人一人も、この世界があとどれほど続くのか。また自分自身の地上の歩みがあとどれほど残されているのかを、知らされていません。むしろ、「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈り、一日また一日と、魂に刻み込みつつ生きるようにと教えられ、しつけられている私どもです。わたしたちのための『日毎の糧』の中には、一日分ずつの生命も含まれていました。数ヶ月分、数年分ずつではなく、一日また一日と、ただ恵みによって贈り与えられて生きる生命です。土の塵で形造られ、鼻に生命の息を吹き入れられ、私たちは生きる者とされました。やがて神さまがあらかじめ決めておられる時がきて、それぞれの順番とあり方で生命の息を抜き取られ、この私共もそれぞれ土に還るのです。そのとき、こう申し上げましょう。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(創世記2:7,ヨブ記1:21)と。また、この世界にとっても私たち自身の生涯においても、「終わりの時は思いがけない日、気がつかない時にくるから、だから目を覚ましていなさい。用意をしていなさい」と促されています。惜しみつつ生きるに値する、かけがえのない一日一日の生命です。どのように目を覚ましていることができるでしょう。思いがけない苦しみや悩みが私たちを襲う時、心細く、生きることの思い煩いの中で心が鈍くされてゆく日々に、神を信じて生きるはずの私たちは、何をどう用意しておくことができるでしょうか。どんな神なのかを知りつづけ、神を敬いつつ日々を生きることです。そのためには、必要なだけ、すっかり十分に神さまにこそ信頼を寄せることです。神の御意思に服従し、どこでなにをしていても、そこでそのようにして神に仕えて、神の御心に聴き従って生きることです。どんな困難や恐れや心細さの只中にあっても、「助けて下さい」と神さまにこそ呼ばわって、救いとすべての幸いとを神さまの中にこそ求めること。すべての幸いはただただ神からこそ出てきて、恵みによって贈り与えられることを心でも口でも認めながら、一日一日を生きることです(「ジュネーブ信仰問答」問7 1545年)
  だからこそ、主イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちを促し、この土地にやってきました。悪霊にとりつかれて苦しむあの彼の生命を回復させ、人生を取り戻させてあげるために。また弟子たちの信仰の成長と養いのために。今日では、ゲダラの墓場は世界中に拡大しています。テレビの中や新聞のニュースの中だけではありません。墓場付近をうろつき、足かせや鎖にしばられ、とんでもない乱暴を働いて周囲の人々を困らせたり、自分自身を傷つけたりしつづけるおびただしい数の惨めな人々がいます。もちろんこの上田界隈にも、小諸や佐久や、塩田平や丸子や真田町あたりにも。ごく普通の家庭にも。どこにでもある職場に。学校や介護福祉施設に。兄弟たちの中にも、自分の夫や妻や子供たちが。あるいは私たち自身が、しばしば墓場に鎖と足かせでしばりつけられます。私たち自身も、しばしば石で自分の胸を打ちたたいて嘆きます。さあ、皆さん。墓場で独りでいた者たち。叫んだり、ついつい乱暴して他人を困らせたり自分自身を苦しめたり、自分を打ちたたいて嘆き悲しんでいたゲラサの人々よ。あなたの家に、今日、平和が訪れました。平和の主が、あなた自身と大切なご家族と共にいてくださいますように。ぜひ、そうでありつづけてくださいますように。
  30-37節。彼にとりついていた悪霊どもは、数が大勢なのでレギオンだと名乗り、「底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならないでください」としきりに願い、近くの山ベに飼われていたおびただしい豚の群れがあったので、「その豚の中へはいることを許していただきたい」と悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまいました。豚を飼う者たちは逃げて町へ行き、起こった出来事を人々に伝えました。すると、町中の皆がイエスに会いに出てきました。35-37節。ここに目を留める必要があります。町の人々は、あの惨めな一人の人が苦境から救われて安らかな魂を取り戻したことを喜び感謝するのではなく、「恐れた。非常な恐怖に襲われた」と2回繰り返して聖書は報告します。町の人々は何をどう恐れたのか? 主イエスに会うと、「この地方から出て行ってください」と頼みました。経済や、損得やソロバン勘定がしばしば優先する私たちの社会です。「いつの時代にもどの社会でも、仕事や生活上の自分利益と損害のほうを多くの人間たちは選び取ってきた。そのようにして、主イエスとその福音は拒絶されつづけてきた」とある人は言いました。どうして自分の損得、自分の都合、自分自身の利益と幸いばかりをついつい優先させてしまうのか? 神さまが私と家族の生活、幸い、平和と安全を守って下さるとは思ってもみないからです。そういう神さまだとは知らないし、信じてもいないからです。それなら、自分自身の力と甲斐性で必死になって生活と幸いを守ってゆくほかないからです。
38-39節。主イエスによって悪霊をとりのぞいていただいた者が、お供をして、ごいっしょについて行きたいとしきりに願いました。けれど、その願いは断られました。もちろん、主イエスを信じて生きることは断られません。けれども、そこから一緒に旅をつづけるようになった弟子たちと、現地に残された弟子たちと2種類の弟子たちがいつづけます。39節、「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」と主イエスご自身から命じられました。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがしてくださったことを、ことごとく町中に言い広めました。もちろんまず大切な愛する家族の一人一人に。それから隣近所の方々に。町中に。いつもの職場でも、学校でも、町内会の寄り合いでも。それから隣町でも。それがあの彼と私たちにとって、そのときから、生きる理由になり、目的となりました。
 「知らせなさい」と命じられてもそうでなくても、恵みを受けた者たちは、その大きな驚きと喜びとを知らせないではいられません。主イエスから差し出され、受け取った愛が、その人々を駆り立てて止まないからです。この私たちもそうです。自分の大切な家族に、大切な友人たちに。主がどんなに大きなことをしてくださったか。また、どんなに憐れんでくださったかと。その喜びの知らせは、聞き入れられる場合があり、冷たく拒まれる場合もあるでしょう。その大きな出来事よりも、差し出されたその深い憐れみよりも、人々は自分たちの経済や損得やソロバン勘定にばかり目も心も奪われて、私たちをなかなか受け入れてくれない場合もあるでしょう。良い知らせを告げ知らせに出かけてゆくときの心得については、つい先日、おさらいをしておきました。手ぶらで出かけてゆくこと。どこかの家に入ったら、まず「平安がこの家にあるように」と言いなさい。もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈るその平安はその人の上に留まる。もし、そうでなかったら、その祈り願った平安はあなたの上に帰ってくるであろう。迎え入れてもらえるならば同じ家に留まって、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。やがて戻ってきた弟子たちに主イエスはこうおっしゃいます。「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ福音書10:1-20。天と地のすべて一切の権威を御父から授けられている救い主が、その権威を私たちに委ねておられます。だから、わたしたちに害を及ぼしうる者は何一つない。そのとおり。その上で、この私たちは何を喜び、何を悲しみましょうか。聞き入れてもらったり、冷たく邪険に跳ね除けられたり、喜び迎え入れられたり、シッシと追い払われたりするでしょう。いいえ、そんなことよりも、むしろ私たち自身の名が天に記されてある。そのことをこそ喜べ。私たちを町々村々へと、それぞれの家庭や地域や職場へとお遣わしになる方がおっしゃいます。むしろ私たち自身の名が天に記されてある。そのことをこそ喜べ。魂に刻み込みましょう。

             ◇

  救い主イエス・キリストの到来によって、神さまのご支配がこの地上にいよいよ現実のものとして勢いを増し、着々と建て上げられはじめたからです。神の国はこの地上にすでに来ており、着々と建て上げられつづけ、やがてすっかり完成されようとしています。確かに終わりの時はすでに私たちの只中に来ている。けれど、悪霊やサタンや闇の力との戦いはなお続いています。だからこそ、主にあって、主ご自身の偉大な力によって、あなたは必要なだけ十分に強くしていただきなさいと励まされます。エペソ手紙6:10-18です。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」。
  主イエスを信じるその希望の中身は、具体的には何でしょう。「あなたがたは、この世では悩みがある」と、はっきり語りかけられています。悩みがいくつもあり、次々とあり、それらが無くなることはありません。誰にとっても、それが生きてゆくことの現実です。いいえ。それが私たちの現実の中の半分の側面です。もう半分の、もっとその千倍も万倍も大切な現実は、救い主イエスからの約束でありつづけます。「わたしはすでに世に勝っている。だから、あなたがたは勇気を出せ」とおっしゃる。「だから」と呼びかけられました。主イエスがすでに世に勝っておられるからといって、けれど、どうして私たちは勇気を出したり、そこから平安を受け取ったりできるのでしょうか。それと、私たちの勇気や平安とは、何の関係があるのでしょう。この救い主イエスというお方が、私たちの主であられるからです。ご自分が勝ち取った勝利の中へと、私たちを招き入れ、私たちを据え置いてくださるからです。主イエスがすでにこの世に勝ったからには、この主に率いられて、私たち一人一人もまた世に勝つからです。権威あるおかたが、この私たちをも屈服させ、私たちをも従わせてくださるからです。このお方の権威のもとに、波と風が従い、悪霊さえもひれ伏し従うとして、それだけでなく弟子とされた私たちも「行け」と言われれば行き、「来い」と命じられれば来るからです。あの弟子たちと共にこの私たちにも、この同じ主が命じられました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20

2019年10月1日火曜日

9/29「荒波の中の小舟」ルカ8:22-25


                      みことば/2019,9,29(主日礼拝)  234
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:22-25                      日本キリスト教会 上田教会
『荒波の中の小舟』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 8:22 ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。23 渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。24 そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と言った。イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。25 イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。   (ルカ福音書 8:22-25)

 高い山や丘に囲まれ、すり鉢状に深く削られた谷底に、(ゲネサレ湖とも呼ばれる)ガリラヤ湖はあります。標高600-700メートルから急激に落ち込み、海面のさらに210メートル下に湖面があります。ですから気温の変化によって、しばしば山地からはげしい突風が吹き下ろすこともありました。夕方になり、日も暮れて視界も悪くなります。主の弟子たちの多くはそのガリラヤ湖で生まれ育ち、そこで働きつづけた漁師たちでした。その湖の怖さも危険も、よくよく知っている彼らでした。だからこそ、激しい突風が吹き荒れ、とても小さく貧弱な舟がザブン、ザブンと波をかぶり、水浸しになるほどになった時、彼らは、その危うさと恐怖を身にしみてビリビリと感じ取っていたでしょう。けれども、この肝心な時、危機の只中にあって、主は舟の片隅でスヤスヤ眠っておられました。何ということでしょう。24節、弟子たちは主イエスを揺さぶり起こし、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」。
  僕の大切な友だちはこう言います;「辛い体験をすると、神さまの御心が分らなくなる。クリスチャンであるのに、つい神さまを疑ってしまう。私はあやふやで気もそぞろな、とても危なっかしい人間だ」と。まったくその通りだと思います。辛い体験をすると、神さまの御心が分らなくなる。たとえクリスチャンであっても、ついつい神さまを疑ってしまう。あるいは、その憐みもゆるしも助けもすっかり信じられなくなってしまう。その通り。だって人間だもの。聖書自身も、「そんなものだ。人間って」と言っています(創世記8:21,ローマ手紙3:10-27,11:32,エペソ手紙2:3-,3:23,ガラテヤ手紙3:22-23
  24-25節。「『先生、先生、わたしたちは死にそうです』と言った。主イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。波と風は叱りつけられて、しーんと静まります。弟子たちの外側、小舟の外側で激しい風が吹き荒れ波が打ち寄せていたように、《弟子たちと私たちの心の中》でも、やはり激しい風が吹き荒れ、高い波が打ち寄せます。恐れと不安、心細さのために、たびたび水浸しになってしまう彼らであり、私たちです。私たちの小さくて貧弱な舟に、手ごわい波がザブン、ザブンと打ち寄せます。今にも暗い湖の底に沈んでしまいそうになります。
 何度も話しますが、一個のキリスト教会はとても小さく貧しい小舟です。一人のクリスチャンもまた、小舟です。その生涯も、一日ずつの営みも、やはりとても小さな貧しく危うい小舟です。その家庭も家族もまた、小舟です。主イエスは、この私たちの貧弱な舟の中でも起き上がり、権威をもって断固として叱りつけ、「黙れ。鎮まれ」とお命じになります。波や風に対して。そして私たちに対しても。私たちの周囲を激しく吹き荒れる風は、なかなか手強いのです。波も、かなりしぶとい。私たちの足もとに広がる湖は深く、暗く、底が知れません。しかも私たちの乗った舟はあまりに貧弱で、舟底の板もあまりに脆く薄い。いいえ、むしろ私たち自身の荒ぶる魂こそが難物です。吹き荒び、大波が立ち騒いで、いっこうに鎮まる気配もありません。主が断固として起き上がり、叱りつけ、「黙れ。静まれ」と権威をもって命じてくださるのでなければ、黙ることも鎮まることもできません。「あなたはどこを向き、何を見ている。あなたは、どこに足を踏みしめて立っている。あなたは何に期待し、何を待っている。あなたは一体、誰の声を聞き、何に信頼しているのか。あなたは誰のものか。主なる私のものではなかったか。主である私の声にこそ聴き従うあなたではなかったか。《主である私からのゆるし、恵み、救いの約束》にこそ、その只中にこそ自分の身を据え置くあなたではなかったか。違うのか。そうでなくて、では、あなた自身は、どうやって安らかに喜ばしく生き抜いてゆくことができるのかと」と叱りつけてくださるのでなければ。
25節。イエスは彼らに言われました、『あなたがたの信仰は、どこにあるのか』。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、『いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは』」。主イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と弟子たちに語りかけ、問いかけました。ここが正念場です。さて、「私たちに信仰がある、神を信じている」とは、どういうことでしょうか? その信仰は、必要なときにそれを働かせることができて、その信仰によって私たちが助けられ、支えられることができるということです。もし、そうではないなら、その信仰が肝心要の緊急事態のとき、少しも働かず、私たちを支えもせず助けもしないなら、信仰があることにいったい何の意味があるでしょう。私たち自身と大切な愛する家族を救うことのできる信仰を与えられて、確かに持っているのかどうか。その信仰を、必要なとき、必要なだけ十分に働かせることができるのかどうか。だからこそ、ここで救い主イエスはあの彼らと私たちに切羽詰まって、問いかけています。あなたがたの信仰は、どこにあるのか? 
いきなり突風が吹き荒れ、波がザブンザブンと打ちかかって小舟を激しく揺さぶりつづけます。小舟も彼ら自身も水をかぶり、とても危険になりました。そこで彼らは大慌てで主イエスのもとへと駆け寄り、しがみつき、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と主イエスを揺さぶり起こして助けを求めました。ここに、生きて働く信仰があります。これが彼らの信仰であり、彼らを救う信仰です。これでまったく十分です。たしかにあの時、あの波風吹き荒れる小舟の上で、あの彼らは、信仰と不信仰との分かれ目の挟間に立たされていました。主イエスへの信仰も、主に信頼することも、「どうぞよろしく」と主に委ねることもすっかり吹き飛んでしまって、そこにはもう何も残っていない、かのように見えます。けれども兄弟たち。だからこそ、その瀬戸際の崖っぷちの姿に、信仰の本質があざやかに立ち現れます。ここに、主イエスを信じる信仰があります。なぜなら彼らは、大慌てで、主イエスのもとへと駆け戻っているからです。なぜなら彼らは、今こそ、必死で本気になって主にしがみつき、切実に訴えているからです。「先生、先生、わたしたちは死にそうです。今にも溺れてしまいそうです」と。
聞いてください。忍耐の限界をこえて苦しみを味わうことは、あります。逃げ道も出口もまったく見出せない真っ暗やみの日々も、あります。「地獄だ。とても耐えられない」と溜め息をつくばかりの日々もあります。本当にそうです。だから、「耐えるべきだ」などと軽はずみなことはとても言えません。あなた自身も、「耐えなければならない。耐えるべきだ」などと思ってはなりません。むしろ必死に、一目散に、そこから逃げてきなさい。そこから、なりふり構わず避難してきなさい。叫びなさい、「助けてください」と。あなたの苦しみを、あなたの惨めさを、あなたがどんなに辛いのかを。あなたの憎しみも腹立ちも、嘆きも、なりふり構わず大声で叫びなさい。もちろん誰に対してよりも、なにより神さまに向かって。そして、周囲の人間たちに向かっても。あなたは声を限りに叫びなさい。もちろん、そうしてよいのです。気兼ねも遠慮も、大人ぶった体裁を取り繕うことも、もう要りません。では、質問。あの弟子たちは、なぜ、大慌てで駆け戻って、「主よ、お助けください。わたしたちは死にそうです」と恥も外聞もなくすがりついていると思いますか? 大変な危機で、まさに崖っぷちで、生命の瀬戸際に立たされているからです。しかも《この方ならきっと必ず》と知っているからです。あなたも知っているんでしょう、《この方なら、きっと必ず》と。
十字架におかかりになる直前、私たちの主イエスは、「わたしの思いのままにではなく、御心のままになさってください」(マタイ福音書26:39-)と御父に向って祈りました。でも、ただちに簡単に、ではありません。罪人として十字架にかけられ、体を引き裂かれ、血を流しつくして殺されていくことは、救い主としても苦しいことでした。できることなら、別の方法を取りたかった。「わが父よ。もしできることでしたら、どうか、この杯(=十字架の苦しみと死のこと)を私から過ぎ去らせてください」と主は、繰り返し繰り返し祈りました。救い主イエスにとっても、それは祈りの格闘でした。苦しみ、身悶えし、血の汗を滴らせて祈った、と報告されています。地面に身を投げ出して祈りました。祈りつづけました。その格闘の只中で、「しかし、わたしの思いのままにではなく、御心のままになさってください」という信頼へと辿り着きました。例えば主の弟子パウロも、ただちに簡単に、「私のための主の恵みは十分。神の力は、私の弱さの中で、そこでこそ十分に働く」(コリント(2)12:7-を参照)と安らかであり続けたわけではありません。「私に刺さったこの刺を抜き取ってください」と格闘しつづけた果てに、かろうじて、ようやく辿り着いたのです。ただ3回だけ試しに祈ってみた、ということではありません。3回とあるのは、300回、3000回、何回祈ったか分らないほどに祈って祈って祈りつづけたという意味です。《御心のままに》;それは、祈りの手間を省く安易な言い訳でもなく、願っていることをすっかり諦めてしまった者たちの都合のよい方便でもありません。格闘するように、すがりつくようにして祈り続けた者たちこそが、ついにようやく、その格別な安らかさへと辿り着きます。ついに、その格別な、晴れ晴れとした信頼へと辿り着くのです。強がって見せても、誰でも本当は心細いのです。大慌てで主のもとに駆け戻り、必死に訴える。「助けてください。支えてください。倒れてしまうそうです。今にも溺れてしまいそうです。主よどうぞ、この私を」。クリスチャンはそこに立ちます。そこが福音の定位置。恵みを受け取るための、私たちのための、いつもの場所です。「そこへと駆け戻り、そこに我が身を据え置きなさい。あなたも、そこに腰を落ち着けなさい」と主イエスは、この私たちをも招くのです。とても怖がったし、アタフタオロオロした。その通りです。その、生きるか死ぬかの崖っぷちで、その緊急事態の肝心要の局面で、そこで大慌てで主の御もとへと駆け戻り、「先生、先生。わたしたちは死にそうです。助け手ください」としがみついた。ここに確かに、その人を救う信仰があります。また、「このかたはどなたなのだろうか」と驚いて、主イエスにじっと目を凝らし、つくづくと考え込みました。ここに、信仰があります。私たちは信仰が薄いし、度々やたら怖がるし、たびたびとても心細いと気づくなら、もしそうであれば、「主よ、助けてください。私の信仰を増し加えてください。怖がって心細さを噛みしめる度毎に、そこでこそ本気で主の御もとへと駆け戻る信仰を、この私にもぜひ贈り与えてください」と願い求めることもできます。もし願うならば、その願いはきっと必ずかなえていただけます。なんて約束されていたんでしたっけ。「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」(ヨハネ福音書16:24。しかも、「向こう岸に渡ろう」(18)と主が誘ってくださったのです。「主イエスという方はどういう方なのか、ぜひ知りたい」と私たちも願いました。山や坂があり、底知れぬ暗く恐ろしい湖も行く手に立ち塞がります。しかし同時に、この湖には魚の群れが潜み、私たちの思いをはるかに越えた収穫さえ待ち受けます。乗っている舟はたしかに貧しく粗末な小さな小さな小舟にすぎません。その通り。しかしご主人さまであられる救い主イエスが、この同じ小舟に乗り合わせておられるではありませんか。
25節。弟子たちはとても驚いて、互いに問いかけ合いました。「いったい、この方は誰だろう。お命じになると、風も水も従うとは」。波と風を恐れることを止めたので、ここでようやく、まるで初めてのようにして彼らは主を畏れることを始めました。それまでは、風や波や湖や世の中の風潮や、周囲の人間たちの顔色や気分やその場その場の空気を読むことや、さまざまなモノを手当たり次第に恐れて忙しくしていたので、それで、主を畏れる暇がほんの少しもありませんでした。風や波と共に自分たちの心も鎮めていただいて、私たちもまた、とうとう、まるで初めてのようにして《主イエスとはいったい何者なのか。この世界にとって、また私と家族にとって》と問いました。その答えをぜひ知りたい、掴み取りたい、と願い求め始めました。小さな小さな粗末な小舟に乗って、けれども主イエスも同じ舟に乗り合わせてくださって、その小舟の私たち自身の旅はなおまだ続くからです。向こう岸へ、向こう岸へと渡りつづけます。


【語句の訂正】;前回、922日の礼拝説教『神のもとにある家族』。2ページ目、「サウル、サウル~」(使徒9:4)は「サウロ、サウロ~」の誤りです。お詫びし、訂正をします。(金田聖治)