2019年10月29日火曜日

10/27「12人の弟子を送り出す」ルカ9:1-6


                       みことば/2019,10,27(主日礼拝)  238
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:1-6                       日本キリスト教会 上田教会
『12人の弟子を送り出す』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
9:1 それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。2 また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして3 言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。4 また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。5 だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。6 弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。      (ルカ福音書 9:1-6)

  主イエスによって選び出された弟子たちであり、またその同じ主によって町々村々へとこの私たちも主イエスの弟子たちとして送り出されてゆきます。神の国の福音を宣べ伝えさせるために弟子たちを遣わす一番最初の報告です。選び出された12人の中には、やがて主イエスを裏切るイスカリオテのユダが混じっていました。しかもユダだけではなく、あの十字架前夜には弟子たち皆が一人残らず主イエスを裏切って、主イエスを置き去りにして逃げ出してしまった。神の民とされたイスラエル12部族を象徴し、代表して、12人の使徒である。その光栄と誇らしさと共に、なおかつ罪人であり、共々に主イエスを裏切ってしまう限界ある不十分な者たちでもある。このことが大切です。最後の晩餐のときにも、「わたしを裏切る者がわたしと一緒に食卓に手を置いている」と告げられて、「主イエスを裏切る者。まさか、それは私のことでは」とあの12人も私たち一人一人も自分自身の不確かさと危うさとを恐れなければなりません(ルカ22:23参照)。その恐れと心の痛みこそが、私たちにへりくだった心の低さと慎みとを与えつづけるからです。逆に、「いいや、この私こそが主に対して忠実であり、よく働いている」という思い上がりこそが、私たちを主に背かせようとする罪と邪悪さのとても手強い根でありつづけるからです。
  1-2節で、「すべての悪霊を制し、病気を癒す力と権威を授け、神の国を宣べ伝え、病気をなおすために」町や村へと遣わされたと報告されえています。病気を治したり、悪霊を制するという奇跡的な力や権威など、今日の私たちにはちっとも与えられていないかのように見えます。そうかもしれません。「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい。どんな大変な病気でも治るから、だからぜひ教会に来てみなさい」などと人を招くことを私たちはしません。それでもなおこの約束と権威のもとに私たちは町や村、それぞれの社会の中へと送り出されて、主イエスからの使命と働きを担って生きていきます。教師たち、伝道者が、というだけでなく、すべてのクリスチャンがです。神の国の福音を宣べ伝え、あるいは重い病人や死にそうな人の傍らでいっしょに時を過ごし、「主よ、もしあなたの御心でしたら、病いから回復させてください」と心を合わせて祈ることもします。辛く苦しい病いを抱えて、なお忍耐しなければならない場合もあるからです。そして共々に、私たちは、病人たちの痛みも不自由さも悩みや辛さも、主なる神さまにこそお委ねいたします。
『天国、あるいは神の国』とは、神さまが生きて働いてくださり、その所に確かに力を発揮し、神ご自身こそが力と支配を及ぼしてくださるということです。神であられる救い主イエス・キリストがこの地上に降りてこられ、その方ご自身によって福音が告げ知らされ、主イエスの福音を信じて生きるものが一人また一人と起こされました。しかも、主イエスの福音の使者である私たちがこの町に来たのは、またそのそれぞれの家族の只中へと送り出されてきたのは、そのパートタイムのいつもの職場へと主のもとから送り出されてきたのは、やがて主イエスご自身がその町へ、その一軒の家へ、そのいつもの職場へも来てくださるというしるしであり、先触れです。救い主がやがてご自分で行こうとしている所へ、ご自身に先立って、私たちは送り出されたのです。『神の国は近づいた』という告知と『この家に平安があるように』という祈りとは一組です。主イエスの弟子である私たちは、その一軒の家に、その一つの職場に、その町やその土地に平和があるためにこそ、主のもとから送り出されました。神さまからの平和の使者として。しかも、その家にもその町にも誰一人も平和を受け取ろうとする人が見当たらない場合もありえます。それでもほんの少しも困らない、というのです。神からの平和に誰もふさわしくなく、誰一人も受け取ろうとしない場合、そのとき祈り求めた平和はあなた自身のところに戻ってくる。戻ってきて、あなた自身の魂の内に一つ、また一つと蓄えられ、積み重ねられてゆくと。
 あるとき、そこに、軽々しく他者を裁いてしまっているあなたがいます。あるとき、そこに、自分の思い通りに相手を従わせようとして、「どうしてそうなのか」と責め立てているあなたがいます。あるとき、そこに、惨めに身をかがめて言いなりにされてゆくあなたがいます。「許せない」と腹を立ててプンプン怒りつづけるあなたがいます。「どうして分かってくれないのか」と、すっかり失望してしまっているあなたがいます。「わたしは。わたしは」と我を張って私を主とすることを止め、「だって、あの人がこう言う。この人がこうしろと言うから」と言いなりにされつづけて周りの人やモノをご主人様とすることを止めにしたいのです。主をこそ主とし、右にも左にもそれることなく心強く生き抜いてゆく私たちとなりたい。兄弟姉妹たち。あなたの家にあるべき平和は、主イエスによる平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。レタス畑のある、外国からの出稼ぎ労働者たちが安く過酷に働かされつづけているあなたの小さな村や、あなたの職場にあるべき平和は、主による平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。その一人の人とあなたとの間にぜひとも回復されるべき平和は、建て上げられてゆくべき平和は、もちろん主による平和であり、主イエスご自身が勝ち取ってくださった平和です。この私たちが『平和と和解の使者』とされるとして、どういうふうにそれを成し遂げてゆけるでしょう。そのやり方は、コリント手紙(2)5:18-21。これは、よくよく覚えて身につけなければなりません。「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである」。神さまがキリストを通して私たちをご自分と和解させてくださった。罪の責任を私たちに負わせることなく、それを確かに成し遂げてくださった。これが、平和と和解の流儀です。していただいたとおりに、私たちもその同じやり方と流儀で働きます。
 町や村へとそれぞれに遣わされながら、あの弟子たちは、いったい何をしているのでしょう。主イエスの福音を伝え、イエスの弟子とする。神の国を宣べ伝える。あるいは、いつも私たちが言っているように、『伝道している』と言い換えてもよいでしょう。初めに、救い主イエスご自身が仰っていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。また、「1人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の、自分は正しいと思い込んでいる人たちに対してよりも、はるかに大きな喜びが天にある」と。罪深い、あまりに自己中心の身勝手な者であっても、なおその1人の人が神へと立ち返って生きるなら、それを大喜びに喜んでくださる神さまであったのです(マルコ1:15,ルカ15:7,10,24,32,エゼキエル18:23,31-32。悔い改め。それは向きを変えることです。目の前の楽しいことや嫌なこと、嬉しいことや辛いこと、自分がしてほしいこと、ほしくないことなど心を奪われ、一喜一憂して生きてきた者たちが、自分自身の腹の思いばかりに目を奪われていた者たちが、180度グルリと向きを変え、神さまへと思いを向け返して生きること。そのために、この私たちも主イエスの弟子とされました。
 3-4節。「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい」。主イエスはご自身の弟子である私たちを送り出すにあたって、慎ましく暮らすように、また与えられ、許されて持っているもので満足しているようにと指図なさいます。何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。これがすべての伝道者の基本の心得であり、すべてのクリスチャンの心得でもあります。もし迎え入れられて、どこかの家に入ったら、そこに慎ましく留まっていなさい。乏しく、心細く、ひどく無防備な手ぶら状態で送り出されたことの意味があるでしょう。何かをしようとするたびに弟子たちは障害にぶつかり、困り果て、がっかりして頭を抱えます。周囲の人々にも頼り、もちろん神ご自身に必死に助けと支えを懇願しつづける日々です。実地訓練の最大の目的と意味はここにあったでしょう。神を信じて生きる信仰の、基本の基本をしっかりと身に着けるための、第一回目の伝道実習訓練です。お聞きください。あの12人の実習生たちにとっても私たち一人一人にとっても、ぜひとも身に着けるべき基本は、「神さまにこそ必要なだけ十分に、よくよく信頼を寄せること。その御意思に服従して、どこで何をしていても、そこでそのようにして神さまにお仕えしていると分かっていること。年老いた親の介護をしていても、子供たちを養い育てていても、パートタイムでスーパーマーケットのいつもの職場でお客様相手に同僚の仲間たちと働いていても、そこでそのようにして神さまにお仕えしている。だから、一つ一つ神さまの御心にかなって働くことを願いながら神さまにお仕えします。どんな困難や恐れや心細さや悩みの只中にあっても、助けてくださいと神にこそ呼ばわって、救いとすべての幸いはただ神さまからこそ出ることを知り、それを心でも口でも認めること」(「ジュネーブ信仰問答」問7参照。1545年)です。そのために、「何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。また、どこかの家にはいったら、そこに留まっていなさい」と、乏しく、心細く、ひどく無防備な手ぶら状態で送り出されました。神によく信頼して生きる腹のすえ方を、あなたも私も、よくよく習い覚えるようにと。
  5-6節にも目を向けましょう。「『だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい』。弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした」。もしかしたら、私たちはまったく迎え入れられず、見向きもされず、語りかける言葉に耳を傾けてももらえない場合もありうる。それでも良いのだと教えられています。ちっとも構わないし、何の不都合もないのだと励まされます。そのとき、足のちりを払い落として、晴れ晴れとしてその家や町を出てきなさいと。しかも、約束された言葉を私たちははっきりと覚えています。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:18-。主イエスの弟子である私たちは町や村へと遣わされつづけていきます。それぞれのいつもの職場へ。家庭へ、家族や友人たちの只中へと。神の御前で、神さまに向かって生きる者たちが、その活動の中で一人また一人と生み出されていきます。悔い改めて、福音を信じる。神さまに背を向けて生きていた者たちがグルリと180度向きを変えて、神さまに向かって、神さまの御前に据え置かれて、そこで精一杯に生きはじめる。その、まったく新しい『方向転換』は、いつどこで、誰から始まるでしょう。私たちのための救いの時は、いつ満たされるでしょう。あなたの夫や息子たち娘たち、孫たち、大切な友人たちは、あなた自身は、いつ、どこで、どんなふうに180度グルリと向きを変え始め、神さまからの祝福と幸いを受け取りはじめるでしょうか。――主なる神さまへと思いを向け返すあなたを、まざまざと目の前に見たときに。悩みや辛さの只中で、「けれど私の願い通りではなく、私や他の誰彼の気分や好き嫌いや腹の虫に従ってではなく、そんなことにはお構いなしに、ただただ、あなたの御心のままになさってください」と願い求める1人のクリスチャンの生き様にふれたときに。そこで、そのようにして、神さまへと向かうあなた自身やこの私を見たときに。
 私たちの労苦は、そう簡単には良い実を結ばないかも知れません。「ああ。やっぱり無駄だったか。何の役に立つのだろう」とがっかりする日々がつづくかも知れません。けれど思い出してください。主イエスがよくよく指図を与え、「皆が皆、すぐに簡単に神の国の福音を信じるわけではない。拒まれることもあり、嫌な顔をされたり、押しのけられたりもするだろう」と言い含められて、そのように最前線に送り出したあの最初の働き人たちの姿を。すぐに諦めたりせず、あなたも忍耐深く働きなさい。弱り果てずに、良い種をまきつづけなさい。私たちはそれぞれに土を耕し、雑草をむしり、水をまき、土に肥料を与え、しかも、それだけではなく神ご自身が成長させ、実を結ばせてくださる。聖霊なる神さまだけが、その種に生命の息吹を吹き込んでくださる。主イエスは、私たちそれぞれの心の中に何があるのかをよくよく御存知です。もし、私たちが撒いた種がほんのわずかしか実を結ばなかったとしても、それでもなお主イエスは、その一つ一つの働きや労苦を決して軽んじたり見下したりはなさいません。なぜなら、「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくる」からです。主の口から出る主ご自身の言葉も私たち一人一人も、主のもとに虚しく帰ることはありません。主の御もとに帰るそのときまで、主なる神さまの喜ぶところのことを願い求め、精一杯になし、主が命じ送ったことを必ずきっと果たします(詩篇126:5-6、イザヤ書55:10-11参照)。主ご自身からの約束だからです。