2019年10月20日日曜日

10/20「出血の病の女性を癒す」ルカ8:43-48


                       みことば/2019,10,20(主日礼拝)  237
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:43-48                        日本キリスト教会 上田教会
『出血の病の女性を癒す』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

8:43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。(ルカ福音書 8:43-48)
 43-44節。この1人の女性には、長い長い苦しみの日々がありました。12年間も。気の遠くなるような、うんざりして、すっかり心が挫けてしまっても不思議ではないほどの、長い長い時間です。
 「医者のために自分の身代をみな使い果たしてしまった」と報告されています。さまざまな治療を試み、たくさんの医者にかかり、けれどもその結果はむなしいものでした。今日でもさまざまな社会や場所で、救いや平安を求めながら、けれど途方に暮れ、打ちひしがれて心細く暮らす人々が大勢います。どこに救いや助けを求めて良いか分からずに。その彼らもまた間違った解決策にすがり、「少しも良くならない。かえって、ますます悪くなった」とため息をつくかも知れません。さまざまな宗教を頼みにして渡り歩く人々もいます。人間が勝手に作り出した怪しげな救いに騙される人々もたくさんい続けます。そして、何の役にも立たなかったと。「どこにも何の希望も見いだせない。誰にも助けてもらえないだろう」と打ちのめされ、がっかりしています。「探しさえすれば必ずきっと見つけ出せるのに」と聖書は語りかけます。あの彼らが救いと解放を求めてコンコンとノックしてみなかった、ただ一つのドアがあります。尋ねてみなかった、ただお独りのとても良い医者がいます。あの彼女は、けれどとうとう辿り着きました。他すべての医者を試した後で、とうとう救い主イエスのもとに来てみました。他の大勢の人々も、あの彼女と同じようにしてみればいいのに。
そうした悩みの日々に、あの彼女は、主イエスのことを耳にしました。群衆の中に紛れ込み、後ろからそっとイエスの服に触れました。「この方の服の房にでも触れれば癒していただける」と思ったからです。そして癒されました。けれどもどうして、群衆に紛れて、なぜ後ろからそっと触れ、そのまま立ち去ろうとしたのでしょうか。出血を伴う病気は、当時のこの社会の中では『汚れたもの』とされ、その人自身も、その人の寝床も、衣服も手にもつ小物や袋もなにもかも皆、『汚れたもの』と見なされました(レビ記15:25-参照)。その人は行動をきびしく制限され、「人前に出ることを極力慎むように、自宅周辺で、ただ独りで安静にしているように」と命じられました。そうでなければ、うっかり触れてしまった相手に迷惑をかけてしまうからと。神さまに対しても周囲の世間様や人様に対してもふさわしくない私、癒されるに値しない私だからと、この人は身を慎んで、陰に隠れて暮らしてきました。ですから、禁じられている集団の中にひそかに紛れ込んだとき、この人は、恐ろしさと申し訳なさと心細さで、身の縮む思いがしたでしょう。「見つかったら、なんと責められるだろうか。いったいどれほどきびしく非難されるだろう」と気が気ではなかった。けれどその一方で、この一人の女性は信じたのです。このお独りの方こそが、私を癒してくださる。ここに私の救いがある。このお独りの方からの救いを、誰に叱られても何を言われても、私はぜひ受け取りたい。ぜひ何としてでも受け取ろう。掴み取ろう。
  たとえ主イエスの衣の房にでも、後ろからでも、触れさえすれば癒される、と彼女は思いました。恐る恐る、そお~っと手を伸ばしました。「素朴な、単純すぎる信仰だ」などと侮って、見下してはなりません。「主イエスとこの信仰のことを、どの程度に知っていたのか。十分に分かったうえで、それをしたのか」などと、品定めしてはなりません。あなたも私も、他の誰も、審査委員でも試験官でもありません。48節をご覧ください。主イエスご自身こそが、はっきりと太鼓判を押しておられます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。主イエスの言葉を、そのまま文字通りに、額面通りに受け取りましょう。たじろぎ、何をされるかと恐れながら、けれどもこの一人の人は主イエスへと手を伸ばしました。彼女の信仰は、主へと手を伸ばし、主へと向かう信仰です。悩みがあり、とても抱えきれない困難があり、重すぎる課題があります。それらを抱えて、あの一人の人は、そこで、そのようにして主イエスへと向かいました。ただ信じて。主イエスは、この人の在り方をつくづくと見て、こう仰います。「よし。それだ。それでいい」と。私の抱えたこの問題、この困難は、主イエスの御前に持ち出すにはふさわしくない。主にふさわしくない私、値しない私だ。帰ろう。いつかそのうち都合がついて準備がだいたくい整ったら出直そう、諦めよう。けれども救い主イエスは、その人を迎え入れるためにすでに準備万端だったのです。いつでも来なさい。とにかく来なさい。まずあのことこのことと後回しにし、二の次三の次にしつづけるのではなくて、いっそ今すぐに来たらどうなんだと。恐れや不安や、一見慎ましそうに見える遠慮に惑わされてはなりません。あのことこのこと、あの人たちこの人たちに目を奪われすぎて、あなたは主を見失ってはなりません。私たちは、主イエスに近づいてゆくことを断念してはならないのです。あなたに触れようとして、ぜひあなたと出会おうとして、あなたのためにも、すでに主イエスは準備万端でありつづけます。
  私たち人間への神さまからの招きは、あなどられ、軽んじられ、誤解されつづけます。「さあ渇いている者は皆、水に来たれ」「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい(イザヤ書55:1,マタイ福音書11:28-。そこで、いったい何が語りかけられていたでしょう。神さまはどんな神さまで、この私たちのために、何を願ってくださっているでしょう。格別なおいしい水を、どの旅人にも飲ませてあげたいのです。ただで。担いきれない重荷を下ろさせ、休ませてあげたいのです。何の交換条件もなしに。それだけです。けれど無理矢理にはできませんし、無理矢理にはしたくはない。しかもそれは、仕事でも義務でも責任でもありません。ただただ恵みの贈り物であったので、双方合意のうえでのやりとりだからです。「あげますよ。はいどうぞ」「ありがとう」と。ですから、せっかく格別な井戸の水の傍らまで連れてこられても、「もしチャンスがあれば、いずれそのうちに」などと言いつつ飲もうとしない者たちが大勢おり、つまらなそうにうさんくさそうに通り過ぎてゆく者たちがたくさんいます。「重荷を降ろしたらどうです」と誘われても、「いいえ、間に合っています」などと。もちろん分け隔てをなさらない神さまです。線引きをし、分け隔てをしつづけているのは、もっぱら私たち人間たちではありませんか。招かれる者は多い。けれど、「それじゃあ」と実際に水を飲む者は少ない。重荷を下ろす者たちは、とてもとても少ない。
  45-48節。「イエスは言われた、『わたしにさわったのは、だれか』。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが『先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです』と答えた。しかしイエスは言われた、『だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ』。女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。そこでイエスが女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」。なぜ主は、わざわざ振り向いて「触ったのは誰か」と問いかけ、その人を探しつづけ、とうとうこの人を見つけて、この人に『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』とわざわざ声をかけるのでしょう。彼女自身のために、この語りかけをこの人にぜひとも聞き分けてもらう必要があるからです。なお救われつづけて、この人が安心して毎日毎日を生きるためにです。この一人の女性にも、私たち一人一人にもやはり主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。だから、安心して行きなさい」とおっしゃいます。それは、むしろ「信じるあなたとしてあげよう」という主の約束です。「きっと信じるあなたとする。私が、する。そうすれば、あなたはしっかりすることもできる」という主の決断であり、主イエスを信じて生きることへの招きであり、断固たる宣言です。ですから信仰は、『信じるあなたとしてあげよう』という主イエスへの屈服であり、「参りました。よろしくお願いします」という同意です。疑いながら、迷いながら、けれど私たちは信じました。ここに私たちの救いがあります。この方からの救いを、私はぜひ受け取りたい。ぜひ何としても受け取ろう。掴み取ろう。喜びの日に、その喜びをもって主へと向かう信仰です。それだけでなく悩みと苦しみの日にも、その崖っぷちの日々にこそ、その悩みと苦しみをもって主イエスへと向かう信仰です。主イエスを信じたあなたであり、私です。信じたことは積み重なり、深まっていきます。主と出会いつづけ、主を知りつづける中で、ますます色濃く、ますます深くはっきりと魂に刻み込まれていきます。さまざまなものを恐れていた私です。震えて身をすくませていた私です。不思議なことに、今、主の御前に据え置かれている私たちには恐れはありません。しかも兄弟たち、主の御前ではないどこか他の別の場所などどこにもなかったのです。主の力が及ばない他の別の場所など、どこにもなかったのです。出血の病いに長く苦しみつづけて、主イエスと出会い、とうとう助けていただいた一人の女性。「これは私のことだと、つくづく思いました。本当に嬉しかった」と、ずいぶん前に一人の人が語っていました。「ああ、本当にそうだねえ」と喜び合いました。苦しんでいた長い時間があり、私の失望と落胆があり、願い求めた素朴な期待があり、ついに、とうとう主イエスと出会いました。ですから渋々でも恐れながらでも、他の誰が言っても言わなくても、なにしろ私は言いましょう。「はい、私です。私こそが主の衣のすそに触れました」と。「主イエスと出会いました。その出会いを一つまた一つと積み重ねてきました。主によって支えられ、主によって慰められ、心強く励まされてきた私です。確かにそのとおりです。救い主イエスを信じる信仰こそが私を救いました。この私を、どんな困難や悩みや恐れからも救い出しつづけます。この救い主からこそ、私のためのすべての助けと格別な良いものが贈り与えられつづけます。ですから貧しく身を屈めさせらるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。恐れと心細さに飲み込まれそうになるとき、ガッカリし、疲れ果てて、心がすっかり挫けそうになるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。「一体どうしたらいいんだろう。誰が私を助けてくれるんだろうか」と途方に暮れるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。恨みや憎しみに身を焦がすとき、苛立つとき、踏みにじられ傷つけられるとき、人を傷つけてしまったとき、激しく怒るとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。もちろん、恐れることは度々ありました。心を曇らせ、すっかり嫌気がさし、とても心細いときがありました。今も度々そうです。けれど主へと向き直る度毎に、それは取り払われました。そこで、主と出会いました。主との出会いを、この私たちもまた、一つまた一つと大切に積み重ね、つくづくと噛みしめてきました。

              ◇

だからこそ、私たちはここにいます。それは、まったく恵みであり、自由な贈り物でした。まったくの恵み。だからこそそれは、この私が何者であるのかをもはや問いません。この恵みとゆるしのもとに据え置かれて、私たちはもう互いに、大きいだの小さいだの、貧しいだの豊かだの強いだの弱いだの、見苦しいだの見劣りがするだのと見比べ合うことをしなくてよいのです。それら一切は、取るに足りない、あまりにささいなこととされました。それよりも千倍も万倍も大切なことがあるからです。私たちの主なる神さまは生きて働いておられます。私たちの主は、私たちを愛してくださり、私たちのためにも十分に、十二分に、強く豊かであってくださいます。
だからこそ、たとえ私が弱くても、私には恐れはありません。私が貧しくても、小さくても愚かであるとしても、ひどく不確かであっても、何の不足もありません(讃美歌461番,詩23:1-427:1-6参照)。この私がたとえ若く未熟であっても、世間の道理をわきまえずあまりにモノを知らなくても、私が年老いていても、弱り果て、今はまだ心を挫けさせているとしても、それでもなお、私たちには一つの確信があります。救い主イエスに対する確信です。この主に私たち自身の一切をゆだねることができる、という確信です。ゆだねるに足るお独りの方と出会った、という確信です。


天と地とその中に満ちるすべて一切の造り主であられる神さま。
世界と隣人と私たち自身の平和を思うための季節を過ごしています。「私の平和を残していく」と御子であられる救い主イエスが約束なさったからです。長野県とこの近隣地域も含めて、各地で自然災害の甚大な被害を受け続けています。そのため心細く不自由に暮らす人々、亡くなった方々の遺族を慰め、支えて下さい。救助と支援にあたる人たちの安全をお守りください。路上生活を余儀なくされたホームレスの数多くの人々もまた、邪魔者扱いされることも不当に排除されることもなく、一日ずつを生き延びて、心安らかに暮らすことができますように。
また私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。どうか神さまご自身の恵み、憐み、平和を私たちに思い起こさせてください。私たちの出会いを通して悲しみの中に慰めを、痛みの中に癒しを、 疑いの中にあなたへの信仰を、主よ豊かに注ぎ込んでください。私たちを新たにし、 あなたの示される解放と平和への道を歩む者としてください。
神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。

主イエスのお名前によって祈ります。  アーメン