2022年5月23日月曜日

5/22「非常な喜び、大きな喜び」ルカ24:50-53

      みことば/2022,5,22(復活節第6主日の礼拝)  372

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:50-53             日本キリスト教会 上田教会

『非常な喜び、大きな喜び』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕52 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。ルカ福音書 24:50-53

50-51節、「それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた〕」。両手を高く掲げて、救い主イエスは弟子たちを祝福しました。この仕草は旧約聖書以来、今日まで馴染み深い、祭司が神の民を祝福する際のその祝福の務めを意味しています(注)。この『祭司の務め』は、『預言者の務め』、『王の務め』と共に、本来、救い主イエスにこそ属するべき3つの務めのうちの1つです。この教会で用いている『こども交読文』も、このことをていねいに説き明かしています。「主イエスのつとめは何ですか」「預言者、大祭司、王の王です」。「主イエスの預言者のつとめは何ですか」「神の永遠のみこころを お教えくださいます」。「主イエスの大祭司のつとめは何ですか」「ご自分のお体を十字架にささげて、わたしたちの罪の罰を受けてくださり、天で わたしたちのために父なる神さまに、とりなしていてくださいます」。「主イエスの王のつとめは何ですか」「すべての人と教会を治めるために御言葉をお語りくださり、聖霊をお送りくださいます。また、わたしたちを守ってくださいます」。救い主イエスは、父なる神さまから『救い主』というお働きを与えられ、この世界に送られてきました。この世界を救うその働きは、『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもっています。『預言者』として救い主イエスこそが神の御心を教え、『大祭司』としてご自分のお体を十字架にささげて私たちの罪のあがないを成し遂げ、『王』として御言葉と聖霊によってキリスト教会とこの世界すべてを治めてくださいます。

また、この救い主イエスを信じるすべてのクリスチャンたちは主イエスの弟子とされて、同じく、この世界に対して『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもって働きつづけます。「私にそんな難しそうな仕事ができるかしら?」と心配になりますか。大丈夫です。神さまがどんな御心なのかを教えられ、どんな神さまでどんな願いをもって働いておられるのかも知らされています。ですから、それぞれの分に応じて、口下手は口下手なりに、「こういう神様ですよ」と周囲の人々に知らせてゆく。これが預言者の役割。神と人間、人間と人間との間に立って仲直りと平和のための使者として、祭司の役割を担って働く。また、神の御心にかなった世界と私たちになってゆくために、王の役割さえ担って生きてゆく。およそ500年前の宗教改革者は、「クリスチャンは地上のすべての支配者や権力者の上に立つ王であって、何者にも膝を屈めず、言いなりにされない。しかもクリスチャンは同時に自由なしもべであって、心低く、誰にでも奉仕する」(『キリスト者の自由』Mルター,1520年)と告げました。そのとおりです。

52-53節、「彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」。彼らは救い主イエスを礼拝した、とはっきり書いてあります。マタイ福音書の最後の部分(マタイ28:17でも、やはり『弟子たちがイエスを礼拝した』と、はっきり報告しています。救い主イエスを礼拝することこそが、救い主イエスを信じる信仰のはっきりした分かれ道であり、欠くことのできない土台であり、揺るぎない旗印でありつづけるからです。「彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」。救い主イエスを礼拝し始めている。それこそが、神に十分に信頼を寄せつづけて生きることの基本の土台です。その中で、神にこそ十分に信頼を寄せることが養い育てられ、堅くしっかりしたものとされてゆくからです。神を信じて生きる私たちにとって、それこそが非常な喜びの中身であり、誰かに盗まれることも無く、朽ちることもしぼむことも無い喜びの本質です。

『喜び』は、『恐れ』と正反対の有様です。神を喜ぶことを邪魔しつづけていたのは、神以外の何者かに対する恐れです。また同時に、神以外の何者かに対する、限度を越えた信頼です。非常な喜びのもとにようやく辿り着いたあの彼らは、ほんの少し前には、人間たちを恐れ続け、信頼を寄せすぎていました。主イエスを憎んで殺してしまった彼らが、自分たちをも憎んで殺してしまうかも知れないと恐れて、家の中に身を隠し、閉じこもって鍵をかけ、小さくなって震えていました。あの彼らに何をされるか分からないと。人間を恐れ続けていた、とても臆病だったその彼らが、とうとう、「非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえている」。安心して神をほめたたえている。救い主イエスを礼拝する者たちとして、公けに、そこで神にこそ信頼を寄せつづけています。

「神ではないあらゆるものに対する恐れを取り除いていただき、神にまったく信頼するためにはどうしたらいいのか」(『ジュネーブ信仰問答』問7-14 J.カルヴァン 1542年)500年前の信仰問答は問いかけ、直ちに、それに対する明瞭な答えを差し出しています。「まず、神が全能であり、完全に善意でありたもうことを知ることです」「それで充分ですか」「いいえ」「なぜですか」「神が御力の助けをお与えくださり、慈しみを注いでくださるだけの価値が私たちには無いからです」「では、そのほかに必要なことは何ですか」「神が私たちを愛していたもうこと。また私たちの父となり、救い主となってくださる御心を、確信することです」「そのことを、私たちはどのようにして知るのでしょうか」「神の御言葉によってです。御言葉によって神はイエス・キリストにある憐みを宣言し、私たちに対する慈愛を保証してくださるのです」「したがって、神に対する真の信頼の基礎は、イエス・キリストのうちに神を認識すること」「本当にそうです」。神が御力の助けをお与えくださり、慈しみを注いでくださるだけの価値が私たちには無いからですと聞いて、本当に驚きました。読み直す度毎にとても驚き、そして感謝があふれます。「自分には価値がある。ふさわしい自分だし、価値がある。もしなければ、とても困る」と勘違いをして思い込んでいたからです。価値がないのに、にもかかわらず愛してくださると分かって、それでようやく神の憐れみと慈しみを知り、神に必要なだけ十分に信頼を寄せることができます。さらに、「神はイエス・キリストにある憐みを宣言し、私たちに対する慈愛を保証してくださる。したがって、神に対する真の信頼の基礎は、イエス・キリストのうちに神を認識すること」。

さて、52節の、主イエスを礼拝することから彼らが受け取って持ち帰った『非常な喜び』。(この小さな言葉に引っかかりました。何だろう。よく知っている気がする。どこで聴いただろうかと、5~6分間ほど考え込みました。思い出しました。とても大切な大きな1つの喜びについて、聖書は何度も何度も何度も語りつづけてきました。今日、聴いていただくべき最重要のポイントです)それは『大きな喜び』であり、ただ上から、神ご自身から贈り与えられる喜びである他ありません。朽ちることもしぼむことも盗まれることもない喜び。最初のクリスマスの夜、羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。主の御使が現れ、羊飼いたちに語りかけた、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」と。これです。このことです。あらかじめ告げ知らされていた、救い主イエス・キリストによる『すべての民に与えられる大きな喜び』。つまり、この『非常な喜び』が、ここで、ついにとうとう、こうして実現しはじめました。まず、おびただしい天の軍勢、そして御使い、さらに私たちも一緒になって神を讃美して言うことができます。

さらに、この同じ1つの『非常な喜び。大きな喜び』は、世界創造の6日目の、造られたすべての被造物を見て「とても良い。極めて良い」と喜び祝ってくださった神ご自身のあの喜びです。神が喜んでくださることを地上に住む私たちもまた自分自身の喜びとして大いに喜び祝い、心から感謝し、その喜びと信頼と感謝を互いに分かち合うことです。だからこそこのルカ福音書15章の3つの譬え話は、その同じ1つのことを繰り返し告げ知らせ、指し示しつづけていました。よく聞きなさい。罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。よく聞きなさい。罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。救い主イエスを礼拝し、イエスによる神の憐れみを受け止めること。神がお喜びになることを私たちも自分のこととして大いに喜び祝い、すると同時に、神が悲しみ嘆くことを私たちもまたはなはだしく忌み嫌い、悲しみ嘆くこと。とりわけ特に、『神の御心ではなく、ただただ私たちの思いのままにさせてください』と願い求めることが決してないように。とても不信仰で自分中心な腹の思いを悲しみ嘆くことができますように。なぜなら、知らず知らずのうちにいつの間にか、『とても狭い惨めな世界に閉じ込められやすい私たち』だからです。若者も年配の者も小さな子供たちも、心が弱っているとき、大きすぎる悩みや苦しみを抱えているときなど、いつの間にか何度も繰り返して『狭い惨めな自分だけの世界』に閉じ込められます。すると自分の近くにいる誰かがわざと、不当に、自分に意地悪をし、苦しめていると思い込んでしまいます。それで、その人を憎んだり恨んだりしはじめます。自由のない、惨めな魂の牢獄。なぜ分かるかというとこの私自身も被害妄想に取りつかれやすい、臆病で自尊心が高すぎるうえに劣等感のかたまりのような、とても弱い、しかも自己主張が強すぎる人間の1人だからです。あなたと同類です。けれど憐み深い神なら、そんな私たちを『狭くて惨めな自分だけの牢獄』から、つまり罪と悲惨の只中から救い出すことができます。だからこそ見失った1匹の羊をどこまでも探し求め、見つけて肩に担いで帰ってきたあの羊飼いは、友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と招きます。1枚の銀貨を失くして悲しみ嘆きながら探し求めてついに見つけたあの女性は友だちや近所の女性たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と。いなくなって死んだと思えていた息子の1人をふたたび迎え入れることのできたあの父親は、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻します。『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもう。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』と。けれどなんということでしょう。父のそば近くに暮らしつづけていたあの兄さんは、一緒に喜ぶこともできません。いつの間にか、自分が父のあわれみを受けてその子供にしていただいていることをすっかり見失っていたからです。その淋しい兄たちをも、父はこの同じ1つの『非常な喜び。大きな喜び』へと招きつづけます。『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえではないか』と。かつて神の民ではなかった私たちは、神からの憐みを受け取り、それを自分自身の喜びとして大いに喜び祝い、感謝し、神へと向かうその喜びと信頼と感謝を互いに分かち合う者たちとされました(1ペテロ手紙 2:10参照)。そこにこそ、同じ一つの『非常な喜び。大きな喜び』がありつづけます。だから、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上で、この私たちの只中においても、み心にかなう人々に神ご自身からの恵みと憐れみと平和があるように」。この私たちと家族のためにも、ぜひ、そうでありつづけるように。

 

(注)その祈りが形ばかりの、中身のない虚しいものに成り下がってしまったとき、預言者は彼らを叱り、励ましました。「私たちは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。私たちは天にいます神に向かって、手と共に心をもあげよう」(哀歌3:40-41参照)。形も大切ですが、中身のほうがもっと大切です。手を上げることも大切ですが、神に向かって心をあげないなら、その祈りや祝福はただ虚しいだけだからです。

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

5/22こども説教「キリストの日に備えて」ピリピ1:8‐11

5/22 ピリピ手紙 1:8-11

 『キリストの日に備えて』

 

1:8 わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。9 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、10 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、11 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。                   (ピリピ手紙 1:8-11

 

 

 【こども説教】

 神さまを信じる私たちの信仰は、少しずつ成長してゆきます。神さまが成長させてくださろうと願って、そのように養い育て続けていてくださるからです。9-10節、「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ」と、その成長の様子と中身が教えられます。まず、「深い知識」について、聖書の別の箇所で分かりやすく説明しています、「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:2-3)。神の正しさを知らないで、「自分は正しい、正しい」と言い張りつづけるようなら、その信仰の知識はとても浅すぎると言われます。また、その知識が「神ご自身の正しさや御心」に従おうとするものなのか、そうでないのかは、その正しさが他の人たちから受け入れられないときにはっきりと分かります。もし、そこで、とても嫌な気持ちになり、腹が立つようなら、その考えは「神の正しさや御心」ではなく、「自分の正しさ」を言い張ろうとする浅すぎる知識や自分の腹の思い(ローマ16:18,ピリピ3:19から出ていることがはっきりと分かります。

 ですから、神の御心にこそ素直に聞き従って生きる「深み」へと、少しずつ少しずつ神ご自身こそが私たちを連れて行ってくださいます。他のどこにもない格別な幸いが、そこで私たちを待ち構えています。

 

 

 

 【大人のための留意点】

 愛のない祈りは、自分勝手で、まるで空気に向かって怒鳴っているように、からっぽでしょう。反対に、祈りのない愛は、とかく、ひとりよがりの愛になってしまいます。わたしたちは、人を愛するときも、神さまのお力を借りなけくてはなりません。神さまから力をいただいて、初めて敵をも愛する力が出てくるのです。私たちは、物が無くなったり、健康がそこなわれたりすると、非常に慌てふためき、思わず知らず「神さま」といって祈りますが、信仰や愛が足りないことで祈るでしょうか。……本質的なもの、重要なもの、一番たいせつなものを見分ける眼が、わたしたちにはあるでしょうか。案外、つまらないものに囚われて、腹を立てたり、イライラしたりしているのではないでしょうか。現在とてもたいせつに見えても、最後にはつまらない土くれ(=土のかたまり)すぎないものもあります。今はつまらない価値のないものに見えても、最後にイエスさまがいらっしゃるとき、ほめていただけるものがあります。神さまの愛をあらわし、隣人を心から愛してゆけるものです(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 

2022年5月16日月曜日

5/15「約束されたものを贈られる」ルカ24:44-49

  みことば/2022,5,15(復活節第5主日の礼拝)  371

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:44-49    日本キリスト教会 上田教会

『約束されたものを

贈られる』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらの事の証人である。49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。             ルカ福音書 24:44-49

まず44-46節、「それから彼らに対して言われた、『わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する』。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる』」。十字架につけられて殺された救い主イエスは墓に葬られ、三日目に死人の中からよみがえり、その復活の姿を多くの弟子たちに見せてくださり、やがて間もなく、弟子たちが見ている前で天に昇っていかれます。その前に、あの弟子たちと私たちに格別な贈り物を贈り与えてくださいます。つまり、「聖書を悟らせるために彼らの心を開いた」。もちろん、彼らはそれまで旧約聖書に書かれていた事柄を何一つ知らなかったわけではありません。また、ごく普通の人々が自分自身で聖書を読んで理解することがまったくできない、というわけでもありません。救い主イエスはここで、それまで弟子たちの目と心から隠されていた多くの箇所の意味を必要なだけ、すっかり十分に知らせました。とりわけ、救い主がこの地上に来て、何を成し遂げるのかを告げ知らせつづけていた預言者たちの、その多くの言葉の本当の意味と中身をです。

聖書はこう証言します、「生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また、彼はそれを理解することができない」(1コリント手紙 2:14生まれながらの人。私たちはそれぞれにとても高い自尊心をもち、こうあるべきだというそれぞれの先入観をもち、また、この世界のさまざまな事柄に執着して、自分の心を頑固にしてしまいます。学者や研究者たちや牧師もそうです。1人の例外もなく誰もが、このような生まれながらの人間でありつづけます。ですから、もし、聖書を読んで、そこから有益なものを受け取りたいと願うならば、誰でも、「神さま。どうか私の心を開いて、あなたの御心を受け止め、それを分かることができるようにしてください」と願い求めなければなりません。

「わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」。キリストが苦しみを受け、殺され、葬られたことは、ご自身にとってさえ、不幸せな嫌な出来事などでは決してありませんでした。死人の中からよみがえったことも含めて、それらは私たち罪人とこの世界を救い、祝福のうちに回復するためにどうしても必要なことでした。もし、その死と復活が無かったとしたら、この私たちもまた罪から解放されることもなく、今なお罪と悲惨さの中に閉じ込められたままで、惨めな暮らしをしつづけていたはずでした。救われるに値しない罪人である私たちが、けれどなお神の憐れみを受けました。ただ救い主イエスを信じる信仰によって救われたのであり、だからこそ、そこには何の差別も分け隔てもなく、この私たちは、価なしに、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスのあがないによって、義とされ、救いに招き入れられました(ローマ手紙3:21-27参照)。神さまからの憐れみを受けた、哀れな罪人である私たちです。だからこそ、神のその憐みのもとに安心して留まることをゆるされ、恐れなく神に近づき、憐みの神に呼ばわりながら生きることができます。

47-48節、「そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である」。救い主イエスが天に昇って行かれて後、「イエスの名によって、罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」。誰によってか。救い主イエスを信じる弟子たちによって。つまり、私たちを含めたすべてのクリスチャンによってです。私たちの大切な家族や友人や隣人たちをも含めた、もろもろの国民に向けて、この私たちが語りかけることによってです。救い主イエスご自身が、このように命じつづけておられます。「あなたがたは、これらの事の証人である」と念を押されています。私たちを含めたすべてのクリスチャンは、「悔い改めて、罪のゆるしを神から受け取りなさい」と宣べ伝えます。宣べ伝えるばかりではなく、『日毎に悔い改めて、罪のゆるしと、自分自身の罪からの解放を受け取りつづけて生きることの証人』とされ、ですから『互いにゆるし合う者たちとされ、自分自身の生きざまと日毎の暮らしぶりがその神さまからの憐れみの生きた見本とされる』と約束されています。証人とはそのことです。

『悔い改めと罪のゆるし』。これこそが、すべての人間と、もちろんすべてのクリスチャンがよくよく心に留め続けるべき、とても大切な生命線でありつづけます。私たちクリスチャンもまた、信仰に入ったばかりの最初の頃に何回かというだけでなく、一生涯ずっと、悔い改め続ける必要があります。宗教改革者は、それは「日毎の悔い改め」だと説き明かしました。毎日毎日、神へのはなはだしい背きと自分自身の罪に気づいて、毎日毎日わたしたちは悔い改めつづけ、神の憐れみとゆるしのもとへと立ち帰りつづけて生きるのだと。なぜなら、一人の例外もなくすべての人間が、生まれつき、はなはだしくよこしまであるからです。悔い改めて、憐みの神へと心を向け返すのでなければ、誰一人も神の国(=神のお働きの領域)に入ることなどできないからです。「救い主イエスを信じる者たちすべての罪をゆるそうとして、神はすっかり準備万端である」と教えられ、習い覚えてきました。その通りです。すべての人間がはなはだしく罪を犯しつづけてきたのであり、神の怒りをかうに値します。けれどなお救い主イエスを信じる信仰によって、価なしに自由に、すっかり、直ちに、その罪をゆるされます。しかも、『悔い改めと罪のゆるし』は1組とされ、互いに堅く結び合わされています。悔い改めたからといって、神からゆるされる権利があるとか、当然ゆるされるべきだというわけではありません。罪のゆるしは、救い主イエスを信じる者たちのための、神からの自由な、ただ恵みの、価なしの贈り物でありつづけます。しかもなお、悔い改めようとしない、心を頑固にしつづける者たちは、その神からの憐れみもゆるしも受け取ることができません。

 

              ◇

 

決して二度と忘れてはならない1つの譬え話が、救い主イエスの口から語られました。王様が家来たちに貸し与えていた借金の決算をしました。莫大な額の負債がある1人の家来が王の御前に連れて来られました。とうてい返すことができませんでした。「家や土地と持ち物全部ばかりでなく、自分自身と妻と子供たちを奴隷に売り払って返すように」と命じられました。この家来はひれ伏して、どんなに困り果てているかを泣きそうになって必死に訴え、願いました。『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。すると、家来の主人である王様はかわいそうに思って、彼をゆるし、その負債をすべてぜんぶ帳消しにしてやりました。その僕が出て行くと、自分がほんのわずかばかりの金銭を貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言いました。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼みました。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れました。この家来が何をしたかが王の耳に入り、そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』」(マタイ福音書 18:23-33参照)わたしたちは、この憐み深い王様に対しても、またお互い同士に対しても、とても悪いしもべでありつづけます。深呼吸をし、心を鎮めて、毎日、朝も昼も晩も、このたとえ話を読み返しつづける必要があります。もし、うっかり忘れてしまえば、このとても悪いしもべと同じ冷酷で無慈悲な振る舞いを私たちは互いに対して朝から晩まで毎日毎日しつづけることになるでしょう。「わずかな借金を返せ」と首を絞め、苦しめて踏みつけにし、牢獄に閉じ込め、そうやって自分自身とまわりにいる大切な人々をそこない、おとしめつづける。しかも何よりも、そのとき、思いやり深く寛大な王様からどんなに温かい扱いをこの自分自身が受けてきたか、王様への膨大な借金をすっかり丸ごと帳消しにしていただいたことも忘れて、その王様の家来の1人とされていることも投げ捨ててしまっている。なんと惨めで恐ろしいことでしょう。けれど、もし、「これは私のことだ」と気づくなら、その悪いしもべは幸いです。ただそれだけで、神の憐れみ深さに対して、その憐みを受け取って神の民をされたことについて、その悪いしもべはすでに十分に証人の役割を果たし始めています。『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。

さて49節、「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。御父が約束してくださったものを、すでに私たちは救い主イエスから贈り与えられつづけています。上からの力とは、上からの恵みと憐れみと平安です。「日毎の悔い改め」であり、毎日毎日、神へのはなはだしい背きと自分自身の罪に気づいて、毎日毎日わたしたちは悔い改めつづけ、神の憐れみとゆるしのもとへと立ち帰りつづけて生きることです。1人の預言者は語りかけました、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ」。では私たちは何をしたらよいのかと問われて、こう答えました、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい。きまっているもの以上に取り立ててはいけない。人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」(ルカ福音書 3:7-14。別の預言者は呼ばわりました、「あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って(=ひるがえって。正反対の方へと、つまり神の憐れみへとグルリと向きを変えて)生きよ」(エゼキエル書 18:31-32

 

 


【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

5/15こども説教「福音にあずかっている」ピリピ1:3-7

5/15 こども説教 ピリピ手紙 1:3-7

 『福音にあずかっている』

 

1:3 わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、4 あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、5 あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。6 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。7 わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。 (ピリピ手紙 1:3-7

 

 

 【こども説教】

 まず5節で、「あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している」と語りかけています。最初の日があり、そして今のときがあります。この上田教会にも最初の日があり、150年近くもの長い長い時間が流れ、多くの人たちがここで神さまを信じる信仰を与えられ、養い育てられつづけてきました。また、ここに集まっている1人1人もそうです。それぞれに、神を信じるようになった最初の日があり、神の国の福音にあずかりつづけ、それぞれに長い時間が流れ去りました。そして今もなおこうして、神を信じる者として暮らしつづけている。そのことを思い起こして、喜び、神に感謝しています。神さまこそが、それを成し遂げてくださったと知っているからです。

 6節、「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」。誰かが、あるとき、神さまのことを知った。やがて、その神を信じて生きることをし始めた。その人は、神の国の福音にあずかりつづけて生きてきた。しかも、そうはならない場合もありえました。途中で、道を逸れてしまい、神さまから遠ざかってしまう人たちもいるからです。けれどそうはならずに、神の福音にあずかりつづけている。それは、神さまがそうしてくださったからです。神さまこそが私たち1人1人の中にも『神を信じて生きることができる』という格別に良い働きを始めてくださった。それを、必ずきっと神さまご自身が成し遂げてくださる。そう確信しているし、信じてもいるので、願い求めつづけています。私たちもそうです。

 

 

 【大人のための留意点】 祈りについて

問い 祈りは本当に聞かれるのでしょうか。

答え 聖書には、「何事でもわたし(=主イエス)の名によって願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ福音書14:14とありますし、「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ」(ヤコブ手紙4:3)と書いてあります。

問い では、正しい求め方というのは?

答え 祈ることによって、わたしたち自身が変えられなかったら、そして神さまの御心に近づいてゆくのでなかったなら、神さまの御名によって求めたことにはならないのではないでしょうか。イエスさまもゲッセマネで、「しかし、わたしの思いではなく、御心のままになさってください」(マルコ福音書14:36と祈りました。また『主の祈り』では、第一に「み名をあがめさせたまええ」と祈り、第三に「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るようにと命じられています。そのことによって、神さまが大きくされるような祈りこそ、正しい祈りと言えましょう(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 

 

 

2022年5月10日火曜日

5/8「信じられない弟子たち」ルカ24:30-43

      みことば/2022,5,8(復活節第4主日の礼拝)  370

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:30-43               日本キリスト教会 上田教会

『信じられない弟子たち』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。36 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕37 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。38 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。40 〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕41 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。42 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。   ルカ福音書 24:30-43

3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。   (コロサイ手紙 3:1-4)

まず30-32節、「一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』」。救い主イエスご自身が、あの2人の弟子たちの目と心を開き、そこにいるのが主イエスだと分からせてくださった。すると、分かった途端に、主イエスの姿が見えなくされた。立ち止まって、どうしてそうなのかと、このことをよく考えてみる必要があります。

彼らも私たち11人も、目の前の出来事や、目に見えている姿形や有様にあまりに深く囚われ、心を奪われ、縛りつけられてしまいやすい。だから、まず神の大きな現実を見せられ、よくよく実感させられ、心に深く刻ませられ、次に、目の前のそのしるしと姿形がふたたび取り除かれ、目の前から隠されました。もっとよく見えるようになるため、もっとはっきと聞き分けられるようになるため、もっとしっかりと信じることができるようになるためにです。「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」。また、こうも約束されています、「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(コロサイ手紙3:1-5,2コリント手紙4:14-18

「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えた」。主イエスの姿形と声がふたたび隠された後も、なお心が内に燃え上がったその実感や感触や記憶が残っています。それらが、彼らと私たちの心を燃え上がらせ続けます。聖書の言葉自身によって、聖霊なる神のお働きによって。まず、そこにいて語り聞かせてくださっているお方がイエスご自身であることが分かった。語られ、見せられた言葉もしるしも、その中身もよく分かるようにされた。さらにご自身の手や足も見せられ、目の前で実際に魚を食べて見せてくれた。神の大きな現実を見せられ、よくよく実感させられ、心に深く刻ませられた。次に、目の前のそのしるしと姿形がふたたび取り除かれ、目の前から隠された。もっとよく見えるようになるため、もっとはっきと聞き分けられるようになるため、もっとしっかりと信じることができるようになるために。地上のものに心を引かれ、心を紛れさせ続けるのでなく、上にあるものを思うために。つかの間に朽ちて去ってゆく一時的なものにではなく、見えないものにこそ目を凝らしつづけて生きることができるためにです。

救い主イエスの死と、葬りと、復活。復活の姿をしばらく見せてくださり、やがて弟子たちが見ている前で天に昇っていかれ、いま、天の御父の右の座に座って、王としてこの世界と私たちを治めていてくださること。そのはっきりしたしるしと中身として、救い主イエスは私たちにご自身の聖霊を贈り与え、私たちの内に住まわせ、聖霊を私たちのために働かせ、神の国の福音が分かるように、福音のうちに生きることができるようにしてくださっている。そのため、まず神の現実を見せられ、よくよく実感させられ、心に深く刻ませられた。次に、目の前のそのしるしと姿形がふたたび取り除かれ、目の前から隠された。死と復活から、天に昇っていかれ、聖霊を贈り与えて下さるまで、同じことが何度も何度も繰り返して報告されつづけています。例えば、あの疑い深いトマスも同じ扱いを受けました。とても頑固で、信じることを拒み、心が鈍くされつづけていたからです。だから、あの彼のために、わざわざ次の日曜日に彼と他の弟子たちのためにもう一度救い主イエスは出かけてきてくださいました。前の週にトマスは言い張りました、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。一週間後、わざわざ強情なトマスのために主イエスは来てくださいました。頑固な彼と私たちが神を本気で信じて生きることができるために。主イエスが「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ福音書20:25-29見ないで信じることができる者は幸いです。その通り。けれど、何一つ見ないで、聴かないで、触れて確かめることもなく信じる者など滅多にいません。しかも、本気になって信じることができないままで一生を終わってしまうより、間に合ううちに信じることができるほうがよほど幸せです。神を信じて生きることができるなら、その人は、十分に幸せです。なかなか信じることができず、たびたび心を鈍くし、自分で自分の心の耳を閉ざして、よくよく聞こうともしないで信じることを止めてしまおうとしていたあのトマスと私たちのために、救い主イエスは何をしてくださったでしょう。わざわざ来てくださった。安かれと語りかけてくださった。手足と姿形と声を聞かせてくださり、釘で刺されたてのひらを目の前に差し出してくださった。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。疑いと心の鈍さと頑固さを拭い去っていただき、トマスは感謝と喜びにあふれてイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。エマオ村で、立ち寄ってくださり、パンを裂いて手渡してくださったように。魚を目の前で食べてくださったように。道々、ご自身のことについて聖書を説き明かしてくださり、聖霊の火で心を照らし、燃え上がらせてくださったようにです。あなたもそうしていただいたじゃないですか。何度も何度も。この私もそうです。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と、あなたや私のためにさえ、それを心から願ってくださって。

ノア。アブラハム、イサク、ヤコブもヨセフもモーセも、ギデオンも、ペテロもパウロも、そうそう、あのエチオピア人の宦官も同じことを何度もしていただきました。都での礼拝の帰り道に馬車に乗って、ぜひ分かりたくて信じたくて、聖書を声に出して読み上げていたとき、宦官に語りかける者がいました、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」。「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」。憐れな罪人の1人である宦官は初めて出会ったその伝道者に期待をかけました。もしかしたら、分からせてくれるかも知れない。神を信じて生きるための手引きをしてくれるかもしれない。馬車に乗って一緒に座って、手引きをしてくださいと願い求めました。ちょうど、あの2人の弟子たちに、主イエスが道連れになってご自身について書いてあることを説き明かしてくれたようにです。その箇所はイザヤ書53章でした。「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには」。宦官は、その見知らぬ伝道者に向かって質問しました、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。伝道者はぜひ答えるべき福音の答えを彼に説き明かしました。口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを、そして救い主イエスが罪人である宦官とあなたや私のために何をしてくださったのかを宣べ伝えました。この救い主を信じて、どのような希望と支えと喜びがあるのかを。救い主イエスを信じて、どのように生きることができるのかを。宦官は道端の川で洗礼を受け、クリスチャンとされました。「ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた」(使徒8:30-36

何がどう同じ扱いであるのかがお分かりになりますか。神さまこそが、その人の目と心を開き、そこにいるのが主イエスだと分からせてくださった。すると、分かった途端に、主イエスの姿が見えなくされ、その伝道者の姿も隠された。目の前に救い主イエスの姿形や声が見えても見えなくても、聞こえてもそうでなくても、そこにイエスがおられると分かり、聞き分け、主イエスを信じて生きるものとされました。兄弟姉妹たちよ。あなたがたが召されたときのことを思い起こしてご覧なさい1コリント手紙1:26。神を信じているはずのクリスチャンでも、誰でも、いつのまにかとても狭い、とても小さく貧しい世界に閉じ込められてしまう。自分自身の罪深さも愚かさも、憐みを受けてゆるされた罪人に過ぎないことも、すっかり忘れ果ててしまいやすい。自分自身のその折々の感情や気分や足元にばかり気を取られてしまいやすい。それで、見えなくされました。

もっとよく見えるようになるため、もっとはっきと聞き分けられるようになるため、もっとしっかりと信じることができるようになるためにです。見えないものに目を凝らしつづけて生きるための土台が、神の憐れみのお働きによって据えられました。その土台とは、聴いて、心に刻んできた神の口からの1つ1つの言葉です。神の国の福音の中身と、「ああ本当にそうだ」という実感と、多く愛され、多くをゆるされてきたことの感謝と信頼が、さらにその人を手引きし、すると、その人々は喜びながら旅をつづけます。聖霊なる神のお働きこそが、これを成し遂げます。

 

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

5/8こども説教「恵みと平安」ピリピ1:1-2

 5/8 こども説教 ピリピ手紙 1:1-2

恵みと平安

 

1:1 キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。2 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。          (ピリピ手紙 1:1-2

 

 

 【こども説教】

キリスト教会の中にはいろいろな務めや役割を任せられた人たちがいて、「牧師。長老。執事。監督」などと呼ばれます。それらは、まるで何か偉い人たちの肩書や地位や権威のように間違って受け取られることもあります。いいえ。そうではなく神さまにこそ仕えて、まわりの人たちの世話をしたり、心配りをしてあげる役割です。救い主イエスご自身が、「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」と注意をし、また、「偉くなりたいと思う者は仕える者となり、しもべとなりなさい」(マタイ20:26-27,23:8と厳しく注意をしました。牧師という肩書も、「人間は、神さまに養われて生きる羊たち。その人間たちの世話をする羊飼い」という意味です。互いに持ち上げたり、見下したりし合う中で、神さまこそが良い先生で、神さまこそが誰よりも偉いことが分からなくなってしまうと困ります。何をしていても、いつでも神さまを忘れて、自分自身や人間同士のことばかり思い悩んで、もし、神さまを思う暇がほんの少しもなくなってしまうなら、とても困ります(マタイ16:23参照)。神を信じるクリスチャン皆は、「キリスト・イエスのしもべ」だと、最初に語られました。これが信仰の一番大切な中身です。救い主イエスにこそ聴き従って生きる中にこそ、神さまからの恵みと平和があります。ですから、「人間に従うよりは神に従うべきだ」(使徒4:19,5:29と、大人も子供も誰もが皆、よくよく気をつけつづけます。神さまからの恵みと平和がすっかり無くなってしまわないために。このピリピ教会も崖っぷちに追い込まれていました。だから、この手紙が届きました。

 

 

【大人のための留意点】

「しもべ」というのは「奴隷(どれい=①持ち主の私有物として労働に使われ、牛馬同様に売買された人間、②ある物事を至上のものと考え、それを守りつづけようとすることしか考えられない人。「金銭の―/名誉心・権力欲の―など」)」のことです。「奴隷」というのは、ずいぶんいやな身分です。けれどもその頃のイエスさまの福音はローマ帝国の中の大勢の恵まれない奴隷たちの中に入ってゆきました。この手紙をもらったピリピ教会の中にも、多くの奴隷の身分の人もいたはずです。ですから、そういう人たちは現在わたしたちが感じるより、もっと身近な実感をもってこの風変わりな肩書きを聞いたでしょう。

わたしたちは人の奴隷・お金の奴隷・権力の奴隷・欲望の奴隷になってはいけないと言います。人間はどのようなものの奴隷にもなってはいけません。けれども、本当に私たちが自由になり、解放されるのは、何によるのでしょうか。

わたしたちがたった1つ、なってよい奴隷があります。それは「イエス・キリストのしもべ(奴隷)」です。わたしたちは(神の福音の)真理に従わねばなりません。わたしたちにも、何かが主人になっていませんか。自分が主人だったり、お金が主人であったり、物や名誉心が主人だったりしていませんか。その時、わたしたちはそういうものの奴隷なのです。しかし、イエスさまがわたしの主人であるなら、私は本当にすべてのものから自由で、かえっていろいろなものを自由な心から用いることができるでしょう(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 

 

 

2022年5月3日火曜日

5/1「目が開かれて」ルカ24:28-32

       みことば/2022,5,1(復活節第3主日の礼拝)  369

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:28-32               日本キリスト教会 上田教会

『目が開かれて』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。ルカ福音書 24:28-32

 

10:1 兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。2 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。3 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。4 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。5 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。6 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。7 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。    (ローマ手紙 10:1-10)


主イエスが十字架につけられて殺されてから3日後、そして墓から復活なさったその同じ日のことです。エルサレムから11kmほど離れたエリコという村へ向かって、2人の弟子たちは道を歩いていました。主イエスの十字架の死について、またその3日後、主の遺体を納めた墓が空になっていたことについて、彼らは道々語り合っていました。するとそこに主イエスご自身が近づいてきて、彼らと肩を並べていっしょに歩きだしました。けれどその2人の弟子たちの目はさえぎられていて、いっしょに歩いているその方が主イエスだとは分かりませんでした。かつて、主イエスはこう約束しておられました;「2人また3人が私の名によって集まるとき、そこに私もいるのである」(マタイ福音書18:20)。けれど、あの彼らも、それをなかなか受け止めることができませんでした。そこに主がおられるとは、なかなか気づくことができなかったのです。

25-27節「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか』」。「ああ。どうしてそんなに物分かりが悪いんだ。なぜ、聖書に書いてあることが信じられないのか。救い主の苦しみと死、そして栄光。必ずそうなるはずだったじゃないか。ちゃんと、そう書いてあるだろう」。ずいぶん強い口調で語りかけられています。こうして、参加者3名だけの、道を歩きながらの青空授業が始まりました。エリコの村に着くまでは、まだ3、4時間くらいは残されています。3、4時間。それくらいあれば、かなり丁寧に、腰を据えてじっくりと説き明かすことができます。メシア(救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そうじゃないのか。この問いかけは、彼ら2人だけではなく、すべてのクリスチャンの心を深く揺さぶります。「あなたはどういうふうに聖書を読んできたのか。これまで、どんな教えを受けてきたのか。何をどんなふうに腹に納めてきたのか」と主イエスは問い詰めておられます。その焦点は、救い主の死と復活にあります。なにしろ聖書は、そしてこの信仰は、救い主イエス・キリストを信じる信仰であったのです。罪人を救うために、救い主がこの世界に降って来られた。救い主の死と復活をもってでなければ、神さまは私たち罪人を救うことができなかったし、そうまでしてでもぜひ救いたいと願ってくださって、自分中心のかたくなさや傲慢、さまざまな恐れとこだわりという罪から救うと約束してくださった。その約束の通りだった。聖書は証言します、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だった。神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」(ピリピ手紙2:5-11)。そして主イエスは、その2人のために聖書の最初のページから始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれてあることを説き明かしてくださった(27)

28-29節。エマオに着いたとき、主はなおも先へ行こうとする様子でした。2人はしきりに願い求めました、「ぜひ泊まっていってください。もっと一緒にいてください」。主イエスは、しなければならない用事や約束がたくさんあって忙しいのでしょうか。あの2人の他にも、暗く沈んだ顔で語り合う信仰の旅人たちがあちらこちらに無数にいて、その彼ら1人1人とも旅路の道連れになってあげたい。だから、ここであまり手間取ってはいられないと。そうでしょうか。いいえ。先へ行こうとする素振りは、むしろ、目の前にいるその彼らのためでした。「ああ。そうですか」とあっさり手放すのか。それとも、「もっと一緒に。どうぞぜひ」としきりに願い求めるのかどうか。何か他のことに心引かれ、ソワソワしはじめ、何か他のことに目移りしはじめているのかどうかと。

こうした場面は、聖書の中にたくさんあります。罪人を憐れんで罪から救う神でありつづけ、主イエスはとても気前がよい方であるとしても、恵みの贈り物をいつもいつも無理に押しつけるわけではありません。求められもせず頼まれもしないのに、おせっかいに、ではありません。むしろ私たちが願い求めはじめることを、今か今かと、熱情の主なる神は待っておられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ福音書11:9-10)。なぜなら、自分から本気になって求めるのでなければ、あなたは受け取ることができないからです。たとえすぐ目の前にあっても、探そうとしないならば、あなたは見つけ出すことができないからです。たとえ扉が大きく開かれていたとしても、それでもなおドアをコンコンとノックしてみるのでなければ、あなたはそこから入ることができません。だからです。だから、あなたを求めて止まない主は、あなたを探して止まない熱情の主は、促すのです。「あなたは求めなさい。あなたは探しなさい。その手に掴んだものを手放さないで、しっかりと握りしめていなさい。あなたは門を叩きなさい。そうすれば門は広々と開かれ、あなたはそこから神ご自身のお働きの中(=神の国)へ入ることができる。本当にそうだ」と。そこでようやく私たちは気づくでしょう。ずいぶん前から差し出され続け、扉はすでにすっかり開け放たれてあったと。そしてそのとき、驚きに満たされるでしょう。

30-31節「イエスはパンを取り、讃美の祈りをささげ、パンを裂いて渡した」。主のその姿は、私たちにとても馴染み深いものです。よくあるいつもの食事時の風景ということではなく、それは主イエスを信じて生きる者たちに、十字架前夜の最後の晩餐を思い起こさせます。主イエスがご自分の体を引き裂いて、私たちのために渡してくださったことのしるしのパンを。私たちの救いのために、ご自身の血を流し尽くしてくださったことを覚えさせるための杯の飲み物を。十字架前夜の、あの最後の食事の席(ルカ福音書22:14-,コリント手紙(1)11:23-)です。

パンを裂くその仕草を見て、彼らの目は開かれました。彼らのための神の恵みの現実に対してです。あの彼らのためにも確かにある神の出来事をはっきりと見るためにこそ、その目が開かれます。「これは、あなたがたのための」と高く掲げられたパンと杯を見て、それがこの私の手元にまで持ち運ばれ、「さあどうぞ」と差し出され、それを口に入れて味わうとき、私たちの目と心は開かれます。この私たちのためにも確かにある神の出来事をはっきりと見分けるためにこそ。

32節、「目が開け、イエスだと分かった」。兄弟姉妹たち。とてもとても物分かりの悪い私共です。たびたび、何度も繰り返して、私たちの心は鈍くされます。その、心の鈍い物分かりの悪い私共を、主は憐れんでくださるのです。なぜなら私たちはまるで飼う者のいない羊のように、羊飼いからも仲間の群れからも迷い出てしまった羊のように弱り果て、うちひしがれてしまうのですから(マタイ福音書9:36)。目が度々さえぎられる羊だから、それで、良い羊飼いであるイエス・キリスト(ヨハネ福音10:11-18を見失って弱り果てます。心を鈍くされ、惑わされてしまうから、だからこそ、それで私たちはうちひしがれてしまいます。その羊のためにも、そこにすぐ近くに、良い羊飼いであるイエス・キリストがちゃんといるのに。世話をされ、愛情を注がれ、大切に大切に養われつづけているのに。けれど目が開かれて、あの彼らは、ついに見るべきものを見ました。目を向けるべき相手に、ついに目を凝らしはじめました。良い羊飼いである主イエスご自身に。そしてこの世界に。周囲の人々や家族や兄弟姉妹たちや、いつも出会っている傍らにいる隣人たちに。そして自分自身の姿に。このすぐ後、大皿に載せられたパンが配られるとき、そして小さな杯が1つまた1つと配られ、手渡されていくとき、どうぞ、目を開けて見ていてください。あなたの両隣や、前や後ろの席に座っている人々の姿を。ひとかけらのパンをどんなふうに受け取り、どんなふうにその小さな杯を口に運ぶのかを。そのとき、そこで何が起こっているのかを。その彼らの姿や仕草を見るとき、もし主がそうしてくださるならば、この私たちの目も心も開かれるかも知れません。もし、神の憐れみを受け取ることができなければ、一生涯ずっと、その心の耳は虚しく塞がれたままでありつづけるかもしれません。恐ろしいことです。もし、私たちがぜひそうしていただきたいと望み、それを求めるなら。そして主が私たちの願いを聞き届けてくださるならば。それならば、この私たちも目が開かれて、ここにいる私共1人1人もまた、ついに見るべきものを見ることができるかも知れません。ぜひとも目を向けるべき相手に、ついに目を凝らすことができるかも知れません。主イエスご自身に。そしてこの世界の現実に。周囲の人々や大切な家族や兄弟姉妹たちや、いつも出会っている傍らにいる隣人たちの現実やその喜びと悲しみに。そして自分自身の姿に。私たちがどこから来たのか。どこにどう足を踏みしめて立っているのか。何のために生きているのか。やがてどこへと向かおうとしているのか。私共がいったい何者であるのか。主に仕える祭の中で、いつものこの1回1回の礼拝の只中で、わたしたちの目と心は開かれます。繰り返し繰り返し、開かれつづけます。《主が生きて働いておられる》《私たちのための主の死と復活。主イエスの死と復活に結び合わされて、私たちも古い罪の自分と死に別れて新しい生命に生きる》という現実に。しかも救い主イエスは、私たちと共におられつづけたのでした。ずいぶん前から、いいえ、そもそもの初めから。ほんの片時も離れずにです。私たちが気づいているときにも、そうでなくても。心が燃えているときにも、そうでなくても。道々話していたとき、主イエスの福音を説き明かされたとき、月曜日の夕暮れにも、火曜日の早朝にも。そして、ただ独りで立っていたあの薄暗い台所にも。だから見なさい。見なさい。そこに、主がおられます。私たちの旅路の道連れになってくださろうとして。すっかり準備万端で。

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 Ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

5/1こども説教「私の骨も一緒に」創世記50:22-26

5/1 こども説教 創世記 50:22-26

 私の骨も一緒に

 

50:22 このようにしてヨセフは父の家族と共にエジプトに住んだ。そしてヨセフは百十年生きながらえた。23 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生れてヨセフのひざの上に置かれた。24 ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。25 さらにヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上りなさい」と言ってイスラエルの子らに誓わせた26 こうしてヨセフは百十歳で死んだ。彼らはこれに薬を塗り、棺に納めて、エジプトに置いた。  (創世記 50:22-26

 

 

 【こども説教】

 アブラハムの子イサク。イサクの子ヤコブ。ヨセフの12人の子供たちの1人ヨセフ。そのヨセフと共に神の民とされたイスラエルの人々はエジプトで長く暮らすことになります。彼らはやがてエジプトで奴隷にされ、その苦しみと悩みの中から救い出されて、約束の地に連れ戻されることになります(創世記15:13-15,出エジプト記12:40参照)24-25節、「ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。さらにヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上りなさい」と言ってイスラエルの子らに誓わせた」。神は必ずあなたがたを顧みると、2回繰り返して、救いの約束が語られます。大切なことだからです。そのときに、私の骨も、この土地から取り出して一緒にもっていってください。それは、ヨセフを用いて神が生きて働いてくださったことをよくよく覚えておくための、その『しるし』としてです。神を信じる私たちもまったく同じです。やがて死んだ後、ヨセフの魂は神の慈しみの御手の中に置かれます。ですから、ヨセフ自身にとってはその骨をどう扱われようと困ることはありません。そうではなく、なお生き延びてゆく親族や子孫たちのために、神の恵みの御業をよくよく覚えて、魂に刻んでおくことがとても大切です。この私たち自身も、その同じ恵みと憐れみのうちに留まって、神にこそ十分に信頼を寄せて心安く生きるためにです。ヨセフの骨を神の恵みのしるしとして持ち運んでいくことも、亡くなった家族や友人たちの葬儀をして毎年毎年覚え続けることもまったく同じ、生きている自分たちそが神の恵みの中に堅く留まって暮らしていくため。(全36回、最終回)

 

 【次回以降の、およその予告】

 ☆ピリピ手紙 1:1-2(恵みと平安)/1:3-71:8-111:12-141:15-171:18-201:21-261:27-302:1-52:6-112:12-132:14-152:16-182:19-242:25-303:13:2-93:10-163:17-214:1-34:4-74:8-94:10-2322回)

*参考 蓮見和男「喜びの手紙」,カルヴァン新約講解(11)「ピリピ、~」

☆出エジプト記 2:1-102:11-253:1-1210:7-11★「幼い者も老いた者も」/12:29-4214:5-1416:1-617:1-7

19:1-932:1-610回)

  ☆民数記 9:15-23★「雲がのぼる時、とどまる時」/14:1-1018:8-19★「アロンの子孫が受ける分.1」/18:20-32★「アロンの子孫が受ける分.2」/19:1-10★「汚れを清める」/19:11-22★「その身の清い人」/20:1-1320:14-21★「通ることを拒まれる」/20:22-29★「アロンの死」/21:4-910回)

☆1テサロニケ手紙 1:1-51:6-81:9-102:1-42:5-82:9-122:13-162:17-203:1-53:6-103:11-134:1-54:6-84:9-124:15-185:1-55:6-105:11-145:15-22

5:23-2820回)

☆申命記 6:1-9ほか(全13回)