2022年5月10日火曜日

5/8「信じられない弟子たち」ルカ24:30-43

      みことば/2022,5,8(復活節第4主日の礼拝)  370

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:30-43               日本キリスト教会 上田教会

『信じられない弟子たち』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。36 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕37 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。38 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。40 〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕41 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。42 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。   ルカ福音書 24:30-43

3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。   (コロサイ手紙 3:1-4)

まず30-32節、「一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』」。救い主イエスご自身が、あの2人の弟子たちの目と心を開き、そこにいるのが主イエスだと分からせてくださった。すると、分かった途端に、主イエスの姿が見えなくされた。立ち止まって、どうしてそうなのかと、このことをよく考えてみる必要があります。

彼らも私たち11人も、目の前の出来事や、目に見えている姿形や有様にあまりに深く囚われ、心を奪われ、縛りつけられてしまいやすい。だから、まず神の大きな現実を見せられ、よくよく実感させられ、心に深く刻ませられ、次に、目の前のそのしるしと姿形がふたたび取り除かれ、目の前から隠されました。もっとよく見えるようになるため、もっとはっきと聞き分けられるようになるため、もっとしっかりと信じることができるようになるためにです。「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」。また、こうも約束されています、「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(コロサイ手紙3:1-5,2コリント手紙4:14-18

「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えた」。主イエスの姿形と声がふたたび隠された後も、なお心が内に燃え上がったその実感や感触や記憶が残っています。それらが、彼らと私たちの心を燃え上がらせ続けます。聖書の言葉自身によって、聖霊なる神のお働きによって。まず、そこにいて語り聞かせてくださっているお方がイエスご自身であることが分かった。語られ、見せられた言葉もしるしも、その中身もよく分かるようにされた。さらにご自身の手や足も見せられ、目の前で実際に魚を食べて見せてくれた。神の大きな現実を見せられ、よくよく実感させられ、心に深く刻ませられた。次に、目の前のそのしるしと姿形がふたたび取り除かれ、目の前から隠された。もっとよく見えるようになるため、もっとはっきと聞き分けられるようになるため、もっとしっかりと信じることができるようになるために。地上のものに心を引かれ、心を紛れさせ続けるのでなく、上にあるものを思うために。つかの間に朽ちて去ってゆく一時的なものにではなく、見えないものにこそ目を凝らしつづけて生きることができるためにです。

救い主イエスの死と、葬りと、復活。復活の姿をしばらく見せてくださり、やがて弟子たちが見ている前で天に昇っていかれ、いま、天の御父の右の座に座って、王としてこの世界と私たちを治めていてくださること。そのはっきりしたしるしと中身として、救い主イエスは私たちにご自身の聖霊を贈り与え、私たちの内に住まわせ、聖霊を私たちのために働かせ、神の国の福音が分かるように、福音のうちに生きることができるようにしてくださっている。そのため、まず神の現実を見せられ、よくよく実感させられ、心に深く刻ませられた。次に、目の前のそのしるしと姿形がふたたび取り除かれ、目の前から隠された。死と復活から、天に昇っていかれ、聖霊を贈り与えて下さるまで、同じことが何度も何度も繰り返して報告されつづけています。例えば、あの疑い深いトマスも同じ扱いを受けました。とても頑固で、信じることを拒み、心が鈍くされつづけていたからです。だから、あの彼のために、わざわざ次の日曜日に彼と他の弟子たちのためにもう一度救い主イエスは出かけてきてくださいました。前の週にトマスは言い張りました、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。一週間後、わざわざ強情なトマスのために主イエスは来てくださいました。頑固な彼と私たちが神を本気で信じて生きることができるために。主イエスが「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ福音書20:25-29見ないで信じることができる者は幸いです。その通り。けれど、何一つ見ないで、聴かないで、触れて確かめることもなく信じる者など滅多にいません。しかも、本気になって信じることができないままで一生を終わってしまうより、間に合ううちに信じることができるほうがよほど幸せです。神を信じて生きることができるなら、その人は、十分に幸せです。なかなか信じることができず、たびたび心を鈍くし、自分で自分の心の耳を閉ざして、よくよく聞こうともしないで信じることを止めてしまおうとしていたあのトマスと私たちのために、救い主イエスは何をしてくださったでしょう。わざわざ来てくださった。安かれと語りかけてくださった。手足と姿形と声を聞かせてくださり、釘で刺されたてのひらを目の前に差し出してくださった。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。疑いと心の鈍さと頑固さを拭い去っていただき、トマスは感謝と喜びにあふれてイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。エマオ村で、立ち寄ってくださり、パンを裂いて手渡してくださったように。魚を目の前で食べてくださったように。道々、ご自身のことについて聖書を説き明かしてくださり、聖霊の火で心を照らし、燃え上がらせてくださったようにです。あなたもそうしていただいたじゃないですか。何度も何度も。この私もそうです。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と、あなたや私のためにさえ、それを心から願ってくださって。

ノア。アブラハム、イサク、ヤコブもヨセフもモーセも、ギデオンも、ペテロもパウロも、そうそう、あのエチオピア人の宦官も同じことを何度もしていただきました。都での礼拝の帰り道に馬車に乗って、ぜひ分かりたくて信じたくて、聖書を声に出して読み上げていたとき、宦官に語りかける者がいました、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」。「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」。憐れな罪人の1人である宦官は初めて出会ったその伝道者に期待をかけました。もしかしたら、分からせてくれるかも知れない。神を信じて生きるための手引きをしてくれるかもしれない。馬車に乗って一緒に座って、手引きをしてくださいと願い求めました。ちょうど、あの2人の弟子たちに、主イエスが道連れになってご自身について書いてあることを説き明かしてくれたようにです。その箇所はイザヤ書53章でした。「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには」。宦官は、その見知らぬ伝道者に向かって質問しました、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。伝道者はぜひ答えるべき福音の答えを彼に説き明かしました。口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを、そして救い主イエスが罪人である宦官とあなたや私のために何をしてくださったのかを宣べ伝えました。この救い主を信じて、どのような希望と支えと喜びがあるのかを。救い主イエスを信じて、どのように生きることができるのかを。宦官は道端の川で洗礼を受け、クリスチャンとされました。「ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた」(使徒8:30-36

何がどう同じ扱いであるのかがお分かりになりますか。神さまこそが、その人の目と心を開き、そこにいるのが主イエスだと分からせてくださった。すると、分かった途端に、主イエスの姿が見えなくされ、その伝道者の姿も隠された。目の前に救い主イエスの姿形や声が見えても見えなくても、聞こえてもそうでなくても、そこにイエスがおられると分かり、聞き分け、主イエスを信じて生きるものとされました。兄弟姉妹たちよ。あなたがたが召されたときのことを思い起こしてご覧なさい1コリント手紙1:26。神を信じているはずのクリスチャンでも、誰でも、いつのまにかとても狭い、とても小さく貧しい世界に閉じ込められてしまう。自分自身の罪深さも愚かさも、憐みを受けてゆるされた罪人に過ぎないことも、すっかり忘れ果ててしまいやすい。自分自身のその折々の感情や気分や足元にばかり気を取られてしまいやすい。それで、見えなくされました。

もっとよく見えるようになるため、もっとはっきと聞き分けられるようになるため、もっとしっかりと信じることができるようになるためにです。見えないものに目を凝らしつづけて生きるための土台が、神の憐れみのお働きによって据えられました。その土台とは、聴いて、心に刻んできた神の口からの1つ1つの言葉です。神の国の福音の中身と、「ああ本当にそうだ」という実感と、多く愛され、多くをゆるされてきたことの感謝と信頼が、さらにその人を手引きし、すると、その人々は喜びながら旅をつづけます。聖霊なる神のお働きこそが、これを成し遂げます。

 

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     金田聖治
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