2022年5月23日月曜日

5/22「非常な喜び、大きな喜び」ルカ24:50-53

      みことば/2022,5,22(復活節第6主日の礼拝)  372

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:50-53             日本キリスト教会 上田教会

『非常な喜び、大きな喜び』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕52 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。ルカ福音書 24:50-53

50-51節、「それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた〕」。両手を高く掲げて、救い主イエスは弟子たちを祝福しました。この仕草は旧約聖書以来、今日まで馴染み深い、祭司が神の民を祝福する際のその祝福の務めを意味しています(注)。この『祭司の務め』は、『預言者の務め』、『王の務め』と共に、本来、救い主イエスにこそ属するべき3つの務めのうちの1つです。この教会で用いている『こども交読文』も、このことをていねいに説き明かしています。「主イエスのつとめは何ですか」「預言者、大祭司、王の王です」。「主イエスの預言者のつとめは何ですか」「神の永遠のみこころを お教えくださいます」。「主イエスの大祭司のつとめは何ですか」「ご自分のお体を十字架にささげて、わたしたちの罪の罰を受けてくださり、天で わたしたちのために父なる神さまに、とりなしていてくださいます」。「主イエスの王のつとめは何ですか」「すべての人と教会を治めるために御言葉をお語りくださり、聖霊をお送りくださいます。また、わたしたちを守ってくださいます」。救い主イエスは、父なる神さまから『救い主』というお働きを与えられ、この世界に送られてきました。この世界を救うその働きは、『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもっています。『預言者』として救い主イエスこそが神の御心を教え、『大祭司』としてご自分のお体を十字架にささげて私たちの罪のあがないを成し遂げ、『王』として御言葉と聖霊によってキリスト教会とこの世界すべてを治めてくださいます。

また、この救い主イエスを信じるすべてのクリスチャンたちは主イエスの弟子とされて、同じく、この世界に対して『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもって働きつづけます。「私にそんな難しそうな仕事ができるかしら?」と心配になりますか。大丈夫です。神さまがどんな御心なのかを教えられ、どんな神さまでどんな願いをもって働いておられるのかも知らされています。ですから、それぞれの分に応じて、口下手は口下手なりに、「こういう神様ですよ」と周囲の人々に知らせてゆく。これが預言者の役割。神と人間、人間と人間との間に立って仲直りと平和のための使者として、祭司の役割を担って働く。また、神の御心にかなった世界と私たちになってゆくために、王の役割さえ担って生きてゆく。およそ500年前の宗教改革者は、「クリスチャンは地上のすべての支配者や権力者の上に立つ王であって、何者にも膝を屈めず、言いなりにされない。しかもクリスチャンは同時に自由なしもべであって、心低く、誰にでも奉仕する」(『キリスト者の自由』Mルター,1520年)と告げました。そのとおりです。

52-53節、「彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」。彼らは救い主イエスを礼拝した、とはっきり書いてあります。マタイ福音書の最後の部分(マタイ28:17でも、やはり『弟子たちがイエスを礼拝した』と、はっきり報告しています。救い主イエスを礼拝することこそが、救い主イエスを信じる信仰のはっきりした分かれ道であり、欠くことのできない土台であり、揺るぎない旗印でありつづけるからです。「彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」。救い主イエスを礼拝し始めている。それこそが、神に十分に信頼を寄せつづけて生きることの基本の土台です。その中で、神にこそ十分に信頼を寄せることが養い育てられ、堅くしっかりしたものとされてゆくからです。神を信じて生きる私たちにとって、それこそが非常な喜びの中身であり、誰かに盗まれることも無く、朽ちることもしぼむことも無い喜びの本質です。

『喜び』は、『恐れ』と正反対の有様です。神を喜ぶことを邪魔しつづけていたのは、神以外の何者かに対する恐れです。また同時に、神以外の何者かに対する、限度を越えた信頼です。非常な喜びのもとにようやく辿り着いたあの彼らは、ほんの少し前には、人間たちを恐れ続け、信頼を寄せすぎていました。主イエスを憎んで殺してしまった彼らが、自分たちをも憎んで殺してしまうかも知れないと恐れて、家の中に身を隠し、閉じこもって鍵をかけ、小さくなって震えていました。あの彼らに何をされるか分からないと。人間を恐れ続けていた、とても臆病だったその彼らが、とうとう、「非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえている」。安心して神をほめたたえている。救い主イエスを礼拝する者たちとして、公けに、そこで神にこそ信頼を寄せつづけています。

「神ではないあらゆるものに対する恐れを取り除いていただき、神にまったく信頼するためにはどうしたらいいのか」(『ジュネーブ信仰問答』問7-14 J.カルヴァン 1542年)500年前の信仰問答は問いかけ、直ちに、それに対する明瞭な答えを差し出しています。「まず、神が全能であり、完全に善意でありたもうことを知ることです」「それで充分ですか」「いいえ」「なぜですか」「神が御力の助けをお与えくださり、慈しみを注いでくださるだけの価値が私たちには無いからです」「では、そのほかに必要なことは何ですか」「神が私たちを愛していたもうこと。また私たちの父となり、救い主となってくださる御心を、確信することです」「そのことを、私たちはどのようにして知るのでしょうか」「神の御言葉によってです。御言葉によって神はイエス・キリストにある憐みを宣言し、私たちに対する慈愛を保証してくださるのです」「したがって、神に対する真の信頼の基礎は、イエス・キリストのうちに神を認識すること」「本当にそうです」。神が御力の助けをお与えくださり、慈しみを注いでくださるだけの価値が私たちには無いからですと聞いて、本当に驚きました。読み直す度毎にとても驚き、そして感謝があふれます。「自分には価値がある。ふさわしい自分だし、価値がある。もしなければ、とても困る」と勘違いをして思い込んでいたからです。価値がないのに、にもかかわらず愛してくださると分かって、それでようやく神の憐れみと慈しみを知り、神に必要なだけ十分に信頼を寄せることができます。さらに、「神はイエス・キリストにある憐みを宣言し、私たちに対する慈愛を保証してくださる。したがって、神に対する真の信頼の基礎は、イエス・キリストのうちに神を認識すること」。

さて、52節の、主イエスを礼拝することから彼らが受け取って持ち帰った『非常な喜び』。(この小さな言葉に引っかかりました。何だろう。よく知っている気がする。どこで聴いただろうかと、5~6分間ほど考え込みました。思い出しました。とても大切な大きな1つの喜びについて、聖書は何度も何度も何度も語りつづけてきました。今日、聴いていただくべき最重要のポイントです)それは『大きな喜び』であり、ただ上から、神ご自身から贈り与えられる喜びである他ありません。朽ちることもしぼむことも盗まれることもない喜び。最初のクリスマスの夜、羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。主の御使が現れ、羊飼いたちに語りかけた、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」と。これです。このことです。あらかじめ告げ知らされていた、救い主イエス・キリストによる『すべての民に与えられる大きな喜び』。つまり、この『非常な喜び』が、ここで、ついにとうとう、こうして実現しはじめました。まず、おびただしい天の軍勢、そして御使い、さらに私たちも一緒になって神を讃美して言うことができます。

さらに、この同じ1つの『非常な喜び。大きな喜び』は、世界創造の6日目の、造られたすべての被造物を見て「とても良い。極めて良い」と喜び祝ってくださった神ご自身のあの喜びです。神が喜んでくださることを地上に住む私たちもまた自分自身の喜びとして大いに喜び祝い、心から感謝し、その喜びと信頼と感謝を互いに分かち合うことです。だからこそこのルカ福音書15章の3つの譬え話は、その同じ1つのことを繰り返し告げ知らせ、指し示しつづけていました。よく聞きなさい。罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。よく聞きなさい。罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。救い主イエスを礼拝し、イエスによる神の憐れみを受け止めること。神がお喜びになることを私たちも自分のこととして大いに喜び祝い、すると同時に、神が悲しみ嘆くことを私たちもまたはなはだしく忌み嫌い、悲しみ嘆くこと。とりわけ特に、『神の御心ではなく、ただただ私たちの思いのままにさせてください』と願い求めることが決してないように。とても不信仰で自分中心な腹の思いを悲しみ嘆くことができますように。なぜなら、知らず知らずのうちにいつの間にか、『とても狭い惨めな世界に閉じ込められやすい私たち』だからです。若者も年配の者も小さな子供たちも、心が弱っているとき、大きすぎる悩みや苦しみを抱えているときなど、いつの間にか何度も繰り返して『狭い惨めな自分だけの世界』に閉じ込められます。すると自分の近くにいる誰かがわざと、不当に、自分に意地悪をし、苦しめていると思い込んでしまいます。それで、その人を憎んだり恨んだりしはじめます。自由のない、惨めな魂の牢獄。なぜ分かるかというとこの私自身も被害妄想に取りつかれやすい、臆病で自尊心が高すぎるうえに劣等感のかたまりのような、とても弱い、しかも自己主張が強すぎる人間の1人だからです。あなたと同類です。けれど憐み深い神なら、そんな私たちを『狭くて惨めな自分だけの牢獄』から、つまり罪と悲惨の只中から救い出すことができます。だからこそ見失った1匹の羊をどこまでも探し求め、見つけて肩に担いで帰ってきたあの羊飼いは、友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と招きます。1枚の銀貨を失くして悲しみ嘆きながら探し求めてついに見つけたあの女性は友だちや近所の女性たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と。いなくなって死んだと思えていた息子の1人をふたたび迎え入れることのできたあの父親は、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻します。『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもう。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』と。けれどなんということでしょう。父のそば近くに暮らしつづけていたあの兄さんは、一緒に喜ぶこともできません。いつの間にか、自分が父のあわれみを受けてその子供にしていただいていることをすっかり見失っていたからです。その淋しい兄たちをも、父はこの同じ1つの『非常な喜び。大きな喜び』へと招きつづけます。『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえではないか』と。かつて神の民ではなかった私たちは、神からの憐みを受け取り、それを自分自身の喜びとして大いに喜び祝い、感謝し、神へと向かうその喜びと信頼と感謝を互いに分かち合う者たちとされました(1ペテロ手紙 2:10参照)。そこにこそ、同じ一つの『非常な喜び。大きな喜び』がありつづけます。だから、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上で、この私たちの只中においても、み心にかなう人々に神ご自身からの恵みと憐れみと平和があるように」。この私たちと家族のためにも、ぜひ、そうでありつづけるように。

 

(注)その祈りが形ばかりの、中身のない虚しいものに成り下がってしまったとき、預言者は彼らを叱り、励ましました。「私たちは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。私たちは天にいます神に向かって、手と共に心をもあげよう」(哀歌3:40-41参照)。形も大切ですが、中身のほうがもっと大切です。手を上げることも大切ですが、神に向かって心をあげないなら、その祈りや祝福はただ虚しいだけだからです。

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC